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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年6月

<<   作成日時 : 2013/06/01 23:43   >>

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ふくろうねこの寸劇シリーズ。今夜のテーマは、政治神学。
舞台は都内のあるワインバーにて。

石原慎太郎「そう険しい顔をするな、維新がなくなったわけではあるまい。よし、僕の奢りだ、気力を養え。今夜の酒は何だ、マスター?」
猪瀬直樹「御霊でこしらえた特別グラスに注ぐ、都民の血です」
石原「おう、天罰だ、覚悟しろ(笑)。 しかし税金使って海外で贅沢三昧した僕を満足させられるかな?…あ、汚い!唾でグラスを磨くな!御霊は、僕達の心を映し出す神の器だぞ!!」
猪瀬「だから腹黒く光るように一生懸命に磨いてます」




まだ批評というものが存在すれば、この話も手遅れでも全く無駄ということにはならないだろう。「ドウルーズの哲学原理…」と自ら型にはまりたがる、デカルト、スピノザ、ライプニッツという哲学的有理数の系列に、ジョイス、ベケット…という無理数の系列を介入させたいわば不連続関数の積分こそが批評


Karl et Jenny - Lettres d'amour et de combatは、今年出た本.
パリのサンジェルマン・デプレで手に入れた。(ドイツ語からフランス語への)翻訳者は、デリダのエクリチュール論から、この手紙の持つ意義を解説している。全く同感だ。両者ともに、亡命者の生活苦と孤独を共有しているが、イエニーの手紙は性愛について、次第に母性の目覚めについて綴っていくのに対し、マルクスは一貫してmilitannt。ただし、注意深く読むと、イエニーのラブレターが、微妙に、マルクスに影響を与えていたという事実もある。「愛を確信できなくなった!」 と苛立つイエニーの言葉は、マルクスの、1850年代以降容易に解読不可能になっていくヨーロッパの政治状況に対する苛立ちの言葉の内部からきくことができる、と書いたらあなたは驚くだろうか?よう。マルクスは「大いに確信している」というとき、かえって、かれの確信の揺れを露呈してしまうのである...



丸山真男「日本政治思想史」(英訳) 読了。丸山はカントの顔をした朱子学者。二項対立的に、 非政治的な仁斎を不可知/可知に、政治的な徂徠を公/ 私に、非政治的に政治的な宣長を私/ 不可知に分類していく体系は、分類不可能な、絶えず自らの限界(例、国) を超える天地の間の運動を見過ごす

ポストコロニアリズムの証言、第三世界のワールドカップは、19世紀的代表概念の意味を粉砕してしまった。だから「ドウルーズは二十世紀を代表する哲学者」という書き出しに覚える絶望感は、ボヴァリー夫人の、「あなたはジャンヌダルクのような素晴らしい人」という称賛に覚えたあの絶望感より絶望的







1、なぜ安部は依然と高い支持率をもっているのか?朝日新聞の本社郵送世論調査では、安部内閣の経済政策で暮らし向きがよくなったと答えたのが僅か3%、 アベノミックスで今後の暮らし向きは、変わらない(66%)、悪くなる(13%)である。なのに、内閣を支持すると答えた人が71%なのである。
2、恐らくグローバル資本主義に国民が生き残る方法を安部だけが知っているという、国民の側に一方的に大きな幻想があるのではないか。そうならば、トータルに、安部に対抗していく為の、代替案の積極的な呈示が求められている。現実に,雇用に繋がる景気の為の緩和効果がなくなってしまったのに、
3、貧富の格差の拡大だけが進行している。この責任を追及した上で、政党なり今後のデモが体系的な代替案を出して国民に問うことが大事。とはいえ、この私自身も全体のヴィジオンを持っておらずー権威的軍事国家にしないこと、そのためには小さな国家でなければならないというヴィジオンがあるだけだ。
4、グローバル資本主義の時代が一体、歴史的にどういう時代なのかについてはっきりとした思考が欠如している。グローバル資本主義にどう生きか本当はこれは安部自身も含めて誰も分からない。痛いことに、ここを、頼り甲斐のありそうな、そう演じているだけの自民党にやられてしまっているのではないか


都議会選について

投票率三十数パーセントという言い方に既に嘘が含まれているとおもいます。不投票率のことも配慮すれば、投票率マイナス40パーセントと正確に報じるべきです。マイナスの投票率が起きるのは、われわれの責任ではありません。はっきりさせておきたいのですが、それは政治家たちの失敗です。われわれの責任はもっと別の事柄にあります。それは、言論の自由と民主主義そのものを破壊する極右翼を議会に決して送らないということでしょう。今回「維新の会」は大敗とマスコミは伝えますが、あんな政党が地方議会で一議席以上取っていること自体が、ヨーロッパの新聞ならば民主主義の死のシグナルとして警告を発するに値します。状況を利用して毒キノコのように繁殖しますからね、ファシストは。新聞は投票率が低かったことに関心を逸らそうとしているのは、極右翼、ファシストを助けています。

これは役に立つ!ふくろう猫の寸劇で学ぶ経済学

黒田総裁「もはやアベノミクスは限界です。賢人を連れて参りました」。
カバラ師「shem-adnut...」。
石破官房長官(蒼ざめる)「なんと言っとるんだ!?」
黒田「ふむふむ、成程。明日から円の代わりにハーケンクロイツの徴の通貨を使えば、嫌がる投機筋が手放し為替安になるはずだといってます」。
石破官房長官(ぶち切れ)「追い出せえええ!!!!!!!」
安部総理「待て!...うまくいくかもしれない」



メイド寸劇ーハムレット晋三と愉快な亡霊たち。

祖父の亡霊「わが孫よ、 日本を取り戻さなきゃならん」
晋三「何に取り戻せと訴えているんだ、毎晩この化け物は ? 」
マスゴミの亡霊「記録しますか?」
帝国憲ちゃんの亡霊「 自民党に取り戻すのだ」
晋三「演説の邪魔だ!タコ!失せろ!」
草莽たこ焼きの亡霊「株高に取り戻せ...」
トルコ行き原発の亡霊「日本を狂気に取り戻せ」
晋三「消えろ、消えろ、みっともない亡霊達!イタイタ、お腹が痛くなってきたじゃないか。もう持ち上げるのはやめておくれ...」
マスゴミの亡霊「記録しますか?」




悪人正機

貴族というのは自分の救いしか関心がない。が、己だけを救う者は己を救えるか?、という倫理上の大問題がある。答えは、救えないのではないか。少なくとも親鸞は、己だけを救う者は己を救えないと考えたかもしれない。さて、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(「歎異抄」)について、今日「論語塾」のあと、タイ料理の飯屋で、子安氏は、この「善人」を「貴族」とする説を披露した。つまり、葬式すらできないほどの貧しい人々(中世でマジョリティーをなした貧農たち)のなかには、生きている間は無力でも、往生によって、(この世で苦しむ)他人(仲間だね)をなんとか救おうとする者がいるー菩薩みたいに。そんな人々を、「悪人」と親鸞は呼んだのではなかったかと。つまり、己だけを救う者が往生するのなら(例えば、貴族たち)、他人を救いたいとする者(貧農たち)も往生しうるのではないかと。これが、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と語った親鸞の真意だったかもしれない


陳腐なリーダー待望みたいに、安部か、かれに代わるリーダーに変えてもらおうとしているのかしら、この国は?自民党を変えても上手く行かなかったのに、再び自民党に期待するの?変えてもらうんじゃなくて、変えなくちゃいけないのですが、と、この私も十分なヴィジオンを持っていないのが恥ずかしいです。偉そうに言える立場ではありません。が、TPP反対は二つの方向しかないのです。ネオリベグローバル資本主義に対する、グローバル・ソーシアリズム、つまり、国際主義の下に集まるという方向。もちろん、occupy運動が一例。どれくらいこれに望みを託せるか分りませんが、この方向が一つ。もう一つは、外部を遮断してしまった一国社会福祉と保護された労働市場を求めるナショナリズムの方向もあります。しかしやはりこれとて、国際主義と同様、望みがある方向であるかどうか定かではありません。イギリスを見ますと、左翼ラデカリズムはこの両方の無理?を要求しているように思えます。無理をわかっても、でも抵抗を止めるわけにはいきません。危険な原発輸出を止めさせることに関しては、ナショナリズムよりも、国際主義との関係、普遍主義との関係が大事となってくると考えています。どこの国にいても人間は人間、同じ人間なのだから危険なことも同じ、という考えて行動する必要があるからです



じーんせい楽ありゃ苦もあるさ〜〜

テレビシリーズ「水戸黄門」はメロドラマでありながら、東野英治郎、新劇の大御所が中心にいたという… テレビしかできない、何というか…. あのギャップというのは、カサヴェテスを支えた俳優の一人が、「刑事コロンボ」として現れたに匹敵するぐらいのギャップでした。ところで、「水戸黄門」は、悪代官と、金大福を進呈する特権商人に連れ去られる貧農の可哀想な娘さんの芝居が印象に残ります。高利貸し資本が食い込んだのは、武士階級と農民の両方で、色々なパターンを提示していた、時代考証のある、ドラマでした。が、全然描いていなかったものもあります。それはですね...すけさんかくさん、この二人がどのように武士として育ったのかということについての情報です。武士の教育がどういうものであったのか、現在も大きな謎なのだそうです。江戸のあの時代は文化と教育のピークにあたります。例えば、藩に一つか二つの学校がありました。全国で数えると大変な数。さらに寺小屋もありました。かくさんすけさんの子供達の場合は藩の学校に行きますが、幼少期の教育を誰が受け持ったのでしょうか?一応母親たちの存在が浮かび上がってきますが、そうならば凄い知識と教養ですよね。その彼女たちはどうやってそれほどの知識と教養を身につけたのでしょうか?歯車の弥七さんの生い立ちよりも謎なのです


アメリカンドリーム的レーガンからクリントンへとタカ派ネオリベ社会民主主義が始まる過渡期のアメリカ。レーガンの「小さな政府」は精神病院を閉鎖し患者を追い出した。街頭には彼らとホームレスが溢れていた。このレーガノミックス的市場信仰に拍手を送っているのが、日本のマスコミ。TPPの今日に至るまで、全く信じがたいことだ。外部に対する憎悪。「不法?」移民たちをAIDSに喩えたメディアの偏見に激しく抗議したのは、スーザン・ゾンターグだった。今日における米国の、とくにアラブ世界に対するタカ派的外交政策は、レーガンではなく、クリントンに遡ることに注意しよう。レーガンすらもしなかった侵略戦争は彼からである。NYの旅から東京に帰った年、フーコ「外の思考」だけが読むに堪える本だった。この本は、独学でフランス語の勉強を始めたときに最初に読んだ本。どの頁も、辞書で調べた言葉で埋まっているけど、日本語との一対一の対応を考えていては洋書は読めない。外国で「他者」と出会うとき同じことが起きる。フーコは3人の作家について書いている。ブランショは内から内に即して考える人間を唾棄し、バタイユとクロソウスキーは各々人間の外と内に、絶対無限としての「他者」を介入させた


3分間のふくろうねこの憲法話

神が心にやどるという発想は、伝統的に、儒家神道の考え方を表したものです。江戸時代は、御師が街頭で鈴を鳴らして正しい心の持ち方を人々に説いたのです。今日その伝統はわずかに御神籤に残っています。さて、神は心に宿るとする俗神道と違い考え方をとったのが、本居宣長です。宣長にとっては、神が心のなかにあることなどは絶対にありえない話でした。神々は「外」で祭られべき対象です。それに対応して、穢れも外から来るというわけです。次第にこの考え方が支配的になると、とくに明治以降ですが、神社は教えることがなくなってしまったのです。ところで、明治以降、論争・対立を好む外来思想が入ってきたせいで江戸時代に存在したはずの「和」が失われた、と思い込む人々が少なからずいるでしょう?それは、外から来るものは「穢れ」なのだからこれを「祓え」と言っているのと同じだと気がつきましたか。国家神道の、在日の人々に対するヘイトスピーチの源でもあることに注意してください。安部政権もアナクロニズム的に「家族の義務」を憲法に入れようとしますが、これも、本音のところでは、国家神道的「和」の強調、国体の強調を意味しています。明治以降、戦争体制を支える役割をもった国家神道は、神は心の中に宿ると説いた、儒家的な俗神道の伝統とは全く異なるものなのです。




明治以降、論争・対立を好む外来思想が入ってきたせいで江戸時代に存在したはずの「和」が失われた、だって!?それは、外から来るものは穢れだから祓えと言っているのと同じだ。国家神道の、在日の人々に対するヘイトスピーチの源でもある。神は心の中に宿ると説いた儒家的俗神道の伝統とは全く異なる

神が心にやどるという発想は伝統的に儒家神道のもの。江戸時代は御師が街頭で鈴を鳴らして正しい心の持ち方を人々に説いた。それに対して、神が心の中にということはないとする宣長言説の影響で、神々が外で祭られることになった。穢れも外から来るのである。神社は教えることがなくなってしまったのだ





アメリカンドリーム的レーガンからクリントンへとタカ派ネオリベ社会民主主義が始まるNYの旅から東京に帰った年、フーコ「外の思考」だけが読むに堪える本だった。ブランショは内から内に即して考える人間を唾棄し、バタイユとクロソウスキーは各々人間の外と内に、絶対無限としての他者を介入させた

マスゴミ新聞記者「東証急落で緩和効果が消えました。自民党党内からも、アベノミックスは金利だけをあげていると、責任追及すべきだとの声あがっていますが、どのようにお答えなさいますか」 。アベ総理「たんなるシュレチンガーの猫の悪戯さ。株高も、消えたり現れたりしてね、ははは。君ねー、ボカンとしてるぞ、君。ボクの話が分らないようじゃ、教養が足りないと言わざるをえないよ。もっと勉強してまともな質問をしなさい」。 マスゴミ新聞記者「あの...朕(チン)じゃなくて、シュレーディンガーですけど」。 総理「なに!一体いつ、シュレジンガーは左翼になったんだ、おい!?」


ホワイトハウスが反グローバリズムの政府という自己宣伝を始めたら、いくら反証の精神が眠りこけている左翼知識人とて信じない。ところがこれと同じことを北京政府が宣言すると、<世界史の構造>を読み込んでしまう。神話的作用?日本だけでなく台湾と韓国にとっても、これは他者認識の問題を構成する


もし北京の「資本論」という本があるとしたら、(1)北京政府によるマルクス主義の放棄が台湾を文化的に支配していくというテーマを語る本であろう。チベットとウィグルの独立問題も無視することはできない。(2)自らを「公」(公民の「公」)と自己定義するアイデンティティーの問題を論じるだろう

ハーヴェィは、中国=帝国主義に対して懐疑的な一人である。寧ろ中国は嘗て否定したオリエンタリズム的な烙印(中国=アジア的生産様式)を有利に利用し始めたことに注目。オバマ以降意識され始めた「権力者がマイノリティーの立場を利用する」という支配構造の変容の問題と関連づけて捉えるべきなのか


ところで、固有名というものは、一個人を指示するのではない。――個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛練の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。固有名とは、一つの多様体の瞬間的な把握である。(『千のプラトー』)


芝居への熱狂的な拍手の秘密は、観客が自身を褒めたいのである。嘗て立派な本といわれた、しかし実際にはなにも書いていなかったベニスの「資本論」に拍手を送った読者も手を叩くほど膨らむ立派な自分像に幸福感を感じた?次のツィートの北京の「資本論」は拍手は無いだろう。しかしsomething


ふくろうねこの憲法話

憲法は押しつけれたという右翼民族主義者達は、殊更、翻訳体の違和感を指摘する。外国人が持ち込んだ憲法に、Shut up!と威嚇する。ここでもオリジナルとコピーの上下関係の適用がある。右翼民族主義者の言い分では、戦後憲法は英語のコピーでしかない、だからオリジナルの日本語で本来の憲法を書けと。
しかしかれらは無視しているー 憲法は自分自身を翻訳しているということを。つまり、憲法は、ヨーロッパで育った自然法思想・社会契約論の「信」を、さらに、徳川日本における儒学概念の「信」に翻訳しているのだ。
実際にわれわれは憲法前文中の「信託」「信頼」の語を考えるとき、"trust"という英語を参照したりしないだろう。寧ろ、他者に対する親切心とか誠実さという日常卑近の儒学的な意味から、「信託」「信頼」を「依拠」と理解できるのである。
これが憲法が自らを翻訳するという意味だ。外国嫌いの右翼民族主義者達の論に従っても、戦後憲法は、すでに立派に、オリジナルなのである


言葉というのは、知識の呈示だけでは足りず、それが正しいとする正当化を自らに与えたい。「その通り!」と聞き手の承諾が連なるソクラテスの説得ほど退屈なものはないが、聞き手が何に承諾しているのか疑わしい。翻訳されているが、そこで指示されているものが存在する保証がないとは読み手は思わない

上流階級から文化を取り返せ!戦前世界文学全集はそう宣伝した。読みやすい翻訳が現れる度に読者は正当性を取り返す。が、文献学・注釈学・解釈学の参照を欠いては意味が分らないまま。結局読み方に差異がある。対象が存在しなくとも構わない。対象ついての意識が我々アマチュアに読む事を可能にさせる


親鸞と「歎異抄」とは倉田百三によって、現代のわれわれにいっそう近しいものになったといわれるが、子安氏は異論を出す。「出家とその弟子達」によって、「歎異抄」は、むしろいっそう遠く、われわれから隔てられたというべきだと。同様に世界文学の翻訳もいっそう遠く世界を遠ざけていくと私は疑うが


子安氏が仮に分析する、「倉田の哲学的、宗教的言葉による生の20代青年の人生状況における文章」。大正精神の生臭い散文的偽悪性は、昭和十年代の青年の様には死にリアルに直面していないのだが。「真の宗教はSexの中に潜んでいるのだ。ああ男の心に死を肯定さしむるほどなる女はないか」(倉田)

思想における他者の介入としての 言葉をいかに見るか

もはや思い出に対して、不変の距離を保っているのではなく、思い出はそこにあるのだ。思い出の現存が、この町を純粋なものとし、見わけのつかないものにしている (マルグリット・デュラス Duras 『ロル・V・ステーンの歓喜』)

国連の拷問禁止委員会で、 「日本の刑事司法は中世のよう」「自白に頼りすぎ。中世の名残」と指摘された、上田人権人道大使が「日本は世界一の人権先進国」と反論した。と、会場からの失笑に対して、「笑うな!シャラップ!」と言ったという・汗。「Shut up!!」は、公の場で言ったら脅迫となる。辞書的な意味の「黙れ」を越える。狼男が叫んでいるのと変わりないのだ。この「Shut up!」という言葉は、「モンティ・パイソン」のコメディできいた。アメリカ人達が大勢、フランスの田舎の農民小屋に宿泊してきた、という設定。夜通し賑やかにしゃべりまくっている。その夜、かれらを訪ねてきた男は、なんと死神だった。死を告げる厳粛なパイプオルガン(BGM)ー

死神「私は...」。
アメリカ人A「あー、黙ってて!あててみせるから・・・」
死神「私はな...」
アメリカ人A「多分死神でしょう。正解だって顔しているわよ」
アメリカ人B「蒼ざめていているだけだよ(笑)」
アメリカ人C「デイズニランドで見たわ、ちょっと衣装が違うわね」
死神「シャラップ!シャラップ!!お前達アメリカ人は、死ぬときぐらい一秒でも静かにできないのか!!!!!]


寺山修司
人は一生のうちで一度だけ、誰でも詩人になるものである。だが、やがて「歌のわかれ」をして詩を捨てる。そして、詩を捨て損なったものだけがとりのこされて詩人のままで年老いてゆくのである。

「シャラップ!」は公の場で言ったら脅迫となる。「黙れ」を越える。狼男が叫んでいるのと変わりない。(国連拷問禁止委員会で、 「日本の刑事司法は中世のよう」「自白に頼りすぎ。中世の名残」。上田人権人道大使が「日本は世界一の人権先進国」と反論。会場からの失笑に「笑うな!シャラップ!」)

Ich kann die Bewegung der Himmelskörper berechnen, aber nicht das Verhalten der Menschen.天体の運動は計算できるが、人の行動は計算できないー>株で大損したニュートンの言葉?本当かな、怪しい・笑

宣長が「物のあわれをしるといふことも、おしひろめなば、身ををさめ、家をも国をも治むべき道にも、わたりぬべき也」として、倫理、宗教、政治其他一切の価値基準から一旦完全に独立した文学的精神をそのまま政治的なるものにまで高めるに至って、「政治の非政治化」が完成し、規範主義的思惟に対するアンチテーゼがはじめて徹底された。従っていまやそこでは「もののあはれ」的精神それ自体の規範化すらも許されない。もし「もののあはれ」が「非もののあはれ」的なものに対する規制原理となるとき、既に心情の純粋性は失われる。規範に対して自然を主張することはもはや自然ではない。;丸山真男「国学とくに宣長学との関連」


万人が「穏やかに楽しく世をわたらふ」た上代を理想とする宣長のオプティミズの方法的根底はまさにこの「もののあはれ」に存するのである。ところで文学が文学ながらに政治化されることは、反面からいへば政治が文学化されること、ややパラドキシカルにいへば、政治が非政治化(Entpolitisieren)されることにほかならぬ。丸山真男より

丸山は、宣長の政治原理、文学が政治化され政治が文学化されるという、柄谷が美学的統整原理というものを明らかにしても、漢字エクリチュールの排除という政治を問う事がない。言語論的日本文化論という文学を非政治化しただけだ。精神分析的に従って音声中心主義的に日本の起源を実体化しただけなのだ


柄谷「transcritique」の出版の年、2003年は、音声中心主義的論理の決定的勝利を祝した年、と同時に、思考に占める漢字エクリチュールの物質性の消去、その介入の意義についての忘却が始まる最初の年かもしれない。子安宣邦「漢字論」は同年に必然としてわれわれに与えられたのである

It is value, rather, that converts every product into a social hieroglyphic. Later on, we try to decipher the hieroglyphic, to get behind the secret of our own social products; for to stamp an object of utility as a value, is just as much a social product as language. - Karl Marx, "Capital"

基本的に読むことが不可能なのは、「論語」のような原初的テクストだけではなく、1867年という、そう遠くない過去に現れた「資本論」中の一群の文も、読めない。数多くある翻訳は分ったつもりにさせてくれるが、結局はどれも横のものを縦にしただけの皮相な行列変換(笑)。やはり注釈、注釈の注釈が欠かせない本だが、厄介な事に、マルクスは、自分の死後にマルクス主義者たち(ポストマルクスの言説)がどのように自分の仕事を解釈することになるのかについてあらかじめ注釈し終えてしまったという迷路ぶりである。「もしその考え方がマルクス主義というのならば、断固私はマルクス主義者ではない」はそのように理解できる言葉だろう。ちなみにデリダならば、乱筆のマルクスの、己の思考がこの世界と共有するものが無いと怒る判読不可能な「象形文字」に大いに注目してもよかったたはずなのだが、なぜか沈黙をまもった...


基本的に読むことが不可能なのは、「論語」の様な原初的テクストだけではなく、1867年というそう遠くない過去に現れた「資本論」中の一群の文も。翻訳は参考になる程度。ところでデリダは、マルクスの、己の思考がこの世界と共有するものが無いと怒る象形文字の如く判読不可能な乱筆について黙した

「孝弟也者、其為仁之本与」は、訓読みの仕方によって、互いに両立しない二つの意味を導く。即ちモラルは心の中に本来的にあるか、心の外に社会的にあるかだ。後者に読む人でなく前者に読む人こそが、訓読みを通じて日本語(翻訳)を読んでいるだけなのに中国語を読んでいると思い込んでしまうのでは?


「漢字は借り物ではない!」(子安氏)。漢字を「借り物」とみなす人は、己が「自然」に持つようになった「母国語」の中に、自国語の固有性を排他的な態度で表象する。芸術の世界もそうだ。漢文漢字だけでなく、説明文は「借り物」ではない!芸術理論の言葉は、鑑賞の固定されたあり方(構造)に介入していく


テートモダンで気に入っていたのは、水のはいったコップと(作品の一部として壁に貼った)説明文を展示しただけのCraigの作品。二人の人物の会話を読む。「いつ黄金になるの?」「そのうち」「もう金になっていたりして」「まだまだ」という調子で、説明文が借り物ではない見事な例(やられたな)

もし北京の「資本論」という本があるとしたら、(1)北京政府によるマルクス主義の放棄が台湾を文化的に支配していくというテーマを語る本であろう。チベットとウィグルの独立問題も無視することはできない。(2)自らを「公」(公民の「公」)と自己定義するアイデンティティーの問題を論じるだろう

ハーヴェィは、中国=帝国主義に対して懐疑的な一人である。寧ろ中国は嘗て否定したオリエンタリズム的な烙印(中国=アジア的生産様式)を有利に利用し始めたことに注目。オバマ以降意識され始めた「権力者がマイノリティーの立場を利用する」という支配構造の変容の問題と関連づけて捉えるべきなのか





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