言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 8月後半

<<   作成日時 : 2013/08/17 15:21   >>

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芝居があけたあと、「櫻の森の満開の下」は随分と変わってきましたねと告げると、入江氏はこう語った。「芝居それ自身は同じはずなのに、不思議なものです。ヘーゲルの弁証法が言っていたように…(芝居は)同じものでありながら、同じものではないとは…(ガヤガヤ騒音)」。
この言葉に深い感銘を覚えた。もう少し伺いたかったが、最終電車に間に合わなくなるので、ギリギリでブレヒト小屋を去った。
高田馬場を超えて乗り過ごさないように用心しながら、帰りの電車の中で、<なぜ万物は反対物の対立と調和によって不断に成るのか?>についてあらためてかんがえたりした。「弁証法」の最高の可能性を活動と言論においてではなく、観照と思考においてみているのは、演劇の文脈では重要ではないことだけは確かだ。活動と言論に依拠する舞台だからこそ、「同じものでありながら、同じものではない」にちがいない。と、とりあえずの答えを見つけてから渋谷方面の電車に飛び乗った


Speaking of a a condition of becoming, it is a cartographer escaping from a principle of self-definition in totalitarianism that gives the masses of atomized, undefinable, unstable and futile individuals a means of identification as "We", "They". Atomically and transversely, <this> and <this> need to associate with three domains; the domain of the 17th century , the domain of 18/19 centuries, the domain of the 20th century. How I can relate to my <this>...


How japanese vice-premier can praise Nazis' style ?

As Hannah Arendt says, Nazis propaganda was ingenious enough to transform antisemitism into a principle of self-definition, and thus to eliminate it from the fluctuations of mere opinion. It used the persuasion of mass demagogy only as a preparatory step and never overestimated its lasting influence, whether in oratory or in print. This gave the masses of atomized, undefinable, unstable and futile individuals a means of self-definition and identification which not only restored some of the self-respect they had formely derived from their function in society, but also created a kind of spurious stability whic made them better candidates for an organization.



ファシズムとはマイノリティーをスケープゴート的に指差す。またこの対抗として非アィデンティティーのアィデンティティー化を集団に促すことも含む。リゾームといえば、ファシズムから逃れる主体化の条件。原子的にこれとこれが17世紀的領域、18・19世紀的領域、20世紀的領域と横断的に関わる


ブレヒト小屋という名の弁証法

ブレヒト小屋にて。 「櫻の森の満開の下」は変わってきましたねと告げると、入江氏は私にこう語った。「芝居それ自身は同じはずなのに、不思議なものです。ヘーゲルが言っていたように…(芝居は)同じものでありながら、同じものではないとは…(ガヤガヤ騒音)」。

シリアといえば、知る人ぞ知る古代世界の舞台で大変高いレベルの翻訳を行ってきた学術的な国。聖書はシリアを経てヨーロッパに入ってきたのである。中世においてもアラビア語・ヘブライ語・ラテン語が交錯する中継センターで、十世紀頃の聖書の展示をダブリンで見たことがある。ちなみにアイルランドの装飾的な聖書本へのあり得べき影響を考えさせる。そのダブリン時代に、シリア人の知り合いが一人いたが、他のアラブ諸国からきた者達と比べると、キリスト教に対する距離の取り方が中々知的で洗練されていた。さて、本題に入ると、植民地奪回を諦めぬ英国は中近東の人々からは心理的な病気と思われている。そしてアメリカは決して学ばない。ヒロシマとナガサキ、ベトナム戦争、と、ひたすら爆撃してきた国は感覚が麻痺しきっているのか、あるいはそれとも、イラク爆撃での限定攻撃の「限定」ほど限定のないものはないことを思い出せないほど貪欲なのか。最後にシリアはフランスの植民地だったが、爆撃から逃れてくる大量の人々を受け入れたくない。信じてもいないくせに、「限定」という言葉で自己を騙している。これ以上アジアに対する爆撃を許すべきではない


外から移民してきたような感じでツイッターの言葉がある。残暑で何も読めずぼんやり。と、ネットの言葉をいかに紙の言葉に投射するかというマイナーな変なことを考えている。<外部の歴史ー二十世紀思想は外からいかに見えてきたか>。こんなテーマで十年ぐらい書き通すのもありと思い始めた今日この頃

モルドヴァ、ルーマニアから帰還した、東京演劇アンサンブル「桜の満開の下」を観劇しました。アイルランド公演とは異なるものをたしかに観たのだという感想をもちました。これは、生成変化する演劇です。ところで原作である坂口安吾の文学に一番欠けているのは民衆です。したがって、演劇の課題は表現上、いかに民衆を呼び出すかということに集中します。そうして芝居の中で、必然として、山賊(公家)は民衆を招集しようと大地を荒々しく踏みならすのです。ところが、女(原口)の方は、山賊の大地の音を、不協和音的に差異化していく声の力をもっています。山賊の言葉は女の言葉に依拠したり、言葉から抜け出したり、言葉を自らのなかに入り込ませたりします。関係が自己関係する錯綜性。ここから、女の声は、山賊の<生まれ故郷>をもっと大きな世界へと散逸させていくのですー宇宙の吹雪く無限の扉へと。シビウ国際演劇祭、とくにモルドヴァからブレヒト小屋のもとに持ち帰ったものとは、演劇人たちの信頼だということがダイアローグから読み取れました。つまり、戦争する国家を変えるだけでなくこれを超えたところで人々のアイデンティティーの探求を助ける介入的役割がまだ演劇にはあるのだとする演劇人たちの信頼のことです。(本多敬)

安倍内閣支持率は、日経新聞で58%という数字だが、恐らくファシズム的に同調する者達がこの数字をどんどん上げていく未来も考えておく必要がある。軍国主義的な死刑を賛成する人々が九割もいるという現実から、安倍支持は九割まで行く可能性も。残り一割の人々でいかにファシズムと闘わうかである。


ハンナ・アーレント ‏
活動者は常に他人の間を動き、他人と関係を持つ。だから、活動者というのは、行為者であるだけでなく、同時に、常に、受難者である。行うことと被害をこうむることは同じ効果の裏と表だからである。(『人間の条件』26)





原初のテクストを映画に与えることー ゴダールの芸術至上主義について

「子の曰く、吾、衛より魯に反(かえ)りて、然して後、楽正しく、雅頌各得(がしょうおのおの)其の所を得たり」(「論語」)。嘗て定位した共同儀礼のホームレスとなった詩と’音楽が意味を喪失した後世に、詩とは何か、音楽は何かが問われたと子安氏は指摘した。孔子だけではなく、詩と音楽の言葉への帰還を語った文と私は解した。さて、まさにこのようにして、映画とは何かと問い続けてきたのは、ゴダールだった。彼のかの有名なテーゼにしたがうと、映画は五十年代後半に消滅していた。これはいわゆる表現上のフロンティアの消滅を言及した言葉と理解されるが、同時に、そこで、映画のアイデンティティーが五十年代後半には消滅したことを言おうとしたのではないか。ここで映画史へ。リュミエール兄弟の発明した映画は百歳を迎える前に、テレビを前に、人々によって決定的に忘却されてしてしまったのである。戦後の映画の歴史とは、バラバラにホームレスとなった映像と音とが意味を喪失して行った、孤独の歴史に他ならなかった。だからこそ、八十年代からの「故郷への帰還」というゴダールの問題意識が成り立ったともいえよう。このことは大事だ。つまり映画が依拠した映像と音の、言葉への帰還を探究が可能となったからである。ちなみに、「映画史」発表の90年代以降、渡辺一民氏のようにそれまでゴダールを熱心に支持してきた人々が一斉に、ゴダールを芸術至上主義と非難しはじめた。この芸術のための芸術、即ち、芸術至上主義とは一体なにか?私は改めて問う。私は、ゴダールとの対談の中でデュラスが語ったことに注目する。デュラスは、失敗した植民者家族の娘として過ごしたベトナム時代に、(映画館にて)貧富の差が暗闇によって消された安堵感のことを証言している。つまり、そこで、映画は政治よりもっと曖昧なそんな共同儀礼という側面をもつことを証言したのではなかったか。全体主義批判を行ったアンナ・ハーレントならば、デュラスが映画に見出したものー政治よりももっと曖昧な領域に存在したーを、階級なき社会における「芸術のための芸術」と呼んだかもしれない。最後に強調しておきたい点は、ゴダールは映画におけるシュールレアリズムの継承であったということである。これを理解するためには、テレビだけでなく、映画を解体していったのは、映画自身であったことを知らなければならない。つまり彼が複雑な関係をとり続けたハリウッド映画のことだ。総括してみると、結局、ゴダールをはじめとしたヌーヴェルバーグの芸術至上主義は、再び自らを解体した映画の構造に依拠することは根本的に不可能だった。そうして死んだ映画を相続したのは、言葉であった。言葉が受け取ったものはなにか?分からない。ただ、ふたたび語ること、ファシズムが帰ってきたわれわれの暗闇の中から思考としての映画の形式を煌めくことが始まろうとしているのではないか

嘗て定位した共同儀礼のホームレスとなった詩と’音楽が意味を喪失した後世に、詩とは何か、音楽とは何かが問われた。孔子だけではなく、詩と音楽の、言葉への帰還を喚起した一文ではないだろうか。

「子の曰く、吾、衛より魯に反(かえ)りて、然して後、楽正しく、雅頌各得(がしょうおのおの)其の所を得たり」。(子曰、吾自衛反魯、然後楽正。雅頌各得其所。「論語」第14章)
The Master said, When I returned from Wei to Lu, only then was the music put in order, and the "Ya" and "Song" found their proper places,
(Book9、The Analects of Confucius)


A classless society
Hannah Ardent " The origins of Totalitarianism" (1950)

Equality of condition among their subjects has been one of the foremost concerns of despotisms ans tyrannies since ancient times, yet such equalization is not sufficient for totalitarian rule because it leaves more or less intact certain nonpolitical communal bonds between the subjects, such as family ties and common cultural interests. If totalitarianism takes its own claim seriously, it must come to the point where it has "to finish once and for all with the neutrality of chess", that is, with the autonomous existence of any activity whatsoever. The lovers of "chess for the sake of chess", aptly compared by their liquidator with the lovers of "art for art's sake", are not yet absolutely atomized elements in a mass society whose completely heterogeneous uniformityy is one of the primary conditions for totalitarianism. From the point of view of totalitartian rulers, a society devoted to chess for the sake of chess is only in degree different and less dangerous than a class of farmers for the sake of farming. Himmler iquite aptly defined the SS member as the new type of man who under no circumstances will ever do "a thing for its own sake".


Hannah Ardent " The origins of Totaliarianism" (1950) を読み始めた。ハンナ・アーレント曰く、コモンセンスの功利主義的理も全体主義にはまったく無力である、と。なぜかというと、そもそも全体主義にとってどんな意味も無意味でしかないのだからと説明している。。ナチス支持者は絶対服従、だから仮にパリの地下鉄がナチスのおかげで出来上がったと吹き込まれても疑うことは一切ありえない。もし疑う者が出てきたら、ナチスは地下鉄を爆破するだけのことだ。意味を否定し去ること。全体主義における、他者と自己という二つの項の間の恐るべき切断。すなわち、他者の側を「敵」として排除していく過剰な意味づけと、自己の側を「無」として空白化していく徹底した意味の否定。そして現在。自民党の支持者たち及び、(自民党に任せればいいので投票所に行く必要も、感じなかった)投票棄権者たちも結構、このナチス支持者たちに近いところで存在しているんじゃないか。ファシストの夢の中に再び眠り込まないように、むしろ、3.11を、目覚めの条件としてこれを生かすことこそが大切なことではないか


アーレント曰く、コモンセンスの功利主義的理も全体主義には無力である。そもそも彼らにとって意味は無意味だからだ。支持者は絶対服従、仮にパリの地下鉄がナチスのおかげで出来たといわれても疑わない。疑いがあればナチスは地下鉄を爆破するだけのこと。自民党の支持者及び投票棄権者もナチスと同類

昨日、「ザ・ガーディアン」紙編集長による知る権利についてのコメントを読んだ。ロンドン時代は、三十万部程の発行部数だったが、現在は19万部に減ってきた。が、独立を保って、情報を出さない政府を相手に大きな訴訟を幾つも行っている。八百万部の朝日新聞は政府を訴えたことが一度でもあるのか?

ありゃりゃ、英文学のドゥルーズという幻想が勝手に起きてるのかしら?

英文学史というのは、British (English) literature history の翻訳語であるが、これは疑うべし。マルチカルチュアリズムが台頭する70年代にイギリスに留学したナイジェリア人から、激しい論争があったときいた。現在は、History of literature in English というより妥当な概念が市民権を得ているのではないか。British literature history、British and American literature historyと言う人とは友達になりたくない、そういう響きがある。History of literature in English - Britain and AmericaならOKだ。なぜかというと、British literature history からは、ファンダメンタルな実体が空想されてしまうからではないか。そんな実体は常に中心としての帝国なり国家をもつものだ。他方、History of literature in English - Britain and Ireland だと、文学における、国家と国家語を超える脱領土性を表現できてしまう。こうして、「英文学」という翻訳語を注意深く検討すると、結局、ドゥルーズがいうEtrange litérature anglo-américaneとは、概念的には、History of literature in English - Britain and America の方に対応していたとおもう。実際にこの方が、et_et_(and_and_) という、いかに哲学原理に外部性を介入させるかというドゥルーズの問題意識に沿っているのは明らかだ。ただし、ドゥルーズにおいては、方法としての英文学ばかりではなく、方法としての英語の介入も欠かせない。英語に顕著な、等位性co-ordination と、並列性parataxisのことだね。これらが「アンチ・オイデプス」や「ミル・プラト」の書き方に影響を与えていたことは、実際にこれらを読んでみればわかることであろう。


反対は反対でも、靖国公式参拝に反対する仕方が違うんだよ。憲法尊重の側から国家を超越的に捉える保守主義者が拒むのは、靖国における、国家という宗教を冒すその超越性だ。一方私が拒むのは強い国家。言い換えれば、戦う国家はどこから来たのか?どこへ行くのか?という問いに対して自身を指さすような、戦前からの連続性を主張した国家だ。妥協して、靖国は他と同じような一神社として存続することは構わないが、しかしアジアからの非難を受けるなか公式参拝を続ける限り、こういわなくてはならない。「靖国」は、他でもない強い国家の名前に過ぎないと


子安 宣邦氏のツイートより Nobukuni_Koyasu 8月23日

時差ボケと格闘しながら、なんとか〈仁斎によって論語を読む〉作業に復帰した。明日は久しぶりの論語塾がある。だがなぜ論語を読むのか。論語とは漢字文化圏における〈始まり〉の書である。いかなる〈始まり〉なのか。デリダがアルケーとは始源と命法を意味するというが、たしかに経典とはそうである。
論語とは漢字文化圏における始源性をもった教法である。後に漢の楊雄が論語を模して「法言」を創ったが、論語とは最初の「法(手本・規範)」となる言語である。だが孔子の言葉を「法言」としていったのは後世の学者であって、孔子ではない。孔子とは「文」を学ぶべきことを最初にいった人間である。
「文」とは先王の遺文を始めとする先人の残した文章である。孔子は「文行忠信」の四つを教えたという(述而)。第一に「文」を学ぶことである。古えの文を学ぶことで、古えは規範的性格をもってくる。古えに照らし合わされて、今が問い直されるのである。古学とは革新の学であるのだ。 先人の文を学ぶとは、同時に今を問い直すことである。先人の文を学ぶことをいう孔子は、同時に道を、徳を、政を、信を、礼を、究極的には人間であることを問い直していったのである。この記録が論語である。私は論語という〈始まり〉を、この人間への問い、あるいは問い直しの始源性としてとらえる。私が〈仁斎によって論語を読む〉というのは、仁斎の古学という、論語の読み直し、問い直しをいう革新の学の志向を私が仁斎と共有しているからである。同時に直接に論語を読むのではなく、〈仁斎によって読む〉ということには思想史の方法論的な意味がある。それについてはまた書こう。



百倍という数字を分析する能力はないが、海洋投棄のことを考えると、放射能汚染の問題は、日本だけでは手に負えなくなってくるのだろう。近隣諸国と世界に向かって「助けて下さい!」と頭を下げるときがもう現在かもしれない。少なくとも、国防軍のプライドで勇ましくなっているときではないことだけは確かだ


何らかの人間学、すなわち、認識の(したがってあらゆる経験的知の)権利上の限界がまさにこのおなじ経験的知においてあたえられる実存の具体的形態でもあるような思考様態を、すくなくとも暗黙裡に生じさせることなしには、経験的内容に先験的価値を賦与することも、構成する主観の側へそれを転位することも、おそらく可能ではないであろう。M,Foucault, フーコ「言葉と物」、渡辺一民訳より

It is probably impossible to give empirical contents transcendentale value, or to displace them in the direction of a constituent subjectivity, without giving rise, at the least silently, to an anthropology that is, to a mode of thought in which the rightful limitations of acquired knowledge ( and consequently of all empirical knowledge) are at the same time the concrete forms of existence, precisely as they are given in that same empirical knowledge. Michel Foucault

Il n'est sans doute pas possible de donner valeur transcendantale aux contenus empriques ni de les déplacer au coté dùne subjectivité constituante, sans donner lieu, au moins silencieusement , à une anthropologie, c'est-à-dire à un mode de pensés où les limites de droit de la connaissance (et par consequent de tout savoir empirique) sont en même temps les forms concrètes de l'existence, tells qu'elles se donnent préeisément dans ce meme savoir emprique.

Michel Foucault , Les limites de la représentation,; 'Les mots et les choses'


comment; 一応ここでは、フーコは、フッサールの現象学に先行するカント人間学の意義について言及しているんけどね、う、う、訳が凄すぎるw(溜息)。この一文を読む限りは、フーコは、現象学のフッサールを、三十年代のハイデガーにおける存在論のもとにではなく、18世紀のカントのもとに位置づけることに関心があるようだ。柄谷はそうしているわけだけれど、文学の純化のように哲学の純化に方向づけられているのが、どうもね…。この点はフーコとは違うと思う。ここでは論じられないが、少なくとも、カント的人間学に委ねるフーコのポスト構造主義は、反啓蒙主義ポストモダニズムとは一線を画すということがわかるというもの。ちなみに、渡辺先生も、三十年代的な、生命の哲学に収斂していく存在の哲学に対して強く警戒しているのだけれども、芝居の後飲んでいる時、西田幾多郎「善の研究」だけは擁護したいと語っていた。「善の研究」も読むと中々面白い。たしかに、西田は京都学派だ、近代の超克だ、XXだというラベル張りだけで分かったつもりになって結局無視してしまうことは許されないだろう。ただ自分には西田を批判的に読む力が欠ける


Ces hommes du désir (ou bien n'existent-ils pas encore) sont comme Zarathoustra.Ils connaissent d'incroytable souffrances, des vertiges et des maladies. Ils ont leurs spectres. lis doivent réinventer chaque geste. Mais un tel homme se produit comme homme libre, irresponsable, solitaire et joyteux, capable enfin de dire et de faire quelque chose de simple en son propre nom, sans demander la permission, désire qui ne manque de rien, flux qui franchit les barrages et les codes, nom qui ne désigne plus aucun moi
Deleuze&Guattari; L'anti-Oedipe - Capitalism et Schizophrenie


彼らは信じがたい苦悩、めまい、病を経験している。彼らは、彼らのスペクトルをもっている。彼らは、たえず新たに身振りを生み出さなければならない。まさしく、このような人間は、自由で無責任でな、孤独で陽気な人間として生み出され、やっと自分自身の名において単純なことを語り、そして行う。誰にも許可を求めることもなく、欲望には何も欠けたものがなく、

These men of desire - or do they not yet exist ? - are like Zarathustra. They know incredible sufferings, vertigos, and sickness. They have their specters. They must reinvent each gesture. But such a man produces himself as a free man, irresponsible, solitary, and joyous, finaly able to say and do something simple in his own name, without asking permission; a desire lacking nothing, a flux that overcomes barriers and codes, a name that no linger designate any ego whatever.


二十代のニューヨーク訪問に先行したのは、アメリカの異なる価値の共生を証言したケージの本だった。第三世界の走りという、三十代にいたダブリンで、脱植民地的な、自分のことは自分で決める自決の権利について、現代演劇やポストコロニアリズム論争を通して考えた。四十代にロンドンに行き、ヨーロッパの、社会保障ー公的豊かさの評価について考えることになった。帰国してきて、わかったことだが、色々なヴァリエーションがあるけれど、どんな日本人も必ずこの三つの基底ーアメリカ・ヨーロッパ・第三世界ーから成る座標において、自らを形成しているという事実だ。日本人は自分で思うほどには孤立していない。つまりだれもが外からの影響の中で生きているということだ。国家は、この開かれた依存関係の事実を益々隠ぺいできなくなってきたのではないだろうか。

何らかの人間学、すなわち、認識の(したがってあらゆる経験的知の)権利上の限界がまさにこのおなじ経験的知においてあたえられる実存の具体的形態でもあるような思考様態を、すくなくとも暗黙裡に生じさせることなしには、経験的内容に先験的価値を賦与することも、構成する主観の側へそれを転位することも、おそらく可能ではないであろう。M,Foucault, フーコ「言葉と物」、渡辺一民訳より
comment; 一応ここでは、フーコは、フッサールの現象学に先行するカント人間学の意義について言及しているんけどね、う、う、訳が凄すぎるw(溜息)。この一文を読む限りは、フーコは、現象学のフッサールを、三十年代のハイデガーにおける存在論のもとにではなく、18世紀のカントのもとに位置づけることに関心があるようだ。柄谷はそうしているわけだけれど、文学の純化のように哲学の純化に方向づけられているのが、どうもね…。この点はフーコとは違うと思う。ここでは論じられないが、少なくとも、カント的人間学に委ねるフーコのポスト構造主義は、反啓蒙主義ポストモダニズムとは一線を画すということがわかるというもの。ちなみに、渡辺先生も、三十年代的な、生命の哲学に収斂していく存在の哲学に対して強く警戒しているのだけれども、芝居の後飲んでいる時、西田幾多郎「善の研究」だけは擁護したいと語っていた。「善の研究」も読むと中々面白い。たしかに、西田は京都学派だ、近代の超克だ、XXだというラベル張りだけで分かったつもりになって結局無視してしまうことは許されないだろう。ただ自分には西田を批判的に読む力が欠ける

最高裁入りのヤマモトツネユキなる人物が内閣法制局の解釈を語るとて、「役所内部か、あなたの個人的意見でしょうか?」にしか響かぬ空ろさだ。解釈に正当性を与える言論的な公共空間を押しのけて、安倍をはじめ靖国的の愛国者達の「痛い」という私的感覚だけが勝手に膨張し続けている危機的状況なのだ






「桜の森の満開の下」の別の読み方
ー坂口安吾の近代批判としての鬼神論

「桜の森の満開の下」は、登場してくる鬼はそもそもどこから来たか、結局どこへ行ったのかという幸福なロマン主義的な迷宮に、われわれを誘います。が、迷宮それ自身は、近代に他なりません。つまり、自らの合理的解釈体系の外部を鬼と名づけてきたのは近代ですし、これを排除してきたのも近代。ここで一言しますと、近代とは、理性の側にある自らを正当化すればするほど、鬼である「非合理的な領域」を必要とするという体制です。例えば、近代の入口に立った17世紀のデカルトのコギトの例を検討しますと、理性はいくら理性的であることを追及してもどこまでも狂気に付きまとわれ続けます。つまり意図せずしてデカルトは純粋な理性が存在しないことを証明したのは、デリダでした。近代の言説だけが、「そうしなければならない」とばかり、理性と狂気とを切り離すのです。特に現在排外主義の声が叫ぶ「敵」の側に一方的にみとめる狂気などは、実体として存在するものではありません。さて坂口の「桜」に帰りますと、欺瞞的にも、近代の人間が鬼を愛するのは、人間が鬼でない自己を愛するための手段でしかないことを示したとみることができます。こうした、力として理性の支配する優越感が、まさしく近代を意味します。この欺瞞を見抜いた、安吾が導入したのが、鬼は鬼でも、近代批判の方法として働く奇妙な鬼でした。一般的に言って、鬼は狂気から来るものです。それに対して、坂口にとっては、単に鬼はわれわれの理性の側から来たというアイロニーを示せば十分でした。理性からきたXであれば対話の可能性があるということ。坂口が派遣したアイロニーとしての鬼は、われわれを突き落すために、われわれの側からやってきて、われわれの側へ帰っていきましたー言葉の方へ




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スクリーンは、光の亀裂。それは、映画に先行する資本主義という全空間に属す亀裂をなす。この亀裂に向かって、全体主義の影は自らを投射する。そして光である、映画したがって資本主義の方も自らを影に向かって、全体主義に向かって投射するということが常に起きる。朝の始まりにおいて、満たされちた暗闇を、夜の背後から襲う光の一撃のように。だから、このようにして、暗闇の海岸での人々の会話の如く、いったいだれがなにを喋ってきたのか定まらぬという映画史の性質とは、第一に、ファシズムの幾何学的性質に関係するといえるのだーゴダールが見事に映画を利用して可視化してみせたように。これは、ファシズムの影が、いわゆるポピュリズムが、いったいだれがなにを代表するのか分からなくなった議会の内部から必然として現れてくることを許す構造を、光の芸術である映画が模倣しているともいえようか…


METのヴェルディ「ドン・カルロ」。19世紀はどう16世を再現し、この19世紀的置き換えを21世紀の観客がいかに読むか?対応としては、スペイン王国はオーストアリア帝国に、王妃は独立を要求したベニスやトリエステに、異端審問官はローマに、改革派はアナーキストに、最後に王は米国大統領に


対象を追うという言葉は、演劇人が依拠する訴因的中心の構成を言い表している。対象とはなにか?それは、与えられた脚本から解釈し再現しなければならぬ、そこに作者が定位しているとみなされる言語的射程をいう。だから、映画人が軽々と、「フレームを通して対象に迫る」と自慢するのをきくとき、演劇人にとっては、肩を竦めるほどの即物性しか含まぬ発話なのだ。興味深いことに、逆に、ここから、映画の、あまりよく知られていないアイデンティティーが垣間見られる。演劇の支配に抗する作家ならば、見ることの神聖化を訴えるという、方法としての見るコギトの存在意義を擁護していくことになるだろう。実際にゴダールがそうだった。それにしても、かれの映像を神聖化してやまない映画世界とは、まさに、16世紀である。つまり、八〇年代以降、「パッション」を契機に、まだ原初のテクスに書かれたエクリチュールの外面性に祝福を与えていた注釈学の16世紀にかれが限りなく遡行していったのは、しかし、単にアナクロニズムの企てとしては片づけられない、なにかがあったはずなのだ。が、残されたわれわれは、この二十年間、さしたる成果を上げることもできず、ただ、異端大審問官の如く、なにが良い映画でなにが悪い映画であるかを説教し続けたゴダールの言葉をまえに、自失茫然としてきただけであった。益々映画は孤独になってしまったが、暗闇の中から、言葉だけが、対象として追うに値するということだけが確かなこととしてあらわれてきた。これが16世的な現象なのである。映像から言葉へ、さらに思考へと移行してきたからこそ、孤独な映画だけが・・・。もはやそれを映画と呼ぶ必要がないのだろう



Sidney時代、サファリーパークというんですか、自家用車でまわれるのですね。ベンツの上に大きめなライオンが乗っかってきてそのまま休憩。一時間たっても動かず、車も動けず、上からメシメシと崩れてきそうな恐怖の音をききながら、「これが最後になるかもしれない・・・」と、青ざめた父の顔と祈り始めた母の姿を思い出しましたな。ああ、親子三人、ライオンに食われちまうんだなあと



例えば、X=X

かくの如くあまりに巨大すぎる集合というのは、自己自身の内部では、制限がないから何に対しても開かれているという外観をもつ。且つ、等式記号(イコール記号のこと)によって正しさの保証が常に与えられる故に、厄介なことだが、自律性の外観性すら持つ。唯我独尊、かくの如きトートロジーが、TPP的自由貿易論者が夢心地で語る市場万能論からきこえてくるのは、さてただ偶然によるものだろうか?

「はだしのゲン」には、原爆を原爆として視覚に訴えて表現するという即物的な直接性が独立して存在しています。他に置き換えることが不可能なこの映像的部分を指差して、この国のある世代の勢力は、「残酷」ときめつけて閲覧を制限するという、事実上の自己検閲に匹敵することを犯そうとしています。なぜ、彼らは、作者が原爆を経験しなかった人々に対して原爆の意味を問うていくかれの言葉と一緒にこの映像たちをみようとはしないのでしょうjか?思い出すのですが、「はだしのゲン」は、原爆に至る日常生活も差別と貧困の現実を含めて嘘なく描きました。生活者の視点から対象(「原爆」)に意味を批判的に与える作家の抗議に属する行為だったのではないでしょうか。今回明らかとなった事は、この種の自己検閲と「原爆」、この両者の間には、歴史に意味を与える人間性を嘲弄する点において、連続性があることを露呈したということではないでしょうか

デュシャンのチェス好きは伝説的。ニューヨークの自宅での若いケージとの対戦のときを回想して曰く、ケージは自分のキングを取られても何事も起きなかったかの如くチェスを続けたという。さすがケージだ、勝ち負けを超えている。キングに特権を与えない終わりなき奇妙なゲームはさぞ、彼の音楽のような豊穣さを生産したに相違ない。さて、彼方側から、こちら側の話に移ると、身の丈知らずでいつまでもキングのつもりで、ちまちまと国家としての強い日本を守ろうとするから、TPPの米国との交渉ゲームに一方的にやられてしまうのではないか。まずTPPに先行すべきなのは、現実にどんなに困難にみえても、アジアの生活者たちと共存できる条件の構築だとおもうよ

デュシャン曰く、ケージは自分のキングを取られても何事も起きなかったかの如くチェスを続けたというが、キングのつもりでなちまちまと国家としての強い日本を守ろうとするから、TPPの米国との交渉ゲームに一方的にやられてしまう。TPPに先行すべきなのは、アジアの生活者と共存できる条件の構築

無表情にこそ、差異としての無限の感情が宿るー「少年」の大島渚はこれを「戦場のXmas」で再び表現した。一方映画制作の端緒から、機械的に差異を消し尽くせば自ずと表情が足りないだけの自分の顔を正当化できると勘違いした様な北野武の映画は、シュルレアリズムが最も憎んだ流通の文化の類だろう

Nagisa Oshima knew very well that only an expressionless face can have infinitie emotions that Takeshi Kitano successfully expressed in the cell in the last scean in In his "Merry Christmas, Mr. Lawrence". Of course it owes to the director, Oshima.But later Takeshi is too blunt to know his close-up face he made is not more diversity than the gangster. British critics loves the grotesque tase, that is nothing with film expression


ふくろう猫、アイルランドを語る

もうこの時代は、不確定で無数に生じるあっちこっちとしか関わるしかないと思ってます。それでパスカルの問いをそのまま言うのです;なぜこのわたしは彼方側ではなくて此方側にいるのだろうかと。この問いだけは確かなことです。外国では大変受けた捨てこの台詞も(笑)、此方ではただ不審がられてしまいます(汗)。此方側の「あっちっこち」の世界のことを迎合的に称賛しているのではありません、恐らく彼方側にも、(此方側みたいに)彼方側と此方側で分かれているので、前述した「あちらこちら」は、その彼方側での「あっちこっち」の意味です。そしてラデイカルなものは、彼方側と此方側の<間>にしかないと思います。
ところで自分の経験に即して少し具体的なことをいいますと、8年間アイルランドという地域紛争を抱えた国にいましたから、どちらが此方側でどちらが彼方側でもいいんですが、カトリックとプロテスタントが「あっちこっち」にいるという現実において、(いわゆる有名なグッド・フライデーの停戦後も)、小規模とはいえ毎日殺し合いが起きているのですねーアイルランドの外には報道されていませんが。此方側の「あっちこっち」についていいますと、それは結局、嘗て植民地時代のイギリスが設計した”分割し統治す”という枠組みとしてだけある、監獄の中にある「あっちこっち」でしかないのです。アイルランドのカトリックとプロテスタントが、もちろんなんとか外見だけでも共存しているようにみえる、此方側の「あっちっこち」を獲得することは現実的には大事な課題です。さらに、これを超えていくことがもっと大事となりますー彼方側へですね。但し、その肝心な彼方側で、再び此方と彼方の間で対立していたら無意味。彼方側でこそ、究極的に依拠できる此方側と彼方側の<間>が成り立つという信頼が欠かせません。ラディカルな思考とは、かくの如く<間>に存在するのではないでしょうか。多分この論点は「近代の超克」と関係した事柄とやっと気がつき始めましたがね(遅いか?)


もうこの時代は、不確定で無数に生じるあっちこっちとしか関わるしかないと思ってます。それでパスカルの問いをそのまま言うのです;なぜこのわたしは彼方側ではなくて此方側にいるのだろうかと。この問いだけは確かなことです。外国では大変受けた捨てこの台詞も、此方ではただ不審がられてしまいます

此方側の「あっちっこち」の世界のことを迎合的に称賛しているのではありません、恐らく彼方側にも、(此方側みたいに)彼方側と此方側で分かれているので、前述した「あちらこちら」は、その彼方側での「あっちこっち」の意です。ラデイカルなものは、彼方側と此方側の<間>にしかないと思っています

自分の経験に即して少し具体的なことをいいますと、8年間アイルランドという地域紛争を抱えた国にいましたから、どちらが此方側でどちらが彼方側でもいいんですが、カトリックとプロテスタントが「あっちこっち」にいるという現実において、(いわゆる有名なグッド・フライデーの停戦後も)、小規模とはいえ毎日殺し合いが起きているのですねーアイルランドの外には報道されていませんが。此方側の「あっちこっち」についていいますと、それは結局、嘗て植民地時代のイギリスが設計した”分割し統治す”という枠組みとしてだけある、監獄の中にある「あっちこっち」でしかないのです。アイルランドのカトリックとプロテスタントが、もちろんなんとか外見だけでも共存しているようにみえる、此方側の「あっちっこち」を獲得することは現実的には大事な課題です。さらに、これを超えていくことがもっと大事となりますー彼方側へですね。但し、その肝心な彼方側で、再び此方と彼方の間で対立していたら無意味。彼方側でこそ、究極的に依拠できる此方側と彼方側の<間>が成り立つという信頼が欠かせません。ラディカルな思考とは、かくの如く<間>に存在するのではないでしょうか。(多分この論点は「近代の超克」と関係した事柄と思い始めました)。まあ、ジャーナリストさんたちこそは、此方側で、ただし、あっちにもこっちにも立場を委ねない<間>を貫いていただきたいのではありますが…




NATOの問題は三つ。(1)共通の家とするヨーロッパというアナクロ二ズム。(2)そのくせ、アメリカの「平和」の為にヨーロッパの外で爆撃し始め、事実上敵が消滅しても爆撃し続ける有様。(3)結局最初から最後まで米国にNOと言えぬこと。当然NATOの問題は全部、集団的自衛権の問題となる

アイルランドの聖心の女子高生たち40人に、キャンプファイアーのようにお互いがお互いに向き合うようにと、椅子たちをサークル上に並ばせた。ひとりヒトコマで読み進めていく。「はだしのゲン」(英語版)を読んでもらった。全員が興味をもつわけではなかったが、三分に一の生徒は大きな関心を示した


アメリカのアセットは、異なる価値の共生である。…ヨーロッパのアセットは、社会保障制度など、一種の公的豊かさを形成したことだ。…第三世界は、自分のことは自分で決める自決の権利を獲得して、植民地支配から脱出する過程で、プラスのアセットを築いた。

小田実 odamakoto_bot 「理解し、許すな」1994


日本で、子どもに「ホームレス」をどう伝えるかー襲撃を防ぐためにです。

ところで、海外では、難民とか亡命とか、それと経済的貧困をテーマに、ヨーロッパの詩人たちは、homelessという語を積極的に使っています。また、アフリカでの内戦から逃れてきた書き手達は、異国の地ヨーロッパにおいて自分たちを支えているあり方を根本的に問い直すとき、「ホームレス」という切り口がありますね。例えば、母国語のホームレスという言い方とか。やはりジョイスからの影響がアフリカの作家達においてみとめられます。ホメロスのユリシーズに託したナイジェリアのある詩人は、東西の交差点に佇む自己の姿を表現しました



小田実によると、アメリカのアセットは異なる価値の共生、ヨーロッパのアセットは社会保障制度など一種の公的豊かさを形成したこと、そして第三世界のアセットは自分のことは自分で決める自決の権利を獲得した脱植民地主義。これらは、ネオリベ型グローバリズムによって、崩壊の危機にさらされている



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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 8月後半 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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