言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろねこー、かく語り き 2011年月12月(後半) 本多敬

<<   作成日時 : 2011/12/17 10:57   >>

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なぜ、少数派の人々の存在をみとめないのですか?なぜ学ぶ機会を取り上げるのですか?外国語を話す人々の一人ひとりは、豊かな音韻体系、語彙目録、統辞規則を持っています。どんな異邦人も宝ですとエーコが言っていました。「朝鮮学校に通う子供たちを暴力や暴言から守りましょう」−『オリニチキミ』

「オリニ」とは子供たち、「チキミ」とは守り人を指す。朝鮮学校の子供たちのために守り人となってください、という意味。

「危険」を前提に、「危険でない」事を証明してこそ、良い政府だ。「危険とはいえない」事は、常に国側に証明責任がある。他方、「安全である」という言い回しを政府が行う限り、それは、プロパガンダ的な、新安全神話に堕落する。「安全でないと思うなら、国民が証明しろ!」と高笑いするのは悪い政府

「危険」を前提に、「危険でない」ことを証明してこそ、政府だ。「危険とはいえない」ことは、常に、国側に証明責任があることなのだから。しかし、「安全である」という言い方を政府が行う限り、それは、新・安全神話となる。「安全でないと思うなら、貴様達国民が証明しろ!」と高笑いがきこえてくる

『..あまりにも凡俗な考え方に接したり、テレビのバラエティー番組を見たり、あるいは大臣の演説や、「楽天家」のおしゃべりを聞いたりするとき、私たちのすぐ目の前に恥辱があるのです..』<ジル・ドゥルーズ『記号と事件』

マーケット(あまりにも凡俗な考え方)、視聴率(テレビのバラエティー番組)、支持率(大臣の演説、楽天家の収束宣言)ーこの豊穣なブルジョア的世界を恥辱と感じる距離感は、ブルジョア的交換様式を内面化する事の無理として説明できよう。恥辱は貴族的なものから起きる、しかし、どこから来るのか?

歴史から到来する、即ち、階級闘争の歴史。つまり、歴史上、貴族階級に対するブルジョアの闘争が不十分にしか行われなかったので、貴族的な価値観が現在に存続しているのだと。貴族的なものは、避難先の詩の領域に隠れて来た。その反ブルジョア的実体は、アナーキズム・ボヘミアン達の息吹となってきた

貴族的なものは、ブルジョア的ショーヴィニズムに接して、恥辱へ変容する。恥辱は感覚と政治を結びつける。恥辱、貴族的なもの、したがって貴族的なものの否定は、所謂プロレタリアートの興醒めとは全く異質なもの。恥辱が力となるのは、ドゥルーズの言葉を援用すると、歴史の偶然というほかないだろう


bandeapart72 @owlcato @xyzqa やはり、資本の論理の内面化に抗う必要があると考えています。ジジェクが言うように、「私たちはオルタナティブについて考えることを許されている」ということの再認識が必要であると思います。
ヘーゲルに沿った読み直しに期待しております。ドゥルーズは、後期資本主義のイデオローグとして読まれてしまった事もあるようですが、ゴダールはこの問題をうまく回避しているように見えます。

賛成!「私たちはオルタナティブについて考えることを許されている」。ドゥルーズからジジェクに辿り着きましたよ。@bandeapart72 @xyzqa

イギリスに行ったオスカーワイルドとミルトンシングが驚きを伴なって同じ証言をしました。それは、アイルランド農民のメンタリティーが英国貴族のそれと非常に類似している!というものです。その事情を物語ったフリールの戯曲を来年、Twしていく予定です

十九世紀英国によるアイルランド測量の事情を物語った戯曲です。カトリックとゲール語教育の禁止のもとで、青空教室で読み書きを学ぶ農民達を描いた芝居です。農民と英国貴族は、産業ブルジョアジーによって、歴史の舞台から追放されていく、これが近代です

反戦運動と反グローバリズムの運動は、繋がり合う<一>たる神。この神からみると、ダブリンとロンドンは、神自身に属する。空間と時間の距離は本質的な事ではないから、東京の反原発運動は勿論、パリコミューンですら、この<一>たる神の内部だ。マグニチュード(群集)は、一元論的に、<一>である

反戦運動と反グローバリズムの運動は、繋がり合う<一>たる神。この神からみると、復古政治と後期資本主義の金融は、神自身に属する。アイルランドとイギリス、この両者は、一元論的に、<一>である。地理的には互いに離れている事は本質的な事ではない。空間ですら、<一>たる神に帰する属性だから

マグニチュード(群集)は<一>である。反戦と反グローバリズム、フェミニズムと反原発、これらは、無限の仕方で繋がり合う可能性を産出する<一>的多数、即ち、「神=自然」とスピノザが呼ぶ唯一の実体だから。似非ポストモダン建築の金融資本主義、地球から差異を掻き消し去った<一>とは異なる!


xyzqa いろはにのツイート
砂漠の薔薇というより、砂漠と薔薇をあげるほうがいいでしょう。なんだか石油王の気分になれます。それはやっぱり嘘でしかないのだけれど、そもそもことばは通じないものであるから、おこられることもないでしょう。
1時間前

TristanTzara
アンチ・ダダイズムは病いである。自己窃盗狂、人間のノーマルな状態がダダだ。しかし真のダダはダダに反するものだ。

TristanTzara
僕はとても遅く眠る。僕は65%自殺する。僕の生活はとても安上がりだ。僕にとって生活は30%しかない。僕の生活は生の30%を占めている。それには、腕と、紐と、いくつかのボタンがない。


エマニュエル・レヴィナス
宗教、神学の終末論は、それが未来を証明し、存在の目的を掲示する一箇の神託のように、哲学的な明証を「補完」しているかに見えるが、それは信念-憶測が明証性に摩り替わってしまっているだけなのであって、それでは終末論は戦争に発する全体性の存在論を、既に受け入れてしまっていることになる。

<収束>と、野田さんが言う<収束状態>との違いがよく分りません。[回答] ・・・謎ですね。量子力学的にはこういうことかな?
まつしら政経塾 Ψ  = ∞ ı 収束する状態 ı 野田政権> + ☠ ı 収束しない状態 ı 野田政権>

ホホー、まつしら政経塾と野田政権は、収束状態ニャ!


原発破れて国はあるか?もちろん、国はあります。私は実際に、そういう国に長年暮らしてきましたから

Reading furnishes the mind only with materials of knowledge; it is thinking that makes what we read ours.
John Locke


貨幣奪われて国家はあるか?ーこの問いは一考に値する。EU諸国の間で、文字通り貨幣が奪われた状態で、高度な次元の貨幣(ユーロ)のもとで、純血種の危険な宗教運動が盛んになった。強い国家が確立すれば、宗教運動は国家意識に吸収されるとヘーゲルは語ったが、現在その逆の事が進行しているのか?

英国首相キャメロンとフランス大統領サルコが激しく罵り合っているようだ。野党時代キャメロンは、EUに反発を持っていないと報道されたが。ユーロに加盟しない英国は、"貨幣うばわれて国家はあるか"、の様な所がある。ユーロの札に女王の肖像を印刷するなら加盟すると言った。ベルギーは怒った・笑

貨幣奪われて国はあるか?答えは、貨幣即国家。高度な次元の貨幣(ユーロ)が導入され、文字通り自国通貨が無い状態で、EU諸国間で、激しい宗教運動の津波が発生している。国家が壊れて、彼岸的な宗教意識は、現世の国家意識から解放され始めたかの如し。復活だー近代国家を知らなかった十七世紀よ!

民衆に敵対するものは存続できない。八十年代にベルリンの壁とソ連が崩壊し、ベトナム戦争以降、米国の軍事的退却が進行している。そして日本の原発が拒絶される。民衆の勝利であり、マルクスの勝利である。それにしても、歴史の仕事は驚嘆だ!残された仕事は、全ての国家の同時消滅ぐらいだ。来年かも


他者に自己をいかにみとめさせるか、この闘争こそ人間の根源的な欲求だ。ドストエフスキーは、パリジャン並に仏語の達者な男が、社交界で仏語をむやみに使うがろくに話せないロシア人を物真似する様子を描き出す。これも、ロシア人に、自己をみとめさせる立派な戦略。関係とはかくの如し、倒錯性なり

ドストエフスキー BOT
この男がフランス語をうまく話せないと、あなたは思うでしょう? ところがこいつはパリジャンみたいに話せるんですよ、ただロシア人どもの真似をしてるだけなんですよ、社交界でむやみにフランス語をつかいたがるくせに、その実ろくにしゃべれないロシア人どものね… ―未成年

日本は、米国から押しつけられた民主主義を演じているだけで、この仮装を続ける理由は逆えば生存を奪われるから、と言う人達がいる。しかし、所有しているつもりの日本の真の起源、即ち、非民主主義的本質の大地も始めから、米国の日本に対するステレオタイプを借用しただけの借地に過ぎないとしたら?

「話すこと(見させること)は、物言うこと、すなわち、声(フォーネー)を出して言葉でいう性格を持っています。ロゴスは、声であり、「表象を伴なう声」(フォーネー・メタ。ファンタシアス)−即ち、そのつどその声のなかで何かが見られている有声の告知です」(ハイデガー「存在と時間」 桑木訳)

いろはにさんのツイート
すきな人たちからの呪詛へは 呪詛返しが礼儀 なぜなら人は 放置プレイをいちばん痛がるから

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである/ われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
宮沢賢治『農民芸術概論綱要』

思惟の詩作的性格は今なほ覆わはれてゐる。Der Dichtungscharakter des Denkens ist noch verhüllt.
ハイデガー「思惟の経験より」

「聖堂は死骸のように横たわる」(バタイユ)。反原発の未来を明確に打ち出せない日本列島の如しか?<政財官学マスコミ>の一体構造がこの原発列島を推進してきた以上、再びこの構造からは、反原発の方向を打ち出す事が頗る困難か、不可能。集会デモ、国民投票、直接民主主義しか原発を止められない!

ドゥルーズさん、「恋愛は奇妙で、恐怖を抱かせる程の戦争機械」ですか?「OUI!性愛とは、数限りない性を生み出す事です。そのような性はどれも制御不可能な生成変化となります。性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由します。微粒子の放出ですね」

ドゥルーズさん、ネオリベは全体主義国家ですか?「OUI!全体主義国家とは、国家としての最大値ではなく、政府ー資本主義の最小国家(チリの例)です。保存される公理は、外的部門の均衡、備蓄の水準、インフレ率だけ。野生状態の展開は、農村人口の流出や都市のスラム化にみられる雇用変化ですよ」

参加の質的概念を言論の場に導入するときです!例えば、脱(反)原発デモは五千人も、ネット時代の一人ひとりは百人と繋がっていますから、質的に五十万。他方、投票箱程度の安直な参加では、一人ひとりは(1/100)人としか繋がっておらず、したがって石原の支持は質的に三万人も無いと思いますよ

近代は、超越的な宗教意識を国家意識の中に吸収させてしまった。但し、国家を方向づける宗教意識は存在する。宗教的な人間ほど、「ダンテ」(ジョイス作品の人物)の様に、崩壊に対して敏感なあまり、復興の幻想に嵌る。祀る国家、即ち戦う国家という復興だ。敵味方二元論の好戦的植民地主義者達が集まる

原発災害の対応を見れば、水俣や土呂久の公害に対して国がいかに無責任な態度を取ったかは分る。反公害の現場では、救済してくれる国家など無に等しかった。宗教意識の超越性は国家意識の世俗性に置き換えられるとしても、公害のときはそんな国家が一切無い。浄土的な宗教意識が大きな役割が果たすのだ

原発災害の対応を見れば、水俣や土呂久の公害に対して国がいかに無責任な態度を取ったかは明らか。反公害闘争の実感ー救済してくれる国家は無に等しかった。宗教意識の超越性は国家意識の世俗性に置き換えられるものだが、公害が起きるとそんな国家は無い。浄土的な宗教意識が大事な役割が果たす所以だ

アメリカが爆撃によって破壊し、日本企業が工事で金儲けする、という海外の評判を知ってますか?この十年間はイラクとアフガンの例のように、爆撃に次ぐ爆撃でした。日々放射能汚染に慣らされてしまう感じで、爆撃を当然視する事と、生き物を殺す事に鈍感になってきた事の間には、関係があると思います

海外は、かくも大量の放射能汚染物の海洋放棄に呆れています。いつから私達は生き物を殺す事に鈍感になったのでしょうか?この十年間はイラクとアフガンの例の様に爆撃に次ぐ爆撃でした。日々放射能汚染に慣らされてしまう感じで、米国による爆撃を協力してきた現状肯定主義となにか関係ありませんか?

Novalis_

先験詩[超越論的ポエジー]とは、哲学と詩が混ざりあったものである。要するにそれはあらゆる先験的機能を有し、実際、およそ先験的なもののすべてを包含する。先験的詩人とは、そもそも先験的人間である。 『断章と研究』



1、ピアジュが提示した構造の条件をなす、全体性とはなにか?遠山は数学的構造を例にとる。群の単位元eは、群という構造のなかでそれが占める特殊な性格、即ち、他のものaとかけて他のものaとなる、という性格によって規定されている。ea=ae=a これは構造の中の有機的な構成部分なのである

2、この点が、それ自身が他とは独立に存在している集合の要素とは違っている。「構造固有の全体性の性格ははっきりしている、というのは、すべての構造主義者たちが一致して認めている唯一の対立、構造と集合体との対立だからである」( ピアジュ)。映画は、かくの如き思考の形式である。つまり、

3、映像は、他の映像に作用し他の映像となる、という性格によって規定されている。映像は、映画という構造の中の有機的な構成部分。故に、映像は、独立した一枚の写真の如き、それ自身が他とは独立に存在している集合の要素ではない。そして思考の形式の具体化、抽象的構造の具体化こそ、表現である!

4、具体から抽象へ、抽象から具体へ、と、ゴダールは絶えず映画の可能性を極限にまで追求し、映画以外の芸術家に大きな影響力を与えてきた。アングロサクソンの評論家達は彼をミニマリスティッ久なポストモダンのアーチストと位置づけるのは間違い。ゴダールはモダニズム的前衛精神ーソーシアリズムの

5、ゴダールの自伝を書いたMcCabeの本。ポストコロニアリズムと精神分析とフェミニズムの視点が働いている。植民地主義=女性身体の支配を意味するならば、映画こそ、女優を搾取してきた植民地主義ではなかったかと。単に監督と女優の噂話をしているはずがないのに、この国の評論家ときたら・・

6、「映画史」は、諸々の映画と映画の関係を証言するとき、それらの関係が静的なものに止まらせないために、ゴダールは変換性の如き規則性を模倣する。例えば、溝口映画とルノアール映画の映像の編集から、三番目の他の映画の映像が導き出される。変換性は群の構造の条件である。x −> ax = y 

7、構造の中に定義された変換はその構造の枠内で起こる。変換に閉じている。そうでないときは、構造自身を拡大して、その拡大された構造はその変換に対して閉じるようにする。同様に、ゴダールは「映画史」の構造を拡大してポンピドゥーセンターの展示を行った。ブルジョアと国家の神殿を内部から破壊した



見よ!隠蔽、隠蔽、インペイアリズムipmeialism ・・・新橋駅前民主党街宣のとき、抗議のプラカードを持っていただけなのに、この人を警官達が大勢で隠蔽しちゃった。この国って、本当に民主主義?貧しい隣国を嘲笑ってるけど

Brutal! The police concealed the person who had a placard of the protest against PM Noda who was promotingthe nuclear power station export. Why the police concealed the person who had only a placard of the protest against PM Noda ?Japan is democracy?Japanese word "Inpei" meaning concealment, sounds like imperialism.Japan poor imagination turned out "impeialism" with nuclear power station



In the Greek language, "γλῶσσα" (glossa) means "tongue" or "language." Originally, the word was used to denote an explanation of an unfamiliar word, but its scope gradually expanded to the more general sense of "commentary". The glossators used to write in the margins of the old texts (glosa marginalis) or between the lines (glosa interlinearis - interlinear glosses).
The commentary study is not hometown of the text. Rather it is characteristic to the movement of deterritorialization, self-imposed-exile of text as long as it is becoming the other by putting the relatinon of itsef to the other.
For example, identity element "e" of the group expresses the aspect of such deterritorialization (ea=ae=a).
At first the Confucianism should have performed the deterritorialization along the commentary studies before it was taken by Mito school as the reterritorialization
led to the national identity for the expansionism
(The Mito school exerted a major influence on the Sonnō jōi movement and became one of the driving forces behind the Meiji Restoration in 19th centuty.)

注釈学はテクストの故郷にあらず。それは、他のテキストと関係する事によって他のテクストとなる脱領土化、自分で決めた亡命である。端的に、群の単位元eが、そういう脱領土性を表現する(ea=ae=a)。水戸学派によって再領土化される前に、儒学はまず、注釈学による脱領土化を行ったはずなのだ

子安宣邦氏「日本ナショナリズムの解読」より
1,「日本民族」概念を成立させるのは、十五年戦争(満州事変1931、日中戦争1937、太平洋戦争1941)と共に始まる昭和という時代である。この「日本民族」はさらび王権神話に基づいて「天孫民族」として再構成される。
2、「天孫民族」とは、日本帝国に領有されて新たな国民となった外地住民に対して本土住民を神話的「民族」概念をもって優越的に差異化する概念である。「台湾人といひ、朝鮮人といひ、血統的にも文化的にも、まだ完全に日本民族として同化されたものではないことは事実である」と書く白柳秀湖は、・・
3、その日本民族の中心になる民族を「天孫民種」というのである。・・・日本人がした「本土ー外地」という帝国的版図の体験は、国土について、民族について、そして言語について「内部ー外部」という意識の二重化の体験であった。
4、外部を包摂しながら、外部はなお外部であり続けねばならないものとしての内部の尊厳化や絶対化が、帝国日本人の意識と言説の上で遂行されていった。国土の中に原・国家が存在し、国語のなかに原・国語が存在し、民族のなかに原・民族が存在するのである
5、再び大国化した戦後日本は、この二重性を変容させながら再生するのである。「国語」が死滅して、「日本語」が生まれた訳ではないのだ。内部「国語」と外部「日本語」との併存は、現代日本の二重性を端的に物語っている。歴史見直し論はとはまさしく内部「日本」の執拗な再生の要求である

「我々が、今日、直観的にとらえているナショナリズムは、民族主義と国家主義という本来、区別さるべき二つの概念が、重複したものであって、少なくともそれは、十六世紀以降の西欧において形成された民族国家の立場、もしくは一つの国家にまで組織されようとする民族の心情的な歴史的要請をうけて成り立った近代的思考範疇に入る思想であると解される」。(岡本清一「ナショナリズムの論理」1966)

日本の民族主義的国家主義、即ち「日本ナショナリズム」の成立は、岡本は大正を越えた昭和初期という時代においてだというのです。まさしくその時期、あの「大言海」に見るような十全な「民族」概念も成立し、そして「日本民族」概念も、日本精神史や日本思想史等の学術的言説と共に成立する (子安宣邦「日本のナショナリズムの解読」)

日本における近代的概念の殆どは、ヨーロッパの後を追うようにして、その翻訳的転移として成立します。「民族概念」も例外ではありません。(・・・)「民族」という語が国語辞典に登場するようになるのは、随分遅い事なのです。
最初の体系的な国語辞書である「言海」(1889−91刊)には、「国民」の語はあっても、「民族の語」はありません。だが、それを大幅に増補した「「大言海」(1932−37刊)には「民族」の語は存在し、しかもそれに周到な説明が付されています。(子安宣邦「日本のナショナリズムの解読」)


「国家のために死ぬこと」が、ナショナリズムの対内的な極限的なテーゼだとすれば、「国家のために殺すこと」とは、排他的ナショナリズムの極限的テーゼです。「国家のために死ぬこと」のもう一つの側面は、「国家のために殺すこと」なのです。この二つのテーゼは表裏をなすものです。ナショナリズムが極限的にはこの二つのテーゼからなるものであることを、私たちはいま冷静に、リアルな眼をもって見なければなりません。(子安宣邦氏、「日本のナショナリズムの解読」より、2006−7)

子安宣邦氏のツイート

台湾・朝鮮の併合も、中国の侵略も戦後の日本は〈体制的な否認〉をしていない。ご指摘にしたがって以上のように改めます。〈体制的な否認〉とは、首相の靖国参拝が憲法違反として問われても、A級戦犯とその戦争行為の彼らの容認自体は憲法問題にならないということです。

石に溶け込む月の転位ーニューグレンジは狩猟から農耕へ切り替わる過渡期の時代に建立された。変化なき耐え難い単純労働に従事する農耕者にとって、狩猟時代ー踊るリズムで遊ぶ様に働いた自由さを懐かしんだ。狩は夜に行われたので月こそ偉大な過去の象徴。動物生贄も狩の儀式的再現。英国人が好む新説

変化なき耐え難い単純労働に従事する農耕者にとって、狩猟時代ー踊るリズムで遊んで働いた自由さを懐かしんだ。狩は夜に行った。月こそ偉大な過去の象徴。動物生贄も狩の儀式的再現。現代世界も実は過去と断絶してはいない。むしろ、過去から継続するひとつの展開の新たな一局面として存在するのだろう

"現代世界も実は過去と断絶してはいない。過去から継続する一つの展開の新たな一局面として存在する"。過去の姿は、現在から解釈した過去の姿。例えば、現在のイギリス人にとって、農耕=計画的な単純労働は「製造業」を、狩猟=踊るリズムで偶然の賭けを遊ぶ労働は「マネーゲーム」を指示すると思う

Novalis
我々の言語は、機械的か、原子的か、力動的かのいずれかである。しかし真に詩的な言語は、有機的で、生きたもののはずである。我々は、いくつかの観念を一挙に言い当てようとして、言葉の貧困をどれほど痛感することか。 『花粉』

Novalis
複数の人物から成り立っている人物はみな、二乗された人物―もしくは創造的精神[Genius]―である。この観点からすると、ギリシア的創造的精神というものがあったのであって、ギリシア人というものがいたのではないと言ってもいいのではないか。 『断章』

狂気というと、専らイタリア人とドイツ人の事で、理性は必ずイギリス人に結びつける幻想に、知恵者の福沢諭吉も騙された。イギリス人は狂気を隠すのが上手いだけ。英国と比べて、戦後日本はmobilityが高い。だからといって、生まれで人を差別する天皇制の反民主的本質に目を逸らしてはならない


来年三月に渡辺一民氏(「言葉と物」の翻訳者)がシュールレアリズムについて話す。それと関連するフーコの文をTwできるかな。サィードが評価したアイルランド演劇の戯曲「トランスレーションズ」も翻訳し紹介する責任を感じる。アイルランドのナショナリズムは開かれた問題提起、このことを伝えたい

「天地の間は一元気のみ」、と伊藤仁斎はいう。「一元気」とは<ただ運動だけ>ということで、子安氏の解説によると、「生成論的コスモロジーを構成するものと思わせるような仁斎の命題も、決して宇宙論的な<始原/根源>としての「一元気」をいうものではない・・・むしろ天地をただ"往来已まざる"運動と見ることで、<始原/根源>に向かう形而上学的な問いを背後にひそめる"天"への視線を拒絶しているのである」。こうした仁斎の注釈は、ドゥルーズのスピノザを喚起する。スピノザと伊藤仁斎、この両者は、十七世紀の同時代の思想家として存在したのである

「多なるものが多なるまま肯定される世界」という人生観は、スピノザの一元論を隠蔽してしまう。安易な多元主義は、アパルトヘイトも「多なるものが多なるまま」として肯定する危険がある。「大いなる肯定」からは、ブルジョア家族に過ぎない<天>皇の領域を分断し特権化する「否定」しか生まない。

「多なるものが多なるまま肯定される世界」という言説はまた、内部に対する神聖化・尊敬も生み出す。嘗て国土の中に原・国家が存在し、国語のなかに原・国語が存在し、民族のなかに原・民族が存在した様に、現在、内部「国語」と外部「日本語」とが併存し、内部「日本」の執拗な再生を要求している。

こうして、八十年代日本ポストモダニズムの論客達ー「多なるものが多なるまま肯定される世界」が、天皇主義者に変貌したことには必然性があったのである。


福島かフクシマかで議論が起きたが、来年は、固有名詞の権利すら奪われる危険がある。国と東電とマスコミは、無関心層を巻き込み、「私達」と「彼ら」という分割を一層組織化していくからだ。似非科学的なこの区別は、分割による差別を意図したものだ。公害裁判で見られたこの種の排除を繰り返させるな



『プロレタリヤと末裔(まつえい) 毎日毎日行われる強盗の話! 進歩! 改革! 正義!』 ―白痴


TristanTzara
僕は願う。宇宙の諸要素が、シンメトリカルに展開することを。変形させること、沸き立たせること。手は、強く、大きい。口は、闇の力を、不可視の物質を、善良さを、懼れを、知恵を、火を、含んでいる。

フリッツはパブが大好きでした。酔払いを観察してました・笑。ジョイスのテクストFWに書かれた真相は何か?皆一生懸命探求するが、結局、読み手のこう書いて欲しかったという願望によってまちまちであると。私はただ、研究者達の心の迷いと欲求を観察するだけだと・笑@EloiseK @Ao_69

@Ao_69 @owlcato 敬先生、えにくすさま、毎日素晴らしいTweet をありがとうございます。良いクリスマスをお過ごしください。Bach - Cantata BWV 147 by Dinu Lipatti youtu.be/R0085wPebZc
33分前
owlcato がリツイートしました。

EloiseK Eloise
@
@Ao_69 @owlcato Hurdy gurdy、The Chieftains好きです。Irish Pub にいるような気になってしまいますね。私も今夜は地元のパブへ行こうかなと。(飲めませんが、雰囲気だけ)Dublin 南西のClondalkinにいます。


詩人でもあるタルコフスキーは、俳句の大ファンなのだ。記憶の囚われの場、惑星「ソラリス」の影響で、宇宙飛行士は、昔死んだ妻が繰り返し生き返ってくるのを目撃する。これは、キリストの復活を象徴すると自伝のなかで書いていることに、私は衝撃

にゃめーりー、にゃんにゃります@nobuko_kosuge

さすが、ユダヤ人というのは冴えていますね!@nobuko_kosugeイエスが生まれたとき、三人の王様(マギ)が三つのプレゼントを渡します。そのうちの一つは「没薬(ミルラ)」。死の苦痛をやわらげ、死体を腐らないようにするための樹脂なんです。生まれた赤ちゃんの悲惨な死に方を暗示

来年は、どういう年になるかというと・・・
Ne va pas montrer tous les cotes des chose Garde-toi une une marge d'indéfini 物事のあらゆる側面を見せようとしないこと。 未定義の余白を残しておくこと。


成程、ご指摘の通りです。ナショナリズムは民主化運動との接触のなかで、the opened questionへと転位するダイナミズムを常に孕み、1870年前後に起きるパリコミューン、米国奴隷解放はそういうダイナミズムと関係していますが、明治維新だけは停滞のイメージ@han_org


Samuel Beckett
The voice alone is company but not enough. Its effect on the hearer is a necessary complement. Were it onlyto kindle in his mind the state of faint uncertainty and embarrassment mentioned above. But company apart this effect is clearly necessary.

学生時代、丸山の日本政治思想は理解できず。仁斎、徂徠、宣長を勉強する大切さを本当に自覚したのは、ニューヨークの旅から帰って来た、やっと二十代後半から。卒業後に零から始めた仏語と同様に、何時までたっても一人前にならない勉強。そういう連れ合いと続ける長旅も悪くはないと思える今日この頃




「学而時習之」。学ぶ孔子とは古を好み、古を信じる人でもあった。子安宣邦氏の評釈によると、新しいものを学ぶとはいわない、それは知るといわれる。古は即ち復古のことだ。この復古とは、時代を一新するために必要な古を鏡とした未来への跳躍である。仁斎においても「古学」は学の革新を意味した。

「学而時習之」。新しいものを学ぶとはいわない、それは知るといわれる。古とは復古。復古とは、学の革新のために古を鏡とした、未来を思い出す発明である。デカルトの解析学とトリフォーのロング・テイクは「知る」に対応するならば、スピノザの幾何学的証明とゴダールの編集は「学ぶ」に対応したのだ


詩はみんな自分の方向を探るためのものなのだ。意識が抱懐する宇宙の中での自分の位置を明らかにしようとするのは永遠不滅の衝動なのだ。意識は腕を伸ばしてまさぐる。腕は長ければ長い方がいい。だからギリシャ神話のアポロに、翼でなくて、腕が具わっているのは当然のことなのだ。─『記憶よ、語れ』

Novalis
新しいものはすべて、外的なもの、異質なものとして、詩的な作用をする―。古いものはすべて、内的なもの、固有なものとして、同様にロマン的に作用する―両者は、日常的なものと対照をなす―あるいは相互に対照をなす。古いものの新しさ―新しいものの古さ。 『一般草稿』
4時間前

3・11日本をテーマとした詩のオムニバスが昨日、アメリカから出版されました。原発災害が起きた日に書いた私の詩も一つあります。Good, my poem is there!

反権力の労働弁護士である、学生時代の親友が今夜も、朝日新聞の法律相談に書いておるな。一度、昔のビラみたいに書いちゃっていいんじゃないか・笑。自分の逃腰な立場から、私も逆らってやりたい!統一された、瞬間的時間の、体系的組織の利益の為なら、他の事は全て消し去る、この顔なき圧制に対して

坂口安吾
芸術作品というものは、力の権化である。力自体の貪欲と放蕩の中で常に自爆しなければならないものだ。芸術作品が作家自身の創造であり、発見であるのは、かかる自爆によってである。-坂口安吾「通俗と変貌と」より-

ドストエフスキー
僕は虚栄心の塊みたいな男だが、それが生皮をひんむかれたような感じで、空気にふれるだけでも痛みだすからなんだ。(中略)かつての救世主、かつての英雄がさ、疥癬(かいせん)やみの汚ならしい番犬みたいに自分の下男にとびかかって、しかも相手から鼻で笑われている始末なんだからな! ―地下室

反権力の労働弁護士である、学生時代の親友が今夜も、朝日新聞の法律相談に書いている。一度、昔書いたビラみたいに書いちゃっていいんじゃないかえ?自分の逃腰な立場から、私も逆らってやりたい!統一された、瞬間的時間の、体系的組織の利益の為なら、他の事は全て消し去る、この顔なき圧制に対して

カール・マルクス
人々が貧窮すると家主はそこから途方もない利益を引き出す。家賃は産業的窮乏と反比例の関係にある。


ジョイスは「学ぶ」作家だった。「学而時習之」で始まる論語の画期性は、「学び」の復権だ。「学び」は「無限」と関わること。限界がないから、皆が、平等に中心となる。他方、「教え」は所詮、同化主義だ。教師・弁護士・医者に饒舌な順応主義者が多いのは、そういう職業の本質が「教え」に存するから

ジョイスとゴダールは「学ぶ」作家だった。それに近づいたかとおもえば、また遠くに行ってしまった夜の牝馬の如く、到達できない果てに、この二人は存在する。ジョイスとゴダールは、「文学史」、「映画史」という、テクストの限りのないき空間を旅した。無限がいつも、nightmareとは限らない

お母さん二人の会話で、補習校の学芸会を思い出した。良い校長は、教師と親との信頼関係に努力し、ブレヒト的な学習の場である、集団制作としての学芸会を組織化できる。悪い校長は、そんな信頼関係が無いから、低学年の子供達をお人形にしてミュージカル如き媚びを披露し、親達にみとめられようとする

歴史が好きな小学校六年生ならば、富岡多恵子が現代訳した近松戯曲を面白く読める。時代背景を考えるから。その子の影響で、周囲が江戸時代に興味をもつ。今度の学芸会で、「近松」の芝居をやってみようと提案が出る。役割分担を考え、演劇の意義を考える。「楽しく」学ぶとは、こういうプロセスなのだ



Novalis
 数体系は、真の言語記号体系の模範である―われわれの文字は数に、われわれの言語は算術になるはずである。 『数学ノート』

Paul Valéry
劇における一つの法則は、観客が舞台上の何人かと自分を置き換えて一体をなすことができ、また、一体をなさねばならないということだ。それによって観客は、その芝居に参加しまたは自ら演ずることになる――intérêt(興味)という言葉には、語源的に事件に関与すという意味もある。

「人道目的」を口実にした武器輸出、新重商主義の推進に反対しましょう!それにしても、不思議ですね、朝日新聞の一面と日本経済新聞の一面が、全く同じ見出しを打ち出していることです。彼らは、RTし合っているからでしょうか?「武器輸出三原則を緩和」(朝日)、「武器輸出三原則を緩和」(日経)

王政復古で即位したチャールズ2世やジェームズ2世時代のイングランドは、太陽王ルイ14世が支配するフランスの衛星国のような存在だった。ところがウィリアム3世はオランダをフランスの侵略から守るために、大同盟戦争でイングランドを反フランス路線に引き込んだ。そもそも名誉革命自体が、この目的のためにイングランドの政治的混乱に乗じた、ウィリアム3世の軍事侵攻による政変劇に過ぎないとする見方がある。
1689年、アイルランドは名誉革命の舞台となった。カトリック教徒であるジェームズ2世がイングランド議会により廃位され、オランダ総督公ウィレム3世がウィリアム3世として即位すると、アイルランドのカトリックはジェームズを支援してイングランド王位に復位させようと試みた。このウィリアマイト戦争でアイルランドはカトリックとプロテスタントに二分して相争ったが、1690年にボインの戦いでジェームズ軍が敗れると、アイルランドでもプロテスタント支配が強化され、カトリック刑罰法も以前に増して厳しく施行されるようになった。
(Wiki)

・ヨーロッパ中心主義の教養は本当にそれほど教養だったか?福沢や丸山は主体的意志があったー教養を批判精神へ高めていく意志。福沢が過大評価した名誉革命(=脱宗教的世俗化の平和戦略)は、アイルランド人なら当惑するいかさまだが、天皇の道徳的神格化を相対化せんとした勇気ある闘いの事は忘れまい


堀 茂樹氏のツイート

記号と象徴は異なる。記号は恣意的(必然性なし)で、取り決めに拠るが、象徴するものと象徴されるものの間には、類似、類推、意味の示唆の関係がある。天秤→正義・公正、日の丸→日本、鳩→平和(タカはいくらなんでもを平和の象徴にはできない)、♡→心、など。



・ギリシャ文化は、プラトン「クラテュロス」によって、あの聖書の物語の読者が直面するのと同じ言語学的問題を提起することになった。事物をその自然本性(ピュシス)に従って名づけた単語があって、それらを<立法者(ノモテテース)>は選んだのであろうか。これがクラテュロスの説である。それとも、人間の法律または規約(ノモス)に従って事物に言葉を割り振ったのであろうか。これがヘルモゲネスの説である。・・・ソクラテス(プラトン)は自分の説を提示する。認識は私達が名前に関わる事によって生まれるのではなく、事物、より正確にはイデアに関わる事によって生まれる、と(エーコ)

・完全言語の歴史はひとつのユートピアの歴史であり、失敗の連続の歴史である。しかしそうであるからといって、失敗の連続の歴史そのものは、必ずしも失敗に終わる訳ではない。それは実現不可能な夢を屈する事なく執拗に追い続けようとする歴史であるにしても、この夢の起源を知る事は興味深い(エーコ)


・聖アウグスティウスが考えているのは、あらゆる民族に共通の、言葉ではなくて事物そのものによって表示される言語である。こうして世界は、神の指で書かれた書物となる。この言語を理解してこそ、聖書の寓意的なくだりは解釈できるだろう。それらのくだりでは聖書は世界を飾る調達品(草、石、動物)によって語っており、それらの調達品はいずれもが象徴的な意味を獲得しているからである。しかし、この創造主のさだめた<世界言語>について、わたしたちにできることといえば、ただ解釈のみである。<世界言語>という観念は、たちまちにして動物誌、鉱物誌、百科全書、世界絵図を生み出し、これらの生産は中世の全期間を通じて続けられる。ヨーロッパ文化が、真理は、エンブレム、インプレーザー、象徴、封印によってしか表現できないと考えて、エジプト神聖文字等の秘教的な表意文字に目を向けるようになったとき、<世界言語>は、私達の辿っている歴史の中にも入り込む事になる (エーコ)

・聖アウグスティウスにとっては、ヘブライ語は「言語の混乱」confusio linguarum 以前に誕生した人類最初の言語であり、混乱(バベルの塔の崩壊)が起こった後には、選ばれた民によって保持されてきたのであった。しかし、彼は、それを回復する必要を少しも感じていない。(エーコ)

Miracles are not contrary to nature, but only contrary to what we know about nature. Saint Augustine

・「象徴というのは、さらに奥深くに秘められたなんらかの秘密の指示記号のことである。換言すると、象徴の本性は、私達の心を、外観によって私達に与えられる事物とは大きく異なったなにものかの把握へと、なんらかの類似を介して、導いていくことにあるのだ。そして、それの特性は不分明な表現のヴェールのもとに覆われたり隠されたりしているということにある。それは言葉からなってはおらず、符牒、記号、図形を通じてのみ表現される」(「完全言語の探求」より。エーコによるキルファーの引用。"象形文字は奥義伝授される象徴とみなされるのだ" )


・ダンテ自身のつくりだす詩的言語こそは光輝ある俗語の最高の模範なのだ。それはひとりの近代的詩人がポスト・バベルの傷を癒す方法に他ならないのである。・・・発明可能な唯一の完全言語、つまりはダンテの詩のイタリア語の、条件、規則、言語形式を確立する努力と受けとめなければならない
ダンテが言語の多数性を非難せずに、寧ろそれらの諸言語のもつ殆ど生物的な力、諸言語が自己を革新して時間と共に変容していく能力の方を重視しているのは、この様にして大胆にも自分が完全言語の再興者の役割を担っていると考える事によっている。ダンテは自ら新しいアダムになろうとするのだ (エーコ)

The average belief is 26 percent of crime is committed by immigrants, but the correct answer is 1 percent. The median belief is 20 percent, thus, half the population misperceives immigrant crime levels by 20 times the correct number, or more. 14 percent of respondents believe that half or more of all the crime in Japan is committed by immigrants. Such a large number of the population with such beliefs suggests that this measure is actually testing anti-immigrant feelings rather than a rational calculation of risk 3
(Richey, Sean)

「犯罪の何割が外国人によるものかを問うたところ、正解1%に対して平均値は26%。中央値は20%であり、半数の回答者が外国人の犯罪率を真実の値の20倍も高く誤認している。回答者の14%は日本の犯罪の半数以上が外国人によると信じている。」


イェルムスレウHjelmslevの自然言語の記号論的モデルは、ドゥルーズ=ガタリ「ミル・プラトー」を規定する基底の一つである。D=Gはこのモデルを修正した上で依拠した理由に、規約主義(ソシュール記号学とウィットゲンシュタイン言語ゲーム)では、ゴダールを分析できなかったからだと思う

自然言語(記号論的システム)においては、「表現」の次元と(語彙論的体系と音韻論的体系と統辞論的体系)、私達に表現可能な諸概念の宇宙をなす「内容」の次元からなる。各々の次元は「形式」と「実質」からなり、形式と実質の両方とも、素材または連続体を組織化することによって成立する(エーコ)

ゴダールが魅了されているのは、表現の実質(観客に観られた映画のすべての歴史)である。その表現の実質から、表現の形式(モンタージュ的パン、パン的モンタージュといった編集)を再構成しようとはするが、但し、表現する内容の形式(例えば、セルフバイオグラフィー)については常に混乱する。

完全言語としての映画の探求は、表現の新しい実質を通して、未知にして無形の、いまだ可能性だけからなる、ある内容の素材を発見せんとする(アウシュビッツを撮った映画、存在しなかった唯一の真実の映画)。ゴダールの表現の形式は、脱領土的連続性によって、コンセプチュアルアートの外観を呈す


こんばんわ。はい、ジョイス読みにとって、完全言語はオブセッションなんです・笑。成程成程と、膝を叩きながら読んでいます。ゴフの緒言はいいですね。私にとって難しく感じていたイェルムスレウHjelmslevのモデルを使って、生き生きと分析しているのは、流石ですね


各国労働組合はソ連崩壊と共に消滅した。日本労働法研究が「人間の法と労働法」というのは隠蔽だ。最初から「レーニンの法」しか存在しなかった。同様に、各国与党(自民党)はレーニン党右派、野党はレーニン党左派だったから、結局、現在全部が消滅したー残った唯一のものは民衆とファシズムの対決だ

労働者は、生産手段(資本)からの立ち退きを受けると、翌日街頭で飢餓で死ぬ。故に、契約法から独立した、労働法の領域に生きる事を決めた。日本の労働者の権利はかくの如き混合戦略だった。共同体(互酬的「与える」)+国家(「富者から奪って貧者に配る」)+レーニン(各国前衛党による世界再生)

「理系」から「文系」を切り離す理由ー「金」と「情報」は「理系」にしか扱えない高度なシステムだから?「理系」に任せれば、原発ポスターが約束した「安全」が到来するとでも?原子力ムラ天才集団によるコスト計算の超楽観主義しか選択がないのか?「安心」を求める非効率性は文系的な蒙昧性なのか?













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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろねこー、かく語り き 2011年月12月(後半) 本多敬 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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