言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろねこー、かく語り き  二月 (後半)

<<   作成日時 : 2012/02/21 23:57   >>

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現在構想中の「場の詩学」とは、「声」を場の震えと理解し、「書くこと」を場の徴づけとして観察する。「手」は場の記憶、「顔」は場の治癒、「身体」は場の愛撫である。「映像」、「眼差し」、「音」、「貨幣」は、場の閾、場の交換、場の広がり、場の経済学に対応する。詩は場の存在性のことであろう

日本人は他国の国政は知っていても、地方自治について関心を持つ人は少ないですね。ヨーロッパの都市の多様性は、各々に近代国家以前の自治が存在していた歴史と関係がありそうです。トリエステにいくと、EUの旗、イタリア国家の旗、中世自治都市であったトリエステ市の旗が常に一緒に並んでいました

反復ならざる反復とは何か?例えば水星の近日点といえば、一世紀あたり43秒角ズレる。相対論が記述した惑星軌道は、楕円ではなく、同じ場所を辿らない一種のらせん。反復を比喩的に説明したのは浅田彰「ヘルメスの音楽」だった。反復の彼方に逃走が指図された。闘争を無視した読みは時代の制約だった

交換価値に対する闘争にシニカルで、「ズレ」を強調する反復の捉え方には、使用価値の領域に対するポストモダニズム的な過大評価が反映されていた。八十年代の吉本隆明のマスイメージ論は、テレビコマーシャルが可能にする、高度資本主義社会における無意識の生産を称賛した。原発コマーシャルもかよ?

Noam Chomski;Do not become overly obsessed with local situations and local events, the revolution must be international, dissent must be global.

自分の唇の上に言葉を休まずダンスさせていると揶揄される程お喋りが多いです、アイリッシュは、最北のラテン系ですから・笑。比べるとイギリス人は寡黙。プライベートとパブリックに使い分けるんです。私とそのイギリス人の二人しかいないのに、第三者に向かって演説調で話すとか、不気味でしたな・笑

フランス人には沈黙の美意識があります。余白に、クリエイティブな哲学の場の成り立ちを見出せるのですね。「5分以上の横移動」「生活の音が消えた環境音だけの映像」は全然問題はありません。むしろもっと長い時間を要求する観客もいるだろうと思います。沈黙に我慢できんのは米国の観客だけです・笑


映画を観た後に感想を語るのは、見た夢を聞かせる様な所があります。どう語ろうが語る人の勝手で、唯一の解釈はあり得ません。だからこそ、映画は民主的だとゴダールは指摘します。しかし感想を書くとなると別の話。意識的な訓練を経ないと書けません。そもそもこの分野は日本語教授の様に規格化されていませんしね。実際に流通している映画批評は、不自由なものばかりで、監督の背景を探偵的に紹介するか、マーケット的欲望ー女優・化粧品・洋服の話に終始しがちです。シネマテックのラングロワの教育は色々な映像を混ぜて議論させたといいます。見た事、感じた事、考えた事を自由に語らせるのです、子供達に。その子供達は、ゴダールやトリフォーやリベットの事なんですがね。私も、シネマテックに通って独学した農民出身のフランス人監督のもとで、そんな風に勉強した時期がありました。思い返すと、大変非常に充実していました。ちなみにその先生がシネマテーク通っていた当時、映画キャメラマンのアルメンドロスが常連として来ていたそうです。共時的・通時的な映画のネットワークが存在していたようです

戦争だからといって都合よく自分達の正義の拳をあげ好き勝手に敵を処刑する前に考えなければならないのは、戦争中にも法が存在する事だ。大きな悪に対する戦争のつもりで好き勝手に極刑にできる訳でもない。「死刑は、少年が行ったどのような犯罪に対してもこれを科してはならない」(国連の北京規則)

「死刑は、少年が行ったどのような犯罪に対してもこれを科してはならない」、この国連の「北京規則」は、法的拘束力がないが、1985年に国連で採択され、日本も賛成している。


趣味は?との質問に、哲学と答える女性が結構います。フランス人には沈黙の美意識があり、余白に哲学の場の成り立ちを見出せます。日本人にはそうみえます。これに関連して、三島由紀夫が映画制作のとき「もっと影をつけろ、フランス人は影が好きだから」と要求したのは、余白の影のことだった思います


アイリッシュに「ご趣味は」ときくと「詩を書くこと」と、答える人が多かったです。昔新聞で興味深く読んだのですが、子供時代にレイプされた被害者と留置所の神父の間にも詩の交換がありました。謝罪の気持ちを詩に託すのです。一種の外交ですね。飛鳥・奈良時代の漢詩は外交的交流を担う共通語でした


フランス人というのは、絶対に人に合わせません。協調派の日本人にはそうみえます。大変理屈が立つという事もあり、言い合いが起ると、会食しながらでも長い議論をエンドレスに続けます。あの喋るエネルギーは、創意工夫のフランス料理と関係があるのでしょうか?素材中心の日本料理とは全然違いますね


「イメージが言葉に依拠したり、イメージからぬけ出したり、イメージを自らのなかに入りこませたりする」。ゴダール流の言い回しで、正義と法の関係を語っているように思われる。「イメージ」は正義に、「言葉」は法に対応するだろう。何故なら正義は現実と理想のギャップを見る能力と関係しているから


「イメージが言葉に依拠したり、イメージからぬけ出したり、イメージを自らのなかに入りこませたりすることはあります」とゴダールはいう。例えば車窓を眺めながら美術書を開く乗客のことを思い浮かべよう。「イメージ」は越境する列車に、「言葉」は外国語(フランス語、フレンチスイス語)に対応する


1789年のフランス革命は、正義の映像がブルジョアジーの言葉に依拠した革命であった。ブルジョアジーの言葉は反動的に、民衆の映像からぬけ出したり、それを自らの中に入りこませたりした。正義の映像から抵抗したのが七月革命と二月革命とパリコミューン、68年革命と現在の反グローバリズム運動


1789年のフランス革命は、正義の「映像」がブルジョアジーの「言葉」に依拠した革命であった。しかしブルジョアジーの「言葉」は反動的に、民衆の「映像」からぬけ出したり、それを自らの中に入りこませたりした。それに対して正義の「映像」から抵抗したのが七月革命と二月革命とパリコミューン!


さあ正義を語ろう、ゴダール流で。「イメージが言葉に依拠したり、イメージからぬけ出したり、イメージを自らのなかに入りこませたりする」。つまり、正義=イメージ、法=言葉。ネオリベ市場主義が語る法=言葉に対して、約束と現実のギャップに幻滅した正義=イメージは、この法から抜け出そうとする


1.プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。−主体の解釈学−

<東京演劇アンサンブル公演「荷」(チム)のパンフレットより>

「荷」−鄭福本(チョン・ボックン)ー作者の言葉ー

演劇「荷」は苦痛と治癒に関する物語だ。近代史における韓日関係は、基本的に暴力の被害者と加害者間の問題である。国家、民族などという言葉を取り去って見れば、事の本質は簡単に現れる。
暴力の被害を被った人々は、その被害を克服し、健康な生を取り戻すために、まず治療の過程を耐え抜かなければならない。非人間的な虐待を受ける間、魂に刻み込まれたすべての傷と自己侮蔑の恥辱から抜け出して、自尊心を取り戻し人間性を回復するためには、自分自身と必死に闘わなければならない。

相手に対する怒りの表出や断罪はその次の問題である。百年近い時間が流れ、世代も変わったが、韓国社会はいまだに集団意識に刻印されたそのトラウマから自由ではない。加害者側に属していたからといって、人間破壊の現場を見守った日本人達の心の中に葛藤や苦しさはなかったのだろうか?

私はそんなはずはないと信じていた。そして浮島丸に関する資料を調べながら、それを確信することができた。一部の韓国人の努力がなかったわけではないが、浮島丸事件の真相を突き止めるために、より積極的な努力をしたのは日本人達だった。偏見なしに真実を正そうとした日本人達の努力がなければ、

この事件はその時代の他の多くの事件のように、疑惑の闇の中に葬り去られてしまった事だろう。数多くの遭難者らを救助し、死体を埋葬してくれた舞鶴の住民達の証言を読みながら、私は、私達人間が持って生まれた尊厳性に感謝した。どんな悪条件、暴力的な時代の流れの中でも結局人間は人間を愛する

そして結局は善意が勝つのである。

<日韓演劇フェスティバル。ブレヒトの芝居小屋にて現在公演中Tel03-3920-5232 PC http://bit.ly/xMHezd 携帯 http://bit.ly/xLhFP5


敗戦の年八月、強制労働と慰安婦を強いられた多数の朝鮮人をのせた浮島号は爆沈してしまう。彼等の存在は、米国資本主義の駒として再出発する日本と朝鮮双方に都合が悪い負の歴史。故にこの歴史は隠蔽されたのだろうかーEU加盟と外資導入を契機にアイルランドから北の紛争地域が周縁化されて行く様に

「荷(チム)」の感想

敗戦の年八月、強制労働と慰安婦を強いられた朝鮮人達は、浮島号に乗船しました。しかし演劇「荷」が呈示するように、彼等・彼女達の存在は、日本と朝鮮双方に都合が悪い歴史だったのです。経済を優先させた「復興」のためと、米国資本主義のために働く駒として再出発するには、そうした歴史の認識は、役に立たないどころか、邪魔なものですらあったわけです。こうして結局、浮島号爆沈が起きました。本当に起きたことは隠蔽でした。つまり浮島号爆沈によって、歴史が、隠蔽され周縁化されてしまったのです。演劇「荷」の観劇で、このことをはっきりと認識することできました。このことに関連してですが、演劇「荷」は苦痛と治癒に関する物語だ、と鄭福根氏は語っています。つまり、歴史の開示は、単に隠蔽を剥がす認識以上のもので、人間が人間を愛していくプロセスにほかならないとを鄭福根氏は伝えています。
強制労働と慰安婦といえば、<軍・官・政・財・マスコミ>一体構造によって推進されました。ここは、鄭福根氏が告発している重要なポイントだと思います。(生憎、今日の原発推進を可能にした同じ一体構造ですよ!)。ところで、日本軍による慰安婦の組織化は、私達の心に「人間であるがゆえの恥辱」を植え付けました。アジアの女性達を慰安婦として働かせたこと、それをさまたげる可能性も力ももちあわせていなかったという恥辱です。こういう恥辱は過去のものではありません。「人間であるがゆえの恥辱」はまったく現在のものです。慰安婦は存在しなかったとする大臣の演説や、楽天家のバラエティー番組的お喋りをきいたりするとき、私達の直ぐ前に恥辱があるからです。
最後に、強制労働と慰安婦は、<軍・官・政・財・マスコミ>一体構造によって推進された以上、その問題解決は、再び<軍・官・政・財・マスコミ>一体構造に委ねる事が不可能であるし、また倫理的にすべきではありません。韓国と日本の民衆が直接自分達の責任において、歴史の開示と和解に関わっていくほかないと思います。そして、この自覚から、例えば、演劇が呈示できる事はなにか?、自分を含めた私達観客の責任は一体なんだろうか?といった積極的な問題提起もはじまるのではないかと私は考えます。


@橋下さん、petitio principiという誤った論証を知ってますか?まだ証明されてもいないことを、もう証明されたかのようにして議論を進める事。例えば「憲法九条がない国には住みたくないー>米国は憲法九条がないー>だから日本もそれにならって間違った憲法9条をやめるべきだ」


アイルランド国営ラジオ放送はやたらショスタコをかけていた理由は、彼がショパンと同時代のロマン主義作曲家ジョンフィールドの仕事を研究していたから。サーカスから映画ソングへ、ロシア民謡からバッハへ、ショスタコの誤魔化し進行して行く様なピアノ曲。今日はアレクサンダーメリンコフを堪能した

古代ギリシャ、純度100%の銀貨発明。見知らぬ他人とも安心して交換可能に。人口急増、交易範囲拡大。腐らぬ、永遠の価値持つ銀貨。貯め込むことで、安定した未来を望める。自分の死後も、家族を守る手段に。「もっと欲しい、たくさん持つ者が羨ましい」…格差に嫉妬、奪い合いの虐殺も増えてゆく。

集団から切り離された個人の誕生。集団からの孤立と解放。己の才覚に頼る自己責任社会(成功例:奴隷の身分から立身出世、市民権を手にしたアテナイの実業家パシオン)。アテナイは銀産出量激減で没落。古代ローマが覇権握り、純銀100%だったコインの銀含有量を最終的には2%まで減らして発展。

今日のバブル崩壊とほぼ類似の事が起きていたようで、貨幣が齎す繁栄と絶望、虚栄と失墜の繰り返しの中からギリシャ悲劇が誕生したと英国の新聞が分析していたのを思い出しました。真偽は分りませんが、そうして意識すると、成程、古典劇が身近なものとして読めそうですね

海外で自衛隊は何をしてるのか?国民は知らないし知らされる事もないだろう。もはや憲法9条は軍隊の暴走をストップできない。しかしなお右翼政治家が9条をいじりたがる理由はなにか?彼等にとって9条はなにか無視できないものだとしたら、そこに言葉の力としての9条の存在理由がある。私達の言葉だ

海外で自衛隊は本当に何をしてるのか?国民は知らないし知らされないままだ。現実に鑑みると憲法9条は無視されてきた。しかしなおタカ派政治家がこの9条をいじりたい理由は一体何か?9条は、彼等にとってなにか無視できない書かれた言葉の力として現れて来た。少なくともここに言葉の存在理由がある


法システムは古い処罰の機能の仕方のことで、中世から17−18世紀まで主調だった。規律システムは近代システムとも呼べるもので18世紀から主調となった。安全システムは現代のシステムであり、その問題設定が登場したのはかなり早いが、まさに今、これが主調となりつつある。−安全・領土・人口−


命令形の言説によって貫かれていたり下支えされたりしているだけの理論的言説や分析などは存在しないということ。なすべきことに関する次元は現実の力場の内部にしか現れえない。この力場においては、語る主体が単独で自分の言葉から出発して創造することなどはできはしない。−安全・領土・人口−


ホホー、詩のタイトルが決まったぜ。間違った推論の仕方のひとつである、藁人形=straw manは、いいんにゃないかニャ。[ 天使を抱くんなら、神さまの数の内部のなかで抱かなきゃだめだめ。太陽だって、ねこを抱くときは、水星の近日点移動のなかで抱いているんだからね。ちがう?]

私見ですがミルトンならヘブライ語で読んで考えた部分が重要だったと。共和主義者として、ラテン語訳聖書に反感があったはずです。スピノザ的バクーニン的にいえば、神と闘う知識を人間(サタン)に与えた蛇こそ真の親。闘いに破れただけで悪ではないと訴えていますね

Take power away from the ruling elites by disrupting the smooth flow of power, by creating hurdles and ideological barriers. Noam Chomsky

Noam Chomski ‏; Power is highly dependent on its smooth flow through the minds of the people, cut this flow, rough it up, make it difficult.

Friendship is a single soul dwelling in two bodies. Aristotle


・BBCは資本主義に走る野蛮な英国人を啓蒙するソーシアリズム的帝国と揶揄されてきたが、ブレアー以降そうでもない。BBCラジオは健闘している。BBCのように少しは揺る不和的に喋って欲しいのは、Jなんとかのおねーさん達ね。なんであんなに米国語アクセントでゆるふわに共感的に喋れるのかい?

・あの頃は兎に角外国と通信できれば嬉しかった。高校の同級生などは、当時百万を越える大型アンテナを買い毎晩地球の裏側から届く声を傍受していた。言葉なんか分らんが凄く開放感があってその勢いで学校も辞めちゃった。ゴダール映画の中にもそんな感じで北京放送の傍受に喜ぶインテリ達が出てくるxx

・八十年代に自主ラジオ放送の意義を説いていた連中が現在、ツィッターやフェイスブック、ユーチューブに無関心なのは一体どうした事だろうね?ユーチューブで反原発、反戦、反グローバリズムの映像を編集し発表した。商業主義とオィデプス的「運動会パパのお楽しみ」の大津波の中で存在感を示すのが課題


高校時代、東京文化会館音楽資料室には本当にお世話になった。学校の帰りに、時々は、週一回ぐらいは・笑、学校サボってここに来て、ワルターが演奏するマーラの音楽とかを聴いた。利用したのはレコードばかりで、本を読まなかったのが残念。しかしTwで現在、タメになる音楽の知識を届けてくれている


今も昔も、検閲の意味すら知らない学生が、悪い事をしてなきゃ検閲も困らないはずでしょうと平気で言う。ミル「自由論」といえば、当時建学百年を祝した大学はこれを百万円で購入しガラス箱の中に展示し得意になっていた。私には、それが磔に思えた。サークルの新入生達に翻訳や原文を読ませたっけなあ

ミル「自由論」も、偉い人の偉い言葉に向かって頑張ろうのような本だ。しかしアイルランドでは頗る都合が悪い。植民地の住民達は人権の享受主体でないとミルは平気で言っている。ファノンを引くまでもなく、ミルの自由論は資源ナショナリズムの敵である。幻滅したが、私は右翼ネオリベにはならない・笑



右翼ファンを称する多くのTLを読むと、高校時代に日教組的左翼の先生に翻弄された体験のようなものを内気に綴っている。確かに、高校の先生の言葉というのは、偉い人の偉い言葉に向かって皆頑張ろうみたい所があるけど、それに幻滅したぐらいで、日の丸起立の思考停止型体制順応主義者になるのかえ?


ご同意です。マルクスはナポレオン3世を非難する一方、アイルランド的ボナパルティズムに幻想を持ちました。ナショナリズムに翻弄されたのです。アイルランドでも民衆を代表者はただのブルジョアですが、英国を打倒できるのではないかとポジティヴに捉えたのですね




ポピュリズムの政治家は、誰も代表しない事によって全員を代表してしまうファシズムの端緒である。もしポピュリズム批判が許されないのなら、ファシズム批判もできなくなってしまうよ☛「ポピュリズムの否定は民主主義の否定です。・・・ポピュリズム批判は原則としては成立しないと思っている」(東)



その「やる気」が80年代の原発ラッシュでした。高度成長「郵便的」復興幻想☛「日本人にやる気をもう一度取り戻させる政治家が欲しいですね。テンション高くないときついですよ。全体的に鬱というか、アゲアゲ感がない。バブルのときは傷も大きかったですけど、ギラギラしてましたよ、みんな」(東)


イシカワ トモヤ ‏

普通選挙導入後の代表制の失効(というか欠陥の露呈)、すなわち代表するものとされるものの不透明化が、ボナパルティズムの素地になった@owlcato: ポピュリズムの政治家は、誰も代表しない事によって全員を代表してしまうファシズムの端緒である

アイルランドは農民と労働者が蜂起して独立した国だから、労働者は堂々とし存在感がある。外資に頼っている以上、上司が英国人のことが多い。彼等の作業の指示に従うが他の事は一切無視する。ボスは何も言えなくなっちゃう。郵便局労働者も威張っていたな。仕事がいい加減などとまさか言えない・笑

自分に来た大事な小包が二ヶ月間放置されたとき、穏やかな私も、さすがに怒りでキレた。「仕事がいい加減だ」と言ってみた。この宛先が読めんのか、お前たちわああああああ、みたいな感じで。と、彼等はその小包になにか書き殴っている。受けとって家に持ち帰りこれを見たら大きな字で、to MADy

最初に、オリーヴオイルにニンニクとアンチョビーたっぷりとほうりこんで1分ぐらいさっと炒めたあと、そのままピーマンとタマネギとトマト、ローレル(葉っぱ)を入れて炒めて召し上がってみてください。楽々すぐに出来ます

かきを炒めるのなら白ワイン、生ハムと召し上がるのなら赤ワインです。ギネスといえば、liquity foodといまして、昼間から三杯ぐらい堂々と飲みます。昼ごはんに行こうと誘ってくれて行くんですが、皆食べないんです。専らliquity foodでして・笑

「文楽を理解しろ」という発言に関して。案の定、橋下氏が勝手に言っているだけでそんな事を言った事は無いと木ノ下氏からの反論があった。文楽を鑑賞できる十分な休暇を会社に認めさせる事こそ、あんたの仕事じゃないの、橋下さん?[橋下の文楽批判に対して、「木ノ下歌舞伎」の木ノ下裕一氏が反論]


Nature consists of facts and of regularities, and is in itself neither moral nor immoral. It is we who impose ourstandards upon nature, and who in this way introduce morals into the natural world, in spite the fact that we are part of this world.   Karl Popper ‏

In so far as a scientific statement speaks about reality, it must be falsifiable; and in so far as it is not falsifiable, it does not speak about reality.



「ふくろう氏とねこ氏、極秘会談ーソース焼きそばは早めにふたをあけることで合意か」。(しかし、急ぐあまり青海苔をかけるのを忘れてしまい成果を発揮できず)



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