言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS アート 2010-2011    本多 敬

<<   作成日時 : 2011/06/23 01:45   >>

トラックバック 0 / コメント 0

アート

・スイスのユダヤ人で、世界的なジョイス研究者であるFritz Sennは、迷える私達によく言ってました;Never too late! 金子さん、 共に歩む、thinking formです! projection/répétition/durabilité

・ロマン主義芸術家の、政治リーダーとしての伝説。秩序というのは、多様な事象の背後に常に因果関係を見出そうとする。又、この多様な事象に、一定の目的の表象を拵えて一貫性を保持する。しかし理性は、この秩序を否定する力を内側に孕む。芸術と政治は必然として、この根源的な裂け目において結びつく


・ゴダール「ブリティッシュ・サウンド」のエッセンスは、芸術と政治は結びつくのかという問いかけに、に存する。ロマン主義芸術家の政治リーダーとしての伝説ーなぜ、芸術家は不正義に対して怒るのか?秩序というのは、多様な事象の背後に常に因果関係を見出そうとする。
又、この多様な事象に、一定の目的の表象を拵えて一貫性を保持する。しかし理性は、この秩序を否定する力を内に孕む。芸術と政治は必然として、この根源的裂け目において結びつく。旗(理性の笑み)を破る拳の如く 。ロマン主義芸術家の政治指導者としての役割は、バレンボイムによって提起された

・プッチーニ「ラ・ボエーム」は、革命が挫折した三十年代のパリを舞台としたオペラで、カルチェ・ラタンの屋根裏部屋に棲む、貧しい芸術家達を描いた。帝政の地上世界に属することを拒んだ、若者達の象徴的な生き様だ。ナポレオン三世治下のパリから遠く離れて、田舎へ行った印象派の画家達の原型である


・ロスコは自分の絵を展示するのに消極的だった人といわれていますが、実はターナを非常に敬愛していて、ターナの絵の傍だったらOKと、テートモダンに許可だしました。ウエールズのシュールレアリズムの詩人・プティ・パスカルのもとで、この絵が展示してある部屋で、沢山詩をつくりました。6時に閉館したあと、十人ぐらいのグループでその部屋を使わせてもらいました。絵からのインスピレーションですね、Red eye of forestという印象も、直接絵の前で書き綴った言葉なんです


Go! Go!! Stravinsky!!! I was the wild child mimicing and dancing " firebird" on the table responding to Stravinsky symphony.

・Have a gramophone in every grave or keep it in the house. After dinner on a Sunday. Put on poor old greatgrand-father Kraahraark! (Joyce)

・Ecomium moriae
L'imbècite veut parvenir de lui-même à des solutions péremptoires et définitives.Il veut clore à jamais une question.Example;""Think that there is not yet a dead person by nuclear power generation. What is criticized to nuclear power is very strange". A car keeps killing million person" (a famous businessman, neo-liberalist ideologist, pro-nuclear power)



・「趣味は議論せず」。だが、ふくろうねこはどうしても黙っていられない。ヌーベルバーグの映画人の名誉を守りたい。諸君がTLで称賛している映画は、シャブロルの本質とは全く関係がない。化粧品とファッション、高級車と豪邸、ルーチンワークの様に機械的に演じる怠慢な有名な俳優達、その寄せ集めだ

されど「趣味は議論できる」。今のフランス映画はなあ、とおっさん口調だが、もうおっさんなんだー「年齢不詳ですね」とよく言われるけど。フランス人は金持ちを演じるのが得意じゃない。彼らの本領は、人間とはなにか?という問い、ヌーベルバーグ風に言うと、映画とはなにか?という根源の問いなのさ


・フルトフェングラーは戦前のベルリンフィルの指揮者で、多くのユダヤ人の国外逃亡を助けた芸術家だったのですが、実際に演奏のときは、ナチスの旗で飾られた舞台で、仕事をしなければなりませんでした。ナチスのプロパガンダに利用されました。観客の意識にむかって、ドイツ音楽の擁護者としてのナチス像を植えつけるプロパガンダですね。結果的に、戦後ナチスの烙印をおされ、演奏中、爆弾が仕掛けらることも多々起きまして、事実上55年まで活動が出来きませんでした。ワルターなどユダヤ人の指揮者のなかにはフルトフェングラーを擁護する人たちがいましたが、カラヤンのように非難する者の声が大きかったのです。(ユンカー出身のカラヤンは実際に、ナチス党員だったはずですが)、現在に至って、フルトフェングラーはナチスとのかかわりがないと証明されていますが、ナチス時代に抗議の意思をはっきりと示す為に、ベルリンフィルの指揮者を辞職したほうがよかったのかもしれません。ただ、前述したように、楽団員のなかにユダヤ人が多く存在していて、当局の監視を逃れて彼らを安全に亡命させるには、指揮者として働いていたことが有利だったと判断したようです。

・アルバムやお見合い写真がなかった絶対王制の時代、スペイン外交使節は王子の肖像絵画をスエーデン王のもとに持参しました。エリザベスはグローブ座の一番目立つ所に座って自身の姿を誇示しました。王は昔はコイン、現在は紙幣のなかに描かれています。所有者は資本家ですね!



・絵というのは、色々な感想を吸収するから面白いですね。なぜ、顔が無いか(はっきりと描かないか)と言うと、やはりロンドンで描いたからだとおもいます。はっきりと自覚してはいなかったんですが。ご存知のように、ロンドンはマルチカルチュアリズムの都市ですから、地域によっては、白人は多数派ではありません。アフリカ系(黒人)、インド系、アイリッシュ系(彼らは50年代末まで、「白い黒人」でした)、そして、ユダヤ系とアラブ系の人々と共存しています。そうした人々が私の作品を見るんだということを常に意識します。顔を描くと、特定の人種に属する顔を表現することになり、幅広い共感を得るのがむつかしくなります。そういうことがありますね。ですから、ロンドンでは、抽象的な表現が、一種の約束事として、成り立っているように思います。勿論、スピノザは、無神論者だったとはいえ、アムステルダムのユダヤ人コミュ二ティーのなかで生きていました。ユダヤ教は偶像崇拝禁止で、顔を描かない文化ですね。そのことは考えていました。ただ、私はゴダール派なので、矛盾に直面してしまいます。映画というのは、クローズアップの歴史、つまり、顔を表現してきた芸術の歴史ですから。ゴダールによれば、レヴィナスを引用することによって、他者の顔を抹殺すべきでない、ということになります。顔を描くか、描くべきでないか、私の中で、まだ解決していない問題です

・昔、フランス人の友人の映画制作をすこし手伝ったときのことですが、パリの音響スタジオに、ブニエルの脚本家であったジャン・クロード・カリーエールがやってきました。ナレーションを引き受けてくれたのですが、フランス語でgraveという言葉があり、その顔が醜いを越えてですね・・・顔から圧倒的な存在の塊がにじみ出ていました。人間の顔は凄いものだなと震えました。カリエールの脚本のブニエル「昼顔」のなかで、カトリーヌ・ドヌーヴが娼婦小屋で、秘密の箱を開けて失神しますが、なにを見たのかは観客には分りません。後でエーコとの対談で、エーコ曰く、「箱の中には、カリエールさんの顔の写真があったんでしょう、だからドヌーヴは魅せられて気を失ったんです」と言っていました。その年、クリスマスのテレビ番組のトークショーに出演していて、「クリスマスなんて、他の宗教の信者からすると、ただの一日だ。フランス人はそういうことを自覚しなければならない」と、啓発しました。

・アイルランドの詩人の芸術家が、国営放送RTEの運営委員のひとりに選ばれたとき、記者会見が開かれました。視聴率を稼ぐ為にアメリカの芸能人の話ばかり喋って、アイルランドの伝統文化の破壊を手伝っている、このアホな放送局のスタジオをのっとろう、と呼びかけました。みんな、銃を持参してやって来い、俺が道案内してやるぜ!と繰り返していました。おおー、さすが、反逆児の国アイルランドだ、と、心が震えましたよ・笑

・シェークスピアの真夏の夜の夢の様に、スピノザの課題は、コギトに奪われた力を自然に返せ!です。「人間的な力への信頼」に抗議した大江はスピノザを喚起します。絵を描いたら、日本人が好きなフェルメールみたいだったと思いますね

・『襞』だけ読んでいなかったんですが、大変有意義な示唆を頂きました。添付画像のイメージに感心しています。全てコンセプトはここにあるのかなと気がつきはじめています。@sekken_club(『襞』)or彼とバディウの関係などを扱うには《実無限》の把握が不可欠と思われる。因に添付画像は

・ベートーヴェンのポリフォニーは、これ以上ない文字通りの意味での和声信仰消滅の表現なのだ。彼のポリフォニーが示しているのは、疎外された世界の調性に他ならない。晩年の音楽の多くには、身振りを交えながら一人小声で呟く男の様な趣がある。通り抜けていった牛をめぐる挿話(シューマン、Aより)


・弦楽四重奏曲へ長調135−優美な襞といったものを飽き足らなく思う気持ちを表現すること、つまり古典主義全体性を課題とすることへの不満を表現することだが、ベートベンの発展はそうした所から生まれたのである(アドルノ)。ジョイスの文学も然り。差異の実存的反復と形容できる裂け目があるのだ


・ベートーヴェンの憤りは、全体の部分への優位ということと関係がある。いわば限定されたもの、有機的なものは撥ねつけるのだ。メロディーが低音で鳴る際には、それが全体でないために憤ったものとなる。音楽自体が有限であることに対する憤り。どの主題も、無くした小銭に対する憤りといったものだ。A


・それは「学者的な点」と「遊び人的な点」とが、一体化されているウィーン古典音楽が、まるで再度両極端をなす構成要素へと、分割されたかのように見える。つまり精神化されている対位法と、洗練されず、中へ取り込まれていない「民衆性」という両極端へ。(Adorno、ベートーベン音楽の哲学)


・九十年代以降にアートや文学の輸出が国策の様相を呈し、今日ポストモダン的オリエンタリズムの状況が席巻している。西欧は自分に都合のいい様に日本人を見る。この買い手の欲望に対応して、売り手は、コミュニケーション能力が無くアニメのキャラの如く自虐に陥る、空虚としての他者像の商品を売った


・西欧が自分に都合よく見る他者像ー川端や三島の文学、溝口や小津の映画、荒木の写真に至るまで、コミュニケーション能力が無く自虐に陥る、空虚としての他者像を商品として輸出してきた。現在は中国映画やオリンピック開会式。厄介な事に、右翼がそういう「日本人」像を利用してナショナリズムを煽る


・ワグナー曰く、ギリシャ芸術の真の継承者はシェークスピア、ベートベンだけ。ボードレールはワグナー的だ。je veux , pour composer chastement mes églogues, coucher auprès du ciel, comme astrogues.

・Et, voisin des clochers,écouter en rêvant leurs hymnes solennels emportés par vent「芸術と革命」はゲール文芸復興運動の意義を理論化する。アベー劇場はpublic monksと揶揄したジョイスの反抗


pascalepoet Pascale Petit
#FF poets & friends @KatyEvansBush @InuaEllams @sallyevanz @poetniall @pittkethley @isobeldixon @peterwilkin1 @Betarish @AnneWelsh @owlcato


・Ce n'est pas parce que quelque chose est difficile que nous n'osons pas,mais c'est parce que nous n'osons pas qu'elle est difficile. Sénèque


・読まれるのではなく、主体的に読むべき本だ、と説得していますね。清き一票入れました。日本では、本来友情と連帯を説くアナーキズムとポストコロニアリズムの言説は、英国発信の外国人排除の新右翼的言説の影の下、歪曲されて展開しています。サンデルは意義深い覚醒です

・篠沢の仏語文法入門書。自ずと構造主義哲学の語彙と知識が身についた。英語の本にもこんな文例があれば面白いが。現在完了形;Belgium hasn't had government for eight months and the state functions just fine


・アーチストは、芸術とは何か?と自己定義の検証を行う。この問いは、他者からの問いかけのなかに投げ込まれている。「それは真の芸術じゃない」と判断する権利を万人が持っている。美的判断は民主的。ジャーナリストと同様、疎外された人々に接近していくが、劇団の様に、外部から影響を受けない


the despaire of art
and its desperate attempt
at creating the imperishable
out of perishable things
out of words, sounds
stones, colours
so that the space thus given from may last
down the ages


芸術の絶望/滅びゆくものから/言葉、音、石、色から/不朽のものを創り出そうとする/ その絶望的な試み。/ 形をまとった空間が/ 時代を超越して保たれてゆくために


・軸をきっちり定めて、あとは奔放で開けた気持ちでいたい。ガチガチに固まって萎縮している自分がいる。鉛筆を使いたくなくなったのは、そんな状態を打破したかったからなんだろう。まずい部分を消して隠す行為を断ちたかった。むしろ失敗をどう面白みとして生かせるか。自分を受け入れることに繋がる。


・世話する能力とは?関係の"親しさが指標となるcoherentでtotalな能力だ。エコノミーの能力はporous、"侵入しやすさ"、至る所微分不可能な欲望の線に沿って移動する能力。移民とアーチストは二つの能力が調和する国なら、社会societyを築ける。日本人よ、世話をしよう!



・『訳の分からない作品は「解説書」でも無い限りその時点でシャットアウトしてしまう』・・・それがごく一般的である事が問題だ。浅田彰が指摘したポストモダン的オリエンタリズムの、空白で自虐的な響き、紋切り型のなかに、アートを整理してしまえとする言葉の横柄さを読み取れる?

・私は作り手を信頼する。どんな作品であれ、作り手と鑑賞者が共有する存在構造と考える。言語の存在構造のように。シャットダウンするとしたら、鑑賞者は作品を通して自己卑下しか表現していないからだ。他方、アートを定義するよき、避けなければならないのは、言葉しか語らない言葉だ。そうでないと、言葉に横柄さを遊ばせることになるから

・アート作品は作り手と鑑賞者が共有する存在構造だ。言語の存在構造のように。シャットダウンするとしたら、鑑賞者は作品を通して自己卑下しか表現していないからだ。芸術家が鑑賞者である場合も同様だ。特にアートの定義で危険なのは、言葉しか語らない言葉だ。言葉に横柄さを遊ばせてはならない
・ナワトル語 cītlallohtihca【動詞】星々のあいだに立つ

・大島や大江や寺山の世界は表現力だけでなく、西欧人が期待する日本人像を裏切る、思想的破壊力を持った。だからアジアも評価する理由だ。世界は日本の現代詩を待っている。私は英語で詩を書いている。現代アートと協力し合えないだろうか


・一月十日、今日はフリーメーソンの日。BBCはこの数日間、モーツアルトを流しているが、フリーメーソンの日と関係あるのだろう。日本人のアーチスト観はフリーメーソン的と思える。芸術家=職人として称える。しかし、職人はリスクを負わない創意なき官僚と酷評するゴダールの意見もある

・la rencontre entre Don Quichotte et l'excavatrice géante à ciel ouvert


・二年前「ザ・ガーディアン」紙の記事で、古代ギリシャにも今日の様な金融バブル崩壊が起きた結果、煩悶するギリシャ悲劇の喪失感の主題が現れ始めたと指摘していた。民主制とマーケットと演劇、この三つはどのように繋がっているのだろうか?興味深いテーマ。アドルノ的形而上学的否定+唯物論的肯定、という印象を持った


・日本人が思い描くイギリス人のステレオタイプ、もの静かに喋る、節操ある人達。彼らは成熟したモラリストなのか?冗談じゃない!英国国教会の厳格な行動規範に過ぎない。もの静かに喋る態度、この英国社会を蝕む抑圧を攻撃したのが、ギルバート&ジョージ(Gilbert and George)だ


・ボロックの絵といえば、テートモダンの学芸員からきいた話で、8歳以下の子供の眼からは、踊っている木の姿とか色々な具象がはっきり見えるそうだ。現代絵画を描くワークショップがあり、親子で参加する。私の印象だが、日本人は、映像から迫害されているのでは?


・西洋絵画は、表現の領域に満足する事はないようにみえる。ジオットとダンテ、ルネサンス前夜の巨匠。しかし、ケネス・クラークはダンテが上と言い。表と裏、天国と地獄、限界を超えてモラルの新しい領域を積極的に表現したからだ。日本画は西欧絵画のように表現の限界を挑むと、いたずらに形骸化する危険がある、と、ある日本画家は警告した。日本画は、その構成要素たる差別や死を描くべきと説いている


・はじまるのはテーブルから / 椅子のときもある / 靴だったかもしれない / でも戻って来てしまうのはここ、 / なにもうつらない鏡 /崩壊の静寂さ / わたしはこの土地を /さまよった / どこにもいた / けれども、わたしの土地はみつからなかった

・ロンドンで書いたこの英語詩を、facebookで公開したら、大勢のアメリカ人から反響があった。「私達の、この一年間の気持ちをぴったり表現している」というのだ。どうやら、オバマ支持者達であったX世代の落胆と喪失感の事らしい。日本の新聞が伝えるホワイトハウスのマッチョなイメージとは違う


代補と本源を巡るシーソーゲーム。人は代補から本源ヘと遡る事を望むが、本源において代補が存在する。デリダの分析は、マルクスが「価値形式論」で描いた、相対価値形式と等価形式の間のシーソーゲームのスケッチに負うている。サルトルと構造主義、ポスト構造主義は、マルクスから誕生した鬼子なのだ


・代補と本源を巡るシーソーゲーム。西欧は本源、アジアは代理?否、逆だ。前者は代理、後者は本源だ。しかし誰も断定できない。デリダの示唆;人は代補から本源ヘと遡ることを望むが、本源において代補が存在すると認めざるを得ない。西欧にも文芸復古運動があったし、アジアにも前衛運動が存在した


・西欧が期待する日本人像。アニメみたいに空虚で自己主張しない不思議なオブジェとしての日本人。浅田彰は、アート界で流通するポストモダン的オリエンタリズムを嘆く。グロテスクな中国像は西欧のアジア差別も、日本人は欧米人の如し。中国との貿易でアフリカの経済自立が進んでいる話は全くタブーだ


・女性を「大地の母」か「幽霊」にしか描けない封建的主義的観念をやめて欲しい。そういう観念にしかリアリティーを感じない日本の観客は恥だが、追従する演劇も犯罪だ。西欧視察した長内薫の知的食欲を思い出せ。ポストコロニアリズム+フェミニズムの思想を取り込めない日本演劇は、決定的に時代遅れ


・マルクスは、古典経済学をユートピア的ロマン主義の政治学と相伴なわせることによって、つまり、非対称性としての「商品」の欲望を批評することによって、「私=私」というドイツ哲学の展開を批判的に分析した。そのシンメトリーの鏡像的な世界、芸術至上主義は虚なのだ。全てが自身を越えていくからだ

・NE CHANGE RIEN POUR QUE TOUTE SOIT DIFFÉRENT なにも変えてはならない、すべてが違ったものとなるように! (CHANGE NOTHING SO THAT ALL CAN BE DIFFERENT)

・美大生との対話。「個性的なもの」は即ち構想力(想像力;事物を関連づける能力)。自己の対象たる感性的領域を越え出て、内省的対話(又は対話的内省)の場である超感性的領域に向かおうとする。結局、理性だけが「超感性的な目的地」を持つのではない。構想力(想像力)もまたそれを持つ

・人間においてすべての能力が自身の限界を超える。理性は自己の対象たる超感性的領域(正義や公平という理念)を越え出て、感性的領域に向かおうとする。つまり理性は「見ること」を欲する。自己実現を要求する。構想力(見る能力)は、自己の対象たる感性領域を超えて、正義や公平を見ることを欲する。

・The New York Times;The High Cost Of Machismo反戦を訴えるもイラク開戦を支持した新聞。欧州ラテン系諸国が債務処理問題で苦しんでいるのは女性の自立が遅れている事実と関係ありという統計を発表。統計学が自己の領域を離れインチキな説教師となる例

・プロスペローの魔術とは、棒でサークルを描き、自己が属する内部の領域と外部の領域を確定する事だった。知が(自己で線引きした)自己の実定的な領域、事実が支配する関数関係の世界に留まる言説を、近代経済学といい、知が事実の領域から越え出てモラルの領域に到る言説を、マルクス経済学という。

・マルクス経済学の問題提起は、資本主義世界崩壊の分析でも、社会主義世界の到来の預言でもなかった。事実を対象とする客観的・実証的な知が常に、自身の視野の外へ出ていこうとすること、事実に根拠をもたないモラルの領域(正義、公平、究極の目的)に辿り着く理性の運動を明らかにしたことだった。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
アート 2010-2011    本多 敬 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる