言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年5月

<<   作成日時 : 2013/05/02 22:56   >>

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MEMO;子安宣邦氏の「漢字論」のkeywordは、「介入的」である。例えば、「異言語文字・漢字の自言語における介入的な構造的現存」である。この「介入的」という語は、副題である「不可避の他者」のなかの「不可避」と関係があるだろう。


子安氏「漢字論」

・私が漢字についてありきたりの見方をしてきたということは、漢字に異言語性、すなわち異言語・中国語の文字であるという性格を振り当てながら、そのことの問題に長く気づかずにいたということである。そのことは一方では、私たちの使用する漢字漢語の中国語との共有性なり共通性を前提にして、日本人と中国人との間の容易な相互理解の可能性を漠然と私も認めていたことを意味している。共有する漢字を基盤にした日中の同文同種という幻想を、私もどこかに持ち続けていたのである。しかし他方で私は漢字漢語の中国由来の異言語性から、「漢字・漢文の極端な影響による不自然な漢語のノサバリ」を非難しながら国語の整序をいう国語学者の主張があることをもそれなりに理解していたのである。この漢字をめぐる正反対とも見える二つの見方は、日本語における異言語・中国語的要素としての漢字漢語への共感と反発という相反する感情的契機を持ちながら、しかし両者とも漢字漢語に中国由来の異言語性を振り当てるという共通の見方に立ったものである。漢字についてのありきたりの見方とは、日本語における漢字に異言語性を振り当てながら、そのこと自体の問題性に気づくことなく持ち続けられている見方である。219頁ー220頁
・外部性をその由来からもつ漢字をただ異質的他者とみなすことは、閉ざされた内部的な自己をしか生み出さない。日本精神分析の立場が構成する言語論的日本文化論から、丸山真男による歴史意識の古層論と同じ閉ざされた内部性の響きから聞こえてくるのはそれゆえである。私たちはいま漢字を自言語の展開に不可避な他者とみなすべきである。あらゆる自然言語に他者言語を前提にしない純粋な自言語などはありえない。純粋言語とは比較言語学が構成する祖語のような人工言語学的な抽象である。漢字とは排他的に自己を生み出すための異質的言語でもなければ、受容者の自言語意識が負い続けねばならないトラウマとしての異質的他者でもない。それは日本語の成立と展開にとって避けることのできない他者である。漢字とは日本語にとって不可避の他者である。それは自言語がたえず外部に開かれていくことを可能にする言語的契機としての他者である。


子安氏が指摘するように、「論語」の言葉は、ときによって失われてしまった世界の痕跡でしかない場合がある。これを強いて解釈しようとすると、当代的な要請をそこにこじつけた解釈しかもたらさない。「興於詩、立於礼、成於学」も、明治以来、国に都合よく、教養的、教育的人格形成のプロセスとして理解されてきた。
さて、「述而不作、信而好古」のなかにある「信」の字だけど、この字のつくりは、人が言葉(読むことが基本的に不可能な原初的テクスト)に向き合うことをあらわしている。つまり人が外部に依拠している、と解釈できる。なぜなら言葉は「天」か。「公」の領域にあるからだ。「De la Grammatologie グラマトロジー」のDerrida デリダは、「論語」を指さすという可能性もあったのだが...


「述而不作、信而好古(参考までに金子訳だと、述べて作らず、信じて古えを好む)」。「信」の字をみると、人が言葉(読むことが基本的に不可能な原初的テクスト)に向き合う。つまり人が外部に依拠している。言葉は天か公の領域にあるからだ。「グラマトロジー」のデリダは、「論語」を指さすという可能性もあった

「僕のグラマトロジ」と、子安氏からいただいたご本を読んでいるナウ...

まさしく「古事記」的世界は漢字・漢文エクリチュールからなるテクストの世界として、いいかえれば漢字・書記言語的世界としてはじめてわれわれの前に姿を見せるのである。だが漢字をただ日本語の表記文字としてだけ見ようとするものは、「古事記」がこのように漢字・書記言語的世界としてはじめて成立することを決して見ようとはしない。漢字を日本語の表記的文字としてだけ抽象化することは、自国の言語とともにその文化に不可避にかかわる他者、まさしく不可避の他者としての漢字を、いわば己に異質な他者として自己の圏外に排出的に措定していくことである。自己の存立に不可避な他者を異質な他者として己の外側に排出していくことは、同時に己の内側に幻想の固有性をつくりだしていくことでもある。それはすでに触れていたように宣長の「古事記伝」における「古事記」訓読の作業を成立させている二つの重大な作業仮説的な前提であった。宣長において漢字の表記記号(仮り字、借り字)としての抽象化、その異質性としての己の外部への排出は、固有日本語(口頭言語・やまとことば)の原初からの存立の主張と、漢字テクストからのその訓み出し可能性の主張とまったく相関的であったのである。(子安宣邦「漢字論」より)


<子安宣邦のGRAMMATOLOGIE>

では「アメ」とは何か。宣長はいうのである。「かくて阿米(アメ)てふ名義(なのこころ)は、未だに思ひ得ず。」。これは落とし穴的なしゃれをいってるのか。かつて私はこの宣長の言葉に恣意的な名義推定への注釈学者の禁欲的な姿勢を読んでいた。2、だがそれは宣長の注釈学への思い入れ的な読み過ぎであったであろう。むしろこの宣長の言葉は、表意文字・漢字という意味体系における「天」字からその意味体系的背景を漂白し、ただ表記記号化したことから生じる意味の空白を、ただ正直に言っているにすぎない。3、「漢意」批判という国学の思想方法、すなわち己の内から理念的意味体系を異質的他者として排除しながら固有の自己を求めていく思想方法は、常に己における意味の空白を露呈していく。この意味の空白の上に、あるいは意味の空白を反転させながらいかに自己を主張していくかは、国学イデオロギーの核心をなす問題である。「阿米(アメ)てふ名義(なのこころ)は、未だに思ひ得ず」という言葉は、「天」字からの漢字的意味の排除によって生じる意味の空白を告げるものである。ところで表意文字・漢字からのそれ固有の意味の排除とは、漢字をただ表記記号として見ようとすることであり、それは漢字を仮り字(仮名)とする用法は【古事記】の歌謡の表記に用いられている漢字の表音文字化、いわゆる万葉仮名の用法である。漢字を仮り字とするのはそれだけではない。「天」「地」「神」「国」漢字をただ表記記号として見ようとすることであり、それは漢字を仮り字(仮名)とする用法は【古事記】の歌謡の表記に用いられている漢字の表音文字化、いわゆる万葉仮名の用法である。漢字を仮り字とするのはそれだけではない。「天」「地」「神」「国」などの漢字がそれぞれ「アメ」「ツチ」「カミ」「クニ」などのやまとことば(いわゆる訓)に適合性をもった漢字(表訓漢字・訓漢字)とみなされ、そしてそれらの漢字が「アメ」「ツチ」「カミ」「クニ」などの訓に従属する表記文字とみなされるかぎり、それらの漢字も基本的に仮り字であろう。宣長の【古事記】テクストを構成する漢字に対する見方は基本的にこの漢字=仮り字観である。文字とは「後に当てたる借りの物」なのである。「まして其の文字は、後に当てたる借りの物にしあれば、深くさだして何にかはせむ。唯いく度も古語明らめて、古へのてぶりをよく知るこそ、学問の要とは有るべかりけれ。」(「訓法の事」)。以上「漢字論ー不可避の他者」より


子安氏「漢字論」(漢字と自言語認識について)(8)時枝の国語学が、日本語文の、いいかえれば漢字漢語とを自らの重要な構成契機としてもった日本語文の言語学的反省に立った自己認識の学として成立したといえるだろう。異言語文字・漢字の自言語における介入的な構造現存という言語的事実の直視から始まる国語学、その出発から異端性を背負っていた時枝の国語学は、しかし1930−40年代に成立する西田・田辺らの哲学、和辻の倫理学、そして柳田の民族学などとともに日本の自己認識の学として成立したといえるのではないか。この時期、普遍性を主張する近代ヨーロッパ諸学に対して批判的な学的志向は、究極的な自己認識を通じて自らを学的に表現していこうとする。近代の超克的志向はこの時期の諸学が多かれ少なかれもった共通の志向であった。この近代の超克的志向をもった諸学において強い他者性をもって意識されたのは近代ヨーロッパに成立する諸学である。それは主観性の哲学であり、個人主義的倫理学であり、旅人の外部的観察からなる民族誌であり、印欧親族言語の比較言語学であり、構成主義的な言語学などなどである。近代日本の学術そのものを形成してきたそれら諸学は、この時期、日本あるいは東洋の自己認識を通じて批判的に超えられようとするのである。時枝国語学においても強い他者性をもって意識されていたのはヨーロッパの近代言語学である。時枝がソシュール言語学を批判的な他者として再構成しながら、いかに自己の言語学的立場を導いていったかについては私はすでにのべた。ここでも「国語の事実」への直視に立ち国語学への志向が、批判的他者として対峙するのはヨーロッパ比較言語学である。ヨーロッパ言語学を批判的他者として成立する国語学は、もはや他言語・漢字漢文に対する自言語・国語の意識に立つ国語学ではない。すでにそれは漢字漢語を不可避の表現媒体として内在化させた言語文化の日本語的性格を記述する国語学である。この国語学の対象としての日本語という言語には、しかし他者的契機はすでにない。自言語・日本語の成立のあり方そのものへの他言語・中国語の無視し得ない影響という事実から始まった時枝国語学は、他者的契機を失った自言語・日本語の過程的構造をめぐる形式的特質を記述する時枝文法学として成立するのである。



子安氏

・台湾と中国との距離を共有しながら、東アジアを開かれた多元的世界として構成していこうとして台湾と関わってきた私の立場はかなり難しくなった。それが今回の台湾での講演・討論活動の結論的実感であるようだ。中国はすごい!気がついた時には、ここはやはり中国であったということになりそうだ。

・中華民族主義的な〈帝国〉的国家としてのあり方を強めているという中国の現状認識に立って東アジア世界をどう考えるかという私の問題提起に対して、成功大学の会は激しい質問や議論の渦の中で終えた。大陸のジワリとした経済的、文化的浸透の中にある台湾としてこれは当然の反応だろう。


<デリダのグラマトロジー>

言語(ラング)一般の内的体系一般に関わる一般言語学の企てが、自身の分野の諸限界を素描するに際し、文字言語(エクリチュール)の特殊な体系をーそれがごく重要で事実上は普遍的であるにもかかわらずー外面性一般として排除するのはなぜであろうか。原理的に、あるいは少なくとも意図的に、話し言葉(ラングパルレ)の体系の外部であると明言された特殊な体系の排除。これは原則の明言、敬虔な祈願であり、音声言語(パロール)の歴史的暴力である。この音声言語(パロール)は自己の充溢的現前を夢想し、自己自身の引き受け直しとして体験される。そして自称言語(ランガージュ)、いわゆる生きた音声言語(パロール)の自己算出である。これはソクラテスによれば自己自身に立ち会うことができ、自身において自己自身の父だと信じている言葉(ロゴス)であり、かくして書かれたことば(ディスクール)の上位に舞い上がる。書かれたことば(ディスクール)は、尋ねられても答えることのできぬ未熟で、不具なものであり、「常にその父の立会いを必要としている」(「パイドロス」)がゆえに、一つの断絶、最初の国外追放ーこれは書かれたことば(ディスクール)を彷徨、盲目化、葬列へと誘ってゆくーから誕生せざるを得ない。自称言語(ランガージュ)ー実は欺されて自分が全く生々していると思い込んでいる音声言語(パロール)なのだがーは、他者を、まずは自己の他者を追放し、それを文字(エクリチュール)という名の下に外部に追いやりやり貶めることによってはじめて「自己を守ることができる」。しかしながら、表音文字というこの特殊なモデルは、いかに重要であり、また事実上は普遍テk時である、あるいはそうなることを要求されているとしても、現実には存在しない。徹底的でア・プリオリに必然的な不忠実について語る以前に、数学的記号表記や句読法、空間化一般の中に、文字言語の単なる装飾とは考えられないような多くの現象を読み取ることができる。いわゆる生きた音声言語がそれ自身の表記(エクリチュール)において空間化に適合し得るということ、このことこそ、音声言語をまさしくそれ自身の死と根源的に関連させるものである。足立和浩訳、現代思潮社



国が組織化した慰安婦は軍隊に<必要>だった、国体維持に<必要>であったという軍国主義の開き直りが広がっていくのか?与党に入っている政党が橋下の発言に問責決議すら出そうとしないのは、橋下と彼の暴力を<必要>としているということか?エスカレートする極右翼的行動にいつNo!と言うのか?

東海村の科学者達は、放射性物質が漏れてると気がついた後、不注意にも外に換気してしまったという。この連中は、基本的に外部なくしては放射性物質と共存できぬ人間の限界を自ら示してくれたのだ。核のゴミをどう捨てるかについて合意も無いままに再稼動することの問題がここに縮約されているのだろう



<三分間のふくろうねこ憲法話>

多数者は、少数者の権利がいかに侵害されていても関心を持たないものだ。例えば、平等を侵害する悪法にかんしては、多数決が支配する選挙によっては正されることが非常に稀であろう。女性の名前におけるアイデンティティーについては、選挙の主要な争点にならない。しかしこれでは、悪法は永久に続くことになってしまうではないか!だからこそ憲法は、平等に関する事柄に関して少数者の権利を侵害する疑いのある法律は、他の事案(例えば、経済的自由を規制する立法)の審査よりも厳しく審査しなさいと裁判官に委ねている。理由無く、裁判官に独立が保証されている訳ではないよ。はっきり言ってしまうと、平等権や精神的自由に関する権利に抵触するいかなる法律も、初めに違憲判断ありきだ。しかし今回の夫婦別姓判決は、「憲法で保障された権利と言えず」ときめつけてしまった。つまり裁判所はあまりに無責任に、惰性的にたんに多数決の常識を喋ってしまったのである。


文学史上最大の失敗作の一つ『フィネガンズ・ウェイク』 (Finnegans Wake, one of the greatest failures in literature) ─『ナボコフの文学講義』 Nabokov_


ソクラテスはプラトンに知らぬ者が偉いと言った。イエスは弟子達に、知ろうが知るまいがとにかく贖わなければならぬと言った。 釈迦は弟子達に、その前になにもかも捨てよと言った。 孔子は、俺はそんなことを一言も言っていないのだから後から勝手なことを書くな、と弟子に言うのをわすれた...


Let's turn to Kosovo. Here we are fortunate to have an explanation of why the US bombed Serbia from the highest level of the Clinton administration: the concern was not the fate of the Kosovars, but rather that Serbia was not carrying out the required "political and social reforms" - the neoliberal programs that the Clinton administration sought to impose. Noam Chomsky

三分間のふくろうねこ憲法話

憲法のそれぞれの形は歴史から説明できる。フランス憲法とアメリカ憲法は共通の理念をいだく兄弟とて、両者の間に無視できない差異もある。例えば、英国重商主義行政への不信感があった米国の場合、違憲審査権は行政権から独立した司法権に委ねてきた。ご存知か?フランス憲法の、立法権に対して存在した不信感とは別。さて、日本の話。憲法は国家を縛るという見方は間違いだろうか?逆に、安全神話を推進した立法権・行政権・司法権に裏切られながらも、なおこの国家を憲法が縛ってくれと思わぬ国民道徳とは、いったい何だろうかと問いたい。それは、ただ国にわが身を委ねる「妾婦の道」(荻生徂徠)というものではないだろうか?


消滅した農奴の労働力を補う為に国家が奴隷取引を支援した。この恥ずべき歴史をイギリス人は否定しはしない。「確かに英国が最初だ。しかし奴隷制を最初にやめたのも英国だったことをわれわれは誇りに思っている」。友達のナイジェリア人は舌打ちした。「嘘つきめ!国は止めたけれど、依然と英国の民間会社がアフリカで奴隷狩を続けていたー第一次世界大戦までな」。ちなみに、ジョイスの小説のEveline挿話は、英国植民地時代、ダブリンからアルゼンチンへ売り飛ばされていった白人奴隷のことが仄めかされているという最近の研究もある。結局第二次世界大戦まで奴隷を「必要」としていた国家が一番最後だろうが、ナイジェリア人は橋下のニュースをきいて、日本についてあらたに何を思うだろうか?何十億の人々の失望を共有しているに違いない

そういう欲望は、他者の、たんに偶然かもしれない仕種と身振りに、過剰な意味を読み取ろうとする、恋する思春期の欲望と似ていなくもないのですけれど。ただの手紙をラブレターに変えるのはあなた次第。さて、いきなり一頁めから、「商品が喋る言葉だって?馬鹿な?喋る筈がないだろう」と読者を当惑させるマルクス一流の話術。資本論という魔女の鍋の中を覗いてご覧なさい。基本的に読めない原初的テクストと注釈学者達だけではありません。底にあなたがいます。あなたの解釈する欲望がスープのだしとなるからです。アナーキズム?エコロジー?命懸けの飛躍?あなたが読みたい欲望は何ですか


「商品が喋る言葉?そんな馬鹿な?」と読者を当惑させるマルクス一流の説得術。「資本論」という魔女の鍋の中を覗いてご覧よ。基本的に読めない原初的テクストと注釈学者達だけではない。鍋の底にあなたがいる。あなたの解釈する欲望がスープのだしとなる。アナーキズム?エコロジー?命懸けの飛躍?

「文化人類学は、精神分析と同様に、人文諸科学のなかにあらわれうるようなかたちでの人間それ自身にではなく、人間についての知一般を可能にする分野に向かって問いかける」(フーコ)。「人間についての知一般」とは、生命、労働と必要、言語のことをいう。ところで、ゴダール映画を語るなら、こういう文化人類学者にならないとねえ。ゴダールほど、「人間のなかにある特異なもの、人間のなかにあるかけがえのないもの、人間が経験与えられるどこででも一様に有効なものの輪郭」を描こうとしない監督は他にいない。一見、恋愛映画にみえても次の三点しか語られていない。映画はいかに誕生と死を迎えるか?映画は何を受け取り何を生産するか?映画は一体何の言葉を喋るか?ゴダールの場合、便宜上俳優を使っているが、人間なしで済ますことができるばかりか、人間を経ていくこともありえない。結局ゴダールは<神>God−Artだったから、現在どの被造物(映画)も、人間についての知一般を可能にする条件を問うことを免れることはできなくなったことだけは言っておくよ



渡辺一民氏の翻訳はいわゆる頭から訳している。「言葉と物」の一文一文読むと氏の喋り方が自ずと脳裏を過ぎる。と、うっかり、反デリダ的な戯言を洩らしてしまって猛反省だが、Spivakの「グラマトロジ」の英訳も本当に素晴らしい。こいつを読んでおいてロンドンに行ったら全然違っていただろうな

西欧は、マルチカルチュアリズムの到来にあって、普遍主義の規律を他者に強いることを躊躇った。「グラマトロジー」は、反植民地主義を言えば足りたルソー主義とマルクス主義を非難。同様に、サルトルだけでなくレヴィ=ストロースも、「本来性」に定位する、音声中心主義的起源の普遍主義と告発された


女性原理について考える

メディア研究のルーク・ギボン、ポストコロニアリズムの論客からきいた話だが、「社会に対する個人の葛藤」というリアリズムーしたがって近代小説の抽象的な「他者」像ーは、(植民地体制によって)アイルランドみたいに社会が存在しなかった国家では成立しなかった、という。ところで語る力を称賛し外敵から身体(=共同体)を守るという抵抗のあり方が、アイルランドでは女性原理として在る。問題も起きるが、現実に「必要」とされている。英国やフランスまたは日本のように「社会」が存在する場合、この女性原理が超越的に働いてしまうことは要注意であろう。少数民族排除の現実を隠蔽して、共同体の存在が対象的に読み出されるということが起きてきた。つまり国家の側からする人類学的解釈のことだ。例えば軍によって水と食料が断たれたのに、純潔を尊ぶ「掟」を守った住民は自決したと勝手に語られてしまう。語り手である国家の姿はそこにみえないー大江文学が依拠するようには...



コンビニのパンの棚でパッケージを取り替える差異化の競争と同じに、橋下は安部との差異を生み出そうとしている。より悪質な差別によって自らを差異化していく彼の戦略は、憲法的倫理観を嘲笑う安部と寧ろ同じ構造の内部からくるものだ。実際に安部の内閣支持率が僅かに上昇したという世論調査の結果も

橋下の発言は「俺をみろ」という自己主張の戦略で、やはり安部との関係で出てくる。彼も自分にそんな権利があると思っている。しかしかれの戦略に憲法が正当性を与えるとは到底思えないー>権力とは戦略的なゲームのことです。権力が悪ではないということは、誰もが解っているはずのことである。フーコ

ユダヤ哲学の父はアラビア語で書きました。ロンドンのカフェでそういうことを言うと、イスラエルのひとたちもそこまでは知らず、「まさか信じられない・・・」という顔になり、しかしいつも最後には言い争いに突入という展開でした。

彼「何語で書いたかは、問題じゃないだろう!」
私「いいえ、大問題ですよ!」
彼「心のなかで語っていたヘブライ語を、便宜上、アラビア語で書いただけだ」
私「アラビア語で書いたあとに、はじめて、心のなかでヘブライ語を喋ることができた、とは考えられませんか?」
彼「絶対に不可能だ。アラビア語は肉体でしかなく、ヘブライ語こそは心にふさわしい言葉だからだ。肉体に属する言葉を心は語れないのだ!そうだろう!?」
私「いいえ、違いますね。心は、身体を構成する小さな部分でしかありません。だから心はアラビア語を語ることができます!!」


「祖国愛」は教わらなくとも「自然」に持つものなのだろうか?徳川日本は「祖国愛」を「自然」と思わず寧ろ異常視した。明治維新のリーダーの多くは文化・教育成熟のピークに達する「天保の改革」前後生まれ。彼らの一部は最初は「祖国愛」について読み、後に外国に対する対抗からそれを持っただけだよ

七月革命が起きた1830年に、「天保の改革」に、明治維新のリーダー達が生まれた歴史も、現在の超保守主義者が崇める、遅れてきた帝国主義者の野蛮も知らない。人民主権・国民主権を語源的に説明しても、江戸期の政治理論との関係を語れない。われわれはどうやって超保守主義者達と闘うつもりなのか


はい、うまく言えなかった点を仰っていただきました。江戸思想について知るというのは、現在右翼に惹かれる若い人達に対する解毒剤として大事なだけでなく、そのことを越えて、自分の物の見方を豊かにしてくれるのですね。素直に、彼らと一緒に学んで生きたいと思うのです@HayashiS1972

はやしさん「保守主義者は、その本性として過去の一時期を恣意的に固定して、それを古来からの伝統として捏造します(それは我々の日常感覚と合致するゆえに説得力を持ちます)が、それに対抗するには歴史を学ぶ必要がありますね」

「南北戦争で使われた武器が戊辰戦争でも使われた」。興味深いです。ダブリンの百貨店にアメリカで5年前ぐらいに流行した服が大西洋を渡って入ってきたのを思い出しました(笑)。パリ・コミューンも同時代ですが、これを言うとアジアの研究者達から反発を受けました・汗



ユダヤ哲学の父はアラビア語で書きました。ロンドンのカフェでそういうことを言うと、イスラエルのひとたちもそこまでは知らず、「信じられない・・・」という顔になり、しかしいつも最後には言い争いに突入という展開でした。「何語で書いたかは問題じゃないだろう!」。「いいえ、大問題ですよ!」

先週朝日新聞社説は「これが政治家の発言か」と書いた。虚しいお説教である。世論に叩かれようが、橋下は「我攻撃成せり」なのである。被害者の人格の根本を破壊し尽くす事実上の暴行ではないだろうか。弁護士協会は資格剥奪せず、大阪市議会もリコール発議を行わないのなら、彼らは暴力を容認している

価値相対主義とは自称か他称か存ぜぬが、橋下は基本的に価値絶対主義、反合理主義的国家主義者とみるのが本当ではないだろうか。憲法と議会制民主主義と内外のジャーナリズムに抹殺されるのではないかと思い込んで恐怖する国家主義者が無自覚に、自ら価値相対主義者に装って己を防御することが起きる。

デリダとフェミニズム。近代合理の直線的モデルを超える運動を生み出す原=エクリチュールとは、(内容ー形式)に関する記号=機能の運動の構成だ。<唯一の男>に女達が財産・生命・魂の全てを捧ぐと都合よく語る反動的幻想領域(内容ー実体)の退行が生じるのは、原=エクリチュールの失敗なのだろう


慰安娼婦の問題は、奴隷的拘束があったかどうか事実について保守主義者は争ってきた。この無責任な連中も人格の奴隷化を許さぬとする僅かな良心はある。しかし新しい保守主義者は、奴隷売買という事実そのものに良心が痛むことがない。だから証拠そのものが彼らの前では意味をなさないのだ。怖ろしいことだ

十代二十代は猫みたいに無力無敵、脆弱さfragilityと強度intensityとが詩が煌くように奇跡的に共存していたー宇宙の縁みたいな身体に。五十歳過ぎると犬みたいに敵を見張る為に力に頼るようになってくるから散文的で不自由となる。他国をもっと信頼することができないのか。憲法の話

丸山真男の「天の人格性」という視点は、仁斎のいわばスーパースター、孔子像から、徂徠の聖人像を経て宣長の神々に至る直線を引きます。ただし、丸山のカント的仁斎は、柄谷のキルケゴール的仁斎と同様、野心で時々曇るのです。仁斎の「古義学」は、漢字文化圏のアジアを越えて、世界史な思想史的事件性といえるものです。しかshし柄谷のキルケゴール的仁斎像からはその衝撃が伝わってきません。仁斎の<民>の立場からの学びは必然として、天における理念性としての絶対的平等を意識したのです。女師匠も多くいた寺小屋のおかげで、百%近い就学率と高い識字率に達した江戸の「知」は、天の一つの形ではなかったでしょうか。私達は現在から過去を評価しがちです。その結果、過去に、いわば欠けた現在の姿しか思い浮かべようとはしないのです。文明などは明治から始まったわけではないのです。



丸山真男の「天の人格性」という視点は、仁斎のスーパースター、孔子像から、徂徠の聖人像を経て宣長の神々に至る直線を引く。丸山のカント的仁斎は、柄谷のキルケゴール的仁斎と同様、野心で時々曇る。何よりも学びを復権させた仁斎は、理念性としての絶対的平等である天を意識した。ここを離れるな!

日本では朝廷・寺院に属する支配的知識層が「論語」の読者であった。近世社会の成立はこの学問的制約を壊した。京都の町人学者である仁斎によって<民>の立場から「論語」がはじめて体系的に読まれた。学問の共有とは、江戸だけで四千もあった寺子屋で女性師匠が活躍する大きな条件だったことは確かだ。ウィキぺディアの「寺小屋」には、当時子供達を教えた女性教師の絵が示されているから、是非ご覧いただきたい。近世日本の成立以降、教育に占める女性の役割は大きかった。寺子屋は初期の段階では、僧侶や、武士の浪人や、神官が生計のたすけとして経営した。江戸後期になると、寺子屋の手習師匠の3人に1人が女性だったという

「貧」がある以上「富」がある。この貧富の格差が人を限りなく惨めにさせる。インチキな偽文化論ー><日本の文化というのは「貧」の文化なんだ。貧乏だからいろんな知恵だとか、一種の道徳律みたいなのが出てきた。「貧」がなければ品がなくなるのは当然でね。日本を取り戻す特効薬は「貧」しかない>

述而不作、信而好古
A transmitter and not a maker, trusting in and loving antiquity
「述べて作らず、信じて古えを好む」

昨日、恵比寿の本屋さんの棚で、「論語」の英訳本をみた。そこに何も書かれていないのではないかと疑わせる本だ。最悪なことに、現代日本語訳だとその疑いすら掻き消されてしまうということに気がつくのに1分もかからなかった。





月曜日に観た台湾映画は、1930年の霧社事件とセデック族鎮圧を描いた作品。最後まで、映画の商業主義的・メロドラマ的つくり方に大きな不満をもったけれど、しかし、映像を通して、幾ばくか、歴史的背景について思いめぐらすこともできた。台湾と日本の関係のことを考えると、外部から、日本の歴史を告発した映画といえるのかもしれない。とくに興味深かったのは、セデック族原住民と、同化した人々(国家に対等に扱われぬ師範学校出身の警官達)の、死の恐れ方の「差」を描写していたことだ。前者は、死はそのまま別離の悲しさである。それに対して、後者は、魂が靖国神社へ行っても生存中の差別が死後続くという恐怖に囚われつづける。国家こそが「日本人」の死の恐怖をつくる原因ではないかと考えさせられた

1930年の霧社事件とセデック族鎮圧を描いた台湾映画。原住民と、同化した人々(国家に対等に扱われぬ師範学校出身の警官達)の、死の恐れ方の差が描かれていた。前者は別離の悲しさ。後者は、魂が靖国神社へ行っても生存中の差別が死後続くという恐怖。国家こそが「日本人」の死の恐怖をつくる原因

To have or not to have, that is our question.いくら橋下が戦前軍国主義のように隠蔽を企てても、声なき声は繰り返しわれわれに向かって倫理的責任を持つことを呼びかけてきます。ただ慰安娼婦問題についての問いが孤立してあるのではありません。これは倫理的責任を持つことの実践と一緒に与えられるのです。だから、兵隊のストレス解消の為に日本軍は「どこの国も」やっていた慰安娼婦を「必要」としたと恥ずかしげもなく語る橋下流「価値相対主義」のように、慰安娼婦問題をただ中立的に認識するだけでは、絶対的に足りないと我々は感じざるを得ないのです


To have or not to have, that is our question.橋下が戦前軍国主義のように隠蔽を企てても、声なき声は繰り返し倫理的責任を持つことを呼びかける。慰安娼婦問題についての問いが孤立してあるのではなく、倫理的責任を持つことの実践と一緒に与えられる


犬の眼からは猫は一匹もいませんが、この写真をみた小説家ならば、実は、猫が一匹しか存在しないことが理解できるでしょう(犬はいない)。多分絵描きならばそのまま二匹の猫が見えるはずですが、やはり詩人に関していえば彼は三匹の猫を数えることになるでしょう。もしあなたは一匹の猫と6匹の犬が見えないようでは役者とはいえません!?

ヒント;役者たちもまた作者や演出家や装置家や振付師や照明や衣装担当者から十重二十重に束縛されています。彼らは果してそれらの束縛と協調して、自分の個性を、持ち味をゆらゆらとゆらがせることができるでしょうか。井上ひさし




Your epitaph is written. You are down and out and don't you forget it, old bean.Joyce, Ulysses




Self-portrait 「自画像」 by takashi honda
脳髄は、ナイフの波しぶきと宇宙卵の小船を描くつもりでしたが、眼と手にまかせていたら、自ずと蛙に似た変な形があらわれてきました。と、近所の「甘泉園公園」の滝と池で蛙の異様な姿をみたときの衝撃が蘇ったのです。(住んでいた)公務員宿舎の誰かがニ年に一度ぐらいはここで首吊り自殺したのは、やはり「美しい公園」だからと述べた亡き父の言葉も。国家の中心にいた官僚達だったから、そんな朝はマスコミの車が沢山来ました。戦争中に微妙な立場にいたエリートが多かったし色々とあったはず?18世紀半ばに遡るこの日本庭園式公園も開発で取り壊されたときいていましたが、なんと今月偶然に、そのまま現存していたことを発見。驚きと感慨を以って一歩一歩下り坂を行くと、木の枝に引っ掛けた長いロープもそのまま残っていました...と、惑星ソラリスの如き記憶の囚われの場です。高校性のときは毎日深夜徘徊しましたか。定義できぬ余白を未完成のままに終えるほどの怠慢さが欠けると、結局細部を描き込んでしまいます。文学者も勇気がないから、作家研究と称したバイオグラフィーをやるのでしょうか。細部で支配しようとするのです。怠けろ、自分!と励ますために、タイトルをなぜか、「自画像」にしました


「天」と「地」にわけたあと、「公」と「私」にわけ、最後に「公」と「私」を混ぜて「天」にかえすものって、なーんだ?(丸山真男のシナリオ。仁斎ー>徂徠ー>宣長)

アイルランドは、外部の敵からfragileな共同体を守る国家という自己定義の周りで旋回してきました。想像上の共同体は女性の身体によって表象されてきた訳です。デリダに対抗した形で、ジョイスに<近代を相対化する>女性原理を読むポストコロニアリズムの論客もいます。声の力、ジョイスですね。
大江健三郎は北アイルランドを訪ねる計画がありました。女性的なもの、女性原理を、自らの創造力の源泉とする野心を持っていた作家です。ところで徳川日本では朱子学の内部解体から宣長の言説風景が必然として現れてくるのですが、丸山真男はこれを問題のある「女性的なもの」として眺めたと記憶しています。
「個人的体験」は女性原理と国家との両立不可能性の証明です。 確かに国家の内部に定位したモラルは不可能性に直面します。戦争のときがそうです。国家の内部で自らを外部の原因に定位する超越化も、マグダリンシスターの如き全体主義の原因です。大江が依る女性原理が人間性と両立しなかった歴史です


多国籍軍がそれほど多国籍だったかはさておいて、その多国籍軍によるアフガニスタン爆撃後、テレビで自衛隊も遅れるなとばかり日本の政治家たちが盛り上がっていたとき、ダブリンではこんなビラが配られていた。「事実上米軍が破壊したタリバン政府が、識字率を五割にした成果を無視していいのか?」。正直言って、正確な数字のことはわからない。しかし、自衛隊の武力をアラブ世界に派遣したい、「普通の国」を唱える政治家たちは、九割だった文盲率の対策を一秒でも考えたことがあったのか?非常に疑わしい。ところでこのビラを配った人々は、独立後に国の教育を握ることになったカトリックの影響力も評価しないし、マグダリンシスターという恐るべき更生施設も評価しないだろう。同様に、かれらは、タリバン政権の復古主義のなかで、女性に対する古代刑法の適用をきめた政教一致を認めないだろう。ただ非常に率直に、25%の文盲率を抱えたアイルランドから、アフガニスタンと共有する困難な現実がみえたのだ、ということだけは書いておくよ


アフガニスタン爆撃後、自衛隊も遅れるなと日本の政治家が盛り上がっていたとき、ダブリンではこんなビラが配られていた。「米軍が破壊したタリバン政府が識字率を五割にした成果を無視していいのか」。正確な数字は分らぬけれど、「普通の国」は九割だった文盲率の対策を一秒でも考えたことがあるの?

1、TPPをめぐって資本と国家との間に、総資本vs.総労働の如き対立関係が本当に存在するのか?全否定しないが、私は疑う。新橋へ行け。抗議から東電本社を必死で守る大勢の警官達をみよ。嘗て公害企業に向けた抗議が起きたとき、このような形で露骨に、資本が国家を利用している現実があったか?
2、新橋から霞ヶ関へ行け。そして抗議から、信じがたい陰険な方法で、経産省を守る金の力をみよ。脱原発テントを立ち退きさせる為に国が損害賠償を請求するのは、国家が資本を利用しているということだ。資本と国家は協力して、我々の公共の言論的空間の場を奪っている。現実に目を伏してはならない!

恒例の国家プロレス実況放送です。最初にチャンピオンの「good guy, bad guy」が入場してきました。 堂々とさすがに貫禄を感じさせます。拍手がわきおこります。 さあこのあとに、チャンピオンの用心棒となるためにロマンチック九条街道を去った新人の「普通の国」仮面が登場のはずが...まだ姿がみえませんね、まだ楽屋にいるのでしょうか? え!たったいま入ってきた情報によりますと、「普通の国」仮面が対戦相手を背後からボコボコに襲っているそうですが。必殺「普通のみんな」を装って相手を油断させ、<攻撃される前に、又はされなくとも、相手を攻撃してしまう>防御テクニックか?あー、今度は、チャンピオン「good guy, bad guy」がアラブ系付き人に焼き入れですよ!誘拐、毒殺、リンチを伝授してやったた元工作員達の裏切りを許せないようです。人権の名を語った、必殺技「集団安全保障」の炸裂だああああああ!レフリーと対戦相手のいない会場を爆撃し始めました!もう止めれません!もう引き返せません!子供達の死体の山。何の為にリングの外で、人々は血だらけとならなければならないのでしょうか!?


憲法改正の場合、「3分の2以上で国会が発議し、国民投票にかける」というのが世界標準。今回3分の2以上を「過半数」に引き下げてしまうことは何を意味するか?憲法を法律にすること、つまり、憲法を憲法でなくすることである。憲法改正手続きを国民投票をかける国など、世界にどこにもないのである。
はっきりさせておこう。これはマスコミが報じるような、改憲・護憲の次元の話などではない。憲法そのものを廃止することをねらった「テロ」にほかならない。私は「テロ」という曖昧な言葉に疑問を持ってきたので使わぬようにしてきたが、今回は問題の所在を理解してもらいたいためにあえてつかおう。


戦後の平和憲法は、旧憲法下の軍国主義を避けるためには、
最低限度これだけは止めてくれという抵抗を控えめに明文化しました。
人権の一覧表は歴史的な証言を集めたものです。
例えば、戦前には現実に拷問が起きたのだから、
現行憲法は「拷問だけは止めてくれ」と要求しています。
さて、憲法改正発議の為の国会決議、3分の2という要件も軍国主義を防ぐ
最低限度のものと理解できます。
安部は、憲法改正手続の改正を試みています。いまよく冷静に、
事柄の全体を観察することが大事です。安部は、
憲法改正手続きの改正を遥かに越えて、憲法そのものの廃止を
求めているのではないか、と用心深く疑ってみることは
無駄なことではありません

「小林も、山口も、文学的な読解によって、人類学的読解によって二十世紀の【古事記】を作りだしているのではないか」、「私の思想史の方法論的な模索はその時、この疑いから始まった」(子安氏)。小林の宣長論と山口の構造主義は現在のパラノイア的知の土台。いま、誰がスキゾの知を引き受けるのか?

「原発事故の経験と教訓を世界と共有し、原子力の安全向上に貢献していくことは、日本の責務だ」(安部)。が、事故原因すら明らかにされないまま何の「教訓」か?原発と民主主義(情報公開等)は両立しないという教訓か?それでトルコとサウジならば原発を買って貰えると思ったのか?なんという狡知さ、貪欲さ


安倍首相:原発輸出でトルコと合意 日本企業に優先交渉権− 毎日jp(毎日新聞)
特集:福島第1原発・汚染水漏れ 仮設対応、もう限界 東電廃炉へ最大の壁− 毎日jp(毎日新聞)


ブレーズ・パスカル ‏
人間とは一体なんという怪物だろう!なんという新奇なもの、なんという妖怪、なんという混沌、なんという矛盾の主体、なんという驚異であろう!あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず、真理の保管者であり、不確実と誤謬の掃きだめ。宇宙の栄光であり、屑。§434


<principe de différence>(Rawls) ;grâce auquel les décisions et les institutions sociales devraient davantage profiter aux members les moins privilégiés de la société

Rawls insists on a "difference principle" whereby social decision and institutions should benifit most the last advantage members of society

大杉栄
けれども人類社会を見ると、やはりこの相互扶助によってその繁栄と進化とをもたらし、且つそれを以てその生活基調としているんではあるが、我々がしばしば「生存競争の最も激烈なる今日」という言葉を口にもしまた耳にするが如く、殆ど至るところに同類相食むの観を呈している。(13/14)


Ulysses
Bad French I got for my pains. Of course it was frosty and the last tram.

Ulysses
All tales of circus life are highly demoralising.

千のプラトー:資本主義と分裂症 ‏@plateaux_bot 7時間
seq2 ついには無媒介に、直接的に一つの世界を産み出すこと、そこでは世界そのものが生成変化を起こし、私たちは<みんな>になる。――(中)p251



「政」のつくりをみると、右側に「正」の字がある。左側にある「ボク(=うつ)」の字は木の枝の形。これでものを撃つことを表す。結局、「政」の字は、鞭で正すことをいっている。同じように、「教」も「ボク(=うつ)」の字を含む。教育とは鞭で教えることなのだ。軍人や官僚を教育す育ることをいう。
「徳」もあまり大真面目に突きつめるとヤバイ。「徳」は友情程度の意味で十分。さて「これを道びくに政を以ってし、これを済うるに刑を以ってすれば」は、鞭で人々を撃つ政治と教育のこと。子安氏によると、徳を強調している「為政以徳」の言葉は、そんな「政」、即ち政治的行為を不必要だと言っている。

被支配者である町人出身の儒学者のラディカリズム。仁斎が生きた徳川期日本に近代的な意味の「国家」は無かったので「国家の解体」という問題は存在しようもないが、治者に対する異議申し立てを越えて、拷問によって人間を隷属させる権威に対する抵抗と等価なものを考えてはいなかっただろうか興味深い

「論語」は人生の教訓を説いた教養的な読み物だろうか?例えば「政」の字に、拷問を行う専制権力を読めないか。天安門前広場にいた知識人達へ加えられている今日の拷問のこと、又安部内閣が進めようとする憲法改正(例えば、「拷問の禁止」の削除も求めている)のことを考える批判的視点を与えてくれる

鞭で正すあり方を意味する「政」に対して「徳」の優位が説かれた。同様に、鞭で正す「教」から独立した、「学」の独自性について論じることも大きな意義がある。但し、「教える」「学ぶ」の非対称性について非政治的に語ってしまう「探求」は、再びテクストをヒューマニズム的人生訓に押し戻してしまう

鞭で正すあり方を意味する「政」に対して「徳」の優位が説かれた。同様に鞭で正す「教」から独立した「学」の意義も倫理的に導かれるだろう。他方「教える」「学ぶ」の非対称性についてただ認識的に語ってしまう「探求」ならば、「政」を倫理的に批判できない。「世界史の構造」を「教」えるだけである

トルコの近代史はアイルランドのと重なる所があります。独立は建前としては農民による革命、実際の担い手は中産階級、後に皆銃殺されてしまうマルクス主義者の。英国から独立するのもいまだ解決しない程困難なのに、アラブ諸国は独立後、冷戦時代の米ソの介入という歴史が続きます

外交の場ではちょっとした言動と振る舞いが過大に評価されていくのは寧ろ当たり前のことで(と、アイルランド聖心の女学生達に教わりました)、例えば宮廷で挨拶を欠いて戦争になるという話は「ベルサイユの薔薇」にあります。アラーがダメだとも受け取られかねない侮辱でしょう

猪瀬は靖国的メンタリティー、公私混同の政治神学か。ところで「コマン」としてネグリが挙げるのは言葉のコミュニケーションですが、これが私的にか公的に奪われてしまうと崩壊しまいます。特に後者は、猪瀬が属していた談合的マスコミと世論調査の一部となった選挙の言語ですね

ネグリの「コマン」として、言葉への接近があります。これが私的にか公的に奪われてしまうと他者とのコミュニケーションが崩壊します。前者の例は、私生活を売り物にするスターの如く靖国参拝する政治神学です。また後者の例は、談合的マスコミの大本営発表や、テレビの娯楽番組となった世論調査=選挙


昔は軍艦が運んだ文化的侵略は、現在は国際報道。イギリス起源といえば、国会議事堂(英国式コロニアル建築)、一発勝負の選別試験制度(ビクトリア式軍事マッチョ主義)、それと同化主義的な消費社会、と、ありゃりゃー、全部、闇の鎖ですわ

はい、ナンパされた女の子たちもいまはお母さんになりました。フェイスブックの友達なので時々思い出すのですが、あのまま海岸へ行ったけど、どうなっちゃったのかなとか(笑)。イタリアのインテリですから、エーコの名前で、関心を引きつけるのですが、(明日からは「モーゼの書」かもしれませんが)、結局は、街のおにいちゃんのナンパのやり方と変わらなくなります。浮気をしようとしている自分の罪深さを素直に告白する「誠」と、もし一緒になったら市民権が手に入るという「約束」が決め手。一応神をテーマにするのがナンパの切り口ですが、概してフランス女はイタリア男が嫌いですね。フランス革命の成果でしょうか(笑)



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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年5月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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