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zoom RSS <語りの特権性>とはなにか?

<<   作成日時 : 2012/05/17 13:55   >>

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<語りの特権性とはなにか?>

哲学者ソクラテスでも文学者バルザックでもいいんですが、近代の「語り」は、体系を語らなくてはなりません。近代は、ルネッサンスから始まりますから、体系を見渡す専門性が要求されます。と同時に、専門の特権性に閉じこもっていては、社会的に語ることができません。ここで、「社会的に」がポイントで、「共同体的に」ではあり得ません。人気エッセイストのファンクラブ的な語りは「共同体的に」語っているだけです。<語りの特権性>には「大胆さ」が要求されますが、この要求は、専門性を否定していく外部的な位置と関係していると思います。
また、<語りの特権性>といえば、今述べたこうした「大胆さ」のほかに、おそらく、パスカルが「繊細」「幾何学」と呼んだ精神の働きを伴なわせていくことが決定的に大事でしょう。結局「語り」は大胆且つ繊細にあり、と思います。以下参考の為に、パスカルの言葉です。「幾何学。繊細。真の雄弁は、雄弁を馬鹿にし、真の道徳は、道徳を馬鹿にする。・・・規則など無い判断の道徳は精神の道徳を馬鹿にする。学問が精神に属しているように、判断こそ、それに直感が属しているからである。繊細は判断の分前、幾何学は精神の分前である」
 西田幾多郎は和辻哲郎ほどには、<語りの特権性>を持っていなかったようです。この点に関して、子安宣邦氏の指摘では、西欧と比べて日本における哲学者の不在が、文学者に、又は文学的批評家に<語りの特権性>を行使させているのではないでしょうか。フランスの場合ですと、私などは、文学的なゴダールを思い浮かべます。ゴダールは、映画の領域を超えて、何にでも介入してくる語りの特権を持っています。日本の場合は、東氏がそうかもしれませんが、しかし、実際は、<語りの特権性>は柄谷行人が最後で、かれ以降、新たな知識人は育っていない、と子安氏は言います。同感です。


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