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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  11月 2012

<<   作成日時 : 2012/11/08 18:52   >>

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「待って、昨年電気が足りなくなったのは、三割といえども地震列島のくせに原発に頼りすぎちゃったからじゃないのかしら。地震はなくせないとしたら、原発があるから電気が足りなくなるんじゃないの?」、というと一応分りますが、次会うとまた頑迷な原発推進派に戻っていますね


二大政党に有利に働く現行の選挙制度のもと、票は自民と民主に山分けされてしまうのでしょう?つまり同調主義に組せず少数の政党たちが頑張れば頑張るほど大量に死票が出るシステム。第三極と呼ぶならば、もっと彼らは、選挙制度の改革の必要を声高に言うはずですが、変ですね

五反田の床屋だと髪が伸びると酷く崩れてしまう。ダブリンの床屋では注文を出す前にすでに髪型が崩れているということが起きた。他の人の方を見てお喋りしているあんちゃんに何度も注文を言う必要があった。と、彼らはこちらの注文を聞き終る前に鋏を入れてしまう。嗚呼又五反田の床屋へ行ってしまった

選挙は、貴族の肖像画の前に立ったときと同じ。絵の中のモデルは、鑑賞者であるわれわれに全く関心を示さない。少なくともそういうポーズをとる。われわれの方と言えば、モデルのことを理解しようと必死。この貴族はなにを感じ、なにを考えたか、と。選挙における石原と選挙民との関係もこんな絵画鑑賞

記念撮影用の顔をくり抜いた石原人形に、自分の顔を入れて幸せそうに、東京オリンピックをやりますと約するこの人物こそ、天安門広場前で軍隊による民衆弾圧が起きたとき、日本に見習って機動隊をつくれと中国に忠告した。都知事になったら猪瀬は、反原発デモに惜しみなく警官暴力を投入してくるだろう

石原と猪瀬の悪口に続いて安部も叩くつもりが、悪口すら出てこない退屈キャラ。実際に聞いたロンドンのユダヤ系ギャングの会話を引く。A「貴様はアホ、アホの中のアホだ」。B「てめこそ、アホだ。俺は、賢い証拠に、日本の首相の名前を言えるぞ。アベシシゾ」。A「それみろ、やはり世界一アホだ!」

眉唾だが、英米式発想によると、自由な交換(議論)に委ねれば必ず思想のレベルでの<適正な価格>を得るという。所有権を侵すべからずと同様の市場に対する信頼が、思想の自由を侵すべからずという憲法の保障を導く。経済重視なら古典的憲法観の重視のはずだが、草莽蜂起は、利権重視だけの思考放棄だ

お金にものを言わせようとしても、現在はアジア諸国で日本だけがお金持ちではなくなりましたし、軍事も国連からの単独脱退も、「何の為に?」と問わないと、自分達が何をしているのか分らなくなっているままでしょう、草莽蜂起だけでなく、核のゴミ問題を考えられない原発推進派も

きっとレゲーの醍醐味もわからない気の毒な連中ですね。二十代のときよりも、現在の方が私はききいっちゃいます。世間的には逆でしょうけど・笑。真直ぐ真直ぐ長い長い道、ぐるぐると時がめぐる、まちがったことなんかなんも無い。その通り!と、ま、私の話はどうでもいいんですが

ミシェル・フーコー ‏
私の考え方だとされたことが多いのだが、「権力、それは悪だ」というサルトルの考え方は、私の考えとはおよそかけ離れている。権力とは戦略的なゲームのことです。権力が悪ではないということは、誰もが解っているはずのことである。−自由の実践としての自己への配慮−


ハンナ・アーレント ‏
私たちが本当にただ消費社会だとするなら、私たちは、ただ、生命過程に突き動かされているだけということになる。この絶えず反復されるサイクルの中では、物は現れては消滅し、姿を見せたかと思うと消え、十分持続して生命過程をその中に閉じ込めるということはけしてない。(『人間の条件』17)

現在内需は大きな割合を占めている。貿易立国という言い方には、<経済大国としての>という石原的自負心がみえる。中国と韓国の経済力をみとめたがらない人々は、石原に従ってれば、直に中国と韓国は頭を下げてくると思うの?無理でしょう。考え方だが、国が小さくなれば人間が大きくなるチャンスだよ

ネットをニセモノときめつけてくる新聞が腐敗するのはむしろ自然の成り行きです。大手マスコミはこんなことも分かっていないのです。つまり、自分達にホンモノ性を付与する限り、批判精神というものは、活動の場から逃げて去ってしまうということを。かえって、ニセモノである故に、批評性を確立していく自由が<ソフトな繋がり>に宿るということも。だから、街頭での抗議行動という<ハードな繋がり>のあり方を問えるのです。例えば、教育現場に日の丸が持ち込まれるように、デモの現場に日の丸が持ち込まれることには問題がないでしょうか?

眉唾でも、英米の説得力ある考え方は、思想の自由市場を言っています。自由な交換(議論)に委ねれば残るのは適正な思想だと。思想は侵害されないようにと憲法による保障があるのは、市場の要請があると。経済重視は思想重視を含み得ますが、草莽蜂起というよりは、思考放棄の政党

<ニセモノ性>は批評性と双子である。例えば吉本隆明は世界の同時性とか言って、日本における資本主義を「ホンモノ」と言い始めたのだが、彼は自分がどこから発言しているか隠蔽してしまった。つまりファシズムだ。ファシズムが資本主義を批判しているだけではないかと問うことこそが批評性なのである


案外と大学の先生すら分かっていないのですが、憲法改正は国旗や天皇推進のことだけではなく、明治憲法的な家族イデオロギーの復活があります。離婚や中絶等女性の自己決定権を制限する方向に法律が検討され、ルペンなみに「純」日本人女子は「純」日本人男子と結婚し三人の子供を産めという法律だって・・・ちなみに、「国学の草莽」というスローガンがあったのだですけれども、これを唱える人々は、国家の消滅を主張したアジア主義でした。どちらが原因でどちらが結果がわからないけれど、来年からは日本のぶっ壊れと中国のぶっ壊れが連星の如く互いに影響しあって進行して行く可能性がありますね

戦争責任を括弧に入れ経済優先主義で曖昧に共存して来た日中外交の終焉です。選挙後は、日本のぶっ壊れと中国のぶっ壊れが連星の如く互いに影響し合い進行していくことは必至です。アジアのヴィジオンをめぐって、国家の共同体を説く右翼と、人の共同体を説く左翼の間で、激しい対立が起きるでしょう

マスコミが殆ど野党を批判しないのは何故ですか?本来ならば、「与党と共に、あなたたちの政策は全部ゴミだ。ゴミでないなら証明してみなさいよ」という態度で挑み、そんな証明は悉く破産していると反論してみせるほどの反証で返すのがジャーナリズムでしょう。そこから有権者が初めて判断できるのです

フィッシング詐欺にご注意!あなたが買おうとしている商品に、「第三極」「脱」「新」の徴があったら要注意!賞味期限も吟味しましょう。「脱」といっても、あと三週間だけという期間限定の贋物が出回っています。買った後で苦情はきいてくれません。そんな商品はジャンケンにしか関心がありませんから

1、草莽蜂起のパロディーである安部らの行進をみて、そこにいるかれらが、外との交流によって育まれる文化を拒み、他と自己を分割する排他的分割線にしか関心がないということを考えました。が、但し、これはいわゆる「日本人」の性質とは関係が無いと思うのです。文化論的隠蔽に騙されてはなりません
2、やはりこれは、2006年における靖国参拝の小泉が創り上げた政治として考えるべきものではないでしょうか。知識層の中から、マスコミ受けする、似非文化論的に日本人論みたいな贋金を捏造するものが出てくるとしたら、唾を吐きましょう。70年代80年代に隆盛した、似非日本人論などは全部ゴミでした

国債引受けを迫り日銀法を改正する安部に対して、WS紙で白川が彼を非難している。独立が危ういと。「敵」の「敵」は味方と考えるべきか・笑。日本のマスコミ様は、日銀総裁の意見すら取り上げないぐらいだから、安部の憲法破壊に対する私の、そして君達全員の抗議などは一言も書くつもりはないだろう

「3・11以降の思想の肖像」(本多敬)。1われわれはどう他者を論じてきたのかー中国論。 2われわれはどうマルクスを論じるのか 。3われわれはどう映像を論じるのかーゴダール。4われわれはどう文学を論じるのかージョイス。5 われわれはどう思想を論じようとするのかーデモンストレーション

「外国人である事、しかし単に自国語ではない言語を話す誰かの様にではなく自分自身の言語においてどもる事」。ゲーデル的定理の文学的継承としてのマイナー文学とはノマド的マイノリティーの抵抗を言表したものだ。が、痛い話、敵である橋下的ファッショ言説にも利用され得る戦略である事を知るべきだ


まだまだ弱腰とて、3・11以降、朝日新聞は新聞らしさを取り戻してきたという印象を持つ。問題があるのは、編集。それと広告の氾濫。相変わらず「社説」と「天声人語」は、pointless。
今朝の「天声人語」は、政治家の普天間基地に対する取り組みを「独り相撲」と嘲弄した。が、惨めでも存在しないよりはましではないか。国連での英語の演説は無ではなかった。少なくとも彼における存在を示した。一方、八百万の読者に恵まれていても、内部に閉じた天の語りなど、普遍主義精神からみて、存在ではない。ただの言葉の儀式だろう。(だから入試問題に使われる?)。ついでに遠慮なく言わせて貰うと、選挙なんてものは最後は有権者の気分で決まるのだから、分析に値しないよ・笑。選挙後にどの党がどこと結婚するかみたいな芸能話はもう沢山さ。ただもし自民党勝利で安部総理誕生ならば、「領土問題」進行中に首相の靖国神社公式参拝が起きる。外部との交流を拒んだ、その国家の儀式が、われわれ一人ひとりにとってなにを意味していくことになるのか?いまから皆の意見をもっと知りたいな


五反田駅前はオカルト宗教団体の核武装を訴える演説と石原の選挙カーからの名前の連呼。堪えられす、喫茶店の中に避難したが、ここはここで、途切れることなく繰り出してくるXmasソング。うっかり入ったこのチェーン店はガザ爆撃のイスラエルを支援している米国の企業。結局逃げ場がどこもないんだ

Big noise at the Gotanda Station in Tokyo Loop Line.
The occult religious group speaked self-righteously appeal for the nuclear armament. Beside it an election campaign van arrogantly shouted the name again and again "Ishihara!Ishihara!Ishihara!.
Intólerable intolerance.The Xmas song compactly filled the coffee shop "Starbucks"" in that I evacuated with mercy. But,with my eyes cast down, how can I pass the damage caused by bombing Gaza ? 1984...? No, 2012.Tokyo, a closed society from which there is no escape.


遠慮なく言わせて貰うと、選挙なんて最後は有権者の気分で決まるのだから分析に値しない・笑。選挙後にどの党がどこと結婚するかみたいな芸能話はもう沢山。ただもし自民党勝利で安部総理誕生ならば、「領土問題」進行中に首相の靖国神社公式参拝が起きる。何を意味していくのかと皆の意見を知りたいが



反平和主義である反中国・従米軍国主義の大政翼賛的政権誕生(原発推進派・核武装派、大東共和的国家共同体推進派)に我々は抵抗する。選挙後は、平和主義者である反反中国・反従米軍国主義の民衆的抵抗(反原発派・反核派、アジアの人々との共同体を求める運動)の首相官邸前・国会前デモとなるだろう



Done! 来年3月ブレヒト小屋上演予定の、シュトラウス作「忘却のキスー赤色のガラスケース」(der Kuß des VergessensーVivarium rot) の為のネット・チラシ・ポスターの<絵>を制作し先週末完成しました。私の<絵>は皆様と来年お会いできるでしょう!

Mr Koyasu says; we need clarify the phase of "the gap of recognition of history " marked in the 20th century re-appearing as the problem in the 21st century. "The "the gap of recognition of history " has " territorial issue". That the " Ysukuni problem" marked in the 21th century, caused by Junichiro Koizumi" going and worshiping at Yasukuni shrine of State Shinto, brought out not only the anti-Japanese patriotic education in China but the current " territorial issue " inevitably urges us to reconsider "the Yasukuni problem" as a problem overshadowing the East Asia of the 21st century. (trans. takashi honda)


極右といえば、支持者達は街頭で外国人労働者に、殴る・蹴るの暴行を加える。但し在日の様なマイノリティーの子供達に対する威嚇を行うという卑怯な攻撃は聞いた事がない。イギリスのマスコミと左翼だけでなくナショナリスト右翼も極右政党との対決を辞さないですが、日本のマスコミと右翼は太鼓持ち?

イスラエルのガザ地区攻撃のニュースで、EUの援助でダブリンに音楽留学しに来るパレスチナ人達のことを思い出した。申請がおりたら、彼らは命懸けでアイルランドに来なければならない、爆撃で死なないように。途中帰国すると何人かは必ず爆撃で殺されてしまう。二度とヨーロッパに戻って来れないのだ


緊縮財政かケインズ主義かという反復される二項対立的論争の貧困。もはや日本が単独で行動しても何の効果も無い。全世界が、ブレトンウッズ体制なみの強力な管理によって、まず米国の国際収支不均衡を止めさせ、次に各国の企業の多国籍化を法律で禁止しなければ、と提案できる第三極の政党が出てこない


緊縮財政かケインズ主義かという反復される二項対立的論争の貧困。もはや日本が単独で行動しても何の効果も無い。全世界が、ブレトンウッズ体制なみの強力な管理によって、まず米国の国際収支不均衡を止めさせ、できるだけ投機的為替変動の原因を取り除き、と同時に、各国の企業の多国籍化を法律で禁止すること。例えば10年間とか、少なくとも各国で合意された望ましい経済的均衡に向かって安定するまでこれを続けること。しかしこういう話も本当の意味での第三極の政党がない。国民にできることといったら、二大政党が主張する過去の失敗のAかBを選ぶだけ

「一票の行使」というけれど、現実にはその二十パーセントしか行使できない少数の人々がいる。「日本の将来」の為なら何でも許されると思っているのかしら、この自分の言葉に滅茶苦茶酔っちゃった・・・ー>天声人語「内憂外患の募る師走、日本の将来にとってゆるがせにできない、一票の行使となる」

今回ほど、<選ぶ>民主主義が、<喋る>民主主義を嘲笑うという印象を与える選挙はないだろう。ローマ型<選ぶ>民主主義は、ギリシャ的喋る民主主義とは関係がない。ローマ型のは統治手段だ。即ち彼らの彼らによる彼らの為の力の支配だ。この支配こから必然として独裁者が出現する。黙れと命じてくる

選挙開始とともに、「議論より実行を」あるいは「批判より提案を」という言葉が流通し始めました。核廃棄物の議論抜きの再稼動がその疑いありですが、「提案」している人々が自分達が何をやっているのか分らなくなってしまっているという「実行」が無批判に実行されようとしているのではないでしょうか


柄谷が持っている交換様式の<環的な構造>への共感とは、仏における<脱構造化>についてのマルクキシストの信条を彼も又持っていたことを示す。世界資本主義の問題の解決はそれを推進した構造に再び依拠できないし倫理的にも不可能。天安門での抗議のことだ。選挙によっても解決できないような問題だ

革命についての思い入れは思い入れに過ぎなかったか?兎角柄谷は統整的理念としてのソーシアリズムの意義を発明した。彼らの夢を救った。ところで、この統整的理念を再び構造の中に足場をもつときやはり問題が起きる。統整的理念を「教えるー学ぶ立場」から逃る亡命者の立場のことを考える必要が出てくる

「教えるー学ぶ立場」から逃る亡命者の立場のことは、向こうの国の話ではない。天安門事件は、今日なら昨年の福島で起きた原発災害のことだろう。エコロジーに関して左翼と右翼に対して等距離を保つというようなことが統整的理念となっているとすれば、我々はこの理念から逃げる必要があると感じている


漢字を勉強していたアイリッシュの詩人が私に語りました。漢字圏の人々、例えば日本人は、アカデミックな語源学の知識が無くとも、音読みと訓読みから古い中国語の存在について意識できる可能性があると。単純に、それは素晴らしいと。日常使っている言葉から、古ギリシャ語や古ゲール語の存在が、英語圏の人々の意識に介入することはあり得ないということです。
ところで、子安氏は、親鸞に関する講義のとき、<信>仰を論じるのに、「外」という字から始めました。<信>といえば、非知のことです。ただし注意を要するのは、この<信>の字の作りをみますと、人+言葉、から構成されています。つまり<信>の字には人が依拠する言葉の存在を含んでいることが分ります。
<信>とは、その人の言葉が真であればその人を信じるということをあらわしています。ここでなぜ人を日本人に限るのでしょうか?人は、中国人や韓国人も含んだ他者であり、外部性のことであってもいいわけでしょう。こうして、<信>という字から、言葉というシステムが外部性と関わってきたことを証言する太古の記憶がみえてきます。つまり、私の解釈ですけれども、<信>とは、漢字<圏>の交通を意味しているのないでしょうか。アジアの人々との連帯によってしか原発問題を決定的に解決できないという危機感が、私をそう解釈させるのかもしれません。この十年間で、領土ナショナリズムを越えて、国家なきを<信>仰というものをつくることができるでしょうか。

間違いを恐れずに言えば、<信>とは、連続的で分割できない漢字<圏>の交通ではないか。原発問題の決定的解決がアジアの人々との連帯にかかっているという思いが私をそう解釈させるのか?国家なき<信>仰から、領土戦争を繰り返してきた二十世紀が本当の意味で終わりを迎えるのではないだろうか

<もの読み的存在>以下<もの書き的存在>以上と定義されるこの者が作るこの家ときたら、屋根と柱と壁が無く床すらも無い。只あるのは一つの規則だけ。「議論に解決を与えるなNever stop playing」という規則だけ。始めるのに遅いということはないNot too late!

有史前の人類の火の発見に匹敵する革命的な力とされた原子エネルギーの解放は、科学共同体の管理と情報公開によって、狭量な国家主義の古臭い概念を超越するといわれた。が、3・11以降、この自然界に存在する基本的な力は、市民介入的民主主義がなければ、それら自身では無に等しい事が明白になった

1、直接民主主義が高まっても、国際的連帯が実現する前に、これは、国家主義者の資源ナショナリズムの一撃で、簡単にバラバラに分断されてしまった。ふたたび反原発をたたかいぬく上で、どうしても、合理的な中国認識は不可欠である。従来曖昧に主張されてきた、国家の共同体という経済中心の視点は
2、それほど信頼に値するか疑問だ。中国と韓国が持つに至った大きな経済力からいって、もはや"経済"は日本だけが持つ切り札ではなくなったという現実をみとめないと今後何事も進まないだろう。中国と韓国は対等のパートナー、台湾も。だからこそ、人の共同体という視点から確実に行け、と言いたい!

直接民主主義が高まっても、国際的連帯が実現する前に、これは、国家主義者の資源ナショナリズムの一撃で、簡単にバラバラに分断されてしまった。再び反原発をたたかいぬく上で、どうしても中国認識は不可欠。国家の共同体という経済の視点はそれほど信頼できるか?人の共同体という視点から確実に行け

西欧の失敗はエゴイズムに尽きる。繰り返すな!今は結婚と沈黙が必要だ!こうして、中国共産党と新儒学の結婚がポストモダニズム的に表層的に推進されている。市民社会的モダニズムに関するマルクスの理論的格闘は厄介払いという。結局天安門事件なしですまそうとする日本の「中国論」はここに来たのだ

天安門事件は小さな人間の声であった。しかしこの市民的介入の歴史を紋切り型に、"毛沢東主義"の帰結として神話的に読もうとする言説とは何か?それは"天安門事件"から事件性を簒奪する言説である。このとき日本の「中国論」はポストモダニズムの右側に忍んで行く。市民的介入を無意味とみなそうと



1、公明正大に理性的に語るinvolvementのある演説を求められたと思うが、結局ロムニーは金持の金持という狭いイメージを越えられなかった。しかしだからといってオバマが演説が優れていたかどうか?Yse, we can do !というスローガンと共に、四年前ヨーロッパに来たオバマ
2、英国のコラムニスト達は、演説が下手な大統領といった素直な印象を書いた。ところで日本の新聞のコラムニスト達は「演説上手の大統領」と思い込んでいるのは何故か?彼らは、単に英字新聞を読めないのか、或いは、「統一」の言葉をオカルト的に繰りかえす演説を立派と思う程度の反証精神なのだろう
3、プライドばかり高くて反証精神が眠りこけてしまっている。たしかに彼らがうっとりと称える石原や橋下は、民衆感情に向かって熱狂的に喋る。いわゆるインテル風ではない。けれども、なにか、コソコソと自分自身から隠れるという印象を与える。理性が自身に後ろめたさを感じるという印象を与えるのだ

公明正大に理性的に語るinvolvementのある演説を求められたと思うが、結局ロムニーは金持の金持という狭いイメージを越えられなかった。石原や橋下は民衆感情に向かって熱狂的に喋るが、コソコソと自分自身から隠れるという印象を与える。理性が自身に後ろめたさを感じるという印象を与える


四年前ヨーロッパに来たオバマ。英国のコラムニスト達は演説が下手な大統領といった素直な印象を書いた。ところで天声人語は「演説上手の大統領」と思い込んでいるのは何故?この執筆者は英字新聞を読めないのか、或いは、統一の言葉をオカルト的に繰りかえす演説を立派と思う程度の反証精神なのだろう

来年3月上演予定の、ポートー・シュトラウス戯曲「忘却のキスー赤色のガラスケース」(der Kuß des VergessensーVivarium rot) のためのポスターを制作中、なう


「外国人である事、しかし単に自国語ではない言語を話す誰かの様にではなく自分自身の言語においてどもる事」。ゲーデル的定理の文学的継承としてのマイナー文学とはノマド的マイノリティーの抵抗を言表したものだ。が、痛い話、敵である橋下的ファッショ言説にも利用され得る戦略である事を知るべきだ

アメリカ大統領選と同じくらい大事なのが中国共産党の動向で、なにやら新人事発表の気配ニャ。但しふくろうねこは中国より、中国論に関心があるニャ。なぜなら、中国の読むからあなたたち日本人の考え方がスケスケ露になるからです(キャー)。中国論に関する連続ツィートで皆さんにご迷惑かけますんで

オタク知識人が自負する<同時代性>という胡散臭き観念。八十年代以降フランス思想付近から発生、国に食わせて貰う者も多し。招聘したヨーロッパ知識人と一見対等に会話できるこの者達と似ているのが、代表者顔で首相官邸の中に招かれ舞い上がる連中。彼らは相手に自分達の問題をぶつけられるのかな?

キルケゴール的に単独者を信仰から奪回し、還元不可能なイエスという固有名へ行けと説いた価値相対主義に続けとばかり、社会学付近の「思想家」、中途半端な連中が辿り着いたのが「愛」の語り。空位の宗教に「愛」という超越神を送り返したとも知らず、ナショナリズムの毒の中和を招いたら罪深いことだ

われわれは中国をいかに論じてきたか?「一方では」としての中国と、「そのまた一方では」としての中国とがある。前者は毛沢東主義の中国を教える立場で、後者は方法としての中国を読もうとする立場、といえよう。「一方では」と「そのまた一方では」、この両者は互いに交換できない非対称の関係にある

「一方では」としてのテクストは教える立場で、「そのまた一方では」としてのテクストは学ぶ立場である。ここでクイズ。「あなたは亡命者。どちらのテクストを選びますか?」。答えは明らかだ。そもそも亡命というのは真理と宗教を教える立場に反抗する所から起きるのだから。大抵の場合、国家が教える

<学ぶ立場>は読むことの重なり合いに依拠する。テクストにおいて権威が根を持つことはないし、ホンモノとかモトモトのオーラはゴミ箱行きだ。「同時代性」という、実はヨーロッパ中心主義的な<教える立場>のことも問題視する。だからこの<教える立場>は<学ぶ立場>を常に脱政治化しようとする

アンチ・オイディプス
それだけではない。芸術作品は欲望機械そのものである。芸術家は、自分の宝を蓄積して、やがて起きる爆発にそなえている。だから彼は、破壊がどんなに早くきても、早すぎることはないと思っている。――(上)p66

<昔Epicurean、今は駅ビルアンの日記>。駅ビルの喫茶店の中でこの吾にむかって、途切れることなく繰り出してくるアメリカ・アクセントのクリスマスソング。これはなにかと似ているのだが?安いコーヒー啜ったらひらめいた。これでもかこれでもかとお願いしてくる、選挙カーからの名前の連呼




いろはにさん;DV家庭は無論、伝統家庭で妙に奥ゆかしい男尊女卑観を教育された女性もまだまだ多いのだろうね。両性の調和が欠如した観念の下で「異性受けのよい女性」が育ってもそれが「幸福な女性」とは限らない。偏って母性を鍛えられた女性に見られる「無邪気さへの憧憬」「疲労感」には痛々しさすら覚える。

私の高校の同級生はまさしくこの痛々しい「無邪気さへの憧憬」「疲労感」でした。長い間「道を踏みはずすな」という父親の言葉に縛られ今も苦しんでいるようでした。「自分がない」と。大企業にいる男性の様に会社のイメージを守ることでしか自分の存在を主張できないことに通じる態度?@xyzqa

いろはにさん;伝統、文化、風土風潮の節々に<地>に纏わる呪いがありますね。元被虐待児が思考をも縛られる肉親からの「血」の呪縛も、天地の恵みをいずれも礎とする肉体のうち<地>の表情が強く出たものと感じます。親との確執に苦しむ友人には「己が命を授けしは天」と言うようにしています。 @owlcato

「天声人語」は、政治家の普天間基地に対する取り組みを「独り相撲」と嘲弄した。が、惨めでも存在しないよりはましだ。英語の演説は無ではなかった。少なくとも彼における存在を示した。一方、八百万の読者がいても内部に閉じた天の語りなど、普遍主義精神からみて存在ではない。徒の言葉の儀式だろう


「現代思想」連載「中国論を読む」をおまとめになった本ですね。楽しみに読みます。この講義は、「われわれは中国をどう論じたか」という子安先生らしい問題意識で展開して行きました。私の感想ですが、子安先生による、中国学(溝口)批判は、仁斎の朱子学批判とパラレルと思いました



森田実 ‏

日中関係改善に向けて努力しようとの動きは、少なくとも政治レベルでは見られない。日本の政治は「反平和主義」に向かっている。由々しきことである。今回の総選挙において国民は政治の過ちを正さなければならない。中国との戦争、紛争の挑発者に議席を与えてはならぬ。平和主義者を国会に送ろう!!

7)安倍晋三自民党政権のもとに石原慎太郎、橋下徹、野田佳彦、前原誠司、玄葉光一郎らの超タカ派の反中国主義者が総結集し、中国と軍事的に対決する従米軍国主義政権をつくろうとしている、との見方である。反中国・従米軍国主義の大政翼賛的政権である。これをめざして動いている者もいる。


教養ある中流のなかの保守化した人々が、日本文化に関心を持っている。この中流意識の庭を飾るのが、高級カルチャーである、黄金期日本映画と茶道と禅、次々と翻訳されてくる文学。が、人々を捉えているのは中国、いかに中国を読むか、だ。この読み方から、逆に、読むヨーロッパがみえてくるというもの

子安氏のツイート(4)


1,私は〈戦争〉や〈原発〉の終え方に重ねて、〈文革〉の終え方を考えていた。だが〈文革〉の終え方を求めていた私が日本に見出したのは、己れにおける〈文革〉を終えないという人であり、その言説であった。それは21世紀の現在にまで引き延ばされた造反派の〈持続的抵抗〉をいう言説である。
2,60年代の〈文革〉造反派の志の持続を、現在の体制への抵抗的反対派(中国・日本の住民闘争的反対派)の異議申し立てをも含み込んで語り出される、この引き延ばされた〈文革〉的言説をどう批判的に読むべきか。10日余り私は難渋し、ツイッターさえできなかった。
3.私は加々美光行の〈文革〉を終えない言説(『逆説としての中国革命』など)をめぐる論をともかく書き終え、研究会での報告を終えた所で、やはり中心問題は〈文革〉を終えないことにあることを覚った。それを覚らせたのは、野田が〈原発〉を終えないことである。
4.大飯原発再稼働がわれわれにとって深刻であるのは、それが国民にとって大災害であり、あり続けている〈原発体制〉的な国家的事態を終えないことを意味するからである。「国民生活を守る」ために再稼働をいうことは、〈原発体制〉を終えないという国民に対する犯罪的政治的決定を隠している
5.私は高行健の『ある男の聖書』と『霊山』によって、彼の中国における生存を不可能にした〈文革〉の実態を、中国市民の生き死にのレベルで知った。また内モンゴルやチベットにとって〈文革〉がまさしく「殺劫」(虐殺と文化の抹殺)としてあったことを楊海英・オーセルさんの著書に教えられた。
6.私が彼らによって知る〈文革〉は、加々美らの終えない〈文革〉の言説の欺瞞的独善性を教えるものである。〈文革〉を終えないということは、野田が〈原発〉を終えないことと同じ、あるいはそれ以上に犯罪的なことである。これは無理なこじつけではない。
7.〈文革〉を終えないということは、チベットから内モンゴルにまで及んだ恐るべき政治的犯罪としての災害、すなわちナチズム、日本軍国主義、そしてスターリン主義に並ぶ20世紀の全体主義的政治犯罪としての毛沢東主義的犯罪〈文革〉という政治災害を隠してしまうからである。


浅田彰曰く。「まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね」
しかし、このファウンデーションというものはは、小さな人間の声からなる市民的介入ではないかと、浅田は言い切ることをためらう理由が私には分らない。


46、天皇制的文化論といえば、多元的次元における包摂の全体主義。天安門事件から事件性を剥奪するのは、このような文化論においてだ。天皇性を中国に都合よく投射させまい。他者認識を問う思想にとって精神分析批判が欠かせなかった同じ理由から、現在、似非中国論を批判する意義が自覚されてくる

47、新聞とテレビよ、中国を語るのは大いに結構、ただし、あたりまえだが、君たちはどこからそれを語るのか自覚することが必要なのだ。中国の場合に限らない。韓国と朝鮮のときもも同様。われわれの民主主義は、かれらの民主主義を批判するとき、われわれの全体主義が干渉していないだろうか?まずわれわれの側が問われる

48、厄介なのは、天安門事件を、イコール中国革命として位置づけてしまう見解だ。なぜなら、天安門事件は民主化運動である以上、それは政府に対する抗議を意味し、それ故に、政府との等式が無条件に成り立たない決定的な反証である。天安門の民主化運動は毛沢東主義の展開とみなすことが不可能である

49、現在の中国が人民革命以前と本質的に同じ実体であると文化論的にきめつけた言説も問題だ。統治理念の継承性を強調した、天皇制の万世一系的な似非構造を中国において読み込む言説のことだ。ちなみにそんな日本側の共同幻想をかえって有利に取り込むことすら中国人研究者達の間で起きているという

50、アジア的原始共同体はオリエンタリズムなのに、中国はまさにそのアジア的原始共同体だ、と主張する言説が中国の側から流通すると。これはトリックだ。アジア的原始共同体としてならば、資本主義が齎す分配の平等を是正する大義名分的な支配の正当性を、中国共産党が自らに与えることが可能だから

51、現実にそんな分配の正義に向けたた努力があるかは疑わしい。あえて戦略的に、西欧からの幻想を受け入れ仮装することによって、ここから、民主化運動の弾圧を隠蔽してしまうことが起きる。が、これは許されないことに違いない。最後に、毛沢東主義はなにをしているのか、だ。決して単純ではない。

52、天安門事件の亡命知識人達にとっては、フランス人知識人たちの毛沢東主義への大きな共感は正直、ヨーロッパに向けて自分達の立場を発言するためには、正直「痛い」ものがあるという。亡命者達をインタビューした中国人の映画作家が語っていた。もはや毛沢東世代の孫達が運営する政治しかないのだ

53、現在中国共産党は「新儒学」を取り込もうとしている。西欧型個人主義は資本主義を歪める病だから、調和を重んじて、批判せずに沈黙せよ、と説く。これは、西欧なき近代化のヴァージョン、ポストモダン的に表層的であると言わざるを得ない。もちろん伝統的な儒学とは関係がない御用イデオロギーだ。

中国といえば、朱子学。この中国の学問は、17世紀以降大阪の仁斎や江戸(東京)の徂徠において独自の発展を遂げたのだが、外部との接触を通して豊かに成長した、複数形の文化を織り成した真の儒学であろう。子安氏によると、最近やっと台湾の人々も日本朱子学の存在に興味を持ち始めたのだという


54、ところで、神がwaterという語を与えたなら、天賦不動のものとしては存在するかもしれないが、そんな神はどこにも存在しない。waterという言葉は、それと関わって生きようとする人々、その関係から逃げようとする人々によってつくられていくものではないか。恐らくMaoという言葉もだ

55、そうでなければ、名前というのは、言葉(言語)と同じように、化石化してしまうから。この「毛沢東」の意味は今後、亡命者達によって発明されつくられていくはずでしょう。この点に関して、68年革命を予言したという「中国女」よりも、「カルメンという名の女」が、ゴダールの毛沢東像がよくわかる。

56、カルメンが愛人のジョセフに質問した。「ねえ?わたしたちは、名前の前は何だったのかしら?」。唖然として答えれないジョセフに、彼女はきっぱり一言。「(この大問題を一度も考えず今日まで生きてきたの?)。だからわたしは、あなたと一緒じゃ意義深いことがなにも達成できないと思うのよ!」

57、デリダ、中国へ行く。彼のエクリチュール論が読み直される意義があるとしたら、文字が文字である限りそれは空間を排除できないという思考を呈示していたことだ。言葉と空間の関係を考えることは、われわれがいかに空間を取り返すかという問題提起。抗議した人々の願いにわれわれの思考を置こう!

58、大東亜共栄圏の八紘一字的<中国論>は、<多元的世界>として展開する言説だが、その<多元的世界>は、本当にそれほど多元的なのかどうかが問われよう。というのは、結局は、日本帝国の<多元的世界>論は、対抗的<一元的世界>論に転化したことを思い出さないわけにはいかないからである。

59、たしかに、チベットとウイグル、そして天安門事件の亡命知識人および監禁状態の知識人達にとっては、大東亜共和圏の<中国論>は、帝国的イデオロギーをなす武装的なシステム論として、つまり最悪の言説として、映ることは間違いない。結局、この<中国論>は、オイデプス的であるように思える。

60、もしそうであるならば、このオイデプス的なシステム論に批判を与える方法は、ドゥルーズ&ガタリの言葉を援用すると、アンチ・オイデプス的な方法でなければならない。帝国を推進してきたシステムに再び依拠することによっては、帝国を解体することは不可能だし、また倫理的にも許されないことだ

61、中国は米国に対抗して自ら米国として立ち現れ始めたか。子安氏の指摘によれば、中国が借用する<中国論>の問題点は、市民レベルでの連帯の意義の欠如にある。実践的に日中韓台の人々の連帯の方向に沿った、方法としての<中国論>を読む注釈は、ミルプラトー的ヴィジオンに合流する必然性をもつことを強調しておきたい


62、国家学はメタ経済学の位置にある。国家学からを学ぶこと。「純粋な労働力」と「独立した資本」をどのように結合するかに諸国家の課題があることだ。法と政策で規制したり規制緩和するその方法で、日中韓の間で差異があるだけだ。こうしてみると結局は、日中韓は、米国との関係において、同型写像

63、経済政策の失敗は、それを購う復興幻想としての領土ナショナリズムへの転化によって隠蔽される。戦争の入り口だ。関東大震災の十年後に満州事変が起きた。3・11の後に領土ナショナリズムが起きている。我々は悪いシナリオの映画の中に生きている?霞ヶ関物語の中で領土ナショナリズムが最悪だ

アイルランドのTrinity大学図書館の写真をみて昔を思い出しました。フェミニズムのコンフェランスが行われたときのことです。会場にニ、三千人来ましたが、(外見上)男性は私一人だけ。一番後ろに座りました。壇上から演説者から、われわれの敵は蒼ざめているじゃないかと揶揄されました。会場の全員が振り返って私の姿を見て爆笑の渦。
東京にリターンした最初の一年間、「日本は変わりましたか」と必ずきかれました。これが中々答えにくい質問なのです。ダブリンと比べて益々不気味に清潔になってきたとか、ロンドンではあり得ない男女の棲み分けのような分離が進んできたとか、英語の頭で考えた自分の印象を伝える<自然な>表現に困ってしまったからです。
「ダブリンと比べて益々不気味に清潔になってきた」というと、「でもあちらの方が<きれい>でしょう」と答えてきます。そう思うのは観光地しか知らないからでしょうと思いますが、それは別として、ゴチャゴチャと乱雑の極みなのに清潔感を保っている、東京の<不均衡の中の均衡>は、ヨーロッパの街においてあり得ない不思議感。
女性同士でリラックスした関係を創る様子は、異性愛的モラルがきついキリスト教圏だと危険な感じがなくもありません。女性同士から、男性中心の視点を崩せたら面白いのに。がまだまだ<不均衡の中の均衡>かな。なんにしても、自由な精神における創造的破壊である<不均衡>を東京にのぞみます

<不均衡の中の均衡>という言葉はケインズが語りました。古典的経済学は、需給ギャップ等の不均衡は完全雇用の均衡に向かって収斂していくし、そうでなければならないと考えました。これに対してケインズは、経済が不完全雇用である不均衡のもとに安定してしまう危険性を指摘しました。不況のことです。

ついでに大阪市長ですが、経済の論争を視聴して、どうも自分が気に食わない人物について、「期待インフレ率も知らない」とはおそまつと得意げに嘲弄しました。が、期待インフレ率というのは、完全雇用のもとでしか起きない現象です。不完全雇用である不況を認識する者がそれに言及しないのは当然ですね

<もの読み的・もの書き的存在>の棲む家は階段のほか屋根も柱も壁も床も無い。この階段を進んで書いたものを授けたくとも読む神がいない。全世界<八紘>を一つの家<宇(イエ)>にする程の閾をもつ靖国の家に背いて、存在が棲む家の閾は救済無き閾。来年君達もこの階段を進まなければならないだろう

1、憲法は、国家を名宛人にして、その権力の濫用に抗議しています。最低限度、こういうことは止めてくれと、権力濫用の事例をリストアップしているのです、国民が忘れないように。ここで「忘れないように」と書きましたのは、戦前には、拷問や検閲といった国家による権力の濫用が現実にあったからです
2、ところが、全然理解していない自民改憲案は、「第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、(中略)これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」と、大変的外れのことを言います。12歳の良い子が書く作文です
3、これではまるで、「臣民よ、恩恵でお上が与えた自由と権利に感謝したまえ。この贈り物を濫用したらいつでも取り上げるぞ」というお説教です。現行憲法が証言している、国家権力の暴力のリアルな歴史を掻き消しています。自民党憲法がこれを消してしまい理由は何でしょうか?多分後ろめたさでしょう


中国は後期資本主義である。帝国主義かどうかは論争中だ。過剰に期待される中国の<改革開放>とは別に、日本には<人民中国>的な毛沢東像に対する思い入れが存在する。資本主義を批判するかわりに、毛沢東主義を擁護してしまう。劉曉波をはじめ天安門事件の抵抗の歴史的意義を理解することができない

資本主義とファシズムは相補的である。だからサルトルはレジスタンス運動がファシズムを負かしても資本主義に勝利を与えたら無意味と問うた。左翼オタク知識人はこの抵抗の視点がない。毛沢東主義という言説の中の内部に絡み取られてしまう。内部化できない外部から、批判を成立させ展開しようとしない

吉本隆明は「マスイメージ論」以降、資本主義的言説の内部の中に絡みとられた左翼オタク知識人だ。<使用価値>的な無意識の生産といった「資本論」のイメージ化は、資本主義を資本主義の内部から資本主義に即してみる顕著な内部の語りだ。ファシズムが定位する原発推進的一体構造の暴力を批判できない


大嘘。はっきり言って英国も仏も事実上「敗戦国」です。米国に助けて貰ったのです。敗戦後は国そのものが乞食の状態。米国に渡った政府代表のケインズが最初に頼んだ言葉は、「どうかお金をください」ー>「島国イギリスは、・・・ナポレオンにもヒットラーにも負けませんでした」

大嘘。仏と比べて百年前に産業革命を行っていた英国の「豊かさ」に関しては説明不要。ナポレオンを負かした伝説は、反EUのためのスローガンとして徘徊しているキモイ幽霊です(笑)。迷惑に思う英国人の方が多いですー>「イギリスは、常に豊かでなかったのですが、ナポレオンにも負けませんでした」

解釈改憲して憲法を破壊してしまうよりは、改正して破壊したほうがましだろうと考えていたかもしれません。オー、コワ!彼らの内輪の話に興味がありませんが、三冊ぐらいを乱雑に読んだ記憶もあり、もしあなたがFbかTwで間違いを糾すなら、是非とも私は読みたいと思いますね@hosopy_dx

濫毒4冊。明日自衛隊が北朝鮮に出撃し得る現実に鑑みれば憲法は無いと同然ですが、なお右翼が変えたがる理由は、この憲法が(彼の教え子を筆頭に・笑)右翼に抵抗する様な、なにかがあるのでしょう。所詮自民党憲法は、デモの人々に迷惑をかけるなと言ってどついてくる警官の暴力

明日自衛隊が北朝鮮に出撃し得る現実に鑑みれば、平和憲法は無いに等しいですが、それでもなお右翼ファシスト達が執拗に変えたがる理由は、我々の憲法が彼らに抵抗する言葉の力があるからでしょう。所詮自民党憲法は、デモの人々に迷惑をかけるなと言ってどついてくる警官の暴力、せいぜい体罰の方法


「ゴダール研究者」という日本における特権

ゴダールは、言葉の力という表題の映画をつくるほど、自分の映画を言葉の方へ置き直した。暴力の力に抵抗するのが言葉の力だ。しかし日本のゴダール研究者は、このゴダールの問題意識を、閣僚靖国参拝の様な日本における暴力に適用しようとはしないのだ。彼ら文化人は、ヨーロッパの教養だけを垂れ流すオタク知識人の如く振舞う。暗黙に右翼に協力しているのではないか。実際に、祭的なイベント企画者とか、日本のゴダール研究者が綴る<ゴダール論>を崇拝している右翼が多くなってきた。私のフォロワーになるが、気の毒な事に直ぐにブロックしてくる・笑


演劇批評とは何か?それは<再帰性>について書く言葉。即ち不可能な帰還を論じる。文学批評が捉えるのは<非分割性>。映画批評、詩批評、音楽批評、政治批判、経済学批判、言語学批判、思想批評が捉える対象は順に、<連続性><全体性><偶然性><代表性><外部/内部性><内在性><事件性>

<再帰性><非分割性><連続性><全体性><偶然性><代表性><外部/内部性><内在性><事件性>。スピノザなら属性と呼ぶ。どんな神がこれらの属性を覆えるか?映画の<連続性>という領域だけ見渡しても無限の個(過剰)があるのに、況や於いて無限の属性から成る領域を包摂するのは不可能。

政治的な<代表性>が詩的<全体性>に対して行う搾取、これは、現在まさに進行中の、選ぶ民主主義が行う欺瞞的置き換えなのだ。市民である小さな人間の声が開かれた<全体性>ならば、政治家である大きな人間は<代表性>に対応する。この<代表性>は代表制として、我々の喋る民主主義を搾取し続ける





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