言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 9月

<<   作成日時 : 2013/08/31 15:20   >>

トラックバック 0 / コメント 0




ヤング・ブルーエルはアーレントにしたがっていって明らかにした、人間が権利をもつ権利というべき複数性の権利とは、 「何らかの人間の共同体に属する権利、 一つの塊に還元されない権利、余計者にされない権利、 無国籍や無権利にされない権利」です。これらは、ドゥルーズとガタリの主張を補強するものといえないでしょうか。例えば、ドゥルーズとガタリがいう「部族や秘密の声」「分裂症的なコギト」「忘却の力」は、まさに、「何らかの人間の共同体に属する権利、 一つの塊に還元されない権利、余計者にされない権利」のことだと理解できませんか。実は、ブレヒトの、20世紀ジャンヌ・ダルクを物語っている、ヨハンナについても同様のことがいえる点です。ゼネストの要求の意味は、2013年の現在に即して再構成すると、「何らかの人間の共同体に属する権利、 一つの塊に還元されない権利、余計者にされない権利」のことであり得ます。特にネオリベ・グローバリズムのもとで一人一人が直に世界資本主義の搾取と向き合うことになった厳しい現実に鑑みると、 「無国籍や無権利にされない権利」の重要な意義は明らかです。最後にヨハンナの連帯を呼びかけた手紙は、ドゥルーズとガタリの書き出しを喚起するのです「書くこと、それは…ささやく声を選び取り、部族や秘密の声を呼び寄せることだ」。女性、同性愛者、貧困者、移民、そして労働組合に向けて、ネグリがいう「共通(コモン)」という抵抗の連帯を現実化するために、手紙とは、「指令語の発信、感知、伝搬」にほかなりません



異言異語(舌語)。書くこと、それはこの無意識のアレンジメントを明るみに出し、ささやく声を選び取り、部族や秘密の声を呼び寄せることだ。そういったものから、私は私と呼ばれる何かを抽出しているだけだ。<私>とは、一つの指令語である。ある分裂症者は言う「私は多くの声がこういうのを聞いた。彼は生を意識している。」この意味で、いわば分裂症的なコギトといったものがあるのだが、それは自意識を指令語の非身体的変形に、あるいは間接話法の結果にしてしまう。私の直接話法もやはり、他の世界、他の天体からやってきて、私を貫通する自由間接話法である。あんなにも多くの芸術家や作家が心霊現象にひかれるのはそのためである.
こうして指令語に固有の能力とはなにかと問うならば、これについて次のような奇妙な性格を認めなければならないだろう。指令語の発信、感知、伝搬における一種の即時性、大きな可変性、また別の指令語を受け入れるため、われわれが従属し、ついで放棄してしまった指令語について無縁であると感じさせる忘却の力、非身体的変形を把握する固有の観念的、亡霊的能力、一つの巨大な間接話法のいろいろな種類にしたがって言語をとらえる適性、吹き込み、吹き込まれる能力、一つのメロディーに、冗長性にかかわらせて挿入する歌の能力、真の霊媒的な能力、異言論、外言論

Noam Chomsky

Iraq War was a very serious defeat for the United States, unlike the Vietnam War. In the case of Indochina, it’s called defeat, but that
only means that the U.S. did not achieve its maximal objectives. It did achieve its major objectives.It had prevented a Vietnam from moving on a path of independent development


「終わり」をふくろう猫流に翻訳すると、「もう日本人を止めたい」ということですね。と、そのように勝手に解釈した上で(笑)、勝手に話を押し進めますと、やはりこれも連続性と再構成の射程に入ってくる問題と思います。「日本人をやめる」は、そのまま、ヨーロッパの近代化を模範とすることを繰り返すだけです。が、それに対しては、対抗的な、(似非文化論的な)日本人のアイデンティティーが繰り返されるだけでしょう。これらとは全然別に、「いま」は、日本なりの近代化の意義をみとめ(連続性)、そこに留まらず、それを乗り越えていくこと(再構成)が大切かと思っています。強いて言えば、「こうであったかもしれない」という未完了形の仮定法と、「あるだろう」という未来形の混合ですね。ま、未来に絶望している私が言うのもなんですが。。。

This axiom is simple but important. So attention! If one goes in the opposite direction adding 1 to rhizome, he/she is going to become involved in an imperialist or fascist . つまり、これとは逆に、(最近の傾向のように)、「リゾーム」に1を足したがるのは、帝国主義者かファシスト、という自覚が足りないんだなあ…。ドゥルーズがわざわざ警告しているのに無駄だったか。恐らく、私の理解が正しければ、このことも、子安氏が指摘なさっている、「日本人の複数性の否定とは人類的な犯罪なのである」という事柄に関係するにちがいない。「一的多様体」などは「一」に過ぎないのだと、氏は「中国論」の文脈において強調なさっている



”Soustraire l'unique de la multiplicité à consistuer; écrire à n-1. Un tel system pourrait être nommé rhizome”. (Deleuze & Guattari)
「設定すべき多様体から一なるものを引くこと、nマイナス1で書くこと。このようなシステムはリゾーム〔根茎〕と呼ばれうるだろう」

子安宣邦のツイートより Nobukuni_Koyasu

全体主義の人類に対する犯罪は、人間の複数性の否定として定義できるかもしれないとヤング・ブルーエルはアーレントにしたがっていっている(『なぜアーレントが重要なのか』)。人間が権利をもつ権利というべき複数性の権利とは、

「何らかの人間の共同体に属する権利、
一つの塊に還元されない権利、
余計者にされない権利、
無国籍や無権利にされない権利」

である。それは複数である人間によって複数である人間について語られた物語のなかで真実性をもって記憶される権利、歴史から消されない権利である。」全体主義的犯罪を人間の複数性に対する犯罪とするこの再定義が我々にもつ意味は大きい。日本に容易に形成される国民的一体性を日本社会の痼疾とか国民性の問題としてきたが、これはむしろ昭和日本における全体主義的な複数性の否定という犯罪的傾向の持続として考えるべきではないのか。人間が複数的であることとは、人間が権利をもつことと本質的に同義なのである。
全体主義とは20世紀の遺物ではない。それは21世紀の現代国家に持続し、再生する。9.11後の反テロの戦争体制として米国に再生されたように。すでに石原・橋下ら全体主義者によって君が代を歌わない複数的日本人の人間的権利は否定されている。



シェークスピアの「テンペスト」とファシズム

リーマンショック以降衰えるどころか、かえって確固たるネオリベ支配の世界的傾向に鑑みると、ブルジョアジーの「愛国心」という常識も自明視できなくなってきた。但し、再稼働とTPPによって生存権を破壊するこの国の財界が今まで、文部省を使い教育干渉を行ってきた、人々に押し付けてきた「愛国心」の正体とは何だろうかと根本的に疑問におもう。

ところで国家が中心となるオリンピック自体の無理のほかに、今回の招致で明らかになったのは、安倍のファシズム的実質。つまり他者からの良識に耳を貸さぬファシズム的実質のことだ。東電の警告的?言葉すらも、安倍にとっては、意味をなさぬもの。現在なお、「コントロールされている」と言うのは、単に、認識のズレということではないだろう。私が畏れるのは、安倍とナチスとが共有する、合理性を根本から否定し去る態度だ。それは、強いか弱いかだけが尺度となる信条である。

結局ファシズムというのは、上位の支配集団が被支配者の言葉を聞かずとも平気とする態度と関係がある。そのようにして扱われた被支配者は、語ることも考えることも許されぬ奴隷に墜ちるのは、シェークスピアの「テンペスト」が描いた通りである。奴隷として木に縛られたわれわれが、われわれを縛った主人の安倍に拍手を送ることこそが、まさに財界が人々に植えつけてきた愛国教育の成果だったのではないだろうか



リーマンショック以降衰えるどころか、かえって確固たるネオリベ支配の世界的傾向に鑑みると、ブルジョアジーの愛国心という常識も自明視できなくなってきた。但し再稼働とTPPによって生存権を破壊するこの国の財界が、文部省を使い教育干渉を行ってきた、人々に押し付けてきた愛国心とは何なのさ?

国家が中心となるオリンピック自体の無理のほかに、今回の招致で明らかになったのは、安倍のファシズム的実質、つまり他者からの良識に耳を貸さぬファシズム的実質だ、東電の警告的?言葉すらも、安倍にとっては意味をなさぬ。現在も「コントロールされている」と言うのは、合理性否定の態度からだろう

ファシズムというのは、上位の支配集団が被支配者の言葉を聞かずとも平気とする態度と関係がある。そう扱われた被支配者は、語ることも考えることも許されぬ奴隷に墜ちるのは、「テンペスト」が描いた通りである。主人の安倍に拍手を送ることこそが、財界が人々に植えつけてきた愛国教育の成果であった



X年後地上世界ー生き残った三人だけが東京証券取引所に

名誉都民猪瀬直樹「もうコップの中の汚染水が黄金になったかも?」
錬金術師アベ「まだまだ。まだまだ」
猪瀬「このまま目をつぶっていれば本当にコントロールできるの?」
人権大使「シャラーップ!」

そして間もなく地球は滅亡した



私が八年間いたアイルランドのような貧しい国はー従って大多数の国の現実といえるのですがー、オリンピックに選手達が自費で参加するしかないのですね。直接の教え子ではなかったのですが、大学で日本語を学んだ、世界記録保持者の学生もお金がなくてギリシャ行きを断念しました。この点、サッカーのワールドカップほどはどこの国の人々も平等に参加できないのですね。譬えて言うと、国家が競い合うオリンピックは、靖国神社で戦うう国家が自分自身を祀るが如く、国家を祝福する19世紀的黒魔術の儀式(あ、失礼!)。本来の、参加することに意義ありという素晴らしい理想を生かして、もっと違う形で人々のスポーツを支え奨励する方法がきっとあるはずなのです。


人間が中心を占める遠近法、即ち、ラファイエロは対称性の連続的基盤のうえに多様性から一般性へと向かうことが問題だったところに、カラバッチョは多様なものの総合という逆の問題を浮かび上がらせた。光の多様な屈折と、天の如き光源が占めるバロック的な、従って光と闇の対決を謳うオペラ的な総合だ


イタリアロマン主義の「第四階級」では、ルネッサンスのラファイエロが光を与えて開いてみせた空間が拒否されている。前景の三人(実は一人の労働者の誕生、青年期、老年期を表しているのだが)をみよ。背後の群集との間には、正確に測られた物理的な距離が存在しない。彼と彼らとのスペースは、大地によって、無限に近づけられていくのがわかる

戦後映画はミラノへ行く。ヴィスコンティーもアントニオー二も、プロデューサのポンティーもいたこの地で映画の扉が開いたのは、なぜか?それは、ロマン主義「第四階級」、ラファイエロとカラバッジョに先行して、ミケランジェロの未完成の彫刻があったからとしか説明できない、つまり映像は人間が人間に依拠する文学のあり方を具現化していたのだ


ジェノバといえば、コロンブスColumbus が生まれた都市。Viva Italy イタリア万歳!、と、ここから、青年イタリアのガリバルデイGaribaldiがシシリー島にボランティアの軍を派遣しました(ゴダールが称えた、ロッセーリのテレビドラマをご覧下さいね)。そして、知る人ぞ知る、アイルランド独立運動の政治家ダニエル・オコンネルDaniel O'Connelがここでローマに向かう途中客死したのですね。かれの非暴力主義はガンジーとキング牧師のモデルとなりました。ちなみに最後の映像は、大学の入口です。世界遺産となっている地域の建物で学んでいるとは羨ましい限りです


「言葉と物」は演劇論を含む。戯曲は俳優にとって思考可能な領域にある。が、演出家且つ観客の前で、この思考の領域を、非思考の即ち身体としか呼び様がない存在と関わらせる絶望的な不可能性に茫然としてしまう。舞台に与えられていく俳優がデカルトの身振りで思考し語るのは常にこんな風にしてなのだ。

さて、「外国語」と「母国語」は各々、思考可能な領域と不可能な領域と看做すことはできる。が、「外国語」が「母国語」のなかでいかに思考可能かと問うことは、連続性の破れに帰結する他ない問いではないだろうか。つまり、二つの言語の間には、(転倒を含む)上下関係のヒエラルキーが先行するからである。

上(例、中国語と英語の外国語)が、下(例、日本語という母国語)に介入してきたのだ。但し、母国語は、他者からの介入の痕跡を消す文化的昇華を行う。子安氏が指摘する、本居宣長の「天」を「アメ」と読む「古事記」の解釈的再構成も、漢字の介入の痕跡を排除せんとした文化的隠蔽だと学び始めている


W. B. Yeats ‏

So you must go; kiss me before you go.
Oh, would the busy minutes might fold up
Their thieving wings that we might never part.




子安宣邦 氏 ‏@Nobukuni_Koyasu

越後における「大地性」の経験によって親鸞は本当の親鸞になったと大拙はいう。それは京都の〈外部〉に出た親鸞である。だが大拙はその親鸞を今度は日本的「大地性・霊性」の最初の覚醒者として、日本の民族的〈内部〉に読み出していったのである。―これが私の『日本的霊性』論の結論である。




子安宣邦 氏 ‏@Nobukuni_Koyasu 9月15日

戦後日本における講座派マルクス主義とは何であったのか。講座派系歴史家たちによる「明治維新」論が戦後的改革にもった意味は何であったのか。この批判的清算作業はとっくになされねばならないことだ。ウヤムヤに終えられたことは、ウヤムヤになお生き続けていることである。それは妨げになるだけだ。

彼らマルクス主義講座派系の歴史家による思想史的作業に共通しているのは、反封建的近代化革命という日本の戦後的な思想戦略である。この思想戦略が彼らによるあの恣意的な思想史的な構成物を要請してきたのである。そしてそれらは戦後過程にそれなりに意味をもってきた。これをどう考えるかである。

戦後服部之総は大拙の真宗論を継承する形で日本の宗教改革者親鸞像を構成していった。これは恣意的な構成物である。これを恣意的構成といえば丸山真男の徂徠像ははるかに手の込んだ恣意的構成物である。そして丸山の親友であったノーマンの昌益像もまたノーマンによって作り出されたものである。




子安宣邦氏のツイートから @Nobukuni_Koyasu 9月8日

国際的な常識だとした私の予測がはずれたことに、自らの不明を恥じるべきか。だが中東に初めての平和の祭典をというのは、世界の平和を求めるものの当然の希望であり、それこそもっとも健全な国際的常識だろう。私はその希望を奪い、その常識を覆してしまったものに対して憤りを感じる。

「ふざけんじゃない。原発をコントロールできないから、汚染水にこんなに苦しんでいるんじゃないか」相馬の漁師は憤る。「状況はコントロールされている」という安倍の発言の嘘を漁師たちは生活をかけて知っている。だがこれを嘘だと知るのは彼らだけではない、ほとんどの国民は知っている。

「状況はコントロールされている」というだれもが嘘と知るこの発言を言質にして安倍と日本はオリンピックを買ったのだ。これはとてつもない高い買い物であるだろう。人類史的な嘘を言質として買ったこのオリンピックは、日本人を道徳的に最低な国民にしていくだけだ。これは高すぎる買い物だ。



子安宣邦氏のツィートより @Nobukuni_Koyasu 9月16日

なぜ美しいウソの言葉で7年後への楽観をいわねばならぬのか。朝日の冨永格は「日曜に思う」(9.15)で書いている。7年後の祭典を日本のためこんだ宿題を果たすための期限を切られたチャンスと考えようと。

「IOC総会で首相が明言した以上、原発事故の後始末はいよいよ待ったなしである。「ありがたい緊張感とでもいうか、・・世界のお客を存分にもてなすべく、国のたたずまいを整えておきたい。会場づくり、選手やボランティアの育成だけが準備ではない。被災地復興、隣国との仲直り、財政立て直しなど、ため込んだ宿題に期限を切るチャンスと受け止めよう。この国への追い風を久しぶりに感じる週末、少しばかり楽観してみた」

と、冨永は美しい言葉で書いている。だが美しい言葉のウソを朝日の紙面自体が証している。「原発 見えぬ道筋」として原発の将来像の政権における全くの不明をいっている。なぜオリンピックをめぐる「楽観」などが語られるのか。
7年後への「楽観」を美しい言葉で書くことが国民的メディア・朝日の編集委員としての務めであるとでも思っているのか。だがこれは日本に住むわれわれが直面する大きな不安・苦痛・危機から目をそらすことの手助けをしていることではないか。これはジャーナリストとしての自己欺瞞、責任の放棄である。



戦後映画はミラノへ行く。ヴィスコンティーもアントニオー二も、プロデューサのポンティーもいたこの地で映画の扉が開いたのは、ロマン主義「第四階級」、ラファイエロとカラバッジョに先行して、ミケランジェロの未完成の彫刻があったからだーそれは人間が人間に依拠する文学のあり方を具現化していた


イタリアというと、もっぱら、歴史的建造物のあるローマかフィレンツ、ベニスに流れてしまうのですが、イタリアにはミラノもあります。ミラノ・ファッシオンの他はあまり知られていない、というか、あまり宣伝されていませんけど。ここにあるスカラ座で、ネオリベラリズムのヴィスコンティーは演出をしていましたし、アントニーオー二も、それからかの名プロヂューサのカルロ・ポンティーもミラノ出身。今回乗り物に長く乗っていて腰の筋を痛めてしまい歩行困難に陥りカメラもしっかり持てないという情けない状態でしたが、イタタ…震えるカメラで撮った僅かな映像をつかって、かわりに声のナレーションを入れて、これを編集するかもしれません。

And Chaos, ancestors of Nature, hold
Eternal anarchy, admist the noise
Of endless wars, and by confusion stand.

混沌は大いなる自然の起源として、
反乱を導くことをやめぬものだー 
終焉なくたたかう抗議の声にともなわれて、暴動によってたってきた

(Milton, Paradise Lost、アイルランド流ふくろう猫訳)


東京五輪のメリットとして、政府と東電の放射能汚染隠しに対する国際報道の厳しい監視と情報公開のプレシャーが可能になった点をFT紙はいう。7年後東京五輪は、ナチスとスターリニズムと戦前天皇主義と行き過ぎた毛沢東主義、そして安倍の全体主義を統合した、人間精神を踏みにじる巨大な鎖となるか


Beyond the Alps - Tirano , by takashi honda
ミラノからティラノ経由でスイスへ。箱根登山鉄道の元祖であるアルプス越え。宿泊したチューリッヒで散歩しながら率直に考えたことをそのまま書きました。



オリンピックの開催のせいでロンドンの建設費に優先的に固定されてしまったことが、ロンドンオリンピックでの深刻な問題であり続けました。不況で疲弊した地方に必要なカネが回らないのですね。同様に、この問題は東京オリンピックまでの7年間の問題となる可能性大です。これ以上、アベノミクスの貧富の格差に、東京と地方の格差が加わることを許してはなりません。また、250キロ向こうの「福島を忘れよう東京五輪」という復興幻想に対しても私は憤りを以て警戒しています。何の根拠もなく安倍が約する「7年後ゼロ」とは、このままでは結局、福島の声、国際世論の声、地球の声、反原発の声を封殺することしかないのですから

オリンピックの開催のせいでロンドンの建設費に固定されてしまったことが、ロンドンオリンピックでの深刻な問題であり続けた。不況で疲弊した地方に必要なカネが回らないのだ。この問題は東京オリンピックまでの7年間の問題となろう。アベノミクスの貧富の格差に、東京と地方の格差が加わることになる

ネット共同体水族館。ベルが言う意味の制定化の秩序の中で理性の側から「是が適当/不適当」を言う”迎合しない紳士”に寄り沿う小魚達もいれば、思想と文学から距離をとりさえすれば覚醒しているとみえる統計学者に寄り沿う小魚達もいる。新聞とテレビが子魚全部をパクリと飲み込まなければよいのだが


あのアニメ監督の見事なコマ運びは観る者を、映画の文法の模倣を超えた、ルネッサンス級の美的構想の調和に誘ってくれる。が、私は慰められない。直観を重んじるあまり間違った論理を独断的に使用するグロテスクなものを、少女漫画ロココ的なフレームの不在によって表現した作品があれば是を擁護したい

ヒトラーはオリンピックが大好きだったが、汚染の現実によってはファシズムの国もそうでない国もオリンピックをやっている場合ではなくなると憂う声も。御用マスコミは福島のせいにするな!馬鹿者!ー>「福島県民が東京オリンピック招致を呼びかけるくらいのことをしてほしい」(NHK9時。解説者)

Write to the nth power, the n-1 power, write with slogans; Make rhizomes, be multiplicities! Run lines, never plot a point! Speed turns the point into a line! Be quick, even when standing still! Line of chance, line of hips, line of fright. Don't bring out the General in you ! Don't have just ideas., just have an idea (Godard). Have short-term ideas. Make maps, not photos or drawings.But the Pink Panther and your loves will be like the wasp and the orchid, the cat and the baboon.
Deleuze&Guattari


昨年渡辺一民氏が、講義「二十世紀精神史」のなかで、ドゥルーズ&ガタリの’リゾーム’に触れて、普遍主義ー型にはまらないアイロニーを含んだ思考の柔軟性ーと理解していたことは決して忘れられないー

n人で、 nマイナス1人で書くこと。スローガンの数々で書くことーリゾームになり根にはなるな、断じて種を植えるな!蒔くな、突き刺せ!一にも多にもなるな、多様体であれ!線を作れ、決して点を作るな!スピードは点を線に変容させる!速くあれ、たとえ場を動かぬときでも。幸運の線、ヒップの線、逃走線。あなたの裡に将軍を目覚めさせるな!地図をつくれ、そして写真もデザインもつくるな!ピンク・パンサーであれ、そしてあなたの愛もまた 雀蜂と蘭、猫と狒々のごとくであるように。

参照した翻訳で落ちていた箇所を補うと、「あなたの裡に将軍を目覚めさせるな!」に続いて、「正しい観念ではなく、ただ一つでも観念があればいい(ゴダール)。短い観念を持て…」が来ます。また、細かい点ではありますが、multiplicities をどう理解するかが非常に大切。一応宇野氏の「多様体」の訳で構わないのですが、これを”一的多様体”という風に理解してはなりません。なぜなら、その場合は、<多>が<一>に包摂されてしまうことを意味する、まるで帝国主義を謳うような最悪の哲学となってしまうからです。ここで、注意深く原文を確認すると、multiplicities、すなわち、「複数の多様体」と、ドゥルーズ&ガタリは書いています。ちなみにゴダールも「複数の映画史」という言い方をしますが、抽象名詞に複数形sをつけた形で、つまり、<一>に還元されない<多>の意義を強調していました。ただし渡辺氏によると、マルクス主義の<一>を捨て去ることほど<多>にとって無意味なこともなく、だからこそ「一にも多にもなるな!」と言うのです。解釈は時代に制約されるということもあり、八十年に代ドゥルーズが紹介されたときはインフレ的に専ら表層の<多>が、そして不況ー>ファシズムの現在は深さの<一>が強調されてきたようにみえますが、どちらもドゥルーズの批評精神に照らせばpointlessと言わざるを得ません


ナチズムの三十年代にあってもなお彼の人々の知性に対するあれほどの信頼は、二十年代に存在したワイマール体制と切り離せないものであろう。さて、戦後、アドルノによる批判やベケット演劇を前に彼は影響力を失ったか?否。70年代ゴダール映画と、80年代現代アイルランド演劇の中心に、たしかに彼は生きている。迎合主義の世間と瓜二つとなってきた仲良し掲示板のフェースブックでの恐らく場違いとなる、いかんな異化効果かもしれぬ、ここでのささやかな問題提起とは、一体かのブレヒトなら、現在においてテレビと新聞ー嘘をいうリアリズムーが隠そうとして隠しきれないものを、またネットによっても官邸前デモによっても段々暴くことができなくなってきたものを、いかに舞台において呈示したのだろうか?ということである。現在もし舞台で無理なら、何に依ってどうするのかという問いも含めて

Bertolt Brecht "Popularity and Realism "(1930's)
Our concept of what is popular refers to a people who not only play a full part in historical development but actively usurp it, force its pace, determine its direction. We have in mind a fighting people and therefore an agressive concept of what is popular.


開かれた全体と部分の関係の中心に、独立した司法権が不可欠。連邦と州の関係が適用される国連と国家の関係も然りと考えたO氏の探求は、自衛隊国連軍恋愛物語に酔う仲間の保守主義者の眼からも、国家の中に国家を認める以上に危険な、国家の中にヤンキー的司法権という穴を認める無思想無頼漢にみえた

In the United States, which has had no really organized socialist movement, nevertheless, as recently as the 1950s, there were about 800
labor newspapers which probably reached maybe 30 million people a week, which by our standards were pretty radical, condemning corporate
power, condemning what they called the bought priesthood, mainly those who run the media - the priesthood that was bought by the corporate system offering a different picture to the world. (Noam Chomsky)


Walter Benjamin, " The Author as Producer" (1934)

What we must demand from trhe photographer is the ability to put such a caption beneath his picture as will rescue it from the ravages of modishness and confer upon it a revolutionary use value.and we shall lend greater emphasis to this demand if we , as writers, start taking photographs ourserves, Here again, therefore, technical progress is , for the author as producer, the basis of his political progress.

大杉栄

近世国家の中央集権的原則は、国家の中に諸国家の存在することを許さない。国家は唯一、不分割性のものである。国家の中の一切は、国家の監視と制裁とを遁れて、存在することが出来ない。各個人は生れてから死ぬまで、国家の監督の下に生活しなければならぬ。(「近代個人主義の諸相」2- 4/13)



不可能なもの
作;本多敬

余りとは、割り算で割り切れず残った数のこと。
つまり、旅の列車での思索とは、
割り切れない余りのためのものー
思索は絵画のことを考えているつもりが、
自ずと向かうのは、絵画で割り切れずに残った、
映画全部のこと、演劇のことだったりする。
見通し良く割り切ってくれるろ究極としてのゼロを求めて、
わが頼りなき思索に根拠を与えるときは、
やはり原点に帰れだ。創る文学の原点のこと。
しかし、いつのまにか、この帰れが「返れ」となる。
結局、思索は小説の前に来たつもりが、
再び不定形の表の前に。即ち、光によっては割り切れずに
残った闇に再び会いに来たのだ。そうして、
何を何で割り切りたいのかという意欲も失せていくと、
いつものように、多くの言い訳と後悔を抱えて、
哲学と詩の庭に迷い込んだこの我のもとに、
降下してきた君は一体だれか?
声よ、天空の鳥はオペラから?
掌にある宇宙全体を
見える限りのこの世界全体で割ることの
倫理的な不可能性を告げにきたというのか?

旅の列車での思索。絵画のことを考えているつもりが、映画のこと、演劇のことだったりする。脱線しがちのわが頼りなき思索に根拠を与えるときはやはり原点に帰れ。が、この帰れが「返れ」となる。小説の前に来たつもりが再び表の前に。と、哲学と詩の庭に迷い込んだ我を、天空の鳥が見下ろすーオペラだ

どこの国の誰だって、質問したくなるよ。最初から、原発問題の解決は徹底的に国際問題化していけるかどうかにかかっていたのだ。

「東京五輪招致委員会が、IOC総会を開くブエノスアイレスで記者会見。外国メディアから福島原発の汚染水漏れに質問が集中。五輪招致のために対策を打ち出さずに問題がないかのように装うのが裏目に。メルトダウン隠しと同じ日本式は通用しない。」 (金子勝のtw)



これも、既成事実によって、安倍が戦後憲法の約束事を無化してしまう彼一流のやり方だともっと早く見抜くべきだったのかもしれない。もはやスポーツと政治の区別はないというこの時代に、知らないうちに、ゲームの規則が変わり始めた。この2013年の現在を振り返る将来の歴史家は、、天皇と皇族が極右翼の政治家達のために政治に介入することを承諾したという最初の出来事として証言するかも?

これも、既成事実によって、安倍が憲法の約束事を無化してしまう彼一流のやり方だともっと早く見抜くべきなんだ。もはやスポーツと政治の区別はないというこの時代に、ゲームの規則が変わり始めた。はっきりいって、皇族は極右翼の政治家たちのためなら、政治に介入することを承諾したということだろう

ドゥルーズといえば、内部から内部に即して語らずの表層の哲学だ。が、最近の「ドゥルーズの哲学原理」の「徹底化」に倣い、「ジルドゥルーズの哲学」も「ドゥルーズはさらに問いを深めていく」という書き方をする。消費の表層上で上昇したワイマールから、深さをいうナチズムへの知的転落をみる思いだ

「深さ」を言う限りにおいて、根をもつことの肯定を含む。同時にそれは「他」を排除してしか根をもつことができないという倫理的な問題を孕む。「徹底化」という純化も同じ問題に直面する。「消費の表層上で上昇したワイマールから、深さをいうナチズムへの知的転落をみる思いだ」と、私が書いた理由だ

私の知っている限り、イギリスとアイルランド、オーストラリアと、国家を名乗る自己を権威づけたい強盗は、「奪った」とは言わずに、寧ろ「与えた」と言うものだ。だから、NHKの大河ドラマが面白く一方的に描くようには、統一性と分権的自律性をもたらしたのは専ら長州藩の明治政府のおかげだったかどうかは疑うことも一度くらい必要となるだろう。ところで今度はその同じ国家が「無政府主義」によって「奪われている」、と、危機感をもった保守的知識人たちからの嘆きの声を聞く。しかしこの二十年間のあいだ、統一性と分権的自律性を徒に破壊してきた「無政府主義」は寧ろ国家自身の理性から起きたという事実から、保守的知識人たちからは不合理に遠ざかってはいないだろうか。たとえば、ネオリベラリズムは国家理性の内部の言説ならば、その完成体のTPPが国家理性のより内部から帰結されてくる「無政府主義」に他ならないことは明らかだ。だが、待て!そんな「無政府主義」は、人間を対象化・物化・奴隷化する国家のための贋の「無政府主義」でしかないことに注意したい。真の無政府主義とは、益々困難な道となってきたけれども、しかしだからこそ、人間を解放するために、押しつぶしてくる権威を根本から批判しようとするナイーヴなほど自由な精神に存するのだから。

Anger!
Japan is selfishly obsessed with making money.Japanese government launches a drive to bring 2020 Olympic Games to Tokyo. So, to have an advantage over fighting to the host, it postpones discussing measures to reduce a radioactive contamination. But I can't accept it! They really take no notice whatsoever of people's lives ? If so, it must be as patriotic a suicidal act as a kamikaze party in wartimes !?

今日床屋のテレビで、放射能汚染も心配だから今回はトルコとスペインに譲ろうと説く人はゼロ。 ロンドンがパリと争ったときもテレビは「イギリス」と連呼したが、英国と仏の旗を両方降る懐疑派もいた。英国の中産階級はフランスの水無くして生きていけないと本音を言い、英国の衛生上の問題を仄めかす

今週は、スイスとイタリアへ行く旅支度。時差ボケは頗る面倒で嫌だが、やはりヨーロッパへ行くのは広場にある彫刻を見たいからです。彫刻は空間をもつのです。演劇の空間は舞台と照明にあらかじめ制約されるけれど、一方彫刻が支配する空間の範囲は鑑賞者の想像力に依るところがあります。それが無責任に楽しいのです。彫刻を通して空間が想像力に介入してくるあの感じは、外国語で本を読んできた人が母国語との対応を探しているときと同じです。言葉が介入してくるまえに、迷った沈黙が渋々、堅固な秩序に接近しようと言葉を掘り出していくときの感じです!

こんな戦前の国策標語からでも、反社会的な孤立的<会社人間>をつくる男性優位型終身雇用制が軍国主義から来ていることが容易に読み取れるのではないだろうか。ー>「転職は 路頭に迷う 第一歩」(福岡地方鉱業報国連合会、昭和15年)
国をあげてオリンピックの東京誘致を勝ち抜くために、人命にかかわる放射能汚染対策の話し合いを棚上げするようなお国の勝手さは、なんと形容したらいいでしょうか?21世紀の特攻隊の次元と言わざるをえません

オリンピック誘致優先、放射能汚染対策の話し合いを棚上げするような勝手なお国はもう捨てようじゃないか。たまたま長州藩という軍事マッチョ集団が勝手に拵えたこの団体を解散すべき時期だ。日本が主導権をとるとろくなことがないから、そうならない形での連帯した東アジア圏ネットワークに委ねていく

女性独自のエクリチュールについて意見を求められたとき、ヴァージニア・ウルフは「女性として」と考えただけで身の毛のよだつ思いだと答えている。それよりもむしろ、エクチュールが女性への生成変化を生み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも感染して、男性を女性への生成変化に取り込むだけの力をもった女性性の原子を生み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながえら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。(Deleuze & Guattari )


(1)女性への生成変化はや分子状女性は少女そのものだとも考えられるのだ。処女性によって少女を規定することはできない。少女は、運動と静止の、速さと遅さの関係によって、また原子の結合や微粒子の放出によって規定されるのである。つまり<此性>である。少女は器官なき身体を駆けめぐる。少女は抽象線、あるいは逃走線なのだ。したがって少女たちは特定の年齢や性別に、あるいは特定の秩序や領界に帰属することがない。むしろあらゆる秩序や行為、あらゆる年齢や性別のはざまに滑り込むというべきだろう。こうして少女たちは、あらゆる二元的機械を自在に横切り、またこの機械との関係において、逃走線上にn個の分子状の性を生み出すのである。二元論を抜け出す唯一の方法は<あいだ>に身を置き、あいだを通り抜けてインテルメッツオに達するところに求められるわけだが、これはヴァージニア・ウルフが不断の生成変化に身を委ねつつ、その全作品で努力をふりしぼって実践してみせたことにほかならない。(Deleuze & Guattari )

(2)少女とは、男性と女性、子供と大人など、二項的に対立するすべての項と同時に存在する、いわば生成変化のブロックである。少女が女性になるのではなく、女性への生成変化が普遍的な少女を作り出すのだ。子供が大人になるのではなく、子供への生成変化が普遍的な少年を作り出すのだ。謎めいた文章家トロストが描いた少女の肖像には、革命の命運が結びついている。つまり少女の速度、その自由自在の機械上身体、その強度、抽象線あついは逃走線、分子状の生産、記憶への無関心、さらには非具象的な性格、一言でいうなら、それは「欲望の非具象性」なのだ。ジャンヌ・ダルクがその代表者ということになるだろうか。
(Deleuze & Guattari )



.


The girl is certainly not defined by virginity; she is defined by a relation of movement and rest, speed and slowness, by a combination of atoms, an emission of particles;haecceity. She never ceases to roam upon a body without organs.She is an abstract line of flight. Thus girls do not belong to an age group,sex, order, or kingdom; they slip in everywhere, between orders, acts, ages, sezes; they p...
.

.

Quand on interroge Virginia Woolf sur une écriture proprement fémine, elle s'effare à l'idée d'ecrire <en tant que femme>. Il faut plutôt que l'écriture produise un devenir-femme, comme des atomes de féminité capables de parcourir et d'imprégner tout un champ social, et de contaminer les hommes, de les prendre dans ce devenir. Particules très douces, mais aussi dures et obstinées, irréductibles, indomptables.

(Deleuze & Guattari )












When Virginia Woolf was questioned about a specifically woman's writing, she was appalled at the idea of writing "as a woman". Rather, writing should produce a becoming-woman as atoms of womanhood capable of crossing and impregnating an entire social field, and of contaminating men, of sweeping them up in that table.becoming.Very soft particles - but also very hard and obstinate, irreducible, indomitable. (Deleuze & Guattari )










アフガニスタンやイラクで、アメリカ軍戦闘機から攻撃に晒された地上の英国兵達が殺されるケースが頻繁に起きる。ロンドン時代にBBCで時々報じられた。軍によって禁じられてはいても、パイロットは飛行中の恐怖の克服の為に気分を高揚させてくれる麻薬に頼るのが現実という。ヒーロー気分でミサイルを「敵」にぶち込むのは、仲間と盛り上がるテレビゲームの操作と変わらない。友軍を攻撃したと知らされると、帰還したら俺は死刑だなあなどと仲間でやり取りし合っている

「検証」以前に、そもそも反証の精神が眠りこけていないか。爆撃をいう米国の立場を新聞は大合唱。石破流タカ派的言説を前に、シリアよりも先に、他ならぬこの国の最も貴重で最も脆弱な部分、即ち「言論の自由」に対する爆撃が始まろうとしている。イラク戦争を忘却しない、反証の精神は起きているか?




岩井克人の『二十一世紀の資本主義』
「美しきヘレネー」について…
「象徴的思考が出現するためには、女性が、言葉と同じように、交換されるものになることが必要であったにちがいない。それは実際、同じ女性が二つの両立しえない視点から見られているという矛盾を克服する唯一の方策であった。すなわち、女性は一方では、自分の欲望の客体であり、それゆえ性的本能と所有本能を刺激する。そして他方で、他者に要望を喚起させる主体であり、まさに婚姻によって他者を繋ぎとめておく手段でもある。(レヴィ=ストロース『親族の基本構造』)」



経済学を根本からとらえなおすためには、岩井がひくレヴィストロースは大変いい切口と思います。少しずつかんがえはじめますと、本当に一歩一歩ですけど、山賊のようなものが「女」を奪っちゃうと、共同体は他の共同体と関わるためのいわば貨幣を失うことになります。交換としての婚姻規則は、盗みによっては、成り立ちません。問題は、盗みは、無視しても構わないそれほど例外的なことかということがあります、女の交換ぐらいの規則で、他者を繋ぎとめておくための手段として本当に十分なのか?と、昔は思ったものです。あとから、バタイユが同じように考えていたことを知りました

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 9月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる