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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年1月 (後半)

<<   作成日時 : 2013/01/16 07:42   >>

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人権は、知識と意識とリテラシーから成り立っています。何が法(の法)か考えることを助けるのが「知識」。人権に対する意識が「意識」。法律家集団に属さない私達が人権をどう読むかは「リテラシー」です。法律家集団の常識に頼らなくて済むように、私達のために法があり、法の法が存在するのです ,

人権は、知識だけでなく、人権に対する意識を含むものです。やはり新聞が鈍感だと、人権の意識は成り立ちません。天声人語に「今回の抗議は、相当なことがあったからだろう」と書いていましたが、勘ぐりかも知れませんが、まるで身近なところには、暴力がないかのような書き方です。見えていないのです

人権というのは、知識と意識とリテラシーから成り立っています。法律家集団に属さない私達が人権をどう読むかというのは、「雰囲気」とおっしっていることと関係していると思いました。星野さんとお話して、思い出してきたのですが、ロンドンにいたときは、知識の部分は難しいのでこれは取り組まなかったのですが、意識とリテラシーを学ぼうと新聞の論説を時間をかけて読み続けたことを思い出しました


17世紀における法律家集団の秘教的な言語は、(当時のフランス人も絶対に分らないようなノルマンデイー訛りの)ラテン語でしたから、「領主のいない土地」(自然状態)のことを英語で書いたロックの本がいかに衝撃的だったかということですね。ただし、まだ英語も標準化されていませんでしたがね。(どうしてシェークスピアの劇場に、読み書きができない大衆が毎日集まったのか本当に謎です。脱線)。英米法と大陸法の違いですか?どうかご勘弁を。私も最後まで理解できませんでしたー英米法研究会の幹事長であったにもかかわらず。学生時代よく面倒をみてやった、助教授となった後輩がロンドンに田訪ねて来ましたが、けしからんことに、どうも、いまだにかれも分かっていない(笑)

Q,情報化社会でモノ・人・金・情報の行き来はボーダレス化しましたが、人権に対する意識とか、そういう雰囲気は伝わらないですね。
A,それはハッとさせられるご指摘です。たしかにです。よく思うことなのですが、いくら日本人が喋ってもダメで、イギリス人に人権に対する意識を語らせるのがいいとおもいます。雰囲気を伝えます。ただ、翻訳が入ると雰囲気をぶち壊しますね。昨日も、BBCのラジオで弁護士が、アングロサクソン法の歴史について喋っていました。17世紀に、領主がいない土地があることをどう文字の読めなかった人々に伝えるか、ここに、イギリス法の未来がかかっていた、なんて饒舌に語るのです。自然状態と自然権の話ですね。未来とは、19世紀に実現させたの奴隷禁止の話です。やはり、人権に対する意識がないと、まるで見てきたかのように、あのようには、歴史を生き生きと語ることができないだろうなと思いました。ボーダレス化に意味があるとすれば、人権に対する意識を共有する可能性を与えるということでしょうか。あらためて、わたしも努力せねばならんとおもいました。グルメの国の誘惑にはまり、立ち食いすしばかり食べて、低いところで満足してはならんと(笑)


エンゲルスかく語りき「唯物論はイギリスの息子である。イギリスのスコラ学者ドゥンズ・スコトゥスは『物質ははたして思考することができないであろうか?』と自問している。この奇跡を成就するために、彼は神の全能にたよった。すなわち彼は神学そのものに唯物論を説教させた」 #マルクスのロンドン

Joyce classic a bestseller in China 睗著嗰惠尼根 Finnegans Wake 1、2.....61、62...N, N+1ー>Here Comes Everyone

明治を総括すると、<祀る国家、戦う国家>だった。そのために、明治政府が靖国神社を発明した。勘違いしてはならないのは、あくまで、靖国は近代の産物だという点だ。だから、<諸君、大地を掘り起こすと、古代の靖国が現れるぞ>は、まったく根拠がない贋の文化概念である。ところが、それにもかかわらず、あたかも、靖国神社を近代以前のものと思い込まされたら最後、もうこれを廃止できなくなる危険がある。一般市民を巻き込んだ総力戦の悲惨さを反省した、私達の戦後憲法は、<祀る国家、戦う国家>をやめると決めたのである。だから靖国神社の廃止は論理的帰結であろう。皮肉なことに、近代主義者は自身の証の為に想定した前近代を非難すればするほど、民族主義者の方はこの前近代を実体化・超越化させて来た。ここに罠がある。最後に、ポストモダニズムは、近代と反近代が不確定原理であることを見抜いていた。近代主義者による実定化の位置措定が、反近代の運動の超越化をもたらすー劣った前近代というラベル張りで。劣ったものを愛す、民族主義者の食欲に、ポストモダニズムは警告を与えた。本来ポストモダニズムは、モダニズム前衛運動の突破口だったから、批判の足場を築く為に<近代>に復帰した者達がいたのは理解できないことではない。これとは別に、メインストリートと堕したポストモダン商業主義に乗り遅れまいとし、帝国憲法に迎合する「思想家」も現れた。わかるね?

靖国の<祀る国家、戦う国家>は明治政府が発明した。<大地を掘り起こすと古代の靖国が現れる>は贋の文化概念だが、近代以前のものと思い込まされたら最後、もう廃止できない。近代主義者は自身の証の為に想定した前近代を非難すればするほど、民族主義者の方はこの前近代を実体化・超越化させて来た

近代主義は、公私混同や男尊女卑といった権力関係を、彼らの理念的構成である<前近代>に押し込めた。が、公私混同や男尊女卑は国家のヒエラルキーを体現した<近代>に属する権力関係だろう。同様に、体罰というサディズム的なミリタリズムも、戦う国家の成り立ちを背景とした<近代>に属する暴力だ


体罰は、沈黙と暴力と無関心、つまり、サディズム的なミリタリズにほかならない。「XXのために」「励ますために」といって暴力をふるうのは、公私混同と男尊女卑。

共通一次という「共通」ほど共通なものを嘲笑ったものはない。共通なのは、マークシート表と迎合的共通一次世代の顔との類似性ぐらいかな?劣った無駄なものを塗りつぶすあの全体主義に逆うには訓練を要す。手は眼の効率的進行に介入し無駄なものの痕跡を残す。情報処理を軽蔑し、毎日数行しか読まない

柔道それ自身に暴力があるのではない。フランスで明らかだ。ミリタリズムの表現、スポーツ熱狂主義に、暴力ありだ。ここから絞首刑賛成者も現れる。ジョイスが、「ユリシーズ」という名を本に与えたのは意味がある。敵から故郷を奪回せよ、敵から柔道(国の宝)を奪回せよの叙事詩的暴力なら、コェ

Works of art are thought things, but this does not prevent their being things. The thought process by itself no more produces and fabricates tangible thing, such as books , painting, sculptures, or compositions, than usage by iteself produces and fabricates houses and furniture. - Hannah Arendt

逮捕状は裁判官の十分なチェックがあるのでしょうか?昔学生のとき東京高裁判事から直接こんな話を聞きました。呼び出されて逮捕状を読むのは必ず深夜か早朝で、判断力が低い眠い所を利用してくるのではないかと疑っていました。今日ほど、憲法と罪刑法定主義について知ることの重要なときはありません

モジモジ先生の抗議文「私、阪南大学准教授・下地真樹は、2012年12月9日自宅にて令状逮捕されました。逮捕状記載の被疑事実はすべて嘘でした。つまり、警察は嘘をついて私の身柄を拘束しました」ー>昔高裁判事から直接聞いた。呼び出されて逮捕状を読むのは必ず深夜で、眠い所を利用してくると

近代主義者は、<近代>の裏地としての<反近代>を読めない。<近代>の対抗概念としての<前近代>しかみえない。言葉に鈍感故に<前近代>の実体化に陥る。劣った<前近代>を指さし、自己が依拠する<近代>を超越化するときほど、近代主義者即ちオリエンタリズムが自分の言葉に酔う至福の時はない

ダブリンのICAでマッケーブは小声で、ゴダールはブルームとおもうと呟いたのを私は聞き逃さなかった。ギリシャ精神のユダヤ人、ブルームの名前を口に出す者は、主体を単一的に実体化させまいとする。同様にドゥルーズもフーコをブルーム化した。地図製作者のフーコは主体を方法化したと

ロッセリーニもテレビ番組を作った。パスカルやガルバルディー等の偉人シリーズで、始めて黒人のアウグスチウスを撮った。パリと異なり、商人の街アムステルダムでは自分に関心を抱く者がいない。だからいいとデカルトに言わせている。五反田も同じ。時代遅れかと心配せずにドゥルーズのフーコを読める

eaden (FW 597.35) v. Chewed and swallowed, or eaten, in the garden where Adam and Eve first lived, or Eden.
Joyce; Finnegans Wake

アメリカ人は大きな歴史を理解できないといわれる。だからヴェンダースはアメリカが大好きなのだ。無論ネトウヨの如く単純に頭の中がディズニーランドに占められてはいない。ただトマスペイン程度の歴史感しかないクリントンは、米国に不利ならばアラブ勢を全部テロと呼ぶ。オバマとの大きなギャップだ

デモの民主主義を尊重できないのは、迎合主義的人間をつくろうと経団連が教育に介入したときから始まったと渡辺氏は言う。今日大新聞にかくも溢れる広告の量をみよ!何もかも金で語られる社会の鏡だ。国労と動労をスケープゴートにした言論放棄も<政財官マ>のチーム結成を促進させた

大新聞を利用してぼくらを騙せても、ちゃーんと、世界は見抜いているさ。いったいこの国がなにを輸出しようとたくらんでいるのかね。危険な「原発の輸出」、迷惑な「不況の輸出」、愚かな「軍隊の輸出」

アベノミクスの定義;ただでさえ保持が難しい現在の食い口を失うことを促進する政策を自分達の宝物のように握りしめる馬鹿者たちの自虐サーカス。(中国との関係は最悪、アメリカ産業界からの非難、そしてドイツ即ちヨーロッパからの警告・・・四面楚歌のこの国はどうやって経済「再生」するの?

世界は見抜いているよ、日本がなにを輸出しようとしているのか。危険な「原発の輸出」、迷惑な「不況の輸出」、愚かな「軍隊の輸出」

渡辺一民氏曰く;安全神話と原発事故、デモの民主主義を権利として尊重できないのは、迎合主義的人間をつくろうとした経団連が教育に介入したときから始まったとー><経団連会長はドイツのメルケル首相が円安の進行を受けて日本の経済政策に対する懸念を示したことに対し「異常な反応だ」と批判した>

アベちゃんのご演説?自分の経済政策が必ず成功すると思い込む点で、原発の安全神話と同じもの。失敗したら、国民にどんなリスクを与えるか、そのときどんな対策が可能かと説明すべきでしょう。声高に宣言してもね、質問に答える形でリスクについて答えないと。民主主義の言論についての認識の欠如だね

知っていても学んだことにならない。失敗から学ぼうとしない<国民>とはなにか?<内閣>に68%という大きな支持を与えるとは?これほどだと、もう、なにを知ったかということに関しても怪しくなってきた。永久に忘れないうちに、この前の選挙を総括すると、この二つだろう。「まさか原発をやめるなら資本主義もやめることになるぞ」(脅迫的な自民党)。「いつか原発をやめる日もあるが、原発の話は資本主義の話とは関係があるようで関係がない(かもしれない)」(狡猾にも、シングルイッシューの脱原発派デモを巧みに利用した、中途半端な自称第三極)
3、知ったことを本当に学ぶつもりならば、これらとは別の、反原発体制を訴える声をきいたはずだ。「原発体制と資本主義をコントロールするのに、再び原発体制と資本主義に依拠することは不可能」。そういう声も二年前に存在した。反軍国主義・反TPP・反差別から、再び原点にかえれ! とおもう


失敗から学ばない<国民>とはなにか?<内閣>に68%という大きな支持を与える。事故原因究明と対策を欠いた無責任で危険な<原発の輸出>.。これだけではない。近隣諸国の犠牲に成り立つ<不況の輸出>とゴタマゼの危険な<軍隊の輸出>である。軍隊を出すのは容易、これを撤退させるのは頗る困難

事故原因究明と対策を欠いた無責任で危険な<原発の輸出>、世界経済全体の収縮を齎し戦争の原因をなした危険な<不況の輸出>。歴史から学ばない<国民>はこの危険な<内閣>に大きな支持を与える、軍隊を出すのは簡単だが、これを撤退させることは頗る困難、されど、ゴタマゼの危険な<軍隊の輸出>

誰が一番冷静ですか?「まさか原発をやめるなら、資本主義もやめることになります」(自民党)。「いつか原発をやめるかもしれませんが、資本主義はやめたくないです」(中途半端な自称第三勢力)。「原発もコントロールできない者が、資本主義をコントロールできますか」(反原発体制 のデモの声)

日本の二大政党制に呆れ果てた人々は、本家の英国はしっかりしていると思ってるかもしれないが、労働党の原発政策も自民党と大差ない。原発問題の解決の為には、脱原発それ自体ではなく、軍事・外交・経済と一体となった #反原発体制 に取り組まなくては・・・

「国民を勝負師に」といっていますが、貧困層がギャンブルに足をすくわれるのはどこの国でも同じでしょう。「収益の一部は教育、福祉、医療に回す」といっても、本来それらは国民全体で税金によって支えるものです。狡猾にも、結局橋本案は、貧困層に対する事実上の増税と等しい効果をもつ危険があります。(貧しい国の貧困層が供出する掛金が、隠蔽された税金として徴収されるということです。かつての南米とか)

ヨーロッパはモービリティーが低い。戦後の社会民主的改革にも関わらず、不平等で、思うほど階級的障壁も取り除かれなかった。そこで左翼はこの階級的障壁を揺り動かすべく右翼のネオリベ的市場主義を導入した。八十年代以降のサッチャリズムの労働党や かのゴダール が「探偵」に調べさせたミッテランのことだ。ところで、この80年代以降、<労働>は、マル経とネオリベ的近経の両者から切断されて<存在>となった。崇拝の記号といえ軽蔑の記号といえ、<存在>に貶めた二つの学に大きな違いは無いだろう。停滞を打破すべく敢えて八十年代に右手のパンドラの箱を開けた左手に、 ゴダールみたいに、右側に気をつけよ!ともっとはっきりと警告すべきだったかもしれない。手に金箔がつくぞ、と。現在その金箔の代償を、誰が一番タフかを競う底無し不況で支払っているかにみえるが、しかしこれとてパンドラの箱のシナリオに欺かれ続けているのではないか!?



労働は、マル経とネオリベ的近経の両者から切断されて存在となった。崇拝の記号といえ軽蔑の記号といえ、存在に貶めた二つの学に大きな違いは無い。そうでなければ、モービリティーを導入する賭けで、敢えて八十年代に右手のパンドラの箱を開けた左手に、マル経は金箔がつくぞ!と警告したか、ゴダールみたいに、右側に気をつけよ!と言ったはずなのだが

海外と日本の認識ギャップなのだが、世界的にはアジアを代表する映画監督は大島渚なのだから、彼の映画に出演しつづけた女優の小山明子に与えられる評価は非常に大きいのだ。百年後も記憶されるに値する日本人女優は小山明子だけである。「青春残酷物語」「少年」「絞死刑」「戦場のメリークリスマス」

他者の心の痛みを分かち合うのは、人間的なことだ。が、警戒したいのは、他者の心の痛みを分かち合うふりをしている者である。もしかしたら、政治家は、自衛隊法の改正をしたくて、他者の心の痛みを分かち合うふりをしているかもしれない。冷静な理性の批判だけが、ゴタマゼの狡猾な計算を見定めるのだ

他者の心の痛みを分かち合うのは、人間的なことだ。が、警戒したいのは、他者の心の痛みを分かち合うふりをしている者である。もしかしたら、隣の人は、自衛隊法の改正をしたくて、他者の心の痛みを分かち合うふりをしているかもしれない・・・。冷静な理性の判断だけが見抜ける

派遣労働の賃金削減で会社コスト削減を謀る者は、同一労働同一賃金の意味も分らぬ、経験的なものの奴隷だろう。ローズの正義論に倣い、この原則を権利として社会的に捉えるには労働法と経済学が交差するほどの抽象的思考が必要だ。サンデルの門に入る者は、他に依拠しない権利の正義性の普遍性を考える

父の死の知らせほど海外滞在中辛いことはなかった。距離が悲しく飛行機では泣き続けた。遺族に深く同情する。ところで和平交渉前のアイルランドでは、痛々しくもテロの報復で毎日誰かが死んだが、良識ある新聞は悲嘆にくれた家族の写真を、敢えて公共の言論に属する一面に載せなかった。何故か考えたい


「決定」という語に依拠する「資本論」の貧困な語彙を揶揄したのは、ロランバルトだったか?例えば、<思想の動向が出来事を決定する>とか<出来事が思想の動向を決定する>という言い方である。「決定」の代わりに、「互いに干渉する」が本当だろう。<思想の動向と出来事とは常に相互干渉し続けた>

<思想の動向と出来事とは常に相互干渉し続けた>Courants et événements n'ont pas cessé d'interférer.この一文ならば、功利主義の教義を支える手段=目的カテゴリーを政治活動の場で使われるのを阻止できる。「学ぶ」も可、「教える」は不可

ミリタリズムといえば、処刑である。是をよく知っていたからこそ、敗戦直後の日本人は絞首刑に反対した。現在、他国でミリタリズムの犠牲者となって処刑された無実な人々をみて心を痛めるのに、なぜ、自国で絞首刑によって処刑された人々のなかでどれだけ<無実な>人がいたのか考えようともしないのか

昔某研究会の幹事長のとき、入会希望の新入生に「隠さず言うと、このサークルは問題がある」と必ず告げた。リベラルなりすましお坊ちゃんお嬢ちゃん的偽善の腐臭を除けば問題もなかったが。問題が起きるのは遠く二十数年後。後輩達が文化祭の座談会に、立ち上がれ日本の政治家を呼んで媚を売りやがった

大島は<外>ではなく<外の内>にいた。だから大島の問題提起は常に我々の内側から起こって来た。死刑支持と軍国主義、この両者が、いかに小市民的良心の顔において互いに関係を取り合うか、これを内側から我々に向かって投射してきた。大島死しても、批評が定位する<外の内>を消滅させてはならない

大島渚といえば、「愛のコリーダー」。彼は、戦時中軍部の没収と母親による処分を避けて、父の蔵書・ロシア版資本論を壷に隠して地中に埋めた。この記憶は、サダが切断した吉のペニスを膣の中に埋め込むことと関係があるのか?むしろ、大島は映画を文学という壺に避難させたのだー資本主義から守る為に

大島渚「愛のコリーダー」について書いた文で、[大島は、映画を、文学という壺に、避難させたのだー資本主義から守るために]と結びました。これはこういうことです。つまり70年代日本映画をハリウッド映画との競争から保護したいという大島の思いが彼の過去を発明させた可能性があるということです

The first thing to say about Finnegans Wake is that it is, in an important sense , unreadable. Seamus Deane

勝海舟
憲法などといふのは、上の奴の圧制を抑へる為に下から言ひ出したものサ。それを役人等が自分の都合に真似をしただけの事サ。

ピーチャム 法律ってものは、もっぱら法律が分からない奴、本当に貧困のあまりどうしても法律を守れなくなる奴を搾取するために作られているんだ。いやしくも搾取のおこぼれを頂戴しようと思う奴は、法律ってやつを厳しく守らなきゃならないんだ。 Brecht『三文オペラ』


The United States is hoping to dilute (Europe’s) influence (in NATO) by bringing in other smaller, peripheral countries that it hopes will be more subject to US will, and will therefore give the US more influence within NATO altogether. Noam Chomsky


東京文化会館音楽資料室
19世紀前半のアイルランド出身の作曲家、ジョン・フィールドは1837年の今日、モスクワで亡くなった(1782−)。ピアノ独奏のノクターンの創始者とされる。右手の表情たっぷりな旋律が左手の分散和音によって伴奏される、という定型を作り、20年後に現れるショパンの先駆者となった。
【フィールド】ダブリン生まれ。父と祖父に音楽を学び、9歳でピアニストとしてデビュー。クレメンティの徒弟となり、彼のピアノ店でセールスや説明係の仕事をした。師と大陸演奏旅行にでかけ大成功をおさめた。クレメンティは商魂たくましい人物で、ひどく冷遇された、という説もある。

何故フェースブックでペットや食べ物の写真が溢れているか?失われた文学の代償ではないか?公共化できないような私的感覚を表現する文学の奇跡に、嘗て読者は魅了されてきた。芸能人の<私生活>も公共化不可能な私的感覚の表現。但し今日言論人が芸能人になり沈黙しているのは、寧ろ資本主義の奇跡か

ある日、濫読していたどの本も自分の大学の先生が書いていない事実に愕然とした。米国を端から端まで旅したアイリッシュの詩人が自分に言ったことを思い出す。「威張っているけど南アイルランドの教授の本なんか一冊も本屋に置いていなかった」と。彼女は北アイルランド問題に無関心な知識人を批判した

ある日、濫読していたどの本も自分の大学の先生が書いていない事実に愕然とした。米国を端から端まで旅したアイリッシュの詩人が自分に言ったことを思い出す。「威張っているけど南アイルランドの教授の本なんか一冊も本屋に置いていなかった」と。彼女は北アイルランド問題に無関心な知識人を批判した

<なぜ日本大使館は情報収集が苦手か?>
アイルランド人の学者ジョンマックコートからきいた話で、イタリア地方都市の図書館で本を借りるのに一年かかったそうです。標準イタリア語で頼んでも全然ダメで、教科書も無い現地トリエステのイタリア語を人々の中に入って一年間学んだのです。つまり、信頼関係なければ情報収集も不可能という教訓です。どう、聞いてますか、外務省?アルジェリアへの関心もありますし、この際、なぜ、あんなに情報オンチで現地駐在員とゴルフばかりしている大使が多いのか考えてみましょう。Q,大使は英語が苦手ですか?A,,いいえ、本省のキャリアの官僚は大抵ケンブリッジ大学の研修で学びます。Q,ホー、英国以外でその英語を分る人は何人いるんですか?A,大使ひとりです。あと本省から来る外務官僚。A,成程。次第に信頼を失い、結局殿様ゴルフしかすることがないと。利用されているだけですけどね。民間大使や他省の人間が大使の方が広範囲の社交が実現しますが、縄張り意識の強いNo.2外務官僚に邪魔されます。税金の無駄と非難を受けますが、実際は飲んでくれる人もいない、外交なきワインが貯蔵庫に貯まるばかり。A,ネガティヴに大使の活動について語ってきたかもしれませんが、外交の重要な意義を自覚するからこそ、そのあり方に疑問をもちます。戦後憲法は戦わない国としてやっていくことを決めた以上、外交が担う重要性は明らか。外交について関心を持つときです

というーか、アルジェリア大使を始め外務省職員のうち、一体何人がアルジェリア人に通じるフランス語を喋れるかが大切、情報収集したければ。あの人たちは回転寿司の皿みたいに世界中グルグル回っています。決して同じ国にニ年以上赴任することがありません。だから結局どこの国のことも知らないんです

アイルランド人の学者ジョン・マックコートからきいた話で、イタリア地方都市の図書館で本を借りるのに一年かかったそうです。標準イタリア語で頼んでもダメで、教科書も無い現地トリエステのイタリア語を人々の中に入って一年間学んだのです。信頼関係なければ情報収集も不可能。聞いてますか、外務省?
この際、なぜ日本大使館の大使が現地駐在員とゴルフばかりしているか考えてみよう。Q,英語が苦手?A,ケンブリッジ大学の研修で学んでいます。Q,英国以外でその英語を分る人は何人?A,大使ひとり。あと本省から来る外務官僚。A,成程。次第に信頼を失い、結局、殿様ゴルフしかすることがないんですね


改めて「日本の夜と霧」のラストに感動した。暗闇に青年幹部が壊れたレコードの如く繰返す言葉と、自失呆然と立ち尽くす若者達の映像の間には繋がりが存在しない。盲目の言葉と無言の映像、#大島渚 は現代映画のエッセンスを見事に表現してみせた。大島は映像が乏しいと言ったの、誰?蓮見、バカタレ

盲目の言葉と無言の映像、これは現代映画の本質であり、「帰ってきた酔っ払い」等の作品一つ観ても、小津以上の大島の現代性が伺える。大島に顕著なのは、介入と私が呼ぶ力だ。小津が知らなかったものだ。盲目の言葉が無言の映像に介入する、又は無言の映像が盲目の言葉に介入するデモ的表現のことだ

五十年前<故郷>(スイス)離脱者だったゴダール。現在彼が呼びかけているのは、美しい繁栄した故郷(ヨーロッパ)ではなく、(戦争と金で)失われた平和な故郷(ヨーロッパ)を取り戻す為に、これまでのすべてをもう一度問い直す発想の大転換。<帰還>よりもむしろネオリベ資本主義批判に力点がある

歴史は反復する。二度めは悲劇ではなく喜劇として。映画も半ばで自身を反復する。違いといったら、「帰ってきた酔っ払い」の若者達が再び捕まったとき、自分達を朝鮮人と主張し始めたこと。ベトナム脱走兵の方は我こそ朝鮮人と言い、対抗的にそのことを非常に日本人的に証明し始めるのが滑稽 #大島渚

「帰ってきた酔っ払い」。脱走兵とみなされた三人の若者は、誤って韓国に強制送還後ベトナム前線で戦死する。この世に帰って来た三人は前世?の過ちを避けるべく反復をズラす。朝鮮人を装う。言表可能性と視覚的なものの暴力的交錯によって「XX人」を捏造してしまう国家の暴力を大島は暴露

大島渚「日本の夜と霧」でびっくりするのは、サーチライトです。大胆に、サーチライトの光を新郎新婦を照らし出していることです。これは、脱走しようとしている囚人を逃がさないぞとばかり追跡する光みたいです。隠されていた過去を絶対に埋もれさせないぞ!と真実が暴き出されることを私達に告げる光

感謝! Nasgisa Oshimaのことを一緒に語れる人がいるネットとは、なんと有難いメディアなんだろう!あらためて、新聞とかテレビとかは、なんて無言なんだろう・・・#大島渚

そうか、貧乏育ちだと、食べ物を前にすると言葉が出てこないものなのか。階級や出自を詮索してくるイギリス、或いはそういう環境では、試されていたような気がする。中流との食事のとき、黙って食べていることは行儀悪い。宗教的背景も多少あるんじゃないか。味わうな、祈れと。つまり汝の反省を語れと

記憶の風化も、「美しい繁栄した日本」の隠蔽のかたちではないでしょうか。わたくしたちが今日必要としているのは、そんな「美しい繁栄した日本」ではなく、失われた平和な故郷を取り戻すことなのです。そのために、いま、何よりも、これまでのすべてをもう一度問い直す、発想の大転換こそ必要なのです。ただ、私は自身を「故郷離脱者」以上「故郷喪失者」以下と語ってきたこともあって、自身の限られた経験に即してですが、理想化された過去の通りに「取り戻すこと」は困難ではないかと思っています。目標は、むしろ「取り戻す」ことよりも、その為に「すべてをもう一度問い直す」ことにある、と、私は思います

流れてくる勝海舟botを読むと、昔見た大河ドラマ「勝海舟」を思い出すな。裏世界の淫靡な?クチナシのハナ的<勝海舟>像は、風のように軽やかだった。オランダ語辞書を苦労して書き写す内職の姿が全然似合わず、道場で木刀を持つとなにか振る舞いがヤクザの喧嘩にしかみえなかったけれども、それでも彼の妻役(大原麗子)をみて、勝海舟になりたいと思わない視聴者はいなかったのである。実物の勝海舟は新政府の役職を得ながらも、仕事には興味がなく、出勤して椅子に座りただ黙っているだけの日々だった。そもそも上司の徳川慶喜とも幕末の混乱期には何度も意見が対立しくらいだから、座談を好み、薩長の新政府を批判し続けたという。散歩して十分ぐらいの近所に、洗足池に、晩年の彼の家があった。最期の言葉は「コレデオシマイ」。その勝がNHKに登場するよりも早く、民放では<平賀源内>が河原乞食の宴会を抜け出しホワイトホール通路を辿り幕府家老に助言を与えていた。解体新書、朱子学、国学、これらの学問は、学問以上の「X」だった。現在愚かにも我々が棄て始めて恥じようとしない言論活動の形だった。最後に、どんな思想でも外国人嫌いの思想ならば、顔と顔の出会いがないセンター入試が好む塗り絵的暴力と同じだね。申し訳ないけど、本当のことだから仕方がない。権威的に、いつまでも、ホンモノ保守のXXを探す<正解>オンリーでは、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長の間を炸裂した、現在ならば言論活動という語で形容すべきそれ自体矛盾を孕んで揺れ動くダイナミックな知的創造空間と出会えないだろうよ。ここで一句。センターか、知を分け合わない、全体か




どんな思想でも外国人嫌いの思想ならば、顔と顔の出会いがない、センター入試が好む塗り絵的暴力だね。利口にみせようとしてホンモノ保守のXXを探す正解では、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長の間を炸裂した、現在なら言論活動という語で形容するであろうそれ自体矛盾を孕んだ知的創造空間と出会えない

幕末に勝海舟は慶喜とは意見が対立したが、その彼がテレビに登場するよりも早く、平賀源内が河原乞食の宴会を抜け出しホワイトホール通路を辿り幕府家老に助言を与えていた。解体新書、朱子学、国学、これらの学問は学問以上の「X」であった。愚かにも現在我々が棄てようとしている言論活動の形だった

幕末混乱期に勝海舟は徳川慶喜とは意見が対立したが、その彼がテレビに登場するよりも早く、平賀源内が河原乞食の宴会を抜け出しホワイトホール通路を辿り幕府家老に助言を与えていた。解体新書、朱子学、国学、これらは学問以上の存在であった。現在我々を棄て始めている言論活動の形だったのである 

勝海舟は新政府の役職を得ながらも、仕事には興味がなく、出勤して椅子に座りただ黙っているだけの日々だった。座談を好み、薩長の新政府を批判し続けた。そもそも徳川慶喜とも幕末の混乱期には何度も意見が対立した。十分の近所に、洗足池に、彼の家があった。最期の言葉は、「コレデオシマイ」だった

勝海舟botで昔の大河ドラマを思い出す。裏世界の淫靡な?クチナシのハナ的勝海舟は、風のように軽やかだった。オランダ語辞書を書き写す内職の姿が似合わず、道場で木刀を持つと喧嘩にしかみえなかったが、それでも彼の妻(大原麗子)をみて、勝海舟になりたいと思わない視聴者はいなかったのである


Noam Chomsky
They’re acting in a way that will almost force Iran to move to nuclear weapons. Iran is surrounded now by hostile forces - nuclear forces on every border, either US or US allies. It's under threat undoubtedly, so it'll respond.

自転車で行ける所に多摩古墳がある。渡来人の協力なしには完成に至らなかった建築物に相違ない。現在その痕跡もない。というか、長い年月にわたって隠されて消されてしまったと言うべきか。<物語を持たない場所>とはこれだ。比べると、近代の靖国は<場所を持たない物語>。起源を捏造した過剰な物語

八十年代の郵便ホールなどは、階級の壁を壊そうとした空間を持っていますね。mobilityの理念というのでしょうか。ヨーロッパではあり得ないこういう建築はアジアの国々が取り入れようとしたと聞いたことがあります。確かめに行きたいです

例外なく誰も自国のことを話し出すと退屈になる。常に他国の話と一緒に自国の話をする工夫が求められる。どこの国もナショナリズム、マルクス主義、ヒューマニズムという三つの基底と関わっているから、この共通項に沿って話せばいい。アインシュタイン相対理論みたいに、常に二つの座標系を思い描こう

近代以降どこの国も、ナショナリズム、マルクス主義、ヒューマニズムという三つの基底と関わっている。日本とて、これらから離れて存在するわけではない。海外滞在中、もっとこの三つの基底を意識して英語を勉強すべきだった。英語で説明できる日本紹介本は例外なく、ゴミだったことだけは告げておくよ

新聞は実況放送だけ?大局的な解説を書けないの?近代以降どこの国も、ナショナリズム、マルクス主義、ヒューマニズムという三つの基底と関わる。ポストコロニアリズム的に言うと、アルジェリア独立と内戦の問題は、近代国家が孕む問題。アルジェリアとて、この三つの基底から離れて存在する訳ではない

「別に他の国でもやってないんだから、わざわざ日本だけ外国人参政権与える必要ないですよね」という説得は、「他国の事は知らんが、日本が外国人参政権与える必要なし」と開き直るより悪いです。ネトウヨは「他の国」を見渡す程の視野が無いか、そもそも「他の国」が無いのでしょうか


1980年代後半からFLNの一党制や経済政策の失敗に不満を持った若年層を中心にイスラーム主義への支持が進み、91年の議会選挙ではイスラーム主義政党のイスラム救国戦線(FIS)が圧勝。1992年には世俗主義を掲げる軍部がクーデターを起こし、国家非常事態宣言を発令した(Wikiより)

資源開発についてアルジェリア人から聞いたことがある。西欧の植民地主義は遠い昔の話ではない。彼らはフランス等のヨーロッパに警戒を持っている。日本企業に開発してもらうのがいいが、利益の5割近くを取ることに対して強い不満を持っていた。手放しにありたがられているというわけではないようだ。

たしかジョン・ケージが辛辣に批判していたと思うけど、指揮者が尊敬を受けるのはオーケストラを管理する権力者とみなされるからだが、そんな権力は音楽の創造性とは無関係な事柄であると。同様に、映画監督も俳優や照明係を管理する工事現場監督の如く思い描かれている。しかし本来、映画監督は、映画でないもの(物質)から、いかに映画(精神)をつくり出すか?というコンセプチュアルアートの芸術家にむしろ近いのではないだろうか。オーケストラが無くとも指揮できてしまう、プラトニストである。だが、映画は一人ではつくれないのだから、難問にぶつかり続け、常にプラトニストの夢を果たせない・・・

指揮者が尊敬を受けるのはオーケストラを管理する権力者とみなされるが、そんな権力は音楽と無関係だろう。同様に映画監督も俳優や照明係を管理する工事現場監督の如く思い描かれる。映画でないもの(物質)から、いかに映画(精神)をつくり出すか?というコンセプチュアルアートの芸術家に近いのにね

あのファイマン経路積分の記述こそは、ツイッターの風景である。フォロワーが1000越えると、無数の声と声とが干渉し合う危険ゾーンに入り、そこでは、どんな発言も、これをキャンセルしにかかる大きな反発を招きよせるらしい。発言する黒板ぐらいで振幅の小さな波として長く持続していた方が有利か

1、ストローブの作品を東京で観れるのはラッキーだ。彼は、労働者のアマチュア俳優を登用する。注意深い観客ならば、語ることと見ることとの分離のより完璧な形式がストローブ作品にあることがわかる。例えば、俳優の声は、<場所をもたない物語>から現れる。つまり言葉が可視的なものに依拠しない。
2、これと並行して、カメラが捉える俳優の一瞬の身振りに、物語に回収されないような運動も現れる。可視的なもの(例、身振り)の方も、言葉に依拠しないのだ。「インデイアン・ソング」のデュラスや、ジゼルベルグにおいても、語ることと見ることとの分離が起きる。80年代からのゴダールも然りだ


内戦を逃れてきたアルジェリア人の友達がロンドンにいた。アディ(あだ名)は、仏ー>米国からロンドンに来た。カフェで活発に喋るアラブ人の中で、トラウマを抱えた彼だけが沈黙している時が多かった。家族が拷問を受けたという話を他の者からきいたが。かれは何故西欧は戦争を起こすのか知りたい。アラブの定義を巡りユダヤ人と議論することもあり、ユダヤ嫌いのアラブ人仲間からみると異様な光景だったろう。が、プロパガンダよりは真実を知りたいと切に望んでいた。亡命とは教育のない無学の彼を、かくも知識人の様に振る舞わせるものなのか。頼んだら、私の絵にアラビア語を書き綴ってくれた

現代映画の特徴は、言葉(言表性)と物(可視性)の分裂にあります。大島渚「少年」ほど、この分裂を巧みに利用した映画作品は他に滅多にありません。マグリッド・デュラスの「インディアンソング」ぐらいでしょうか。
さて、「少年」は、運転者から示談金をゆすって生きる変な家族を描いています。父は戦争で負傷したことを口実になにもせず、もっぱら妻と息子に稼がせています。飛び込むとき、母と子は、物(=車)しか見えないことでしょう。つまり、彼らの視線に即していうと、映像は物語を伴ないません。リアルといえばリアルですね。他方、右翼的キャラの父の方は、境界から境界へと旅して漠然と日本を感じ続けたい人です。この父が語る言葉は物語しかありません。つまり言葉には物がないというわけです。こうして大島渚は、現代映画の特徴である、物語なき物、物語しかない言葉を、分りやすく見事に提示してみせました。関係はどう構築するか?是非映画「少年」をご覧になって下さい。ちなみに、この少年の無表情がなければ、北野タケシなどは映画にデビューすることもできなかったことでしょう。そう、無表情が孕む、人間の豊かに交差する色々な感情ですね。大島渚は、無表情の豊穣さを観察できた人でした、かれの映画は、デビュー作から、少年をテーマにしたものが多いのです。


市民の間の勉強会という風に、フーコの名著「言葉と物」も読みたい人々も出てきて当然と思うけど、専門家による狭く深い読みを戦略的に拒んだあの本を誰が引き受けるのかえ?えーまさか、読んでいることは読んでいるけどムリムリ。でも一層専門化が進んだ今こそ、「言葉と物」の勉強会が必要なのでは?

大島渚は日本のゴダールか?答えはゴダールをどう理解するかによる。ゴダールのヌーベルバーグは、外部世界よりも遠く外に突撃したダダの継承者。大島の「愛のコリーダー」のラディカリズムは、内部世界よりも深く内に向かったシュールレアリズムに属する。主体の内部で主体の位置と態勢を炸裂させよ!

日頃芸術家を毛嫌いしているのに、死んだら尊敬するか。死んだ芸術家は自分に対して影響を与えないからね。平和主義を装っている善良な男女達は、死刑やむなしと心を痛めながら軍国主義の靴を舐めている。確かに大島渚は、日本社会では鬱病で苦しむか自殺するかどちらしかないのだと告発していた通りか

先週官邸前デモに行った金子氏の報告では、参加者は1万人を越えていた。この寒い中で、だ。この数字は今年のデモの規模を予想させる。昨年三月の時点でも千人程度だった。雨の中をニ万人が歩いた新宿を思い出す。昨年は問題があり地に足がついていなかったが、抗議したい人々の意志だけは確かなものだ

中国論を契機に、市民社会の再定義が必要。さて17世紀市民社会黎明期に、Habeas Corpusというアジールの形成があった。政治亡命者の保護は市民社会の尺度だ。現在、中国共産党は王政と憎む一方で、天安門の迫害された人々に冷たい国民からは、どうしても市民社会像を思い浮かべられない

中国というのは、後期資本主義に生きる日本人の思考を映し出す言説空間。中国は官僚資本主義か?更に帝国主義か?答えは市民社会と帝国主義をどう理解するかによる。神話を軸に旋回した八十年代日本は、こうした歴史概念をふり落としていった。現在中国が見えない我々をつくったのも、歴史に他ならない

思い返すと学生時代の昔は、XX法研究会東大社研派と呼ばれていた時期もありました。ただ当時は社研の本を濫読していただけで別にそんなんじゃなかったのですが、歴史的背景に即して捉える問題意識だけは学んだかなと思っています。市民社会とか。明日本屋で立ち読みしてみます

1、ふくろうねこさんは、朱子学初級コースの門を叩く。威張るのではないがそもそも漢字が苦手で心許無い。車には前に進ませるレバーとバックさせるレバーがあるように、朱子学には理と気というのがあるらしい。前進させるつもりでレバーをバックに入れたらヤバイし、理と気を混ぜてはダメなんだろうな
2、「物体が思想によって限定されたり、思想が物体によって限定されるすることはない」とスピノザが言ってたけど、やはり理とか気とかいわれるものも同じことがいえるんじゃないか。例えば、理は他のものではあり得ない、と偉そうに言ってみる。そして思想は自らを表現するには他のものを必要とする。
3、同様に理も自らを表現するには他のものを必要とする。矛盾かどうかは、「表現」をどう理解するかによるだろう。「古今の文学作品を通して人間及び人間社会を探究しましょう」という天の声もあることだし、3・11以降大事となってきた「介入」という観念に注目したい。そうするとこういい直せるか
4、他のものは理に介入すると。理は理の内部から理に即して問うことはムリ無理。ここでは、他のものの介入と、介入がどこから生じるか問おうとしている。理とは何か?という探求を、理はどこから成り立つかという問題へ発展させたいのである。理は自らを表現することとは、他のものが理に介入すること
5、他のものは即ち気である、気の実体はなにか?という問いも重要にならんことは、仁の場合と違わない。他のものは理に介入する。つまり気は理に介入する。そうである以上、気は、めっちゃ遠いところにあると介入できなくなる。せいぜい我々の世界の内側で待機してもらわないとねえ、間に合わんでしょ
6、そうすると、他のものが介入してくるのは、少なくとも理の外からである。なおかつ、我々の世界から離れすぎないところから介入してくるのである。他のものは、天から介入してきてもいいが、ただしその天は我々の世界に属する場合に限るのである。理と気は互いに内在的に連続していなければならない
7、その距離は梟と猫の間の如し。と、初級者以下のくせに、かくも図々しく自説を展開するとは我ながら呆れるが、最後に「仁」がある。伊藤仁斎というくらいだから、仁が大切。仁を学ぶのだ。ちなみに知識人のくせに、目を瞑って反省すれば原発の災いも自ずと過ぎると思う「居敬」者は、「卑怯」者なり

子安宣邦さん @Nobukuni_Koyasu

思想史と精神史との違いについてのご質問ですが、これに答えるには一つの論文でも書かねばならないような問題です。思想史も精神史も、Ideengeschichte(理念史)Geistesgeschichte(精神史)の新しい翻訳的学術概念です。むしろ問題を具体的に日本思想史と日本精神史の問題として考えますと、まず日本精神史は、ディルタイの歴史的解釈学の方法を導入した和辻によって、文学などの芸術的形象から解釈学的に日本の民族性や民族的心性を読み出し、それを記述することとして成立します。こうして古事記や万葉集から、あるいは仏像や絵画から日本的心性や美意識が読み出され、記述されることになります。だがこの日本精神史はすぐれた解釈学的能力と感性とをもった和辻にだけ可能であったといえます。和辻の解釈学的精神史はむしろ文化史、文学史、美術史などに拡散して継承されました。この和辻の日本精神史とは別に、和辻におけるそれの成立と同時期(大正末ー昭和初期)に、大川周明によって〈日本精神〉論が立ち上げられます。この時期とは大震災と恐慌との国家的危機からその復興が唱えられる時期です。欧化的近代化によって彷徨する日本人の〈精神〉の土着的再興が求められます。この立場から書かれたのが大川の『日本精神研究』(1927)です。これが〈日本精神〉の名をもった最初の刊行物です。大川のこの書自体は、日本人の思想的、精神的実践としての近代国家建設を跡づけたものです。しかし大川のこの書は、日本精神史が〈日本精神〉史となっていく方向を示しました。昭和戦時期にかけて日本精神史はまさしく〈日本精神〉史になっていきました。一方、日本思想史ですが、この成立もまた複雑です。もともと哲学・宗教思想の理念史としては日本には仏教史があり、また儒学史があります。仏教学・仏教史は歴史的な大きな蓄積をもった学問分野として存在します。

物読み的存在・物書き的存在の片割れ。アイルランド・イギリス在住十二年間。「故郷離脱者」以上「故郷喪失者」以下の批評家、文字で描く画家。Pirene's Fountainで、 [P・O・E・M] x [T・H・E・A・R・T・R・E] 、OWLCAT-STORYを発表。「満開の桜の下で」「ラリー」の舞台撮影はロンドンと東京で。昨年はアーノルド・ウエスカーに宛てた手紙に添える演劇評を書いた

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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年1月 (後半) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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