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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろねこー、かく語り き  六月  (続き)

<<   作成日時 : 2012/06/25 22:31   >>

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あっしはね、単純に、直接世界と向き合ってるだけさ。小説の主人公と語り手が関わり合うようには、この世界とは関わちゃあいねーんだぜ。視界の前にいるちっちゃな雛形ふくろうねこさんが、あっしと一緒に映画のスクリーンを見る様に世界を眺めているのかい?笑止!語りえない嘘については、沈黙の刑よ


Finnegans Wake WOTD ‏
glistery (FW 403.24) adj. Sparkle or glister, combined with a bright, sparkling light or glittering, to give twice the brilliancy.


<パンパカパーン!東電大賞の発表でーす。見ざる、聞かざる、言わざると、民主主義の否定に貢献した人々に送られる賞です>「見ざる」賞は、朝日新聞記者達です。15万〜18万人(主催者)と1万7千人(警察)との異常な数値の差でも、現場で人数を自分で確かめなかったことが評価されました

<パンパカパーン!東電大賞の発表でーす。「言わざる」賞は、だれに?意外や意外・・・>「言わざる」賞は、デモの最中に、屁を垂れたことを黙っていたふくろうねこさんで−す。今回は自然エネルギー特別賞も受賞しましたよ。さあ、民主主義の否定にもっとも貢献した「聞かざる」賞の発表がありますよ

<パンパカパーン!東電大賞の発表でーす。さあ、「聞かざる」賞は、だれが勝ち取ったでしょうか?>「聞かざる」賞は、「大きな音がしますね」の野田さんが受賞しました!(あんたね、屁の音しか聞こえなかったの?)


プリミティブかどうかはさておき、これからは、原子力ではなく、原始力なのですね。「構造と力」の先見性はみとめざるをえません。個人の財産を過度に重んじる共和制的な"政財官学報"の主権的一体「構造」は原子力国家のことでした。そうならば、公共の共有財産を重んじる「力」の方は、原始力、即ちマルチチュードと革命のことでしょう。つまり、これが、Altermodernityのセールスポイント


6月22日 子安宣邦 ‏@Nobukuni_Koyasu
小田の1.デモスは民衆、人々、いわば小さな人間です。それからクラトスは力です。「民衆の力」というのがデモクラシーなのです。
小田2.日本では、デモクラシー=選挙です。日本にあるのは選挙主義でしょう。私はそういうことではないと思う。古代アテナイでは、選挙はほとんどやっていません。選挙をやり出したのはローマです。そのローマから独裁が始まったのです。
小田3.民主主義というのは、しゃべることによって成立する。言っておくけど、これはローマにはありません。ローマとギリシアと混同しないでください。ローマには民主主義はありませんからね。ただ選挙していただけ。日本と同じです(笑)。
小田4.われわれはすぐ、国家、国家と優先するけれども、市民を殺す国家なんて捨てていい、向こうへ寝返ってかまわへんとアルキビアデスはいうわけです。私はそうやって国家と市民とは平等だと思って生きているけど、皆さんも、そうやって生きてくださいよ。
小田5.虫は、はじめから地を這ってる。地を這いながら、われわれは否応なしに現実にいるわけ、同時に、目は上を見ている。目は無限の自由じゃないですか。はるかに自由な運動です。虫の視点でジーッと見る。認識というのが、非常に冷然と現実を見極める。これが非常に大事なのです。
小田6.民衆の思想というのは、howから始まると思うのです。whatから始まるのではない。「こうすべきである」というのではない。(それは)「これでいけ」となって強制が伴います。それは、失敗の連続だったわけです。いちばん失敗したのは、社会主義体制ですね。


"<小さな人間>の力が<大きな人間>の過ちを正す。それがデモクラシー"。小田実の言葉は簡単に英訳できない。豊かな複雑さがある。<小さな人間>は単に、ordinary peopleではない。理論家達よ、現実の政治にかかわり、謙虚であれ、<小さな人間>であれ、と言っているように思える

"<小さな人間>の力が<大きな人間>の過ちを正す。それがデモクラシー"。
"<小さな人間>の力が<大きな人間>の過ちを正す。それがデモクラシー"。小田実の言葉は、やさしい語り口ではあるんですが、いざ英訳しようとすると、中々簡単じゃありません。<小さな人間>は、作家的な言葉へのこだわりゆえの、豊かで複雑な思考をうちに含んだ言葉ではないかと思うのです。例えば、<小さな人間>は、ordinary peopleの訳語が考えられますが、しかしそう固定してしまうと、<大きな人間>の含む寓意的なニュアンスを生かした言葉がみつかりません。ところで、小田実の言葉を観察すると、彼は徹底してヒロイズムを排除している姿勢に気がつきます。比べると、小田は、丸山真男のようには言葉に酔いません。また、大江健三郎みたいに「かまとと」ではあり得ませんしね(笑)。世の中は、大変な不況ですが、しかし言葉の世界に関しては、ヒーローが余って余って、迷惑の極み。理論の刀を勇ましく振りかざす闊歩するヒーローによる「思い込み」のインフレ状態でしょう?"<小さな人間>の力のこと"を小田が語るとき、"理論家達よ、現実の政治にかかわることによって、謙虚であれ、人間的に人間らしい<小さな人間>であれ"、と警告しているように思えて仕方ありません。記号論も、構造主義も大いに結構、後は、行動によって、思想に対してどれだけの対価を払うかにかかっています。

詩の現存とは、来るべきものである。La présence de la poésie est a vinir.
この動的的な非決定性(cette indécision mauvante)こそ、言語に固有な空間の現実性そのものであって、ただ詩だけがーーーこの本来の書物だけがーーー、この空間の持つ運動と時間の多様性を確立することが出来る。(ブランショ『来るべき書物』から)

ホーホー、おひさしぶりニャ。ほんとうのところ、ふくろうねこの本音は、「近代 Modernity」でも「反近代 Antimodernity」でもなくてニャ、「別の近代 Altermodernity」なんですニャ。どうもお邪魔いたしました。オルター・ありやとーございました。 これに関して、中国の正体というのは、「近代」(ジジェクも驚く資本主義の中の資本主義)と「反近代」(官僚社会主義)から成るメビウスの環と考え始めました。キューバー・北朝鮮であれ、この日本も、所詮その変態。「別の近代」は、地球を舞台としたFW的多言語的空間の抵抗かと

「他の近代Altermodernity」はこれを言語の次元から考えます。言語というのは、皆が共有する公共空間だからです。国単位で考えると、「近代」と「反近代」が前提とする、財産のアプリオリな排他性に行き詰ってしまいます。地球を舞台としたFW的多言語的空間の抵抗は、不可能でしょうか

幸徳秋水が分析する通りです。たしかに、海外で苦労する中流はかならず、反射的に、愛国者になります。大使館のお偉方々は、中流出身でも、愛国者にはならないのは、かれらは現地スタッフを召使にして貴族と同じ生活を享受しているからです。ただし、知るという認識の次元に即して注意深く観察してみると、「海外のことをもっと知ったら、海外のヒドいところがわかる」は真で、「もっと日本が好きになるはず!」は偽です。なぜなら、「海外のことをもっと知ったら、海外が嫌いになり、かといって、日本も好きになることがない」という可能性もありだからです。そういう稀な人こそ、私は師匠と呼びたいのです(笑)
考え方によってはですね、大使である以上、貴族ぐらいのつもりで社交をがんばらないとね、毎晩パーティーをするとかですね。貴族でいいんですよ。逆に、社交ができなければ、ただただ駐在員とゴルフするだけの無能なゴルフ大使って、悪口いわれちゃいます。一般的に言って、外交官は、赴任した国の言葉ができるとはかぎりません。驚くかもしれませんが、できない場合が普通なのです。そこが問題です。例えば、アフリカからアイルランドに来た外交官は、フランス語を喋れても、英語が喋れない。英語も、アメリカ英語やイギリス英語よりも、なるべく、アイルランドの英語を喋る努力が必要ですが、そういう努力を億劫に思うのです、横柄といえば横柄なんですが、彼等は、現地スタッフを召使扱いとして働かせれば事足りてしまうから、そうなっちゃうです。自分達はなにもできない、召使に頼らなくては意志の疎通すらできないくせに、威張り散らす有様は、貴族そのものです。ま、この話は別として、外務省出身の大使というのは、海外では軽蔑されていても似非貴族ぐらいの地位はあるので、例外なく日本なんかに帰りたくないんですね。帰っても友達もいないのです。寂しい人たちが多いようですよ

You see, wire telegraph is a kind of a very, very long cat. You pull his tail in New York and his head is
meowing in Los Angeles. Do you understand this? And radio operates exactly the same way: you send signals here, they receive them there. The only difference is that there is no cat. Albert Einstein

金子良孝さんのTw

映画『大津波のあとに』の作品紹介を英訳する際、「被害者」という語は辞書的にはvictimだろうけど、
出来る限りsurvivorとした。カメラの前で語る人達は無力な「犠牲者」ではなかったし、被災地以外に住む僕らもまた大津波のあとの「生存者」であるという点で繋がれるという意味もこめた

さて、ヒロポンは戦前、《使いモノにならなくなった兵士》を再利用する目的で使われた。で、現在、抗うつ剤は《使いモノにならなくなった労働者》を再利用するために使われる。前者は軍が後者は厚労省が、国策として。勿論、いずれも失敗するわけだけど製薬会社は潤う。経済効果で「お国のためになる」

アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 ‏
seq1 器官なき身体はひとつの卵である。そこには、軸と閾、緯度、経度、測地線が縦横に走っている。また生成と移行、そこに展開されるものの行き先を印づける勾配がいたるところにある。――(上)p45

千のプラトー:資本主義と分裂症 ‏
seq1 ベイトソンは、どんな外部的な結末によっても中断されず、どんな頂点にも向かわないような連続的強度の地域を「プラトー」〔高原〕と呼ぶ。(…中略)一つのプラトーは一つの内在的断片である。――(上)p324

偉そうだな、この肖像写真は。世界を席巻したドイツ刑法学会日本支部会長的存在だった・笑。オカルト的な人格責任論を唱えたが、所詮西欧からの借り物で人の上に立つ植民地主義的知識層の端くれ。一票の価値を説くも、昭和天皇の助言者を務めた所が、悲しいアイデンティティー不足だったかな、団藤重光

「近代」即ち「ヨーロッパ」か?日本人は反論するだろう。「アジア」即ち「反植民主義」か?否である。例えば、親米派である台湾と韓国の財閥といえば、現在軍国主義とネオリベの中心的推進者。元々これらの親日派のエスタブリッシュメントは、独立運動と民主化に対して複雑な関係を取り続け今日に至る

大阪フィルも文楽も、スケープゴート工場"橋下"によって、金を吸うドラキュラ如き敵と貶められるのはフェアーじゃない。村八分の手続きに瑕疵ありだ・笑。国の補助金で大フィルと文楽が良質な文化を生産するものなら、知性的で社会主義的な制度に対する人々の信頼を築くのではないかと、彼はビクビク

東電総会に乗り込んだか。はあー?経営の透明化を要求するだってさ。こんな上司が部下に叱る調子の要求ではね。会社側に都合よく回収されちゃうかも。不動産登記探偵と批評を混同したあげく、嘗て機動隊に解決を託したテレビ人猪瀬直樹も、名誉職的ルーチンワークか。市民的介入のモデルとはならないぞ

経団連「おーい、ノダくん ! 国民から座布団三枚を取り上げて、総会ご苦労様の市長様と副知事様、それから東電様に、一枚づつ差しあげて下さい。こらこら、税金で座布団をとりあげちゃいかんな」。ノダくん「いけませんか?」。経団連「いかんいかんよ。効率が悪いじゃないか。この斧を使いなさい」

星野さんのご不満は、もっともです。どこを取り囲むかということが目標としてあります。基本的には、総理官邸を囲まなければなりませんが、まったく実現できていません。15−20万の数ならば、例えば、その一部がすこし離れた場所でカモフラージュ的に集まり、警備する警察を拡散させてしまい、そのまま総理官邸まで押し寄せてしまえば、戦術的に「勝ち」なのでしょうが、なにせ、指導者、指導団体が不在のデモの性質上、そういう戦術を取れません。ただ、団体の組織力を発揮できた60年や70年の時のような、プロレス的な意味での「闘争力」は全然ないんでしょうが、一人ひとりが自主的に参加してる現在のほうが、「質」がいいのではないかと、思ったりしています。来ている人たちは、義憤をどう身体的に表現していくか、発明していかなければならず、この発明は、昨年から始まっているのだと思います。本当の敵は、警官なんかではなく、「上品」でしょう(笑)。ロンドンの連中なんかは、警官に包囲されている間、中央銀行の建物全体をスクリーンして勝手に映画を映し出して、ワインとビールを飲んで、ガヤガヤと議論しあって、好きなときに動物みたいに、思い思いに野糞してますがね、どこの銀行であれドアの前は臭い臭い、罰を受けています(笑)。インターネットの力のこともありますが、結局、実際に「ここに」来た人たちの人数が大事なんだと思います


イデオロギー批判は、柄谷のカントの「読み」によって、批判の対象にされた。イデオロギーの中でも、構成的な類は警戒すべき(例、共産「党」宣言)だが、統整的な類は寧ろ意義深い(例、共産主義「者」宣言)と。反原発の理想に関しては、構成的か?統整的か?、正直言って私にはまだ明確に答えがない

思考とイデオロギー(観念、理性)は双子。ソビエトと東欧の崩壊、天安門事件等の歴史を目撃したバブル世代には、双子の複雑な関係がみえない。普遍主義的思考たる理性それ自身に限界があっても、どこまでも思考そのものは独立的に健全と彼等は思い込む。破壊的な懐疑精神と迎合主義が喋っている

Paul Valéry ‏
ポエジーは一種の生き残りだ。詩は、今日のごとき、言語の単純化、形式の変化、それらに対する無感覚、専門化の時代にあっては――保存物だ。という心は、韻文は今日発明されるものではないという意味だ。いや、いかなる種類の典礼も、今日発明されはしないはずだという意味だ。


原子力ムラ支部自民党が政権監視する混乱を解決すべく、東氏曰く「原発怖いです!で片付けば苦労しない...重要なのは、大飯再稼働ののち、なし崩し的に原子力ムラ復活をさせないための政権監視」。逆ではないか。理性的な監視の前提として、恐怖の原因を根本的に取り除けと人々は街頭に出始めたのに


「少女は眼差しで惹きつける。目で殺すとでもいおうか、耐えているのは初々しい親密」と、発天声人語による、「真珠の耳飾の女」(フェルメール)の感嘆の中に、金持ち親爺の吐息が洩れるナルシシズムだけに、カトリック下層階級の物を言えぬ使用人達を眺めた十七世紀勃興市民階級の欲望を再現しているー夜警の共和主義者ども

「少女は眼差しで惹きつける。目で殺すとでもいおうか、耐えているのは初々しい親密」と、発天声人語による、「真珠の耳飾の女」(フェルメール)の感嘆は、金持ち親爺の吐息ナルシシズムだけに、カトリック下層の物を言えぬ使用人達を眺めた十七世紀勃興市民階級の欲望を再現しているー夜警の似非共和主義者の俗物ども

子安宣邦氏のツィートより 
(6月30日)@Nobukuni_Koyasu

1.6.29.午後6時20分、地下鉄の出札から行列をなして路上に出た。首相官邸前の道路は先週の最盛時の状態であった。道路の両側の歩道を人が埋めていた。車道を含めてこの道路が市民に埋め尽くされるのは時間の問題だと思った。

2.1時間後には、警備の警察車も移動し、首相官邸前の道路は抗議する市民で全く埋め尽くされた。私は60年安保を思い起こした。だがあれとは全く違う。ここには組織された集団的参加者はいない。ただ原発再稼働に怒る10万をこえる市民がいるだけだ。

3.抗議参加者の総数は15万〜18万と主催者はいい、警視庁は1万7千とする(朝日6.30)。〈街頭に見せた市民の真実〉は抗議参加者が知っている。警視庁の数字はこの〈街頭の真実〉を直視することを恐れるものの虚偽の数字である。この虚偽の数字の上に偽瞞の政治があり、偽瞞の報道がある。


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