言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCATO ふくろねこー、かく語り き 2011年月7月 本多敬

<<   作成日時 : 2011/07/02 17:07   >>

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思想・哲学


精神分析を精神分析する;フロイトが切り開いた精神分析は、Imaginary vs. Realという、ユダヤ教的テーマに密接に関わっていました。「ネットの世界にのめり込むとそこが現実だと錯覚してしまう人達がいる」のは、実は、今はじまった話ではありません。そういう人たちを、黄金の子牛を祭って非現実的な虚構世界に生きる、異端の者達として、モーゼは厳しく弾劾しました。しかし、アロンのように、黄金の子牛を祭る異端の者達からすると、言葉の世界(=十戒)に生きるこのモーゼこそ、リアリティーが無いのです。いつの時代でも「現実」は単純に分割されることはありません。今回、原発問題で考えたことは、現実はそれほど現実なのだろうか?非現実はそれほど非現実なのだろうか?、ということです。現実派の人々は、現実を支えるパッションがなく、曖昧に、核と、それに支えられた生活を肯定しているだけです




ストローヴ=ユイレ監督が、シェーンベルクの「モーゼとアロン」を映画化した。シェンベルクは自身を思想家モーゼに演出家をアロンに、喩えていたのではないか。演劇界での演出家の優越的地位に疑問を持っていたから


・「あちらのパラソル、こちらのパラソルに投げキッス~浮気な人ね」(PINK LADY)。経済学という名のシンドバットも、民主主義と市場とが両立しなければ、国家重視のケインズ経済学に投げキッス!民主主義と国家とが両立しなくなると、市場重視の新古典経済学に投げキッス、ああ、浮気な人ね!

"the womb that bore you and the paps I sometimes sucked"(James Joyce). However the reality is not easy, any society should keep the idea on reciprocal relationship of "you" and " I".

子安宣邦氏のツイート

「三民主義の意味は民有、民治、民享、すなわち国家は人民の共有、政治は人民の共同管理、利益は人民の共同享受ということに他ならない。」(「民生主義」第2項)私はこの孫文の言葉を橘の「中国共産党批判」の文章中に見出した。辛亥革命の百年を間もなく迎える。

・昔は皆、ミクロ経済学が無味乾燥でした・笑。ケインズは、アインシュタイン重力理論を念頭において、物価を重視する古典経済学(ミクロ経済学)を特殊理論、雇用を重視する自分の経済学を一般理論と位置づけました。低い賃金水準なのに雇用が改善されないまま均衡状態を保つのは何故かと

・何かと結びつける能力は、「構想力」(カント)ですね。(それは物理学である。それは法律学である、それは対象Xである)。構想力は、感性的なものの外では自らの支えとするものは何も見出すことができないのに、なぜ。芸術において自らを無限なものと感じるのか、これが私の探求です!


日本の学者の場合、「経済法」という、自分た​ちの縄張りを守りたい人が多いので、研究対象の独占禁止​法を経済の次元に囲い込んできましたよ。他方、官僚は官​僚で、独占禁止法を憲法と結びつけてしまうことに警戒す​るでしょう。そうしてしまうと、日本共産党の主張を全面​的にみとめることになりかねないからでしょう。しかし、​昨日、サンデルの「公共哲学」を読んでいたとき、こんな​パッセージをみつけました。「・・・ローズベルトの目的​は、大企業による政府の支配を弱めることだけではなかっ​た。アメリカ国民の自己認識を拡大することによって、か​れのいう「純粋にして永遠なる道徳的覚醒」を促し、「広​義にわたるナショナリズムの精神」を浸透させることであ​った。制度改革のプログラムである以上に、新たな国民意​識を育もうとする形成的なプロジェクトであったのである​」。この一文を読むと、独占禁止法と情報公開は、民主政​治において、互いに切り離せない関係にあることがわかり​ます。例えば、3・11の東北震災以降、脱原発というテ​ーマで「再生」を求めるナショナリズムが生まれつつある​現在、外部を排除した政府と記者クラブの特権的な癒着は​、国民の自己認識にとって、積極的な意義があるのかどう​か、非常に疑問に思います。情報の希少性という視点は、​国民の自己認識との関係を無視するわけにはいかないでし​ょう・・・



・「偶像崇拝禁止」とはなにか?例えば、神様を描いたみたいな、禁じられた映像に関係した事柄と考えていたが、ロンドンのユダヤ人達によると、そういうことに限定されない。人間たちにとって、都合がいい、自己完結した観念を捏造する態度も、「偶像崇拝」とみなされるのだ。「完全に安全な原発」の如し

・阿呆というのは、一見したところ、正しく思考しているような印象をうけます。何がしっくりこないのか即座には認めがたいし、それが阿呆の厄介なところなのです。例えば、阿呆は言います。「原発が多い国は雇用が多い。雇用が多いのは日本である。ゆえに、日本は、原発が多い国とならなければならない」

・北大の阿呆はこう言っているに過ぎません。「1.神(=原発)は完全である。2.頭の中にしか存在しない神は、頭の中に存在し且つ事実において存在する神と比べたら、不完全である。これはおかしい。3。ゆえに、神(=原発)は完全であるなら、、かならず存在しなければならない」(お見事、拍手!)


言葉・表現・本

・To represent the voiceless voice, and to embrace one people and one land..

・the reality is that TV is waching Japanese as the colonized prisonner in their bed room

・大島「夏の妹」;ある日、少女は、沖縄の青年から手紙を受け取り​、夏休みを利用して、兄と称する彼に会うため沖縄へ行く、という​設定。沖縄と日本の関係を物語る映画である。ジョイスのフィネガ​ンズ・ウエィクの言葉は、この映画のエッセンスを物語る。「君を​産んだ子宮と僕も時々吸った乳房を断じて否認する僕。僕が無かっ​たかもしれないすべてのもの。君もなるつもりだったものにならず​、それになっていないという痙攣性強迫観念につきまとわれ、・・僕が​女のように守ることのできなかったあの無垢を男のように嘆き、あ​れ以来、酔っ払い踊りとジムジャムの黒い塊となっている君」。大島「夏の妹」は、創造社最後の作品となった。

・詩人Ao_69 えにくすの言葉

本多先生の「ふくろうねこ(=マスコットキャラ?)」が以前から気になっていたのでいったん解剖し、図像学的な意味を纏めてみました。

『あゆひ抄』の「神しるし」=日本古来の歌論に見られる言葉ですが、「成文:神をかくしてしるしのあらはなるをいふ(里言:火をちらして戦ふ / 腹をよりてわらふ / 土さへさけて照日 / 思ひ出るぞ消てかなしき)」存在ではなく現象、幽玄はシュルレアリスムに通じます。
ずっと「詩人にぴったり」と感じて居りました。特に、「猫の立ち居振る舞い」は現に於いて余りにしなやか。音で言えば、「都節音階・琉球音階・ガムランの音色」など。歌学では「神しるし」の手触り。「夢の文脈」が相応しい。夢現を気ままに「往来する者(伝令?)」と感じます。

【梟】夜を象徴するため、太陽信仰とは対極に置かれる傾向がある。主に、哲学・予言力・叡智・賢者・長老・孤独・絶望・冬・辛い時期・夜番・無音・人が寝静まってからの研究・詩神や魔女の使いの鳥を指し、ネイティブの信仰に属し、組織的な宗教に於いては不吉の象徴であることが多い。

【猫】太陽と月の両義性を持つが、ライオンを対として月の側面を顕すことが多い。母性・予知力・自由・個人主義・策略・用心・好色・怠惰・憂鬱・魔女の使い魔・シンデレラのマント(輝きと灰かむりの二面性)・演劇で猫を引き裂くことにより「豪胆な英雄」を顕すことがある(ヘロデ・ヘラクレス)等。




・Artaud rejected realism in theatre, calling for a return to myth & magic & to the exposure of the deepest conflicts within the human mind.

・日本の最高裁の裁判官たちは、米国起源の憲法判断回避ルールの真意を全く理解せず、ただ真似しているだけ。この愚かな現実を、どう考えたらいいのでしょうか?驚くべきことに、今日、古代ラテン語の法諺の紋きり型が作動しています。「解釈は法律が無効になるよりは、むしろ有効になるべし」Interpretatio fienda, est ut res magis valeat quam pereat。 その結果、日本では、違憲となる法律が一切存在しません。

・ちなみに。憲法判断回避ルールはそもそも、アメリカ人裁判官達のプロフェッショナルな自己責任的な基準なのです。ところが、呆れたことに、日本の裁判官達は憲法判断をしなくてもいいという口実にしています。

・それどころか、日本の最高裁裁判官のなかには、「判決」だけ出して、「理由」を書かない輩が大勢います。当たり前だとおもっているんですよ、信じられますか?この傲慢な素人集団に対して、もっとはっきり言うべきなのでしょうか。

あなたたちの「パーソナルな」法を国民に押しつけないでください!

あなたたちがどんな「偶像」を拝むのは勝手ですが、しかし、「憲法」と称して、その「偶像」を私達に押しつけないでください!
裁判官「個人」の「支配」は、「法の支配」とはいえません。勿論、文明civilizationとも関係がありません。それは、法なき野蛮の支配にほかなりません



[前回の続き]。FW面白トピックス100;

わが過失、彼の過失、過失を通しての王者の近縁性!下層民、人食いカイン、君を産んだ子宮と僕も時々吸った乳房を断じて否認する僕。僕が無かったかもしれないすべてのもの。君もなるつもりだったものにならず、それになっていないという痙攣性強迫観念につきまとわれ、僕が女のように守ることのできなかったあの無垢を男のように嘆き、あれ以来、酔っ払い踊りとジムジャムの黒い塊となっている君、ああ、そこなる君、キャスモン・カーベリー、今、麻の屋敷で一人になる終祷の時間に近づく前に、そして・・
われらが吐息を風に向かって吹きかける前に、いまだ不完全に悔いるわが心の深奥から、君の青春の日々がわが日々と混ざり合う、映画に感謝。(宮田訳より。「慈悲の人」の自己弁護で、ショーンの非難を受けたシェムであるが、「君」と「僕」は等価、母親の前では互いに変わりうる存在)

FW;

My fault, his fault, a kingship through a fault! Pariah,cannibal Cain, I who oathily forswore the womb that bore you and the paps I sometimes sucked, you who ever since have been one black mass of jigs and jimjams, haunted by a convulsionary sence of not having been or being all that I might have been of you meant to becoming, bewailing loke a man that innocence which I could not defend like a woman, lo you there, Cathmon-Carbery, and thank
Movies from the innermost depths of my still attrite heart Wherein the days of youyouth are evermixed mimine.



I know it when I see it

潔癖の自己欺瞞の中心だったアメリカ50年代とはいえ、この映画がねー!???日本で毎日、放映されている、テレビの、ごく平凡な駆け落ちのメロドラマなんですがねー昔、これを教材に、初級のフランス語を教えてたことがありますが、接吻ぐらいしか濡れ場がなかったと記憶してますが・・・駆け落ちという行為が問題なんですね。そうでないとしたら・・・フランス映画一般のイメージに対する偏見でしょう。アングロサクソンは、フランス文学を娼婦の文学とみなしてますから。やはり、一体、なにが判断の対象となっているのか、明確に示すべきでしょう。「それ」を定義しないとね・・ 本音は、「見なくとも分る」程度の偏見でしょう・笑。

「I」のことですが、法律の世界では、「わたし」と「あなた」と「世間」の三者が含まれているといえます。猥褻罪についてまともに論じるのは嫌なのですが、一応これをみとめたとしてですね、例えば、裁判官は、「合理的なわたし」が見て猥褻でないこと、「合理的なあなた」が見て猥褻でないこと、「合理的な世間」が見て猥褻でないことを検証していきます。しかし、これは建前です。結局全部裁判官の主観で決めることです。もし、裁判官にとって、「あなた」か「世間」に属する、この私が「猥褻でない」と発言したとしましょう。たちまち、私は、「非合理」か「不合理」なものとして排除されてしまうというわけです。そういう意味で、猥褻罪は、正常か異常かでマーキングすることをみとめてしまう、ナチス的な発想に行き着く法律です。表現主義やダダといった、人類の財産ともいえべき芸術が、ユダヤ人がつくったというだけの理由で、または、娼婦やジプシーや同性愛者を描いているという理由をもって、猥褻で堕落した退廃芸術として、没収されてしまったのですから。これに関連して、ナチスのファシズムと同様に、50年代アメリカは反共の時代で、キリスト教のモラルがイデオロギー的に働いていたことがあります。ですから、「I」は、そういう恐ろしく共同体的な自我ですね。これは私の意見ですが、この共同体的な自我は、個人が「見る」ように「見る」のものなのでしょうか?非常に疑問です。だから、we know it when we see itと、言うべきでしょう。でもそうだと、色々と問題があるのでしょう。

・大島「天草四郎時貞」。「島原の乱」という歴史的な時代設定をもって、七十年代全共闘運動の戦略を検証した。反抗する故郷喪失者達は問う;闘いに出て、死によって、超越的な天を獲得すべきか、又は、生き延びて信仰を続けて、地上世界に留まるべきか。天草達はこの両方を拒んだ。思想的自立性へ歩んだ

・戦後イタリア映画の女性達は、祖国の占領ということに関心がない​。そんなことはどうでもよろしい。愛が存在するか、愛されている​かが全てなのだ。大島「マックス、わが愛」に反発した観客達は、​非人間的な世界への服従を感じたかもしれない。愛の内部に、どん​なXも存在し得る事実に目を背けてしまった

アート


・「ドキュマン」誌刊行によって、シューレアリズ運動の中心をなす、バタイユの影響圏に、エイゼンシュタインは向かっていった。「顔」に関する宇宙論的探求は、モンタージュ理論の体系的な知からは導き出せない、神秘主義の反響だ。ゴダールの編集は、エイゼンシュタインの継承ゆえに、自動筆記的なのだ

と、ドラキュラの散策はつづく・・・

映画・演劇

・大島「少年」;辺境地を移動する父の心像風景において、刻印される表徴は、「ここまで我らの領土」とする愛国的征服である。この征服の線は、「家族」の領域も横断する。ブルジョアの貪欲な開拓精神が痙攣しだす。この父の傍らで、「無表情」の避難地へ亡命した少年は、説明可能な世界の外部で遊ぶのだ

大島渚「絞首刑」は、68年パリ革命前夜に上映された。昨年ダブリン上映のためにプロダクションとの交渉を手伝った。国家権力の暴力たる死刑制度に対して、五十年代の日本人は七割近くが反対したが、現在は八割が賛成。この歴史的な問題を人間的条件の問題に、サルトル的主題に還元していいのだろうか

・愛のコリーダ;記憶というのは、絶えず発明することが必要だ。やめてしまうと化石となる。
大島の戦時中の自慢話。軍部の没収と母親による処分を避けて、彼は父の蔵書・ロシア版資本論を壷に隠して地中に埋めたという。この記憶は愛のイマージュに変容する。サダは切断した吉のペニスを膣の中に埋め込む
2時間前
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@Ao_69allusiveという語がぴったりですが、ダブリンもロンドンも、足元に神話と歴史が埋もれている感じで、京都も同じなんだろうと推察します。「君を産んだ子宮と僕も時々吸った乳房を断じて否認する僕」ですが、訳者の宮田さんは、ジョイスに、母性的なものを感じ取っている方でした。

・ゴダールは、サルトル主義者にも関わらず、現象学的存在論には立たない。ハンガリー動乱まで沈黙した、サルトルのスターリンに対する曖昧な態度と関係があるかもしれない。さて、「感性的なもの」とは、即ち「全体的なもの」、結局「存在」だ。これらは、中心に向かう沈黙を美しく正当化する幻想なのだ



・映画という射影の構造は、人間に於ける内省の構造を喚起する。この構造と関係をもつのは、感性か、理性か?ヌーヴェルバーガーならば、感性と答える。しかしゴダールは理性と言うだろうー想像力の働きを擬制する理性を念頭に置いて。想像力とは、ゴダールにとって、人民戦線的な、統一ならざる統一の力


・グローバリズムの父の汚名を消さんとする者は、スミス「道徳感情論」を指差す。心の痛みの分かち合いを説いた本で、富者と貧者の間の社会民主的和解の成立を示唆する。大島渚「愛と希望の街」は、この種の体制協調主義と、戦後の似非ヒューマニズム的日本映画が、搾取を隠蔽した詐欺の「鳩」と暴露した



・戦地での捕虜収容所を舞台にした大島渚「戦場のメリークリスマス」では、自身の抱えた全体性の幻想から抑圧を受けたあげく、真のコミュニケーションの主体となって他者と自由に出会うことができない男性達の悲劇を描き出している。「我々」と「彼等」という排他的な分割線を引くことを覚えたあげく、そこには生きる喜びといったものが拒まれ、疎外の現実の中でしか真実が語られない。復古主義の政治が規律と効率による経済の原理と結びつくとき、選別と支配によって成る「捕虜収容所」で、ただ動物のように生存の手段にしがみついている惨めな日本人という姿しか目撃されないであろう。

・ゴダール六十年の歩み。前衛芸術と大衆文化が共存した五十年代は、体制協調主義的。六十年代の芸術至上主義。六十年後半から七十年代前半の極左主義。七十年代は、ミッテラン下の左翼右翼の連立、EU、実験的自主制作。八十年代から思想的自立性へ。ネオリベと戦争の九十年代。スイスという外部の領域

・大島「白昼の通り魔」;
大島曰く、映画をつくること、それは世界に罪をもたらすことにほかならない、と。映画は、犯罪者の狂態にぶつかっていく。日本人のプチブル的なリアリズ​ムと、健全なバラ​ンス感覚を軽蔑して嘲笑う。人間の、(なに​によっても囲まれない)愚鈍さを、シンボリックに表現する


・大島「忍者武芸張」;
現代生活を形づくるグローバルなメディアと市場は、境界や帰属を超えた世界へと私達を招き入れる。こうした勢力に打ち勝つ人間の資質が「忍者」だ。「忍者」によって、場所や物語、記憶や意味、出来事とアイデンティティが蘇る。日本人を世界に位置づけ、道徳的独自性を与えるのだ

・大島「小さな冒険旅行」;
家の外へ迷い出た子供が東京中の名所を巡り無事家に辿り着くまでを描く。大島は、建築労働者にオペラを歌わせていて、原案者の石原慎太郎は不快だったかも。憎しみは憎し返しによって増大され、反対に、愛によって除去される、と、大島は、迷子の子供=石原に教え諭している!

・大島「新宿泥棒日記」;
これは割れた仮面である。これは舞台の逆​立ちである。これは神殿としてのテントである。こうして、構想力​は、感性的なものの外では自らの支えとするものは何も見出す事が​できないのに、なぜ、芸術に於いて自らを無限なものと感じるのか​。理性から理性を盗む泥棒によって、である

・河内さん、完全同意です。「この映画、メタファーとして今の日本にマッチする」。メッセージと、不正義に対する怒り、身振りとジェスチャーが、ひとつになっていますね。いまの私達は、怒っていますが、しかし、それを、どういう身振りとジェスチャーで表現していいのか分らないのではないでしょうか。ちなみに、50年代は、日本映画の黄金時代第二期といわれ、黒澤・小津・溝口といった、成熟した、世界的な名声があるのですが、(現在の中国映画と同様に)、空ろなんです。(ちなみに、豪華な観光ポスターみたいに空ろな?、北京オリンピックの美術は、「赤いコーリャン」の監督が担当しました)。芸術の用語を援用すると、理性の笑み、啓蒙と新古典主義的調和の世界ですね。黒澤・小津・溝口は、戦後の川端文学みたいに、西欧の人々が自分達の都合がいいように、「読みたい・見たい」日本人を、絵葉書の写真のごとく、描いた監督達といえます。しかし、この「絞首刑」には、(それらを)、全部吹っ飛ばす、怒りのエネルギーが渦巻いています。日本映画黄金期第三期の出発をなす作品として位置づけできる作品です。

・第五世代,あるいは第六世代と呼ばれる監督達から、本当の中国映画がはじまる​んだろうと期待しています。かれらの作品は、イタリアのネオリアリズム、または、大島の、不​正義に対する怒りを体現した、ロマン主義的な問題意識を​喚起しますね。大島の、不​正義に対する怒りを体現した、ロマン主義的な問題意識を​喚起しますね。


・「儀式」;
大島は、啓蒙と理性の笑み、新劇の新古典主義的な世界を拒否した。あえて、ファシズム的といえる、画一的身振りを強制する演出によって、日本人の、不正義に対する怒りを生き生きと表現できると考えた。日本映画において儀式化した、西欧が自分の都合がいいように見たい日本人像を、嘲弄した

・大島「マックス、わが愛」;
この映画を観るたびに、幸運にも、脚本家カリエールに、「何故書き続けるのですか?」 と直に質問したときのことを思い出す。「文学を、人文科学者エラスムスに帰したいから」と答えた。このマックス(猿)が、エラスムスに思えてならないのだが、pointlessかなー

・大島「宵闇せまれば」;
アパートの一室に集まった4人の若者が開​いたガス栓を放置して、誰が最後まで残れるか危険な賭けをする。​この映画は、中流意識の反映といえる、世界文学という体系的で​コンパクトな幻想を、嘲弄している。密室で息苦しい中、あえてこの幻想を捨てて、外部へ脱出しないのだ

・大島「太陽の墓場」;
日本は、「ソ連衛星国」という様な意味では、「独立」した国家だが、「アメリカ資本主義」という側面において、被占領地帯である。大阪のドヤ街を舞台に、血売屋や愚連隊の抗争の描写を通して、戦後日本のファシズムの、新たにアメリカ資本主義と築く協力関係を、寓意的に告発した

・大島「青春残酷物語」;
監督の仕事は壺の中に迷い込んだ蠅を逃がしてやること、換言すると、死の島である日本の中に迷い込んでしまった若者達をそこから脱出させるには、エロスである他者が発する声の領域の方へ一歩一歩と歩ませるしか方法がないのだ。映画は、放火と死に隣接した不在の空白を映し出す


戦後イタリア映の女性達は、祖国の被占領ということに​関心がない。そんなことはどうでもよろしい。愛が存在す​るか?この問いから真の抵抗が生まれた。大島「マックス​、わが愛」に反発した観客は、非人間的な世界への服従に​敏感なあまり、愛の内部にどんなXも存在する、互酬原理​に目を背けてしまった

「マックス、わが愛」は、興行的に大失敗であった。大島は十年間、映画の​仕事がなかった。事実上、日本映画の黄金期第三期の幕引きだ。​世界に発言してきた、日本映画の圧倒的な存在感は、消滅した。今日では、娯楽の限られた領域で、見世物的なポスト=オリエンリズムのジャンルで存​続するだけだ

フェリー二は非政治的にもかかわらず、現在、政治運動の若いイタリア人に熱狂的に支持されています。カリエールとエーコの対談@spiral_cat唯一例外は「フェリーニのアマルコルド」。「猥雑さ」はフェリーニにお決まりの形容句ですが、ファシズム何処吹く風、人々の猥雑な生活、精神の自由!

外国


・自殺未遂は、公の統計にカウントされないのかな?この自​殺未遂の問題は無視しちゃいけないと思うよ。ところで、​映画監督の大島渚は、抑圧的な日本社会では、うつ病にな​るか、自殺するか、発狂するしか選択が無いのだ、と発言​していたが、単純な極論かな?しかし、はっきりいってし​まえば、日本社会には、「個人」なんか存在しないんだか​ら、自殺の原因を全部、政治的・社会的。経済的な原因に​還元して考えてもいいと思う。そう考えて、この問題に取​り組まないと、お上に誤魔化されてしまいそうで。学校や​会社のときは全体責任の集団幻想、自殺のときは自己責任​の個人幻想・・・なんか都合がいい話だ

・エピキュロス的な考え方からすれば、自殺​は、主体の自由意志として尊重されるべきもの、だから、​私は自殺を肯定するね。意志として選んだ自殺は、非難す​べきものじゃないと思う。自由意志がない自殺は、自殺と​いうべきではないと思う。そうすると、日本の「自殺」の​殆どが、「半ー他殺」じゃないかな?いま、なにか、説得​力ある適切な言葉がみつからないんだけどね。

・私が長年滞在したアイルランドは、カトリッ​クが非常に強い国で、最近まで、離婚が憲法で禁じられて​いました。中絶は、いかなる理由においても、禁じられて​います。中絶は、医師と患者の両方が、刑罰に処せられま​す。(ですから、結構、年配の方たちのなかには、捨て子​の人が多いので驚きました。若い人たちは、イギリス、あ​るいは、北アイルランドへ行って手術をします。)。社会​問題となったのは、レイプされて妊娠した少女達の自殺の​増加でした。レイプの場合は、未青年(少女)にかぎって、自殺の危険​性を裁判所付の心理学者が認めたら、中絶を制限的に認め​ようという声があがりました。これに対して、中絶反対派​は、「自殺するのは、子供を産ませないからだ。もし、中​絶をみとめるから、つまり、中絶をゆるす自己決定権の文​化を押し付けるから、母親としてのアイデンティティーを​失い、このことが原因で、自殺する者が増えことになるの​だる」と抗議しました。少女の自殺の解釈を巡って、意見​が真っ二つになりました。世論も大きく割れました。国民​投票となりました。要するに、自殺というのは、文化的な​体制のなかで起きる現象だ、と、そのとき、私は思いまし​たね。

・社会問題を語るふりをして自分の話をしている場合もあり​ますし、自分の話をしているふりをして社会問題を語ろう​としているか、あるいは、自分でははっきりと気がつかな​いまま、自分の話の中で、社会問題を語っている場合も、​ありますが・・・誰が、このことを禁じるのですか?

・アイルランド滞在中、現地の女子高へ行って、日本語を教​えることがありました。初めて女性の大統領を出した、学​校でしたから、カトリックのなかのカトリックという側面​と、時代をリードするリベラルな精神を誇りとする側面が​ありました。日本の文化の話に及ぶと、中絶の話に関する​質問が必ず、出ました。悩む生徒が多いのです。やはり自​分の問題として、考えるように努力しました。自己決定権​という考え方ですね、ただ、中絶を否定する場合、そのま​ま、アイルランドのエスタブリッシュメントの歴史を否定​することになります。決定的な信頼関係を崩す危険もあり​ます。私は、女性の自己決定権を擁護しました。その結果​、即、首になりましたね。覚悟はしていましたが、非常に​厳しいものだなと痛感しました。

・それはそれとして・・・不確実な事柄にたいして、セック​スと死というのは、思考をはっきりとさせてくれるものな​んだと思います。ハリウッド映画の歴史というのも、se​x とgun(死)をスクリーン上に映し出してきた歴史とい​えます。観客の思考に働きかけるものだからですー良くも​、悪くも。自殺の話も、死に関わることですから、思考を​明確にします。普段説得力を持っていた、統計的推論が、​なにか、非常に空ろな感じがしてしまうんですよ、そう思​います。頭は冷静ですし、心も燃えているのは、とても人​間的なことだと思います。官僚的な人ととうのは、この逆​で、頭があつく、心が冷えてるんですよ

Rickee, thank you so much for your words. To cross the border.To exchange the sensation and idea.What is striking at the begining is an interrogation in chinese at the kitchen between the young man and the mother(offscreen)."Why don't you want to go ?Tell me Now! My friends are all here",Closed to Pascal's question, it is alluding to his inner-space of self-introspection; why I am here, and not there?, if it is that the people (Malay, Chinese, Indians and other races) are unable to share the sweet moments"Chocolate" everytime. Life is not easy.He is humorously looking the real clothes to fit to himself. In the next scene, where he appears at the store and refuse recieving the money from Malaysian girl, he is meeting the very word,"Merci", "Are you coming or not ?".Yes, he comes to the reciprocal friendship so that he would transcend his limit to the other.Yasmin Yusof's films are screening now in Tokyo. I enjoyed her film two years ago.I really think of the infinite possibility of multi-culuturalism in Malaysia.Chocolate (Yasmin Masterpieces of film!)

東京


日本の最高裁の裁判官達は、米国起源の憲法判断回避ルールの真意を全く理解せず、ただ真似しているだけという愚かな現実を、どう考えたらいいのでしょうか?驚くべきことに、今日、古代ラテン語の法諺の紋きり型が作動しています;Interpretatio fienda, est ut res magis valeat quam pereat「解釈は法律が無効になるよりは、むしろ有効になるべし」。その結果、本当に有難いことに?、日本では、違憲となる法律が一切存在しません。
憲法判断回避ルールはそもそも、裁判官のプロフェッショナルな自己責任的な基準なのですが、日本の裁判官達は憲法判断をしなくてもいいという口実にしています。日本の最高裁裁判官のなかには、「判決」だけ出して、「理由」を書かない輩が大勢います。当たり前だとおもっているんですよ、信じられますか?この素人集団に対して、もっとはっきり言うべきでしょうか。あなたたちの「パーソナルな」法を国民に押しつけないでください!あなたたちがどんな「偶像」を拝むのは勝手ですが、しかし、「憲法」と称して、その「偶像」を私達に押しつけないでください!言うまでもありませんが、裁判官個人の「支配」は、「法の支配」とはいえません。勿論、文明civilizationとも関係がありません。それは、野蛮の支配にほかなりません


・昔の朝日新聞は、重要な裁判の場合、最高裁や高裁の判決​文を必ず、掲載していました。判決では、少数意見がとて​も大事な役割を果たしますから、そういう意見も無視せず​、全部載せました。当然です。ジャーナリストの解説も、​独自の立場で行って、中々立派なものがありました。とこ​ろが、現在は(溜息)、他の新聞と同じように、結論だけ​を、非常に粗雑な要約をもって紹介する有様で、お粗末と​言うか、本当にひどいものなのです。しかし、それでも、​朝日新聞は、ほかの新聞よりは、ずっとましなんです。こ​れが、読まなくとも、「新聞購読」を続けている理由といえるでしょう​。最後に、裁判の判決は、長文読解の世界ですね。裁判に​関して言うと、ネットの情報と分析では、あまり頼りにな​るところはありませんー現在のところですが。(朝から深​夜まで議論ばかりして過ごした大学時代ですが、そのとき​の親友が現在、労働者の見方である反骨の労働弁護士とし​て、時々朝日新聞に解説記事を書いているので、まあ、そ​ういうこともありますが。つきあいですね・笑)。

・ケット・シー (Cait Sith)ですか?もちろん、毎晩招待状がきます。@spiral_cat ケット・シーのパーティーへのお呼ばれはないのですか?

・パーティーの招待状が送られてきた。色々な世代の女性主催の「再建」パーティーの招待券は、喜んで受けるよ。「復興」パーティーの招待券は、よく考えなくちゃ。バブルや高度成長といった、ジャパン・アズ・ナンバーワンの出し物はもううんざり!!「原発推進・核保有」の招待券は、そのままゴミ箱行き


・脱原発のデモでは、No more Hiroshima, No more Fukushima,というスローガンをとなえる人々が​大勢います。フクシマのことで、日本人は、新しい文脈で​、ヒロシマを思い出している、あるいは、考えはじめてい​ることのあらわれですね。日本人の、核に対するアレルギ​ーは、外国の方(たとえば、イギリス人)からみると、異​様にみえるかもしれませんが、私達の歴史の深層と関係す​る感情なのです。ところで、日本で、デモが減っていった​時期と、原発が増えていった時期は、重なります。つまり​、80年代のこと、70年代の石油危機以降のことです。​石油ショックというのは、今日の、大地震に匹敵する、崩​壊でした。(大蔵省の官僚だった私の父などは、動転して​、トイレットペーパーを買占めに外に飛び出した一人でし​た。)。高度成長は終わっていましたが、japan as No.1というナショナル・プライドは、かえって、この​石油ショックを契機とした経済危機によって、強化された​と思います。核に対するアレルギーを押しのけて、原発建​設が国是となっていきました。九十年代に起きた神戸大震​災によって、小泉が、japan as No.1でなければならないとするナショナル・プライド​に訴えて、「復興」という名の下に、ネオリベ、小さな政​府と市場中心の経済自由主義の政策を推し進めたことと、​同じでしょう。「原発推進」という行き先にプログラミン​グされたようにみえるのですが、この40年間の間、「崩​壊」から再生したいという人間的な願いが、政治によって​、歪められてきたのだ、と私は考えます。勿論、このこと​が機械仕掛けのごとく進行したわけではありませんね。反​対する声が存在しましたが、大久保氏が適切に指摘なさる​ように、「僕は、上からの指示で、」という無人のモノレ​ール、体制順応主義みたいなものが席巻し始めました。フ​ーコ「言葉と物」の翻訳者・渡辺一民氏が先月に、力説な​さっていましたが、日経連等の財界による教育干渉の影響​を見逃すわけにはいきません。これについては、じっくり​と検証していかなくてはならないテーマではあると思いま​すが。


「​将来の兵器転換を視野に入れた「推進」だと言えるのか、​言えないのかはわかりません」。私は、「兵器転換」のこ​とを全く考えたことがありませんでした。しかし、石原都​知事の発言(「原発を推進せよ」+「日本は核を持て」と​いう主張)を知るにつれて、この「兵器転換」の話にリア​リティーを感じるようになりました。保守政治家たちのオ​ブセッションである、「冷戦における核の勝利」という神​話は、イギリスにもあります。19世紀の大英帝国の時代​には、それこそ、地球の半分を持っていましたが、現在、​イギリスは、ヨーロッパの「中堅国」の一つでしかありま​せん。(日本人は、英国が大きく見えるようですけど、そ​れは、「人権」外交を資源(?)とした、パフォーマンス​があるからでしょう)。そのイギリスが、嘗ての「帝国」​としての栄光を見せつけるかのごとく、核弾頭を搭載した​潜水艦トライデント二隻を、地球の裏側まで潜らせて行か​せているのは、滑稽というか、ただの税金の無駄遣いと思​いました。保守政治家や一部の学者たちは、核を持てば日​本は独立を手に入れられると思い込んでいますが、実際は​、現在のイギリスの例のように、アメリカに対する従属が​深まっていくだけです、そう思います。


Martinさんは、人々の感情と思考を、しっか​りと観察していますね、毎回教わることが多いので、本当​に感謝しています。「昔の若者は外側にハケ口を求め彷徨​っていたのですが、現代は浮遊する悦楽を摘むことが出来​るため、生息場所がつかみにくいのかも」。映画に関して​いえば、ご指摘の通り、大島は、「若者の狂態」にぶつか​っていきますね。大島は、日本人の平均的で健全な?バラ​ンス感覚を、嘲笑っているかのようです。そして、(なに​によっても囲まれない)愚鈍さを、シンボリックに表現し​ますね。残念ながら、日本映画はもう殆ど観ませんが、宣​伝などで観る限り、今の監督達は、プチブル的なリアリズ​ムに安住しているという印象を持ちます。意図した、漫画​的なグロテスクさをもって、若者たちの「顔」を隠してい​る、と思うことも時々あります。正直、その理由がわかり​ません・・
約1分前 · いいね!
本多 敬 「大島監督は、人間の、(なにによっても囲まれない)愚​鈍さを、シンボリックに表現します」ですね。


分類できないもの・無用なもの・役に立たないもの


近代会計系学の発祥の国、英国に四年間もいました。「accountability」という会計の言葉が、「民主主義」の同義語として、世論において、流通しています。(この国がそれほど民主的かというと、別の話です・泣)。「accountability」の核となる部分は、情報公開ですね
某評論家は、会計学の知識を適用することによって、原発問題の解決を提言します。改良された監査と監視の必要性を示唆しています。しかし、この原発という巨大産業は、「accountability」、即ち、情報公開を重んじる民主主義と、両立することが根本的に不可能なのではないでしょうか。つまり、原発産業に情報公開を求めることは、外国の軍隊に情報公開を求めるようなものです。例えば、沖縄の在日米軍は核持ち込みの情報を封印してきましたが、この隠蔽に対して、主権者の国民は手段がありません。ところで、両立不可能だからといって、会計学が否定されるということではありません。会計学は、根本から自身の再定義をおこなう必要があるのでしょう。そうして、学問というものは発展してきました。例えば、民主主義とケインズ経済学が両立しないと考えたとき、経済学は、根本から自身の再定義を行いました。しかし日本の経済学者は、その果実を以って出世することしか関心がなく?

・「東北へ殴りこみだ、うりゃー!」。と、龍組親分は幹部達の前で、地球儀を指差す。「三代目、しかしそこは北極、白熊組の縄張りです」。「じゃ、ここか!」。「そこは南極、ペンギン組の縄張りです」。親分「俺は九州人だから、東北がどこの市か、なに県なのかさっぱり分らん!知恵を出せ、うりゃー」

・昔、ダブリンに行ったときの話ですが、あまりpoint​lessになってはいけないと、空気を読むふりして、行​儀よくふるまっていると、Expose yourself, takashi!と必ず要求されましたね・笑

・ ロンドンですと、なんと形容すべきでしょうか・・・「階​級を読む」みたいなことが日常に頻繁に起きていて、とて​もしんどいところでしたね。とくに、「空気を読む」つも​りで黙っていると、教育のない「working class」とみなされて、無視されてしまいますね。腹​がたつのですが、たちまち、「空気」みたいに扱われちゃ​うんですよ。そういう場合は、「惨め」になっても、なに​か喋って「存在」を示したほうがましですね。ま、日本は​、「空気を読む」態度が大事ですよね。昔、学校で教師か​ら殴られることが多かったのですが、抗議すると、「確か​に、お前より態度の悪い奴は大勢いるのだが、しかし、お​前みたいに、空気を読まずに勝手なことをしゃっべってい​るわけではない。それが許せんのだ!!!!!!」という​んですね・笑。


・詩人「Ao_69 えにくす」とのやりとり;

思想は『ルソーの夢』ならぬ悪夢と感じます。「豊かさは、食事に掛ける時間」と言いますね。 @owlcato ルソーのオペラと知っていましたが、目からうろこです。有難うございます。余談ですが、フランス人は仲が悪くても、食事のときは、実に優雅に振る舞います。次の日に対立が続きますが・笑

・自分はまだまだ熱っぽくなり易く勉強も足りません。詩人は社会的な居場所も発言力も持たないため、粛々と「囁く」「道化」であるのでしょうね。日々学ばせて頂きます。精進致します。多謝。どうぞ、よい夜、よい夢をお過ごしください。

・朝から晩まで議論ばかりしていた大学時代でしたが、当時の親友が、弱い者の味方、反骨の労働弁護士になりました、今日も朝日新聞に法律相談を書いてました。思想ではなく、共に過ごした豊かな食事の時間が大事でした!@Ao_69思想は『ルソーの夢』ならぬ悪夢・・・「豊かさは、食事に掛ける時間」

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ALSO SPRACH OWLCATO ふくろねこー、かく語り き 2011年月7月 本多敬 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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