言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年2月

<<   作成日時 : 2013/02/02 02:30   >>

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「世界の物価水準から見て日本の食品は高い」という指摘には、やはりそうかと思う。「日本の物価は高くありません」と説得してくるアベノミックス信奉者に、「トマトの値段を知っていますか」とよほど聞きたかった。が、本当の問題は方法ではなく、安部が本気で景気を回復するつもりがないということだ

今日から子安氏「国家と祭祀」。直観的にアイルランドの問題とパラレルだと思った。ポストコロニアリニズム的風景とは、独立後の反帝国主義的言説が帝国主義的言説と驚く程類似すること。文化政策は、英国における靖国的<戦う国家><祀る国家>を書き換えただけと知って逃げ出したのは、 #ジョイス

今日から、子安宣邦氏の「国家と祭祀」を読んでいます。直観的に、この問題は、アイルランドの問題とパラレルだと思いました。ポストコロニアリニズム的風景とは、独立後の反帝国主義的言説が帝国主義的言説と驚く程類似すること。アイルランドに於ける文化政策は、英国における靖国的<戦う国家><祀る国家>を書き換えただけと知って逃げ出したのは、 ジョイスでした。十年前のことを思い返すと、当初イラク空爆反対は八割で、ロンドンは百万人が反戦デモに出ました。ダブリンでその様子をテレビでみました。結局ブレアーは英国軍を派遣してしまいました。その夜、イギリス国教会の長であるエリザベス女王が軍隊に「お気をつけて」とメッセージを送りました。と、逆に、戦争支持が8割となってしまったのです。これには驚きました。英国のいわば靖国的「戦う国家」「祀る国家」の熱狂というものでしょう。やはり、戦後憲法が、平和主義と政教分離を不可分一体のものとして規定したのは理由があります。国家は、大量の戦死者を祀る宗教的インフラがなければ、戦争を国民に押し付けることができません。逆に国家の宗教さえあれば戦争を国民に押し付けることができます。実際にそうして日本の戦争が起きたのです。首相の公式参拝を続けていると危ない、危ないですぞ


当初イラク空爆反対は八割で、ロンドンは百万人が反戦デモに出た。ブレアーが英国軍を派遣したその日、イギリス国教会の長であるエリザベス女王が軍隊に「お気をつけて」とメッセージを送った。と逆に、戦争支持が8割となった。英国のいわば靖国的「戦う国家」「祀る国家」の熱狂だ。危ない、危ないぞ

近代の超克なき「近代の超克」、平和なき「日本的平和」を繰り返すのかね?思想は自らを表現する為に非思想と関わる。関わるその非思想は戦争かもしれない。ただし、概念なき思想ではただのお喋りに流れる。保田や小林秀雄はそんな憂さ晴らしのお喋りの類で、やたら感動しまくる芸能ワイドショーの先駆

ええ、大発見ですね。FWの一番の特徴といえば、unreadableですが(笑)、アイリッシュの研究者が言うには、ダブリンの人ならスラスラ読めるとのこと(汗)。ノリスは、もう分らなくなったら声を出して読んで本とコミュニケーションをとれと。黙読するのは非社交的なプロテスタントの文化?

近ごろの詩人たちはインキに水をたくさんまぜる。(ゲーテ) Neuere Poeten tun viel Wasser in die Tinte.

ご助言申し上げたいが(笑)、意見を隠すつもりで自ら目立たない行動をとる人間は、西欧の基準からすると一番軽蔑される。安部首相はホワイトハウスでの共同記者会見に登場せず、晩餐会にも現れぬのは、自民党内反対勢力やロビー団体の反発に考慮して姑息に自ら目立たない位置をとろうとしているから?

安部首相はホワイトハウスでの共同記者会見 に登場せず。晩餐会にも現れぬ。自民党内反対勢力やロビー団体の反発に考慮して、姑息にも自ら目立たない位置をとろうとしているのか?意見を隠すつもりで自ら目立たない行動をとる人間ほど、西欧の基準からすると最も軽蔑される。アドバイスしたいが(笑)

安部首相はホワイトハウスでの共同記者会見 に登場せず。晩餐会にも現れぬ。自民党内反対勢力やロビー団体の反発に考慮して、姑息にも自ら目立たない位置をとろうとしているのか?なんであれ、意見を隠すつもりで自ら目立たない行動をとる人間ほど、西欧の基準からすると、軽蔑されるものはないのだが

安部首相はホワイトハウスでの共同記者会見 に登場しない。晩餐会にも。自民党内反対勢力やロビー団体の反発に考慮して、姑息にも自ら目立たない位置をとろうとしているのかね。なんであれ、意見を隠すように自ら目立たない行動をとる者ほど、西欧の基準からすると、軽蔑されるものはないのだが

平和的な集会やデモを妨害し、法を濫用し尽くして逮捕・家宅捜査する一方で、デモに装ったゴロツキの威嚇に協力する。もはや、「民主主義の国なのに」は空しい。「ファシズムの国に対して」と言うべきだ。また公約違反の政党が詐欺集団になったのではない。逆だ。元々詐欺集団が政党を盗んでいるだけだ


コミュニケーションの場では失敗の連続でしたが、二重否定や助動詞を駆使した婉曲表現が話者の感情と結びついているのは、英語といえ日本語といえも大きな違いはないというとだけは学んだように思います。これは少数意見とは思いますが、日本語の感覚も役に立つことはあるのではないでしょうか。例えば、アメリカ英語で話す日本人は、you knowと言うのですが、これはイギリス人に限らず英語を使うヨーロッパ人との間に衝突が起きないかとひやひやします。この人は日本語の使用において、「あなたは・・」という言い方がもつ、相手に及ぼすある種の危険な圧力に無自覚ではないでしょう。イギリス英語とアメリカ英語、又はアイルランド英語は皆違うかといえば、書き言葉に関してはそうでもないのではないかと考え始めています。(文学の英語は例外です)。但しどんな英語でも効率と正確さを追い過ぎると、なにかblancな感じがするのは、私がヨーロッパに居たからかもしれませんが。恐らく、アメリカ英語のニュートラルで抽象的な書き方が、島田さんが仰るような意味で、字面通りに伝えたい英語としていいのではないかというのが私なりの結論です。

たしかに、イギリス新聞のコラムニストは、ひねくれていると思いました。しかしアイルランド人が書く文章ほどひねくれているわけじゃないんですよ。アイルランド人が拵えた文を一行読むだけでも、3つか4つの皮肉が込められていて、一頁を読み終わったら、スゲー性格の悪い人間になってしまいそうなんです(笑)。ところで、テートモダンのワークショップで、パスカルという詩の先生が嘆いていたのですが、詩をつくるとき、アメリカ人は自分の体験を書くのだけれど、それとくらべて、お前達イギリス人は、なぜそんなに言葉に凝ろうとするのか?と。タイムズ紙のコラムなどは酷いものです。言葉も古いですしね。ガーディアン紙は、それを批判して、透明性を高めて平明に書くことをモットーにしていますが、私達からすると、まだまだアイロニーの大行進にすらおもえます。もっと素直な書き方をするためには、わが朝日新聞の素晴らしい社説を参考にしていただきたいです(爆笑)


こういう素朴な嘘に出会うと、私は恥ずかしくなる。「倫理不在社会」でないなら、「価値不明瞭社会」でないなら、みんなが「空気を読まない」のか?ー>「みんなが「空気を読む」ことに追われ、安心したくて承認欲求ばかり強まる社会というのは、要するに倫理不在社会、価値不明瞭社会ではないのか?」

大杉栄

かくして個人主義はその第二期に達した。個人主義の第一期は、個人が社会を支配して、その夢想とするところに従って社会を改造せんとする、自ら頼む雄々しき叛逆であった。(1915年「近代個人主義の諸相」4‐1/18)

けれども個人主義は、その第二期に至って、まったくこれに反して一切の努力を無益であると観念してしまった。社会的定命と桎梏(しっこく)との前に、あくまでも敵意を抱きながら、それと闘うことを余儀なく断念したのだ。(1915年「近代個人主義の諸相」4‐2/18)

すなわち第二期の個人主義は、永久に不服従の、しかしまた永久の敗北者となったのだ。この意味の個人主義は、個人と社会との、ついに調和することなき深き矛盾の実感であった。(1915年「近代個人主義の諸相」4‐3/18)

かくしてこ第二期の個人主義は、われわれがその中に生活しなければならぬ組織されたる社会に対する、その劃一的規律、その単調、その束縛に対する、敵意と不信とから侮蔑と無関心とに至る、種々なる実感の態度となった。(1915年「近代個人主義の諸相」4‐9/18)

その批評的精神によって自らに対してすらも不信を懐き、経験によって聡明にされ、反省と科学的教養とによって和げられ、ついにまったく純化された平静と観照との悲観説となり、個人主義となった。(1915年「近代個人主義の諸相」4‐18/18)

大杉の言葉に真実性があるとしたら、百年前の帝国デモクラシーの挫折が反復されようとしているからだ。「その批評的精神によって自らに対してすらも不信を懐き、経験によって聡明にされ、反省と科学的教養とによって和げられ、ついにまったく純化された平静と観照との悲観説となり、個人主義となった」


大杉栄から、大島渚「絞首刑」を考える。国家はK即ち人々を個人主義に仕立てたのだ。「その批評的精神によって自らに対してすらも不信を懐き、経験によって聡明にされ、反省と科学的教養とによって和げられ、ついにまったく純化された平静と観照との悲観説となり、個人主義となった」 ラディカリズム

ひとつ真に文学といわれるべきものは、自分の小包みの中に仕掛けをほどこして贋金をつくり、自分の表現形式たる超自我と、内容形式たる商品価値とをともに爆破させる文学のことである。(『アンチ・オイディプス』)


風刺が利いたcomicのグロテスクさはキュプロス挿話ですね。セイレーン挿話の海の星教会の歌声をきくその場所は、入江のU字型の底(少しズレてますが)に位置する海辺。子宮の形をしたU字はUlyssesの字形を暗示すると、有名なスイスユダヤ人の研究者が解読してました。
ダブリンに講演に来たコリンマッケーブの呟きですけど、結局ブルームはゴダールだと・笑。デュラスが嫌いで、「ラマン」を19世紀ヴィクトリア朝に顕著なあるスタイルと非難しました。セイレーン挿話と「ラマン」の類似性はジョイスがそのスタイルを意識して書いたからかもしれません



「まだこの国は産業革命が起きていません」と言うアイルランド人が多くいた。つまり自分達が世界の多数派に属すことを伝えたいのだ。産業革命があった国は少数派だから。産業革命がなければ市民社会もない。そのかわりに、「二人共同体」と和辻が呼ぶであろう倫理的共同体が文学で描かれる

三人も。エスカレートしていないか?今朝の死刑執行は国際的に報じられていて、国民投票のときは日本人を救おうと原発拒否の一票を投じたイタリア人の友達もこのニュースに心底怖がっていた。東北震災、福島と、応援してくれた親日派の人々の多くはさぞ、この軍国主義の野蛮な私刑に失望しているだろう


仏のバライティー番組も若いアイドル歌手的ミーハー文化があるが、違うと思うのは、司会者が死んだ作家デュラスに長いお悔やみの言葉を語っていたこと。ダブリンに来たアンナ・カリーナもジャンヌモローも、若造りという意味ではなく、年を取らないと不可能な若さを発揮していた。なんだろう、あれは?

アナーキズムかタオイズムかに関わらず、七十年代毛沢東主義が本当にそれほど、八十年代天安門広場<占拠>が求めたように、官僚資本主義の克服を求めたかが、九十年代に問われるべきだった。知的怠慢の代償は何か?右傾化する九十年代ポストモダニズム知識層の現在のあり方を問う問題を構成するだろう


黒板に書いた平仮名に驚愕した物理学の先生がいた。「あ」「い」「う」「え」「お」は、xyzのような変数として扱えと言う。アルファベット文字も同じだろうと答えるとNoと言う。どうもこのドイツ人はアルファベット空間と平仮名空間の間の変換を考えていた。「あ」と「A」の間の共変微分とか・笑


「フィネガンズ・ウェイク」といえば、縮約だ。夢で複数の観念や事象が圧縮されて一つになるように、同一又は類似のシブラルを持つ単語同士がそのシブラルを核にして結合し、複数の単語間に縮約が行われる。ドゥルーズからすれば縮約は必然として起きること。シブラルは各々がn階微分可能な変数だから

暴力を体罰と、体罰を教育と言い換える、政治家の擁護する体罰は、体罰以上のものを意味する。結局、同化政策というのは、外部から来た人々を、模範的市民として、機械的に規律を守る移民として登録してしまう政治的言説ではないか?それに対して、ドゥルーズは、征服民としての遊牧民の概念で対置した

法王引退は教会内部から非難の声。フェミニズムは法王それ自身を拒む。プロテスタントから国家を剥がすくらい、カトリックから法王を取り除くのは困難。残るのは、古代儒教的に、万物を平等に愛しむ天の信仰。鳥の視点で天から眺めた地上界の六十以上の言葉を平等に記したのが、FWだった

暴力を体罰と、体罰を教育と言い換える、彼らが擁護する体罰は、体罰以上のものだろう。新大久保での少数者に対する攻撃を擁護したいのだろう。権威的な同化政策は教育のメタファーで語られてきた。他者を、罰を受ける子供に置き換える政治的言説に警戒を

はい、たしかに、シビアな問題があるとおもいます。幾つかの点で、私も経験しました。解決するために、教育の根幹を再度見直す必要があるとおもいます。見直していけば、必ずよくなっていくのではないかと信じています。教育の現場にいる人々に対するある種の信頼が、私にはあります。ここで、わたしが懸念しているのは、やはり、体罰論を利用してくる政治家の介入です。繰り返すようで申し訳ないのですが、暴力を体罰と、体罰を教育と言い換える、彼らが擁護する体罰は、体罰以上のものではないかということです。権威的な同化政策というのは、かならず、教育のメタファーで語られてきました。他者を、罰を受ける子供に置き換える政治的言説に放り込んでしまうことに、私は警戒するのですね。模範的な市民として、「見ざる聞かざる言わざる」良い子にに同化させようと・・・。

13世紀初頭における贖罪体系の組織化、そしてその宗教改革前夜に至るまでのキリスト教の展開は、極めて露骨な道徳的経験の〈法律化〉―極めて露骨な規範の〈条文化〉―を成し遂げた。宗教改革以前に繰り広げられた精神的・修練的運動の多くが戦ったのは、この法律化に対してであった。−快楽の活用−

概念とは、思考がたんなる意見や見解に、あるいは議論や無駄話になりさがるのをさまたげるもののことを指す。したがってあらゆる概念が逆説となる。それで当然なのです。(『記号と事件』)

新大久保でのマイノリティーに対する攻撃は言論ではない。はっきりと、物理的障害を及ぼしているとかんがえなければならないものだ。

デモは届けであり許可ではないが、もう警察はこの建前を守る芝居をやめてしまった。露骨に「許可条件に従え」と繰り返す。新大久保での草莽的ゴロツキも警察の許可云々という話はもう決着がついている。警察の「許可」と新聞の無視。知識層は問題の所在すら掴んでいない。国民は知らない。どうするか?


記者クラブ「有識者の氏名を明示しない理由は何でしょうか?」。官房長官「わからねえよ」。記者クラブ「外交安全保障政策はどうせ官僚が決めてしまうからどうでもいいのでしょう」。官房長官「本当かえ?」。記者クラブ「有識者の正体はカバラ師だって分かっています」。官房長官「・・・(やはり)」

カバラ師「アドナイハヌーカ666」。官房長官「おい、なにゴチャゴチャて言っている?」。フクロウ猫博士「えー、日本の外国化を防ぐためには、首相官邸をチョークで大きな円を囲め、と言ってますが」。官房長官「つまみ出せ」。外交安全保障政策会議議長アベノミコ「待て!うまくいくかもしれない」

Beardslie

先生、just found this - Great late 19th century photo of Dublin (Nassau Street & Trinity)pic.twitter.com/J7nNO3sc
FWについて書いたSeamus Deaneの文なのですが、お聞きしても宜しいでしょうか?A new knid of literary language emerged, not Irish, not English, not Hiberno-English ..not Anglo-Irish, but a curious amaglam of these various elementsダブリン時代からこのAnglo-Irishについてどうもはっきりした輪郭を思い描けません。なにかよい文章がございますでしょうか?
先生、Nassau Street と言いますと、Joyce とNoraの出会い、“Finn’s Hotel.”を思い浮かべますが、この写真は、彼らの時代より古く見えます。敬先生のアイルランド文学のご講義に参加できる方達は大変幸運ですね。うらやましいです。先生のような方にお答えできないですが。Anglo-Irishとききますと、私はまずsocial class です。先祖が植民地時代から領主などで、裕福な家系、アイルランド独立後も居残ったイギリス系でしょうか。Merrion やFitzwilliam Square、 辺りのgeorgian buildingsに住んでいたYeatsやWildeのような作家をAnglo-Irishのように思っていました。そしてYeatsやWildeではなく、何故Joyceだけが昔のアイリッシュ£10のお札に載せられたというのも何か意味が。Seamus Deane氏のおっしゃることもわかります。 not Irish, not English, not Hiberno-English, ..not Anglo-Irish... どのカテゴリーに入らないので、JoyceはJoyceだと思いますが。Brendan Behanの言葉を見つけました。 Pat: He was an Anglo-Irishman. Meg: In the name of God, what's that? Pat: A Protestant with a horse.Pat:Because they work. An Anglo-Irishman only works at riding horses, drinking whiskey, and reading double-meaning books at Trinity





海外の高校留学生たち。なかには、稀に、吃驚するほど学業優秀なのがいる。愛国的にエスカレートしていく道徳的な節制と克服を強要する学校に嫌悪感と恐怖心を覚えて、海外に飛び出してきた気がする。もう高校生ですら気がつき始めたのか。軍国主義に押し潰されないように、学問を外に避難させなければ

軍国主義といえば、19世紀ヴィクトリア朝に由来するマスコミ熱狂のマッチョな試験制度だ。一発勝負に失敗するな!集中力を鍛えろ!と、早朝学校で竹刀を振る受験生達。彼らは自ずと道徳的節制から国家へ同一化していく。他者=天に依拠していくのは、試験制度に挫折した道徳的おちこぼれの方だろうか

「ニュースがわからん」を読んで分った人いますか?英国が脱退したらEUは困るとだけ解説している。EU脱退後の英国は米国に身を寄せるつもりでいる。これは英国側の片思い。米国にとって、(一人当たり国民所得で)ヨーロッパの中位国などお荷物でしかない。米国は英国に留まれと勧告する理由だ

Noam Chomsky ‏
Well, the nation state is pretty much a European invention, I mean there were similar things, but the nation state in the modern form was largely created in Europe over many centuries. It's so unnatural and artificial that it had to be imposed by extreme violence. In fact that's the primary reason why Europe was the most savage part of the world for centuries. It was due to trying to impose a nation state system on cultures and societies that are varied and if you look at them had no relation to this artificial structure.


日本語もたかだか普遍言語の影でしかないと考えてはダメでしょうか?ー>私の直観というのは従来の直観主義に於て考えられたものとその趣を異にして居ると思う。所謂主客合一の直観を基礎とするのではなく、有るもの働くもののすべてを、自ら無にして自己の中に自己を映すものの影と見るのである@西田

古典の読みが大事であることにやっと気がついた。原テクストを先人がどう読んだかを学ぶことはできる。例えばジョイスによるスピノザの読みは博士の教えだ。ところでジョイスをスピノザがどう読むか学ぶこともできるが、この場合は狂気として、教育界の実証精神から追放されるだろう。不公平ではないか


教えることの不可能性があるなら、翻訳することの不可能性もあろう。翻訳不可能な言葉からは、キラキラと起源に煌く超越的パルサが発せられる。対応の欠如に超越性が与えられる。但し代表することの不可能性の代償にはご用心!天皇という最悪の文化概念の外で直接民主主義の街頭で目覚めることこそ大事


教えるより寧ろ生徒の自主的な取り組みを励ますように、と昔上司からいわれた。生徒は先生の対象を追う姿勢から自ずと影響を受ける。但し文学を教えるつもりになると文学は文学でなくなってしまう。文学は学びしかない。又教えることの不可能性を消去すると、同化主義の幻想が始まるようにもおもわれる

「去年マリアンバード」ほど誤解されている映画はほかにない。この映画が曖昧なのは、食い違う複数の語りのためなどではない。そんな陳腐な不一致なら、「羅生門」程度の混乱しか起きないだろう。違う!曖昧さはそこにあるのではない。非明瞭性は、映画が映画でないものと関わることにある。映画の決定的な多義性は、声noice-offに存する。アラン・レネは、たとえ全知全能でなくとも、映像の支配から一切干渉を受けぬパルサーの炸裂voice-offを、忘却のキスに送った。ただし光だけではない。いつ、きみたちは、黄昏のように背後から突き刺してくる闇に気がつくのか?


キュービリックの「バリーリントン」は、十八世紀サッカレーの小説を映画化した。農民出身のアイリッシュが出自を偽って、貴族の社交界に出入りしてしまうという話は時々アル。実は昔の話でもない。しかし貴族だぜ、何故ばれないのか?ワイルドもシングも、いかに農民が英国貴族と似通っているか驚いた

詩は、海の概念や木の概念よりも、海の概念の感覚や木の概念の感覚と関わる。抽象芸術でないといい詩は書けぬ。他方、散文は空間から建築物を取り除く、コンセプチュアル芸術と共有する形式ー一般化と非物質化ーをもつ。ジョイスがいい例だが、アナキストでないと、無限の感覚と関わる地図の如き散文を書けない。たとえば、chaosmos (Finnegans Wake 118.21) n. The completely confused, disordered, and chaotic universe, or a cosmos in chaos.
Finnegans Wake
Europasianised (FW 191.4) v. To mix European and Asian influences.

沈黙する映像は、
どんな民族の言語にも属さぬとて、
した道徳性に到達するほどではなかった。
呆然と自らを天に委ねた。と、依拠する絶対無限がこの映像に与えられた。
しかし映像を統一的に物語るには我々の理性はあまりにも盲目的ではないか。
人はこの崇高な映画を「パッション」とよぶ

こんな多文化主義に抑圧的な国だからこそ、差異についての哲学を大切にしようではないか!

新大久保でのゴロツキの草莽的デモ、大阪市による朝鮮学校に立ち退き要求。こういう多文化主義に抑圧的な国だからこそ、差異についての哲学が貴重なのである。差異の哲学者達が想定していたのは多産的に成長していく差異であった。実体的に、差異をマイノリティーに還元してしまうのは間違いだ。何故か?こここd、イギリスを例にとると、ブレアー労働党は、ネオリベ的グローバリズムを強力に展開する為に、国内労働組合の依存を断ち切る必要があった。国策的多文化主義は、女性、同性愛者、移民、外国人労働者というマイノリティーを集票マシーンに結びつけた。他方不満を持つ一部の労働者達に急接近したのが、極右だった。差異の実体化が起きると、差異は差異でなくなる。が、マイノリティーを集票マシーンに結びるためには、政党は、どんな差異にどんな権利を与えるのかを明確にするだろう。こうしてネオリベ的グローバリズムと国策的多文化主義の結婚が起きたー労働者達は次第に自らを代表することができなくなっていった。ところで、保守党支持の資産家は労働党のギャンブルに票を入れたわけだが、無支持層の中で年金を心配する中流も労働党に票を入れた。ある日目前に取り付け騒ぎに準じた行列を目撃したとき私は声をあげてしまった。ギャンブルで総敗北した彼らもその一ヶ月前はアベノミックスについてわくわく語る今日のネット小口投資家みたいだったことだけは言っておくよ。さて、労働者の中で自らの声を代表できない者達は、彼らの票を、保守党ではなく極右に委ねた。その極右が外国人労働者を襲撃するよりも前に、労働党はアラブ系移民達をスケープゴート、国外追放の拷問にかけていた。アラブ系住民は人権を要求し始めたとき、国策多文化主義の問題が誰の目からも明らかとなった。多文化主義もグローバリズムも、民主主義の社会を実現する上で、寧ろ好ましい。イギリスの失敗は、国策的多文化主義とネオリベ的グローバリズムにあったのだ。学ぶべきことは何か?米国の為の戦争に行かないこと、TPPとネオリベ的グローバリズムの亜流アベノミックスに反対すること、人権を守ること、以上。

Der Patriotismus verdirbt die Geschichte.愛国心は歴史を忘れさせる。(ゲーテ)

私は修道僧が大嫌いだ。私に言わせると、世界、好運、肉体の真実を捨て去ることは、必ずや、恥辱の感情を生じさせる。これ以上に重大な罪はない。『好運への意志』

Finnegans Wake
chaosmos (FW 118.21) n. The completely confused, disordered, and chaotic universe, or a cosmos in chaos.

戦後の平和憲法は、国家の肖像として、祀らない国家=戦わない国家をデザインした。さらにいうと、スイス人などは、政教分離を平等な教育を実現する条件としてとらえている。1870年頃にバクーニンが信教の自由に関する最後の論文を書き上げていた場所が、亡命地スイスであったことに必然性があった

戦後憲法は、祀らない国家=戦わない国家の肖像として政教分離の原則を定めた。但し大きな制約つきで大日本帝国憲法第28条も「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載されていた。大日本帝国憲法ですら、軍国主義に持ちこたえられなかったのだろう

戦後憲法は、祀らない国家=戦わない国家の肖像として政教分離の原則を定めた。但し大きな制約つきで大日本帝国憲法第28条も「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載されていた。大日本帝国憲法ですら、軍国主義に持ちこたえられなかったのだろう

在特会・新大久保デモの暴力にかんして、2011年の原発災害のときのように、知識人は再び黙っているつもりなの?専門外のことについて間違ったことを喋る危険もあるが、しかし民主主義の危機のときは、敢えて発言しなければならないという責任を放棄している。国家の危機に関してもっぱら敏感だけど

刑法も商品の陳列。各々の商品(犯罪)に値段(罪)が呈示されている。が、死刑のときは、領土を表す徴の如き国家の肖像画である。曰く、貴様の魂はわが国を悪から防衛すべき責任を怠った。国境を越えてきた悪にわが国が屈しなかったことを示す為に、国家が悪である貴様の身体を処刑する。軍国主義劇場

道徳が海の岩島に隷従し国の草莽ゴロツキになるぐらいなら、道徳のホームレスになろう。こうして、スピノザは自律的な自由原因を否定し、我々が究極的に依拠できる絶対無限を求めた。神との関係でこの私が連帯できる唯一の実体との関係を知れ。救われたい弱みにつけこまれないように、右側に気をつけて

救われようとすると、道徳の領域が国家の領域に隷従させられることになる。屈辱だ。この認識から、17世紀重商主義の時代に生きたスピノザの立ち位置もみえてくる。我々は救済と道徳のホームレスである。この我々が究極的に依拠できるものは、連帯できる唯一の実体、神即ち自然、絶対無限のほかにない
開く
38分 本多 敬 ‏@owlcato
明治維新から三十年遅く生まれてきた"志士"の成れの果てときたら、朝鮮王宮に乱入し閔妃を焼き殺した大陸浪人のゴロツキ。日本で全員無罪、出世する者すら大勢いた。草莽的に新大久保で外国人を攻撃するゴロツキの振舞いに暗黙に協力する警察と新聞の沈黙をみると、何も変わっていないのかという恐怖

明治維新から三十年遅く生まれてきた"志士"の成れの果てときたら、朝鮮王宮に乱入し閔妃を焼き殺した大陸浪人のゴロツキ。日本で全員無罪、出世する者すら大勢いた。草莽的に新大久保で外国人を攻撃するゴロツキの振舞いに暗黙に協力する警察と新聞の沈黙をみると、何も変わっていないのかという恐怖

体制としての原発は根本的な思考と文学を要求してきている。まだ文学が現れないのは、現在私達が政治に投げ込まれているからではないか。「ヒロシマノート」も重要な証言と記録は示されてはいた。が、大江は書けなかった。だから畏怖すべき空白を<祈る>共同体というステレオタイプで隠蔽してしまった

確かにですね。昔から学校の親達の間にも活発な議論が日常的にあったときいています。「よい」詩が現れないのは、現在私達が政治の<なか>に投げ込まれているからではないでしょうか。詩の煌きというのは、<前>と<後>にしか現れないのかもしれません

ホホー、こうして、思考することは、同時にこの三つの形式に関わることであるーすなわち、哲学と科学と芸術のことである。そして、ふくろうねこはね、まさに、思考の力の彼方に、資本主義を超えるものを託すニャリ・
ホホー、哲学というのは、無限に無矛盾性を与えることによって無限を救い出す。ここで、他者の痛みを強く感じることがこの無矛盾性とすれば、イラク爆撃に抗議した人々はまさにこの無矛盾性によって、国を越えた人々の繋がりである無限を救い出したといえよう。十年前は人々は哲学的に行動したのニャー。
哲学とは対照的に、科学の方は、無限から出発し参照系に関わる。未来の世代の為に「生命」を唱えるのは、無限である。反原発派の人々はこの無限から現在の問題を見渡そうと必死だ。ここで参照系とは、小さな人間が大きな人間を糾すことである。3・11以降人々は科学的に行動したいと努力しているニャ。
映画といえば、フレーム、枠組みである。ハリウッド映画のように、枠を取り払い全部を見せるのは陰険に全部を隠す隠蔽だが、ホホー、真の芸術は枠を与えて、枠の外よりももっと外部のものを呈示する。OCCUPY運動は芸術的。何故なら、囲んで無限に繋がるから。反ネオリベの人々は芸術的に行動していくだろうよ。


もし国家が不在にみえるのは、ドイツ哲学が市民社会(資本主義)と家族との高度な和解を国家に託したようには、その国家は、資本主義にとって普遍性を持たないことを意味するのだろう。やはりカフカは正しかった。かれはファシズムを冷静に分析していたのだ。知っていたのだ。人間であることに屈辱を感じ、それこそベーコンが絵に描いたような死につつある動物にでも成らないと、軍人か警官の父(=国家)と、母妹(=資本主義)の、家族(ファシズム)から逃げれない。そもそも、国家はそれほどネオリベグローバリズムに対する防波堤になり得るのか?疑問に思う。歴史に鑑みて、また現在進行形のTPPの経緯をみても、市場をつくりだすのはこの国家ではないか。選挙の結果、事実上社会民主主義の政党すら無くなってしまった極端な状況で、なお我々が社会民主主義的な解決があると思い込んでいるのは、何故か?グズグズしているのは何故か?

マリアがアイルランド生まれと思い込む神学生(ジョイス「芸術家の肖像」)について、キリストの時代にアイルランドの様な野蛮な島で誰が処女か分ったものかと一蹴したのはノリスだ。欺瞞にも、安部もこの神学生以上に、戦時中の兵隊を強制連行も強姦もぜぬ潔癖な客人と思い込いたいようだ

3・11以降増幅しているのが、国家が不在だという疑いだ。安部の下で一層国家の不在が際立つのは、それは資本主義に普遍的なのものは市場だけということを意味する。米国流「正義」も所詮、市場の為のもの。無視された我々は死んだ動物、逆に、人間であることの屈辱感しか抵抗へ目覚めさせてくれない

日の丸号は米国の言いなりで国家の呈をなしていない?この疑いは原発災害以降強まるばかり。安部の下で一層国家が不在にみえるとすれば、それは資本主義に普遍的なのは市場だけということだ。所詮「正義」も持つ者の為のもの。我々は死んだ動物。人間であることの屈辱感しか抵抗へ目覚めさせてくれない 

財界日の丸号はアメリカの言いなりで国家の呈をなしていないか?この疑いは原発災害を契機に一層強まる。もし国家が不在にみえるとすれば、それは資本主義に普遍的なのは市場しかないということだ。人間以下という屈辱感だけが目覚めさせてくれる。我々は死んだ動物。逆に、ここから抵抗を起こせないか

チョムスキーへの興味深いインタビューを掲載した本Occupyを読む。<外交政策を占拠する>の章でニューディールの(組合運動と座り込み)とベトナム反戦運動に関連づけているのは、国境を越えて起きたイラク爆撃抗議デモだ。なるほど、爆撃は起きてしまったが、しかし、戦争前に起きた反戦運動という点で、六十年代になかった全く新しくユニークなものだった、と、ラディカリズムの精神が語る・・・


輸出商品である国策アニメを消費する人々の無意識の、愛国的征服願望を悪意をもって暴いたデザインではある、とおもいました。この概念を作品全体に適用して言えば何事もなかったはずですが、愚かにも、商売が最悪の宣伝文句を喋ってしまったのではないでしょうか。「天才」という政治概念は映像を越えてしまう。正義をよびこんでしまうのは避けられません。正確には、一見正義によく似た怒りの感情というべきかもしれませんが。とにかく、体罰容認派が半分近く占めるタハ派的世の中です。。具体的な作品から離れて、ただ頭だけで、アートの破壊性を迷惑なだけという弁護士的な小市民的本音が一人歩きする危険もあります。ただし、ネットの画像でみたかぎりの印象をいいますと、マニアックな体系性と職人的器用さには感嘆しますが、果たして擁護するほどのアートも創造的破壊もあるのだろうかと思いました。


BFIの本による「愛のコリーダ」分析も、豚に真珠だ。クローズアップを避けたカメラの方法を注意深く観察すれば、「週刊新潮」のようには、「愛のコリーダ」を単にエログロのポルノときめつける、例のマスゴミ的思い込みに陥ることもなかった。ゴシップ好きの妬み深い愛国的週刊誌もマンネリ化著しい

ウディ・アレンといえば、日常の会話ですが、どこかで私はベルイマンの映画を思い出すのです。心の中の会話を伝える内向的な映画。アレンは、「会話なのに」、「字幕的な感覚で処理してしまう」と言っているのは、うっかり心の中の会話を書いてしまうということをいっているのではないかと理解しました

Noam Chomsky

That's the first chapter of the post-war period. Actually in the case of US and Britain, it started in 1943: when they moved into Italy from the south, the first thing they did was restore the old fascist order, and crush the partisans and the fascist resistance, which was a very strong thing. In Italy, the partisans had pretty much driven the Germans out of Northern Italy. When the American and British forces came in
they had to liberate Italy from its own people, from the partisans. And the partisans had what they called 'communist'… But they weren't particularly that, they were radical democratic; they had worker-controlled industry and radical democratic programs, which the US and Britain wouldn't tolerate. So they destroyed them, and restored something like the traditional fascist order.And they did the same in Germany and in France.



ナチスは、ユダヤ人を衛生上の問題があるからゲットーに入れると言った。が、逆だ。彼らを水道も敷かないゲットーに入れるから衛生上の問題が起きたのだ。同様に「体罰なければ成果なし」と言う人も、選手がダメだから体罰を与えろという。本当は、体罰を与えた結果、選手がダメになったのではないか?

五反田の床屋へ行った。後ろの棚に置いてある、テレビから押し寄せてくるワイドショーのお喋りが頗る不快だ。体罰なければ成果なしと盛り上がる。テレビ局から渡された原稿でただ喋り続ける動物に見識など存在しない。不気味なのは、見ているつもりで、逆にテレビに監視されてしまった視聴者達の存在だ

サッチャーの「わが軍隊」と報ぜよという要求を毅然と拒んだBBCも、まさかの、身内の労働党からの攻撃に動揺した。民営化構想はサッチャーですら考えもしなかった。「テロ」という言葉を使わないと宣言したときイラク侵略に加担する労働党を批判したのは明らかだった。BBCは第四の権力と呼ばれる

ソビエトについてサルトルほどの人も絡みとられた神話的呪縛が、自ら理論化した自己欺瞞の類かは定かにあらず。しかし財界主導の国鉄民営化のとき、身内ともいえる労働組合をパッシングした朝日新聞が陥ったのが、国民的コンセサンスという自己欺瞞に他ならない。そのまま安全神話へ行ってしまったのか

サルトルですら神話的象徴の呪縛と形容すべきものにとらわた。宇野の日本の経済学はずっとスターリンを称賛していた。ソビエトの強制収容所の発覚によって、アカデミズム内では孤立していた宇野が多数派になったのは、彼がスターリンを批判してきた少数派だからであった。真理が依拠する政治性を物語る

髪の毛を切るバリカンや竹刀や監禁部屋の鍵を指さして、これらは文化ですと言うことは絶対に不可能でしょう。それなのに、なぜ、体罰や男尊女卑を文化と言い張るのですか?

テレビの「女子柔道」に心を痛め、9時のニュースに飛び込んできた「AKB」に心を痛める。が、「大したことがない。もっとひどいことがある」と鈍感になる。冤罪の可能性があった死刑に心を痛めても、「もっとひどいことがある」とおもう。そうしてテレビは依存症の悲しみの映像が溢れることになった

金融監督官庁が情報を銀行に漏洩するときは、ただ漏洩するためか?否だ。銀行は、受け取ったこの情報を利用して、当局を姑息に欺いてきた。しかし規制庁幹部が断層報告書案を日本原電に漏洩しても、電力会社は、まわってきたこの情報を利用などせず、規制を欺く対策もたてるはずもない(ほんとかい?)

金融監督官庁が情報を銀行に漏洩するときは、ただ漏洩するためか?否だ。銀行は、受け取ったこの情報を利用して当局を姑息に欺いてきた。規制庁幹部が断層報告書案を日本原電に漏洩した場合、やはり電力会社は、まわされてきたこの情報を利用して、規制を欺く対策をたてようとしたのではないだろうか?

普遍言語の構想はヨーロッパの専有物にあらず。エイゼンシュタインの、漢字世界(盲目の言語)とモンタージュ(沈黙の映像)こそ、アジアにおける普遍言語の形。マルクス主義的朱子学的方法論をデガダンスの風味を混ぜて、宇宙の劇場であるこの本に投射するのは我々のナーンチャッ・テン命 #ジョイス

フィネガンズ・ウェイクFWの中国語訳を祝う、アイリッシュ・タイムズ紙。複数の概念を一緒に働かせリズミをつく出すFWの魔法は、漢文的構成と関係があるかもしれない。文革以降の大陸の中国人が知らぬ、マルクス主義的朱子学的世界観を投射していくのは、むしろ我々の天命ではないか?

なんだ?またまた、監督官庁が情報を銀行に漏洩してきたのか、と思いきや、そうにあらず。規制庁幹部が断層報告書案を日本原電に漏洩、という。やはり、根っこのところは、彼らは、3.11の前と同じなのかね?

<ポストモダニズムは"近代の超克"の息子なのか?>

NHKが物語る"近代の超克"はツイッターでは評判が頗る悪い。ということは、世間の評判が良いことを示している(笑)。平易に語り過ぎると、分ったつもりになっても何も理解されないことが起きる。今夜は、"近代を超える"についてつぶやく。ポストモダニズムは、モダニズム前衛運動の突破口だった。それがメインストリートと堕したとき、批判の足場の為に<近代>に復帰した者達がいたのは理解できないことではない。これとは別に、帝国憲法に商業的に迎合する「思想家」はなんなの?近代と反近代、この両者は不確定原理の関係にある。近代は自らの<位置>に実定性を与えると、反近代の方では<運動>の超越化が引き起こされる。近代の言説は自らを証明するのに、自らの裏地である反近代を、劣った前近代の側に排除してしまう。例えば、靖国問題がある。明治を総括すると、<祀る国家、戦う国家>だった。そのために、明治政府が、戦死者(兵隊)祀る靖国神社を発明した。多くの誤解があるが、勘違いしてはならないのは、あくまで、靖国神社は近代の産物だという点だ。だから、<諸君よ、大地を掘り起こすと、古代の靖国が現れるぞ>とは、全く根拠がない贋の文化概念である。ところが、それにもかかわらず、あたかも、靖国神社を近代以前のものと思い込まされたら最後、もうこれを廃止できなくなる危険が生じる。一般市民を巻き込む総力戦の悲惨さを反省した平和憲法は<祀る国家、戦う国家>をやめ政教分離の原則に定位したことだけは確かだ。すくなくとも"近代の超克"はアジアの人々の共同体を構想した。<祀る国家、戦う国家>はあり得ない選択だったことも確かだったはずだ



<ボダーレス化をあらためて問う>
ボーダレス化に意味があるとすれば、それが人権に対する意識を共有する可能性を与えるということです。テレビ型知識層に喋って頂くよりも、イギリス人に、彼らの人権に対する意識を語らせるのがいいでしょう。雰囲気が分るからです。ただ翻訳や通訳が入るとその雰囲気をぶち壊すかもしれません。昨日もBBCのラジオで弁護士がアングロサクソン法の歴史について喋っていました。17世紀に、領主がいない土地が存在し得ることをどう人々に伝えるか、ここにイギリス法の未来がかかっていたと饒舌に語るのです。自然状態と自然権の話ですね。ここで未来とは、19世紀に実現させたの奴隷禁止の話に関係したことです。人権に対する意識がないと、まるで見てきたかのように、このように生き生きと歴史を語ることができないでしょう。すこし補うと、17世紀における法律家集団の秘教的な言語は、(当時のフランス人もチンプンカンプンな、ノルマンデイー訛りの)ラテン語でしたから、「領主のいない土地」(自然状態)のことを英語で書いたロックの本がいかに衝撃的だったかということですね。ただし、まだ英語も標準化されていませんでした。脱線ですが、シェークスピアのグローブ座に読み書きもできない大衆が毎日熱心に集まったのか謎。当時の観客は、テレビ時代の私達と較べて相当に注意深く他人の言葉を聞いていたとしか説明できないのですよ


ミリタリズムの表現である体罰を、やはりミリタリズムの表現である絞首刑と同じ次元に置いて語ろうとすると、常識がないと無視されるだけです。しかし大島渚はこのことができましたし、これに理解を示す日本人もそれなりにいたのです。常識は1990年以降に作り出された可能性があります、小泉ですね

人権は、知識だけでなく、人権に対する意識を含むものです。やはり新聞が鈍感だと、人権の意識は成り立ちません。天声人語に「今回の抗議は、相当なことがあったからだろう」と書いていましたが、勘ぐりかも知れませんが、まるで身近なところには暴力がないかのような書き方です。見えていないのです

人権は、知識と意識とリテラシーから成り立っています。何が法(の法)か考えることを助けるのが「知識」。人権に対する意識が「意識」。法律家集団に属さない私達が人権をどう読むかは「リテラシー」です。法律家集団の常識に頼らなくて済むように、私達のために法があり、法の法が存在するのです ,

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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年2月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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