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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年7月 後半

<<   作成日時 : 2013/07/23 08:44   >>

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麻生副総理が、改憲問題に関し「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」と述べたといいます。麻生が学べというワイマール体制を崩壊させたナチスの政治からそのまま一直線上に「最終解決」の地獄が存在しました。
「最終解決」とは、だれがユダヤ人かをナチスが法律で定義した上で、異他化したこの者達を最後の一人までガス室に送るというものです。実際に、アウシュビッツ等の収容所に送られた人々の中には、ユダヤ人でなくとも、ナチスが排除した身障者やジプシー、政治犯などが大勢いたのです。
ナチスによるホロコースト(民族大虐殺)を契機に、ユダヤ人の側で歴史を持つ事の意義が自覚されたという説を、ロンドンのユダヤ・コミュニュテイーで初めて知りました。聖書等神話の物語的記憶はあることはあったが、リアルな歴史の発明は20世紀から始まると解説するユダヤ人の友達がいました.
.それにしても麻生発言です。国際放送のBBCで全世界に流れることになりますが、日本ファンだった私の友達も一体どんな気持ちで麻生発言をきくのでしょうか。麻生側は色々と弁解しているようですが、この人は元総理大臣ですよ?あまりにも、言語に絶した他者の歴史に無知、軽くみすぎています!










麻生副総理が、29日の講演で、憲法改定問題に関し「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」と述べたと報じられています。吃驚しました。麻生が学ばんと提唱した、ワイマール憲法を崩壊させた、ナチスの政治手法からは、そのまま一直線上に「最終解決」の地獄が展開したからです。「最終解決」とは、だれがユダヤ人かをナチスが定義した上で、最後の一人までガス室に送るというものです。実際に、アウシュビッツ等の収容所に送られた人々の中には、ユダヤ人でなくとも、ナチスが排除した身障者やジプシー、政治犯などがいたのです。ちなみに、ナチスによるホロコースト(民族大虐殺)を契機に、ユダヤ人の側で歴史を持つことの意義が自覚されたという説を、わたしはロンドンのユダヤ人コミュニュテイーではじめて知りました。聖書等神話の物語的記憶はあることはあったが、リアルな歴史の発明は、20世紀から始まったのだと解説するユダヤ人の友達がいました。それにしても、麻生発言です。彼の暴言は、国際放送のBBCで全世界に流れることになりますが、日本ファンだった私の友達も一体どんな気持ちでこれをきくのでしょうか。麻生側は色々と弁解しているようですが、この人は元総理大臣ですよ!あまりにも、言語に絶した他者の歴史に無知、軽くみすぎています。

読んでいくと、渡辺氏と喋っているみたいな。ホー、三十代でこのフーコ「言葉と物」を僅か四か月でサラサラと訳してしまった渡辺氏、あらためて、畏るべし。昨年の夏は肺炎にかかって大変だったが、どうか、お仕事をしなおすために、軽井沢でゆっくりとご静養なさっていただきたいニャリ。出だしの訳からスゴイ…「解決されぬかくもおびただしい無知…」

Sur tant d'ignorances, sur tant d'interrogations demeurées en suspens, il faudrait s'arrêter sans doute; là est fixée la fin du discours, et le recommencement peut-être du travail.

解決されぬかくもおびただしい無知、かくもおびただしい問いをまえにして、あるいは筆をおくべきかもしれない。ここで論述(デイスクール)をおえ、恐らくは仕事をしなおさなければならないのだろう。(渡辺訳、「王の場所」、”人間の分身”より)



二桁というのは、分かります、分かります。五つぐらい下だったらしいのですが、大江がフランス語が読めなかったから仕方なく英語で原書を読んだという時々でてくる話も注意する必要ありと思ってます。「言葉と物」の翻訳についてはとくに自慢もしませんし多くを語ろうとしないのですが、昨年劇団の納会で、生きながらえたという喜びもあったのでしょうかね、酔いがまわり上機嫌になってうっかり油断して、ほろりと、「大江君と三島君から、つまりね、左と右の両方から褒められたんだな」と、一見反左翼的な、岩波文化人的な言葉を口にしましたが、これは聞かなかったことにしようと思っます(笑)。軍国主義の時代を知っている、本当の意味でリベラルな反骨の人であることはたしかです

私の勝手な思い込みなら、ヴェイユというと、ゴダールの「パッション」と、あと、渡辺氏が結構評価を与えている竹内好の魯迅に基づいた<ドレイ論>的抵抗のことが思い浮かびます。興味深いことをおっしゃっていて、大まかにいうとですが、1930年代ドイツとの軍事協力関係によって人民戦線に崩壊を齎したソビエトに対する作家達の幻滅とはまったく別に、工場での自らの肉体労働の体験からソビエトの労働をイデオロギー的に神聖化した教義に一定の距離をおくことができたシモーヌ・ヴェイユの特異性に、注目するんですよね、渡辺氏は。ヴェイユの思想的自立性から自ずと構造主義の地平がみえてくるというようなことを仰りたいなら、それはアーレント的なヴェイユ像ではないか思いまして、私はこの疑問を氏に問うたら、いや、ハンナ・アーレントは読んでいないと言ってました

ブレーズ・パスカル ‏
普遍的な人たちは、詩人とも、幾何学者とも、その他のものとも呼ばれない。しかし、彼らは、それらの全てであり、全ての判定者である。誰も彼らを見破ることができない。§34

THE MARK OF OUR INESCAPABLE SECONDARINESS.




名文章家といわれる人は、頭の中で無意識に朗読しながら書いている。自分の文章に固有のリズムが無意識に出るようになったとき、その人は自らの文体を完成させたのである。その人の文章は、もはや他人が安易に手をつけられない域に達したといえよう。『日本語の作文技術』本多勝一







選挙後落ち込み気分。昔を思い出すと、成果なき座込みの現場で落ち込むのは男性達だった。言葉もなくなにかお葬式みたいな雰囲気に陥るんだが、女性達の方はそうはならない。活力があった。現在もTLでしっかりしているのは女性が多いように思う。 嗚呼、The woman always wins

世界には非難すべき実体がない。ただ、合理的なものとそれほど合理的でないものとしか存在しない。と、かくもナイーヴな近代合理主義からすれば、さて、現在進行中の、ドイツとイタリアの国民投票の流れの中にある、草の根的反原発運動は、言語を絶するほどの非合理の要求とは到底いえないものだろう。
ところが、反原発運動が犯してきた無視できない誤謬とは別に、日本の多くの知識人が、異議申し立て運動を前に、合理性それ自身の否定を簡単に封印する傾向があるのは、彼らの多くがそもそも合理性を信頼していなかったという、(今まで隠していた)正体を露わにするものだ。この暴露は3.11から始まっている…

Bref, l'argent, la circulation de l'argent, c'est le moyen de rendre la dette infinie.  
要するに、貨幣または貨幣の循環は、負債を無限にする手段なのである
(Deleuze&Guattari)


原発推進派に対する単なる対抗として即原発廃止を主張する言葉は間違いか?間違いを自覚して尚主張を取り下げないのは、過剰とはいえ人間の進歩に対する信頼が語るからだろう。此処からみると、十年以上の暫定的廃止で「よろしくやっていける」は主人の安全神話破綻に無限に負い目をもつ国の奴隷の言葉


乱暴かもしれないが、分かりやすく図式的に整理してしまうと、近代主義の原発推進派からみると、反原発派の生命の讃歌と一体としてある主張は、前近代的な不合理なもの(自然)に対する寄生にみえる。一方、反近代主義の反原発派からみると、原発推進派が国策としての原発政策の優越性を自明視するのは、近代に顕著な不合理なもの(国家)に対する寄生に他ならない。
一方に、前近代的な不合理なもの(自然)に対する寄生があり、他方に、近代に顕著な不合理なもの(国家)に対する寄生がある。両者各々互いに相手を前提せずには成り立たぬステレオタイプ、つまり不合理なもの対する従属的寄生を共有している。出口はどこか?われわれの他者がどうみるかにかかっている。
われわれの他者は科学者共同体を含むがそれが全部ではない。われわれの他者は、内部的には、最後に核廃棄物を押しやられる「周辺」地域の人々であり、外部的には、輸出されてくる危険な原発を押し付けられる人々だ。未来的には、まだ生まれてきていない子供達、過去的には、原爆で殺された死者達である

















林達夫bot ‏@HayashiTatuobot 1時間
「よろしくやってゆける」人間は仕合せなるかなだ。だが、そんな人間のあまりにも多すぎるというそのことが、私にとってはまた何とも言えぬ苦汁を嘗めさせられる思いがして堪らなくなるのだ。




猫かぶりの右翼的な人々が意外に、上野千鶴子の名をあげて、「天皇制はおかしい。税金の無駄でもうやめよ」と言う時があるが、共和主義者に転向したはずもない。憲法が構成し憲法の縄に縛られた天皇のあり方を廃止したいだけで、寧ろ憲法の外で、天皇の戦前との連続性を復活させる計算あり。用心なされ

He was no more impressed by the Irish nationalist argument against colonialism than he was by the colonialist argument itself.(Semus Deane)

ネット世界の顔つきと、現実世界の顔つきが似てきたと変なことを考えたりする。現実世界は、”デガダンス”という言葉が死語となるくらい”健康”が圧倒的に支配してきた。ネット世界の方は、秘密がなく”デガダンス”が成り立つ条件がそもそも無い。デガダンスなき世界で人間はどう生きていけるのか?

中流の上から没落してくるというのがデガダンスのパスポート。デガダンスから最も遠い所にいるのが、橋下のようなストレス発散型体育会系アメリカンドリームの類の人々。甲子園大会の清潔な倒錯的コスチュームと軍国主義的風景もデガダンスを含まないが、やはり絶望したひとつの現実逃避の形式であろう



蓮見はintertextualityに寄りかかる一方で、interactive (双方向性)には冷めている。interactiveがそんなに大切なのかと、ネットテクノロジーに楽観的な映画監督達に反論した。それがマイノリティーの発言する条件だと理解できない点で非常に男性原理的と思う


intertextualityは、排除と選別の男性原理を超えない、蓮見が’語るようには決して。それは郵便的存在論の東のマッチョ性をみれば明らかだ。他方蓮見が冷淡なinteractiveは、インターネットが男性よりも女性の方が活用している事実から言って、より男性原理的ではないと思う




坂口安吾の再発見は、七十年代以降のポストモダニズム批評に負います。ポストモダニズム批評は、外部としての自らの倫理的位置の思考を新たに見定めるために必要されたのが、「安吾の読み」だったのではないでしょうか。それにしても、外部の思考を失った批評ほど、幻想の内部から幻想に即して自己を語る言葉に囚われ続ける孤独なものはありません。例えば、そういうものとして、90年代のポストモダニズムの知識人の多くは現在、傍観者のシニカルな批評者を経て、排他的なナショナリストに転向してしまいました。マスコミに祝福された、際立つかれらの言葉の孤立は、”山賊”(「満開の桜の下で」)の孤独よりも奥深く孤立しています。人間の、思考の、言葉の、自ら手にかけた他者殺戮の代償とは、どんな幻想によっても贖うことが不可能です。そうして、再び、われわれは、隙間なくわれわれの精神性をも支配した、1930年代の全体主義の内部の中にあるのではないか、このことをいつだれがはっきりと告発するのかというギリギリの段階にきたのではないですか…現在の状況を分析する思考の欠如を感じますー自己反省を込めて



蓮實重彦『反=日本語論」は、二十代半ばのときに大変興味深く読んだ一冊です。intertextuality(間テクスト性が訳語?)を神聖化する、ポストモダン批評の曖昧性に依る方法の擁護に、この蓮見による漱石的女性の分析があります。曖昧性に根拠を与えるのは芸術性とされます。しかし、芸術性故に曖昧性を擁護する見方は実体的に制度化したとき問題が生じることは明らかです。慈悲深くも(笑)、蓮見が救った貧しいリテラシー(アカデミーの専門家集団と商業出版に搾取された大衆読者)を、再び、中立的な解釈の牢獄に閉じ込めることになるからです。そもそも、文学批評は文学に依拠するからといって、文学批評の外部性を確保する倫理性が消えることはありません。われわれ読者は、倫理的に、つまり外部的に方法としての文学の存在に向き合うだけです。その他は幻想です。この倫理的態度と無関係に、漱石的女性像に哲学原理を深読むするのは、唾棄すべき支配の政治的行為です!


蓮實重彦『反=日本語論』

1.『虞美人草』いらいの漱石的「作品」は、一貫して同一空間を占有しようとする二個の存在の葛藤そのものを主題としている。
とりわけ『それから』以後、『心』を通過して『明暗』へと至る漱石的文章体験の歩みは、

2.しばしば女性として顕在化される same space ヲ occupy スルことで〈排除〉と〈選別〉の体系をいったんくぐり抜けた者が、〈排除〉も〈選別〉も機能しえない場を夢想しながらおのれの行為を反芻し続けるという困難な行程を跡づけている。


(正直一点心配なのは、「こうしていくら人が集まっても力がなければ無に等しいのです。皆さんの投票がその力です」という、二年前にきいた演説の内容。「力」を強調したあまりにストレートな言葉に驚く。色々な批判に耳を傾け見聞を一層広めつつ、原点からブレることなく活動していただきたいと願う)


寸劇「日経」
さつき「”アベノミクス”、”ねじれ解消”に続くキャッチフレーズを考えて」
社長「”みっともなくないインフレ”」
さつき「みっともないわ」
社長「”インフレ草莽、インフレ妄想”」
さつき「駄洒落かよ」
社長「駄洒落じゃダメなんですか!」
さつき「新聞だろ、おまえら」

泥舟から
タイタニックへ
乗り移れ




遠く彼方から間近くに近づいてきた星々の
内側に氷結した歌が、
わたしのなかから外へ解き放たれた

本多敬




The stars had come so near me that I caught
Their singing.

W. B. Yeats





若さとはなにか?

過去の文化的記憶は言葉が担う。現在彼らのトラウマを為すのは、19世紀半ばの大飢饉でゲール語が壊滅したこと。これは彼らが文化の喪失の中で生きる未来を意味した。アイルランドの人々は自分たちがあらゆる問題を抱えているおかげで、どんな遠い人々とのあらゆる苦悩を、自分の苦悩に直結できるという。
ところで若さは年齢とは関係がない。これはTwitterでみつけた、ある詩人の言葉から。「とおいひとびとの苦悩を、自分の苦悩に直結できること、それが若いということである」。現在の日本は、詩人は、自ら若さを失っているのは、自分の加害行為に怖ろしく鈍感で、他人の加害行為に異常に敏感だからではないか



ふくろうねこの憲法話

今日はどーでもいい感じの話。欧米の左翼は改革派に対して、日本の左翼はいわゆる保守革新としていわれる。自民党に対して、「守れ!」と主張し続けなければならなかったし、今後も憲法改正・TPPに対して反対しなければならないのだ。ところで英国保守党と日本共産党、この両者の雰囲気が似ているのにだんだん気がついてきた。それぞれ、全然異なる政治哲学をもっているにもかかわらずだ。例えば、保守党党首は、「選挙で多数派になれなかったことは事実。だが、労働党に負けたということとは全然違う」と威張る。これは、日本共産党の、「間違ったことさえしなければそれでいい」の強弁と似てなくはない。もうひとつ興味深い両者の類似性は、この二つの老舗の政党たちは、憲法と議会を他でもない自分達がつくったという自負心があること。だから、国会の椅子を、新興政党(英国の場合は労働党、日本の場合は自民党・民主党)に貸してやるという、恩寵に富んだ地主の如き態度をとるとみえることがある。いや、これは私のかんぐり。興味本位で、根拠のない余計なことを喋ってしまった。失礼!どうか偏見をもたないようにね

英国保守党と日本共産党、雰囲気が似ている。保守党党首は、「選挙で多数派になれなかったが、労働党に負けた訳ではない」と威張る。これは、日本共産党が「間違ったことさえしなければそれでいい」の弁と似ている。この二つの老舗の政党は自分達がつくった国会の椅子を新興政党に貸してやるという態度

朝日の社説を読んでみた。電気製品の説明文の如く、<TPPはお得だから官僚は米国の話をよくきくように>と諭している。別の記事でTPPの解説図をみる。各国の利害関係を説明するのに各国の国旗を使うのは常識なのか?外国の新聞で見たことがない。官邸前デモでもこんなに頻繁に日の丸は出てこない

やっと、失われたものが再生しつつある。まだまだ、地に足がついていない。反省すべき事柄がたくさんある。が、どうも、最近の知識人にかぎっていえば、反原発を中心に芽生え始めた草の根運動に辛辣ではないだろうか。
私の印象では、原発技術の不信から街頭に出た人々は、それ程饒舌にあらず。間違える危険性を知りつつ、敢えて発言する責任感は重い。だから、知識人は、「命をまもれ!」という声にオカルト的セクト主義を読むだけでは全然足りないだろう。むしろ、生命の讃歌を国土の讃歌に置き換える極右の反知性主義を許さず積極的に批判していくわれわれとの共闘こそ大切だと呼びかけたい!


裁判官達が理屈抜きで拵えた共謀共同正犯論に、私立大学の先生達がー実務の世界に迎合すれば通説だと勘違の馬鹿者達ーが拍手を送りました。略して共謀ちゃんは、ヤクザの親分だけでなくデモの主催者にも適用されます。自白偏重を齎す危険性も顧みないアホな刑法の学者こそ無知の罪という共謀共同正犯

寸劇で学ぶ町内屁大会。

運営ボランティアの梟猫さん「14万回屁をした若者がいたのに、9万回屁した金持ちの優勝杯は不公平ですよ」。
会長「回数の問題じゃないんだ。9万回屁した人の所属する組織が根本的に臭いから、その分を足し合わせて考慮した」。
梟猫さん「会長(う、いま屁しました?)」



明治以来戦争を推進してきた、祀る国家、戦う国家を繰り返すつもりか!

→ 首相靖国参拝「すべきだ」46%、読売新聞



今後靖国は一神社として残してもいいが、
憲法違反の首相靖国参拝だけはもうやめよ!
詩人だけが死者と特権的に話せる、なぜか?
原子の雨が降り落ちる
宇宙の淵とて、死者は生者からそれほど離れた所にいないから。
と、これは芸術の話。問題は、いったい政治的に
われわれはどこで彼らの言葉をきくかだ。
たしかに、死者たちは実在するならば、
死者たちの声が来るのは他者の側からだ。
誰も自己の内部から内部に即して他者の言葉をきいたりはしない。
だからこそ言う。アジアの人々の声の側から、死者達の反発も読み取れ!



子安氏は鬼神論を中心とした徳川朱子学の議論をデイスクールの地図として再構成した。朱子とは異なる、理から鬼神を導いた山崎派の解釈の線は、儒学の圏外、篤胤に向かう。批判する線は仁斎から。徳川朱子学から来た子安氏の線は、近代日本における文学の独自の意義を措定し更にそれを乗り越えんとする


金子勝 masaru_kaneko のツイートより

【最後まで2】このような復古主義的憲法「改正」案が徐々に実現していけば、国際的にも孤立します。それは、すでに米中韓の安倍外しに現れています。福島原発事故も収拾できず、リーダーは誰も責任をとらずに原発推進や原発輸出によって、世界の産業転換から取り残されていく。日本を取り残す。
【最後まで5】戦後、これほどの国難はなかったように思います。この国が壊れていくのに、跳ね返す力はどんどん分裂を繰り返す。社会の反発力を作るのは大変です。一緒についていっても自分の利益になることはほとんどありません。去る者は決して追わず、新たな信頼関係を求めて頑張ろうと思います。


半分の半分じゃ、電車に座ってる四人がけの一番端っこにいるおねえちゃんが、携帯電話眺めてる横の人間三人を代表してるという感じでしょうか?それすらでもないか、自民ちゃんは。建前として国民のために働いている官と思い込みたい、かっこつけ屋さんの霞ヶ関のおじさんたちにはくがつかんでしょうな

わたしも、午後に。

今回は、民主主義憲法のもとでの最後の投票になるかもしれず、         
もはやよりマシな政党・個人を<選ぶ>ためにでは全然なく、
この半年間マスコミが協力してきたファシストたちを<選ばない>ためにです。 私の敵であるファシスたちトに少しでも不利になるように、
投票率をあげるだけですが、現実にはそれすら厳しい状況なんで、
なにか変なんですが、正直デモに行く感じに近いですね

今後総力戦的な戦争はもう起きないだろう。だから君たちは油断しているのだろうが、しかし確実に戦争責任はもう始まっている

1、この三年間の今後の国会を予言すると、林達夫的に皮肉っぽくいうと、かりに、悪役の自民党が善玉の日本共産党の小さな寄生者に過ぎなかったり、逆にまた善玉の日本共産党が悪役自民党の貧しい寄生者に過ぎないという、ラブラブのメロドラマ展開だけは、やめてもらいたい。韓流ドラマで沢山だから。

2、自民の強い国家も共産の弱い国家も、妥協の範囲の程度の差では本当に困る。一方知識人達は、国家否定のふりをするTPP的の維新の会的国家論者の軍国主義にどんどん吸収されていくのだとしたら、本物の迎合する寄生虫だ。総力戦的な戦争はもう起きないかもしれないが、戦争責任はもう始まっている

3,強い復興幻想と深い関係があるようにみえます。最後の問いは、われわれはどこにいたのか?というものです。やや広い射程から、歴史的なことをいいますと、戦前の日本は、関東大震災の後に、現在と同じような強い復興幻想が膨らんでいく過程がありました。金融恐慌を経て、軍国主義が、言論界における右翼的煽動に応じる様に満州に侵攻していきました。関東大震災の十年後のことで、現在は3.11から三年め。歴史は単純には繰り返さないでしょうけれど


林達夫

人類のこれまでの思想の歴史を眺めてみると、国際主義が国民主義の小さな寄生者に過ぎなかったり、逆にまた国民主義が国際主義の貧しい寄生者に過ぎなかったりしたような場合にでくわす。
だからそういう意味では、例えばロマン・ローランの平和主義もマルクスの社会主義も一向に威張れた筋合いのものではなく、それらの思想はいずれも寄生的思想たるを免れない。一つは世界大戦の、他は「資本主義社会」の


寸劇で学ぶ公約。

まにふぇすとの妖精「TPP賛成なのにTPP反対というもの。何かしら?」
安倍「わからない…むつかしい…PHD級の難題だ」
妖精「或るものが同時に自分自身と正反対の事を言うものは何?」
安倍「嘘、ですね」
妖精「ピンポーン!じゃ、TPP賛成なのにTPP反対と言うものは何?」
安倍「わからない…むつかしい…」


これからは、首相靖国参拝の問題ひとつとっても、かつてないほど深刻な問題となります。最高裁は小泉の参拝を正当化し信教の自由、政教分離の原則を滅茶苦茶にしましたが、まだ、われわれは憲法を盾に抗議もできます。国際的孤立をギリギリ避けれます。しかし現在の子供達はいったいどうなのでしょうか?現在の子供達は大人になったとき、自民党草案に従った’メイド・イン・自民党の憲法だと、恐らくもうこの憲法に頼れなくなるでしょう。現在の憲法を守ると同時に、憲法を崩されたときに依拠できる別の思考を今から準備しないと、全然間に合わないませんよ!






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