言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCATO ふくろねこー、かく語り き 2011年月6月(3) 本多敬

<<   作成日時 : 2011/06/09 23:24   >>

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思想・哲学


・ユダヤ人達が自分達のリアルな歴史を記録するようになるのは、第二次大戦後から、ときくと意外だろうか?ホロコーストの体験によって、歴史を書くことの責任が自覚されたからだ。ただし、民族の記憶が一度消滅してしまうと、消滅した言語のように、回復は不可能であると、アイルランド文学は訴えてきた

.・日本の教科書(中・高)が殆ど男性作家の文章ということがあります。全体の中では女性作家の占める割合が少なく、女性徒に劣等感を与えている土壌かもしれません。「半々」がフェアーですね。アイルランドは「女性」として抑圧されてきた国ですから、フェミニズムの主張は非常に強いですよ

.・「類似性の思考」は、No more Hroshima, No more Fukushimaのスローガンに見出される。ヒロシマとフクシマは等価ではないが、意義深い類似性を喚起するのは確かだ。この類似性は、認識の次元で捉えるか(言語ゲーム)、存在論的に捉えるか(シュミラクル)、である

・「復興」という幻想は、類似性の思考によって、反証することができないかな?例えば、英国は1850年代に最初の恐慌を経験した後、「復興」の形として、アフリカ植民地獲得に乗り出したのである。同様に、日本は関東大震災を経て、「復興」の形として、この十年後に、満州に「日本」をつくろうとした


・記憶は、単なる心理的フラッシュバックではない。思い出すことによって、抑圧されたものの回帰が生じるからだ。集団的意識に生じた政治的抑圧が明らかとなる。ヒロシマが、経済至上主義によって、抑圧されてきた。歴史的な事件と意味と解釈とイデオロギーの広がりが、フクシマにおいて、起き始めている


・私は「解決」が嫌いで、結論を先送りにして永遠に議論を続けたい。原発推進派は下劣だときめつけたくない。モラルに訴えると、議論が詰まってしまうから。また言葉の論理だけに頼っても、議論を続けることが不可能となる。行動とのバランスを取る所以だ。偶然と不測の事態という友達と出会うために、ね


In "the study of the good"(1911) , Kitaro Nishida (西田幾多郎Japanese philosopher 1870-1945) refered to an universal view of the state based on Platon, Aristotle, Hegel and Kant . Nishida says; however the state is the grandest manifestation of the sense of community that is seen today ,the cultivation of our character could not stop at the state. Something more universal is required to us. It must be social solidarity of human. In an mutual approach of Stalin and Hitler of 30's, accompnaying the collapse of popular front (except of the collaboration between the Kuomintang and the Communists in China) , Nishida withdrew his vision of the universal nation. Nishida's definition of the state was changed as this; the individual has to develop the voluntary life ("seimei";生命) in the unification with the state, that is organized as a single whole .Actually he authorized national identity for the fascist state. Ge Tanabe (田辺元), one of the Nishada's pupil, carried on propaganda; choose the death and transcend the death with a summons to military service in the Imperial Japanese Army printed on a red postcard, ; that was no more than a philosophy of the Emperor banzai [hurray]



9林達夫(「新スコラ時代」1944年;都新聞);素直に言へば、私はこの数年間あらゆる事象に対して首を傾げたまま何の身動きもしなかった人間のひとりである。感じ易い、軽信的な性質ゆえに誤りばかり犯して来た過去の自分に省みて、ストア的な無感動を厳格に自己に課してきたといふ

精神的な意味でも、うはべと内底とを正しく識別せねば何らこの世に生きる上で意味がないといふ知的なな意味でも。それゆえに私は時代に対して今更らしく真向から発言する資格も気持ちも一向に持たないのである。私の杞憂に過ぎぬと思ひたかったものが着々現実の事態の中にあらはれはじめ、懐疑的に見ていた事柄が果たして否定的な様相をとりはじめたとて大して驚きもしなければ慌てもしない。


(林達夫「歴史の暮方」)

絶望の唄を唄ふのはまだ早い、と人は云ふかも知れない。しかし、私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さへ認めることができないでいる。誰のために仕事をしているのか、何に希望をつなぐべきなのか、それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。・・私には、納得の行かぬ、目先の暗くなることだらけである。いや、実はわかりすぎるほどよくわかっているのだ。受けられないのだ、無理に呑み込むと嘔吐の発作が起きるのだ。私のペシミズムは聡明さから来るのものではなくして、このひ弱い体質から来る。

私はこの頃自分の書くものに急に「私」的な調子の出てきたことに気がついている。以前にはあれほど注意して避けていた「私事」や「心境」めいた事ばかり語っているやうだ。何故だろう。社会関係を見失ってしまったからだ。

15、・・私の所属していると思って、あてにしていた集団が失くなってしまったからだ。ほんとうは失くなったのではなくて、変はつたのであろう。だが、私にとっては、どっちみち同じことだ。私は変はっていない。容易に変はれない自分の頑固さを持て余している。・・・時代に取り残された人間とは、私の如きものを云ふのであろう。だが、それを寂しくも心残りにも思っていない。目前に見るこんな「閉ざされた社会」なんかにもはやこだはっている気持ちは一向にないからである。

誰が何と云っても、これは大変な大空位時代である。・・・出口のない、窒息するやうな世界の重荷に喘いでいる人間の絶望の声、諦念、血路を拓こうと必死になっている痛ましい努力ーそれが見えない、また見えても見えないふりをしている思想家や作家は、少なくとも私には縁なき衆生である。私はいつも哲学や文学からは、いはば裏道の忍びやかな唄声を聞きとりたいと願っていた。bêtise humaineの哀歌(エレジー)を!華麗な大道の行列や行進には、全く興味をもたなかった。・・・哲学や文学が行進のプログラムとなっては、もはやそれらは哲学でも文学でもない。ー(「コメント・本多」;渡辺一民氏によると、ソビエトとドイツの条約締結が人民戦線に与えた負の影響は甚大であった。林達夫のような、日本の知識人にも影響が及んだのである。)


渡辺一民氏の公開講座(3回)が終わった。名訳であるフーコ「言葉と物」のお仕事が有名だが、林達夫や岸田国士の研究もなさった。次は、アポリネールや東欧の映画について講義したいとのこと。林達夫は、フーコに先駆けて、知の考古学というヴィジオンを独自に打ち出していたことをご指摘なさっていた

1林達夫(反語的精神、1946年)

反語家はその本質上誤解されることを避け得ません。しかし僕はそれを平気で甘受し、否、ひそかにこれを快としているほどに悪魔的でさへあります。反語家の真の危険は、外部からスキャンダル呼ばはりされて,立場を悪くするという点にあるのではなく,
・・むしろ内部において一種の心理的陥没におちこむことが往々にしてあるということです。反語家は時とするとジキル博士とハイド氏のようなものである。彼の仮面が第二の性質となり、それがあまりに「彼の役割の皮膚」の中に入りすぎて、その第一と第二の間を往復しているうちに、どっちがより本物であるかが分らなくなってしまへませう。もっと卑俗な譬へを持ち出せばー反語家はあの諜報者やプロヴァカトールに幾分似ているともいへませう。・・・あんまり熱心に自分の役目を演じすぎると、一体自分は軍国主義に味方しているのか、それとも革命勢力に協力しているのかわからなくなる・・・。(コメント;花田清輝によると、林はbitter fool (sly fool) とdry foolの分裂の中にいた)


林達夫(「新しい幕開け」1950); 戦後五年にしてやうやく我々の政治の化けの皮剥がれかかってきたやうであるが、例によってそれが正体をあらはしてからやっと幻滅を感じそれに食ってかかり始めた人々のあることは滑稽である。人のよい知識人が、五年前、「だまされていた」と大声で告白し、
こんどこそは「だまされない」と建気な覚悟のほどを公衆の面目に示しているのを見かけたが、さういふ口の下から又ぞろどうしても「だまされている」としか思へない軽拳盲動をぬけぬけとやっていたのだから、唖然として物を云ふ気にもなれない。えてして、政治にうとい、政治のことに深く思ひを致したことのない人間ほど、軽はずみに政治にとびこみ、政治の犠牲になるといふのが、わが国知識階級の常套である。政治くらい、人の善意を翻弄し、実践的勇気を悪用するものはない。

私はあの八月十五日全面降伏の報をきいたとき、文字通りほうだとして涙をとどめ得なかった。わが身のどこにもそんなにもたくさん涙がひそんでいるかと思われるほど、あとからあとから涙がこぼれ落ちた。恐らくそれまでの半生に私の流した涙の全量に匹敵する量であったろう。複雑な、しかも単純なやりばのない無念さであった。私の心境は日本の全過去と全未来とをありありと見て取ってしまったのである。「日本よ、さらば」、それが私の感慨であり、心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった。


・・新しき日本とはアメリカ化される日本のことだろうーさふいふこれからの日本に私は何の興味も期待も持つことはできなかった。私は良かれ悪かれ昔気質の明治の子である。西洋に追ひつき、追い越すといふことが、志ある我々「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下がることは、私の矜持が許さない。「黙秘」も文筆家の一つの語り方といふものであろう。事アメリカに関する限り、私は頑強に黙秘戦術をとろうと思った。コンフォルミスムには、由来私は無縁な人間であったのだ。


・Deleuze and Sartre, Wind and Cat ー Especially some what, facing the acceleration generalized of the mutations, to their globalization, ,we are confronted existentially with the game that Deleuze clearly pictured in the "Spinoza and the problem of the expression


ーinteresting, but what should be that game, if so?

・・・Game of friendship; amity means the right of a foreign visitor not to be treated with hostility upon his/her arrival.

ーall right, i get it.. yeah actually thru Spinoza we can relate the idea of being a 'host' with being a 'friend', definitely #ok!


・多様な事象としてのデモに反発する人々。「左翼」という言葉で、集団の支配を思い描いて恐れる者。これは、多様な事象の背後に常に因果関係を見出す意識の性質と関係があるのでは?生活を妨害して迷惑と非難する者。多様な事象に対して安定した目的の表象を拵えたい意識の性質が、デモと両立しないのだ

・諸学の基礎としての哲学を主張する哲学は、純化された知のことだろう。他方、哲学「と」何々って問い方は、コミュニズムと社会民主主義、アナーキズムと宗教、左翼から右翼まで連合した、人民戦線の政治のことだ。さてファシズムに有利に対抗できるのはどちらなのか?純化された知か?「と」の政治か?


言葉・表現・本

法の承認をえた愛は、その同じ仲間である放縦な愛をいつも上から見下すものである(モーパッサン)。貴族・ブルジョ貴族・ブルジョアの上流階級の人間や、民主主義者や修道女達の利己主義や俗物性と偽善ぶりと、社会的に醜業婦といわれて卑しめられている一娼婦の人間性を対照的に、描いた。

l'amour est venu sans mon avis, il s'en retourne de même; je ne crois pas être blâmable 恋は無断でやって来て、無断で去ってしまう。私が悪いんじゃない(マリヴォー)恋愛心理を描く繊細と優雅さ

・「無人境のコスモポリタン」(林達夫)。(自由な精神にとっては、アイロニーほど魅力的なものはない)

・後拾遺より  「かくなむと海人の漁り火ほのめかせ磯辺の波のをりもよからば――源頼光」 (意訳:思う人があるとほのめかしてください) 「沖つ波うちいでむことぞつつましき思ひよるべきみぎはならねば――のちの妻」 (意訳:言い出すことが憚られます。心惹かれてはならない身の上ですから) ー XYZgaのツイート

・月ひとり仰がば踊れ夜の牝馬打ちてゆけ汝がスラーズ・マリーツァ #jtankaСразч МОлйтСЯ=露語:すぐ祈りましょう Nightmare=夜の牝馬の直訳 ZABADAK  ー XYZgaのツイート

アート

・スイスのユダヤ人で、世界的なジョイス研究者であるFritz Sennは、迷える私達によく言ってました;Never too late! 金子さん、 共に歩む、thinking formです! projection/répétition/durabilité

・ロマン主義芸術家の、政治リーダーとしての伝説。秩序というのは、多様な事象の背後に常に因果関係を見出そうとする。又、この多様な事象に、一定の目的の表象を拵えて一貫性を保持する。しかし理性は、この秩序を否定する力を内側に孕む。芸術と政治は必然として、この根源的な裂け目において結びつく


・ゴダール「ブリティッシュ・サウンド」のエッセンスは、芸術と政治は結びつくのかという問いかけに、に存する。ロマン主義芸術家の政治リーダーとしての伝説ーなぜ、芸術家は不正義に対して怒るのか?秩序というのは、多様な事象の背後に常に因果関係を見出そうとする。
又、この多様な事象に、一定の目的の表象を拵えて一貫性を保持する。しかし理性は、この秩序を否定する力を内に孕む。芸術と政治は必然として、この根源的裂け目において結びつく。旗(理性の笑み)を破る拳の如く 。ロマン主義芸術家の政治指導者としての役割は、バレンボイムによって提起された

・プッチーニ「ラ・ボエーム」は、革命が挫折した三十年代のパリを舞台としたオペラで、カルチェ・ラタンの屋根裏部屋に棲む、貧しい芸術家達を描いた。帝政の地上世界に属することを拒んだ、若者達の象徴的な生き様だ。ナポレオン三世治下のパリから遠く離れて、田舎へ行った印象派の画家達の原型である



映画・演劇

・前近代の封建主義的観念とは、女性を共感の中心点、「大地の母」か「幽霊」、「ヒステリー」に還元することだ。この観念にしかリアリティーを感じない日本の観客は幼稚だし、迎合する演出家も下劣だー商業的演劇であれ、公共的演劇であれ。石原の差別発言も同様のもの。幼稚で下劣な東京よ、恥を知れ!

・封建主義的観念とは、女性を共感の中心点、「大地の母」か「幽霊」に還元することだ。この観念にしかリアリティーを感じない日本の観客は幼稚だし、迎合する演出家も下劣だー商業的な蜷川であれ、公共的な平田であれ。ポストコロニアリズム+フェミニズム思想を取り込めない演劇界は、決定的に時代遅れ

・ケン・ローチ「地麦の穂をゆらす風」2006;三十年代のスターリンとヒトラーの接近の歴史、左翼から右翼、アナーキストまで知識人が連帯した人民戦線の崩壊を告げる、この映画は、ファシズムが植民地主義と教える。独立後、青色から緑色に塗り替えられたアイルランドの監獄に、活動家達が投獄された

・ゴダール「愛の世紀」;映画の記憶は、単に心理的フラッシュバックではあり得ない。思い出すことによって、抑圧されたもの、即ち、集団的意識に生じた政治的抑圧が露となる。レジスタンス運動は、グローバリズムによって、抑圧されてきた。歴史的な事件と意味と解釈の広がりが、ブレトンにおいて生じる

・『カラビニエ』(仏語 で「カービン銃兵たち」の意)は、1963年製作・公開、ジャン=リュック・ゴダール監督のフランス・イタリア合作映画である。本作は、イタリアのネオレアリズモの映画監督ロベルト・ロッセリーニの書いたブレヒト劇の戯曲をもとに、ゴダールが映画に翻案したものである。

・男のもとに、自ら死を選んで死を超越せよと命じた召集令状が届くと、殺戮と盗みの旅の幕開けだ。レンブラントのオマージュであるこの映画によって、カラビニエの母国にあって外国人の様に彷徨する肖像画が表現された。収穫品として持帰った文化遺産の観光絵葉書達は、空白のタブローを埋める事が可能か

「男の子の名前は皆、パトリック」;恋は無断でやって来て、無断で去ってしまう。私が悪いんじゃない。精緻な恋の駆け引きと自己洞察、ゴダールの恋愛心理を描く繊細と優雅さは、ロメール的マリヴォーの文体に属する。映画も、常に偶然であり不意打ちである。映画は侵入し、通り過ぎてゆくなにかである

「怠惰の罪」;即興演出、同時録音、自然光を生かすためのロケーション中心の撮影と、ゴダールの編集とが、見事に連結し合っている。この小作品は、物語的な語りに重要な意義を与えない。怠惰な人間こそ、視覚的な人間に他ならない。七十年代のヴェンダースのさすらいのテーマを準備した作品といえよう

・映画は、光と闇を感化の大きな運動として利用することから始まった。光と闇には、数億年も前から黄昏の地上に降り注いでいた囁きが蓄積され記憶されていた。人々は、スクリーンから放たれるこの光と闇を、宇宙という生態圏の外部からの贈与、即ち、受胎とは気がつかなかったーゴダールの「マリア」まで

・ゴダール「小さな兵隊」は、拷問するアラブ人と拷問されるフランス人を描く。アルジェリアは逆だったはず?拷問の隠喩が表すのは、非対称的な権力関係を背景として展開されるダイアローグ。不安定な関係の転倒が含まれる。拷問者はある出来事や不測の事態によって拷問される立場へと入れ替わってしまう

・前へ前へ進めと、モダニズムは直進運動。時間進行に伴ない原因と結果とが結びつき知識の垂直的統合が生じる。ゴダール「アルファビル」のレミー・コーションは勇敢にも、それと対決する。この探偵は怠惰の極みで、タブー破りの場違いな会話ばかりだが、螺旋状の、この会話こそテクストを開く力であった


・歴史研究者は、「そのとき」に自分がまだ存在していなくても歴史学の方法に即して「そのとき」を叙述することができる。同様に、ゴダールは、考古学的方法に準じて、映画の観客の「そのとき」を積分的に地層化すべきだと主張して、総体としての二十世紀史と等価物である、映画史の構想を発表した

・ぺラスケスの表象を描いたラヌ・メニナスには、その体系的でコンパクトな空間を炸裂する外部性の侵入が描かれている、とフーコは言う。この外部性こそ、ゴダールのパレスチナ映画「こちらとあちら」の鍵だ。私達の思考は、テレビ植民地主義によって分断されたまま。世界も人々も本来、一つであるはずだ

・エリオット、パウンド、ジョイスの前衛の伝説ー時空を旅する故郷喪失者達。実際は、原子炉の様なエリートの砦に隠遁していた。ゴダールは亡命者の如く、六十年代と七十年代に、北から南、西から東へと移動した。ヨーロッパという砦の外で映画をつくるのは、今世紀初頭の「われらの音楽」によってである

・「ヌーヴェルバーグ」で蘇ったのは、ゾンビたるアランドロンだけか?ゴダールの子供時代の風景、レマン湖畔のブルジョア屋敷、ヴァレリーを持成した母親の面影、こうした映像によって露となったのは、故郷への帰還という主題だ。それは、二重国籍の故郷喪失者であるべき映画のシステムにおいて矛盾する


・「パッション」では、カメラが都市の模型の上を旋回する。ゴダールの分身たる監督が天使と争うまでのロングショット。この人物は故郷喪失者の様に、映像世界に迫害されている。私はこの印象に驚いている。ヘルダーリンの詩を思い出した。国家を自分の意志で選ぶヨーロッパ人の苦悩に、日本人は震撼する

・映画の中の映画、「パッション」では、カメラが空を舞う鳥の如く都市の模型の上を大旋回する。ゴダールの分身たる監督(Jezy)が天使と争うまでのロングショット。この監督は故郷喪失者のように、映像世界に迫害されているようで、私はこの印象に驚いている。ヘルダーリンの詩を思い出した。


・「中国女」の社会的身振りの意義。映画表現の「特殊性」とブレヒト異化効果(Verfremclung)の「一般性」によって、ゴダールにおいて、自然さを装うブルジョア的"リアリズム"と、感情に訴えるナショナリズム的"ロマン主義"が拒否された。そうしてはじめて、そこから、新「国家」独立後に、いわゆるエスタブリシュメントとなった、多くのナショナリスト達の、(許し難い)ブルジョア的仕種を観察したのだ!

・ビデオ「ソフトとハード」;ゴダールは、鏡を見ずに髭を剃る。顔を見たくないし、髭の場所も分るから。コミュニケーションの映画ですって?あなたは自分が嫌いでしょ、そこが問題よ!、とアンナーマリー・ミィエヴィルは言う。このパートナーのおかげで、ゴダールは詩とアイロニーと優雅さを身につけた


1アイルランド文学のアイロニーとは?英文学の礎を築いた、植民地行政官であったスペンサーを、あえて、アイルランド文学の「父」として認知してしまう狡猾な戦略がある。コンラッドをアフリカの作家とみとめるようなものだ。そうして、敵味方の境界線をズラして転覆することによって、優位に立つのだ

2バレンボイムこそ、ロマン主義的アイロニーだ。ベートヴェンのピアノ曲全作品を弾いたロンドン公演の最中に、中東和平の必要性を訴えた。ホロコーストの、憎むべきドイツ文化に属するベートベンとワグナーをこんなに愛せるのだから、イスラエル人がパレスチナ人の文化を尊重するのは容易いはずだ、と

3「敵」の文化に属するスペンサー、コンラッド、ワグナーを、あえて、自国の文化の礎の「父」として、措定すること。アイロニーの政治性はここにおいて極まる。ポストコロニアル時代に生きる知識人のアンガージュマンといえる。フロイトの精神分析は、ドゥルーズ=ガタリが警告するように、・・・

4・・ブルジョア的家族観の呪縛のなかで、アイロニーから政治性を剥奪してしまった。精神分析は、民俗学が植民地を線で囲うように、「個人」の領域を自立化させてしまった。ゴダール「勝手に逃げろ」における、夢の如きスローモーションの筆跡を、父の名(ポール・ゴダール)に還元してはならないのだ

・「アリア」は、男性のマッチョなナルシズムを描いた悲劇。しかしゴダールの女嫌いが描かれているのではないし、フェミニズムの視点がなかったともきめつけられない。映画の復興と再生の為に、女性の声を、母親の声を、あらゆる世代の女性の視点、問題意識と提案を反映させよ、と訴えた映画かもしれない。ゴダールなりに訴えた映画で、あまりにも男性の視点の中の女性像ということも確か。黄金の八十年代と称えられた時期、ゴダールは、アングロサクソン系フェミニズムの支持を失うが、第三世界の女性知識人達から評価を受け始めた。人権リベラルから宗教指導者へ転進した、ガンジーの事例と類似している?

ゴダール「チェロー最後の十分間」。ブルジョアジーは「消費者満足を先に読んでいる」ので、人々は夢を叶えて貰ったと感謝する。「世界の創造者」という彼らの紋切り型に対して、ゴダールの言葉、「携帯電話の失敗は救いたる<水>が出ないことだ」を対置せよ。笑う者は、地震の時の携帯電話を思い出せ...本と言葉を、救いを棄ててないか?

ファシズムとコミュニズムは、異なるイデオロギーの支配のもとで、ともに、人々を抑圧する悪夢をなした。しかし西側世界は本当に、覚醒した外部なのか?と、老年の探偵が、ゴダールによって導入された。「新ドイツ零年」 の探求も空しく、結局、嘘の市場で、統一の物語を売る人々と出会うだけだった

ゴダールの78年からの映画復帰は、ウィットシュタインの哲学界への帰還に喩えられる。スイス人としてのゴダール像は、アイリッシュのジョイス研究家コリンマックケーブの伝記によって、決定的となった。「冬の肖像画」は、"自己で決めた亡命"の精神史を編集した、詩的セルフバイオグラフィーである

ゴダール「偽造パスポート」は、ポンピドゥーの展示(ユートピアの旅ー失われた公理を求めて)の作品である。「ゴダール」の再定義、それは、シュールレアリストとしての全体像ー但し至る所微分不可能な全体像の発見だ。「世界の創造者」というブルジョァ的世界観を内部崩壊させた、挑発的な展示だった

・ニ十世紀は映画の世紀という。古典的傑作は急速な勢いで忘却されると同時に、ゴダールは、次第に、映画を表す代名詞となったーデカルトが哲学を表すように。人々は、このスイスの隠遁者に、「リア王」の名を付与した。世界たる、この道化は、見えないもの(映画)を見えるようにしたいと、彷徨い続ける

・古典主義演劇では、劇中で経過する時間は、観客がそれを観るのにかかる時間と同じだ。シェークスピアの劇中の一場面に切れ目はなく、劇中の時間と劇場内の時間は同じ。「勝手にしやがれ」の中の二人の人物が登場する場面で、この長い一場面のうち,ゴダールが編集で採用したのはほんの短い断片ばかり

・ゴダールのコマーシャル;実験精神旺盛な八十年代のときのCMで、中国系モデルが脱いで下着姿になる映像を逆回しで見せた。つまり、服を着たのだ。MOMAの回顧展で観た人の話によると、女性のAmourというナレーションに、(期待はずれの)お爺さんの観客が Amourと叫んで答えたとか!

・ゴダールのコマーシャルを見たら、街頭を歩く女性達の映像と、ロココ絵画の女性の映像をリズミカルに交互に組み合わせていた。前者に後者を投射する表現といえるし、逆の関係も成り立つ。射影であれば、映画なのだ。映像と音と言葉が必ず一緒に増える(又は、一緒に減る)線形性の豊かな構造だ

・ゴダール「6x2」;諸学の基礎としての哲学を主張する哲学とは、純化された知のことだ。他方、哲学「と(et)」何々という問い方は、コミュニズムと社会民主主義、アナーキズムと宗教、左翼から右翼まで連合した、人民戦線の政治のことだ。ファシズムに対抗できる思考の形式は、一体どちらなのか?

・ゴダールのアナーキズムは、バクーニンからプルードンへ移行してきた。「フィルム、ソーシアリスム」は、貨幣が公共的善であり、民衆が民衆のためにコントロールすべきと主張する。しかし、紋きり型の天皇主義者は新聞評で、ヨーロッパという、人類解放のユートピアのメッセージを苦々しく思っている!

・大島渚はゴダールを非難していた。彼は、「中国女」までは、反動的な?前衛的芸術至上主義の時代に属していた。故郷喪失者のジガヴェルトフ時代は、右翼から非難された極左の時代だ。「思想的自立性」の時代に入る 、「ヌーヴェルバーグ」で始まる八十年代から、左翼と右翼の両陣営から攻撃され始めた

・「モーツアルトは永遠に」;ゴダールは八十年代から、左翼と右翼の両陣営から非難を受ける。故郷喪失者の七十年代と比べてみると、故郷帰還のテーマに傾いている、と失望する左翼。ヨーロッパという人類解放のユートピアのメッセージを苦々しく思う右翼。しかし「思想的自立性」と分析する人はいない

ゴダール「シャリオットとジュール」;映画に、bêtise humaineの哀歌を!華麗な大道の行列行進には、全く興味なし。新古典主義の五十年代、前衛性と大衆性が混在し、時には権威への迎合、時には都会的コスモポリタンhttp://t.co/v9owwDz via @youtube

ゴダール「シャリオットとジュール」;映画は常に、哲学や文学からは裏道の忍びやかな唄声を聞きとりたいと願っている。bêtise humaineの哀歌を!華麗な大道の行列行進には全く興味なし。新古典主義の五十年代、前衛性と大衆性が混在し、時には権威への迎合、時には都会的コスモポリタン

ゴダール「プラウダ」;三十年代のスターリンとヒトラーの接近は、東欧の活動家達の粛清をもたらし、左翼から右翼までの知識人が連帯した人民戦線を崩壊させてしまった。戦後も、ソビエトは左翼のオブセッションとしてあり続けたので、サルトルですら、五十年代ハンガリー動乱まで批判できなかった

フランスのモラリストの(文学的な哲学者の意)とは?人間探求の特色は、その探求の結果、単に抽象的、概念的に羅列することではなくして、必ずそれを一つの可及的に生きた具体的な像に再構成して見せることである。そうして、ゴダールの「ダム工事」は、モラリストとして人間を探求した作品である

フランスのモラリストの(文学的な哲学者の意)-人間探求の特色は、その探求の結果,単に抽象的概念的に羅列することではなくして、必ずそれを一つの可及的に生きた具体的な像に再構成して見せることである。ゴダールの「ダム工事」http://t.co/fCEKGDV via @youtube

ヨーロッパは死んだ、それ故に、真のヨーロッパが蘇るかもしれない。ゴダール「水の話」から五十年後に、「フィルム、ソシアリスム」で、「貨幣と水は公共的善だ」という言葉を語ることになるだろう。新自由主義的市場万能論に対する抗議の声、五十代社会民主主義を再評価する声と解釈できるのだ

ゴダールの「水の話」。五十年後の作品「フィルム、ソシアリズム」の冒頭で、「貨幣と水は公共的善である」と、含みのある言葉を語る。新自由主義的市場万能論に対する抗議の声、五十代社会民主主義を再評価する声と解釈できるhttp://t.co/QGCnXdg via @youtube

「イタリアにおける闘争」;戦後イタリアの貧困化を推進したのが、〈前近代封建主義と教会の反共主義と米国的フリーマーケット〉の一体的システムであった。この貧困からの解放を再びこの一体的システムの手に委ねることはできない。解放に民衆の介入が不可欠であることは、この貧困化そのものからくる

・バルドーは、世界を映し出す身体だろうか?ゴダール「軽蔑」の時代は、男女の自由な関係がなによりも重要だったのであり、映画には、不条理な愛の世界が必然として描き出されたが、民族・言語・宗教が大切な問題となっている現在においては、この映画の身体には、共同体の葛藤や愛が表現されているのだ

・映画は、個人的な感情や神経質な過敏性を超越して、厳密な方法によって、物理学の精確さを与えるべきか?しかし、映画は、この真なる法の言葉によって、「自身の人生を生きる」女性達の感情と歴史をリアルに語るのなら、彼女達は自分で代表することができず、常に誰かに代表してもらわなければならない

・ゴダール「女は女である」;映画を愛すること、それは、過剰な情熱によって、ただ映画だけを欲することである。この欲望は常に、映画が他のものに成ることを欲する。変容の一撃たるアナーキズムを恐れない。それどころか、大いに祝福するのだ。映画を愛すること、即ち、未知なものを切り開くことである

・「フランスの子供達の漫遊記」;ゴダールは、哲学者で科学者、説教師と思えば、ジャーナリスト、テレビで活躍する教育者の顔を持つ。この自由闊達なアマチュア精神を発揮する、スイスのモラリストから、二十世紀的現象たる映画に起きた出来事が証言され、妥協なき道徳的な批評意識が喚起されてきたのだ

・ヘルツォークの映画は、ナチの台頭するベルリンの見世物小屋で千里眼を得る物にする魔術師ハヌセンと、怪力農民ユダya人ジョシュとの出会いを描いた。「未来も過去もなく、ただ現在あるのみ」と魔術師は嘯いて、無限/の力を過信する。「原発やめて電気がなくなったら困る、現実的には」と脅す人々と同じ

「未来も過去も無い。現在が存在するだけ」と、この言葉ほど、ファシストの心情を代弁し、ベトナムの爆撃の罪を隠蔽した言葉はない。原発推進派の罪もだ。顔の無い抽象的圧政の炸裂によって、自然を愛した「気狂いピエロ」において、愚かな人間の哀歌、未来と過去の為の唄が、再建されるべきだったのだ

MADE IN USAは、ゴダールが録音機によって喋る最初の映画。但し英語が一切聞こえてこない・笑。パリ遊学時代のコリンマックケイブはこの題名に騙された一人だった。映像の美しさに圧倒されたと述懐している。街頭に夢を与えたジョイス「ユリシーズ」のユートピアを考えない者はいないだろう

「モンパルナス」。ゴダールというと、偶像破壊の革命児、前衛の怖るべき子供というステレオタイプだが、異論あり。実際に、トリフォーほどには、ゲームの規則を破らなかった。ゴダールは、ラディカルな改良主義者としての自負がある。皮肉な事に、改良すべき規則がどこにも無いと悩み続けたんだけどね

ゴダールのモーパッサン、「コケテッシュな女」;貴族・ブルジョ貴族・ブルジョアの上流階級の利己主義や俗物性と偽善ぶりと、社会的に醜業婦といわれて卑しめられている娼婦の人間性を、描き出そうとしている。「法の承認をえた愛は、その同じ仲間である放縦な愛をいつも上から見下すものである」。


外国

子安宣邦氏のツイート

・いま日本を亡命地にしようとする中国人はいない。日本もまた受け入れない。日本はいま留学生の数だけふやそうとしている。しかし本当の友人を見出しえないような国にだれが来るだろうか。

・今年は辛亥革命から百年にあたる。その革命は日本に亡命し、留学する中国の人士によって起こされた。それを支えた多くの日本人がいたのだ。彼らは中国における革命が自分たちの革命と別のものとは見ていなかった。だが今中国での言論的抑圧の苦痛を共有しようとする日本人はほとんどいない。

・翰光監督のドキュメンタリー映画『亡命』を見てきた。天安門事件以降の中国からの亡命者を通して、彼らを長城の外に追い出すことによって言論的に閉ざし、同時に経済大国化する現代中国とは何かを問おうとする。中国はあの事件以降、数百から千人をこえる亡命者を生み出した。

〈民衆レベルの天皇制〉を民衆史家はいったりする。しかし〈民衆的〉なるものとは、〈伝統的〉〈底辺的〉〈土着的〉〈日常的〉といったコノテイションを連ねてする彼の語りの上に構成される。だから民衆史家は己の語りによって〈民衆レベルの天皇制〉を作ってしまうのである。

〈アジア主義〉とは、日本の変革を中国と、そしてアジア諸民族の変革と同時的に、あるいは連動的に考えようとする立場である。〈アジア主義〉とは、それゆえ明治維新という日本の変革を同時にアジアの変革として自覚したものが、維新の継承として持ち続けようとするアジアの同時的変革の意識である。


東京

・英国は、資本主義の手先の様な会社ですら、半日休みにして老人ホーム訪問を薦める。五百万人しかいないアイルランドのアフリカ寄付総額は英国を越える。エリートであるUCDの学生の多くは卒業後、貧困と飢餓の国で一年間、ボランティア活動するが、ボランティアに単位を、という話は聞いたことがない


・放射能汚染の不安のもとで、無言で農作業をつづけるひとびとの営為もまた、ある種の「デモ」なのだ。

・危険な場所からは避難するにこしたことはない。放射能汚染を過小評価するのは危険だ。しかし、原発事故で自主避難しないひとたちを誹謗中傷するのは、言論による暴力である。「学者」でそれをする人物がいたことは、きわめて嘆かわしい。

・私も全く同じ意見です。何度もツイートしようとしたのですが、有難うございました。農作業というのは手段で、「デモ」という意志の表示が本質なんだと思います。成田の農民と類似したケースと考えます。人間の根源を問う強いメッセージで、無視すべきではありませんね@nobuko_kosuge

・新宿の脱原発デモから、帰って来た。一万五千人は出たかな。日本の新聞・テレビは無視するのかな?ビデオを見たい人はこちらへどうぞ。20000 PROTESTERS IN SHINJIKU 新宿・脱原発集会(撮影/本多敬)


@Vincentさん;
私と私の周囲にいる者達は、フクシマのことで、「世界が変わった」という特別な感じではなく、「やっぱり、日本って、こういう国だったんだね」と実感している者が案外多いのです。シニカルと叱られるかもしれませんが・・・。他方、「やはり、必然として、こうなってしまったか」と憤る人たちもいます。隠していること、抑圧していることが呆れるほど多い社会です。ただ、フクシマに関しては、大手新聞はやっと脱原発デモ’集会の存在をみとめて、これを渋々報道し始めました。東京で4万(新宿、芝公園、渋谷)、大阪で1万集まりました。ところで、先々週からミッシェル・フーコ「言葉と物」Focault "les mots et choses"の翻訳者・渡辺一民氏(大島渚やゴダールと同じ八十歳!)による、淑徳大学での公開講座に出ています。三木清と林達夫について三回レクチャーしています。実は、渡辺先生とは演劇の仕事で面識がありました。公開講座には、4,5人しか出席者がいないおかげで、授業の後いつも、喫茶店でコーヒーを一緒に飲んで色々と面白い話をききだしています。(IFCみたいでしょう・笑)。 さて、この渡辺先生によると、 「第一次大戦は、民衆が国家と国家(フランスとドイツ)との争いに巻き込まれる、総力戦の様相を呈した。民衆の開放感と国家への不信感が戦後、支配的となった。日本の場合、関東大震災(1924)がそうした戦争と同等の意義を持つ。日本は西欧と同じスタートラインを切ることになった」と、ご指摘なさります。今回の3・11東北震災は、関東大震災以上のインパクトをもつのではないかといってます。フクシマのことがありますからね。そうだとすると、この十年間、日本人は、歴史上比べられないほどの凄まじい崩壊感を抱えて生きていかなければならないわけです。カオスから生まれる新しいものとは・・・?Hiroさんが仰るように、新しい価値観が生まれてくることを期待しています。例えば、国家を選ぶという価値観が生まれてくるのではないでしょうか。東欧の人々、ユダヤ人やアイルランド人もそうですね、国家を絶対視しません。日本人は知識人をはじめ、国家を絶対視してきましたから。デモでは、一応どの世代の人々を目撃しますが、すべては、三十代と二十代にかかっていると思いますーこの十年だと思います。

・新宿デモをみた世界の声ーフランス人;フクシマ、わが愛 Fukushima mon amour ( フランス作家マグリッド・デュラスの「ヒロシマ、わが愛」を喚起する、励ましの言葉 )


・海外に行くと、日本食によく似た食べ物を提供するいわゆる日本レストランが乱立していて、酷い料理で土産話の種だ。同様に、「新聞」を名乗った、一見して新聞の言論機能を仮装した紙の塊が国内に流通している。「日本経済新聞」と称している紙の塊には論理がない。イタリア人が否決した理由が分らない

・志村けんのバカ殿コントで、南蛮渡来のバイオリンを羽子板ときめつけて、楽器であると諭す家来を刀で脅すというのがある。自己の狭い見識を下の者に押しつける傲慢なバカぶり。「日本経済新聞」の顔つきとそっくりだ。イタリア人の原発を拒否した意志を無視して、欧州の原発依存変わらずと伝えるとはね


・朝日新聞の夕刊に、小市民的な皮肉を得意顔で呟くコラムがある。昨日は、(間に合わせで考えた?)村上春樹の「非現実的夢想」路線を擁護したが、日本人は議論ばかりしているな、と溜息が出た。行動の時なのに。次の原発建設を止めさせることに失敗すれば、私達は殺されるだけだ、c'est tout


・「現実」を否定するつもりはないが、この国の現実論が優先した高度経済成長以来の「世の中の歪み」を思い出そう。列島改造の地価暴騰、オイルショック、バブル経済と続き、「狂喜」と「悲惨」を繰り返した。そして、極め付きは今度の原発事故だ。日本の現実論は過去の「教訓」を忘れることなのか。(ジャーナリスト)


No more Hiroshima, No more Fukushima!デモのスローガンは正しいと思うけれど、日本在住のアメリカ人(一部)の間に、非難されていると受け取る者もいるようだ。広島とは関係がないはずだと。誤解が起きない様に、そういう人がいたら、英語で説明してあげよう!例えば、こんな表現で説明するIt doesn't t matter related or unrelated, because people feel strongly enough to walk through the streets with that slogans !


新宿・脱原発をみた世界の声ー私自身;The aged feel strongly enough to walk through the streets of the capital, Tokyo 直接には関わりがない問題なのに、なんとかしてあげなくては!と街に繰り出た高齢者の人々

・なぜ、朝日新聞は、原発にかんする国民投票の実施に、賛成か反対か、と、国民にきかないんだろう?なぜ、いまさら、知事アンケートのような無駄な調査をするのだろうか?反対派も、賛成派も大いに意見を語れ、などと、説得する者もいるが、私には分らない。日本人は議論ばかりしている、行動の時なのに


・新宿・脱原発デモをみたイタリア人;No nuclear here!! For first time all people vote for NO. I dedicate my NO to Japan which is always in my heart心の友である日本のために

・知られざる霞ヶ関文学の代表作「隠蔽の帝国」がついに、一般公開。発売日は、xxx

・文部省と法務省への抗議文;こそこそと隠れて、人権を蹂躙する姑息な違法行為はやめなさい!外国人留学生に、「デモ等に参加しないことに同意します」の様な書類を書かせるとしたら、「思想良心の自由」に対する重大な侵害となります。日本は憲法と法の支配の国です、あなたたちの王国ではありません。

BIG SHAME ! The Japanese Government let the foreign students write such a documents as "I agree that I do not participate in demonstrations"

・バブル世代のおじさん達は昔、古い本を惜しまず棄てた若者でした。ツルツル綺麗な本は飾り物。自分に教養アリと勘違いの輩が多いです。実質的な憲法を学ばなかった世代で、公害反対の街頭ビラ配りは言論の自由と口にするが、実は、サラ金広告のビラの商売と勘違していました

・差別発言が飛び出すと、「だまされていた」と大声で告白し、こんどこそは「だまされない」と言うが、そういう口の下から又ぞろどうしても「だまされている」としか思えない投票行動を繰り返す。愛国心とは、外国で苦労した人々の恨みが迷惑に拡散したものと思うが、石原にそんな苦労があったのかしら?

・経産省と東電に直接会見を申し入れて抗議するデモが新橋で行われている。原発災害の深刻な被害に鑑みると、経産省の努力は全く不十分だが、会見に関しては、比較的誠意ある対応を示すという。酷いのは東電で、傲慢の極み。七十日間会期延長を拒む自民党を喚起する。お前達、自分を何様のつもりなんだ?

分類できないもの・無駄なもの・役に立たないもの

・プロフィール変更しました;ダブリンとロンドン滞在十二年の物書き。未来を思い出すエピキュリアン(実は駅ビル食堂専門のエキビルアン)、ジョイス多義的言語の解説・マジ?、反時代的なゴダール映画の紹介。隠蔽リアリズムimperialismに抗して、東京発脱原発デモを応援する世界の声を紹介

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ALSO SPRACH OWLCATO ふくろねこー、かく語り き 2011年月6月(3) 本多敬 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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