言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年1月

<<   作成日時 : 2013/01/02 23:59   >>

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嘆きの引き算。市民革命があったとされる英国から、無かった日本を引いても仕方がないじゃないか。それよりもイギリス人に倣って17世紀を現在の文脈に置き換えた方がいい。王vs.議会は、国際資本(大銀行と多国籍大企業)vs.中小零細企業。吃驚!市民革命はTPPを舞台にした現在形の革命だよ

<大島渚を語る>
大島渚は好きだ。ただ日本語で書かれた彼についての映画評は苦手。民衆史から語るものが多いが、笑止。この民衆史は、知識人の土に対する執着に過ぎず、近世の藩の帰属意識から由来するというのが私の自説。民衆史における偽の対抗概念として、相補的に、かならず天皇が現れる。明治以降墓の執着に変容したという藩意識は、民衆史という共同幻想を発明していく。例えば、私の理解では、岩波書店の日本史、吉本隆明、網野や中沢新一の中世史、大河ドラマ、民衆vs天皇と、繰り返し二項対立の物語を反復する。(但し網野はそう単純でなないかもしれないが)Fbで映画監督の藤原敏史氏から示唆していただいた。大島は京都の人だから「藩」に属していないこと、「民衆vs天皇」という発想からどんどん逸脱していった点である。「猥褻とは明治の官僚の醜い造語」という大島の言葉は、彼が創り出した愛のイマージネーションに当惑する・・明治官僚のように振舞う現在の観客にあてた軽蔑を込めた痛烈な言葉だ。二年前ICAのコーディネーターに頼まれて、電話で東京事務所にかけ合って「絞首刑」のアイルランド上映許可を貰った。私の勝手な思い込みだが、「愛の亡霊」こそこの「絞首刑」の続編ではないかと思っているつまり、姑息にも国家官僚が再現することができない、エロスの記憶が提示されたのではないかと。この考えは、「愛の亡霊」に関する藤原監督の洞察に富んだご意見を伺って、そう間違いではないと分ってきた。兎に角、大島が拒否したのは、官僚的な自己抑制的な国家意識であった。溝口の「滝の白糸」(新派劇)の中で描いている裁判官ほど、大島が批判してきた明治官僚を体現しているキャラクターはない。大島に与えた溝口の影響力を明らかにしたカイエの評価とは別に、こういう方向から、溝口ー大島ラインは今一度探求に値する映画の歴史であろう。英国では年末に大島の「戦場のメリークリスマス」がテレビ放映される。残念ながら大して才能もないタレントの知名度につられて観るのだが、大島の名を知らずともこの映画が提起した普遍的な問題意識が分る。毎週「愛のコリーダ」を上映していたパリの映画館はどうなったかな

「日本人として恥ずかしい」という言い方で、特定の人々の排他的な態度を非難するつもりなら、自らの判断が依拠する排他性にも注意を払いましょうと指摘しているだけで、「日本人は恥ずかしい」と一言も言っていない。相手が言っても無いことを聞いたつもりになって一人で怒っている人を結構見かけるな

また、「日本人として恥ずかしい」という言い方の問題点は、コミュニケーションの現実に即して考えると、全体を指示する言葉と、性質をレッテル張りする言葉が孕む危うさにある。説明しているのに、相手が言っていることに耳を貸さず一人で怒っている青年将校が多い。大河ドラマの見過ぎじゃないかしら

外国語の本に関しては、書いていることなのに読めていなかったり、書いていないことを読んだつもりになって勝手に理解している、困ったふくろう猫さんなのだ。でも、相手が言っても無いことを聞いたつもりになって一人で怒り、又相手が言っていることに耳を貸さず一人で怒っている青年将校よりマッシー

FT記事。Sidny Rittenberg は、中国共産党の最初のアメリカ人。英語の北京放送を手がけたが、16年間投獄された。中国人妻は拷問を受けた。文革のときは獄中で中国語で「資本論」を読み自らを励ましたという。西欧人の党員は英国から来たユダヤ人が殆どで、彼は南部出身のユダヤ人

FTのインタビュー記事「わが友毛沢東」。Sidny Rittenberg シドニー・リッテンバーグは、米国南部名家出身のユダヤ人で、語学の才を生かして毛沢東の英語ラジオ放送を手がけた。二度中国人の妻と共に投獄され、6年間の間中国語「資本論」を読んだ。中国共産党に入党する西洋人は殆どユダヤ人で、ロンドン出身のユダヤ人も多かったと証言しているのが面白い。中国の体制が変わる80年代に、アメリカ大使館に駆け込んでパスポートを申請した。当時彼の生い立ちを証明する書類は一切なにもなかったが、簡単に直ぐ発給してくれた。アメリカに帰国すると、カーター大統領から熱烈に歓迎された。その後、アメリカの対中国ビジネスのコーディネーターとなり、大金持ちになったという、いかにもユダヤ人伝説!?彼は、毛沢東を思い返している。毛沢東は議論好きだったが、自分と違う意見を反革命的と名指したという。この毛沢東を、envy peasant("嫉妬深い農民"?)と形容した。

二つのBといえば、ヨーロッパソーシアリズムの「ベルリン」と、資本主義の「ボストン」。"ケルトの虎"のアイルランドは、「ベルリン」よりも「ボストン」に近かった。意外にも、ソーシアリズムのドイツを警戒する知識人が多かったのは、中立国からするNATOへの警戒だったからだと今更理解した

第一日目から北アイルランド紛争地の死傷者数がラジオで告げられた。毎日犠牲者がでる。北アイルランドは関係なしとダブリンの中流は当惑するが、この中立的態度に怒るのは米国人だけではない。成田から来る人々だけが平和な国と称える。乗ってきた日本の飛行機が積んでいた武器の存在すら気がつかない

憲法の平和主義は為せば成る。世界の上から数えて何番めの大規模な軍隊を縮小するプログラムはなにか?「戦争反対!」と叫ぶだけでは<為さねば成らぬ>。情報を収集・分析するスパイを養成しこれらを世界中に派遣したらどうか。それも反対ならば、国民一人ひとりがスパイ並みのリテラシーを持つべきだ

仁斎の理解は初心者ではあるが、仁斎が明治時代に生きていたら清沢満之みたいなことを発言したんじゃないかと勝手に想像して子安氏の講座をきいた。エーコ的には、伊藤仁斎は清沢満之を読んだのであるー私のなかで。と、伊藤仁斎と、同時代に属すスピノザが比べられる理由というのを知りたいなと思った

思想というのは置換不可能。思想が自らを<他のもの>でしか表現できないのは常に矛盾だろう。が、「エチカ」の異教的思想が自らをスコラ思想において表現したのは矛盾以上のもの、即ち政治。新興独立国家オランダのキリスト教的言語に対して、神を裏切った「私」に、「神=自然=無限」の抱負を与えた。「私」はontological independency of substanceのこと。実体の存在論的非依存性に身体が介入するように、「神」に「私」が介入する。思考に、語る言葉が介入していく。

「フォイエルバッハ論」「ユダヤ人問題」は、宗教批判よりも、近代の知と国家に対する批判と考え始めました。政教分離の憲法学を教える近代の知と、19世紀的な「戦う国家、祀る国家」の靖国を土着的に古代から発掘せよとした偽文化概念が、片山さつきにおいて両立しているのです

壇上からお偉方の姑息な自慢話を垂れ流すのはアナクロニズムでしょう。「諸般の事情からこの国は皆さんの希望を踏み潰してしまうかもしれません。場合によっては国を選ぶつもりぐらいの覚悟で海外をみてきて下さい」とだけ告げて、成人した二十歳の若者全員の為にパスポートを手渡してあげてください。

どうやって経済復興をするの?悪化した対中関係の改善の見込みも無く、更にアメリカからも敬遠されるようでは・・・?第二次世界大戦等に関する安部の右寄りの歴史認識が東アジアの安定を損なう恐れがあると考えた、オバマ大統領が安部の訪米よりも韓国の朴大統領との会談を優先するかもしれないという


子安宣邦氏の講義レジュメ(1月;昭和思想史教室)より

道とは何ぞや。曰く天道なり、人道なり。天道は平等の道なり。人道は差別の道なり。吾人須らく人道(我に在るもの)を尽くして、天道(彼に在るもの)に願うべきなり。ー 清沢満之

「公」とは「私」の反として、天下のすべてを覆う普遍性、天下の人すべての共同性、そして平等性にかかわる儒家の道徳的、政治的思惟の基幹的概念である。三浦国男は朱子学を解説して、「朱子における<私>と<公>との対立は、(「朱子における<私>と<公>との対立は)、自己対社会の座標軸をはみ出しており、むしろ自己対全生命というべきである。「私」とは、おのが一身に閉じこもり、宇宙的生命への参与の拒否、ないしは無自覚、想像力の欠如ぼ謂いである。かくて<公>は<仁>と重なる」。倫理学は、新たに形成される近代社会のための道徳的教説としてヨーロッパに求められ、ヨーロッパから導入されたのである。近代的公民(市民)の倫理的判断とその主体的形成のための教説としての倫理学は、近代日本の教育体系にの中心に位置づけられていく。この倫理学の導入によって儒教は東洋倫理として構成される。この東洋倫理とは別の形で儒教は明治の国民に与えられていった。それは明治22年(1890)の「教育勅語」としてである。「教育勅語」は儒家的徳目を新しい天皇制国家の臣民的な義務の体系として配列し直し、国民の道徳教育的原理として天皇の名によって与えられていったのである。やがて「教育勅語」を敷衍するもとして「国民道徳論」が構成され、近代天皇制国家における国民(臣民)教育の中心的教科をなしていくのである。近代日本における儒家的言語とは、「教育勅語」を構成する言語であり、これを作成し、これを敷衍して国民的道徳論を語り出す明治の漢学的保守グループの言語でもある。・・・私はさきに清沢の「有限無限録」における儒家的言語には戦略的な意図があるのではないかといった。すなわち清沢の儒家的言語とは、明治国家のいわば<欽定>の儒家的言語に対して、<私>に、しかし世界的な抱負をもって使用されたものではないか。私がいう<欽定>の儒家的言語とは「教育勅語」とそれを敷衍する「国民道徳論」に使用される儒家的言語を指しいっている。もちろん清沢がごこがでこの<欽定>の儒家的言語に対抗する意図をいっているわけではないし、いえるわけもない。・・・

清沢の儒家的言語使用における戦略的意図とは、私の勝手な推定である。だがこれを推定することではじめて、明治32年の清沢の高い抱負をもって書かれた真言の道徳的な指導原理をのべるテキストに儒家的概念と言語が使用されている理由を理解できるのではないか。
清沢の言葉;「有限の世界にありて無限の境界を享有せんとするものは、互いに相施受して平等的慶福を期図すべし。而して上の者には上の者の徳あり、下の者には下の徳あり。以って互いに相施受すべきなり。上下各其の有する所を以て公の為に尽くすべきなり。(我を措きて他の為にすべしと云うあり。是れ少しく誤まれり。何となれば我は到底措かるべき<*捨てるの意>ものにあらざればなり。今公と云うは彼我を合わせてr之を云ふなり。彼を捨つるは固より偏私の大悪なり。然れども我を棄つるも亦決して正当にあらず。彼我を摂して偏せざるは公を云わざるべからず。公の要は彼我を忘るるにあり。是れ無限平等なり。至心信楽己を忘るるとは公の要を表すものたるなり。)
日本において「公」とは、もともと天子・朝廷を意味する「おおやけ」であり、朝廷・国家をこえることはなく、「天の公」という普遍的理念性をもつことはない。(*「教育勅語」の「公益ヲ広メ」よの意は、「国家ノ危難ヲ救フ」こと、「滅私奉公」のスローガン)。(戦中の滅私奉公的な欽定の儒家的言語の「公」に対して)、明治32年の清沢が「無限行為は善なり」−「公の為にする行為なり」−「天に順う行為は善なり」という、「無限」「公」「天」という超越的、普遍的概念を前提にして道徳論的なテーゼを導いたことの例外的な意味は理解されるだろう。

1、敗戦後の日本は「戦わない国家」として自己規定しました。それが憲法の平和主義という基本原理です。「戦わない国家」とは、国家主権の行使として戦争を行わない国家であり、従って国家行為としての戦争の犠牲者についての国家的追悼を行わない国家であります。即ち「祀らない国家」であります・・

2、憲法は第9条で「戦わない国家」であることを規定し、第20条の政教分離の原則をもって「祀らない国家」であることを規定しました。「戦わない国家」とは「祀らない国家」であること、憲法第9条は第20条とは分かち難いものであることは(明らかです)ー子安宣邦氏、「国家と祭祀」について語る

(違憲的参拝に対して)「そういうことをいって、小泉純一郎の信仰の自由を妨げるというのは、それこそ憲法違反じゃないですか」(福田康夫)。この福田は後に国際人権共同体社会の要求に追従する。米国の金儲けの戦争という批判に対して「そういうことをいって、我々の爆撃を妨げるなら人権侵害です」

(違憲的公式参拝に対して)「そういうことをいって、小泉純一郎の信仰の自由を妨げるというのは、それこそ憲法違反じゃないですか」(福田康夫)。これは、植民地主義者の言葉を繰り返している。「南」の資源ナショナリズムに対して、「そういうことをいって、我々の平等権を妨げるなら人権侵害です」

(国内外の批判にも関わらず、首相在任中に6度も確信的な違憲的参拝を繰りかえした小泉に対して)「そういうことをいって、小泉純一郎の信仰の自由を妨げるというのは、それこそ憲法違反じゃないですか」(福田康夫官房長官談話)。驚くなかれ!絶望的にも、最高裁の考え方は福田の談話と一致している



京都の人だから「藩」に属していないのですね。「民衆vs天皇」という発想からどんどん逸脱していったというのはほんとうに賛成です。「愛の亡霊」を悪く言人が案外多いのは、納得できないことなのですが、なるほど、おかげさまで、すこしこの事情を分ってきました。なお、コメントでは書かなかったのですが、近代の産物でしかない靖国神社をあたかも、古来から存続してきた土着的なものとして語ってしまう言説に対して警鐘を鳴らすのは、子安宣邦氏です。私はナショナリストではありませんが、安部の軍国主義的ナショナリズムに抵抗する為に、(靖国的幻想に回収されない)過去の文化遺産として、なにか積極的なものを提示できないだろうかと考えています。大島渚の仕事がヒントになります

そうでしたか、大島さんはそんなことをンドに仰っていたのですね。二年前、ICAのコーディネーターに頼まれて、電話で東京の事務所にかけ合って、「絞首刑」のアイルランド上映許可をいただきました。私の勝手な的外れな想像でお笑いになるかもしれませんが、この「絞首刑」の続編が、「愛の亡霊」であると思っていました。つまり、国家官僚の手によっては再現できない、セックスの記憶が、「愛の亡霊」によって提示されたと。まさしく、お書きくださった、<「愛の亡霊」の映画全体に漂っている、日本の自然と日本人のなかの「神的なもの」、それが大島さんにとっては何よりもセックス>のことと思いました。ところで、「明治以降墓の執着に変容した」と書きましたのは、「言葉と物」の翻訳者渡辺一民氏から直接きいたお話で、ここで自分の話にひきつけて恐縮なのですが、これを自分に即して考えてみると、つまり、父のことを考えると、藩であれ墓であれ故郷の意識が全然なかった人でした。子供のときは、「あなたは上から視線でほんとうに困ります」(笑)というネトウヨみたいな反発をぶつけていたものですが、いま思えば、天皇に関して表面的には無関心を払っていたのは、彼が官僚だったからではないかと、いま考えています。三十年代の軍国主義時代に育ったわりには、ですね。自分の反感は、官僚の国家意識、まさに「明治の官僚の醜い造語」である「猥褻」とレッテル張りしてくる自己抑制に、対してです。最後に、大島は溝口を表立っては評価しませんが、溝口の「滝の白糸」(新派劇)のなかで描いている裁判官ほど、大島が批判してきた、国家を体現しているキャラクターはありません。カイエの評価とは別に、こういう方向で、溝口ー大島ラインは、今後探求したい映画の歴史です。そして、網野といえば、溝口史観に影響されたようなことを書いていましたから、現在も飽きずに熱心に溝口映画を観続けています。いまも、自分のなかには、網野と溝口が結びついていますから、お話いただきました分析は、非常に刺激的です!



大島渚は好きだ。ただし、日本語で書かれた彼についての映画評は苦手。民衆史から語るものが多いが、笑止。この民衆史は、知識人の土に対する執着に過ぎず、近世の藩の帰属意識から由来するというのが私の自説。民衆史における偽の対抗概念として、相補的に、かならず天皇が現れる仕掛けがある。明治以降墓の執着に変容したという藩意識は、民衆史という共同幻想を発明していったのではないか。民衆vs天皇という二項対立の物語を反復してきた。この点にかんして、近代の産物でしかない靖国神社をあたかも古来からある土着的なものとして語ってしまう言説に警鐘を鳴らすのは、子安宣邦氏である


大島渚についての映画評。民衆史から語るものが多いが、笑止。この民衆史は、知識人の土に対する執着に過ぎず、近世の藩の帰属意識から由来するというのが自説。偽の対抗概念として相補的に天皇が現れる。明治以降墓の執着に変容した藩意識は、民衆史という共同幻想で商売をする。吉本隆明の本が売れる

「死刑やむなし」と是認される国家の体罰<制度>を問題にせず、ただ<体罰>だけを反対すれば済むのか?安保体制としての基地<体制>に触れず<基地>を語ることが許されるのか?「原発反対!」と言っても原発問題は存在しない。反対しなければならなかったのは、原発<体制>に対してではなかったか

「言葉と物」が出発したベラスケス論(「王の不在」)からは、三十年代スペイン市民戦争という資本主義と戦争の問題が見えてくる。「アンチオィデプス」はフーコを乗り越えていく。ドゥルーズ以上に、我々が資本主義と戦争の問題を靖国問題に関係づけないとしたら、今村風オタク知識人のままではないか

資本主義と戦争の問題があります。少しづつ読み直していますが、ドゥルーズ「アンチオィデプス」は、フーコ「言葉と物」を乗り越えていく課題がありました。あらためて、フーコが出発したベラスケス論(「王の不在」)からは、三十年代スペイン市民戦争が見えてきます

まず言葉があり、それの批判として力の思想が出てきたのであって、そもそも言葉を否定してしまってはゼロ、何もなくなってしまいます。まずマルクス主義があり、その限界を突いたドゥルーズの問題意識が可能となりました

諸君は、東京にオリンピックを招致したいなら、海外に向かって結論から喋るな。「美しい日本」ではなく、領土問題と原発災害の後、平和と故郷をどう取り戻すつもりかを世界は聞きたがっている。そのために今何よりも、外と内に向けて、これまでのすべてをもう一度問い直す発表の場こそが必要ではないか

なぜウィットゲンシュタインは人々をとらえるのか?テートモダンでの哲学ワークショップに、心の病を哲学で癒したいと多くの人々が集まってきた。「死刑も止むなし」が8割いる様な国だ。権力と金は心を病ませる。ウィットゲンシュタインを読めば、この8割の幻想とは<違う見方>を学ぶことができよう

権力の幻想とは、「死刑も止むなし」とする様な幻想だ。金の幻想といえば、脱原発を望みながら、目先の景気回復を約した原発推進の政党たちを支持する幻想だ。ウィットゲンシュタインがいた英国も日本も、権力と金の幻想が席巻する国、大きな違いはない。幻想とは異なる別の見方を探求する必要があった

思考はいかにしてモラルとなるか?<思考は他のものではあり得ない>という前提をとると、<思考は他によってしか自らをあらわすことができない>のは矛盾であろう。さてこの他なるものは、思考できぬもの、感性的自然である。超感性に属するモラルを感性的自然から生みだすのは、人間の存在だけである

「痛い」という私的感覚に記号Eを与えることは可能か?ウィットゲンシュタインは否という。痛さの感覚ほど確実なものはないようでも、日記に記したEからどのような痛さをあらわすか知ることは不可能だ。自身の痛みすら不確実なのに、テレビ新聞の証言から、被害者家族の「痛さ」を知ることは可能か?

ドゥルーズ的にいえば、超感性に属するモラル(宗教)を、感性的自然(動物)から生みだすのは、二重体として人間の存在だけである。こうして、画家のフランシス・ベーコンは、ローマ法王(宗教)を、怒りで叫ぶ野獣の姿において描く必然性があった。ベーコンはベケットと同様、ダブリンで生まれ育った


三十歳過ぎて文学を読める人となると、私の知る限り、学者か裕福な主婦か、外国に出た人(社交上の教養)だろう。翻訳劇の役者も本を読み続ける。全部を忘れ全部を覚えている様な役者達は、自らを他に与えるように読む。学者は損しない様にと用心深く本を語るけれど、大抵最終的には損得勘定が合わない

本のことを語りたいが、よい聞き手は誰か?自分の体験を重視するアメリカ人は厄介で、言葉に凝るイギリス人は面倒だ。フランス人には、軽蔑されずに本のことを語ることは難しい感じ。結局日本語話者が一番よい聞き手だ。不完全な観念でも、考えるために書くように、考えるために語ることを許してくれる

不完全な観念を考えるために書くことを許してくれるのは、日本語に限った話ではない。イギリス人も不完全な観念を考えるために英語で書くだろうし、同様にフランス人はフランス語を書く。アルトーもスコラ的な神の観念をインディオの唇音で書いた!乗り物としての母国語の限界の意識が厄介に付きまとう

シューマンといえば、ヨーロッパ統合の父。彼は独軍のフランス占領後捕まえられたが42年脱走、44年までレジスタント運動に参加した。この事実から、彼が創ったEUは、独仏間の戦争を避けるという目的があったことが分る。日本の新聞は専ら経済の尺度でしかEUの危機を伝えないのは本当に近視眼的だとおもう。ただ、「ル・モンド」紙は、各国が雇用問題に取り組む為に、ユーロ廃止やむなしと言っているのは正直驚いている。彼らの認識では、ユーロの勝ち組はアメリカ、負け組みはヨーロッパ人なのだ。注意を払って推移を見守りたい。ついでに書いておくけど、アベノミックスといっても、どうも所詮は、凝りもせず、微調整の運転のようだ。「失われた20年間」の反復と憂慮する声が出てきている。今は株価はあがっているが、選挙まで。その後はどうにでもなれか?ネオリベのままだけで不況の問題に取り組むと、現在の英国の二の舞を踏むかもしれない。右翼的ムードをかもし出す不況が深まり物価が上がるという嫌な事態も現実に起きる。そうなったら、もう毎日歯を噛み締めろと号令だ。一体誰が一番<タフ>かを競う我慢比べの勝ち負けしかなくなるだろう

サッチャーリズムの八十年代は、演劇等公的補助金で成り立つ文化の基底が攻撃にさらされた。建築とファッションは勢いを得たが、金の尺度だけで金に介入させたら、結局皆同じものだらけになる。今日ファッションがそう。橋下の文楽攻撃は、tax payerでアジったサッチャーリズムの愚かな猿真似

現在世界経済の最大の問題点は、労働者が自ら買えない商品を生産していることにある。労働者は、輸出目的の高利益の商品を買えない。だから例えば彼らの所得を数倍大きくし、彼らが自らつくったものを買える経済体制こそ必要なのだ。政府が日銀に圧力をかけ円安を誘導するなどは、時代遅れの不況の輸出

シューマンといえば、ヨーロッパ統合の父。彼は独軍のフランス占領後捕まえられたが42年脱走、44年までレジスタント運動に参加した。この事実から、彼が創ったEUは、独仏間の戦争を避けるという目的があったことが分る。日本の新聞は専ら経済の尺度でしかEUの危機を伝えないのは本当に近視眼的


土地を奪われ言葉を奪われ文化の記憶すら奪われて残るものがあるとしたら、それはサルトルが意識と呼んだもの相違ない。貧困から生じるあらゆる問題を抱えるアイルランド人。ここから彼らは自分達に、同様の貧困に直面する世界を持つ。産業革命の歴史が無い圧倒的多数派の、最底辺ゆえに、ホワイトホール的に、地球上どこにでも繋がっていけるアイリッシュ的<我々>。ところで、九十年代ヨーロッパの貧国といえば、スペイン・ポルトガル・ギリシャ・アイルランド。が、ケルトの虎という景気浮上効果で、ポルトガルやギリシャを見下す中流がアイルランドから現れた。この成金的方向とは一線を画し、最底辺ゆえに、ホワイトホール的に、地球上どこにでも繋がっていけるアイリッシュ的<我々>にスピリチュアルに定位する者が多くいた。例えば、ジョイスが今日生きていたら、ヨーロッパで最も疎外されたアラブ人を主人公にした「ユリシーズ」を書くだろうと看破したのは、他ならないデビッド・ノリスだった。ちなみに、<俺よりもっと下の貧乏人がいる>と思う限り階級意識は成立しないと指摘したのは大島渚である。逆に、幻想とはいえ、中産階級は自己に<一番虐げられた貧しい人々>を持ったのだから、フランス革命では自己欺瞞とサルトルが呼んだ投射がラディカルな作用を展開した。投射といえ映画といえ政治的なのだ。最後に、フーコは思考が他のものではあり得ないと考えていたとドゥルーズは記している。恐らくこれと同様に、サルトルがいう意識も置き換えられないものである。意識は存在論的に独立して純粋だけれども、意識に介入してくる語り(言葉)が純粋(単一)であるという必然性はないのだ。サルトルはここを間違えたんだな・・・二項対立的に捉えすぎた結果、現地の言葉をオリジナルなものとして神聖化した間違い。本当は、意識は、思考は雑多なものとは異なるし、同じ意味で、意識も雑多なものとは異なるけれど、思考も意識も雑多なものと共に生きることができるのだと思うよ。ドゥルーズのスピノザ的テーマに即して言えば、<表現>できるということではないかな。神は自らを<表現>できる。思考は自らを<表現>できる

最近人間ができたと褒められる。喧嘩しないのは歳をとって余裕がてきたからというが、逆に、この歳になるともう生きている年数がみえてきて益々余裕がなくなり、生きている間に自分の力では無理な事柄に関して構っていられなくなった。人生は有限。無限でなくて良かった、自分のような怠け者にとっては

フーコは思考が他のものではあり得ないと考えていたとドゥルーズは記している。恐らくこれと同様に、サルトルがいう意識も置き換えられないものである。意識は存在論的に独立して純粋だけれども、意識に介入してくる語り(言葉)が純粋(単一)であるという必然性はないのだ。サルトルはここを間違えた

九十年代ヨーロッパの貧国といえば、スペイン・ポルトガル・ギリシャ・アイルランド。が、ケルトの虎という景気浮上効果で、ポルトガルやギリシャを見下す中流がアイルランドから現れた。アイリッシュのブルームを最も疎外されたアラブ人とみなし地球規模の最底辺の広がりを持ち続けたのがノリスだった

土地を奪われ言葉を奪われ文化の記憶すら奪われて残るものがあるとしたら、それはサルトルが意識と呼んだもの相違ない。貧困から生じるあらゆる問題を抱えるアイルランド人。ここから彼らは自分達に、同様の貧困に直面する世界を持つ。産業革命の歴史が無い多数派の、最底辺故にどこでも連帯できる我々

不況の分析も盾の両面を見よ。デフレのときは消費者が相対的に強くなる。インフレが続くときは生活が脅かされる厳しさがある。不況がもたらす大量の失業は社会問題だ。朝日新聞の<デフレが続くとどうなる>も嘘があるー消費者の立場も失業者の問題も触れなければ。既に、アベノミックスの言いなりかよ

中国記者百人が「南方週末」改竄に抗議。評論家が「中国の夢 憲政の夢」と題する文章を書いたが、当局が圧力。習近平書記唱える「中華民族の偉大な復興の夢」に書き換えられたというー>それでも危険だ。再生本部始動する「成長と富の創出の好循環」にしたらいい。覚醒しないように眠り薬を与えてやれ

「映画史」。ゴダールによるシナリオ批判は、聖書を利用した寓話的言説の形で展開される。物語の連続性を中断するのは、洪水のイメージである。語りに、暗躍が、不確実性が介入してくる。但し水は救済を喚起する映像。人間はporousな破れ傘でなければ、水であるユートピアに触れることができない

九州の客人は新聞とテレビしか情報源がない。NHKを見ても、民放と同じ感じで似た様な食物とクイズの番組が氾濫。受信料を取っているくせに民放みたいにコーマーシャルすら始めたという。もう可愛い女の子の映像は沢山だ!原発に関して何か知りたいことが伝えられていないとはっきり不満に思っていた

ネットをしたことがないが、テレビのニュースに不信感を持ち始めた客人に、先週撮影したYoutubeをみせた。「経産省前の映像はテレビに流れることがありません。こうして我々が伝えます」と言い終わる前に意図を理解してくれた。凄く感動してくれたな

九州の客人曰く「安部は支持率を気にしてむちゃくちゃなことはしませんよ。絶対に軍国主義になりません。正しい人が出てきますよ」。梟猫「誰ですか?」。客人「誰かです。そうでないと救いがないでしょう?首相官邸官邸前の脱原発の人々とか」。梟猫「・・・」(日の丸を振ってる連中を思い出し絶句)

嘗て私の中学は新宿で最も荒れた学校だったが、入学時は平穏だった。ある日先生が教室に入って来て竹刀を振り回した。「そうじはこうやるんだ!」と女子生徒達を私の目の前で叩き付けた。私達は彼に謝罪を求めた。なんと五年後NHKはこの暴力教師を暴力対策の専門家として称えた番組をつくったという

戦時中、中央のキャリア組の軍人が年上の用務員を容赦なく木刀で叩き続けたことと、暴力先生が振り回した竹刀で女子生徒達を性的興奮の対象として叩き付けたことと、何の違いがあろうか?戦時中新聞が軍人の小さな悪を隠したことと、NHKは暴力教師の小さな悪を伝えないことと、何の違いがあろうか?

九州の客人の一人は、なぜマスコミは安部の軍国主義について報じないのかと不満を洩らした。女学校時代の話。中央から派遣されたキャリア組の軍人が、彼の親ぐらい離れた年上の用務員を容赦なく木刀で叩き続けた。朝礼に校長先生は彼の英語の本の一頁一頁を全生徒に配った。敵の言葉が禁止された時代だ

NHKは信頼できるか?という質問に、7割以上が「はい」と答えた。この回答を少ないとみるか多いとみるか意見の相違がある。私は、そもそもこの質問の仕方に嘘があると思う。公共放送は必要と思うか?という質問の後に、NHKは公共放送の責任を果たしているか?と訊ねるべきなのだ。7割は怪しいぞ

NHKホール見物から帰ってきた九州の客人。質実で素朴な方々だから、NHKのサービスを褒めちぎるかと思っていたら、さにあらず。芸能人を使ったコマーシャルに不満があり、ニュース冒頭に芸能ニュースが来るあり方に怒っていた。原発に関して知りたいことを伝えていないと心配していたぞ、NHKよ

言ったにも関わらず聞いていないと相手から叱られ、又言ってもいないことを確かに聞いたと相手に開き直られると、コミュニケーションは壊れていく。国民が景気回復を!と言っているのに聞いていないと安部に叱られ、又国民は国防軍なんか言っていないのに防衛大綱の見直せと聞いたと安部に開き直られる



貧困層は、<貧乏人は努力が足らん>とキラキラ言う救済者、橋下のテレビ説得術に総敗北中。<俺よりもっと下の貧乏人がいる>と思い込まされる。眩しく上の階級を見上げる中流の方は、自己節制のヘドニズムに溺れている。自己節制は、エピキュリアンたる上流階級の束の間のストイズムでしかないのにね


彼はフランス革命後の政治を見抜いていた。「失楽園」のミルトンは、ラディカルな共和主義者クロムウェルに、中産階級が上流階級に憧れる危険な反動性を警告した。橋下は<貧乏人は努力が足らん>と言う。大島渚が指摘する様に<俺よりもっと下の貧乏人がいる>と思わされる限り階級意識は成立しない。

<俺よりもっと下の貧乏人がいる>と思う限り階級意識は成立しないと指摘したのは大島渚である。逆に、幻想とはいえ、中産階級は自己に<一番虐げられた貧しい人々>を持ったのだから、フランス革命では自己欺瞞とサルトルが呼んだ投射がラディカルな作用を展開した。投射といえ映画といえ政治的なのだ



左巻きというから物理学と思って手に取ったら、誤解だらけの恥ずかしい国際通?のうんちく本だった。アイルランドは教会と民族主義者が拵えた国と思っているらしいが、本当は、第二インターナショナルの影響下で労働者が独立させた国である。一見ダブリンの労働者はロンドンの労働者と比べて威厳がある

八十年代に労働法を学んだ者は現在の国策的労働法を嘘の学問と軽蔑した。労働者階級出身の教授のもとで、ルカーチの階級意識、ヘーゲル法哲学、マルクス市民社会論、フォイエルバッハ疎外論、フッサール現象学を貪り読んだ。中産階級の政治的ラディカル化には労働者との連帯が欠かせないと疑わなかった


僕は旅をする放浪者だからね。放浪者の視点というのはあると思うな。放浪者の視点というのは、ひとつは逃げるということがある。つまり、ひとつの視点をとって、ニッチもサッチもいかなくなったら、べつのところへ行って始めるということがあってもいいと思う。−小田実;安岡章太郎との対談から。『大逃走論』'69


子安宣邦氏 @Nobukuni_Koyasu より

清沢満之の『有限無限録』をめぐって、やっと書き始めた。明治32年(1899)、まさに20世紀に入ろうとする明治日本で他力信仰者清沢は、儒家的な概念と言語をもって道徳ー宗教論を書き始めた。すでに明治日本で儒家的言語は天皇制的道義国家を支える国民道徳論を構成するものとなっている。
明治32年とは、やがて始まる日露戦争の〈戦前〉といわれる時期である。近代日本には〈戦前〉〈戦後〉とは2度ある。日露戦争と太平洋戦争という2つの戦争の前後である。最初の〈戦前〉も国家主義、軍国主義、帝国主義的侵略主義に満ちていたという。その時期に他力信仰者清沢は儒家的に語り出す。
「正義公道は善なり」「仁とは利他的精神なり」「仁とは天の為に尽くすの心なり」などと。これは時流的言語なのか、反時流的言語なのか。なぜ清沢は儒家概念をもって書き出すのか。明治32年にこの他力信仰者の儒家的言語がもった意味とは何か。清沢のテキストにこういう問いを向けたものはいない。
清沢の儒家的言語は彼が意識的に用いたものであるのか。或いは清沢とは儒家的他力信仰者であるのか。すでに人民が国家の〈公民〉として再定義されていった時代に、清沢が「公に尽くすは仁なり、道心なり」と新たに「公」を提示したことの意味は何か。この土曜までに私はその答えを書かねばならない。

民主党政権誕生前、安部内閣の財務大臣なんかがG20の場で不況対策の助言を行ったが、皆の失笑を買った話は報道されたのかな?自民党の「日本を取り戻す」派と「日本をやめる」派?というか、取り戻そうにも取り戻す力もなく、やめるにもやめる力すら無いのが現実。日本に限らず、どこの国も単独では

民主党政権誕生前、安部内閣の財務大臣なんかがG20の場で経済の助言をしようとして皆の失笑を買った話はこちらで報道されたのかな?自民党の「日本を取り戻す」派と「日本をやめる」派?というかー、取り戻そうにも取り戻す力もなく、やめるにもやめる力すら無いのが現実。日本に限らず、どこの国も

藩意識は現在どこへ?墓に執着する人々の意識へ変容したという説。葬儀と埋葬の怪しい商売話に聞き耳を立てていたら、現在は集団葬儀でも構わないがお骨を納める墓が大切らしい。知識人といえ故郷亡命者といえ土に執着する。救いの象徴?子供のときは、死者は山の裏にいくと教えられた。墓地は山の裏?

久々に一月四日は経済産業省前脱原発テントへ。この私を迎えたのは、大勢の警官にあらず。姑息にもテント周囲を取り囲むべく置かれた、<国有地であるから立入り禁止>と警告する札達でした。笑止。兎角運動のあり方を根本から議論するときです。最近急速に言葉が空っぽになりつつないでしょうか?
再び始めるためには、自分達に都合よく脱原発を利用した政党・有名人・シングルイッシューの癒着を片付けてしまいたいという強い欲望が私にあります。コーシー積分の如く、単独者である特異点を、内から外へ運び出すという感じでカメラが練り歩いています。再び始めるためには、我見る故に我存在す・・・・


銀座といえば、商店街の反原発デモに対する苦情、石原のオリンピックパレード、とゾドム的エリアなわけだが、九州の客人を持成す為に、日の丸通りの様な街頭を銀ブラした。老舗店にて好物の鰻丼を食らうも、満腹で幸せになる様では卑しい。思いがけず、対象(=鰻)から、自由な欲望の確立について思索

産業革命以降の近代に於ける「勝ち組」はブルジョアジーで、「負け組み」は貴族と農民だ。貴族に関しては、九十年代以降ネオリベ「勝ち組」の労働者の政党に根を張り始めると、<持つ持たない>の貴族的価値観がネオコンを規定し始めた。ここからも、英国の労働者が「負け組み」の側に追放されていった

サッチャーリズムの推進者、九十年代以降ネオリベ「勝ち組」のブレアー労働党において、貴族達と共に、<持つ持たない>の貴族的価値観がネオコンを規定し始めると、労働者達が「負け組み」の側に追放された。と、中産階級はパートナーを変え始めた。つまり労働者階級を裏切り貴族を崇め始めたのである

九十年代以降<持つ持たない>の貴族的価値観がネオリベ労働党を彩った。中産階級は下の階級との連帯を捨て上の階級を崇めた。これはそのまま日本の政治風景となっている。そうならば、貪欲な領土への欲求と貪る、上流階級における<持つ持たない>の貴族的価値観が、中流から広い支持を得る危険がある

貪欲な領土への欲求と貪る、上流階級における<持つ持たない>の貴族的価値観が、中流から広い支持を得た、イギリスの場合、アメリカを利用した、旧植民地のアフガンとイラクへの侵略を展開した。日本に関しては、<アジアの平和>に仮装した<アメリカの平和>の為に、軍国主義を抱擁することだろうか

東京見学バスツアーに付き添う一日。バベルの塔こと、東京タワーの展望台にきたが、選挙で露骨な経済アニマルのゾドムなど見たくもない。昭和の竜宮城の百階段では、ブルジョアが残した文化貢献を目撃。見落としてきたな。女性組みの江戸大神楽は優雅。最後に来た、日の丸を掲げた東京駅には超ガッカリ

ネオリベのまま金融政策だけで不況の問題に取り組むと、イギリスの二の舞を踏むかもしれない。右翼的なムードをかもし出す不況が深まり物価があがるという嫌な事態も起こりうる。そうなったら、もう毎日歯を噛み締めろと号令だ。いったい誰が一番<タフ>かを競う我慢比べの勝ち負けしかなくなるだろう

関東大震災の十年前、大正13年(1914)に完成したのが、瓦礫造りの東京駅駅舎。パリのチョコレートと競ってもひけをとらぬ和菓子の老舗に、復興工事で現れた当時の煉瓦をそのまま残している。梯子から転落した酒好きのティム・フィネガンズは瓦礫職人だった。この彼はジョイス小説の題材となった


暴力的に大量の死票を出す小選挙区制の廃止は必要。ところでどのような選挙デザインであれ、代表制であるかぎり、誰(何党)が誰を代表するかが曖昧になっていくことはある。既に選挙中から原発推進派でありながら反(脱)原発派の立場を表明するなど、原発問題は安部内閣のアキレス腱であることは確か


賀正
皆さまのご健勝を祈りあげます。

パラパラと開いた、ジェイムス・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」。たまたま見つけた言葉なのですが、やはり、これは、なにか、今年の抱負を暗示しているのえしょうかなーっと。
「言わねばならない者が言わねばならないことをいかに言うかという疑問が声になった。曖昧な言語、狡猾な代称。おお、ロープヘリオト!オトヘリロープ。下手な嘘。彼はホース岬の防火盾に訊いたが、つや消しマタイの天上へと消えた。空から答えを得ようとしたが、マルコのマの字もメッセージも得られなかった。花の大地にルカを探したが、麦が伸びているだけだった。最後に小川に近づき、どうして彼女はヨハネみたいにひとり楽しげにふざけているのかと訊いた。学校教育の恥だ。言葉なき天空からの受信はなに一つなかった。」(ジョイスFWより, 宮田訳)

The howtosayto itiswhatis hemustwhomust worden schall. A darktongues, kunning. O theoperil! Ethiaop lore, the poor lie.He askit of the hoothed fireshield but it was untergone into the matthued heaven. He soughed it from the luft but that bore ne mark ne message.He luked upon the bloomingrund where ongly his corns were growing.At last he listed back to beckline how she pranked alone so johntily. The skand for schooling. With nought a wired from the wordless either.(from James Joyce ;Finnegans Wake)

comment; (fire...air...earth...water)
(Matthew...Mark...Luke...John)



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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年1月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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