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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCATO ふくろねこー、かく語り き 2011年四月(3)  本多敬

<<   作成日時 : 2011/04/29 00:56   >>

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思想。哲学




・「スピノザ、アムステルダムで普遍主義的運河の本を書く」(本多敬)


「人間身体」(スピノザ)は、「個人」と理解しなければならない根拠はない。「人間身体」は、「群集」と解釈できると思う。実際にネグりチュードの思想家達は、「人間身体」とは、多数性=大衆、であると強調する。移民や外国人や失業者や女性や同性愛者等の他者を包括した、「人間身体」のことだ。

私はそれを、「互いに異なりあい、多種多様な活動力の社会的な共存」と書こうと思う。「人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体から極めて多様の仕方で刺激される。・・・人間身体は自らを維持する為に極めて多くの他の物体を要し、これらの物体から絶えず更生される」。

「神=自然」や「人間身体」という語で、スピノザは分離不可能な一体性を強調したかった。即ち、唯一の実体、開かれた全体性のことだ。スピノザ的なマルクスは「プロレタリアート」と呼んだ実体は、スピノザの「神=自然」、「人間身体」のことである。それは、産業労働者に限定された言葉ではない。

マルクスをスピノザのもとへ、とアルチュセールは要求した。それは、スピノザの、排除を一切認めないラディカリズムを評価していたから。又、エコロジー的な観点で、まだ生まれていない将来の人々が含まれるだろう。ドイツの「緑の党」の設立に関わったジョセフ・ボイスは、ジョイスをスピノザ的に理解していたことは注目したい。

スピノザ「エチカ」は、十七世紀に、オランダのハーグとアムステルダムで書かれた哲学書。他者というものは常に、外部から到来し、実際にどんな人々なのか分らないけれども、最初にそういう他者を信頼することの大切さをスピノザは説いていると思う。民主主義の原点、真に普遍主義的な「運河」の本。

スピノザの多様体diversæ naturæとはなにか?再び、「エチカ」から引用をおこなう。人間身体は、本性を異にする極めて多くの個体ーその各々がまた極めて複雑な組織のーから組織されている。それら個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟らかく、あるものは硬い・・・。つまり、それらは互いに異なりあい、多種多様な活動力の社会的な共存の比喩なのだ。「人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体から極めて多様の仕方で刺激される。人間身体は自らを維持する為に極めて多くの他の物体を要し、これらの物体から絶えず更生される」、と。

つまり、私達はなんでも食べなければならないし、また、そういう欲望を持っているのだ、と。ここで、他者との開かれた関係について比喩的に語られることは、容易に読み取れる。ちなみに、「外敵」は、外国人嫌いの都知事か似非左巻き論者の妄想に属するが、それに対して、スピノザは、それを所詮食中毒にすぎないと冷静に分析している。

多くの場合、「食中毒」は永続しないものだ。「人間身体」の保存は、皆の努力にかかっているといえよう。ナショナリズム的な同一性の幻想は、スピノザの語彙において、まったく存在しない。彼の本が、真に普遍主義的な「運河」の本である理由だ。実は、アムステルダムの運河は、ユダヤ人センターで聴講したグレーニングが話題であった。

地下鉄とバスの爆破事件で、英国マルチカルチュアリズムの終焉が説かれ、アラブ人に対する差別的感情が起きたときの、講義であった。オールドリベラル old liberalの立場から、実際にどんな人々なのか分らなくとも、まず最初に他者を信頼することの大切さを主張した。「運河」とは、信頼のエンジニアリングだ、と



Α スピノザ「エチカ」は、十七世紀に、オランダのハーグとアムステルダムで書かれた哲学書。他者というものは常に、外部から到来し、実際にどんな人々なのか分らないけれども、最初にそういう他者を信頼することの大切さをスピノザは説いているように思います。ふくろねこが愛する、真に普遍主義的な「運河」の本

Β スピノザの多様体diversæ naturæ;人間身体は、本性を異にする極めて多くの個体ーその各々がまた極めて複雑な組織のーから組織されている。それら個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟らかく、あるものは硬い・・・それらは互いに異なりあい、多種多様な活動力の社会的な共存を形づくるものです

Γ もう一点だけ、確認です。ここから、スピノザは面白い結論に至ります。「人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体から極めて多様の仕方で刺激される。・・・人間身体は自らを維持する為に極めて多くの他の物体を要し、これらの物体から絶えず更生される」、と。つまり、私達はなんでも食べなければならないし、また、そういう欲望を持っているのだ、と。

Δ「外敵」(ふくろねこが好きでない言葉です!)は、食中毒みたいなものにすぎないと言っています。各自が努力して人間身体を保存すべきなんですね。もちろん、ナショナリズム的な同一性の幻想は、スピノザにおいて、存在しません。彼の本が、真に普遍主義的な「運河」の本であるゆえんです。


・アムステルダムの運河」という言葉は、ユダヤ人コミュ二テイーセンターで聴講した、グレーニング(オックスフォード大の哲学教授)の言葉です。当時、地下鉄・バスの爆破事件で、イギリスのマルチカルチュアリズムが終焉してしまい、アラブ人に対する差別的反発が起きていたときの、講演でした。リベラルなグレーニング氏は、外部から到来し、実際にどんな人々なのか分らないけれども、最初にそういう他者を信頼することの大切さを主張したのは当然です。「運河」とは、信頼のエンジニアリングだ、と強調しました。(大変な勇気です。殆ど全員がユダヤ人の聴衆でしたから、私を除いて)。「運河」とインターネットには、興味深い類似性が沢山あると思います。誰がエントリーしてくるか分らないコミュニケーションのネットワークなのですから。比較する視点として、スピノザの話をさせていただきました。

・確かに、電子ネットワークといのは、名前の意義について考える契機になりますね。ところで、ポストモダニズムの論客、ジル・ドゥルーズはスピノザの理論家なんですが、ネットワークを、「リゾーム」という造語で説明しました。この場で詳しく説明できないのですが、生物学的。植物学的な語彙と、脳科学の語彙が、彼の都市論のなかで、分かちがたく結びついているんですね。山本義隆なら、その結びつき方が「相補的」と形容ひてくれるかもしれません.

・スピノザは原因ー結果の因果律について精緻な議論を展開しています。結論だけ言うと、思考回路のうち、「原因」は完全なのものに属するから、「結果」よりもあてになる表象だと言い切ります。ところで、スピノザは、神は自己原因という定義からはじめます。(といっても、スピノザはヨーロッパで始めての無神論者といわれますから、かれの「神」は思考実験のXとして、措定すべきでしょう)。そういう神は意外にも、私達に近くに存在する、とスピノザは示唆します。これは、神=自然という、スピノザのヴィジオンのことを考え合わせると、日本人の汎神論的な世界観・自然観を喚起しないでしょうか?勿論、私が神ですから、実存的な強い自己主張を孕んだ思想です。すべての人が平等とする、民主主義を、スピノザは支持できたわけです。

・わたしたちのなかの幼児的な場所というテーマに関係があるはずですが、遠くのものを近くに、近くのものを遠くに関連づけるのは、レンズの働きと思います。ご存知のように、スピノザはアカデミーを嫌って、レンズ磨きで生計を立てました。スピノザの思想の中に、レンズ的な視点の意義を見出せることは、決して偶然ではありません。フロイトの精神分析の視点、シュールレアリズムの内的リアリズムの視点、これらは全部が、Spinozaにおけるレンズ的思考の継承、と私は思います。かれらは幼児的な場所の意義を探求した人々です。そんな思いも含めて、色々なアイデアが絵の中に込められています。

・キルゴールとスピノザは、「反復」というテーマで、じっくりと取り組んでみたいテーマですね。「メディア上の人格が自分の生身の体とはまた別の身体として動き始めている」は、一考の価値がありますね。。「人間身体」とスピノザが呼ぶものは、生物学的・解剖学的に理解しても、新しい始点を提供するわけではありません。これを政治的に捉えて考えることができます。そうしますと、「人間身体」(スピノザ)は、個人とみなす根拠はありません。「人間身体」(スピノザ)は、群集と解釈できるのではないか、ここですね。実際に、ネグりチュードの思想家たちは、「人間身体」(スピノザ)とは、多数性=大衆、であると強調します。移民や外国人や失業者や女性や同性愛者などの他者を包括した、「人間身体」です。私はそれを、「互いに異なりあい、多種多様な活動力の社会的な共存」と書きました。このことを念頭において、もう一度をスピノザのパッセージを読んでみてください。目から鱗が落ちる、かな?どうでしょう!?「人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体から極めて多様の仕方で刺激される。・・・人間身体は自らを維持する為に極めて多くの他の物体を要し、これらの物体から絶えず更生される」、

・「神=自然」や「人間身体」という語で、スピノザは一体性を強調したかったんだと思います。マルクスはスピノザ的なマルクスは、「プロレタリアート」と言いました。勿論、産業労働者に限定された言葉ではありません。アルチュセールが、マルクスをスピノザに沿って詠みなおせ、と要求したのは、スピノザの、排除を一切認めないラディカリズムを評価していたからです。さらに、エコロジー的な意味で、まだ生まれていない将来の人々のことが含まれているはずです。ドイツの「緑の党」の設立に関わったジョセフ・ボイスは、ジェイムス・ジョイスをスピノザ的に理解していました。スピノザの影響は明らかです。



・吉本が擁護する個人幻想の領域(対幻想)は所詮、異性愛的家族主義で、同性愛者差別の言説と思います。ゲイの都市ロンドンでそれに気がつきました。皮肉にも、戦時体制の個人主義だと思いますー社会連帯を憎悪した

・日本の演劇では、女性が皆幽霊か大地の母になっちゃうんですー男性の幻想がつくる卑弥呼ですね、詩人の吉本は共同幻想論でそういう演劇を見事に書いたと思います。対幻想は国家との対峙によって消滅すべきですが、そうでなければ、私達は、男性中心主義の非占領地帯にいます


・抵抗権right of resistanceは、国家権力の不法な行使に対して反抗する権利。革命権(非合法的暴力)と市民的不服従civil disobedience(徴兵拒否の様な合法性の枠内)、両者を包摂する概念。浜岡再稼動は、抵抗権が想定する国家権力の不法な行使ではないだろうか

・スピノザは自然状態なき自然権を説いた。民衆は国家権力の不法な行使に対して反抗する権利を常に持つ。それによって、ホッブスが想定した恐怖(万人に対する万人の闘争)が生じる事はない。浜岡原発再稼動は国家権力の不法な行使ならば、放送局と新聞社の占拠を正当化する、抵抗権の理論化が必要だろう


・ヨーロッパの舞台で発展を遂げた、人文科学や社会科学は、危機の日本においてこそ、新しい衣装と新しい語彙で、大きな収穫を見出す可能性はないでしょうか。抵抗権は、私達の知性を鍛えあげてくれるコンセプトと期待します。@dakujemもうそのような段階にきているという印象を持っています。




・ロンドンで、イボ族のナイジェリア人と友達でした。全くその通りです
パリ人類学会、その後のパリ民族学会が人種概念の確立を図るのだが、そこで記述されるのは土地固有性ではなく、人種の分布図である。ある特定集団の固有の場所としての空間ではなく、人種カテゴリーの「領土」としての空間に転換する。「領土」としての空間把握というパラダイムが人類学を支配してきた


・19世紀は約十年周期で不況が繰り返しました。マルクスが分析したのは、1846年と1856年の金融恐慌。所で、リルケは野獣が神の鏡に映ると人間の姿になると言った様に、ヴィクトリア時代のライオンはセルフイメージを古代エジプト・先史時代に映し出していたのでしょうか?








原発の問題は、「エネルギー植民地」の問題である。それは結局、「立入り禁止」の領土をつくっていく、国家による空間構成の暴力として、捉えることができないだろうか。つまり、「東京」という中心が拡張しているのだ。隣接県への避難、30キロ圏での屋内避難、野菜、原乳の摂食・出荷停止、飲料水汚染ー放射能汚染を背景とした排除と収奪。立ち退きの歴史たる、アイルランドの歴史と比較できるかもしれない。エンゲルスの言葉をひく

The most urgent need is to end the forcible eviction of peasants and to stop the landlords , backed by the English authorities,from robbin the Irish farmers of their livelihood."This must be the nain object for the Irish national liberation movement.(Engels)









・夢を発明し続けよ、目覚めは死だー九十年代にポストコロニアリズムの論客カイバードの本「Inventing Ireland」が、ほぼ同時に、英国人グレイ「Enlightment's Wake」ージョイスのFWを喚起する題名ーが出版される。ヤングアイルランドとヤングイングランドの共闘?


・反英闘争の愛国者達ヤングアイルランドは、ロンドンの不在地主(貴族)の立ち退きに抗議した、一八四八年革命世代だ。ヤングイングランドは産業ブルジョアジーに戦い挑んだユートピア的ロマン主義者。戦後、後者は前者をモデルとして再編する。英国が事実上植民地化し始めたー米国世界資本主義の脅威だ

・Young Ireland was a political, cultural and social movement of the mid-19th century. It led changes in Irish nationalism1848年のフランス革命世代の反逆児達

・The utopian, neo-feudal dreams of Disraeli reflect the crisis of Victorian conscience that inspired       the similarly utopian Owenite socialism




言葉・表現・本



スピノザより

・人々は生起する一切が自分のために生起すると思い込んでからは、すべての物について、彼らに最も有用な点を重要事と判断し、彼らを最も快く刺激するものをすべて最も価値あるものと評価しなければならなかった。ここからして彼らは、物の本性を説明するために善、悪、秩序、混乱、暖、寒、美、醜のような概念を形成しなければならなかった。すなわち、健康と敬神とに役立つ一切のことを人々を善と呼び、これに反することを悪と呼んだ。また、物の本性を理解せずに物をたんに表象のみする人々は、物についてなんら正しい肯定をすることなく、表象力を知性と思っているから、そのゆえにかれらは、物ならびに自己の本性に無知であるままに、秩序が物自体の中に存すると固く信じている。すなわち、物が我々の感覚によって容易に表象され、したがって容易に思い出せるようなふうにできていれば、我々はそれを「良き秩序にある」、あるいは「良く秩序付けられている」と呼び、その反対の場合は、悪しく秩序づけられている、あるいは混乱していると呼ぶのである。そして、我々が容易に表象しうる物は我々にとって他の物より快いから、そのゆえに人々は混乱よりも秩序を選び取るのである。あたかも、秩序が我々の表象との関係を離れて自然の中に実在するある物であるかのように。また彼らは神が一切を秩序的に創造したと言う。このようにして彼らは知らず知らず神に表象力を帰している。・・・だが彼らは、我々の表象力を遥かに凌駕する無限に多くのものが存在し、また我々の表象力が微弱であるがゆえにそれを混乱させる極めて多くのものが存在するということには何の配慮も払わないらしい。


・ウィットゲンシュタインは、沈黙どころか、大いに語りはじめますね、対話がテーマとなる言語ゲーム的な探求へと出発していきます。(私が好きなリルケの詩の断片です;魚は物を言わぬ・・・と考えられたこともあった。そうだろうか?だが、結局、魚の言葉かもしれないものを、魚なしに語り合う場所があるのではなかろうか。)皆さんのおかげで、コメントが100を越えました!ところで、確か、一番最初のコメントが「理解不可能」だったと思いますが、ある意味で、スピノザの言葉を理解できないものとして捉えることが可能です。つまり、芸術です。スピノザは自分の言葉を幾何学的に体系づけましたが、このスピノザの書き方を、私は芸術的に捉えます。リルケの詩です・・・

・おまえはわたしの幾何学ではないのか/窓よ、わたしたちの巨大な生を/やすやすと区切る/いとも単純な形よ。/わたしたちの愛する人が、おまえの額縁に/囲まれて姿をあらわすときほど/美しく見えることはない、ああ窓よ。/彼女をほとんど永遠にするのはお前だ。/あらゆる偶然は除き去られ、存在が/愛のただなかに身を置いている、/まわりのすこしのこの空間とともに/ひとは存在をわがものとする。リルケ


・映像業界の個人主義を左翼と誤解した体質というのは、やはり実録ヤクザ映画あたりに顕著なのではないかとおもいます。実録ヤクザ映画はシュティルナー主義的個人主義の作品なのに、これが左翼思想(社会主義に通じるもの)と誤解されたのが問題かと。

・鈴木清順とか、セーラ服と機関銃はどーなんですか?

・ブラックジャックは相当に異質な漫画と昔思いました。一度でも読むと、宇宙戦艦ヤマトやガンダムの護送船団的叙事詩スペクタクルの話をみると、財源はどうするんだろうとネオリベラルな感想を持っちゃうんですね・笑。近代化が遅れたどこの国でも、左翼は商売に持つんですよ

・映画二作目はOKでした。アメリカ人の場合、好奇心旺盛で、積極的にStarngerに接近してくるので、社交不得手な日本人には有難い存在ですが、金なければモラルも低いと看做してくる事も多々起きて辛いですね。日本のポストモダニズムはブラックジャック的でしたか?

・90年代の日本のポストモダン哲学は、世の中のすべての価値は相対的であり、強弱だけである、という話になってから、金のちからはつよいから金がすべて、というように拝金主義に走るという傾向が顕著でした。



・Marcel Jousse「ヘブライ語はテクストの内部で演ずる俳優である/それは肉体的な手先の<表現動作>や喉頭、口腔筋への単なる移動である。語根は肉体・手先の原初的<表現動作>を通して連ねられる。そこでは文体は人間全体からなり、人間全体に向かう」

・何故両方の言語で書いたのかは諸説ある

・ムワッヒド朝のユダヤ教迫害という歴史背景は調べてみます。「ヘブライ語にはまだ哲学を語る語彙が少なかった」は成程、説得力があります。綴り字の間違いが多いというのも面白いです



アート


・絵というのは、色々な感想を吸収するから面白いですね。なぜ、顔が無いか(はっきりと描かないか)と言うと、やはりロンドンで描いたからだとおもいます。はっきりと自覚してはいなかったんですが。ご存知のように、ロンドンはマルチカルチュアリズムの都市ですから、地域によっては、白人は多数派ではありません。アフリカ系(黒人)、インド系、アイリッシュ系(彼らは50年代末まで、「白い黒人」でした)、そして、ユダヤ系とアラブ系の人々と共存しています。そうした人々が私の作品を見るんだということを常に意識します。顔を描くと、特定の人種に属する顔を表現することになり、幅広い共感を得るのがむつかしくなります。そういうことがありますね。ですから、ロンドンでは、抽象的な表現が、一種の約束事として、成り立っているように思います。勿論、スピノザは、無神論者だったとはいえ、アムステルダムのユダヤ人コミュ二ティーのなかで生きていました。ユダヤ教は偶像崇拝禁止で、顔を描かない文化ですね。そのことは考えていました。ただ、私はゴダール派なので、矛盾に直面してしまいます。映画というのは、クローズアップの歴史、つまり、顔を表現してきた芸術の歴史ですから。ゴダールによれば、レヴィナスを引用することによって、他者の顔を抹殺すべきでない、ということになります。顔を描くか、描くべきでないか、私の中で、まだ解決していない問題です

・昔、フランス人の友人の映画制作をすこし手伝ったときのことですが、パリの音響スタジオに、ブニエルの脚本家であったジャン・クロード・カリーエールがやってきました。ナレーションを引き受けてくれたのですが、フランス語でgraveという言葉があり、その顔が醜いを越えてですね・・・顔から圧倒的な存在の塊がにじみ出ていました。人間の顔は凄いものだなと震えました。カリエールの脚本のブニエル「昼顔」のなかで、カトリーヌ・ドヌーヴが娼婦小屋で、秘密の箱を開けて失神しますが、なにを見たのかは観客には分りません。後でエーコとの対談で、エーコ曰く、「箱の中には、カリエールさんの顔の写真があったんでしょう、だからドヌーヴは魅せられて気を失ったんです」と言っていました。その年、クリスマスのテレビ番組のトークショーに出演していて、「クリスマスなんて、他の宗教の信者からすると、ただの一日だ。フランス人はそういうことを自覚しなければならない」と、啓発しました。


・アイルランドの詩人の芸術家が、国営放送RTEの運営委員のひとりに選ばれたとき、記者会見が開かれました。視聴率を稼ぐ為にアメリカの芸能人の話ばかり喋って、アイルランドの伝統文化の破壊を手伝っている、このアホな放送局のスタジオをのっとろう、と呼びかけました。みんな、銃を持参してやって来い、俺が道案内してやるぜ!と繰り返していました。おおー、さすが、反逆児の国アイルランドだ、と、心が震えましたよ・笑

映画・演劇


・圧巻なのは「定義」の権化であるHALが停止していくシークエンスですね、とご指摘なさっている通りですね。思い出したんですが、原作者のアーサークラークがペンローズに突っ込んできている話です。ペンローズは(例の、互いにエッシャーの階段のように互いに関連づけ合うプラトン的数学世界と人間の心と物理世界からなる三角形に言及してですが)、こう言っています。it permits the existence of true mathematical assertions whose truth is in principle inaccessible to reason and insight.(Penrose,the road to reality) 大まかに言っちゃうと、人間の心に根ざしながらも、計算的理性では決して把握できない領域が存在する、と。(そういう領域は、真善美のうち、善と美ですね、ペンローズ的プラトニズムの解釈では。私の見解ですが、ペンローズはプラトン的ではなく、スピノザ的で、スピリチュアルな唯物論者です)。キューブリックの映画のテーマと関係があるかもしれません。ちなみに、私が子供のとき一番最初に観た映画でした。日本の記憶が殆どないまま、自分がは白人と思って、オーストラリアのパブリックスクールに通っていた、奇妙な時期でしたー白豪主義がまだ完全には終焉していなかったときです。


・これから新橋の脱原発のデモに行く準備をしなければならないのですが、ちょっとだけ書き足しますと、「未定義の余白・・・」ですが、ゴダールはこのブレッソンの言葉を、彼の代表作「映画史」の冒頭に引用しています。すこし分りにくいかもしれませんが、ハリウッド商業映画に対する痛烈な批判の言葉と理解できます。ハリウッド映画の特徴というのは、全部をみせようとするのですね、強力な説得の力を持っています。まさに、ハリウッド映画は「未定義の余白」を一切残しません。その意味で、ハリウッド映画は、長崎さんが鋭くおっしゃる技術屋・研究職の情報といえるものです。何故、それが問題なのかと申しますと・・・とてもここで説明しきれませんが・・・日本の新聞と比較するといいかもしれません。いまのような状況で、情報を出さない新聞が叩かれていますが、普通のときは、情報を雨の様に気前良く降らすんですね。笑。二十年前、新橋の、とある企業本社の前で三ヶ月座り込みを続けたときのことですが、公害企業の不当な裁判引き伸ばしを抗議した私達の声を、当時のマスコミは決して無視しませんでした。ただ、あまりにも多くの情報を無差別に伝える結果、誰も、少数者である私達の座り込みに気がつかないんです。皮肉ですが、全部をみせるというのも、巧妙な隠蔽と同じ効果をもたらします。隠そうと思ったら、全部をみせてしまうやり方もあるんです。もちろん、いつもそうだとは限りませんが。ツイッタ時代(笑)で時々気付いたんですが、Ugayaさんが新聞の「編集」に苛立つことが多いんですね。事実をきちんと編集しないといけない、編集ができていないと無に等しい・・・これは映画の場合と同じです。すこし長くなりました・・・UGAYA大学の皆様のために、未定義の余白を残したいと存じます


・大切な話ですね。思い出したのは、大島渚「愛の亡霊」。マルクスの記者時代の問題意識を映画化した作品と思うのですが、明治政府が最貧民達の落葉拾いの権利(入会地的な権利?)を収奪して、彼らを都市プロレアタリアート+兵隊の源泉にしてしまう背景を物語っていました

以下、なるべくざっくりとした書き方をようするにします。もともと入会地であった森林を、明治政府が官有地にしたため、山梨の人々の愛林の感情がきわめて低下し、盗伐や乱伐が起き、さらにそれを隠すために放火までするということがあったため、山が荒れに荒れ、大水害が起きる原因になったのです。・・・軍縮と郷土部隊の存置運動の歴史から、見えてくるものは何でしょう。地方のエゴ? 「草の根の軍国主義」? 「民衆の戦争責任」? 軍国主義という構造? 何が見えてきますか? (小菅信子氏)






・ニ十世紀は映画の世紀でした。しかし古典的な傑作達はこの十年間のあいだに、急速な勢いで忘却されています。ゴダール映画の真骨頂は、一言で言って、「可視化」です。みえないものをみえるようにするのが、映画の役割です。これは、「映画は考えられないことを考えるためのものだ」という彼の主張に対応したものと考えられます。そのための方法が、ドキュメントをフィクション的に、フィクションをドキュメント的に表現することでした。ところが、今や映画自身が闇に消えようとしているのです!七十年代後半から、ゴダールの課題は、いかに不可視のものとなっていく映画たちを語るべきか、に向かっていきます。映画を語る映画、すなわち、「映画史」ですね。

・ジェイムス・ジョイスの情報整理術を学ぼう!ジョイスは膨大なデーター、アイルランドの地名や人物名を、物語の中に見事に埋め込みました。同様に、ゴダールはドキュメントをフィクション的に表現しました(又はその逆)。現在の課題は、忘却の闇に消滅せんとする過去の映画の保存です。いかに、過去の映画ー私達の記憶が住んでいる場所を語るべきか?

・サクリファイズを再び観たいです。今回の封鎖以来、「立ち入り禁止」ということについて考えますね。オーストラリアなら、立入り禁止の芝生で遊ぶと、通行人が親の代わりに躾けて来ます。「何故、よその人が家の子に」と両親はいつも不愉快でした。他方、英国的な価値観に反発する、アイルランドでは、子供は妖精の如く飛び回って侵犯?を繰り返します。大人の干渉一切無し


・常識にとらわれてはならない。映画は考えられないことを考えるためのものだ....逆に言うと、思考手段であれば映画となるのです。映画の本質は、映しだすことです、つまり、projectですね。紙と鉛筆と消しゴムさえあれば、数学者がやっているみたいに、映画を書くことができますーそういう数学者はカントールの様な学者でも、子供でもいいわけです。そう考えると、映画はどこにも存在すると思いませんか?(劇場やテレビと、映画との結びつきは、恣意的に過ぎません。映し出すことであれば、原始人ギャートルズが、焚き火を使って影絵で遊んでいたでしょう。それはもう、映画です。)

・生まれてくる赤ん坊と、死に行く老人は、世界を語らず、見るだけです。彼らこそ、映画です。「ともかく私は、概して、映画のそこが好きだ。説明不在の、光に浴たす、壮麗な記号たちの飽和 」



・漱石の「夢」は「考えられぬもの」に対応するとしたら、「考えられぬもの」はウィットゲンシュタインの「遅れ」に関する思索を喚起します(以下、探求2より)。
 「見る」という概念はごたごたした印象を呈する。実際それはごたごたしている。−私は風景に見入っている。私の眼差しはさまよい、私はあらゆる種類のはっきりとした、あるいはぼんやりとした動きを見ている。この後者が私にはっきりと刻みこまれ、前者は朦朧としか印象に残らない。それにしても、我々の見ているものは、なんと甚しく引き裂かれて見えうることか!  ・いま、「見られているものごとの記述」なるものを眺めてみよ!−だがそれは、まさしく、ひとが見られているものごとの記述と称しているものなのである。そのような記述にはひとつの本来的かつ正常な場合など存在しないーその残余はまさしくいまだに不分明であって、いまだに解明を待ち望んでいるか、あるいは屑みたいに隅へと掃き寄せられてしまうことになる。




・「fが映画化関数として・・・」は素晴らしいアイデアです。ポイントは、数学が定義する線形性のモデルが、映画のモデルとして、役立つのか、役立つとしてなにが明らかになるのか、という点ですね。そもそも、線形性の意味が分らない方も多いと思いますので、ちょっと、ふくうろとねこの会話を書きました。

ふくろう;経済の三要素は知っているかい?土地・資本・労働だ。同様に、映画の構成要素を考えてみよ。映画の三要素はフィルムとプロジェクターとスクリーン。映画の本質を形式的・抽象的に考えようとすると、数学の記述が役立つ。

ねこー;エエー、映画三要素は、女優の化粧と豪華なドレスとポップコーンと思っていたニャ!

ふくろー;それらは商売であって、映画の表現とは関係がない。見ること、思い出すこと、語ること、が大事と思うな。映画館近くのカフェで友達と、見た映像を思い出して語り合うでしょ?映画は夢分析と類似している。

ねこー;ホホー。

ふくろう;それはぼくのセリフでしょ?

ふくろう; 素材的には映画はフィルムとプロジェクターとスクリーンから成るが、表現の構造に着眼してみるんだ。スクリーンにフィルムの映像が大きく映し出されるのは、「射影」に対応するとかんがえてよろしい。

ねこー;ゴダールがつくったファッションのコマーシャルを見たら、街頭を歩く女性達の映像と、ロココ絵画の女性の映像をリズミカルに交互に組み合わせていたニャ。あれも、写像かニャ?

ふくろう;YES, I THINK SO.つまり、前者に、後者を投射する表現といえるし、逆の関係も成り立つよ。

ねこー;線形性って、なに?ゴダールの映画は線形的である、なーんちゃって。

ふくろう;その通り。ゴダールの映画の特徴は、線形性に存する、といえる。

ねこー;マジすか?

ふくろう;マジです。表現としての線形性の構造を説明しますと、ゴダールは力説するんですが、映像と音に伴なわれた編集は大きな力を引き出すのです(「音」は効果音だけでなく、台詞やナレーション等の言葉を含む)。ゴダール作品をよーく観察すると、映像と音と言葉が必ず一緒に増える(又は、一緒に減る)。映像だけが増えたり、音だけが増える事は決して起きませーん。つまり、ゴダールは、線形性の構造を意識している。こういう豊かな構造は、ハリウッド映画には存在しない。

ねこー;その訳は?

ふくろう;ハリウッド映画はシナリオ重視の映画です。だから、映像や音は、シナリオの筋書き(物語)を助ける役割しかないんです。つまり・・・ねこー;ヒエラルキーがあるってことですね。物語と言葉が王様、映像と音は下僕ですニャ。それに対して、ゴザールの映画は・・・


ふくろう;ゴダールです!

ねこー;言葉と映像と音とが平等の関係を取り持つのですね。それは分りましたニャ。でも、どうして、平等でなければならないのですか?

ふくろう;それは自分で考えてみよう。ただ、言っておきたいのは、ノイマンの経済数学のモデルのような線形構造だと、工業も農業も均一且つ均衡的にに成長することになっている。そういうモデルを、私達はより平等だと感じる。ま、ついでに言っておくと、ノイマンの補題定理をみると、価格というn次元のスクリーンに、活動能力というm次元を映し出しているんだな、面白いだろう。ちなみに、森嶋は、そのようなノイマンの数学を使って、マルクスの経済モデルを記述してみせた。これなんかは、近代経済学のスクリーンに、マルクス経済学を、映し出した写像といえますね。

ねこー;ホホー・・、。

ふくろう;それはぼくのセリフ!

ねこー;ゴダールもふくろうさんも写像に関心があるようですが、何故なんですか?

ふくろう;それはニャ・・・エヘン、失礼、それはいい質問です。紙の書物が絶滅するという時代に、生きているからだと思います。どうやって、本の知識を保存すべきかということがあります。ところで、ローマ帝政末期には、一部の知識人たちが修道院に引きこもり、滅びゆく文明の産物をできるだけ保存しようと複写に専念しました。帝国の崩壊を予感していたんですね。実際、それは文化が危機に瀕すると、どんな時代にも起こってきたことです。原発災害が起きた日本も他人事ではありませんね。残念ながら、映画ははこういう保存の原則を経験していませんでした。だから、ゴダールのような人が、「映画の歴史」を保存すべく、70年代後半から「映画史」制作に乗り出しました。問題は、どういう形でいかに、膨大な情報を組織化していくか、ということです。そう遠くない未来に、映画館は消滅するでしょう。電気が足りなくなって、パソコンも立ち上げられなくなるかもしれません。そいう状況を想定しながら、後世の人々が利用可能な形に、情報を変換していかなければなりません。ここで多言しませんが、ゴダールの方法は、本のような映画をつくることでした。本の原点に立ち返ったのです。さて、私の場合は、白豪主義のオーストラリアで少年時代を過ごしたことと関係があります。アボロジ二は本来的には砂漠の民ですが、ただ歴史的な経緯から明らかなように、白人の領域から排除されて生きているのが実態です。私の子供時代、シドニーのような都会では一切アボロジニを見かけませんでした。そういう子供がいたら、警官達は直ぐに保護して施設に送還します。恐ろしい話でしょ?事実上の、国家による誘拐ですから。実際に、十万人の子供たちが誘拐されました。話を戻しますと、そんな訳ですから、シドニー時代、二つの領域ー都会と砂漠の間には、互いに関連づけ合うものがなかったんです。そんな所から、写像という形式に感心を持ちはじめたんだろうと思っています。ゴダールの場合は、過去の領域と未来の領域ですね。


ねこー;それに関連した、ゴダールの言葉はありませんか?

ふくろう;ええ、ゴダールが繰り返し引用するブレッソンの言葉があります。最後に、紹介しておきましょう。考えられるものと考えられないもの、との関係を示唆した言葉でもありますね。なにごとにおいても、考えられるもののなかには、決して消去してはならない痕跡があるものです。つまり、考えられないものの痕跡です。ヒロシマ・ドームはそういうものです。前に、島田さんと話したことがあるんですが、恐らく、フクシマ原発もそうでしょう。痕跡とは倫理的...


外国

・「王子結婚、英国で華やぐ」(朝日)だって!?嘘つけ!!反感を覚える人も少なくないと思う、マスコミだけさ。単純な理由だ。金持ちが華やかさになればなるほど、貧乏人は惨めになるゼロサムの法則。ブルジョア家族たる天皇制を仰ぐ国民の卑屈さと同じ。皆が貧しいアイルランドの様な国はそうでもない


東京

・五千年後の東京を想像してごらん・・・二十年前、NASAかどこかの米国政府機関が、核廃棄物を埋める場所について具体的に話し合った。核廃棄物の放射能は一万年、持続する。問題は、土地がどこかに見つかったとしても、そこへの侵入を防ぐ為に、どのような標識で周りを取り囲めばいいのか、分らないというという事だった。。
 ニ、三千たったら、読み解く鍵の失われた言語というのが出てくるはずだ。五千年後に人類が姿を消し、遠い宇宙からの来訪者たちが地球に降り立った場合、問題の土地に近づいてはいけないということをどうやって説明すればいいのだろうか。話し合いに参加した専門家たちは、言語学者で人類学者トマス・シービオクに依頼して、そういう問題を克服できる様な通信方式を研究させた。彼が出した結論は、どん言語も、絵文字の様なものでさえ、それが生まれた文脈の外では理解されえない、というものだった。有史以前の洞窟で発見された図像をどのように解釈すれば明確に分らない。表意文字的な言語でさえ本当に理解できるとはいえない。シービオクが言うには、唯一有効かもしれない方法は、「これに触ってはいけない」、「それを食べてはいけない」というタブーを仲間内に広める宗教結社を設立する事だという。タブーは世代を超越するから(エーコとカリエールとの対話を参稿にしました、本多)



・脱原発訴え、都内で五千人デモ行進。思い出すと、米国主導のイラク侵略を反対する十万人がダブリンで集まったときは、地面がみえない程の群集だった。G20ロンドン開催反対は四千人だったが、世界資本主義の象徴、英国中央銀行の広場を占拠したから、全世界が震撼した。東京発信の脱原発も頑張ろうぜ

・あなたは原発推進派?それとも反対派?現状維持ですか、減少ですか?なんと中立的で傍観者的な問いだろう。あなたは原発を持つか、持たないのか、ときいて欲しいが。明日デモに参加できない人は、7時に、音を鳴らそう。缶やコーヒーカップを叩く。自転車のベルや車の警告音を鳴らす。7時〜東電前抗議

・To Be, or not to Be,that is not the question, but to Have, or not to Have, that is the real question原発推進派か脱原発派か?いいえ、大事な質問はあなたは原発を持つのか、持たないのか

・抵抗権right of resistanceは、国家権力の不法な行使に対して反抗する権利。革命権(非合法的暴力)と、市民的不服従civil disobedience(徴兵拒否の様な合法性の枠内)、この両者を包摂する概念。原発は、抵抗権が想定する国家権力の不法な行使ではないだろうか


・新橋での脱原発デモは四時から始まった。経済産業省まで行進して、抗議活動を行った。それから、東電に向かい、蝋燭を灯して抗議集会を行った。180人ー200人ぐらいが集まった。八時に失礼したが、夜遅くまでキャンドルナイトを続けるという。まだやっているはず。皆を主導してくれた若者達に感謝


・新橋・脱原発デモを応援する台湾人の声(Fbより)no more death for nuclear accidents or attacks.原発の災害も、核の攻撃もまっぴらだ、と

・新橋・脱原発を応援するフランス人En Europe, la question du nucléaire, avec l'anniversaire de Tchernobil,soulève partout uen opposition radicale au nucléaire


ふくろねこが総理なら、

1、脱原発の街頭デモに参加する
2、東電と経済産業省に、抗議のビラを配る 
3、新聞社の社内に、ツイッターと新聞の読者が参加できる、討論会とシンポジウムの設置を(新聞社に)求める。
4、要求を認めてもらうまで、新聞社の玄関を占拠し座り込みを続ける。
5、国会議事堂を避難民施設として提供する。
6、原発推進のコマーシャルに出た著名人を人民裁判にかける。
7、独立した立場から原発を擁護した者は無罪、カネが欲しいだけだった者は公開処刑(髪の毛を切るなど)
8、原発ポスターに関わった教育者と選考委員を調査する。
9、原発の目的は原爆開発だったという説あり。もし本当なら、事態の進展によっては、米英仏露中の特別常任理事国に、共同管理してもらう可能性を世論に問う、
10、食料などを確保する為、保護貿易の政策を表明する。(TPPは粉砕)11、以上のことを実行するために、ふくろうねこは総理にならない



「退屈」と申しましたのは、XXさんはだめだ、00さんなら、総理に相応しい、という政治談議に退屈さを感じてしまうんです。というのは、現在の根本の問題は、民主制そのもの危機に存するからです。簡単に言ってしまうと、誰が誰を代表しているのか、あるいは、どの政党が誰を代表しているのか、はっきり分りません。これが代表制の危機ですね、代表する者と代表される者の間の関係が空洞化してしまっている現象です。しかし、民主的議会主義である以上、民衆は誰かに代表してもらわなければなりませんーすくなくとも、代表してもらう演技をしなければなりませんーそんなフィクションがもはや役に立たないことを知りながらです。政治学の言葉を喚起します。人々は自身を代表することが出来ない、代表してもらわなければならないのだ。できない彼らはThey cannot represent themselves. they must be represented. ところで、水俣やチッソ、私が一時期関わった土呂久のような、反公害の戦いで大きな課題となるのは、いかに、関心を広げるか、ということに尽きます。みんなの問題として、共有していく努力にかかっています。そうでなければ、運動が広がっていかないからです。しかし、厄介なことに、政治家が関わってくると、自分達に都合がいいようなシナリオをつくって、票集めのように関心を組織化していきます。例えば、加害者と被害者との損害賠償をめぐる争いという非常に矮小化された事柄に還元してしまうんですね、そうすると、ああ、あれはカネの額の問題か、みたいなかんじとなり、普通の人は関心をもたなくなります。実際は、患者の多くは高齢化していて、数年も生きられない。せめて、村八分になって「お上」にさからって裁判をやっているわけですから、国と公害企業の謝罪の言葉が欲しいんですね。ところが、政治家は和解金の問題にしてしまう、そうして、票を稼ぐ、党内での地位を獲得する。そういう解決は利権と癒着に過ぎません。

原発の問題も、構造的には、同じ問題と思います。「無関心の代償」の「無関心」ですが、自分達のことにしか関心をもたないと、その自分すら守れなくなってくるよ、という大事な教訓ですが、他方、私の解釈では、本当のところ、「無関心の組織化」ということもあります。政治家と官僚と企業とマスコミが、「無関心」を組織化していくのです。この点に関して言うと、脱原発のデモが始まりましたが、まだまだ産声をあげたばかりです。市民グループが先週呼びかけた、新橋でのデモー経済産業省と東電に面会を求め抗議文を渡したーは、いつもより3,4倍の人数に増えたとはいえ、たったの180名です。これからの課題は、皆が関心を持つような呼びかけで。原発の問題は緊急を要する問題なのです。そうであるにもかかわらず、一般の人は不安を覚えていても、関心を持っていないんですね。譬えて言うと、猫に睨まれて動けなくなった鼠のようなものです、怖がっているだけ。恐らく、止める、止めない、という原発の問題を、自分達の問題と受けとめられないからでしょう。ですから、そういう人たちに呼びかけていくためには、止めよ、は一番大事な主張ですが、この主張と一緒に、なにか他のものを主張していかなければなりませんね。電気の節約という話は当たり前なんですが、なんだか、「無関心」を組織化しようとしているのではないかと心配です。私が考えているのは、「エネルギー植民地」(福島が東京のために犠牲となってきた)、それと、抵抗権の問題ですが、なんといっても、二十代、三十代の人々の心をつかむ問題提起の構築が、いま、一番必要とされている思います。






分類できないもの。無駄なもの。役に立たないもの。

・有名な自動車の名前なもんですからね、あっちじゃぁ、「車売ってくれ」と、一日中回電話が鳴って困ったよ。いちいち説明するのも疲れて、二年目は、特にNOと言わず勿論YESとも言わず、あっちの話に合わせて何分で相手が気つくか実験しようと決めた。そしたら、不思議に電話がかかってこないんだな



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ALSO SPRACH OWLCATO ふくろねこー、かく語り き 2011年四月(3)  本多敬  言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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