言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  10月 2012 

<<   作成日時 : 2012/10/02 08:12   >>

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「阿賀に生きる」、この映画のタイトルと出会えるとは!もう二十年か。その間二千本以上の映画を観たか。本当に色々な外国の都市の劇場で観た。六本木に映画館は無いがその代わり現代美術館ができた。映画に言及した芝居のポスターの絵をつくれと依頼がきている。この仕事は映画への恩返しと思っている

「宇宙はわれわれひとりひとりのなかにある。」(オグララ・ラコタ族)。もし「宇宙」がシステムの内部の中にしか存在しないものならば、つまり「宇宙」が安全神話的な共同幻想ならば、そこには共通のものをつくる普遍性も交通もなく、未来の我々も含めた「われわれひとりひとり」は生存できなくなるよ


・求め合う敵同士の例。「敵」の作家(例、英国植民主義の提督でもあったスペンサー)を、アイルランド文学の「父」と定義し、敵味方の境界を破壊してしまう平和主義の戦略がある。同様に、アフリカの作家たちは、コンラット(ヨーロッパ植民地主義のシンボル的存在)を、アフリカ文学の父にする例がある





本当に違いが分る程度の知識しかないのですが、
それでもその作家が関わった
ドイツ、ソビエト、イスラエル、アメリカのことが
多少とも自分なりに整理がつきだすと、あらためて
彼女の本を発見するということが起きました。
学ぶことに、読むことに、
かくも偶然が介入するものでしょうか?
驚きで一杯です。というのは、
これらどの国any country からみても、
よそ者strangeにみえるここ東京にあって、
いったいなぜ、この彼女の本が
はっきりと見えてきたのでしょうか?
不思議です。冗談で本が見つめてきたかもしれません。
それならば、これをωー矛盾の口笛と呼びましょうか、あなた

A whistle of the ω - inconsistency (by takashihonda 本多敬)

The author had ever passed Germany, the Soviet Union, Israel and the United States. Nothing increased
Because the knowledge on these countries
Never led me to an understanding of her book at last.
Then what the chance intervened with my reading ?
In Tokyo;the city that to any country is strange,
I came to see clearly her book
As a newborn and the old dying does the world.
A book might stared me as a joke ?
Or a whistle of the ω - inconsistency from you ?


グラマトロジーのデリダなら、原発推進の一体的構造<政財官学報>を指指し、これを、自身の声だけを聞く直線的領域と呼ぶだろう。そこから、つぎに、空間を占拠しに来たエクリチュール的デモを目撃するとしたら、なにを見るだろうか?救済の道に来ているつもりも、本当にこの自分が救われることがあるのだろうか?と確証無く不安に佇む文字達の連なりを読む。存在的それゆえに、真に人間的な...

K ‏@qqyyyaaaさんのツイート
マイモニデスはベタベタにアリストテレスの自然学に還元するとか、ネオプラトニズムでまとめることは一切していない。むしろヘブライ語に対する信頼から、日常言語学派的なアプローチがメイン。まあこれもラビの伝統なのかもしれんが。


1、日常言語学派の考え方というのは、きちんと理解できているかどうかわからないのですが、数学や物理学や経済数学を参照した以前と比べてみますと、言葉に即して哲学の意義を考えるようになりました。当然、ツィッターの影響があるかもしれません。とはいえ、まだまだ文法の枠に規定されますけれども

2、例えば、「空」とか「土」を分割できないXとして、物質名詞と呼びます。分割できない「連帯」の意義をかんがえるとき、この物質名詞のことを考えます。物質名詞の普通名詞化a cup of waterとか、限定詞による限定化 the blue water、という文法上の知識も役立ちます

3、waterというXがなにか共通のものとして存在し、自己の内に様々な属性を表現できるのです。マイノリティーの観念は、インディアンやアフリカンという属性、外国人労働者という属性、女性という属性を含むことを対応します。ただ、Xは、内部のなかでXに即して考えるという必然性はありません

4、それでは、トートロジーになってしまうからです。ここで、文法の知識と論理学の知識が役立ちます。さて、waterとい語は神様から与えられたものではないように、この共通のものは天賦不動のものではないでしょう。可能性として、共通のものは、人々によって絶えず発明されつくられていきます。

5、そうでなければ、共通のものは、言葉(言語)と同じように、化石化してしまうからです。なにか、スピノザみたいな感じになるのですが、まさにこのスピノザなんです。

6、最後にトピックス。昔見たアイルランドの高校の教科書、世界史の一頁目は、ジェロニモの肖像写真でした。自分達をインデイアンに自己投影する、アイリッシュの自己流世界史を垣間みせる、なにか決定的な映像と思ったものです。50年代にイギリス人から「白い黒人」とも差別されていた時期があり、

7、アイリッシュの反抗的なアーチスト達のなかには、逆にその差別を利用するしたたか者もいます。敢えて、俺たちインデイアンは白い黒人だぜ!と主張してみせるのです。それがIrishnessの本質さ、とばかり。Britishnessというスコットランド人の言い方にはこの迫力はないでしょう

8、インデイアン+白い黒人=Irishness、という方程式を眺めると、彼らが発明していこうとする共通のものがみえます。なんだかイギリス人が得意とする啓発セミナーみたいになってきましたが(笑)、この戦略も、日常言語に対する信頼があってこそ成り立つものではないかと最近気がつきました

9、その日常言語は何か?が問題です。「生命」を与えるゲール語とマルクスは考えたかもしれません。ジョイス的にいえば、アイリッシュが持つ言語は英語(ゲール語の影響を受けた)。ゲール語を媒介とした、アイルランド人はアイルランド人とするトートロジーは、危険なナショナリズムの表現だからです

10、「日常言語に対する信頼」ですが、この言い方は誤解を与えるかもしれません。ポイントは、言語に対する錯綜した複雑な関係を取れるかどうかにあります。したがって、ジョイスの場合、他者の言葉、英語でなければなりませんでした。構築性とともにバンダリズム的偶像破壊が共存する本を書きました


Iterability , as Derida calls it, not only governs so-called natural language;it names the possibility of cinematographic image too. (Hill)

Once in a while, take advantage of the fact the sentence isn't finished to begin and begin living. (Jean-Luc Godard , Passion, 1981)


Eric Hobsbawm:

On CCP
Communism's gone, but one important element of communism remains, certainly in Asia, namely the state Communist party directing society. How does this work? In China, there is, I think, a higher degree of consciousness of the potential instability of the situation. There is probably a tendency to provide more elbow room for a rapidly growing intellectual middle class and educated sectors of the population, which, after all, will be measured in tens, possibly hundreds of millions. It's also true that the Communist party in China appears to be recruiting a largely technocratic leadership.
But how you pull all this stuff together, I don't know. The one thing that I think is possible with this rapid industrialisation is the growth of labour movements, and to what extent the CCP can find room for labour organisations or whether they would regard these as unacceptable, in the way they regarded the Tiananmen Square demonstrations [as unacceptable], is unclear.

中国全土に展開した軍の補給路が断たれ包囲された結果、日本が東南アジアに向かって南下せざるを得ない悲惨な歴史があった。絶望的にこの国は学ばない。かわりに死神達が踊る。中国からの売上は一割、と楽観的な週刊誌。東南アジアの市場があるから不安なし!と勇ましい新聞。戦争の準備をしろと政治家


Q,英語の国と戦争すると英語がつかえなくなったわけだが、漢字の国と戦争すると漢字がつかえなくなるのであろうか?

A,漱石が憂いた点ですが、漢文的エクリチュール性が剥ぎ取られてしまった漢字の起源が、中国大陸と結ぶつかなくなっていたこと。また、(国際世論の非難を避ける為でしたが)、戦争はしていないと自分達を騙したことがあったと思います

ひとつは、漱石が憂いた点ですが、近代的な言文一致を契機に、漢文的エクリチュール性が剥ぎ取られてしまった漢字の起源が、中国大陸と結ぶつかなくなっていたこと。もうひとつは、(国際世論の非難を避ける為でしたが)、戦争はしていないと自分達を騙したことがあったと思います。
最後に、昔蓮見重彦が指摘したことを思い出すのですが、三十年代の武者公路の小説には「代表」という言葉が溢れるのです。人類を代表する文学者の責任を言っていると指摘されますが、実は意地悪な読み方をすれば、日本は植民地の韓国・台湾。中国を「世界的に」代表していくと鼓舞しているようにも読めます。日本は代表しているつもりなら、代表されている人々の言葉を禁止する理由がありません。大正デモクラシー的なヒューマニズムの声はだんだんと小さくなり、三十年代には、かれは愛好者になっています。


武者公路実篤の小説を評した蓮見重彦は、「代表」という言葉が頻繁に登場すると指摘したことがある。人類を代表する「世界」たれ、とする大正デモクラシーのヒューマニズムか?それとも、三十年代の文脈を考えると、日本帝国は植民地の韓国・台湾・中国を「世界的に」代表していけと鼓舞しているのか?

三十年代は、日本が西欧を追い越してしまったと意識した。確かに武者公路実篤の小説の中で、ヨーロッパ留学を決めた学生をこんな風に励ました変なセリフがある。ヨーロッパで勉強しても日本で勉強しても同じ事、このことを確認する為に君はヨーロッパへ行くのだ。(そうかな、デパートじゃないんだし)


「再稼動の責任があると慎重になって、これも安全あれも安全と言い難い。それでいいのかい?」。「ばかもの!万一事故が起きた時に、"統計上安全とは言ったが現実には再稼動しろとは言わなかった"と貴様は知らん顔か?ズルイ」「鏡をご覧、お互い様」「ではお互いに責任免除とするか、わははははは」

天皇制の文化論というのは、多元的次元のなかに包摂するやり方だ。そうして天安門事件から事件性を剥奪する東大の中国論を読むと、天皇性を中国に都合よく投射してはいないかと疑う。他者認識を問う現代思想においては、精神分析批判は欠かせなかった。全く同じ理由から、中国論批判が必要となっている



90年代以降の中国のことに関して、このわたしはまだまだ勉強中で、間違ったことを言うかもしれませんが、街の本屋さんにズラッと並んだ中国をテーマにしたどの本をとっても、右翼的な視点しかspinしていません。中国を語るのは大いに結構、ただし、あなたはどこからそれを語るのか自覚せよです。
中国に限らず韓国と朝鮮も。語るだけでなく、どこから語るか自覚することがなければ...。厄介なのは、いまや左か右かそんなことはどうでもいいかのように振舞っている、岩波書店とか東大の中国学研究者とかですが、中国の人民革命=共産党の歴史、という自分達が捏造した等式に酔っている有様です。
たとえば、天安門事件を、イコール中国革命として位置づけてしまう見解は間違いです。なぜなら、天安門事件は民主化運動である以上、それは政府に対する抗議であり、それ故に、政府との等式が無条件に成り立たない決定的な反証ですから。天安門の民主化運動は、毛沢東主義の展開とみなすのはムリでしょう。
ところで、現在の中国が人民革命以前と本質的に同じ実体であると文化論的にきめつけたヤバイ言説も流行中です。統治理念の継承性を強調した、天皇制の万世一系的な似非構造を中国において読もうとする、溝口氏の言説のことです。これは向こうには迷惑極まりないだろうと推察していたらさにあらず、です。つまり、中国は中国でしたたかなのです。そんな日本側の共同幻想をかえって有利に取り込むことが中国人研究者の間で起きているとききました。又、アジア的原始共同体といえば、オリエンタリズム。にもかかわらず、研究者のなかから、中国はまさにそのアジア的原始共同体だ、と主張する者達が現れているとのことです。
仮に、アジア的原始共同体としてならば、資本主義が齎す分配の平等を是正する大義名分的な支配の正当性を、中国共産党が自らに与える事も可能です。問題は本当にそういう是正があるかどうかです。戦略的に西欧の幻想を受け入れる事によって、民主化運動の弾圧を隠蔽してしまうことは許されません。
最後に、毛沢東。天安門事件の亡命知識人にとっては、フランス人知識人たちの毛沢東主義への大きな共感は正直、ヨーロッパに向けて自分達の立場を発言するためには、正直「痛い」ものがあるようです。亡命者達をインタビューした中国人の映画作家からこれに言及した貴重な話を直接伺いました。この点に関して、先月の「ル・モンド紙」評論は、毛沢東世代の孫達が運営する政治を実証的に分析していました。最近、中国共産党が、(御用イデオロギーの)新・儒学と取り始めている関係を、ポストモダン的に表層的であると揶揄しました。現実とのギャップをみるように読者達に促す記事が目立ちます。
神様がwaterという語を与えたなら、天賦不動のものとしては存在するかもしれませんが、そんな神様はどこにも存在しません。waterという言葉は、それと関わって生きようとする人々、その関係から逃げようとする人々によってつくられていくものではないでしょうか。恐らくMaoという言葉も。そうでなければ、名前というのは、言葉(言語)と同じように、化石化してしまうからです。とくに毛沢東という語の意味は今後、亡命者達によって発明されつくられていくのだとは思います。68年革命を予言したという「中国女」よりも、「カルメンという名の女」のほうが、ゴダールの毛沢東観が伺えます。カルメンがジョセフに質問しました。「ねえ?わたしたちは、名前の前は何だったの?」。唖然として答えれないジョセフに、彼女はきっぱり一言。「(あなた、こんな大切なことを一度も考えず今日まで生きてきたの?)。だから、わたしは、あなたと一緒じゃ面白いことがなにも達成できないと思うのよ!」。デリダのエクリチュール論が読み直される意義があるとしたら、文字が文字である限りそれは空間を排除できないという思考を呈示していたことです。結局言葉と空間の関係を考えることは、われわれがいかに空間を取り返すかという問題提起を行うことです。天安門での人々の願いにわれわれの思考を置くことです


原発の前では国民は臣民ですらない程惨めだが、大日本帝国憲法の復活を嘆願するとは呆れた!新憲法ー旧憲法=天皇統帥権、といえる。歴史的に王政復古のとき自分の亡命を助けたカトリックの人々を罰する法律の効力を国王がとめたことが最初か?復活したら、人権が停止された君に令状無しの拷問が来るよ


木を切るのが好かれるのは、すぐに結果を知る事ができる行為だからだ。(アインシュタイン)

Holzhacken ist deshalb so beliebt, weil man bei dieser Tätigkeit den Erfolg sofort sieht.


求め合う敵同士の例。「敵」の作家(例、英国植民主義の提督でもあったスペンサー)を、アイルランド文学の「父」と定義し、敵味方の境界を破壊してしまう平和主義の戦略がある。同様に、アフリカの作家たちは、コンラット(ヨーロッパ植民地主義のシンボル的存在)を、アフリカ文学の父にする例がある



アートとデザインの歴史を見渡しても、ポストモダニズムほど論争を生んだ芸術運動はなかった。演劇性と理論性とが共に働く顕著な混合形態ゆえに、不安定なポストモダニズムに定義を与えることは不可能だろう。そのスタイルは統一されておらず、あるいは、スタイル無きスタイルといえようか。陽気なデガダンス、なにか空ろな華麗さ。ポストモダニズムに共通する特徴といえば、モダニズムの明晰且つ素朴なユートピア的ヴィジオンを遠のけようとする徹底性である。たしかに、モダニスト達は、開けた窓から、新しい世界に辿り着こうと考えた。それに対して、ポストモダニズムの方は、割れた鏡の破片の如く散布した諸々の断片から成る表層に他ならない。ポストモダニズムの中心的コンセプトが複雑且つ曖昧な言明と観念と状況の配置に依拠したのは、反権威的な抵抗を意図したからだ。この反権威的な抵抗は、1970年から1990年までの二十年間に顕著な方向であったが、がその後は、ポストモダニズムは、運動初期において解体を目論んだはずの貨幣的権力の流通の内部のなかに、逆に自身が取り込まれてしまった。本来ポストモダニズムというのは、スタイルに関して確立された常識を揺さぶる運動であった。その結果デザインの領域にラディカルな自由さを齎したことだけはたしかだ。滑稽ゆえに反感を買う不合理性がポストモダニズムの身振りに定位したーこれなくしては、芸術のスタイルそのものを問うた新しい自己意識が生まれることはなかったのである。takashihonda




都市において血と飯で結ばれた〈抵抗する共同体〉ー洪成潭(ホン・ソンダム)のひとがひとを呼ぶ世界  


〈光州〉がわたしたちにもたらしたもっとも大きな教訓は、
都市において血と飯で結ばれた〈抵抗する共同体〉が実現したことだ(洪成潭)

絵は展示場で展示しているだけではただの骨董品。絵は生きて動く。必要となる現場に行く。デモのなかにも行く。そうでなければ生きた絵ではない。動く版画とは蘇る生きた文化のこと。いま福島こそ生きた文化とならなければならない。光州は棄民政策だった。同様に福島はその様な棄民政策である。三十二年という時間をこえて、光州は福島のもとに蘇る。演劇の空間と俳優達の詩の朗読によって、光州コミューンが福島に誕生する。福島は光州のもとに生きた文化と成る。福島は即ち光州。しかし現実に、福島からは光州がみえてこないのは何故か?日本政府の嘘が影響している。また日本国民は、核兵器が爆発したのに静かに沈黙している。秩序を守っている。本当の沈黙とは秩序とは関係がないものなのに。多分、光州で福島のような事故が起こり、しかも政府が嘘を言い続けるとしたら、市民たちは武装して、大統領府に進撃しただろう。日本の学生とマスコミは沈黙したままだ。抵抗なき沈黙の和。政府と国民との話し合いすら存在しないではないか。日本国民は静かに沈黙している。このようにシステム化されたような、かたい沈黙の和は何故生じるのか。おそらく、それは日本と韓国の歴史と無関係のことではないだろう。日本植民地主義の協力者達の歴史と関係しているに相違ない。“福島原発事故”は“福島核発電所の爆発事態”というべき」であり、国家の暴力は「言語の歪曲」からはじまる。
6,7年かけて、靖国神社をテーマとした作品をつくった。その過程で、芸術家のもつ動物的本能から、暗い闇の中にある数え切れない日本の苦悩と痛みを感じ取った。福島に関する日本の沈黙はこの暗い闇と関係していると私は思う。私は分ったー太平洋戦争に関して国民が沈黙していることを。日本軍の統治者が裁判所に立たないことに国民が沈黙していることを。私は分ったー神風特攻隊の展示にも関わらず「平和博物館」としている欺瞞に国民が沈黙していることを。私は分ったーヒロシマと長崎の平和の祈りはあるが、核爆弾を落とした米国の重大な戦争犯罪に対して国民が沈黙していることを。こうしたものはすべて固い沈黙の和である。


韓国がどういう国で、どのような現代史を生きどんな顔なのかとアンデンティティーに関して考え始めたのは、八十年代光州事件以降であった。市民社会を意味する「市民」とは何か?「市民」は単なる資格として与えられるものではない。「市民」とは階級である。「市民」になりたければ、特権的階級を打ち倒し君主の首を広場で切り落とすこと。その流れた血を手に染めてこそその国民は「市民」となる。私達の素顔である。同様に民主主義も単に与えられるものではない。日本植民地主義は36年間続いた。その後、戦後の韓国において日本植民地主義の継承者達"親日派"が権力・経済・学問を秩序化し制度化した。自分達の既得権を安全にする為に「反共主義」となり米国の庇護に入った。新米主義である。光州抗争はこうした歴史のなかで起き「市民」が産声をあげた。以降韓国に民主主義が順調に定着していった。しかし現在、三十年前に後戻りするという反動が起きている。小・中学校の教科書から、5月18日の記述, 光州事件の記録が削除された三十年前に。
虐殺は、軍隊による鎮圧が齎す虐殺ばかりではない。最近の虐殺は軍隊を必要としない。直接血も流させない。つまり、資本主義の虐殺である。職業を奪い自殺に追い込み、福祉を切り捨てホームレスにしてしまうことが、資本主義の虐殺。キリストのパンを分け合う精神に通じる抵抗の共同体。血の絆。ハングンドンからは献血に来る売春婦が沢山いた。自分の胸を開いて見せここを通らなかった若者は独りも居ないと言う。血を流している若者の為に、血を与えたいと訴えた。抵抗の共同体とはなにか?それは、血で結ばれた共和国。つまり、ひとつの釜で飯をくう人々のつながりのことである。キリストのパンを分けワインを飲む共同性と同じといえる。ただし、暴力の鎮圧のために、共同性で語ることは中々困難。だから、記憶すること自体が、闘争であり希望である。版画というのは、皆と分け合うもの。ゴム板と百円の彫刻刀でつくった私の版画を、芸術と考えたことが一度もない。むしろ、それはチラシやビラの役割を果たすものであった。光州のことを皆に伝えたかっただけ。一枚彫っておけば、なくなるまで刷り続けることができた。
現在は、記憶することが権力に結びつくという大変厄介な状況に直面している。民主政府の十年間、市民社会にいた人々や運動家の良心的知識人達は皆、政府から金を受け取り勉強を止めてしまう。しかし勉強を一生懸命しない社会は滅ぶ。現在は、中国の力が大きくなり米国の一国体制と協働している。中国と米国のニ極体制へ移行している。米国の犬である日本と韓国は、彼らの主人の呼びかけで、危険な国家主義が生じ、再び太平洋戦争のような悲劇が起きるかもしれない。国という名の国家主義は、これを疑いつづけて、2度、3度、4度と考え直さなければならない。私になにをしてくれるの?と思ったら、国家主義の罠にはまった証拠。これダメ、あれはダメと、国は必ず要求してくるものだ。私を監視する国家。
絵は強烈な象徴性を表現する。絵の力とは、独りでなく、皆と一緒にみることにある。社会のなかの民族のもつアイデンティティーが、絵の中に描かれるものである。それだから危険な存在。八十年代に一番拘束されたのは、美術家だった。集会やデモのとき人々を同じ思いのもとに一体化させる象徴性を絵は持っている。だから視覚的なアイコンをつくることが大事。「あれは福島だ!」「あれは光州だ!」といったアイコンを生み出す義務を、美術家は持たなければいけない。現在必要でない美術が蔓延しているのはどうしたことか。日本には、世界的にリアリズムを追求するアーチストが沢山いたのに。しかし美術家たちというのは、非国民扱いか村八分にされてしまう。若い画家を愛すること、見守ること


床屋のテレビしか知りませんが、そのときの尖閣諸島の報道番組のことは覚えています。中国側を罵倒する姿勢からスタート、しかし視聴者を飽きさせないようあまりに多くの証言を喋らせた結果、辻褄が合わなくなり中国側に同情の声もでてきました・笑。そんな予測不可能性がテレビの醍醐味と可能性でした


「忘れるな!」というのが抵抗に繋がる行為でしたが、しかし現在はその記憶の領域すら国家と資本が介入してきます。光州事件のドラマというものがあらわれても、もしそれが、当時一番責任があった韓国の親日派財閥がスポンサーをし、在韓米軍の軍人達が字幕で愉しむとしたら・・・私は言葉がありません


はっきりと覚えていませんが、たしか「ルーツ」はアメリカ黒人奴隷の歴史を扱ったドラマで三世代にわたる人生を描いていました。KKKのことなどは、このテレビドラマで始めて知りました。戦争帰りの人々が、自分達の持ちかえった体験をどのように制作に反映させたかは、興味深い知られざる歴史ですね


論点1;大島と大江。身体的表現に訴える女性原理は、外部からの脅威を自身を守る共同体的な抵抗の象徴性。これは連続性に反しないか?周縁化・分割化・特異点化ではないか。なぜ敢えて問題がある女性原理か。男も女もないとする声に傾くと、現実に差別されている女性達の痕跡が抹消されてしまう危険性


世界大戦の反省は尊いが、欧州連合が事実上NATOと結びついている事も事実。EU加盟条件として国境及び人口画定を命じられたルーマニア政府は嘗て、ジプシーの定住を強行。このジプシー達が大勢アイルランドに逃げてきた。欧州連合が奪おうとしたのは、ジプシーの定住しないという国家以前の自然権

1、ヨーロッパ連合が事実上NATOと結びついていることは問題はないのか?永世中立国はEUに加盟しないゆえんだ。ノーベル平和賞が称えるほど本当の平和といえるのかどうかは別として、二度にわたる世界大戦の反省それ自身は尊いとわたしは思う。この平和戦略からわれわれのアジアはなにか学ぶかだ
2、嘗てEU加盟条件として国境及び人口画定を命じられたルーマニア政府のことがある。定住を強要されたジプシー達が大勢アイルランドに逃げてきたのだ。結果的に欧州連合とルーマニア政府が奪ってしまったのは、ジプシーの定住しないという国家以前の自然権だった、とイタリア人の友達は酷く憤慨した
3、今日の昭和史研究会での長谷川氏の発表は大変示唆的。近代国際法体制が成立する以前の国境認識はしばしば曖昧であるという。氏が指摘するように、「前近代の東アジア諸国はいづれも海禁政策を実地していた」とすれば、「尖閣諸島・釣魚島やリァンクール磯のような定住者のいない離島に対して・・・
4、・・・前近代の国家がわざわざ領有を示すことは考えにくい」。氏はこう結論する。「そのような存在は知られているものの領有権の曖昧な離島に対して近代国際法の論理を持ち込み、一方的に無主地と見なして一方的に先占を主張することが、果たして妥当であろうか?」。もちろん妥当ではないだろう。


Injustice Facts
The Native American population was decimated by European colonialism, it declined from 72 million in 1492 to less than 4 million by 1850.


王と神に仕える預言者は全体を判断できる<語りの力>。が、王と預言者の間の確執はマクベスやアンチゴニから繰り返されてきた。預言者という<語りの力>をサロメという感情と想像力に委ねたのは、岩塊を固有の領土として飢えたタカ派政治家の食欲に委ねるぐらい悲惨な結末を招いた。ワイルドとシュトラウスにおいて、反復される崩壊の言葉


プロセスとしての分裂症こそ、唯一の普遍性なのである。分裂症とは壁であり、壁の突破口であり、同時にこの突破口の挫折でもある。――D=G (上)p261


一部であることを表現した”Korean residents of Japan”よりは、 ”Korean residents in Japan”のほうが適切と思いますが、確かにやはりご指摘の通り<仮属>という含意があるようです。in とofの間を表す事はどうですか@han_org




そちらに舵を取ろうとしてるとしたら危惧すべき兆候ですね。RT @owlcato: 文化的多様性を保護する社会的大義名分を心理的に憎み、教育に対する平等な公的援助を憎むのは、顕著なファシズム的心情の特徴です。厄介なのは、メインストリートと成り果てたポストモダン芸術から借用した豆知識が堂々と喋る事です。恥じる事なく芸術の内容を評したがります



Wandering around my land, /I can be anywhere in it /And still not be of it /Here is a room of desert ?
(by takashi honda)



The end of the common world has come when it is seen only under one aspect and is permitted to present itself in only one perspective.Arendt

「人間の条件」のアンナ・アレーントHannah Arendtは、50年代に既に、「シングルイッシュー」の間違を見通していました。結局争点を一つに絞ってしまうと、現在生きている世代の利益が優先されてしまう結果、止めろと言いながら裏では止めるなと要求している方向に流れていくんです。「隣人の有意性」とアーレントがいう場合、空間に限定されていません。時間的には、死んだ過去の人々も今後生まれてくる未来の人々も、この隣人に含まれます。本当にどうするつもりかと思います。国際世論の支持がない領土占有の問題も原発のゴミと同様、未来の人々に負わして平気なのでしょうか?


どれくらい成果があったかは今後検証していかなくてはなりませんが、ただ、東北震災での救援情報や脱(反)原発の抗議運動は、ネットによって可能となったことは疑うことができません。「実存個人と非現実環境」を分け隔てる、過去のモデルにもはや依拠することができませんし、逆に執着することは弊害です。というか、いったい何時から、テレビや新聞が「実存個人」の窓口になったつもりなのでしょうか、笑止です。「複数IDの並列」から、新しいモデルを探求する人々の邪魔をしないで頂きたいものです。



ダブリンについても同じ事がいえます。30分もあれば徒歩で、映画館と劇場、美術館と大学、図書館を回れます。友達三人と会えます。サルトルも読んだ「ユリシーズ」は、現在と比較できない程充実したネットワークを証言します。オペラ歌手が歌うパブやミュージックホールも



笠井潔 氏@kiyoshikasaiのツイートより引用

・ネット上のコミュニケーションが、こうした思想地政学的な悪条件を補えるのかどうか、今後に関心がある。

・構造的に駄目な東京でも、平均とは違う趣味と発想と知識の数十人が日常的につきあえる場所として、たとえば60年代半ばの高新連や、類似のつながりがあった。ないよりあったほうがいいが、しかし、生産性という点で地理的にも密集しているフランス型には負ける。

・徒歩圏内に、同じようなことを考えている人間が多数いるかどうか。知的な刺激という点で、この条件は大きいと思う。都市の構造からして、そもそも東京は駄目だ。東大より京大のほうが、ノーへル賞の受賞者をはじめ優れた研究者が多いのも、これと関係あるような気もする。

・これは、かなり重要な事実だと思う。そもそもパリは小さい。東京やロスのほうが異常ともいえるが。パリなら20区や18区のようなはずれでも、その気になれば都心から歩いて帰れる。日本で同じような都市があるとすれば、京都だろう。東京はもちろん、大阪も名古屋も大きすぎる。

・この圏内にはソルボンヌもエコール・ノルマルも入る。他の連中も似たようなものだとすれば、ようするにフランスの思想家や哲学者は歩いて30分圏内で暮らしてきたことになる。連邦国家のドイツの場合は、また事情が違うかもしれないが。

"Plutôt que de demeurer renfrogné, consentir à débiter quelques banalités, quelques bêtises,cela met l'autre à son aise." Gide.



小田実

平和主義は漢方薬みたいなものです。漢方薬で徐々に体質を変えていこうとするものです。武力介入は救急薬みたいなものです。救急薬はたいてい劇薬だ。…死んでしまう場合もある。…瞬間的には効くときもあるだろう。しかし
それでやっているかぎり、世界は何も変わらない『生きる術としての哲学』07

隠語Jargonとはなにか?特定の社会・集団内でだけ通用する特殊な語。 例、「たたき(強盗)」、「さつ(警察)」、「もく(タバコ)」、「違憲状態(合憲)」

イシカワ トモヤ さん‏@Ishikawa_Tomoya

若松孝二監督が亡くなりました。形式的なことが大嫌いな人で、マネジャーやら代理店やらを介するやりとりを排していました。いつ電話しても「誰だっけ?」。何度言っても番号を登録しない。後に、家宅捜索で押収された際に迷惑かけないためだと知りました。あの人は何度も公安にガサかけられているから


マスコミは二度過ちをおかした。一度目の過ちは、もちろんマイノリティーを差別したこと。ニ度目の過ちは一度目のそれより罪深い。差別された地域の人々全員に反論の機会を与えることなく、ただ、差別を行ってきたこの政治家に自分を被差別者と考えよとヒーロー的猿芝居を演じさせている。最悪の古典劇

TL上で京都の詩人が天皇性との関連に触れていましたが、確かに、あれは皆の共感を呼ぶ空の箱の如き一種の文化的鏡です。怖い所ですが、反差別の言説を担った朝日新聞的立場を自身に映し出そうとしているようです。周りにいそう。右翼的な意味でポストモダン的にplayful



Der Warenaustausch beginnt,wo die Geminwesen enden,an den Punkten ihres Kontakts mit fremden Gemeinwessen oder Gliedern fremder Gemeinwesen.
Marx


1、反戦運動とジョイス文学。明日から書くテーマ。今まで参加した大事なデモの一つが、アメリカ軍のイラク爆撃に反対して十万人が集まったダブリンの反戦運動のデモでした。アイルランドはスイスの様に中立国であるにもかかわらず、怪しからん事に、シャノン空港に米軍の輸送機(食料)が来ていました
2、イラクは直接関わりの無い国。にもかかわらず自分の国の危機のように感じて自主的に集まったのです。独立時もこれ程の人数は集まらなかったとのこと。昨年からの反原発運動の人々が、政党や労働組合の呼びかけがある訳ではなく自主的に集まって来るのをみる度に当時のダブリンの街頭を思い出します


自分の怒りを表現する身体のジャスチャーを発明していくことが欠かせないと思いますよ。そこから、徐々に、抗議の形というものが出来上がっていくのではないでしょうか。私自身の反省も含めてですが、容認はしなくとも原発に十分に反対してこなかった自己に対する抗議もあります。シングルイッシューに沿った言葉だけではリアリティーを失いますし、なにかだんだん労働のように感じられてくるんですよね。ところで、パリ5月革命のあと、フーコが従順な身体の管理というテーマを展開しまたが、いまこそ、このフーコのテーマを改めて考えることができるようになりました。ハンナアーレントの労働観も参考になります。いま"お行儀悪い"のはドラム隊ですね。私は応援しています。バッハを弾くピアニストも毎週ここに参加しています。ストレス解消と呪いのビートでもいいじゃないですか。ま、アフリカでは、太鼓は雷の音を模倣して敵を威嚇するものでしたし、その雷は雲の上の神々の足音だったと考えられていたんですね。奪われたものを取り返せという思いは一緒でしょう。


アイリッシュが語るシャルルマーニュの歴史文化、見てきたように生き生きと喋りますね・笑。ヨーロッパ人は17世紀以降のヨーロッパ史に詳しいですが、大抵学校には「世界史」の科目がないのです。世界宗教という枠からしか世界史を思い浮かべない人が多いのでは?@tschindrassabum

K ‏@qqyyyaaa
ヘーゲルの『歴史哲学講義』でわたくしの関心に引っかかったのは西アフリカに関する記述ですか。カントの『自然地理学』とヘーゲルの『歴史哲学講義』の間には重大な認識の断絶がある。カントからヘーゲルへの転換は「黒いムーア人」の消滅と言い換えてもいいかもしれない。


ふくろうねこ3分間哲学(前半)。懐疑主義者は、怠慢な本質主義者を告発する。馬鹿をいえ!DNA如きで人間の本質など語れるものか。そもそもデカルトからして、「我考える故に我存在す」という10文字の定義で出発したのはケシカラン!そもそも、人間の本質は、「定義できない」のだから、と。が、懐疑主義者はこのとき、6文字で人間の本質を定義する怠慢を犯しているかもしれない。それは傲慢だろう。だからこそ、用心深かったサルトルは、自己の実存主義を、懐疑主義に委ねなかった。しかし後に、実存的にか非実存的にか、「マルクス主義」の6文字に陥った


呆れたことに、検察・警察で暴力団を取り締まる大臣は暴力団から援助を受けていました。原発を監視する委員長は村長と呼ばれるほど原発を推進してきましたし、人権侵害を罵倒する市長は人権を破壊してきたのです。どうなっちゃったんでしょうか、この国は?と、嘆いてばかりいたのではどうにもなりません。一番の問題は、我々の生活に関わる重大な政治的意志なり方向に介入する権利と公共空間を我々が持とうとしないことかもしれません。

What is Public Spaces ?
They are beautiful spaces that allow people to gather and congregate, without having to pay someone a set
fee.

市民介入的民主主義を、公共空間の権利を、われわれのものとしなければない事態が眼前にあるのではないでしょうか。この公共空間は、選挙に委ねる<選ぶ>民主主義のことではありません。一人ひとりが喋る民主主義です。自発的なデモとネットによって大分喋るようになってきましたが、でもでもまだまだ






死刑因のDNAとの不一致?あなたは、<死刑廃止論者ではないが>と勿体ぶらず、はっきりと死刑を容認した自分の非に気づいたと言いましょう。なぜ五十年代は死刑廃止派が多数派だったのでしょうか。当時の人々は、極刑が軍国主義的方向に密接に結びついた危険な国家の暴力だと知っていたからです

大学サークルの先輩であった倉田弁護士から、免田事件の再審裁判のことを伺う機会がありました。免田氏に説き伏せたのです。無実は知っているが、あえて殺人犯として、証拠物件とされた<ナイフ>の返還請求を求めなさいと。検察は存在しないナイフを返還できず、即無罪確定

倉田氏によると、検察は無罪であることを知りながら仕方なく死刑を請求し続けたようなのです。犯人を処罰しろとする世論の声を無視できませんでした。当時も裁判官は検察の言い分だけが<証拠>。被害者の家族も誰かを犯人にしないと補償がなかったのです

倉田氏によると、検察は無罪であることを知りながら仕方なく死刑を請求し続けたようなのです。犯人を処罰しろとする世論の声を無視できませんでした。当時の裁判官は検察の言い分だけが<証拠>。当時誰かが犯人でない限り被害者家族に補償がないのが冤罪をつくる原因とご指摘

死刑因のDNAとの不一致?あなたは、<死刑廃止論者ではないが>と勿体ぶらず、はっきりと死刑を容認した自分の非に気づいたと言いましょう。なぜ五十年代は死刑廃止派が多数派だったのでしょうか。当時の人々は、極刑が軍国主義的方向に密接に結びついた危険な国家の暴力だと知っていたからです


「違憲と言い始めたのか?法の番人」の方がいい。そうすれば、一般読者も入っていける、賛成か反対かとめりはりある議論となる。「ものを言い始めた法の番人」(オピニオン、朝日新聞)だと、その「もの」は曖昧なひらがなだけに、日本人にしか通じない例によって勿体振った談合的言葉遣いとなっている

ホー、ネット上で誰が自分の文章を読んでいるか分らんよね。過去に書いたゴダールについての英語の一文を、十一月発行のオーストリアの芸術雑誌に引用させて欲しいと、先月facebookを通して申し込まれた。将来のどこかの国の誰かさんのために今日ツィートしたゴダール論も英訳しておこーかニャ


During the Great Famine, 1 million Irish people starved to death while English merchants burned food to keep prices from falling.

■「自らを愛し、こころの赴くまま行動せよ。問題解決に尽力し、平和であれ。」【ラコタ族】

共同幻想論には独創性がない。それは既にエンゲルスによって考えられていた。エンゲルスが幻想領域と考えたものをマルクスは正した。つまり普遍性あるいは交通に。吉本のように国家の内部から国家に即して考えると幻想領域に陥るだけだー滑稽にも彼は原発問題が深刻な国際問題だとは気がつかなかった



「多なるものが多なるまま肯定される世界」という日本人が好む人生観は、スピノザ一元論に孕むラディカリズムを封殺してしまう。結局多元主義だけだと、アパルトヘイトすらも「多なるものが多なるまま」として肯定してしまう危険がある。ゴダールの場合、パン的編集の<多>とクローズ的<一>は相補的


ゴダール映画最大のテーマは"娼婦"だと言う人もいます。監視する報告口調で娼婦の実体を語るナレータは、ジョイスのイタケ挿話ー教理門答の教育的ナレーション、それとジョイスから影響を受けたプイグ「蜘蛛女のキス」を喚起します。


マックケーブは、ゴダールの女性関係を語り出しました。蓮見派映画評論家みたいに探偵的にではなく、アイリッシュ起源の皮肉とイギリス的なゴシップ好きを混ぜたような味のある語り口です。彼が書いたゴダールの伝記本から、バルドーの身体をパレスチナの隠喩とした政治性を分析した研究が現れました



放射能から身を守る対策として自分が開発・販売するOO健康食品、xx健康グッヅを宣伝する為に、政府が発表していないというだけの理由から、被爆の事実に関する憶測を公に述べるのは、善意と良心からの発言とはいえ、なるべく謹んで欲しいと思う。今日区民センターが講師として呼んで喋らせていた

例えば歴史の多様性を重んじたアジア型モデルだ。このモデルは、近代国家の形成に世界史の目的を読む西欧型から独立していると自負する。が、これを強調すればするほど、ヨーロッパによる中国の読みに依存する事実を打ち明ける。対抗的に、自己化した他者に再び大東共和圏構想を読み始めるかもしれない

いかに中国を読むか?この読み方から、逆に、読むヨーロッパがみえてくるのは、日本とて同じ。読む側の正体がばれていく事にも気がつかず熱心に読んでいる。厄介なのは、日本による中国の読みは、いかにヨーロッパが中国を読むのかという条件に依存している点だ。この認識を欠いた「中国論」は読めない

教養ある中流のなかの保守化した人々が、日本文化に関心を持っている。この中流意識の庭を飾るのが、高級カルチャーである、黄金期日本映画と茶道と禅、次々と翻訳されてくる文学。が、人々を捉えているのは中国、いかに中国を読むか、だ。この読み方から、逆に、読むヨーロッパがみえてくるというもの

この三年間、海外で書き溜めた原稿の整理が上手く行かず、といつの間にかツィッターn次元にゴキブリとして徘徊する私を発見したみたいな総括でいいのか分らないが、古本屋さんの本を詰めた箱の如くここに、<3・11以降の思想の肖像><マルクス><ジョイス><ゴダール>をぎゅっと押し込んでいる



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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  10月 2012  言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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