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<<   作成日時 : 2013/08/22 22:08   >>

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ゴダールにおける旅行者の視線は、フランスとスイスの間から人民戦線を語る視線。日本から戦争の歴史を語らぬ蓮見の貴族的な眼差しをさぞ意味に思うことだろう。が、彼の奴隷達ほど無関心ではなかった。現在奴隷の奴隷などは、己は特別な存在と勘違い?いつまでも日本の暴力と抵抗の歴史に無関心なまま

今回は民主主義憲法の下での最後の投票になるかもしれず、もはやよりマシな政党・個人を<選ぶ>ためにでは全然なく、ファシスト達を<選ばない>ためにです。 少しでも私の敵が不利になる様に投票率をあげるだけですが、 現実にそれすら厳しい状況なんで、なんか変ですがデモに行く感じに近いですね



わたしも午後に。もはやよりマシな政党・個人を<選ぶ>ためにではなく、この半年間マスコミが協力してきたファシストたちを<選ばない>ために、少しでもファシストに不利になるように投票率をあげるだけですが、現実にはそれすら厳しい状況なので、今回はデモに行く感じに近いです







民主主義はギリシャ人がつくり、選挙はローマ人がつくったというのはあながち言い過ぎとは思えません。ローマ・カトリックは、教会の管轄から内部組織まで、ローマ人が拵えたつ選挙をそのまま利用していると考えたらわかりやすいでしょう。小田実によると、民主主義は選挙とは関係がありせん。
日本人は選挙のことばかり言うのはローマ人みたいに権力と組織が大好きなこと、裏返せば、民主主義を憎んでいるかも?今回は、民主主義憲法の下での最後の投票になるかもしれず、世話になった恩人の葬儀に行くつもりで私は投票所へ行きます。明日憲法を殺す人々の顔をしっかり見てこようと思います





ふくろうねこ憲法話

一見代道徳に装った自民党草案は、近代ヨーロッパに対抗しただけの、したがって19世紀的のヨーロッパを鏡写しにしたグロテスクな戦う国家を表現しただけだと私は思います。ここで歴史を振り返ってみましょう。国家が天皇と貴族に救った聖徳太子の時代ではなく、内面性が現れたのは、国家と仏教が離婚した鎌倉時代にこそです。同様に、政教一致を止めた戦後憲法から、思想・良心の条件が始ったのです。安倍さんの国家神道への過大な期待は、彼の言葉から内面性を感じ取れないことと必然の関係ありやと思うことがあります。明治以降確立していく政教一致の、その国家神道も、江戸時代にあった市井の儒家神道とは全く異質のものなのです。”諸君、汝の大地を掘り返せば靖国神社が現れるぞ”というのは贋の文化概念です。注意しましょう。靖国神社は、戦争体制を敷く明治政府が発明したからです。それは、<祀る国家、戦う国家>の中心でした。最後に、憲法が規定する「思想・良心の自由」と一体となった「表現の自由」は、われわれの生きた歴史を証言するものです。ところが、これらは自民党草案によって破壊される危険があります


安倍さんはわたしたちの憲法をみっともないと繰り返していますね。しかしそうして自民党草案だと、近代憲法を持たない国となります。憲法がない、首の上が無い胴体だけの国になるのです。が、それは実際不可能なことなので、恐らく、他の国の憲法がこの国の穴を埋めることになるのでしょう。安倍さんの自民党憲法は世界遺産にしかならず、米国憲法やフランス憲法が、便宜上、この国の憲法になるみっともなさといったら…

子安宣邦氏は柳田国夫を点検した結果、<内><一><固有性>という三重の致命的誤謬を犯していた。;彼は「旅人」ではない>内なる観察者>新しい「お国学」>平民の日常への視線>「国民」を主題とする学>「国語」の将来>方言の視線>一国言語学の成功>民族の内なる心意>「固有信仰」という語り

岩波『日本書紀上』解説より。「江戸時代は天皇の主権者としての地位が失われており、記紀の説話を神性不可侵のものとする政治的必要が存在せず、初めて記紀を合理的な認識の対象として見ようとする態度が形成された」)『日本書紀上』解説より。「神武天皇学年辛酉から六百年を減じなければ外国との年紀が合わないことをはじめて唱えた藤貞幹の『衝口発』(天明元年(1781年)著)・・に対して、本居宣長は『鉗狂人』の一撃を与えてこれを葬り去ろうとしたけれど、宣長の門人である伴信友さえも、・・日本書紀の紀年が辛酉革命の説によつて作為されたものであることの論証を行うにいたり、やがて明治の学界でその説はさらにいっそう推進されることになるのである。・・。明治憲法下では、学問の自由は保障されず、「国体観念」の神聖を脅かすおそれのあるような学問研究はきびしく抑制されていたので、明治以降の記紀研究には、ある点で江戸時代よりもかえって後退した面さえ生じているのである。 ・・そのような停滞を打ち破り、記紀の所伝に対する徹底した科学的批判を遂行して前人未発の業績を築きあげたのが、津田左右吉であった。・・(戦後は)神話説話の科学的究明に対するタブーの解けたことによって、記紀神話に対する比較神話学的・民族学的・民俗学的研究が極めて活発に展開・・今後の記紀研究には、何よりも政治的権力とその走狗による真実の歪曲を断乎として拒否する強靭な科学的精神の堅持と、加えて、これまで分散的な形で専門家してきた諸学問領域の研究成果を総合させるため、異なる専門間の緊密な多角的究明の達成が要望されている・・」(以上、家永三郎)




中曽根は自衛隊海外派遣法制化の後、三十年後に徴兵制度の導入を約した。現在がその三十年後。当時流行した思想は内在性の中の超越性を語る哲学だった。が、思想の機能が国家との関係において検証されていたならば、あれほど異常な態度で政治に背を向けただろうか。現在超越性の中の内在性に転んでいる












例外なく、哲学概念は国家との関係に於いてその機能を測らないと、私小説的語りに陥いる。本質主義も論理の内部から明らかになり得ない。例えば独立運動は、(植民地主義から押し付けられた)アインデンティティーという本質主義を逆手にとって、ナショナリズムの毒としてこれを帝国主義に飲ませる


帝国主義と旅行者の視線、この両者はオリエンタリズム形成の条件だった。19世紀末帝国アカデミの画家は旅した仏領の風景を描いた。30年代に西欧の視線の客体から主体へと転位したと思い込んだ日本のアジアに対する視線は、留学先の独逸に向かう一人の旅行者の視線に折り重るだろう。和辻哲郎である

偶然に、回心は神田古本街の散歩のとき起きた。かれは、「三酔人経綸問答」(中江兆民)の豪傑先生的アジア浪人・中国浪人の如く外の変革を通して内の変革を夢見たのか、又は反西洋の対抗の中で日本を復興亜細亜の戦士の盟主にする構想を抱いたのか?両方がこの散歩者の欲望をとらえた。大川周明である



「青年期における知的環境を共にしながら、そして帝国主義的国家の伸張と挫折という昭和期日本を背景にしながら、一方は帝国日本の知的指導者の有力な一人としてアカデミズムにおける経歴を順調に経ながら、風土論的な、あるいは文化類型論的な視界を介して日本の倫理思想の理念史的叙述に向かっていく.
他方は一つの回心を経由して西欧帝国主義支配下のアジアの復興の課題と連携しながら、日本の国家改造を主張し、その内的動力としての「日本精神」の歴史的な再構成を企てていく。一方は「日本倫理思想史」の和辻であり、他方は「日本精神研究」の大川である。」(子安宣邦氏「日本近代思想批判」より)


「高度の文化認識者である旅行者和辻は、アラビア半島の「乾燥」という自然的な特質が、「服従的、戦闘的の二重の性格」をもった「砂漠的人間」を作り出すという。(…)和辻の上の論は論理的な詐術によって、外部的他者である旅行者による自己に異質な他者理解の正当性を導こうとしている。だが他者性に居直ったこの旅行者である認識者による他者理解とは、自己との異質性において他者を見出すことでしかない」。子安氏は、その他者理解が「本質的理解」であるという他者性に居直ったこの認識者の傲慢をつく。




小説の舞台からユリシーズの謎解きという、旅行者の視線からアイルランドを世界遺産にしてしまった紹介本。現在なおモラルに挑戦するこの危険な本を小市民根性的懐古趣味の骨董品にしている。現代演劇等、現在アイルランド人によってジョイスがどう継承されているのかをみていく日本の研究者は殆どゼロ


小説の舞台からユリシーズの謎解きという、旅行者の視線からアイルランドを世界遺産にしてしまった紹介本。現在なおモラルに挑戦するこの危険な本を小市民根性的懐古趣味の骨董品にしている。現代演劇等、現在アイルランド人によってジョイスがどう継承されているのかをみていく日本の研究者は殆どゼロ


ジョルジュ・バタイユ ‏G_Bataille
【キンゼイ報告】週7回オルガスムに達する人々の割合 敬虔な新教徒:7.4% 冷淡な新教徒:11.7% 敬虔な旧教徒:8.1% 冷淡な旧教徒:20.5%→宗教的実践は明らかに性的活動を抑制する。『エロティシズム』




MEMO:(1)本質主義について。旅行者の視線ー正当化。正当化と介入の違い。(2)和辻哲郎のオリエンタリズムー「国民道徳」。大川周明のナショナリズムー「国家改造」。(3)思想における他者としてのアジアの介入?ー>ヨーロッパとは異なる日本近代。間柄的関係(和辻)。日本近代の乗り越え


例外なく、哲学概念は国家との関係に於いてその機能を検証しないと、私小説的語りに陥いる。例えば「本質主義」について啓蒙してもらわずとも、アイルランド人という本質が存在しない事は連中はご承知。ただアイルランド人というナショナリズムの毒を英国帝国主義にたっぷり飲ませたいのさ。お分かり?

朝日夕刊文芸欄の嘗ての充実は何処に?この思いは私だけではないはずである。広告欄の内部のなかみたいに、作家において先行するのは、誰々から褒められ、誰々が映画化してくれたという他人の評価だ。一方、作家の自身を権威の拠り所とする言葉、自己と国家の間の共役不可能な関係を問う言葉が聞こえてこなくなったのは、聞き手である新聞そのものが私小説化してきたからといえるだろうか?


Godard turned traitor to cimema twice !

The first fact of the case.;ungrateful behavior.
However the early Cinematheque had an excessive expectation
For the silent film as an universal language,
Godard in "Histories of cinema" since the late 1970's on abandoned it.
Swiss accent or not, the narration,la voix, has selfishly intervened
In the sequence of pictures, l'image.
And the second fact of the case. "Holy am I alone throughout heaven and earth".
From the starting point, young Godard directly refuted the praise for long shot and long take that the New Wave critics found the originality to
Existential cinema.
Godard didn't accept the New Wave critics' underestimate for
The possibility of editing.
In "Histories of Cinema" picture, l'image, intermittently intervenes in the written word.
At last Godard could start to keep on speaking poetic imagination in the universe-theatre
As King Lear playing the fool in the world-theatre.




ゴダール「映画史」は、初期シネマテークの、普遍言語としてのサイレントに対する過大な期待を裏切る。ナレーションは映像に介入する。ヌーヴェルバーグ批評家達のエイゼンシュタイン的編集に対する過小評価も重要ではない。映像は書かれた言葉に介入する。こうして期待外れの人間が見事に喋り通すのだ

ゴダール「映画史」は、初期シネマテークの、普遍言語としてのサイレントに対する過大な期待を裏切る。ナレーションは映像に介入する。ヌーヴェルバーグ批評家達のエイゼンシュタイン的編集に対する過小評価も重要ではない。映像はナレーションに介入する。こうして期待外れの人間が見事に喋り通すのだ

ジョイスとゴダールが共通する点は、期待外れという言葉に集約される。両者とも反カトリックとみなされるが、偉大な宗教的なナレーションをもっている。ジョイスとゴダールのナレーションは各々、物語と映像に介入するが支配することはない。そのギャップから神ならぬ期待外れの人間が見事に現れるのだ


期待外れといえば、大正文学。キリスト教という明治文学の作家が対峙した宗教的超越性と、マルクス主義という昭和文学が作家が対峙した唯物論的超越性の間に生まれた。詩的高尚な理想と散文的な卑俗な欲求を同時に語る未消化の文学に対して、前の世代は妙なものといい、後の世代は物足りなさを指摘する



3.11以降、遅きに失したが、「安全神話」批判が始まった。されど現在、他者に犠牲を強いている現状に疑問を付さないのは、依然「安全神話」が働いているからではないか。反原発の声は自分たちの声だけをきくが、一方最終的に核のゴミが押し付けられていく、青森からの声なき声をきいているだろうか

巷に溢れる「私はこうしました」と語る自己啓発本。議論上達法からアベノミックス入門、ついに自己啓発されない入門書まで出ている。土着化したアメリカンドリームの腐臭が漂う。「株の売買の協力関係で嫁姑問題は解決する」と、いくら私がハウツーを説いても所詮文学にしかならぬのは何故?一考の価値がある(笑)。自己啓発本は自己啓発本である以上、少なくとも大組織に属しているか、属した<偉い人>が教えなければならないし、そうでなくては売れないからだろう。「教」の字は、「鞭」を含む所以だ。このような自己啓発的権威主義的パーソナリティー形成に対する解毒剤としては、「学び」の復権の意義を説く本と出会えるかだ。現実には、自立した学びの大切さを説いた「論語」とて今日、多くの現代語訳ベースの本は皮相な自己啓発本の代表選手に陥ってしまった。弱腰でもなんとか上から「教える」権威に逆らってやるという思いがある。4、最後に、一番いいたかったことは、「教える」というのは、ファッションからファシズムまで、下の者を上に同化させていくやり方。それに対して、「学び」は、下の者が上の者を正す方法、あるいは介入していく方法。学び的「介入」は、教えたがる<支配>とは異なる第三項的意義をもつものじゃないか

3.11以降、「安全神話」が批判されるようになった。遅きに失したが、このこと自体は精神と思考にとって大切な成果だ。しかし<上から>「教える」の安全神話の方が根本から批判の検証に送る込まれない限り、依然として精神と思考が、新安全神話、新新安全神話に囚われたままと言わざるを得ない

何でもpoliticsの国。サッカーの試合も。負けた姿が唯一カッコいいチーム。勝つと具合が悪そう・笑ー>戦いのときは来て、我々は戦った。私は我々が戦ったことを嬉しく思う。我々は負けたようである。しかし、我々は負けなかった。戦わないことこそが敗北であった。戦うことが、勝利だ。ピアス

戦いのときは来て、我々は戦った。私は我々が戦ったことを嬉しく思う。我々は負けたようである。しかし、我々は負けなかった。戦わないことこそが敗北であった。戦うことが、勝利だ。-パトリック・ピアス




え、ご存じないのですか?問題が専門化すると、答弁する大臣の「答弁」だけでなく、質問する野党議員の「質問」も、同じ一人の官僚、例えばOO省課長ぐらいの人が書くことも普通にあるんですよ。最初から議会の中継などではなく、寸劇の中継だったのですよ。え、ご存じないのですか?問題が専門化すると、答弁する大臣の「答弁」だけでなく、質問する野党議員の「質問」も、同じ一人の官僚、例えばOO省課長ぐらいの人が書くことも普通にあるんですよ。最初から議会の中継などではなく、寸劇の中継だったのですよ。工夫が必要なことは確か。ただ英国の国会中継も、言葉のやり取りからでは、実際に何を言い何を言わなかったのかについてイギリス人でも分かり難いようです。BBCの政治記者が解説しないと正確なことがわかりません。政治記者や経済記者はもう役者並の身振りと発話ですよね.そうですね、ひとつの方法ですね。質問者が交代したときなど、時々現場にいる政治記者がひそひそ声で何が始まるのかについて伝えることがありますが、腹話術みたいになぜひそひそ声なんだろうと?探偵のつもりなのかなと・笑。解説に、いわいさんが登場した方がいいですよ




ヨーロッパの市民社会とは別の日本的近代があることを認め、これを乗り越えていくこと。これはもはや日本人だけでは不可能で、どれだけ東アジアの人々とともに考え行動することが問われてきたのではないだろうか。安倍自民党による「強い国家」の幻想は、この課題から逃げているのではないだろうか?


ご指摘の通りです。わたしが関わった公害裁判支援運動に、80年代後半ですが、反原発運動の人達も来ていました。福島の原発に対して相当な危機感を持っていました。まず災害は福島から起きるだろうとはっきり言っていた方がいました。このわたしも反原発運動に誘われたのですが、情けないことに、抗議活動で非常に疲弊していたこことを理由に、「現実に災害が起きてから抗議したいと思います」と答えました。当時認識が非常に甘く、ほんとうに後悔しています。ですから、安全神話の国と東電に対して抗議するだけでなく、結局災害が起きるまでなにもしなかった自分自身に対する抗議したいと思って、3.11以降の半年間は抗議デモの半年間となりました。昔は公害裁判支援は一応、民事事件として警察不介入ということなんですが、反原発運動は即、反体制の政治運動として厳しく囲まれてしまいました。仕事も家庭も失うなかで粘り強く続けていらっしゃる人々には、本当に頭が下がります。ご指摘の「戦前の思想体制」との関係は今後、できるだけ明らかにしていかなければなりませんね。



(1)報l国的「国民的自覚」であれ自主規制的な「国民的合意」であれ、「強い国家」の幻想のヴァリエーションであると思います。残念ながら、それは、そのまま昨今の国会前・首相官邸前の反原発デモ関係者一部のスローガン「左も右もない」とした排他的主張とつながっている部分があるといえます。
(2)ご分析なさった、「強い倫理性」というのは、言語化を拒む態度、そしてもっぱら<行動する者が偉いのだから屁理屈を言うな><左も右もない>とする、結局は国家の論理の内部から内部に即して迎合主義に収れんしていくしかない態度、または、状況に自ら委ねて自壊していくだけの態度を喚起します。
(3)被害者や加害者から精神的に一定の距離をとっている「市民」について書いておられました。そういう「市民」は日本の場合、「傍観者」でしかないのではないかという厳しいご指摘がありました。これは、日本人が自らを語るときに必ず神聖化してきた「中立的」という言葉と関係がありそうです。
(4)実際に、この「中立」という言葉ほど、「左も右もない」とする状況主義的ファシズム的心性を表した言葉はありません。論文を読むにしたがって、公害問題から戦争の問題がみえ、さらに、日本的近代の精神史を再検証することになりました。結局は、敗戦を終戦といいかえてしまう態度に現れているように
5)、安倍自民党において現在なお戦争を続けよと呼びかけているような「強い国家」の幻想の合唱に、問題が集中しています。高度経済成長が終焉し石油危機を経て、80年代に、再びジャパンアズナンバーの夢を求めた政財界官マが合唱した<国民的合意>のもとに、原発増設の加速化が現実化したのです。
(6)運動の現場で公害企業や安全神話に対峙するとき、日本における市民社会の声の小ささに唖然としない者はいないでしょう。今日講義の後たまたま子安氏との間で「市民社会」の話題がでました。ヘーゲル的世界史とヨーロッパの市民社会とは別の日本的近代があることを認め、これを乗り越えていくこと。
(7)そういうことが今後大事となってくるだろと語っていました。私は、もはやこれは日本人だけでは不可能で、東アジアの人々とともに考え行動することの意義について考えてみようと思いました。



作文中
The first thing to say about modernity is that it is , in an important sense, unreadable. Modernity is more enclosing a circle than crossing a border .How? Godel says;anything you can draw a circle around cannot read itself without referring to something outside the circle. So Japan is no less modern than the West, just because it doesn't belong to Europe.The civil society can't be found, along the Hegel's narrative on World Hidstory, in Japan.Nonetheless, it is not Modernity in Japan has been crossing a border.
We have to acknowledge the modernity prevailing the relationship in Japan different from European civil society is as exegetical as to read the diversity in modenisation.

The fantasy of "a strong nation" by the Abe Liberal Democratic Party may get away from this problem







フーコの考古学、あまりにも演劇的な…

フーコほど有名な学者はいないけれど、フーコほど何を発言したのかが知られていない学者も他にいないでしょう。さて、自民党のTPP反対の議員達は選挙後、かくも簡単にTPP賛成に鞍替えする理由は何でしょうか?フーコの考え方に沿ってこれを説明しましょうか。TPPの真相というのではなく、ただここでは、フーコの考え方を紹介したいだけですから、どうかご理解を。さてエーコの言葉を借用してくると、例えば、自民党の中のTPP反対とTPP賛成は、「求め合う敵同士」の同一の言説ということがみえてきます。だから、反対から賛成へ行っても、強い国家をつくれとする共同の幻想によって、公約違反という良心の呵責が起きることがないのです。豊穣で全能な自然の力が独立してあり、ただその価値(例、農産物)を実現させる為の手段が市場というのがTPP反対論とすれば、ちょうどこの反対の向きに、TPP賛成論の位置が成り立ちます。すなわちTPP賛成論は全能な市場の力によって初めて富の価値が実現すると考えます。歴史的には、この対立は、18世紀における重農主義と功利主義学説の対立に遡ることができるかもしれませんが、フーコ流考古学の手にかかると、このように一見対立する両方の考え方は互いに類似しているだけでなく互いに相手の側に自己の足場があるということが明らかにされていきます。最後に、このような「求め合う敵同士」とは、声の場で起きてくる演劇的な転位を喚起しますね、フーコの考古学の方法は、大変演劇的といわれます。(映画的でもあるのですがね)


何故自民党のTPP反対の議員達は選挙後TPP賛成に鞍替えするのか?万能な自然の力で増大する価値を市場で実現させるか、それとも、万能な市場の力によって価値を増大させるか。前者のTPP反対論と後者の賛成論ーこの両者は、互いに方向が違うだけで、強い国家という同一の幻想に振り回されている

寸劇で学ぶアベの(ゴ)ミックス

閻魔大王「罪の中で、公人による嘘の罪はもっとも重いことを知らぬとはいわせぬ。なぜ、日銀に、回復と明記させたのだ!さあ、答えろ!」
安倍「そのまえに、僕が嘘つきだとするとパラドックスに陥りませんか?」
閻魔大王「大馬鹿者!問いを問いで返すな!この大王にも嘘をつくつもりか!」
安倍「そのまえに、大王に嘘をつかれました」。
閻魔大王「貴様…」

3分間のふくろうねこの憲法話
「昔悪い王様を縛るために憲法ができました」、「今は悪いことをしなければ隠すことは何もないはずですから、プライバシー権みたいなことを言って国を困らすのはどうでしょうか」と、大学時代の後輩君達が尤もらしく喋っていたけど、嘗て安倍首相もそんな物事の本質を考えようとしないお馬鹿な大学生だったようだ。再び八十年代の反知性主義が喋りまくるのか。彼の話をきこう。曰く、「立憲主義は権力を縛るという側面もあるが、それは王権の時代の話。今は民主主義の時代なので、権力を縛るよりも国のカタチなどを書き込むのが憲法だ」。
しかし、安倍がいうように、<国のカタチなどを書き込む>という神々の国造りのつもりで(笑止)、人類が専制との闘いの結果勝ち取った「個人の尊厳」をあっさりと捨て去ることは本当に許されるのだろうか、大いに疑問と言わざるをえない。
はっきりさせておこう。戦後の天皇と戦前の天皇との間には連続性が無いということを知って欲しい。現在の天皇は憲法が構成した。つまり天皇が象徴である根拠は憲法から与えられたということだ。現実には、残念ながら左翼は、象徴天皇を廃止に追い込むだけの共和主義の情熱と構想力が欠けており、他方、右翼は右翼で、君主制国家の設計図がまるで無く、憲法が無くなればそのまま天皇も失う危険があるのだがね、わかってないようだ。
結論;安倍首相は天皇を守りたいなら、改正で憲法を台無しにするよりも憲法を守ったほうが得策でしょう。


ただし、戦後の天皇と戦前の天皇との間には連続性が無いとはいえ、皇民化政策の戦前と同じ差別が続いていることは無視できない事実だ。現在は、象徴天皇そのものから齎される差別よりも、戦争責任を棚上げにしフランス的同化主義をとる国家から直接齎される差別が問題を起こしているというのが私の認識


英国では、幼児虐待に迅速に対応すべく児童福祉所が通報のあった家に入れるようにと、憲法上の伝統的な個人の尊厳(プライバシー権)を見直す考え方が労働党の側から提唱されるが、権力の乱用を警戒する声も大きい。<国のカタチなどを書き込む>という国造りの?名目で個人の尊厳を奪う話とは全然別だ


勝手に憲法を自分に都合がいいように書き込むな!<国のカタチなどを書き込む>安倍の自民党政府は「古事記」の世界の神々のつもりか?ー>安倍首相「立憲主義は権力を縛るという側面もあるが、それは王権の時代の話。今は民主主義の時代なので、権力を縛るよりも国のカタチなどを書き込むのが憲法だ」



被爆から5年経たなければガンは発症しないという診断でしょうか?疑問ですね。ところで、将来、「昔のことなので、因果関係は¥が証明できない」と言い出したら、原沢さんのご指摘の通りです。これは公害被害者が直面した同じ状況です。公害の場合、裁判も長引くと、加害企業は被害者に対して謝罪することが起きますが、国は絶対に自らの非と責任をみとめませんから、最後まで企業に非と責任をみとめさせません。最後までの意味は、患者の最後の一人が死ぬまでという事。嘗て新橋で上訴に反対した座込みに三か月間参加したので彼らについて少しは知っているつもりです


戦後憲法は、サイードがいうpowerlessの思想に沿って、軍国主義の懲罰的世界観を放棄したと思います。Bad guy should be punished (悪い国を罰せ)というブッシュの、米国の為の平和と爆撃というパワーゲームに乗っかっていかないための解毒剤ですー憲法前文は。前文は狂気の国家が存在しないと分析します。狂気が支配する様にみえても必ず合理的な理由(貧困や飢餓)が背景にあると。だから問題解決に向けて外交を平和的に確立できるはずだと。近隣諸国との関係を構築するとき第一原理です。最後に海外での自衛隊の自衛ならざる暴走を止めるにはどうすべきかです

「XXはOOを代表する」と始めるのは、アングロサクソンの好む俗っぽい軍人バイオグラフィー、例えばチャーチル等の軍人の名を、征服した地理的表象と年号とに結びつける愛国的常套句だ。「よく考えてよい人を選びませう」の小市民根性は意外とマッチョ?ドゥルーズはミリタントだったけど意味が違う

帰り道に選挙ポスター掲示板をみると、フェースブックの仲良し写真のような笑顔、笑顔。アメリカ人並に歯がきれいだという印象しかないが、この空ろな映像達は何かに似ていると思ったら、「XXはOOを代表する」と書き始めた「ドゥルーズの哲学原理…」の一頁目の空ろな言葉達とそっくりと気がついた



朝日新聞の見出し「尖閣、高圧的対応」とあるから石原批判の記事かと思って読んでみると、「我が国を含む周辺国との利害が対立する問題で高圧的とも指摘される対応を示し」とある。あら?主語が抜けていたので補ってあげますよ。「石原の不測の事態を招きかねない危険な行動も見られる」がbetter


3分間のふくろうねこ憲法話

(1)自衛権の根拠を正当防衛から類推的に導き出す改憲論者の政治家は、軍国主義を警戒するふりはするが、やはり軍国主義的刑罰を過大評価した上で自説を展開しているのがミエミエだ。刑法と憲法とでは使命感が違う。憲法の言葉はわれわれの良心の声と同じくらい重いのだぜ
(2)だから(偉そうに)刑法は自らの限界を超えて、憲法の道徳性の領域で語ると必ず誤謬推理が起きてしまう。でもね、前文で軍国主義の破綻を歴史的に証言した憲法は、再び軍国主義的刑罰主義の世界に依拠しようとは思わないだろうよ。海外に出た自衛隊の自衛ならざる暴走は刑法的発想では防げないぞ





絶対悪と絶対善は、貧しく単純化された二元論の展開に他ならない。しかしこの二元論に依拠することなくしては今日席巻するファシズムに対する倫理的抵抗が成り立たないとすれば、六〇年代以降構造主義等の二項対立を批判してきた認識論的言説は遡って無効だったと、この国で誰が最初にこれを言うのか?


ユダヤ人をガス室に送ること等人間性を根本的に否定し去る悪を、殺す権利は認められるか?殺人は殺人、人間性の否定を意味するという矛盾に陥いることにならないように、そういう権利は絶対悪に対する絶対善の権利でなければ。吉本の親鸞的に即して言うと、ファシズムに対する政治的抵抗によって殺した「悪人」は救われるか?

大島渚は青色を使わない。日本人を安心させる青空の青は使わぬという。関係は定かではないが、子安宣邦氏は、板書書きのとき平仮名を使わない。黒板消しでさっと漢字の網目に余白をつくる。新たに漢字が書きこまれる。絶えず外部から漢字が与えられる破れ傘のエクリチュールは、天から降る。鳥が運ぶか


はっきりいってしまうと、歴史修正主義者のうち極右翼に対しては、話し合いで説得しようとおもうのは全くばかげています。かれらには、激しい怒りをぶつけなくては…

文化人は中沢系多元主義禅僧ばかりだから、晩年フーコが道徳性に基づく統治性に言及し始めたことを深読みして、穏健な成熟化という喪服を与えた。徳の徹底的な強調によって政治的行為(権力)をラデイカルに不要とした仁斎の例もあるのに。転向したのは、同時代性万歳三唱、ふらんす思想だけでしょう?

「世界最高」の原発安全審査らしいが、これに劣らず眉唾ものは、「同時代性」という自ら拵えた基準で自画自賛のふらんす思想。K氏の「ドゥルーズは二十世紀を代表する哲学者」は暗黙に「同時代性」の優越感が漂う。いつラデイカリズムは全国新聞でよく考えてよい人を選べと説くほど楽観的になったの?

「マリー、英国選手77年ぶりV!」とあるけど、英国選手というのは間違いではないが、やはりマリーはスコットランド人だからね。スコットランド人が初めて行ったウィンブルドン優勝と称えたい。BBCはソーシャルなフェデラを好んだが、マリーの演劇的感情表現に人間らしさを感じるイギリス人もいた

百年後二十世紀はどう読まれるか?思想は1968年に統整原理としての普遍主義を見出した。思想的自立と、規制原理の支配に抵抗する倫理的実践が互いに補う。反イラク戦争や反ネオリベグローバリズムを契機に市民的介入が外交政策の占拠を意味し始めると、精神は主権の外部に依拠していくことになった

運動は哲学と関係がない。「共産主義者宣言」も例外ではなく、統整原理として働くだけであり、規制原理として存在すべきではないと柄谷は言った。これは、規制原理の政治に抵抗する倫理的な実践(例、天安門広場抗議)の否定を意味しない。が、「探求の徹底」という神話のルールの規則に理解されていく

政治運動は哲学に根ざさぬと柄谷が決め後はもう中途半端な連中しかでてこない。毎回翻訳だけがかわる世界文学全集発行の新しさと似て、イギリス経験論哲学と大陸合理論哲学の折衷でしかないものを「探求の徹底」と思い込むだけで、政治に介入していかない「ドゥルーズの哲学原理…」の、空ろさときたら


ブレヒト
各景のタイトルを幻灯でパネルに映すことが、劇場に文学的側面を加えるために最低限必要な措置である。劇場の文字化(文書化)および他の公共の催し全般の文学化を大規模に推進しなければならない。 「『三文オペラ』へのブレヒト覚書」


漱石展で水墨画をみたおかげで「草枕」の冒頭文を思い出した。ロマン主義詩人シェリーが描いた鳥と、漢詩が描いた詩と比べていたっけ。17世紀徳川日本における市井の儒学者が再発見した、詩経における天の信仰というテーマは、漱石が当然共有していた漢文エクリチュールの風景だったと今更理解したさ




寸劇で学ぶ国会中継。

ふくろうねこ党首「自民党改正案では、基本的人権の尊重を謳った97条がそっくり削除されているが、あなた、気はたしかか?」。

参議院議長「安倍君」

安倍首相「はい。あの、生憎いま手元に憲法改正案がないのでわたしの口からはなんとも。いま、さつきに携帯で問い合わせてみます。あ、かかりました」。

電話「ピー、マチガイデンワデス…」


ふくろうねこ党首「議長、これは重大な答弁拒否ですぞ!」。

議長「安倍君、質問に答えるように…」。

安倍「今度こそかかりました。もしもし?」。

電話「片山さつきです。ご用事のある方は、ピーという音のあとにメッセージをどうぞ。お電話有難う。ピー…」  


寸劇で学ぶ国会中継(続2)。

安倍「ラストチャンスをください。…もしもし、アッキー?(ぶつぶつ…)、え?だめだって(ぶつぶつ)。じゃ」。

ふくろうねこ党首「あんた、いまのは完全に私用でしょう…」。

参議院議長「安倍君、映画鑑賞のときと答弁のときぐらいは、携帯電話のスイッチを切りなさい」




今日は上野で「夏目漱石の美術の世界」をみた。なんと、漱石自身が描いた山水画もあったから驚いた。知らなかったな。山水画にしては、隙間なく細部を描いている。線は静寂の優美な流れではなく、西洋絵画の如くダイナミックにジグザグを辿る。そこで超突飛な考えにとらわれた。漱石のあの山水画は、かれがロンドンで見たプレ・ラファイエロ派に対応していたのではないか、と。両者とも、詩的な空想・神話の世界をリアリズムの手法で描いたのだと。たしかに、「草枕」は、ロマン主義的山水画の世界なのである。漱石こそ、言葉で描く作家の先駆だったとわたしはかんがえるよ。なにはともあれ、線というのは、画家の秘密を隠匿する地平を形づくることだけはたしか、となんとかまとめておこう…(笑)

毎日少しづつだが、フーコ「言葉と物」を読み直している。一週間かけて重農主義について論じた箇所を読み終えた。数頁でも、パラッドクス、問題提起、文献学、注釈学、記号学、解釈学が織りなす、饒舌な文体が誘う思考空間に吸収されてしまう。壺に出口を与える為に、何かをネットで共有していくことだ

ここ三年間、翻訳者の渡辺氏の公開講座にでている。氏は黒板に書かないが、かわりに、作家と本と歴史的事件の名をぎっしり羅列したレジュメと、本から引用した諸々の文のレジュメがあらかじめ渡される。氏はそれを使って、用意した原稿を最後まで一気に読んでいく。コンパクトというのが鍵で、語りによって、連続性の空間を呈示しようとする

だが、なぜコンパクトでなければならないのか?おそらく、周密な連続性はアイロニーの柔軟な思考の条件だかだろうら。コンパクト性をつくることをDeleuzeは地図制作と呼んだ。なぜ柔軟性が大事か。戦中軍人に殴られ、戦後学生運動に取り囲まれた氏の体験がある、とわたしはかんがえる。反マルクス主義であれマルクス主義であれ、内部の思考に同意したくないとする渡辺氏の反骨精神がある


コンパクト性をつくることをDeleuzeは地図制作と呼ぶ。なぜコンパクトか?周密な連続性はアイロニーの柔軟な思考をつくるから。柔軟な思考がそれほど大事なのは?戦中軍人に殴られ戦後学生運動に取り囲まれた氏の体験がある。反マルクス主義であれマルクス主義であれ内側の思考に同意したくない


毎日少しづつだが、フーコ「言葉と物」を読み直している。一週間かけて重農主義について論じた箇所を読み終えた。数頁でも、パラッドクス、問題提起、文献学、注釈学、記号学、解釈学が織りなす、饒舌な文体が誘う思考空間に吸収されてしまう。壺に出口を与える為に、何かをネットで共有していくことだ

五反田の本屋にて、ずらりと並んでいた、でりだ論のAちゃんの本を手に取ってめくってみた。と、「ミカドの肖像」で登記簿批評というジャンルを確立した猪瀬との対談がのっていた。迎合的によいしょしているけど、おいおい、売買取引のための「思想登記簿」だったのか、この本は?手に金箔だけが残った


石母田正「中世的世界の形成」を手に取って頁をめくっていたら、「不在地主」という言葉をみつけた。アイルランドにいたせいでこの言葉が大変気になる。結局買った。やはり昔、ひやかしの立ち読みだったのに、「飢餓」という言葉ーアイルランドの大テーマーが目に留まり、網野の本を買ってしまったんだ


中立的に、投票所へと呼びかけるよりも、自分は何の政党を支持すると言って欲しいな。「面倒がるな。重要なのは、一人ひとりが自分で考えていいと思う候補者を選ぶこと」では天声人語。Kちゃんも「どうるーず」を語るなら最低限こう言わなくちゃさ。「お前ら維新に入れるぐらいなら投票所に行くな!」



「安倍の政治を問う」といっても、娯楽番組的視聴率と化した投票行動を以て株価平均となった政治を問うのである。朝日好みのK氏は高潔な僧侶の如く説く。「一人ひとりが自分で考えていいと思う候補者」を選べ、「探求の徹底化」だ!と。が、そうして一人ひとりが維新に投票している現実を彼はごまかす


あんたはどうなの?という声もあるでしょうから、私の場合は、基本的に選挙そのものの無理を言いたいのですが、ま、投票すれば公約違反の与党に罰を与えるだけです。だから前回は民主党を罰したように今回は自民党を罰するだけです。民意を汲み上げない小選挙区制の廃止を求める政党があれば支持します

Godard and "after 3.11"

"Godard's "A Bout de Souffle" in 1950's was as dream a anarchist's as life without scenario echoed James Joyce's "Ulysses"in 1920's. But you find the reality quite different from what you hve imagined. Dominique Paini tesityfied that Godard always has the painstakingly careful in his preparations! The fact that Godard had faced the gap between his constructual plan in advance and the reality ex post facto in making his film is not incompatible with his Brechtian position. As In his "Histoire(s) du cinema" Godard recited the petit poem de Brecht"j'examine avec soin mon plan il est irrealisable", the plan failed does not lower the value for Godard. Rather we know he has proved his worth after the collapse of the tour of Babel. After 3.11 (a nuclear accident in Fukushima two years ago) any Japanese is in similar circumstances " the plan failed "( ex, a myth about the safety of a nuclear power plant). We are still in an era when the instrinct value of democracy is being questioned. Wake up...not too late! by takashihonda


1、シナリオなき街頭にこそ、勝手にしやがれとばかりヌーヴェルバーグの夢が存在した。但しゴダールについては予め用意周到な計画が常にあったという貴重な証言をきいたことがある。ゴダールの場合、事前にあまりに構築され過ぎた計画ゆえに映画製作のとき破綻してしまうのが常であった
2、しかし考えてみると、破綻のあとこそゴダールの真価が発揮された。破綻のあとに人間の真の実力が問われるのは、3・11以降に生きるわれわれ自身の問題でもあるだろう。「よく検討したら実現不可能な計画だった」というブレヒトの短い詩は、ゴダールは、「映画史」のなかでこれを好んで呟いたなあ


いつ日本人は誕生したのでしょうか?

江戸期においては、水戸の国体概念は異常なものとうけとめられていました。明治維新以降、ただし、日清戦争と日露戦争の間ぐらいに、(ちなみに日露戦争の前後を戦前とか戦後といったのだそうですが)、戦争する国家の臣民という日本人が誕生したのは、推測ですが。国家の戦争が国民をつくるという見方が大事です。これに関連して、日本でも、オイデプスの父殺しみたいな話があります。尊皇攘夷の水戸学国体概念は、彼らが攻撃した徳川朱子学に負うのです。だから、その彼らのなかから、自分達を真正の「中国」と呼ぶ者が出てきたほどです。いわゆる中華帝国の日本ヴァージョンですね。その彼らの仕事に、ヨーロッパの社会契約説と一見類似した理論が打ち出されてくるのはあまり知られていません。死後の世界を守る王の儀式こそが人々を安心させ彼らが生きる国家を支えるのだと彼らは言い出すのです。つまり天皇性の見取り図ですね。このことは、子安氏が徂徠学との関連で指摘なさっています。福沢諭吉はこの政治神学の言説を非常に警戒したのです。さて、「父」たる徳川朱子学の方は、当時の「論語」の注釈をみますと、鎖国のイメージからは意外ですが、18世紀までは日本は対等なアジアの一部であるとみなすコスモポリタンの意識が伝統的にあったという可能性があります。子安氏の「論語塾」(第3回)で取り上げられた話です。ところが、明治維新を契機に、明治政府は、バサッとアジアを切り捨てていきます。厄介なのは、天皇の存在です。東京の文化圏に同化していった明治政府のメンバー達にとって、九州の人間たちが勝手に天皇を持ち運んできたと考えたようです。福沢諭吉なんかは、靖国的な政治神学を批判しても、天皇のことはまったく予想もしていないのですねーなんじゃ、こりゃ?、マジかよ!!!、と呆れたかどうかは定かではありませんが (笑)


敵を自らの起原にすることによって、実体化した敵と自己との境界線を相対化し、植民地主義を解決する戦略。こうして独立後のアイルランドやアフリカの作家達はスペンサーやコンラッドを自分達の文学の父とした。逆の場合もある。中国共産党はマルクス主義を放棄することで、台湾を文化的に支配し始めた

k ちゃんのどうるーず論も Aちゃんのでりだ論も、読者の怠慢によって成り立っている共同幻。他人が書いた紹介文で思考の費用を安く済ませようとしている。でもね、それは節約の為に安い小豆アイスをしゃぶるようなもんだ。惰性で噛んだまま気が緩んで眠っちゃうと、虫歯になって歯医者に行く羽目に


ドウルーズがたかが探求の徹底化の為に、「経験論哲学を借りた」と決めめつけるとはね、間抜けだな。ポピュリズム的に、あえて敵を自己の起原に措定し、自己との境界線を相対化してしまい、敵(経験論のアングロサクソン的殺戮同化主義と存在論のフランス的中央集権型同化主義)をやっつけたいんだけど

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