言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年3月

<<   作成日時 : 2013/02/28 01:34   >>

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フーコが社会学かどうかは、フーコのどの本を「中心」にとるかによる。(フーコは「中心」を望んだろうか?)。フーコは即ち哲学と糾す反読書的哲学者はおしい。肝心の「言葉と物」が反哲学的読書論と気がつきさえすれば。恐らく「哲学は型にはまる」からフーコは内側の哲学者とは議論したくないのだよ

現在右翼の切り札「右も左もない」は、敵味方の境を相対化し敵の足場を奪う八十年代左翼の戦略。それは「集合の集合」というあまりに巨大な集合を想定する様な問題点をもつ。少数者は固有の権利無しとする同化主義を正当化してしまう。Badiouは公理的集合論を以ってマオ的・存在論的にこれを批判

嗚呼、ツイッター空間で毎日かくも刻印されてゆく、文化の基底にある歌の単位ベクトルよ。怨みと皮肉を刻め。「恋人達と泥棒は暗闇にいく」(イデッシュ格言)。現代詩も<かつての自由>より暗闇の方へ行け。あとは恩知らずに国語を乗り越え、無責任にどれだけ日本語で書くことも乗り越えていけるかさ

ツイッター空間で毎日かくも刻印されてゆく、文化の基底にある歌の単位ベクトルよ。こうあってはならないと語れ。「恋人達と泥棒は暗闇にいく」(イデッシュ格言)。<かつての自由>よりも暗闇の方へ行け。あとは、恩知らずに国語を乗り越え、無責任にどれだけ日本語で書くことも乗り越えていけるかさ

「近代の超克」とは何か?活動し語る人びとの思考と存在のXであった。何を超克するというのか?それは文化と存在者を超えるならば、開かれた思考と存在は世界史的ホームレス性へ行く。が、実際に行ったのは、「世界史的日本」という国家の牢獄だった

フランス大革命は、哲学的に言えば、社会本位説に対する個人本位説の叛逆であった。ルソーの民約論は、もっともよくこれを証明する代表的思想である。もとよりこの民約論は誤謬であった。社会の形成が各個人間の契約の結果であるというこの民約論は、いわゆる循環論法に陥ってしまう。(1-1/7)
すなわちこの契約の観念そのものがすでに社会生活を前提とする。この契約観念の勢力は、最もトルストイのごときなおこれを否認する思想家もあるが、今日の社会においても認められないことはない。しかし原始社会においてはその勢力はまったく認められ得ない。( 大杉栄「近代個人主義の諸相」1-2/7)



憲法判断回避のテクニックとは、危険で愚かな偶像そのもの

Here a star, and there a star,
Some lose their way.
Here a mist, and there a mist,
Afterwards –– Day!

わたしのようなものでいいなら、そうですか。わたしなりの理解ですが、二通りの解釈があります。ポイントは、最後の "Day !"をどう解釈するかにありますが、ここは月並みに、「光」とか「輝き」としてみましょう。と、こんな感じかなw。

天のきらめきに魅了されて見上げる
霧が覆いはじめたか。霧が星々の跡を辿らせてくれない。
おお、(起源なき自由な)輝きよ!

これに関しては別に説明も必要ないと思いますが、折角ですから、誰もいわないことをちょっと言いますーいつもそうですが(笑)。エミリー・デキンソンは詩の本質について考えたことを綴ったと私は考えます。思考から生まれるすべての物の中で、詩は最も思考に近く、他の芸術作品とくらべると、最も物から遠いのです。つまり、詩作には、物(例えば、星)が必要ないというわけです。輝きは、即ち、思考とか想像力のことになります。また、デキンソンはなんといっても、アメリカのモダニズムですから、こんな風にも読めるのではないしょうか。Day =私、と解釈してみます。

天のきらめきに魅了されて見上げる
霧が覆いはじめたか。霧のために、星々の跡を辿れなくなった。
と、世界を照らしていたのは、おお、この私ではなかったか!(と気がついた)
もうひとつのは、ちょっと難しいのですが、エミリー・デキンソンならではの豊かさに触れた解釈です。Day =はかない瞬間、と解釈できないことはありません。デキンソンはこういっています。「もっともはかない瞬間こそ、華々しき過去を所持する」(the most ephemeral of moments possesses a distinguished past)

天のきらめきに魅了されて見上げる
霧が覆いはじめたか。星々の跡を辿らせてくれない霧。
おお、わが瞬間よ!


公約違反のTPP容認、新安全神話と原発再稼動、憲法改正という名の憲法破壊、もはや議席そのものが必要ないぐらい危機的である

保守党党首であった、現在首相のキャメロンのマネーロンダリングを中南米まで追ったテレビのドキュメントが高視聴率でしたが、もはや政党からしてマネーロンダリングなんですね。これには正直驚きました

CRACK!!!!! この国で正しいことをするのは、やはり女性です。違憲無効判決。女性裁判長

私も内容を読んでいません。いくら裁判官といえども、女性には守る立場が無いことは他の組織の場合と同じで、だからこそ、憲法を書けたと思いました。やはり権力者である以上信用はできませんが、仕事は信頼はしていいでしょう。裁判官の心の中は結局は誰にも判らないかと思います@hosopy_dx

裁判官は、象牙の塔の学者が翻訳紹介した司法消極主義を濫用してきた。一度違憲無効判決が出てしまうと、全部それらは自分を庇う為のいい訳としかみえなくなる。行政や立法それ自身が憲法と自らを騙して来た裁判官達。国の仕事をやっている人間は自分と同じぐらい潔癖なはずだと信じる安全神話の類かな

私も内容を読んでいません。いくら裁判官といえども、女性には守る立場が無いことは他の組織の場合と同じで、だからこそ、憲法を書けたと思いました。やはり権力者である以上信用はできませんが、仕事は信頼はしていいでしょう。裁判官の心の中は結局は誰にも判らないかと思います


常の事として報道に疑いがありますから判決の要旨だけでも明日確認しようと思います。過去の無力な判決には女性裁判官も加わっていたはずです。が、今回女性だったのは何故か?と敢えて考えて書きました。寧ろ問題は何故男性の側は「片山さつき」ばかりなのかです。割合の話ですが@hosopy_dx

デュラスのミリタントな言論活動を、自己観照的テクストに封じるこの種の称賛こそ、日本の作家に顕著な反動性。反吐が出そうだー>私がデュラスに惹かれつづけて今も飽きないのは、デュラスの作品の行間から覗く、彼女の「極度の孤独」と「放心」とそれも上廻る「愛の密度」のせいである(瀬戸内寂静)

オタク知識人の代表選手今村 仁司等の同時代性の「フランス思想」はレヴィナスに言及しても、その暴力の概念を靖国問題や慰安娼婦や日の丸の問題に真剣に適用したことがあったのか?空っぽの「フランス思想」から何も相続できぬツイッターだが、不器用な口調で日本の暴力の問題を論じなければならない

FRENCH BLOOM NETより。 フランスでは催眠術を使った麻酔が行われているとFrance2 が伝えているそうだ。「全身麻酔の負担を軽減するためだ。実際に初めて催眠麻酔を受けた82歳のお爺さんのレポート。全く麻酔を使わないわけではなく、催眠術を使えば局部麻酔で済む。麻酔医が患者の耳元でボソボソ眠くなる話をしているのが可笑しい」。思い返すとオーストラリア時代、ドイツ人の歯医者が麻薬を使わないという治療の方針を貫いた。非情に!、痛くて泣いて叫ぶと殴られた。このトラウマで現在も極度の歯医者恐怖症。フランス語でささやいてくれたらよかったのに。あの喋り方だったらコロッと催眠術にかかりそー。眠くなる話って何?

Germany could have been stopped in 1938. They were not ready for war. Hitler wasn't stopped, mainly because Britain and the United States weren't that much opposed to him. Noam Chomsky


土曜日の散歩。馬込を通って大森まで。坂を上がって、行き細い道を通る。ロンドンで見た様な時計台のある古い屋敷たち。昔は、文学者の散歩道だった所と後で知った。キネカ大森には初めて来た。八十年代にタイムスリップしたみたいな懐かしさ。「危険なメソッド」は良し。人物達の会話を注意深く聞いた。

映画ではステレオタイプ的に、チューリッヒのブルジョアでプロテスタントだったユングと、コスモポリタンのフロイトの距離を暗示していた。スイスとオーストリアのギャップ(風景や建築)を見るのも楽しみの一つ。登場人物達の会話を注意深く聞いていると色々なエピソードの背景が読めてくるそんな映画

広告では二人の「心理学者」といっているけれど、大きな間違い。フロイドは精神分析!ユングとも大きな違いがある。フロイトはなんといっても、<抑圧>を論じる。日本人好みなのはユングの方で、彼は<融合>を語る。

大戦前のユダヤ人については誤解がある。チャーチルはドイツと戦っても、ユダヤ人を助けたいとは考えなかった。M16からナチス収容所の存在を知らされていたはず。が、無視した。英国に逃げて来たユダヤ人を収容所で拷問した、新聞写真に驚いた私に、友達のユダヤ人がお前は何も知らないと呆れられた

アメリカによるイラク爆撃前夜、ブレアーは、第二次大戦中の連合軍によるファシズムとの戦いを思い起こせなと世論を誘導した。チャーチルを演じたのである。人権を守るための爆撃だと。些細なことだが、何百、何千?拷問されたアラブ人達を搭載したアメリカの飛行機が英国の空港を秘密に離着陸し始めた

知識人は自らを解放者と思い込むけれど、歴史に鑑みると、多くは最後に、酷いのは始めから最後まで、全体主義に従順な太鼓持ちであった。一方、何もかも金だらけの社会に怒りこれを堂々と断罪するのは右翼だったはずだが、現実には民衆の集会デモに「道交違反」の屁理屈で野次る、計算高い姑息な小役人

なにもかも金だらけ、金がすべての国家とは、こういうことか 
ー>「脱原発テント”に経産省が1100万円請求」

マルクス主義は、近代の戯曲だった。言語の領域に主観性が存在しない様に、シェーンベルクがオペラに要求した如く演出家は戯曲の解釈に介入できない。自由があるとすれば、それは役者が役柄を越えるダイアローグ的行為から実現するけれども、やはりこれは戯曲と観客の期待に反しない限りにおいてだ。ポストモダンといえば、演出家の解釈だ。演劇は表現に従属する。舞台は過剰だ。舞台は、あまりに文学的に文学的で、戯曲それ自身の忘却から、世界の喪失を齎す遊びに委ねていく。実際にマルクス主義それ自身を否定した知識人は全部を失った。1920年代にマルクス主義の出発点を隠蔽した、和辻のもうひとつの近代の超克が現在繰り返されている。ユートピアも抵抗もなく、最悪の映画だけだー戦争体制

依然と男性優位の年功序列社会だ。特権的に?、年を取っているというだけの理由で、助言を求められることが多くなってくるのかね。生きる時間に限りを感じてきたので、話をきいているとどうも反権力でない様な(少なくとも反権力の意志を持たない)人の話には益々関心と興味をもてなくなってきたようだ

昨年デモの数え方ですっかり信用を失った朝日新聞。天声人語は、「米軍は4487人、イラクの民間人12万人」とする根拠を示せ。「戦争被害者」の定義によっては、この数字は幅をもつ。例えば、戦争前の制裁による薬の不足で死んだ子供の数を含めると、間接的には65万人を越えたという数字もあるが

「公立小中の親 教育格差6割容認。"所得の多い家庭の子供のほうが。よりよい教育を受けられるをやむえないと答えた人"が52,8%、2008年調査の40%を大幅に超えた」(朝日新聞)。しかしマニノリティー・グループはどれくらいこの調査に加わったのか一切明らかにされないのは何故なのか?

中国戦地へ行った叔父が京大のとき手に入れた高田保馬「統制経済学」。屋敷の一番端にある、薄暗い廊下の本箱に積まれていた。子供のときはこの廊下に行くのが怖くて朝方おしっこを我慢した。パレート最適を超克せよ、に要約される本だったか?そうだとしたら今日流行ってる正義論と違わなんじゃないか

1、あらゆるすべてのことが試みられた結果、もはや映画にフロンティアが無いとすれば、あとは、[映画が]いかに自らを正当化するかというゴダールの課題しかない。映画を引用する時代、政治を介入させる時代、歴史を編集する時代、空間の映画という展示の時代。しかし、繰り返される、正当化の挫折。
結局、正当化そのものが不可能だということが証明されていく。モダニズム精神の前衛、二十世紀それ自身の姿だったとも託されたのが映画だったが、二十一世前には映画は、自らの権威を自らに依拠させることもできなくなったーラカンが言うようには。結局、他者、「天」に願うしかなくなったのだ。
3、最後の時代は、現在進行中のことだが、正当化の不可能の必然として、孤独な映画は、救済なき「信」の領域に知的に依拠していくことになった。この意味において、映画史的においてゴダール「パッション」こそは、大きな転回点だったといえようか。「学ぶ」言葉と思考は、「信」の領域へ辿りはじめた


映画にフロンティアが無いとすれば、あとは、いかに自らを正当化するかというゴダールの課題しかない。映画を引用する時代、政治を介入させる時代、歴史を編集する時代、空間の映画という展示の時代。正当化の挫折。ラカンが言うようには、映画は自らに依拠することすらできない。他者、「天」しかない

TPP交渉参加の安部を7割が評価(朝日新聞)。TPPに反対した自民党の公約違反は?農業除外は交渉可能と思い込むのが4割も!官僚は国民をなめきっているが、今後は同じように米国政府が霞ヶ関官僚を子供扱いしていく。流暢に喋れても中学生程度でのディベート力では、先生(米国)と生徒(日本)じゃないか?

TPP交渉参加の安部を7割が評価とある(朝日新聞)。TPPにNO!と公約して票を盗んだ自民党の詐欺は問われない?農業の除外は交渉可能と思い込んでいるのが4割も!外務官僚が流暢に喋っても、中学生程度でのディベート力ではどうにもならなんのに、特にアメリカ人とは。御免ね、でもそれが現実

「生活保護を何に使おうと本人の自由だったらモラルの崩壊だ」と尤もらしく説く愚か者には、「それを言うのなら、他よりも1千倍大きい報酬を受け取る権利はあっても、それを持つ権利はモラルに反する」と反駁したいところだ。経済学はこの命題に正当性を与えられない。正義論が経済学に介入しなければ

映画に於ける編集とは、どこにでも起こり得る事柄であるが、例えば、アルバム写真を並べたり本を並べたり等々。編集は自由であるが、依拠すべき正当化の条件を芸術から借りてくることがある。空間の区切りであったり時間的順番であったり、または演劇であったりする。


ネットの時代はすごいな。アイルランドの国営放送ラジオをフォローできたよ。ああ、懐かしく親しみをもつアイルランド英語を喋っているぞ!  @RTERadio1

近世国家の中央集権的原則は、国家の中に諸国家の存在することを許さない。国家は唯一、不分割性のものである。国家の中の一切は、国家の監視と制裁とを遁れて、存在することが出来ない。各個人は生れてから死ぬまで、国家の監督の下に生活しなければならぬ。(大杉栄 「近代個人主義の諸相」2- 4/13) 


自己保存の欲求が、理性的連帯を麻痺させ逆に生存に不利な競争の恐怖に票を与えてしまう。ハネケ「アムール」はネオリベ的緊縮財政の危機も描いている。アンナは雑誌で読んだ仕事運と健康運を喋ると、夫は「星占いなんか」と苛立つ。過剰に市場に期待する経済の占星術に盲目的に寄り添う保守主義に怒る

原発事故で原発の殆どが止まったが、小泉が稼動させた失業供給体制は決して止まらない。日本は、計画的理性を介入させない星占いに囚われたままだ。ネオリベ緊縮財政といえTPPといえ、過剰に市場に期待する政策である点で両者に大した違いはない。TPPは、敗北が決まっている無駄な延長試合なのに

ネオリベのシナリオは、アフガンとイランを犠牲にして、戦争という最悪の映画と一緒に進行した。右翼の政治家は、自らつくった戦争の恐怖で人々に自己保存の欲求をかきたて、かえって生存に不利な条件を承認させてしまう。公約違反は追求しなければならないが、そもそもTPPに反対するはずもない自民党だ、昨年の領土問題以来、其も分らないほど理性は麻痺してしてしまったのか?

ネオリベの右翼の政治家は、自らつくった戦争の恐怖で人々に自己保存の欲求をかきたて、かえって生存に不利な条件を承認させてしまう。公約違反のことは追求しなければならないが、そもそもTPPに反対するはずもない自民党。其も分らないほど,昨年の領土問題以来、我々の側の理性は眠っているのか?


"Every answer can result in a new question." ~ Yiddish Proverb

TPP反対意見には「国益に反する」という理由ぐらいしかないのか?TPP参加後十年後3兆円が国の儲けになるという政府のお約束は、<イタリア男が女に口説く幸せにするぜ>程度の話でしかないが、問題はそこではない。問題は、TPP賛成であれ反対であれ、自由貿易体制は、貧しい国に飢餓と死をもたらす世界資本主義経済の搾取を解決するのかという問題である。しかしこういう根本的な話は、法と秩序の強制を超える話として、選挙には関係がない「無駄話」であり「虚栄」として、言論活動的な公的領域から排除されはじめている。ハンナ・アーレンは、ここを問うたのではなかったのではないだろうか

アメリカのモダニズムだね、Emily Dickinson ‏は。ロンドンのカフェで、ナイジェリア人が教えてくれた。

We journey to the day,
And tell each other how we sang
To keep the dark away.


ゴダールの提唱する空間の映画なる概念。また子安氏がいうニ十年ごとに繰り返す「再帰する始源の呪縛」と関係するテーマー>「芸術の絶望 / 滅びゆくものから / 言葉、音、石、色から、/ 不朽のものを創り出そうとするその絶望的な試み。/形をまとった空間が、時代を超越してゆくために」



|    バ 車 ス 外 も
ダ     ス 掌 リ に ど
ブ     の な を 出 ら
リ     呆 き 追 た ぬ
ン     然   う ま  か
の     と     ま














フォー・シーズン・ホテルの前でした。私は目の前でこの追跡劇を目撃していたのですが、二階にいた乗客達が降りてきて「なぜ、このバスは運転手がいないんだ!?」と不思議がってました。20分待って諦めた人たちは次々と雨の中を歩きました。「ゴトー待ちながら」のバスでした

雨でしたら、私もなかで待っていました。二十分ぐ後!に、運転手がもどってきて、そのときまでには、警察も来ていたのですが、運転手曰く、「このバスはもう走らない。他のバスに乗れ!」と。ゴトーはあらわれることはあらわれましたが、「救い」がありませんでした

今日は道玄坂の回転寿司の店へ。職人の姿も、メリーゴーランドの如く通過していく楽しい寿司皿も見えぬ。目上のパソコンで注文を入力してくださいか。と、山手線の電車がホームに突っ込んでくるようにベルトコンベア上のお盆がくる。点滅する「取りました」ボタンを押すと、ガーッと戻る。なんだかなー

「ただ映画だけが見出した/各自が持ち場についているのなら、非の打ち所のない均衡に基づいて/群集は自ずと一つにまとまることを。/場面の一点を明るみに出し、あとは影の支配に任せた方が、有効であるから/光は然るべき所に差しこみ、外すべきものを外していることを」(ゴダール「映画史」4A)

レンブラント「夜警」の照明についてのエリー・フォール(美術史家)の言葉を使って拵えたゴダールの言葉。政治神学的な含みも読み取れる。勝手に都合よく解釈すると、光と影は、政教分離のこと。現在国家の光は、然るべき所に差しこんでいるようにはみえないし、外すべきものを外しているとも思えない


昔むかし、製薬会社のドイツ人が呆れていた。交渉力の大きな強い組合が中小の組合の賃上げ交渉を最後まで見守るのが、社会民主主義のドイツという。日本は逆で、交渉力の大きな組合が自分の賃上げの成立後交渉ラインから抜けてしまう現実に驚いていた。この恥ずべき卑怯卑劣のいじめは終わらせなければ

象徴的にいえば、三十年代における<近代の超克>的知識人の挫折は、近代という名のヨーロッパ劇場を越える<ホンモノ>劇場を、戦う国家に求めたことから生じたと総括できるだろうか。さて、戦後における言語学的なモダニズムは、戯曲の憲法的意義と主権的な語る言葉とのあいだの連続的関係を要求した。
70年代に現れた文学的なポストモダンは、役者の身体と感情に戯曲が表現されていれば十分であろう。嘗て<近代の超克>劇場が失敗したように、ホンモノ性を戦う国家に求めたりはしない。だれも絶えず変化していく変動相場制にホンモノの為替レートを求めたりはしないように。劇場が国境を越えさえすれば、だ。
二人の人物を置く示す配置だ。ジュトラウスなら同じ傘を持つ男女かもしれぬ。死の領域から国を招く愚者は他者を超越化する者だ。水戸学の国家の肖像画は、学ぶ二人共同体的の儒学的思考から、一方の映像を盗んでしまった

三十年代知識人の挫折は、近代という名のヨーロッパ劇場を越える<ホンモノ>劇場を国家に求めたこと。戦後における言語学的なモダニズムは、憲法的戯曲と主権的な語る言葉との連続的関係を要求する。文学的なポストモダンは、役者の身体と感情に戯曲が表現されていれば十分。兎角国境を越えさえすれば

2013年3月11日、国家が殉死した兵士の如く死者たちを祀る一方で、人々が経産省脱原発テント前でキャンドルに点火するのを警察が許可しなかった。他方、ひたすらテレビ化・イベント化していく「祈り」「誓い」。しかしなんのために?ヒロシマとナガサキで祈ったあとに、フクシマがきたというのに

見た映画について語る場合、忘却の介入は避けられない。言葉で追っても、映像についての記憶は消失していく。結局映画に人は到達することがない、到達はもともと不可能であり、ただ、いつまでも接近しつづけるだけ、それは一つの極限。<盲目の言葉>と<沈黙の映像>のあいだ。わたしとあなたのあいだ

「忘却のキス」は記憶を主題にしている。見た映画について語る場合、忘却の介入は避けられない。言葉で追っても映像についての記憶は消失していく。映画に人は到達することがない、到達はもともと不可能であり、ただ、いつまでも接近しつづけるだけ、それは一つの極限。盲目の言葉と沈黙の映像のあいだ


新大久保で日の丸が掲げる統一の暴力を知らないとは言わせないぞ。そんなに「うれしい」のか?馬鹿たれー>「(反原発運動について)戦後ここまで日本人が統一したことない」(大江)、「(会場の日の丸に)日の丸を見たら身構える世代ですが、今日はそれを掲げる人もいることをうれしく思う」(澤地)

昨日は、東京演劇アンサンブル「忘却のキス」の千秋楽だった。(この劇団はキャラクターという言葉を使わないのだが)、初演と比べると、象徴性をもった一人ひとりのキャラが生き生きと表現されていた。台詞も非常に聞き取りやすくなっていた。特に葬儀の場面は映画それ自身かと錯覚するほど美しかった。この「忘却のキス」という芝居は、若い助監督達が説明するように、連続性というか、transitionというか、映画の場面と場面をつなぐ饒舌さがある。また、演出家公家氏の演出は、渡辺一民氏がフーコの本のように語り継ぐ知の誘惑を喚起した。今回の公演で、若い人から中堅とベテランまで、俳優の層が厚くなってきたと思った

アイリッシュ系とインディアンの子供だった母は、十六歳のときに産んだタランチーノを映画に頻繁に連れて行った。彼の新作では、アフリカ系キャラに、アラブとインディアンのが投射されていた。ジークフリートも。オバマ登場から、白人がダメな存在として描かれ始めたか?(但しヨーロッパ人は別)

今日、竹橋の美術館でやっているフランシス・ベーコン展へいった。17歳のとき、ダブリンの街頭で野良犬の小便する姿をみて芸術上の啓示をえたとベーコンは綴っていた。かれの絵をみると、ゴシック教会の化物を思い起こす。ベーコンは、死んだ動物の姿をした、死者を祀っているのだろうか?但し靖国の如く国家が死者を祀る特権的なやり方ではないだろう。国家の側が救済というナショナリズムで人々を序列化していく。国家のために殺した者に救済が与えられるというふうに。仮にベーコンが死を儀式化している表現をもつとしても、死後どこへ行くのかを読み取ろうとしても無駄。死者はそもそも遠くからくるのではない。死者は生者の近傍に生きている。それは街頭を通過していく野良犬の影かもしれない。我々は死者と共に天を感じるだけだ

東京演劇アンサンブル「忘却のキス」感想文ー言語学者と文学者の論争

言語学者曰く、「僕は東京に上京したときのこと、頼まれて一度演出をしたことがあるけれど、自分には全く持っていない感覚だと知った」。私はこの言語学者にきいてみた。「成程、自分に無い感覚をもとめて、長年芝居を観続けてきたのですか?」
と、話に加わってきた文学者がこの言語学者にきっぱり一言。「演出は感覚ではないんだ」と。言語学者は蒼ざめた。黙ってはいない。「僕は君の芝居好きがイデオロギーかと思っていた」と早口に反撃した。これに対して、文学者の方は、「僕は新劇が大好きだ」、とだけ返した。言語学者は論争に持ち込む。
「僕等労働者がランニングシャツで汗水流して働いている間に、君の様に青年時代から新劇に通う不良はブルジョア的怠惰だ」と言った。これは恐らく三十年間近くブレヒト小屋でこの文学者と言語学者の間で繰り返された、言葉の左翼的ボクシングなのか?。興味深くも、演劇の見方の違いが浮き彫りにされる。
この言語学者の見解では、芝居は舞台上の役者たちを照らす電灯さえあれば十分であり、必ずしもそれは音楽や映像と関わる必要がないという。そうすると、「感覚」と言語学者が言ったものは、言葉と声から到来してくるものを受け止める「感覚」のことと解せる。これはいかにも言語学者らしい演劇観である。
他方、文学者のほうだが、感覚的なものを否定的に評価しているわけではなかっただろう。昨年末、「故郷よ」というチェルノブィリをテーマにした映画の感想を述べたとき、映像の力のこと、その説得力のことを強調していた。演劇では、映画が持つこのようなリアリティー感を表現できないだろうと分析した
文学者は演劇の脚本それ自身の限界のことを語る。脚本それ自身の限界を、理性それ自身の限界と等価と哲学的にとらえている。演劇における関係の冒険、音楽と映像との出会いを祝した、「忘却のキス」を通して、演劇それ自身の再定義が世に問われる。言語学と文学の対話ー理性のルネッサンス的舞台の主宰


本多 敬 ‏
真面目といえば、西の代表選手がアメリカ人、東の代表選手が日本人だ。昼休みと飲み屋で悪口雑言を撒き散らすも、会社を良くするには?と問うアンケート調査に記入する。根が不真面目なイギリス人ならば、シニカルな眼差しでそんなアンケート調査それ自身を軽蔑する。そもそも会社がよくなるはずがない

ついでにいっておくと、国もよくなるはずがない。

大杉栄
自由人とは、いっさいの現実に超越して、あらゆる知識を自我の統一の中に帰せしめたものを言うのだ。されば科学は、その科学としての存在を絶ち、単純な本能に帰し、すなわち意志となって復活して、初めて完成される。(1915年「意志の教育」11/36)


大杉栄(「収賄教誨師」)
そういった冬の、また千葉でのある日の事。教務所長という役目の、年老った教誨師の坊さんが見舞に来た。監獄には此の教誨師という幾人かの坊さんがいる。ところによってはヤソの坊さんもいるそうだが、大がいは真宗の坊さんだ。普通の囚人には、毎週一回、教誨堂とかいう阿弥陀様を飾った広間に集めて、この坊さんが御説教を聴かせるのだそうだが、僕等には坊さんの方から時おり僕等の室へ訪ねて来る。大がいの坊さんは別に御説法はしない。
ただ時候の挨拶や、ちょいとした世間話をして、監獄の待遇に就いてのこちらの不平を聞いて行く。千葉のこの教務所長というのは、その頃もう六十余りの老人で、十幾年とか二十幾年とか監獄に勤めて地方での徳望家だという噂だった。僕にはどうしてもその噂が正当には受けとれなかった。(4/21)
何よりもまず、その小さいくるくるした眼に、狐のそれを思わせるある狡猾さが光っていた。何か話するのでもとかくに御説法めく。本当に人間と人間とが相対しているのだというような暖かみは見えない。そしていつも、俺は役人だぞ、教務所長だぞ、という心の奥底を裏切る何者かが見える。(5/21)

大杉栄は、国家に従属した仏教教団を非難している。監獄にいないと、権力の側にある欺瞞は見えてこないのかもしれないなー>「本当に人間と人間とが相対しているのだというような暖かみは見えない。そしていつも、俺は役人だぞ、教務所長だぞ、という心の奥底を裏切る何者かが見える。」(収賄教誨師)

大杉栄の「収賄教誨師」の文を読んで、フーコ「監獄の誕生」を思い出す。昭和思想史研究会の子安先生の講義「歎異抄を読む」も

ふくろう「ホホー、今日から少しづつツイッター的にではあるけれども、子安氏「和辻倫理学を読む」についての読書感想を綴っていこう」。猫「なぜあんたとあたしが呼び出されたニャ」。ふくろう「だって、和辻といえば、二人共同体だからでしょー」。猫「梟猫?」。ふくろう「いいえ、二人共同体です」

ふくろう「子安氏の解説によると、"夫婦の二人共同体が、やがてその私的性格のあり方を止揚して親子の三人共同体を形成すると和辻は説く"。この話は後で詳しく説明しよう」。猫「和辻は倫理学の先生だったの?偉そーに、その倫理学ってニャニさ」。ふくろう「ホー、いきなり核心に来たか、猫さんは」

ふくろう「倫理学とはなにか?と質問しているの?それとも、倫理学の言葉の意味について知りたいの?」。猫「同じでしょ?」。ふくろう「同じではないよ。例えば、マルクスに即して言うと、剰余価値は何か?と問うことは、剰余価値の学説は何かと問うことは別々のものだ。倫理学についての問いも然り」

携帯電話「ポストモダニズムとは何か?と、ポストモダニズムについての言説は何か?は同じではない」。ふくろう「和辻は、倫理を、<それはなにか?>という問いのなかにぎゅーと押し込めようとは思わなかった。かわりに、ゆるふわ的に、人々が倫理の語をどのように受けとめてきたかを語り始めたんだ」

本「<倫理学>とは何であるかという問いを、和辻は<倫理>という言葉によって表現せさられている意味を問うことへと置き換えるのである」。猫「人々が倫理という言葉をどう理解しているかだって?じゃあ、和辻は、昭和の人々の意識を切り取ろうとしたのかね」。ふくろう「いやそうじゃなかったんだ」

携帯電話「和辻はね、<倫理>の語の解釈学的再構成からはじめていく。解釈の周りでスピンする。<人間の道>というのもそのひとつ」。朝のヨーグルト「解釈学とはここでは<人間の道>を<倫理>の語からあたかも歴史の古層のごとく読み出してしまう言語的・・・」。魔法の絨毯「トリックでござるか」

子安宣邦氏「和辻論」は、言語の拡散と集中というフーコと共有する問題意識から、和辻解釈学を暴き出す。翻訳の新漢語でしかないのに和辻が解釈してみせる<倫理>の語は、十分に拡散していた言葉などではなかった。歴史の古層という装いで彼の倫理学の解釈は倫理学のナショナリズムの一点に集中していく。
ただし、和辻の方法としての<倫理学>は、アカデミズムの紹介する為に翻訳する<倫理学>からの思想的自立という側面があったことを無視したらフェアーではない。結果的には、方法としての彼の<倫理学>は、実体としての我々の<倫理学>、帝国日本の昭和の<倫理学>に置き換えられていったのだが。
思い返せば、1980年代後半には、三十年代が九十年代に反復するであろうという言説が尤もらしく幅を利かせたが、仮にそうだとすると、昭和における和辻の<倫理学>のナショナリズムは、平成における、差異の戯れから差異の実体化に堕したポストモダニズムのナショナリズムに忍び込んだといえるかだ。
嘗てアカデミズムの外へ出たと自惚れた「脱」(=差異)の哲学的修辞の木霊があった。しかしこれは十分に拡散する前に、過剰な自己意識を伴なって集中に向かった。昭和からきた和辻の過剰な<倫理学>の亡霊は、現在貨幣のネオリベ的<表層>へ滑り出し、大日本帝国憲法的<倫理>を徘徊しているのか?




死者を選別し靖国を祀るのは誰かと問うこと。ところで昔介護保険法立法化の中心にいた元厚生省官僚が怒って言った。厚生省が福祉に取り組めなかったのはエネルギーの大半が靖国に吸収されてしまったからと。しかし注意しよう。生者を差別する国家が介入する以上、やはり死者にも差別を持ち込んでしまう

アングロサクソン的市場主義は指さして、所謂和を尊ぶ精神とは正反対のものを文化論的に読み解く人々がいる。笑止。そんな調和なら、個人主義のラベルを貼られた英国にも米国にもある。危機にある和の精神の正体とは、英米の植民地国の資源を奪い取る口実をさがす人々の戦争プロパガンダでしかなかった

アジアを指さして、所謂個を尊ぶ精神とは正反対のものを文化論的に読み解く言説もある。英国で私がみた個人主義なら、所謂集団主義の日本にもあるし、イラン・イラクにもあるに決まってる。危機に晒された個人主義とは、他所の国の資源を奪い取る人々の戦争プロパガンダ。和の精神も個人主義も対抗概念


TPPアングロサクソン市場主義から日本文化を守れとは笑止。既に全体主義しかないー>「文部省の定めた一本のモノサシによる人類の差別化。多様な能力や個性のうち、このモノサシに合う奴だけを拾いだしあとは切り捨てて、あたかも人間として無価値で下等だと周囲にも当人にも信じ込ませてゆく政策」本多勝一

オリンピックはグロテスクの極みだし、またクールジャパンのアニメやファッションも地に足がついていない。もっと別のやり方でわれわれはわれわれ自身をつくることはできないか?東京で四月から始まる子安宣邦氏の教室は、だれでも参加できる。伊藤仁斎と論語をしっかり勉強して思想史に介入していこう

差異の戯れから差異の実体化に堕した、ポストモダニズムのナショナリズムはいかがなものか?嘗てアカデミズムの外へ出たと自惚れた「脱」(=差異)の哲学的修辞。これは十分に拡散する前に、過剰な自己意識を伴なって集中に向かってしまった。貨幣のネオリベ的<表層>へ上昇するだけの傲慢な開き直り

オックスフォード・ソーシャリズムと呼べる代物かどうか定かにあらずとも、言語にかかわるかれらの保護主義に、食ってかかったのはジョイスだった。なぜか?しかし、今夜はこのことを語るまい・・・ssssssss

Finnegans Wake
hercy (FW 326.19) n. Pity or mercy for beliefs rejected by authorities or heresy.

街頭の示威行動は政治となる。主観にあらず。だから「仲良くしようぜ」という文の意味も他者に委ねられる。「俺達と仲良くしろ、さもなければ・・・」と読んだら、この空白箇所に草莽ゴロツキの脅迫文をあてはめるかもしれない。そんなリスクも分らぬほどこの社会は少数者への想像力を失ってしまったか


「世界の物価水準から見て日本の食品は高い」という指摘には、やはりそうかと思う。「日本の物価は高くありません」と説得してくるアベノミックス信奉者に、「トマトの値段を知っていますか」とよほど聞きたかった。が、本当の問題は方法ではなく、安部が本気で景気を回復するつもりがないということだ


The United States is in favor of stability. But you have to remember what stability means. Stability means conformity to U.S. orders.  Noam Chomsky ‏


江戸時代身分制の下で町人に担われた朱子学は国を論じない。これは、政治領域からは疎外されたユダヤ人的立場を喚起するか。亡命者は、亡命先である市民権なき国家に再び委ねるのは困難。政治経済学は、古義学の究極的に依拠する「天」と同様、国家を超える他者を社会的に求めた #マルクスのロンドン

江戸時代身分制の下で町人に担われた朱子学は国を論じようとはしない。これは、政治領域から疎外されたユダヤ人的立場を喚起するか?亡命者にとっては、亡命先の市民権なき国家に再び委ねるのは困難だ。警戒する政治経済学は、古義学の究極的に依拠する天に対応する、国家を超える他者を社会的に求めた

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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年3月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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