言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 安吾の「方法としての鬼」が現在のわれわれに問うこと- 坂口安吾「桜の森の満開の下」の別の読み

<<   作成日時 : 2013/08/22 07:24   >>

トラックバック 0 / コメント 0



「桜の森の満開の下」の別の読み
ー坂口安吾における近代批判としての鬼神論


「桜の森の満開の下」は、登場してくる鬼はそもそもどこから来たか、結局どこへ行ったのかという幸福なロマン主義的な迷宮に、われわれを誘います。が、迷宮それ自身は、近代に他なりません。つまり、自らの合理的解釈体系の外部を鬼と名づけてきたのは近代ですし、これを排除してきたのも近代。ここで一言しますと、近代とは、理性の側にある自らを正当化すればするほど、鬼である「非合理的な領域」を必要とするという体制です。例えば、近代の入口に立った17世紀のデカルトのコギトの例を検討しますと、理性はいくら理性的であることを追及してもどこまでも狂気に付きまとわれ続けます。つまり意図せずしてデカルトは純粋な理性が存在しないことを証明したのは、デリダでした。近代の言説だけが、「そうしなければならない」とばかり、理性と狂気とを切り離すのです。特に現在排外主義の声が叫ぶ「敵」の側に一方的にみとめる狂気などは、実体として存在するものではありません。さて坂口の「桜」に帰りますと、欺瞞的にも、近代の人間が鬼を愛するのは、人間が鬼でない自己を愛するための手段でしかないことを示したとみることができます。こうした、力として理性の支配する優越感が、まさしく近代を意味します。この欺瞞を見抜いた、安吾が導入したのが、鬼は鬼でも、近代批判の方法として働く奇妙な鬼でした。一般的に言って、鬼は狂気から来るものです。それに対して、坂口にとっては、単に鬼はわれわれの理性の側から来たというアイロニーを示せば十分でした。理性からきたXであれば対話の可能性があるということ。坂口が派遣したアイロニーとしての鬼は、われわれを突き落すために、われわれの側からやってきて、われわれの側へ帰っていきましたー言葉の方へ





テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
安吾の「方法としての鬼」が現在のわれわれに問うこと- 坂口安吾「桜の森の満開の下」の別の読み 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる