言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 10月

<<   作成日時 : 2013/09/25 01:07   >>

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群論的非換性で描いた周密な曲面。粒子間の相互運動に成るエクリチュールは横断していくー「論語塾」のホワイトボードを。例えば「孝」と名づけられた粒子が、「仁」という名の粒子の左側にあるのか或いは右側にあるのかという差異が決定的なのだ。解釈に先行するのは、注釈、つまり関係の外面性である

無常観とは、何でしょうか?それは、「徒然草」「「方丈記」等の中世の文学的美意識のことですね。嘗て加藤周一はジョイス的な<意識の流れ>に無常観を尤もらしく読み解きましたが、本当に眉唾ですね(ジョイスを読んだの?)。空港の本屋の棚に並ぶ現代語訳をスラスラ読み、現地で原発をホイホイと売り込むに行く商社マンなみの誤読と言わざるをえません。ジョイスは無常感がありません。「ある男の若い芸術家としての肖像」のジョイスにおいてあるのは、否定的な時代に入ったという自己意識、決定的に切れてしまったんだという罪悪感ではないでしょうか


問う。なぜ死にきった「過去」の絶対性がかくも大事なのか?国家に依拠した貴族的の自己中心的救済から成る「正法」を死にきった「過去」として捨て去り、他者しかいない絶対他力に生きるということだ。これほどの転換がなければ、死を観念ととらえる世界思想の入口に立つのは不可能なのではあるまいか

「過去は死にきったものであり、それはすでに死であるというふ意味において、現在に生きているものにとって絶対的なものである」、これはいかにファシズムから自身を守るかを伝える。古代アイルランドを称えたジョイス’FW’も、ゲール語と文芸復興運動を現在の基底に置くなどとは微塵も考えなかった


「ユリシーズ」”テレマコス’では、かくの如きジョイスの考えが書き込まれていた。ゲール語の文芸復興運動は近代の産物でしかないのは、靖国神社の場合と違わない。近代を乗り越えていく身振りで徒に古代との連続性を称した似非”反近代”の近代に定位することこそがにファシズムの正体として暴かれた


むしろ、反時代的に、
末法の時代に生きる無自覚者として生きることの意味を問う喜びを!

唯物論者のマルクスは無神論者ではあったが、鋭い宗教的感性をもった、否、宗教的感性につきまとわれた思想家であったことも確かだ。ところで、三木清は、マルクス「ドイツ・イデオロギー」を最初に日本に紹介した思想家である。ヨーロッパ留学から帰国後、「パスカルに於ける人間の研究」を書いた。しかし和辻の二番煎じであるハイデガーの影響からではなかった。恐らく親鸞の問題意識は昭和ファシズム期の至った後にはっきり自覚されてくるのだろう。「過去は死にきったものであり、それはすでに死であるというふ意味において、現在に生きているものにとって絶対的なものである」。と、このように三木は「人生論ノート」で自らを親鸞に同一化した。とはいえ、本当にかれはそれほど宗教的傾向をもった人間だったか?これはわれわれ自身に対する問いかけでもある。三木清の親鸞を介して考え始めたのは、マルクス「資本論」についてである。いわば正法としての商品交換価値としても商品使用価値としても「死にきった」、かえってそれゆえに、超越性として現れるものといえば、ただ貨幣しかないだろう。だが、ここ、即ち貨幣に留まることなく、あちらへと、貨幣を超えて行くには何をすべきか?絶望的に無力な末法の時代にあって、絶対的他力者としてわれわれは、現実の社会でどう生きるのか?この三木清が書けなかった部分を書くことが、逃れることができないわれわれの課題である



「過去は死にきったものであり、それはすでに死であるというふ意味において、現在に生きているものにとって絶対的なものである」。三木清の親鸞を介してマルクス「資本論」を考えた。商品交換価値としても商品使用価値としても死にきった、それ故超越性として現れるものといえばただ貨幣しかないだろう

「絶対的な伝統主義は、生けるものの成長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基礎とするものである。過去は死にきったものであり、それはすでに死であるというふ意味において、現在に生きているものにとって絶対的なものである。半ば生き半ば死んでいるかのように普通に漠然と表象されている過去は、生きているものにとって絶対的なものであり得ない。過去は何よりもまづ死せるものとして絶対的なものである」(三木清「人生論ノート」1941年)

・過去が現在にそのまま生きている至上の国体主義が横溢する時代に、過去は死にきっていることによって絶対的であることをいう三木の反時代的な「死の思想」がもつ根源的な批判性は、「人生論」として許され、「人生論」として読まれることでその機能を失ったのである。(子安宣邦「歎異抄の近代」11、”私は宗教的傾向をもつ人間である―三木清「親鸞」を読む”、<昭和思想研究会>10月12日早稲田大学小教室)

The New York Timesを読んで あらためて知ったけれど、英語で靖国神社は、War Shrine というんだな。そのまま、戦争神社。国家はだれも祀ることはない。戦う国家はただ国家自身を祀るだけ。これを若い人々に伝えていくかだ。大江の9条の会は、日本が再び戦争国家になるかどうかはこの半年間で決まってしまうと非常な危機感をもって訴えている。
Japan’s Premier Stays Away From War Shrine, but Sends Offering”
TOKYO — Japan’s hawkish new prime minister, Shinzo Abe, observed the anniversary of his nation’s defeat in World War II by sending an offering to a controversial Tokyo war shrine instead of visiting it himself, a compromise move meant to try to satisfy his right-wing base without inflaming passions in the region.

The New York Times , By MARTIN FACKLER,August 15, 2013

J'adore quand nous nous regardons dans les yeux et sourions au même moment.

The present state of affair in the town 'Ishimaki' 石巻 that a tsunami struck two years ago. There were a residental area before tsunami. The rehabilitation may be postponed by Tokyo Olympic. That's big problem !

子安 宣邦氏

新百合ケ丘に「愛のコリーダ」を観にいったのだが、チケットは前売りで完売ということであった。本多さんの大島渚論をこの目で確かめたかったのだが、残念。書きかけの三木清論を続けろというのが天のさし下す命として、帰宅し、机に向かい直した。


「シュールレアリズム(フロイド的夢判断)、ロードムービー、(ルノワール的)コメディ、(ハリウッドスターシステム的イングリッド・チューリンの)クローズアップ、異教(野蛮)と新教(文明と無神論)の確執、高度の緯度の国の光と影の美(白黒映像)、すなわち、映像の豊かさ=ベルイマン、野いちご」sei


社会と個人との対立を描いた小説というのは、登場人物が嘘をつくことはあっても、一応ナレーションに関しては公明正大に正しいことを読者に語っておくことが約束事です。このフローベルのシステムを壊したのがカフカの寓話的或いは迷宮的ナレーションです。ただし単に嘘をついているともいえます。ここがカフカの凄いところです。正直私は村上春樹のいい読者ではありませんが、寓話的・迷宮的なだけの村上が全然カフカに似ていないのもこの点です。マスコミ・科学者・政治家。現在置かれている状況というのは、そんな嘘をつくナレーションが読者を誘導する本の世界の内部として形容できるでしょうか。つまり3・11以降、依拠できる社会、したがって言い換えると、依拠できる言葉が存在しなくなってきたということでしょう。実は、これは、植民地化の経験をもった、とてもアイルランド的テーマといえる現象ですが、痛々しくもジョイスが「ダブリナーズ」において描いたように社会そのものが不在であれば、誰も、誰に出会うことが不可能なのです。


あまりに内向き過ぎない?八十年代に流行したあの「透明なボク」小説のほかに、海外の大切な作品にもっと目を向けて欲しい。現在ここフェイスブックに投稿しているアイルランド劇作家ブライアン・フリールも嘗て、ノーベル文学賞候補にあがった。その年は大江健三郎が受賞した。ロンドンのバービカン・センターでベケット生誕百年を祝したシンポジウムがあったとき、ベケットを継承し超える仕事として、このフリールの「フェイスヒーラー」をいうイギリスの批評家達が多くいた。

ノーベル文学賞について

敗戦後、治安維持法で捕まったこの人物の釈放を求めず彼を獄死させたしまいました。これほど、日本人がいかに自ら戦争を終わらせなかったかあからさまに示した事件はありませんでした。そして現在も戦争を終わらせるどころか、降伏しない最後の兵隊のつもりで、いつまでもアジア近隣諸国と戦っているつもりです。なによりも、ファシズム協力者としての自らの悪を隠す為に彼の死から何も汲み取らなかったと言わざるをえません。われわれは遅くはありません。明日、三木清にこそ、ノーベル文学賞を与えたらいいじゃないですか!事件として三木清の死を生産すること、そしてわれわれ自身の恥をみつめるときです。人間らしい人間としての真の復興と再生はそのあとにくるのではないでしょうか!!

敗戦後、治安維持法で捕まったこの人物の釈放を求めず彼を獄死させたしまいました。これほど、日本人がいかに自ら戦争を終わらせなかったかあからさまに示した事件はありませんでした。そして現在も戦争を終わらせるどころか、降伏しない最後の兵隊のつもりで、いつまでもアジア近隣諸国と戦っているつもりです。なによりも、ファシズム協力者としての自らの悪を隠す為に彼の死から何も汲み取らなかったと言わざるをえません。われわれは遅くはありません。明日、三木清にこそ、ノーベル文学賞を与えたらいいじゃないですか!事件として三木清の死を生産すること、そしてわれわれ自身の恥をみつめるときです。復興と再生はその後です

敗戦後、治安維持法で捕まったこの人物の釈放を求めず彼を獄死させたしまった。日本人がいかに自ら戦争を終わらせなかったかだ。現在も戦争を終わらせるどころか、ファシズム協力者としての自らの悪を隠す為に彼の死から何も汲み取らなかった。遅くはない。三木清にノーベル文学賞を与えたらいいと思う

ノーベル賞候補の名を忘れてしまう程関心のない作家だが、自分の知る限りでは、ヨーロッパでは地方都市のフェミニズムについていけないわと感じる女性研究者達が読んでいたな。中流の知的な但し保守的な人々を安心させる保守的な雰囲気ー東洋の劣った人々を愛させるオリエンタリズムのカビの類でしょ?

ポストモダニズムの内容は論者によってまちまち。が、近代については、それは抽象的な他者像を語る言説として定義できることが許されるのではないか。ジョイス「ユリシーズ」は抽象的な他者が描かれているか?「論語」は抽象的な他者が描かれているか?もし描かれていないとしたら、脱近代か反近代か?

ジョイス「ユリシーズ」はそれ自身はモダニズムの代表作とみなされるが、「フィネガンズ・ウェイク」との同一の連続面に位置するものとして評価すると、ポストモダンの要素が強まるだろう。「ダブリナーズ」との組み合わを重視すれば、アイルランド人のように、反近代のテクストとして読むことができる

晩年アインシュタインは、異郷の地の亡命者だった。知識でなく、想像力を、理性に与えよと言った。ここでは、想像力は無限のこと。これは、カントの思考と言葉を開こうとする判断力の謂いだ。問題は、どちらでもいいのだが、アインシュタインもカントも、なぜ芸術の領域から思考と言葉を開けると信じたかにある。この問いが成り立つためには、現実の対象にホームレスである詩の独立性が芸術の空間を占めてきたことを承認する洞察と若干の勇気が不可欠となるだろう

"Imagination is more important than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world." - Albert Einstein

米国は一国だけで軍事行動を起こすほどの経済力がなくなったことはどうも本当らしい。植民地主義は、ベトナム撤退とイラク戦争の事実上の敗北によって、歴史の舞台から退場しつつあるのか。しかしどこまでも反動的な日本の知識人達は、地球半分を支配したビクトリア朝帝国主義を称賛している時代錯誤か

中近東での軍事支配は揺るぎないものにみえても、アメリカは、一国単独だけでは自分の言うことをきかぬ国に対して爆撃等の軍事行動を起こすほどの経済力がなくなったことはどうも本当のようですね。19世紀国民国家を中心に台頭した植民地主義は、20世紀後半に起きた米軍のベトナム撤退とイラク戦争の事実上の敗北によって、歴史の舞台から確実に退場しつつあります。しかしここで、非常に残念なことを言わなくてはならないのですが、どこまでも反動的な日本の知識人達は、言論の場で、嘗て地球半分を支配したビクトリア朝帝国主義を称賛しているような驚くべき無責任な時代錯誤のなかにいます。とくに大手マスコミの国体的の戦争体制へ向かう大転向に対しては一層の警戒と監視が必要です。


安倍が「地球の裏側」まで自衛隊を派遣すると言っているのは、徴兵制度とワンセットのこと。1980年代中曽根内閣時代に遡る計画を自民党は着々と実現してきています。戦前を観察した本多勝一によると、知識人達の転向がいきなり起きたのではないのです。まずマスコミの自己検閲からが始まるのだ、と

ソクラテスは、無知であることを知ることの大切さを説きました(「ソクラテスの弁明」)。つまり、自身の限界を知らぬとき、知はそれ自身罪深いとされました。(ちなみにポストモダニズムにおける啓蒙主義批判の立場の先駆です)しかしやはり無知も罪ではないかと疑いたくなる事柄もあります今朝、新聞で科学者の言葉に聞き、日本は英国に範を取れと言わんばかりにいうかれの無知は許せくなりました。絶滅寸前に追い込まれたアイルランド人の苦しみを知らないのかと怒りを覚え机を叩いたほどです。”英国は海洋国家と称して地球を俯瞰してみることにたけています”(朝日、”頭脳 大循環時代”)と言うですが、これは、”ナチスはアーリア民族の優越と欧州を俯瞰してみることにたけていた”と言うのとでは、違いがないのでしょう。と、この科学者に反証の言葉を一言ぶつけてやりたかったです。

無限大のマーク「∞」はなんて読むか知ってますか?インフィニティまたはメビウスリングというのだそうです。ところで今朝、「いい笑顔は、相手の心に素直に飛び込むらしい」(天声人語、10月9日)という、なにか戦前の国策標語みたいな文を読みました。でもね、素直という言い方が分からないですね。素直を強調しすぎるのも怖い。目標との距離を限りなく縮めていく素直さは特攻隊精神だから。ま、それは別として、まず此方側の戦争責任を自覚することから始まる信頼関係が先、笑顔は後。相手の立場から相手が怒る理由はどこにあるのかを常に考える平和主義を貫き、外交を徹底的に重視する憲法の誓いを支持いたします

朝日の世論調査で安倍のコントロール発言に否定的な回答者が75%も。が、東京五輪開催に8割も歓迎。内閣支持率は6割近くある。ジャーナリズムの読者=観客の娯楽の為に、統計学者か社会学者の出番だ。が、誰が事件としての福島を言うのか?ヒロシマ・長崎も福島も始めも終わりもないと誰がいうのか


On ne'est sort pas tout de suite par la parole (Godard)
そこからは言葉を通してではすぐには抜け出せないわけですよ

Cette phrase de Rimbaud qu'on m'a dite depuis tout petit, je l'ai trouvée genial, et puis tout à coup je me suis apercu qu'elle me concernait; <je est un autre.> Mais si je est un autre, qui suis-je? Qui est cet autre? Bref, on ne'est sort pas tout de suite par la parole. Il faut passer par autre chose. Et la tèlè, au contraire, les medias, c'est-à-dire vous, vous nous faites croire que nous sommes tous les memes.


On ne'est sort pas tout de suite par la parole (Godard)
そこからは言葉を通してではすぐには抜け出せないわけですよ

ごく小さいときから聞かされてきたランボーのあの言葉<我とは一個の他者なり>、わたしにはスゴイ言葉におもえましたし、そして、ついで突然、この自分と関係のある言葉なんだと気がついちゃったのです。でもね、ランボーがいうように、私が一個の他者だとしましょう。その場合の私とというのはだれなんでしょうか?その他者とはだれのこと?要するに、そこからは言葉を通してではすぐには抜け出せないわけですよ。On ne'est sort pas tout de suite par la parole.
他のものを経由しなければなりません。そしてテレビは、メディアは。つまりあなたがたは、われわれに反対に、われわれは皆同じだと信じさせようとしています


ドゥルーズが英文学の優位を説くと、そのまま鵜呑みするか非難するかしかない若い研究者諸君よ。権威に弱い君たちには難しいかもしれぬが、そもそもドゥルーズは、英文学を、従って「ユリシーズ」を読めていたのだろうかも疑った方がいいよ。例えば、かれは、ベケットの小説の如き他者ブルームの散策にリゾーム性を読み出したとしても、その軌跡が公共空間の集合的記憶(病院・図書館・郵便局等々)を通過していた点を見落としたかもしれないのだから。所謂適者生存の個人主義を是とする市場万能主義にとらわれたアングロサクソンの社会ですら、最低限度これぐらいの病院と郵便局があったと記述されているのだから、2013年の日付をもつ英米をモデルとすると自負する日本のネオリベ勢力の貴族たちには騙されるな!この英文学の声をドゥルーズは見落としたかもしれないが、ジョイスははっきりと警告していた可能性も考えよといいたいな。われわれの空間を奪わせるな!という抵抗の視点が致命的に欠落しているんだね、現在のドゥルーズ研究者達は。(われわれの空間であって、われわれの大地ではないよ、あしからず!)


ドゥルーズが英文学の優位を説くと、鵜呑みするか非難するかしかない若い諸君よ。そもそも彼は、英文学を、「ユリシーズ」を読めていたかも疑え。ブルームの散策にリゾームを読み出したとしても、その軌跡が公共空間の集合的記憶(病院・図書館・郵便局等々)を通過していた点を見落としたかもしれない

つまり、所謂適者生存の個人主義を是とする市場万能主義にとらわれたアングロサクソンの社会ですら、最低限度これぐらいの病院と郵便局があったと記述されているのだから、2013年の日付をもつ英米をモデルとすると自負する日本のネオリベ勢力の貴族たちには騙されるな、ということさ。

元自民党首相として小泉純一郎も福島の惨事を招いた加害者の一人といえる。戯れに原発ゼロ(百年で?)を言う前に、最低限度人間として何かできぬかと思うが、聞く耳も持つまい。息子の為に発言するこの国の政治家は貴族化し、国会を家族の財産として私物化・相続させていく。反知性主義の拍手もあかん


されどブルームの歩み(ジョイス)は、公共空間の集合的記憶(病院・図書館・郵便局等々)を舞台にしたリゾームだ!
「様々な逃走線を含む地図になぞらえられる。リゾームは、非中心化システムであり、将軍も組織化する記憶や中心的自動装置もなく、ただ諸状態の交通によってのみ定義されるシステム」


私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。そしてまた化粧はゲームでもあります。顔をまっ白に塗りつぶした女には「たかが人生じゃないの」というほどの余裕も感じられます。
寺山修司 terayamasyuzi


富裕株主の石原は、恰もカネに潔癖な官僚の如く滑稽な猿芝居をした。これが意味しているのは、富裕株主と官僚が同じだということだ。社会が持ち合う財産は株主(企業)のものでも官僚(国家)のものでもない、と、われわれのデモクラシは気がつき始めれば、まだ敗北とはいえない。わざわざ、自らゲームを放棄し終了させてしまうようでは、それこそ相手の思うツボではないか?抵抗のための戦略とはなにかを問うことこそが…

われわれの戦略とは、三点                                   
(1)自民党と極右翼党を支持しない                              
(2)大手銀行を通した市場の活性化は金持だけに恩恵を与えることを知る。地球環境を破壊する無駄への公共投資を許してはならない。例えば、原発の投資・輸出        
(3)平等のデモクラシーを実現しよう。社会的な財産は、株主(企業)のものでも官僚(国家)のものでもないということを知る

Fukushima : découverte d'une nouvelle fuite d'un réservoir ー Le Monde

2020年東京五輪の開催が決まり、安倍首相が「状況はコントロールされている」と国際公約したことで、日本を除く世界のメディアの眼は一層厳しくなっている。東電が事故処理能力を失っており、政府も真剣に対処していない中、柏ア刈羽原発でも動かそうものなら、猛烈な批判が襲いかかるだろう。金子勝


子安宣邦氏のリツイート より

私は三木清の好意的で読者ではなかった。それは30年代の三木の時局論的な文章のせいであるかもしれない。彼はその時代に沈黙すべきだと思った。だが彼は余計に饒舌であった。私は饒舌な哲学者に好意をもたなかった。私はいま彼の獄中の遺稿「親鸞」を論じなければならない。その「親鸞」を読んだ。
三木は「親鸞」を読者のためではない、彼自身のために書いていた。私ははじめて三木の真実の文章を読んだ気がした。恐らく『パスカルにおける人間の研究』も彼自身のために書いたものであろう。処女作と遺稿とが呼応しているように思われた。私は遺稿「親鸞」の戦後46年1月の発表の姿を求めた。
遺稿「親鸞」は『展望』創刊号(46年1月)に唐木順三のテで掲載された。その『展望』を国会図書館の憲政資料室で見た。それは占領軍による検閲文書に含まれていた。これを見たことは貴重であった。私は「親鸞」を遺していった彼の死、終戦後1ヶ月余の彼の無惨な死を考えることを余儀なくされた。
遺稿「親鸞」を、1945年9月26日中野の豊多摩刑務所のベットから転げ落ちるようにして死んでいた三木の死を考えることなく読むかどうかは、読み方の上で大きな違いだ。だがそれにしても終戦から1ヶ月、当局はもちろん占領軍も、そして知人・友人たちも三木の救済を計らなかったのはなぜだろう。
またしても終戦が我々の手による戦争の終結ではなかったことを考えさせる。それが9月26日の獄中における三木の独りぼっちの無惨な死に示されているのだ。その4年前、三木は「恐らく私はその(歎異抄の)信仰によって死んでいくのではないかと思う」と語っていたという。遺稿「親鸞」は重い書だ


子曰、学而不思則罔。思而不学則殆

子の曰く、学びて思わざるときは則ち罔(くら)し。思いて学ばざるときは則ち殆(あや)うし。

孔子はこういわれた。先立つ人々の教えを学ぶとともに、自ら思うことをしなければ、昏い、明らかではない。自分の心だけを頼りにして思うことだけをして、学ぶことをしなければ、それは危なっかしい。

<評釈>古訓に考え、先賢にしたがう「学び」と、自分の心に問い、求める「思い」とを対置して、前者のみによることの弊を昏(くら)いといい、後者のみによることの弊を危ういと孔子はいっている。この「学び」と「思い」との対置による発言がもつ重要さを、あらためて考えてみたい。私は人間の精神的活動における受動的学習と能動的思索の両側面についての大事な示唆がここにあると見るのである。人間は学習的存在だといわれる。人はまず親から、そして周辺の成人から学ばなければ自立することはできない。学ぶという受動的な学習は、人の自立的な活動の基礎である。人間が自立するには、まず自分の生存する世界を学習によって受容しなければならない。この世界の受容が自立する人間の基盤にある。この人間の受動的な学習という基盤によって、人間の能動的な自立的な精神の働きがあるといえるのである。学習における世界の受容過程ぬきに、人のほんとうの自立はありうるのか。それは自立と見えて、その実はただ自分勝手であるだけではないのか。受動的な基盤なしの自立は、自分勝手で危なっかしいのである。だがひたすら受容するだけで、自ら思い、自ら考える精神の能動性をもちえない人間は世界を自分の目で見ることはできない。彼には世界への見通しはない。彼にとって世界は昏く、ぼんやりしたままである。(子安)


<ふくろう猫が語る「論語」>
子の曰く、学びて思わざるときは則ち罔(くら)し。思いて学ばざるときは則ち殆(あや)うし。

・ホ〜、毎日毎日安倍は「コントロールされている」と教えてくるニャリ。そんなことはありませーんと公に反論したら、鞭によって打たれる。鞭とは同調圧力のこと。ちなみに「教」の字は鞭のカタチを表す。こうして、「教える」ということは、権力者に一方的に都合がいい、<超越化>に陥いることが多い。ここから、「論語」は、「思ふ」ことを、「教える」ことではなく、「学ぶ」ことに関わらせたことの意義がみえてくるニャ。ただし、「学ぶ」は、仁斎的にいうと、<鬼神>の領域である主観世界を中心に持たないのだ。(3・11以降、目を瞑って反省すれば自ずと災いは過ぎ去ると思い込んでいる親爺たちがホント多いよな。)ホ〜、「思ふ」ことの意義を説いた「論語」のラディカルさとは、超越性にもまた内在性にも安住するなと説くところにあるニャリ

子游問孝。子曰、今之孝者、是謂能養。至於犬馬、皆能有養。不敬、何以別乎。 (子游、孝を問う。子の曰く、今の孝は、是れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで皆能く養う。敬せずんば何を以てか別たんや)

「論語」の問答的言語は、子安氏によると、行為遂行的な性格をもった発言です。問いを発する具体的な相手に対して、具体的な問いの状況に応じた解答を孔子は与えていくのです。例えば、「孝」とは何かというふうに定義を与えないのです。但しそのことは多義的解釈の曖昧性とは別のことと思います。曖昧な多義的解釈を与えるのではなく、江戸朱子学(伊藤仁斎)は、「孝」に「敬」という決定的な一字を加えた孔子の言葉に注目しました。単なる物質的な養いに、気遣いの意を与えました。おそらく、本質なき自他の関係性に依る倫理性を意識したのでしょう。ズバリ言いますと、吉本隆明よりも250年前に、江戸朱子学が「関係の絶対性」について語っていたことはもっと知っておいてもいいと思います。仁斎は、市井の学者であった彼が属していた、17世紀当時の大阪の人間関係が依る卑近な気遣いを観察していたはずです。しかし結局、「敬」は明治日本が追放しました。「孝」の字義は、国体という男性優位的な、則ち、国民道徳の家族制度を支える反動の窒息となっていくのです。亡霊の如く、「孝」の国体概念としてのイデオロギーは今日、憲法無効化を目論む安倍、石原・橋下の「維新の会」において彷徨していますよ!

子游問孝。子曰、今之孝者、是謂能養。至於犬馬、皆能有養。不敬、何以別乎。

(子游、孝を問う。子の曰く、今の孝は、是れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで皆能く養う。敬せずんば何を以てか別たんや)

多義的解釈を与えるのではなく、江戸朱子学(伊藤仁斎)は、「孝」に「敬」という決定的な一字を加えた孔子の言葉に注目しました。単なる物質的な養いに、気遣いの意を与えました。おそらく、本質なき自他の関係性に依る倫理性を意識したのでしょう。吉本隆明よりも250年前に、江戸朱子学が「関係の絶対性」について語っていたことはもっと知っておいてもいい事柄だと思います。ちなみに、仁斎は、17世紀当時の大阪の人間関係が依る気遣いを観察していたと思われます。しかし結局、「敬」は明治日本が追放しました。「孝」の字義は、国体という男性優位的な、すなわち、国民道徳の家族制度を支える反動の窒息となっていくのです

いやいや、ドゥルーズこそ…

「ゴダールはうまいことを言っています。「正しい映像ではなく、ただの映像さ。」哲学者もこんなふうに言いきるべきだし、それだけの覚悟をもってしかるべきでしょう。「正しい理念ではなく、ただの理念さ」とね。」(『記号と事件』)

自分がもつゴダール観の全部が、ドゥルーズが述べたこの公理に、集約されている。が、ただし、「全部」といってみたけれど、果たしてその「全部」が他者の前にしていかなる根拠があるのかを問うことはやはり勇気がいる事柄だ。意外な外部から、「正しい映像がある」とか「正しい理性がある」と頑迷に主張してくる否定に、偶然に出会うかもしれないからだ。そのときは安住していた連続性が絶たれる。多分、盲人から「あなたは手があるか」と尋ねられたときのウィットゲンシュタインの自失茫然とはかくのようなものであった。また演劇家フリールが描いた、パワー(能力)を失って為すべきことが無い霊能治療者のようなものだ。果たして、絶対の断絶から、不可能と知りながら、なお新しい公理を構築できるか、不可能を考えることをあきらめずふたたびあたらしく語り始めることができるかだ


解雇特区をおつくりたいのなら、まず最初に霞ヶ関の国会議事堂内を解雇特区にしてくださいませんか。現職の議員を任期前に、又は次の選挙の解散前に、国民が比較的簡単な手続きのレファレンダムで解雇できるようにしてください。選挙民は我慢して、公約違反のあなたたちを何年間も雇い続けるのは嫌です

「選ぶ民主主義」だけが民主主義にあらずという小田実の話、「考え語る」プロセスの大切さですね。直観的に言って恐縮ですが、議員の解職の後直ぐにその穴を埋めなくてもいいのではないかと。多数派の選挙に利用されるリコールの濫用を防ぐ制度上の設計が必要となるでしょう

「この集まりは結局、一週間後にマンハッタンの中心街のバッテリー公園にある、アイルランド飢餓記念碑に再結集することを決定した。そして八月九日のジェネラル・アセンブリーでは、八月から九月上旬にかけてのジェネラル・アセンブリーの目的は、九月十七日の大規模な反ウォール街抗議にむけて、計画を練ることであった。」
(ウォール街を占拠せよーはじまりの物語;Writers for the 99%著、芦原省一訳。2012年)

朝日新聞社説は、人生の再出発を物語る不動産投資か銀行ローンの広告文か。五輪が齎す都市開発の称賛の裡に、軍国主義時代の国策標語を書かせた同じ恐怖が。君が代義務化という拷問の恐怖によって、死刑の恫喝によって、国家に隷属する喜びの拍手を強制されているのだー朗らかな新聞とバラバラの国民は。

2020年予測。政府東電の情報開示が十分に無く、放射能汚染水の問題から、心理的に流動性選好の増大傾向。不況を終わらせない。TPPネオリベ的市場主義は新「貴族」に公共空間(病院・学校)を奪わせる。集団安全保障軍事費が政府予算の半分に。靖国神社の国家神道化。文盲の高まる割合が社会問題

子の曰く、故きを温ねて新しきを知らば、以て師為るべし

<注解>これは師となる道が難しいものであることをいっている。思うに天下の事変は限りなく、また窮まりない。それゆえ旧き見聞を繰り返し尋ね、そこに新たな発明を得て、はじめてこの極まりない事変に対応し、処すべき方策をも見出すことができる。こうであって人は初めて師ともなりうるのである。師とは人の模範である。師の指導によって人材もまた成る。世の道もまたこにお師によって維持される。在野の庶民にして人君と並称せられる師の責務は重大である。謹まざるをえない。

<評釈>仁斎は温故知新よりも、人の師であることの入内さをいうこととしてこの章の意義をとらえている。「大意」で述べる仁斎の言葉は、京都堀川の市井の師仁斎の姿を、あるいは彼の理想を彷彿とさせる。(子安)


子曰、学而不思則罔。思而不学則殆


子の曰く、学びて思わざるときは則ち罔(くら)し。思いて学ばざるときは則ち殆(あや)うし。


孔子はこういわれた。先立つ人々の教えを学ぶとともに、自ら思うことをしなければ、昏い、明らかではない。自分の心だけを頼りにして思うことだけをして、学ぶことをしなければ、それは危なっかしい。

<大意>

古えの先人・先師の教えにしたがって考えることを、学ぶという。己の心に求めることを、思うという。孔子聖人において天下の善を集め一つにすることができるのは、学び(学問)の功である。また聖人が深きを極め、微に徹して神妙の域に達するのは思い(思索)の結果である。学問の功は目に見える実なものであり、思索の結果は目に見えない神妙さにある。学習するばかりで思索することがなければ、学びの成果を実際に身に得ることにはならない。それゆえ昏いのである。思索するだけで学習することがなければ、それはただ自分の心を師とすることで独善的で、危ういのである。それゆえ思索を伴なわすしては、学問の成果はなく、学習することなくして、思索の到達もない。両者が相まって、はじめて実現も達成される。またこうもいわれている。古えの学者は学ぶことよりも、思うことが多く、今の学者は学ぶことが思うことよりも多い。古人における学問と今人における学問は大いに異なると。これもまた考えねばならないことである。

<評釈>

… 古訓に考え、先賢にしたがう「学び」と、自分の心に問い、求める「思い」とを対置して、前者のみによることの弊を昏(くら)いといい、後者のみによることの弊を危ういと孔子はいっている。この「学び」と「思い」との対置による発言がもつ重要さを、あらためて考えてみたい。私は人間の精神的活動における受動的学習と能動的思索の両側面についての大事な示唆がここにあると見るのである。人間は学習的存在だといわれる。人はまず親から、そして周辺の成人から学ばなければ自立することはできない。学ぶという受動的な学習は、人の自立的な活動の基礎である。人間が自立するには、まず自分の生存する世界を学習によって受容しなければならない。この世界の受容が自立する人間の基盤にある。この人間の受動的な学習という基盤によって、人間の能動的な自立的な精神の働きがあるといえるのである。学習における世界の受容過程ぬきに、人のほんとうの自立はありうるのか。それは自立と見えて、その実はただ自分勝手であるだけではないのか。受動的な基盤なしの自立は、自分勝手で危なっかしいのである。だがひたすら受容するだけで、自ら思い、自ら考える精神の能動性をもちえない人間は世界を自分の目で見ることはできない。彼には世界への見通しはない。彼にとって世界は昏く、ぼんやりしたままである。(子安)




ネグリが合衆国連邦と共に限界を認めているスイス連邦に持参した彼の本を読み直す。国家を中心としたこれらの連邦が抱え込む限界は、国家を中心とした国連の限界でもある。彼が言う米国の軍事ヘゲモニーの崩壊ととも現れる帝国主義なき帝国は、即ち柄谷はこれを「世界市場」と看做す。ネグリに反論する
つまり国民国家の存在意義はなくならないのは、市場原理とは別の原理を持つからであるという。が、富から奪って貧しきに分配するという働きのことか?が、ケインズ的政策を提言しても霞ヶ関のネオリベ貴族達は聞く耳持たぬだろう。南米みたいに、レファレンダムで国家議員の任期前罷免でも認めぬ限りは。
存続するのは国家だけではない。柄谷は、形成されてくる帝国の存在を指差す。例えば中国だ。米国の所謂個人主義的なアングロサクソン型資本主義に、帝国としての中国が対抗されてくる。しかし柄谷が分からなくなるのは、この先である。曰く、ネグリがいう様な世界市場に抵抗していくマルチチュードは、
十九世紀プロレタリアート概念の焼き直しなのか?貧富の格差を是正する国家の役割を軽視したアナキズムの大衆概念は成り立たぬユートピアなのか?それにしても東京五輪は共同体から奪った分を人々に返すことは有り得ないにも拘わらずかくも人々が生存権を担う国家に思い抱く幻想の背後に何があるのか?
端的に、東京五輪は、他でもない早急な”大同団結”と官邸内招き入れの混乱によって、実現したと考えることも大事ではないか。運動する主体は内閣総辞職等政府の転覆まで介入して行かないと、かえって政府の間違いを支えてしまうものだということを学んだ。レイシズムが大衆を分断するということともに.

復興幻想は沈黙が欠かせぬ。東京五輪対策に警察が共謀罪創設を求めている。大袈裟に妄想逞しく色々な口実で警察と警備会社に任せられぬといって石原の夢を実現するつもりだろう。自衛隊の都市警備だ。が、こんな強い国家が齎す豊かさに対して批判的に根本から問うことが重要であることには変わりがない.

ブルジョアの解放の夢を悪用したネオリベ的グローバリズムを批判する、空間の相対性を考える哲学とは何か?ハーヴェイがいうコスモポリタニズムは、マルクスに由来する。労働価値説に従えば、アイルランドの様に生産性が低い故に多くの価値量を生産する落ちこぼれの国々を無視することが許されなかった.

労働価値説の正義性は常に主張されたのではなかった。例えば19世紀ジャガイモ病飢餓による人口減少は理論的には、労働供給の減少ー>賃金の上昇を結果するはずだったが、実際はそうならなかった。正義の問題ではなく、マルクス自らをブルジョア的現象の観察に委ねた。技術的生産性の上昇に帰したのだ.

アインシュタイン相対論と量子力学に見出せる、空間の相対性を考える哲学とは、中心から離れた場所でも決してこれを消し去らないという哲学のことだ。1972年血の日曜日事件が起きたとき、イギリス中心の世界しかみようとしない人々が、デイリーは何も起きていないという英国メディアの報道を信じた.

同じことが1989年に起きた。現在なお、帝国中心の世界しかみようとしない日本知識人達が、天安門前での抗議を政府の生存権の役割を無視した単なるブルジョア的騒動と思い込んでいる。彼らは中国で拷問されている人々を想像する前に、天安門広場を遠いのものとして周縁化しこれを忘却してしまうのだ.

同じことが2013年に起きている。地球を破壊してしまうかもしれぬ放射能汚染水に関する偽りの国際公約である。たたかう国家、祀る国家の復権として強い国家中心の世界しかみようとしない国民が、250キロ離れた福島を消去することによって、自らの復興幻想でしかない東京五輪に酔いしれているのだ.


TPP反対で冷静に理性を働かせてみたら、やはり、政府の中心にいる事実上貴族である安倍自民党の連中に、いくらケインズ政策を説いても聞いてくれそうもないと気がつく人もでてくるのではないだろうかな。嗚呼、なにしても益々息苦しくなってきたよ。点。点。点。点。点。点


毎日新聞世論調査;
首相発言「汚染水ブロック」ー>「そう思わぬ」66%
内閣支持率 ー>60%

La television fabrique de l'oubli...Pourquoi veulent-ils oublier (Godard)
テレビは忘却をこしらえる。連中はなぜ忘れたがっているのか。

・La television fabrique de l'oubli, alors que le cinema fabriquait des souvenirs. Pourquoi veulent-ils oublier; Le cinema est fait pour precede, l'art est fait pour precede. S'il prend cette function-là, quelque chose manque, le désir existe toujours, le besoin est mal satisfait et ça déclenche,,,on ne peut pas expliquer autrement qu'on passé trois ou quatre heures par jour devant la télé
・映画は思い出をこしらえたのに対し、テレビは忘却をこしらえる。連中はなぜ忘れたがっているのか。映画は先行するためのもの、芸術は先行するためのものだ。芸術はこの機能を失えば、なにかを欠くことになる。欲望は常に存在しており、必要はよく満たされておらず、だから抑えがきかなくなる…こう考える以外に、われわれは一日に三、四時間をテレビの前ですごすのはなぜなのかを説明することができない。


林達夫


「真のデモクラシーとは、この政治のメカニズムから来る必然悪に対する人民の警戒と抑制とを意味するが、眉唾ものの政治的スローガンに手もなくころりと「だまされる」ところにどうでも人が頼らねばならぬ政治のおぞましい陥穽(かんせい)があるともいえよう。」

だれが何と言っても、これは大変な大空位時代である。少なくともうらおもての懸隔のはなはだしい時代である。要望と現実とをすりかえてはならない。無いものはあくまで無いのだし、欠けているものはあくまで欠けているのだ。率直にまずそれを凝視することから始めるべきだ。冷酷無慙に。

自由を愛する精神にとって、反語ほど魅力のあるものがまたとありましょうか。何が自由だといって、敵対者の演技を演ずること、一つのことを欲しながら、それと正反対のことをなしうるほど自由なことはない。自由なる反語家は柔軟に屈伸し、しかも抵抗的に頑として自らを持ち耐える。

すぐれた思想というものは根こぎにされて弱ったり枯れたりしてしまうものではなく、新しい地盤と環境とのなかに移植されることによって却て生気を得、成長が旺盛になり、その根は一層よく土につくものを言うのではなかろうか。

絶望の唄を歌うのはまだ早い、と人は言うかもしれない。しかし、私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。だれのために仕事をしているのか、何に希望をつなぐべきなのか、それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。



deleuze

ゴダールはうまいことを言っています。「正しい映像ではなく、ただの映像さ。」哲学者もこんなふうに言いきるべきだし、それだけの覚悟をもってしかるべきでしょう。「正しい理念ではなく、ただの理念さ」とね。(『記号と事件』)

もはやわれわれは、深みに降りるのではなく、鏡やチェスボードの平たい表面を横滑りするのであって、怪物でさえも横向きになっている。こうしてはじめて、文学は表面の芸術であり、平面の測量術であることが明らかになった。(『「意味の論理学」イタリア語版への覚え書き』)

マイノリティーの市民として生きる権利こそが大切。”大行進”に関して、迫害を受ける在日への同情があっても、自主的に問題を訴える人々に主催者が”許可”を求めるのは行き過ぎた自己抑制だ。シングルイッシュからゼロイッシューへと形骸化していくデモを、天声人語のようには無責任に称賛できるか?

2  

l'inertie objective 客体としての不活性

mais il ne peut pas non plus résider dans l'inertie objective de ce qui , en droit ,n'accède pas, et n' accèdera jamais à la conscience de soi.
(Foucault, les mots et les choses)

といって人間はまた、ことの性質上自我意識に達しないし、じじつけっして達さないであろうものの、客体としての不活性のうちに宿ることもできまい(渡辺一民訳)


機密保護法が通過したら、記者クラブメディアでもギリギリの取材ラインを迫られるだろう。発表記事だけ書いていれば安全、ということになるが、フリーランスは廃業を迫られる可能性が高い。外国の記者たちはどんどん日本から去っているので、ますます日本の情報は世界に届かなくなる。」柴山哲也

「自民党はTPPの重要5品目(米、小麦、牛肉、乳製品、砂糖)を「5項目586品目」にすり替え、調整、加工品220品目を「聖域」から外して公約破りを隠す。いくら農産物を作っても加工先の需要が減れば同じ。これでさえ妥協が成り立つかも不明。」金子勝

In Symbolist theory the meaning of a painting is not in principler any more foimly secured by its resemblances to features of the real world than the meaning of a poem is secured by some independent causal connection between its various words and the objects those worrds happen to signify.



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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 10月  言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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