言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 3・11以降の、日本のネオリアリズム的終末とは? −反(脱)原発運動の一年を考える

<<   作成日時 : 2012/04/03 02:46   >>

トラックバック 0 / コメント 0

キートンといえば、チャップリンと並ぶ喜劇俳優で、無表情のカタストロフィー的風刺が売り物。米国の観客からみると、彼の振る舞いや行動や感情から、なにか無垢な勇敢さが伝わる。これがアメリカの風景に溶け込んでいるー鉄道員を演じた西部開拓の頃の風景だが。無声映画時代の愛国的アイコンなのだ。

「鉄道員」のキートンは一生懸命の仕事人。その一生懸命ぶりが、敗戦後なお降参しない兵隊の如き真摯さを喚起する。例えば、彼の蒸気機関車は、味方の軍隊の直進とともに進む。ところが気がつくと、いつの間にか敗走する敵の軍隊と一緒に直進しているのに気がつき、一瞬ひるむ。が、決してストップしない。

 キートンは無表情にシャベルでコークをすくい炉に放り込み続ける。無意味な直進と身振りと満足感。これらは拡散された状況、不確定で希薄な文脈、陰謀によって際立つ。まさに原発事故直後のデモ行進は、マスコミに無視された無意味な直進だった。しかしキートンの様には沈黙する訳にはいかなかった

あれから一年。昨年九月に反原発運動は六万の参加者を記録した。警察は囲い隠せない、マスコミも無視できない規模だ。しかし反原発を称する人々の中から、被災地に対する差別を口にする者達が現れ始めた。汚染されていない瓦礫に対して怒る声たち。あの無意味な直進と身振りと満足感の映像がよぎる。

爆発前の抗議の仕方、「子供を守る大地の母」路線では、原発増設を止めさせるには至らなかった。健康被害の危険性を訴えたが無視されたー現在無視されている様に。皮肉にも、安全ポスターの中には、人称化した原発を、子供を守る大地の母の如く、クリーンな健康の象徴として描くものがあったのだ。

原発の新設と輸出を止めるのは、民主主義しかないではないか。時間がかっても、唯一の方法であると思う。そして今後は韓国などの隣国の協力がないと解決できない問題だと気がつき始めた。ただ韓国の状況は日本と大体同じだし、民主主義に訴えるにも、国会の前には数百人しか集まって来ないのが現実だ。

何故、政府の中心で推進派がかくも大きな力を持っているのだろうか?例えば核武装の夢のことがある。これは核の神秘化の領域である。米軍基地をはじめ米国従属を断ち切る為に、国家の真の独立の為に核武装が欠かせない、と、誰も明示的に語らないけれども、沈黙ゆえに、これは力をもってしまうのだ。

民主主義は対話である。つまり、対話は、神秘的に超越化された領域に侵入し、これを相対化し無化してしまうやり方、世俗化なのだ。例えば、核の思想の記録化は核の存在論的超越化を無効化できるひとつの方法だ。おそらく、もはや犠牲のシステムを強調し祈るだけでは、隠蔽かされてきた核の超越化を相対化できないだろう。これから、ふたたび、反原発運動に決定的な抵抗をもたらすのは、推進派核武装論者との対決と厳しい討論である。神秘のベールを剥がす言葉の場が導入されるべきなのだ。とはいえ、今後の困難な課題のことをおもうと、キートンよろしく、ふたたび憂鬱な表情になってしまうのだがね(溜息)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
3・11以降の、日本のネオリアリズム的終末とは? −反(脱)原発運動の一年を考える 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる