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zoom RSS 中国論

<<   作成日時 : 2012/11/23 17:28   >>

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46、天皇制的文化論といえば、多元的次元における包摂の全体主義。天安門事件から事件性を剥奪するのは、このような文化論においてだ。天皇性を中国に都合よく投射させまい。他者認識を問う思想にとって精神分析批判が欠かせなかった同じ理由から、現在、似非中国論を批判する意義が自覚されてくる

47、新聞とテレビよ、中国を語るのは大いに結構、ただし、あたりまえだが、君たちはどこからそれを語るのか自覚することが必要なのだ。中国の場合に限らない。韓国と朝鮮のときもも同様。われわれの民主主義は、かれらの民主主義を批判するとき、われわれの全体主義が干渉していないだろうか?まずわれわれの側が問われる

48、厄介なのは、天安門事件を、イコール中国革命として位置づけてしまう見解だ。なぜなら、天安門事件は民主化運動である以上、それは政府に対する抗議を意味し、それ故に、政府との等式が無条件に成り立たない決定的な反証である。天安門の民主化運動は毛沢東主義の展開とみなすことが不可能である

49、現在の中国が人民革命以前と本質的に同じ実体であると文化論的にきめつけた言説も問題だ。統治理念の継承性を強調した、天皇制の万世一系的な似非構造を中国において読み込む言説のことだ。ちなみにそんな日本側の共同幻想をかえって有利に取り込むことすら中国人研究者達の間で起きているという

50、アジア的原始共同体はオリエンタリズムなのに、中国はまさにそのアジア的原始共同体だ、と主張する言説が中国の側から流通すると。これはトリックだ。アジア的原始共同体としてならば、資本主義が齎す分配の平等を是正する大義名分的な支配の正当性を、中国共産党が自らに与えることが可能だから

51、現実にそんな分配の正義に向けたた努力があるかは疑わしい。あえて戦略的に、西欧からの幻想を受け入れ仮装することによって、ここから、民主化運動の弾圧を隠蔽してしまうことが起きる。が、これは許されないことに違いない。最後に、毛沢東主義はなにをしているのか、だ。決して単純ではない。

52、天安門事件の亡命知識人達にとっては、フランス人知識人たちの毛沢東主義への大きな共感は正直、ヨーロッパに向けて自分達の立場を発言するためには、正直「痛い」ものがあるという。亡命者達をインタビューした中国人の映画作家が語っていた。もはや毛沢東世代の孫達が運営する政治しかないのだ

53、現在中国共産党は「新儒学」を取り込もうとしている。西欧型個人主義は資本主義を歪める病だから、調和を重んじて、批判せずに沈黙せよ、と説く。これは、西欧なき近代化のヴァージョン、ポストモダン的に表層的であると言わざるを得ない。もちろん伝統的な儒学とは関係がない御用イデオロギーだ。

中国といえば、朱子学。この中国の学問は、17世紀以降大阪の仁斎や江戸(東京)の徂徠において独自の発展を遂げたのだが、外部との接触を通して豊かに成長した、複数形の文化を織り成した真の儒学であろう。子安氏によると、最近やっと台湾の人々も日本朱子学の存在に興味を持ち始めたのだという


54、ところで、神がwaterという語を与えたなら、天賦不動のものとしては存在するかもしれないが、そんな神はどこにも存在しない。waterという言葉は、それと関わって生きようとする人々、その関係から逃げようとする人々によってつくられていくものではないか。恐らくMaoという言葉もだ

55、そうでなければ、名前というのは、言葉(言語)と同じように、化石化してしまうから。この「毛沢東」の意味は今後、亡命者達によって発明されつくられていくはずでしょう。この点に関して、68年革命を予言したという「中国女」よりも、「カルメンという名の女」が、ゴダールの毛沢東像がよくわかる。

56、カルメンが愛人のジョセフに質問した。「ねえ?わたしたちは、名前の前は何だったのかしら?」。唖然として答えれないジョセフに、彼女はきっぱり一言。「(この大問題を一度も考えず今日まで生きてきたの?)。だからわたしは、あなたと一緒じゃ意義深いことがなにも達成できないと思うのよ!」

57、デリダ、中国へ行く。彼のエクリチュール論が読み直される意義があるとしたら、文字が文字である限りそれは空間を排除できないという思考を呈示していたことだ。言葉と空間の関係を考えることは、われわれがいかに空間を取り返すかという問題提起。抗議した人々の願いにわれわれの思考を置こう!

58、大東亜共栄圏の八紘一字的<中国論>は、<多元的世界>として展開する言説だが、その<多元的世界>は、本当にそれほど多元的なのかどうかが問われよう。というのは、結局は、日本帝国の<多元的世界>論は、対抗的<一元的世界>論に転化したことを思い出さないわけにはいかないからである。

59、たしかに、チベットとウイグル、そして天安門事件の亡命知識人および監禁状態の知識人達にとっては、大東亜共和圏の<中国論>は、帝国的イデオロギーをなす武装的なシステム論として、つまり最悪の言説として、映ることは間違いない。結局、この<中国論>は、オイデプス的であるように思える。

60、もしそうであるならば、このオイデプス的なシステム論に批判を与える方法は、ドゥルーズ&ガタリの言葉を援用すると、アンチ・オイデプス的な方法でなければならない。帝国を推進してきたシステム論に再び依拠することによっては、帝国を解体することは不可能だし、また倫理的にも許されないことだ

61、中国は米国に対抗して自ら米国として立ち現れ始めたか。子安氏の指摘によれば、中国が借用する<中国論>の問題点は、市民レベルでの連帯の意義の欠如にある。実践的に日中韓台の人々の連帯の方向に沿った、方法としての<中国論>を読む注釈は、ミルプラトー的ヴィジオンに合流する必然性をもつことを強調しておきたい


62、国家学はメタ経済学の位置にある。国家学からを学ぶこと。「純粋な労働力」と「独立した資本」をどのように結合するかに諸国家の課題があることだ。法と政策で規制したり規制緩和するその方法で、日中韓の間で差異があるだけだ。こうしてみると結局は、日中韓は、米国との関係において、同型写像

63、経済政策の失敗は、それを購う復興幻想としての領土ナショナリズムへの転化によって隠蔽される。戦争の入り口だ。関東大震災の十年後に満州事変が起きた。3・11の後に領土ナショナリズムが起きている。我々は悪いシナリオの映画の中に生きている?霞ヶ関物語の中で領土ナショナリズムが最悪だ



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