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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろねこー、かく語り き 7月 2012

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たしかに、「君が代」強制を契機に、民主主義の学校ではなく、ファシズムの学校をまっしぐらですよ。文楽の補助金は、朝鮮学校の補助金問題と完全にパラレルとなりましたね。中之島図書館の私有化・資本化、そして一部の原発推進者の核武装が行進してきました。バラバラのままでは抵抗はよわいです。それぞれの持ち味を保存・発展させながら、大きなひとつをつくりましょう。なんとか、「小さな人間」の力によって、「共通なもの」をつくることができないものでしょうか。間に合いますどうかか心配です。どうか、みなさんのご意見とお知恵を!


少数言語は保護すべきか?言語というのは、アングロサクソンの絶滅型同化政策的に、使用する人々の間のフリーマーケットに属する?オックスフォードソーシアリズム的には、少数言語は、<国が><図書館的に>保護しなければならない。ただ国の介入がナショナリズムと結びつく場合には常に問題が起きる

「今後自宅でゆっくりと検索、閲覧、保存が出­来る」からといって、それが、中之島図書館の様な公の共有財産を私有化・­資本化する合意を意味するわけではありません。例えば、今後はネット上の一般意思が可能ゆえに、集会デモの為の広場は要らん、広場は私企業に売ればいい、とあなたは思いますか?
映画は百年で時代遅れのメディアになりまし­たが、非常に古い起源をもつ本も図書館も、時代遅れになったと言う人がいません。一体的構造「本と図書館」もなにかを生産する能力です。それがなにか?公開の場での議論が必要だ。­ただ、新重商主義のネオリベにまかせると、全部銀行の抵当にはいりますよ

中之島図書館をカジノにしろと盛り上がる橋下支持者達。その一人が、「悪魔の心が働かないように祈る」と歌うフォークソング歌手の言葉に居酒屋的共感を覚える。自分の加害行為に鈍感で、自分の被害に過剰に敏感なあげく、戦時中新聞が同盟国の原爆開発成功を伝え前線の兵士を励ました事実すら知らない


Books are for use.(図書は利用するためのものである)
Books are for all.(いずれの読者にもすべて、その人の図書を)
Every book its reader.(いずれの図書にもすべて、その読者を)
Save the time of the reader.(図書館利用者の時間を節約せよ)
Library is a growing organism.(図書館は成長する有機体である)


公立図書館の私有化・資本化の問題を考えることは、TPPによる社会的共通資本の私有化・資本化の問題を考えることです。が、「本を移せばいい」、と、橋下氏は尤もらしく説得してきます。彼の巧みな説得の根っこはなんでしょうか?サラ金等の不良債権処理を手がけてきた弁護士の目先の発想なんですね


原発の問題を考えることは、放射能被害の問題や民主主義の問題を考えることです。が、「電気を足りなくさせてしまっては行政責任が問われる」と橋下氏は説得。彼が本当に心配しているのは、電力会社の会計上の損失をカバーする責任ですね。不良債権処理を手がけてきた、いかにも弁護士の目先の発想です


原発推進の「政官財学報司」の一体的構造。さてこれを語る「私」はどこにいたのか。九十年代を振り返ると、恥ずべき事実として、この構造の内部に「私」は存在していた。「政官財学報司+私」だ。原発推進の構造に対する抗議に、もし自身に対する抗議を欠いたら、はたして、抵抗の主体へ転位する事が可能だろうか?疑問である。

公害裁判支援運動に関わった九十年代までには、原発推進の「政官財学報司」の一体的構造を理解していた。電力会社の株主総会の場で抗議に行く仲間もいた。が、私は抵抗の主体へ転位する事がなかった。「政官財学報司+私」のままに、二項対立的に構造を非難できると勘違いしたー今日の新聞記者みたいに。

原発推進の「政官財学報司」の一体的構造。終わらないことを自らの力で終わらせられない構造の反復は、市民的介入によって、終わるほかない。さてドゥルーズは衒学的<日本のフランス思想>よりは政治的だったから、思考の映画の例として市民的介入を指差したはず。思考の映画は事件性であり他者だから。


哲学好きな若い人達に分りやすく?説明すると、「政官財学報司」は公理体系に、メタレベルの「私」はゲーデル的公理に対応する。抵抗の場所となるためには、この「私」という批判的機能が囲い込まれない位置はどれか?「政官財学報司」+「私」?「政官財学報司+私」?「政官財学報司+私」+「私」?


小さな人間の力は、即ち共通なものをつくること。共通なものを「つくる」意志が関わる以上、自発性が必須。例えば、反原発デモは、自分達の力で情報を探し一人ひとりが自主的に参加している。他方、共通であるとは所属であり強制された他律性だ。安保闘争の学生組織であれ労働組合であれ、自発性がない

小さな人間の力は、即ち共通なものをつくることだ。絶えず共通なものを「つくる」以上、永遠に共通で「ある」必要がない。また、「共通」=「同じ」、と勘違いした様なクイズ番組的ワークショップは全く無意味だ。それよりTL上の反原発連歌が参考になる。共通なものから多様なものが生み出されている

三月の国会前「人間の鎖」抗議者は千人。これは一万人になると思った。六月に首相官邸前の一万人を見たとき、十万になると思った。先週から十万以上の人々がここに。次は百万。小さな人間の力とは純粋な量だ。大きさは純量にとって外面的なもの。量の本質はまず原発を許してきた自身に対する抗議に存する

小さな人間の力は即ち事件性なり。「事件性」からの招待状は大歓迎、もし「構造」からの招待状ならば即ゴミ箱行き。原発推進派一体構造の様に、構造が齎した問題の解決は、再び構造に依拠することによっては不可能だ。事件性だけが、他者だけが、構造の反復を終わらせる。いま市民的介入こそが事件性だ


Sprechchor

シュプレヒコールは独逸語で、舞台で一つのセリフを多人数が声をそろえて朗誦することで、また、集会やデモで、参加者が一斉にスローガンを唱えることを意味します。さて、毎週金曜日、首相官邸前に投入されてくる警察官の増え方が目を引きます。地下鉄駅出口から誘導され、通行確保を口実に整列が命じられます。肝心のSprechchorは遠くに聞こえども、これに決して近づけない。これでは、抗議の形にならないではありませんか?と、人々の心配と不満を知らないのか、善意の?主催者はひたすら誘導指示。最後に、八時に警察車が終了時刻を告げると、抗議者達は疑問に思わずぞろぞろ帰って行く有様は、まるで警察が主宰するデモの様相を呈しています。誰がだれに対して抗議しているのでしょうか?滑稽にも、接近できないSprechchorは、カフカ「城」の不条理の世界です。昨年ノーベル賞作家や有名音楽家の呼びかけのもとで高らかに実現してきたデモなどは、辛い言い方ですが、幻想に過ぎなかったと思い切って現実認識しなければならないときかもしれません。これからが本当の始まり、一歩一歩です


反原発派と原発推進派との対立の深層には、対立する二つの政治が横たわる?<西欧・民権>型と<アジア・民権>型 vs. <西欧・国権>型と<アジア・帝国主義>型

反原発運動の根っこは反公害的べ平連的草の根運動、<西欧・民権>型だ。アラブの春やOWSからの影響は必然的。<西欧・民権>型は、中国亡命者のジャーナリストが反原発運動に共感を示す様に、<アジア・民権>型と連帯できる。核武装核輸出の原発推進派は<西欧・国権>型か<アジア・帝国主義>型

エンゲルスは、普遍的なものを幻想的なものとした。六十年代以降の吉本隆明はあまりにエンゲルス的だ。人類学的に、国家としての天皇を内から根拠づけ、国が関わる対外的契機(交通)を消去したら、それこそ「内なる天皇」(丸山)の方法と同じではないか?吉本は原発推進派の国家像を内面化するだろう

日の丸混入に「寛容」な人は、被爆者達が裁判を起こすときの困難な状況のことも考えて欲しいのです。公害裁判がそうでしたが、被害者にとって、「お上に逆らうつもりか!?」と村の仲間から村八分される非難ほど怖いことはないのです。日の丸は「お上」

石原の五輪への思入れは支配欲の産物。健全な身体に健全な魂=国家を宿らせたい。橋本の官僚叩きも、民衆支配の手段を奪い取るだけのものだ。彼らの中に溶け合う資本と国家の支配に抵抗するには?亡命するしかない。亡命者として自己の配慮のうちに主体化を構成する他ない。亡命者の力は即ち質問する力

公の共有財産は、資本に競売させてはならない。官僚に都合よく国有化させておく事も許されない。ネオリベと官僚が共に暗黙に所有する資本と国家の支配に抵抗するには?亡命者として、自己の配慮のうちに主体化を構成すること。亡命者だから、国=資本と対等な立場で、質問する正直者(馬鹿者)になれる


朝日の記者は自分で確かめない?「15万〜18万人(主催者)と1万7千人(警察)との異常な数値の差に、報道者は驚くべきだ。この差がもつ大きな政治的な意味をこそジャーナリストは追及すべき。だがそれをしない」。爆撃機のパイロットといえば、こんな感じで眼下の都市を無感覚に眺めるんだろうな

「英国は経済的に衰退したのに、世界中がこの国の民主主義を真似している。君の国もか?」。どうせこんな屁理屈でやっつけられたのでしょ?朝日新聞XX局長さん。「どうせ真似をするなら、根っこから」と考えては卑屈の極みよ・笑。私達は民主主義を真似るのではなく、持つのだからー英国人とともにね

無職それ自体を差別する人は、自分を、使用者たるブルジョアか財界と同一化している。滑稽な自己欺瞞だ。同様に、生きている芸術家への軽蔑を構成するものといえば、彼らが財産を持っていない事による。芸術家なら、アイデンティティーを財産の如く所有したがるこの一億総中流的拝金主義を嘲笑うものだ

民主党や自民党を選ぶ投票は気分というより、運任せの籤引き!だから、気分でも運任せでもない民主主義を私達が行うのです。デモに来なさい、知識層よ!ー>「高度な専門的知識を必要とする分野の事柄が、民意という名の気分で決定されてしまうことについては、これを憂える気持ちもあります」(国分)

イラク戦争の敗北と金融危機が齎した破産。が、米国に対する決定的な不信感は、彼らの拷問が暴露されたことだ。もう米国は誰も王と思わぬが、王位を明渡さない力だけは保持する。と、帝国の終焉に乗じて、血に飢える日の丸が「集団自衛権」を唱歌し始めた。今度はどこの国の肉をついばむつもりなのか?


拝金主義者は、自分の特異性を示すのに金に依拠する。ユダヤ人といえば、逆。金は彼らのヨソモノ性を隠蔽する力があるとサルトルはみた。同様に、無職とて金を持つ人は差別されない。無職それ自体を差別する人がいるとしたら、彼は自分をブルジョアと同一化している。一億総中流の幻想はそんな勘違いだ


中之島図書館に食らいつく前に。公共の共有財産は、過去の世代から受け渡されてきた。だからこれを未来の世代にも共有して貰わなければならないのではないか。橋下は、核のゴミを出しても知らんぷりの原発推進者と類似する。未来の世代の権利の為に、現在の食欲を邪魔されてはたまらないという傲慢さだ


資本主義は知識を重んじてきたが、七十年代までは、労働者を管理する知識しかなかった。情報やコミュニケーションへの依存が高まるに従って、生産の中心に定位する知識は、自由をテーマとして思考し出す。皮肉にもこれは資本主義にとっては危険な行為だ!反原発デモの若い参加者達を見よ!考える人々だ

高級カメラで街を撮る若い女性達ーこれは、デモ参加者に通じる所がある。主体として、空間を取り返したいのだー写真によって、闊歩によって。が、首相官邸前の若者達はそれだけではない。原発と資本主義をコントロールできない政府の根本的失敗を冷静に観察する必要がある。新しい生政治を生産する為に

ネオリベといえば、「分配」が決め手だ。橋下市長に遅れるな!公の共有財産は貧者達から奪い取れ!銀行なり金持ちに、惜しまず与えよ!That's all!そうして金持ちに与えれば、社会全体が豊かになるのだから?と、明らかにネオリベの失敗は、「生産」を軽んじた似非重商主義から来ているのだ

ネオリベ的グローバリズムの力は、世界銀行やIMFや世界食料機構等の資本主義の構造によっては、押さえ込めない。それは一国家や政府の力を越えてしまう。私有化という名の強奪に対しては、国に依拠した抵抗では限界ありだ。失敗するかもしれないが、占拠的なデモと市民的介入による抵抗しかないのだ

あらゆるものは、他のあらゆるものと関連し、無限の仕方で産出される。知識や情報やコミュニケーションがこのあらゆるもの。二人以上で共有された情報は、作用と反作用、相互影響によって、他のあらゆるものを生み出す。一人のプロによる独占なくして情報は自身を養っていけない現実は、資本主義の失敗

あらゆるものは、他のあらゆるものと関連し無限の仕方で産出される。知識や情報やコミュニケーションがこのあらゆるもの。ノイマンは関数的に考えた。あらゆるものの生産は、企業条件と市場条件を前提にする限り、<馬の鞍>的一致でしか行き詰りを回避できない程の稀な現実性を想定しなければならない

「東京漂流」は本当に、それほど漂流だったのか?福島から千葉のファミレスに逃げてきた家族を目撃した後に、何を語るか?である。「国土」喪失の憂慮であるずがない。そんな言説は再び人々に愛国的犠牲を求めるだけだ。元々「東京漂流」は単なる右側への漂流だったー執筆者も読者も気がつかなかなった

思想家というのは、頭が冷たく心が温かい。が、この全体主義的紋切型機械の方は、頭熱心冷。「人はそれぞれ多様な問題や権力関係においてマイノリティなのです」と、自身の言葉に酔う。人種・性・階級のマイノリティを、「人」という登録で中立化するこの隠蔽のもとに、かくも多くの卑劣な者達が集うか

「人はそれぞれ多様な問題や権力関係においてマイノリティなのです」は、注意深い判断が必要だ。例えば、西田幾多郎。結果的に戦争イデオロギー形成に責任があるが、軍部に抵抗しようとした、マイノリティとしての立場もあった。軍国主義を批判してきた者だけが、西田の反軍国主義を擁護できるのだと思う

「人はそれぞれ多様な問題や権力関係においてマイノリティなのです」(東氏)は、例えばオバマと橋下。もはやマイノリティが存在しないかの如く国策的に、エリートの門戸を広げたのがオバマ。ならば、橋下市長は小さなオバマか?闘い難い相手だ。しかしマイノリティの学ぶ権利が破壊されているのは事実

「人はそれぞれ多様な問題や権力関係においてマイノリティなのです」などと、「耐え難きを耐える」自身のこととして人生談を語る東氏に、大きな拍手を送る前に、考えておかなければならない事がある。果たして東氏はこれを、学ぶ権利が破壊されているマイノリティの子供達に向かって言えるのだろうか?

関東大震災は、第一次大戦の欧州を主舞台とした総力戦の荒廃と同じ意義をもった。反体制運動と前衛芸術は震災後に開花した。大正といえば、世界同時性とコスモポリタン(現在ならOWR)。但し後ろ向きな内面化と戦争体制の迎合も一緒に進行した。歴史は繰り返されるとしたら、マスコミの翼賛体制から

「古の神話を踏まえて」で始まる天声人語。「日本の自然は美しさと非情が相混じり」と語る。アイリッシュも地理の人間的表象を好むが、彼らの文学はそれほど単純ではない。特定の誰々が語ったかが重要でない神話(例、安全神話)に、誰が書いたかが重要となる歴史(例、マスコミ)を衝突させないと、ね?

「古の神話を踏まえて」で始まる天声人語は、「日本」「国土」の語を頻繁に使う。意地悪なイギリス人ならば、国威発揚的国境プロパガンと揶揄する代物。「自然」の外側は敵国に属すも、「自然」の内側は産業的によく開発されたわが「国土」也。地震による原発災害などで国力を弱めてはならんとする発想

対日請求権に関する日韓交渉の議事録をネットで読む。戦争犠牲者であった個人の請求権に関する検討もあったが、国家補償や経済協力の談合が、<民>を救済する意義の認識を押しのけていく。この<民>を省みない経済優先主義は、バブル崩壊後銀行救済、今日に於ける電力会社救済と同じ発想。愕然とした

なぜわたしはデモへいくのでしょうか?

抗議する者は神様か王様のつもりで発言するとき、全体がみえてきます。つまり語りの特権性を獲得しますが、これが面白いのです。もちろん、抗議者は詩人であるとは限りません。ただ、抗議するとき、自己の内部の中の「全体的なもの」、即ち「崇高なもの」が働くことがわかります。わたしの内部のなかで、理念性の震えが「感じられる」のです。もしあなたは真の詩人ならば、その意志は抗議しないでいることが不可能です。詩、即ち、志、なのですから

公共PRといえば、ベートーヴェンの顔の上に「名演奏は迷演奏?」と教訓を示す、日本版文革ポスター。清潔で眺めのいい部屋を望むのに、現実とのズレに不快な小市民的良心の疼きか。その起源は、絵画市場を発明したオランダだ。黄金の説教文句の代わりに、フェルメールは、絵の中の絵を示すだろう。近代的なアレゴリーの誕生だ。絵の中の絵で、一体なにが示されているのか曖昧となっていく。ちなみに、私は、フェルメールよりも、レンブラントやカラバッチョが好きだけどね。

ベートーヴェンの顔の上に「名演奏、迷演奏」と教訓を示した公共PRは、大きな音で周囲に迷惑をかけてませんか?と言いたかった。中流を魅了させるこの種の健全性は、橋下市長が得意中の得意。例えば、安全かどうかは科学者の決定だが、しかし電気が足りなくなると皆に迷(惑)をかけることになるよと

連歌デモ 一かつ多なり ここにくる 分かち合う声 うばいかえせと  

ならばせて 遠ざけるのか 見よあれは お代理石の アパルトヘイト 

神の火で 金まみれの邦 盛んよりは 民の声こそ 聞いて滅びよ


八十年代に傲慢にも、電力会社が反対運動に対して「非国民」とラベルしたスケープゴートほど卑劣ではないけれども、「ビョーキ」という語はフェアーとはいえないだろう。原発推進派、(又、推進派にあらずども、反対派に対する反対派が結構周囲に沢山いる)との間で必要なのは、議論であり非難ではない


Es gibt ein Ziel, aber keinen Weg; was wir Weg nennen, ist Zögern.
目標はあるが道はなく、僕らはぐずぐずしているだけ。(カフカ)

1、スピヴァクというのは、自分の体験を重んじるアメリカ人?が書いた英語、高さと広さとダイナミズムを伴なった英語です。イギリス人の修辞にこだわる英語とも、アイルランド人のアイロニーが詰まる英語とも異なりますね。インド人?の思弁性も働いていますから、邦訳では容易に囲い込めない雑多なもの
2、注釈に関しては、あるときから、私は、日本語を理解するガイドとして、注釈として英語原書を使っていることに気がつきました。告白(!)しますと、私のなかで、注釈としての外国語が「半分」と、注釈としての母国語が「半分」、という、解決がみえない、何とも頼りないバランスで揺れ続けています
3、注釈というのは、特定の言葉に依存しながら経験の次元から独立した高さと視界とダイナミズムを伴なった思考です。スピヴァーグは私達がアジアの思想家に積極的に言及する意義を強調します。子安さんの小田実論はその切り口でしょう


橋下さんがネット連歌を公募!優勝者にはスポンサー<松しら政経塾>から選挙立候補資金が与えられます。テーマは次から選んで下さい。(1)TPPの物音(2)公立図書館を証券化せよ(3)私達の記憶の場である伝統芸能を破壊しろ(4)少数者の学ぶ権利を踏みにじれ(5)涙すら枯れる核武装への道

英国は歓迎どころではない。建前的には平和の祭典であるオリンピックだ。米国と一緒に戦争を推進してきた破壊を好む国家に開催する資格などあるはずもなかった。軍隊の海外派遣は簡単に進行する。が、その軍隊を引き上げさせることほど困難なことはない。この国の明日の姿だから、よーく見ておきなさい


嘘の地質調査を提出した電力会社に怒るくせに、嘘の証拠の提出で死刑判決を求めるかもしれない検察を疑わない。国による嘘の被爆調査に怒るくせに、「殺しました」と、検察が被告に嘘の自白を強要した可能性のことは考えない。反原発で命の大切さを訴えるが、国家による殺人を皆と一緒に賛成してしまう

「プロの裁判官は経験に基づいて量刑のバランスを重視したため判断にバラツキは少なかった」(朝日新聞、青池学)。が、これは一方的な書き方だ。人道主義的には、死刑は残酷な拷問であり、合理的な刑罰とはいえない。プロかアマは関係ない。等しく裁判官と裁判員は残酷な拷問行為に加担しているだけだ
    
七百万人署名が無視されただけに、ノーベル賞作家のようにはカマトト的に落ち込んだままではいけない。呆れた事に、国会議員で反原発の署名をした者は一割以下。ならば、署名しない議員に罰を与えるだけだ。民主か自民かに関わらず、最後の一人まで絶対に許すな。ネット上で落選リストの作成が始まった

原発推進の「政官財学報司」の一体的構造。終わらないことを自らの力で終わらせられない構造の反復は、市民的介入によって、終わるほかない。さてドゥルーズは衒学的<日本のフランス思想>よりは政治的だったから、思考の映画の例として市民的介入を指差したはず。思考の映画は事件性であり他者だから



平凡な常識しか語らなかった親戚の葬儀へ行く。ただ死んだだけなのに、なぜ日本人は死者を人格者として神聖化したがるのか?本当に嫌になる。しかし嘗て大島渚がぼやいたものだ。どんな反体制派も葬儀には逆らえないと。野蛮な放浪の民も葬儀においては、頭を垂れる移民として振舞うということか。葬式即同化政策なり?
ところで、ジョイスが与えた「フィネガンズ・ウェイク」の題名は、アイルランドの伝説と関係がある(木から落下した者が葬儀で酒をかけられ生き返った)。芸術家達の集まりは似非葬儀。神か王になったつもりの語りの特権性は空を舞う鳥の視点の如く高く広い。そして、上と下を引っくり返す反権威的な落下を伴なう


中之島図書館をカジノにしろ、遊園地にしろと毎日盛り上がる橋下支持者達。その一人が、「もう二度と悪魔の心が働かないように祈る」とエモーショナルに歌うベテランフォークソング歌手の言葉に、居酒屋的な共感を覚える。その似非正義感から、指差したアメリカを罵る。が、事柄はそんなに単純なのだろうか?
こういう善意?の人々は、いつもいつも自分の加害行為に鈍感で、例外なくいつも自分の被害だけに過剰に敏感に反応する。そのあげく、例えば、戦時中の帝国の新聞が同盟国の原爆開発成功をプロパガンダ的に伝え、早期の降伏を願っていた前線の兵士達を励ました歴史的な事実も知らないのだろうか?
ポストモダニズム的には、「知ること」は非難の的である。しかし、「無知」、即ち「知らないこと」は倫理的に許されないこと

国威発揚の祭典を優先するあまり、病院への予算費が大幅にカットされたことは事実。オリンピックは健康と衛生を追い出したと糾弾する声も。このことを知る人ならば、「17日間地球の中心となるロンドンで、だれが伝説を作るのか。ねむい目をこする」と、武勇伝に酔う天声人語の言葉は無責任でむなしい


なんだって、「五輪の新時代、発信」(日経新聞)だと? 冗談はもうよしこさんだぜ!そんなことよりもな、労働者階級も、地下鉄に乗れるようにしてやれよ。ホワイトカラーとおなじ人間だろうが?

四年前、ロンドン・オリンピックのキャンペーンで、メダルを獲得した元選手たちが、広告塔としてテレビに出演した。医療と福祉の充実を求める声を押さえ込むためにだ。オリンピックは健康と衛生を追い出すと心配する声もあった。実際に、イギリスの医療と衛生は、ヨーロッパ諸国の中で下から数えて何番目とも指摘される。これに対して、スポーツ広告塔たちは、反論した。「健康なだけでは不十分。私達はスポーツで強くなりたいのだ」と訴えた。結局、国威発揚の祭典を優先するあまり、病院への予算費の大幅カットが回復されなかった。つけくわえますと、オリンピックの「個人の達成度を祝福する」という考え方とネオリベの個人責任の考え方の間には近似性がある、とも指摘される。以上、このことを知る人ならば、「17日間地球の中心となるロンドンで、だれが伝説を作るのか。ねむい目をこする」と、武勇伝に酔う「天声人語」(朝日新聞)の言葉は、ああなんと無責任でむなしいんだろう...

現在コマーシャリズムにまみれたオリンピックの「人間の限界を超える」「個人の達成度」を強調する思想と、ネオリベの個人責任の思想の間に近似性を認める人もいます。学校の勝負に拘る運動会は、欧米風に、個人の記録を測りその達成を祝ってもいいでしょうね。アイルランドのはピクニックの延長でした


人生の苦労を耐えるには三つのものが役に立つ:希望、睡眠、笑い。(カント) Drei Dinge helfen, die Mühseligkeiten des Lebens zu tragen: Die Hoffnung, der Schlaf und das Lachen.


ゴダール的には、「私」のスタジオは万年筆とカメラとファックスだった。ネットとYoutubeのおかげで、そんなスタジオが大衆的な次元で可能となった。ただマイナス面といえば、やはり映像の作品性、したがって批判性を読み取る力がおちたこと。ツィッターの批評性によって補うことができるのか?

ぼくの支持層はファシストかも。ぼくの支持層は、外国からの情報と知識は大歓迎、外国人も排斥しない。只マイノリティの学ぶ権利を破壊する政治家を支持するだけー>[ぼくの支持層(・・・)保守でも外国人排斥系のひとはいないと思う。多文化主義肯定の保守主義者みたいな感じ。名前付けられないな]

あらゆるものは、他のあらゆるものと関連し、無限の仕方で産出される。知識や情報やコミュニケーションがこのあらゆるもの。二人以上で共有した情報は、作用と反作用、相互影響によって、他のあらゆるものを生み出す。憲法の学ぶ権利からマイノリティ一を排除する国家には一人しか住めないーファシズム

知識人の条件とは、専門に依拠しないことだ。ゴダールも例外ではなく、知識人として世界的に影響を持ち始めたのは、彼の専門であった映画そのものが急速に消滅した九十年代からだ。八十年代にドゥルーズが深遠な思想を展開したが、ゴダールのなにでも介入してくる語りの特権性の到来は予見できなかった

子安宣邦

70年代にドイツに滞在していた時期、親と子・世代間で原子力利用をめぐって激しい論争をしていたことを思い出す。息子・娘たちは「あなたたちは後の世代にとんでないリスクを残していくのか」と喧嘩ごしで親たちにいっていた。その息子・娘たちがドイツの反原発を支えているのだろう

金子勝 ‏

銀行間取引金利の国際的基準金利であるLIBORの不正操作が問題になっているが、英重大不正捜査局(SFO)は1年以上前から事実を知り隠していた。日本の不良債権問題や原発事故の時と同じ。プレーヤーとレフェリーがグル。 世界が壊れかけています。



小田実

自分を「しごと」のロボットにするということは、自分を「しごと」だけの存在にする。くらしにそくして言えば、「いのち」「あそび」を切り捨てて、くらしのふりはばを「しごと」だけに限定する。それだけの大きさにちぢめるということです。『世直しの倫理と論理』1972


現代国家の価値は経済力と軍事力では測れない。サィード曰く、国の価値は所有する芸術品の数で決まるのだそうだ。文化との共存を考えることは、国の価値を考えること。だからといって、古典芸能の価値を国の「お宝」の如く特権化していくのは危険。古典芸能が現代演劇(非商業型)を優越する根拠はない

芸術は成長する有機体である。古典芸能の価値は国の「お宝」の如く特権化できない。台所事情が苦しいのは、非商業型の現代演劇とて同じ。古典芸能と現代演劇との間の公的助成の不均衡は検討して欲しい問題だ。ただ現在橋下のマーケット的な文化政策を許すと、古典芸能と現代演劇の両方を失う危険がある

外国に行くと、違う文化に出会います。その中には当惑し反発を覚えるものがあります。逆に、私のお辞儀の仕種に酷く違和感を覚える人々も。「文化は判断するものではなく尊重するものだ」と言ってくれると安心します。尊重から出発しないと、天動説的な自分中心の世界


西欧観光客に奉仕した北京のときと比べると、ロンドンの開会式は随分と啓蒙的。産業革命をはじめ偉大な発明の全部は英国が起源とばかり、コスチューム劇的展示ショーの自慢話の様相なり。コロニアル建築の国会の模型も出したらよかった。おいら達二十万がゴジラになって滅茶苦茶に踏み潰してやったのに

溝口健二「近松物語」は、人形浄瑠璃・歌舞伎の演目『大経師昔暦』をベースにしている。ゴダールはかれの作品「映画史」の冒頭で、この作品からの引用を行っている。編集によって、ルノワール「大いなる幻想」からの場面と組み合わせているhttp://youtu.be/LwtnzbSZFKg @youtube

橋下は何様だと思ってるのか?自分の狭い世界を押しつけるな!日本映画の第二黄金期に、溝口健二「近松物語」がヌーヴェルバーグの旗手ゴダールの映画制作に無視できないほどの影響を与えたことも知るまい。世界映画の感化の大きな運動として文楽があった。人形浄瑠璃と映画の間の関係の冒険が実現した

金明秀氏 Myungsoo KIM ‏
文楽の補助金は朝鮮学校の補助金問題と完全にパラレルになったわけか。民主主義の学校ではなく、ファシズムの学校をまっしぐら。

たしかに、「君が代」強制を契機に、民主主義の学校ではなくファシズムの学校をまっしぐらだ。文楽の補助金は朝鮮学校の補助金問題と完全にパラレル。中之島図書館の資本化、そして原発推進者の核武装が行進してきた。バラバラのままでは抵抗はよわい。「小さな人間」の力によって共通なものをつくろう


烏賀陽(うがや)弘道 ‏氏のツイート

デモ行って公務執行妨害で逮捕されたらら、どんなヘボでもいいから国選弁護士が警察に接見に来たら「一切の供述調書の証拠提出に不同意します」と言ってください。「同意します」というと、裁判では自分の逮捕容疑を認めたものとみなされます。
デモ行って公務執行妨害で逮捕されたら、警察では「一切黙秘します。検事さんに話します」でおしまい。「否認します」ではなく「黙秘します」です。そして弁護士が接見に来たら「一切の供述調書の証拠提出に不同意します」と言ってください。警察・検察の言い分は認めないという意思表明です。

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