言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 10月後半

<<   作成日時 : 2013/10/14 11:49   >>

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異端としての梟猫流朱子学

(1)自他の関係を廻る三つの定理を押さえておけばいい簡潔な体系。観念は自らを表現できない。言葉を必要とする。しかしこれでは自己と非自己という相矛盾するものを抱えてしまう。したがって「自己の表現は他において成り立つ」を最初の定理として約束してしまうのである

(2)最初の定理が哲学に関わる主張とすれば、二番めのは倫理学と関係する主張である。自己の救済は自己によって可能か?他が救わなければ自己も救われないか?という問いをもつものである。二番目の定理はこうである。即ち、「他によって規定されない自己も、自己によって規定されない他も存在する」

(3)三番目の定理は美学に関わる主張である。なぜ自己は他の領域へ移っていくか?逆に、なぜ他は自己に来るのか?これは感情の問題である。つまり他を遮断して自己の領域に留まらせるのも感情、孤独の痛さに耐えられず社会的な関係に入れと促すのも感情である。「自己から他への移行は必然的である」

(4)第一の定理から現れるのはまず、「学」という字である。「学び」は、自立性を表している。例えば近世に於いては天皇・貴族・神社の権威に頼らない自立性が実現した。京都の市井の儒者・伊藤仁斎は彼らによる学問の独占を打ち破った。民衆と共に学びの場である彼の家は宇宙の中心にあった(天道)

(5)「仁を行うのに、孝弟を本とせよ」(朱子)と読むとき「仁」の理が想定される。が、この様に’本質が現象する’ように「仁」の字を読む必要があるか。仁斎は「孝弟は、それ仁の本為るか」と読む。「学」の場での人々の自立に対応して、「仁」は日常卑近な人間関係のこと。学も仁も理に隷属しない

(6)「学」の場での人々の自立も、「仁」に於ける日常卑近な人間関係も、他者との交通を表現したものだ。整理すると、朱子の「仁」の読み方は第二の定理から由来する。つまり朱子は他から規定されない自己のあり方をみている。他方、仁斎の読み方は寧ろ、他から規定された自己のあり方を問うているといえよう

(7)「孝弟」の字からは、家族に定位する人間の不完全性が意識される。生物学的に人は誕生のときから他に依存せざるを得ない。「孝弟」は、依拠を言い表す。ところで言葉に実があり依拠できるときそれは「信」といわれる。「孝弟」は自らの限界(家族の範囲)を超え出るのは言葉の世界を介してである

(8)「徳」とは何か?答え―分からないものである。「徳」が主体化のプロセスとして意味をもつのは、迎合的にコンセンサンスとなった既存の知の「教え」からも、支配的権威の「政」からも自由である場合に限られる。「徳」即ち抵抗である。「徳」がない国に無理に留まらず「筏」で逃げよと孔子は言う

(9)「信」は信頼。一体構造(政財官マ司)をなす「教」「政」が推進してきた原発体制の問題を解決する上で、再びこの一体構造に依拠することは不可能なのは、「信」が無いからである。構造に介入する為には、(連続性を破る)創造と小さな人間達の力が必要である。こうして「信」は再び「学」に帰る

(10)異端としての梟猫流朱子学は、「学」の<依拠しない自立性>から、「信」の<依拠する自立性>へ至ったのである。同一性を必要としないこの形而上学的な脱出は、三番目の定理に裏づけられているのは明らかだ。つまり「自己から他への移行は必然的である」。これは事件性と呼ぶべきものであろう




作家のハロルド・ピンタは米国に従った英国の戦争をやめさせようと、エリザベス女王に手紙を出しましょうとみんなに呼びかけたように効果的にできなかったのかしら。手紙はかかんけどね。一番いいのは、廃止後京都に戻っていただいて天皇博物館の館長をやっていただくのがね


労働法に行くことは党派主義に行くという烙印がある。が、実際は国策主義に行くのだ。だからといって労働法の問題を民法で解決できると公に言う弁護士は総資本に飼われる日和見主義だ。市民社会の合意に対する希望は、国策的党派主義と総資本的日和見主義の間に存する。が、抵抗を欠けば反動でしかない

音韻交代、縮約等のメスで「FW」のriverrunを解剖し、’川走(せんそう)’、’川は流れる’、’ 夢見る’réver、’輪廻’erre-revieと勝手に読み込む。挙句に多義的言語の翻訳は不可能という間違った問題の立て方が生じるが、神の名と同じで意味なき川の名かもしれないのに


セクハラかセクハラでないか、それが問題だ

生きるか死ぬか、以上に、セクハラかセクハラでないかが大問題です。ややマニュアル的ではありますが、 ロンドンのビジネス研修で共有される、セクハラに関して分かり易く明確な定義があるので紹介しようとおもいます。自己の性に対して言わないこと・行わないことを、他の性に対して言うこと・行うことが、セクハラにあたるという。このセクハラの定義は職場の外でも応用がききます。公共の場での振る舞いの問題としてですね、興味深いです。例えばウインブルドンの決勝戦のとき、伝統的に女性選手だけが花束を持参してセンターコートに入場していたが、これは差別的とされました。フェミニズム・グループからの指摘だったのですが、上述したセクハラの定義にも関係します。その習慣を止めるかわりに、現在男性選手も花束を持って入場するようになったのです。これで問題が解決しました。他に、直接セクハラとはいえないでしょうが、ただ私が違和感をもつ、日本のマスコミが好む常套文句として、例えばマラソンなどで、’女のたたかい’などと頻繁に連発し翌日の新聞見出しとして登場する言葉があります。が、’男のたたかい’とはあまりいわないでしょうね

99年の国歌国旗法に関する国会審議を嘲弄する濫用の現実。秘密保護法も、現在将来これはしないとかあれはしないと政府は説明していますが、一度通ってしまえばもう「法律」でなくなります。怖いのは、秘密保護法は「罰する」という結論しかない点です。何が濫用かそれすらだれも分からなくなるのです

mardredは分からない。先に’殉教者’の意と決めつけて音韻又は子音交代があったとするのはインチキ。mardred (FW ) A person killed or murdered for beliefs or principles who becomes a martyr

原沢未来さんのピアノ演奏会(市ヶ谷)の感想

ショパンとシューベルトから、バッハへ。今夜はピアノという楽器の可能性と豊かさにほんとうに驚いた。譬えれば、原沢未来さんの演奏は、ピアニストが音で綴った夜の本のようであった。探求が一つ一つの音に可能性を与える。夜の海に轟く雷鳴の如きフォルテに、発見の喜びに震える天の声をきいたのは果たしてこのわたし一人だけだっただろうか?最後に、怒りと、寂しさ、途切れ途切れに微妙に崩れそうでしかし決して征服されぬ意志の純粋さの和声は、そう、シューベルトのピアノソナタ第21番の演奏だった。素晴らしかった。原沢さんに、大感謝!

(とくに、ショパンのマズルカ13番、シューベルト/リストのアダージョとセレナーデ、バッハ/プゾー二のジャコンヌですね。いやいや、どの曲の演奏も素晴らしかったです。ええ、たしかにシューベルトの第一楽章と第二楽章の演奏には深く感動いたしました。シューベルトが知覚したこと、かれが死んだ後も生き残る様々な感覚と、感覚相互のつながりを束ねたまとまりー文学に課せられた課題ーを見事に表現なさっておられると思い、鑑賞中文学的なことを終始考えておりました。後半のシューベルトのあいだは、時々なんですが、わたしの内部のなかになにか荒涼とした街頭で立ちこれを聴いているような何ともいえない不思議な瞬間が通過しました。と、同時に、そういうときは、ある持続する意志の動きも一緒に聞こえてくるのですね。ハッと気がつきます。そんなときはやはりこれは反原発の運動をなにか証言したものではないかと、ただしこれは音楽の知識がない素人のわたしの勝手な想像であります。それはともかく、直接的な荒々しさの感覚と、それとは全く逆向きの方向で、生命によって抱擁されているという内部の感覚、この両方が一緒になって、感化の大きな運動がピアノの場から生まれている、そんなことを思ったのでした。)



有機体が死んでも、生は残るだろうか?非有機的な生の力能は作品に残る。作品はそれが作品である限り、必ず生に袋小路からの出口を教え、敷石と敷石の隙間に一筋の道を残してくれる、とドゥルーズは言う。だからこそ、来るべきものとして想定され、まだ自分の言語をもたない人々のために書くのだという。そういう話をきくと、本当に自分は何も書いていないんだという苛立ちがある

Simone Weil ‏
純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。


「古書通信」のために「私にとっての古書展」という文章を書いた。大学を定年退職し、研究室からも、図書館からも離れざるをえなくなって、私は近代思想史の資料探しに古書展通いを始めた。やがて私の古書展通いは意味を変えていった。研究書や専門書などを探索に古書展に行くことを私はしなくなった。
机上に無造作に並べられた薄汚れた雑書類を私は熱心に見ていった。それらにはわれわれ退職者には有り難い安い値札が付けられていた。私はそこから昭和戦前ー戦時期の空気を吸いうる書を見つけ出していった。古書展はあの時代の問題を私が手触りで確かめるような場に、思想史の現場に変わっていった。
豊富な文献資料を手元に置いてする研究室の中での思想史作業が不可能になった私は余儀なく古書展通いを始めたのだが、その古書展通いは私の思想史を変えていった。薄汚れた一般向けの雑書に時代の空気を吸いながらする思想史に、市民の中で、市民的視座をもってする思想史に変えていった。












「秘密保護法」で隠そうとしている真実とはなにか?
作、本多敬

それについて語るな!かわりに、’単に見る目に記憶させよ’とは、
沈黙する規律を称えた美意識のつもりか?
しかしその美意識は、
宇宙においていかなる根拠をもつのか?
語ることを禁じている自己は、
人間性においてどんな正当化をもつのか?
そもそもこの国家には、
「秘密保護法」で隠すほどの真価など微塵もない!
ただ隠ぺいしなければならないのは、
まず、3.11以降のわれわれに関する真実だ。
未来に対して、地球の裏側に及ぶほどの、
五輪によっては購えない限度なき犠牲を
押しつけようとしているという。
そこから次に、そんなわれわれならば、
不完全な産業廃棄物として誕生してきたのであり、
一生かって、結局平等に
完全な産業廃棄物として死んでいくのかということ。
そう言わざるを得ない。東の海に向かって筏(いかだ)で逃げようにも、
逃げる海はもう自己欺瞞の恥辱で汚れてしまっているのではないか?

青々した天を背景にした日の丸旗ほど日本人を安心させる媚薬はない。安心を与えず青色の使用を避けたのが「愛のコリーダ―」の大島渚である。宇宙原理として人間性を根拠づける、理念性としての天の意義の方が大切だ。われわれは不公平なものを正すとき<理>屈を言うのは、天の<理>が抗議している!

捜索願ー
どなたか教えていただけませんか?

仏教の南無阿弥陀仏の<なむあみだぶつ>という読み方と比べると、論語の「子曰、人而無信、不知其可也」(子曰く、人にして信無くずんば、其の可なることを知らず)は、中国人が朝鮮人に、朝鮮人が日本人に読みきかせた原中国語の音がありません。なぜ「論語」の<音>は日本において消えてしまったのでしょうか?行方不明です。
「 論語」の<音>はどこへ行ってしまったのかという子安氏の問いから、荻生徂徠の指摘を考えました。日本人は論語の書き下し文を読むときこの日本語でしかないものを中国語で読むつもりになっているというのですね。なるほど、これは、商品(日本語)は他の商品(中国語)を見ているだけなのに自らの価値(起源)を読んでしまうほどの奇妙さです。
われわれに残っているのは、原中国語文字の痕跡だけなのです。この問いは、問題の立て方によっては、原中国語の読みに依存しなくなった、日本語の自立性のことが考えられてくるのであります。

商品(日本語)は他の商品(中国語)を見ているだけなのに自らの価値(起源)を読んでしまうほどの奇妙さについて述べましたが、この商品世界は、貨幣による介入が生じるまでは、空間的・時間的・人間的限界を超えていくことができないのです。貨幣に相当するのが漢文エクリチュールです。

連続性の内部を破る貨幣の介入という事件性とは、商品世界の外から到来する物質性のこと。これによって空間的・時間的・人間的限界が超えられていきます。漢文エクリチュールの介入も他者に向かった事件性であり、母国語に還元できぬこの思考の物質性を拠り所にしているのではないでしょうか


日本において仏教が原音声を残してきた理由に、期待された呪術性がある。他方、子安氏によると、仁斎と徂徠が儒学から受容したのは、儀礼的なものではなくラディカルに知的なもの。儒学の中心は解釈なのだ。デリダ的にいうと、解釈は音ー意味ではなく、エクリチュールに依拠する物質性だ





それについて語るな!かわりに、
’単に見る目に記憶させよ’とは、
写真の沈黙する規律を称えた美意識のつもりか?
しかしここで、この美意識は、宇宙においていかなる根拠をもつのか?
語ることを禁じている自己は、人間性においてどんな正当化をもつのか?
3.11以降、現在のわれわれの行動によっては、語るべき真実とはこうだ。
われわれは不完全な産業廃棄物として誕生し、
一生かかって、平等に
完全な産業廃棄物として死んでいくのかということ。
未来に対して、地球の裏側に及ぶほどの
五輪によっては購えない限度なき犠牲を押しつけて!?

今日は、トロッタ監督「ローザ・ルクセンブルク」を鑑賞した。 オットー・ザンダーが、ローザの友人カールを演じた。ベンダース「ベルリン天使のうた」の天使の一人として現れたこの役者は、(今年三月東京演劇アンサンブルが日本で初公演した)ボート―・シュトラウス作「忘却のキス」においてイェルケを演じたのであった。今日みた映画「ローザ・ルクセンブルク」のなかでは、単に記憶することの不可能性と虚偽性がこの男によって問いかけられたのだった。ところで、戦前ブレヒトは、美への救出によって悲劇性を完結させてしまうことがありえぬような、新しい哀悼の表現を手探りしていた。その直接の契機は、1919年一月虐殺されたローザー・ルクセンブルグの死であった。19世紀的美意識、表現主義に強く反発しつつ、同時に、それが育てた新しい感受性をさらに現実的に展開させていくことになった。以下は、1920年に書かれた詩「水死したむすめについて」からの抜粋(野村修訳)。

蒼ざめた身体が水の中で腐っていくと
神は彼女を忘れる(じつにゆっくりと)
まず顔を、ついで手を、そして髪を一番後に
彼女はもう腐肉、川の中の無量の腐肉とともに

最後に、ローザ―曰く、自由とは常に思想を異にする者のための自由である(Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden)。党の党による党のための<選ぶ>民主主義ではなく、自由とは大衆の大衆による大衆のための<語る>民主主義に存するのだ。これは重い言葉だ。2013年、代表制の危機にあって今まで経験したことがないほど厳しい状況に追い詰められた今日のわれわれに宛てられた言葉にちがいない!

例外なく、衝撃を受ける。アイルランドにきた日本人留学生達は現地校の地理の授業で知らされるのが、世界がどう日本の男女平等の現状を評価しているかというこの話。日本の学校で、なぜ教えないのか?益々教えなくなってきたのではあるまいか!?「男女平等、日本は105位 先進国で最低水準続く 」


もうどこかへ行ってしまった戯曲なんですが、ま、とにかく、フランスの哲学者サルトルを天使に見立てて、これを悪魔と議論させるというものを昔書いたことがあります。物語の中でその悪魔は天使に突っこみ、自爆suicidal bombingしてしまいます。で、最後はサルトル一人のの回想の言葉で終わるという設定でした。これを大鷲さんに読んでいただいたところ、天使だけが生き残っているのはオカシイと指摘されました。流石だなと思いました。天使もいるし悪魔もいる、演劇の大きな世界に生きてきた人の意見だと思いました。



想定したお話では、回答者は自分が男性かそれとも女性かについて悩むぐらいですから、そもそも自分は何者かと自己に関する情報を一切なにも持たない人でしょうね。自分にどのくらい財産があるかも知らないはずです。社会的な地位も白紙。まるで情報が一切遮断されたブラックボックスの中ににいる人のようですが、そういう状態を想定した、興味深い思考実験があります。ご興味をもっていただけると幸いですが、あの「正義論」のサンデルの師匠である、ロールズが主張したことを、勝手に、ここで紹介させていただきます。さて、その人と契約をむすぶことにします。社会契約のことですが、彼に契約の条件を選択してもらう必要があります。ただしこの選択は一度選んでしまうと後で撤回することが許されません。注意しましょう。質問はこうです。’あなたは社会に生きる上で、どちらのルールを選びますか?男性だけに超有利なルールを選びますか。それとも、男性を特別扱いするものではなく男性と女性の両方にとって平等なルールのほうを選びますか’と。ブラックボックスの外の世界は不確実ですから、この答えは予想がつきます。つまり、たとえば、その人は”男性のルール”を選んだあとに、自分が女性であったことが知らされたら、アウトです。自分が選んだ、自分にとって不利なルールの社会で一生生きいかなければなりません。そんな危険を回避するためにも、箱の中の人はかならず”男性と女性の両方にとって平等なルール”を選ぶというわけです。メリハリをつけるとですね、、箱の中の人は自分を半分は男性、半分は女性と確率的に考えます。(長々と失礼しました!)



'Thou, look at yourself"

The Olympian gods helds a mirror up to the megapolis that is Tokyo 2020.

'It is a symbol of hypocrisy. The cracked looking-glass of a servent supporting the collapsed promise at the cost of pepole's life'


芸術と保守主義の結びつきというと、19世紀以来保守右翼が扇動してきた「敵」国の硬いアイデンティティの対抗として(つまり二項対立的に補い合うという意味で)、川端康成から村上春樹に至る芸術的前衛で構築された、柔らかい非アイデンティティの風景といったものが、そういうものではないだろうか


リーダーシップか、参加型民主主義か。この両者はそれほど対立しているの?現在リーダーシップとは結局どこかの国のリーダーシップを真似たリーダーシップなのだから(仏のサルコジは英のブレアーを真似た)。テレビと一体となった、他との差異を消去していく参加民主主義のヴァリエーションでしかない

<芸術>と<芸能>

多くの日本人は<芸術>と<芸能>の区別が分からない。なぜだろうか?一考の価値がある。偶像破壊できるのは芸術だけだ。常に芸術は偶像を破壊するとは限らないけれど、非政治的な領域で政治化したとき、偶像破壊の使命感が芸術家に与えられてくることは確かだ。つまり破壊を伴わぬ芸術の生産は反動的であり無意味だ、と。例えばアナーキズムと芸術が結びつくとき、芸術家は、ブルジョアが自身の姿に似せて創造した都市が息苦しい抑圧しか感じられない。なぜかくも息苦しいのかと問い始める。そこから他者に通じる穴を創り始める。日常に同化しきった善良な市民の眼からみると、<芸術>は偶像破壊を通して不快を生産するようにみえる。他方、<芸能>は心地よさを消費することだけが問題だ。だから芸能は偶像破壊はできない。なぜなら、芸能人は職人、つまり計画と組織に依存する官僚でしかないからだ。反近代の芸術家のように宇宙の職人に成るということはあり得ない。多くの日本人は職人即ち官僚に対する過大な期待をもち従属を好んで受け入れるゆえに、テレビと新聞は<芸能>を称えるか、偶像破壊ですらないのに芸術のふりをしている<芸能>だけにーつまり自分自身に拍手喝采を送っているというところだろうか







マスコミは秘密保護法を積極的に報じて!
報じた上で非難してこそ言論人としての責任を示すことではないか。
現在は、生命に関わる重要な情報が
国と企業から出ることがなかった3・11以前の構造と変わらない。
再び迎合的沈黙と国民的無関心によって、
秘密保護法は事実上秘密の裡に成立してしまうのか!!


「地球の裏側」に行く軍隊とは、笑止。一度地球儀の模型をよく眺めてみたら。「地球の裏側」はアメリカにとっては元ソビエト領。同様に、ぐるっと、日本の「地球の裏側」はアイルランドを指示している。緑豊かな羊の野原に破壊しにきたドラゴン(自衛隊)に遭遇したらギネスビール三杯おごって追い出せ

「deleuze
自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあると思える。
(『差異と反復』)




寺山修司
夢の中は治外法権である



本多 敬さんがリツイート
保守極右翼のポピュリズムによっては、「追い風」には決してならない。偏狭な外国嫌いとレイシズムの神風しか吹かないはずだ。つまり単純なトリックー橋下の次に小泉が来たのだ。靖国参拝と小泉、この両者は互いに必要とし合う限り、差別を無くし反原発で一致しようとする人々を分断していくだけだろう




保守極右翼のポピュリズムによっては、「追い風」には決してならない。偏狭な外国嫌いとレイシズムの神風しか吹かないはずだ。つまり単純なトリックー橋下の次に小泉が来たのだ。靖国参拝と小泉、この両者は互いに必要とし合う限り、差別を無くし反原発で一致しようとする人々を分断していくだけだろう

今日BBCの音楽番組のインタビューをきいて、Nonthelessは英語のネィティヴは効果的につかっているんだと改めて考えた。これは、フランス語では、pour autantで、非常にフランス語を際立たせる精緻な言葉だと思うんだな。ガサツな人間にはこのビミョーな言い回しは使えない(私のことです;泣く)例えば、’物価はあがってんだけどその分だけ給料があがってないんだ’は、Les prix augmentent chaque mois, mais les salaires n'augmentent pas pour autant .フーコも大事な一文でこのpour autantを使っています。
Il (le cogito) lui faut parcourir , redouble et réactiver sous une forme explicite l'articulation de la pensé sur ce qui en elle,autour d'elle, au-dessou d'elle n'est pas pensée, mais ne lui est pas pour autant étranger, selon une irréductible, une infranchissable extériorite. Foucault 
近代のコギトは思考のなか、思考のまわり、思考のしたにあって、思考されていないもの、しかも還元不能な越えがたい外部性に依り、思考にとってなお無縁でないものを、明白な形態のもとで、通覧し、なぞり、ふたたび活気づけなければならないのだ (言葉と物;渡辺i一民訳)

The modern cogito must traverse, duplicate , and reactivate in an explicit from the articulation of thought, yet which is NEVERTHELESS not foreign to thought, in the sence of an irreduciabe, an insuperable exteriority

アイルランドの戯曲を外国人の私が読むことにいかなる意義があるのか?大学等で外国語を勉強した日本人がその芝居を観る見方よりも<複雑>に読めるのは、やはり少なからず価値あることだといえるだろう。
また、彼らの言葉に属する芝居をアイルランド人が観る見方よりも<単純>にしか読めないのも実は、劣らず重要なこととなるのだ。なぜなら内部から内部に即して読む<深読み>というのは、いかなる場合においても、そもそも演劇の開かれた普遍性を破壊してしまう危険性に陥るだろうから。
ところで漢文で中国語を読んでいるつもりで、漢文で日本語しか読んでいない。このことを見抜いたのは、江戸朱子学の荻生徂徠だった。現在同様に、日本語しか読んでいない英語の読み方が支配的である。例えば一字一句又は一文ごとに和訳との対応を与える読み方だ。国家が管理する学校教育の影響ではないか。
中国語であれ英語であれ、他者の言葉との距離が意識されなくては、読みは自国語中心主義の重力のもとに押しつぶされてしまう。
一次元(知らずに母国語で読んでいる英語)でもなく、かといって、二次元(ネィテイブにとっての母国語)でもなく、むしろ、一次元と二次元の間、つまりたとえば、1.26次元ぐらいの間においてテクストを読むこと。ここに、アイルランドの戯曲を外国人の私が読むことの意義があるのではないか

何年外国にいても無視され、必死の努力で言葉が伝わるようになると馬鹿にされる。他方日本からの研究者からは現地に住んでいるというだけの理由で尊敬を受ける。過小評価と過大評価の間で常に揺れ動く。どちらからも影響を受けぬ次元はないか。答えは、その国の戯曲を読む力はそんな次元。1.26次元

アイルランドの戯曲を外国人の私が読むことにいかなる意義があるのか?日本人がその芝居を観る見方よりも複雑に読むことができるのは、少なからず価値があろう。またアイルランド人の見方よりも単純な読みしかできないのも重要だ。内部から内部に即して読む深読みは、演劇の普遍性を破壊してしまうから




7年前英国滞在中に新聞で暴露された記事を思い出しました。英国の収容所で拷問を受けた不法入国のユダヤ人の写真でした。ナチスの迫害から逃れても独に突き返されたのです。友人であったユダヤ人は皆知っていましたが、イギリス人には初耳で大スキャンダルでした


だれもハリウッド映画をみていると自ずと洗脳されちゃうんでしょうか?戦後最も成功したプロパガンダのひとつに、’アメリカは拷問しない国’があります。とんでもない!米軍は、拷問する捕虜を移送する施設を世界中に持っています。アフガン・イラク戦争を契機に英国の幾つかの空港名も暴露されました。で、今回、秘密保護法で秘密にしたいのは、やはり、まず疑わなければならないものとしては、核武装に向けた、国際法違反の核開発とかあるでしょう。また、いま述べた、集団的安全保障下での米軍と自衛隊が共同に設ける拷問のための移送施設とかも将来的に秘密のベールに入れておきたいのかもしれません。


山手線「遠野物語」 ー

ガタンと車内が大きく揺れると、彼方の長椅子から此方の長椅子に向かってコロコロと横断してきたのは、空のペットボトル。と、誰かの足元に隠れた。短い眠りのあと、アレはどうしたかなと顔を上げたら、吃驚。通路中央に、缶けりの様にポツンとたてられていたではないか
すでに、長椅子の皆がこの一点を凝視していた。金縛り、誰も動けぬ、拾えぬ。息苦しい見て見ぬふり。と、かなり離れた所からこの様子を観察していたガイジン女性が立ち上がった。電車が止まると、このただのゴミを拾ってそのまま外に出ていった。嗚呼ブニエルの皆殺しの歌が聞こえた日であった

五反田駅ビルにあるスター****で
隣に座ってきたこの二人…

五十代後半サラリーマン「妻とも息子とも仲が悪いのですが、その息子が五年後結婚すると言うんで孫ができます。それだけが楽しみです」
日本語達者インド人「お孫さんが欲しいなら結婚の必要は無いでしょう?」。
サラリーマン「いや結婚以外はどうもね。日本の文化ですし」。
インド人「それなら、あなた達サラリーマンは朝から晩まで一日中会社でいったい何してるの?家族の話も全然聞かずに。そんなんじゃ文化が滅びますよ」


日本の場合とはちがって、外国の美術館は寄付で成り立っています。ロンドンのテートモダンでボランティァで作品案内やっていた人たちは、遺書でz贈与・寄付すると言っていました。一般的にいって向こうは家族のつながりが弱いことと関係があるかもしれませんが、中心は、法律上の相続ではなく、個人が書く遺書。わたしも、もしすこしでも余るものがあればという頼りない前提ではありますが、遺書で贈与できるのならたとえわずかな金額でも、ロンドン時代心に拠り所となったテートモダンに寄付したいと思ってます。ちなみに、MOMOAは富裕な家族による財政的支援によるのですが、テートモダンの方は、富裕層にも国家にも属さず、ワーキングクラスが事実上持っている美術館という点で世界で稀有。無料公開で、世界中から若い人たちが来る、イギリスで一番人気がある場所となりました


いまグーグルマップ・マップでみたら、ハミルトンがいた家は、自分が教えていた高校の近くにありました。かれの家の前の道は車で何度も通っていたと思います。やや愛国的な口調なんですが、ハミルトンの記述(保存則)からは、古典世界と現代世界とが両立し得るという文芸復興運動の意義を垣間見ることができると新聞で看破する知識人もいたんです。正直これが分からなかった。ずーっとです。八年経た今はっきり分かります。逆に、連続性などなく、両立不可能なものなんだと考えるようになりました。

「ふたつの極端な傾向。宇宙のために、自己をほろぼすこと、または、自己のために宇宙をほろぼすこと。無となることができなかった者は、自分のほかのすべてのものが存在をやめるようなときに逢着する危険がある。」Simone Weil

ハミルトンはアイルランドの物理学者だ。やや愛国的な口調で、かれの量子力学の記述からは、古典世界と現代世界とが両立し得るという文芸復興運動の意義を垣間見ることができると看破する知識人もいた。これが分からなかった。八年経た今はっきり分かる。逆に、連続性などなく両立不可能なものなんだと

le risqué qu'il prend 俳優がおかすリスク

質問「ヒチコックは俳優には殆ど愛着を感じていなかったと言われています。俳優に映画におけるどのような地位を与えられていますか」
ゴダール「勿論、俳優は大きい役割を果たしてきた。俳優がいなければ映画は存在しない。」
質問「俳優のなかのなにに心を動かされておりますか?」
ゴダール「俳優がおかすリスク、自分からおかそうとしておかすリスク、演劇においてとは違い、一座によってもテクストによってさえも支えられることなく、撮影されるままになろうとしておかすリスクだ。」
- On dit qu'Hitchcock avait peu de passion pour les acteurs dans le cinema. Quelle place, vous, attribuez-vous aux acteurs dans le cinema?
Godard;Ils ont joué un grand role, bien sur.Sans acteur, il n'y a pas de cinema.
- Qu'est-ce qui vous touché chez un acteur ?
Godard;le risqué qu'il prend, s'il veut bien le prendre, ,à se laisser filmer, sans etre soutenu, comme au theatre, par une trope ou meme par texte.

「絶対的な伝統主義は、生けるものの成長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基礎とするものである。過去は死にきったものであり、それはすでに死であるというふ意味において、現在に生きているものにとって絶対的なものである。半ば生き半ば死んでいるかのように普通に漠然と表象されている過去は、生きているものにとって絶対的なものであり得ない。過去は何よりもまづ死せるものとして絶対的なものである」(三木清「人生論ノート」1941年)

・過去が現在にそのまま生きている至上の国体主義が横溢する時代に、過去は死にきっていることによって絶対的であることをいう三木の反時代的な「死の思想」がもつ根源的な批判性は、「人生論」として許され、「人生論」として読まれることでその機能を失ったのである。(子安宣邦「歎異抄の近代」11、”私は宗教的傾向をもつ人間である―三木清「親鸞」を読む”、<昭和思想研究会>10月12日早稲田大学小教室)

「物質ははたして思考することができないであろうか?」

「唯物論はイギリスの息子である。イギリスのスコラ学者ドゥンズ・スコトゥスは『物質ははたして思考することができないであろうか?』と、自問している。この奇跡を成就するために、彼は神の全能にたよった。すなわち彼は神学そのものに唯物論を説教させた。」エンゲルスEngels

秘密保護法案によって福島原発事故の真実究明が妨げられることを懸念する福島民報の社説。従来の報道規制に加え、安倍首相の福島原発視察に際しても福島県内の報道機関は閉め出された。確かに原子力は「国家機密」や「安全保障」を理由にあげやすい。 金子勝

<日本人の思い違い>の研究者によると、サブカルは反左翼的要素があるという。サブカルに暗い私の仮説ではあるが、1990年以来保守右翼の扇動によるいわゆる「敵」国の硬いアイデンティティの対抗が、AKB、きゃりーぱみゅぱみゅ、ももクロという柔らかい非アイデンティティの風景といえないか。この答えを探すために、社会学者である友人の清家竜介氏が執筆・出版した「ももクロ論」を勉強中


子安宣邦氏のツイート Nobukuni_Koyasu
13日の朝日は一面トップに「慰安婦問題」の記事を載せた。それは92-93年当時の日本政府によるこの問題の「拡大阻止』的対応を公開文書によって明らかにした記事である。「慰安婦問題」とは日韓関係のこじれの核をなす問題である。これを今朝日が一面トップで報じることの意図と意味とは何か。私がこの一面トップの記事を見て、なぜだと思ったのは、こじれた日韓関係を解決するどのような方向付けをもってこの記事が掲載されているのか、それが分からないからである。私と同様にこの記事になぜかと思った読者は多いだろう。だが事柄の難しさからその疑いを口にしない。あの記事をサポートするように13日の朝日の社説は「慰安婦問題」を論じている。野田前政権でこの問題の政治的決着のぎりぎりまで交渉が進んでいた事情を明かしながら、「慰安婦問題を政治決着させるとなれば、日韓双方で異論も出てくるだろう。だが元慰安婦の存命中にこの問題に区切りをつけ、日韓関係を修復することが急務なのは間違いない」といい、安定した政治基盤をもつ安倍・朴両政権は解決の能力をもつ政権であり、早急に話し合いを始めるべきことをいっている。これは「慰安婦問題」にどう区切りをつけるべきかもいわず、ただ両政権の政治基盤に依存した解決をいっているだけだ。安倍・朴政権による解決への願望を書くだけの文章は社説に値しない。それはあの「慰安婦問題」記事の掲載の意味を説明するものでは全くない。そもそも日韓関係のこじれの核をなす「慰安婦問題」の問題化の原因は、安倍が軍的関与としての「慰安婦問題」を否認する歴史認識にあることは自明ではないか。したたかな機会主義的政治家である安倍は「慰安婦問題」を沈黙の中に沈め(鎮め)ているのだ。そして交渉の窓口はいつでも開いているという。これは朴大統領にあなたも私のような機会主義者になれといっていることだ。中国に対しても同様である。解決しない理由は領土問題にあるのではない。

日中間のこじれの原因は、日中戦争を侵略戦争とは認めない安倍の歴史認識(靖国史観)にあるのだ。これについても彼は沈黙している。だが沈黙の中に維持されるこの歴史認識によっては領土問題の解決はない。われわれが韓国や中国と友好な隣人関係をもてない理由がどこにあるかを見ようとしていない。こじれの理由が己にあることを不問にし、いつかその理由は相手の民族性・国民性にあるかのごとき言論が氾濫する事態ににいたっている。始めの問題にもどろう。日韓のこじれの核をなす「慰安婦問題」とは日本の側で解決されねばならない問題ではないのか。



On "maïeutique"

Par le cinéma,
leur dialogue si charactéristique est ininterrompu;critique, caustique,maïeutique, cela ressemble un peu à deux joueurs de tennis jouant l'un avec l'autre en amitié, quand ils .
(Godard, biography, Antoine de Baecque)


P. S. Excuse bad writing am in hurry. Byby. M.

James Joyce; Ulysses

紳士淑女の皆様、
われわれの救いなき反復地獄の舞台にどうぞ大きな拍手を!

三木清は親鸞をどう読んだか?死に切った<過去>の絶対性とは、末法において死すら死に切った無戒の批判精神のこと。末法に生きる悦ばしき無戒者にとっては、いかなるものであれ単一的起源の救いを約する<現在>とは切れてしまっている。歴史に鑑みると、無戒者においては、天と地の間に託されたものこそが、解体と結合を繰り返す無限の運動にほかならない。例えば、ジョイスの文学史、ゴダールの映画史、ドゥルーズの思想史にとって、「ケルトの書」、サイレント映画、バロック芸術がそんな死に切った<過去>としてあった。敢えて、彼らは、死に切った<過去>との関係をもとうとした。ファシスト達が呼び出す贋の過去ー現在の支配を正当化する近代の発明物ーに対して抵抗するためにだろう。最後に、たしかにマルクスが見抜いたように、革命は常に<過去>の介入を必要としてきた。1870年は1848年を、1948年は1930年を、1830年は1789年を、そして1789年はギリシャ・ローマ古代の民主主義を必要とした事実は知られている。歴史は、解体と結合を繰り返す運動をとおして、一見みたかぎりでは同じようにみえて決して同じでないものを、反復させてきたし反復させていくだろう。皆様、われわれの救いなき反復地獄の舞台にどうぞ大きな拍手を!

死に切った<過去>の絶対性とは、死すら死に切った無戒の批判精神のこと。単一起源の救いを約する<現在>とは切れている。天と地の間に、解体と結合の無限の運動が託されるだけだ。ジョイスの文学史、ゴダールの映画史、ドゥルーズの思想史にとっての、「ケルトの書」、サイレント映画、バロック芸術

The public school system is a sign of solidarity, sympathy, and concern of people in general -- even if it doesn't benefit me, myself. There's a pathological brand of what's called libertarianism which wants to eliminate that and turn you into a monster who cares only about yourself.

Noam Chomsky


Artists: they are often mislead into becoming the personal puppets of the wealthy, churning out weak images of passivity and neutrality.



居酒屋の「論語」考 −

「論語」の全部は孔子の言葉ではありませんよ。彼の死後弟子達が加えた言葉が数多あります。一応孔子なる人物が2500年前に実在したという前提で話を進めてみますと、現在の読者(わたしやあなた)は、17世紀の市井の注釈学者・伊藤仁斎を通して、孔子の言葉を読みます。と、同時に、孔子の方も、現在の読者であるわれわれを通じて、仁斎を読んでいるともいえます。(あら、EPRパラドックスか?)連続性を破るために、「友」が来たと冒頭できなり言っているのは衝撃です。つまり、こうです。「遠方」は無限ならば、かくも遠くから「友」(他者である彼・彼女・彼らたち)が来たという言葉をそのまま承認するとき、連続性の破れを意識しないわけにはいきません。それによって、原初のテクストは、死に切った過去の絶対性を得ることになります。敢えて絶対の過去に依拠すれば、現在支配している現実的なものを合理的なものだから盲目的に従えとする保守主義の反動を批判できます。こうして、民衆の間で学問が盛んになる江戸時代においては、「論語」と読み手との直接的間柄を切断する朱子の構成的解釈などは、不要な「教え」の体制と意識されたのです。孔子は権威に依らない「学び」の意義を強調した、と、仁斎は考えました。ちなみに、宗教として知られている儒教ですが、これなどは、孔子の死後に、かれの弟子達が生き残り戦略のために都合よく勝手につくった「教え」の体制です。また明治以来に確立した国体的な男尊女卑の「教え」、安倍・石原・橋下が体現している窒息寸前の「教え」はもうご免ですよ!

居酒屋の「論語」考。「論語」の全部は孔子の言葉ではないが、一応彼が2500年前に実在したという前提。現在読者は17世紀伊藤仁斎を通して孔子の言葉を読む。同時に孔子も現在の読者を通じて仁斎を読んでいる。EPRパラドックスか?連続性を破る為に「友」(他者)が来たと冒頭で言うのは衝撃だ

「遠方」は無限ならば、かくも遠くから「友」(他者)が来たという言葉をそのまま承認するとき、連続性の破れを意識しないわけにはいかぬ。それによって原初のテクストは死に切った過去の絶対性を得る。「論語」と読む手との直接的間柄を切断する朱子の構成的解釈は、不要な「教え」と意識されてくる

朱子の構成的解釈と同様に、「歎異抄」と読み手との間の関係を分節化してしまうものとはなにか?「歎異抄」の場合、’朱子”に相当するのが、近代にほかならない。いかにテクストは死に切った過去からの直接的介入として成立し得るのか?近代の解釈的構成に対する批判は、三木清において不可避であった

気になる数字。九月に大阪大学一年生の意識調査によると、日本で稼働している原発はゼロと知っていた学生は僅か113人中の17人(15%)。五輪支持は8割。一方「2020年東京五輪の成功に関する決議」は二人を除いて衆参合わせて全員賛成したというが。現在国会は少数意見が消滅しているようだ

<日本人の思い違い>の研究者によると、サブカルは反左翼的要素があるという。サブカルに暗い私の仮説ではあるが、1990年以来保守右翼の扇動によるいわゆる「敵」国の硬いアイデンティティの対抗が、AKB、きゃりーぱみゅぱみゅ、ももクロという柔らかい非アイデンティティの風景といえないか。この答えを探すために、社会学者である友人の清家竜介氏が執筆・出版した「ももクロ論」を勉強中

自由ヶ丘の喫茶店から人々の同じ速度で通り過ぎる往来を眺めた。勝手に止まると後続の人にぶっつかってしまう。こうして人々は自分の意志をもつことを諦めるのだ。ただし一人も同じ体つきをしていないのは感嘆する。身体にある曲面は反復しない。なぜ皆痩せこけて互いに類似した直線になりたがるのか



私はいつも哲学や文学からは、いわば裏街の忍びやかな唄声を聞き取りたいと願っていた。bêtise humaineの哀歌(エレジー)を! 華麗な大道の行列や行進には、まったく趣味をもたなかった。哲学や文学が行進のプログラムになっては、もはやそれらは哲学でも文学でもない。林達夫bot ‏@HayashiTatuo


自分を<普通の国>で、相手を<変な国>と思い込み始めた?朝日の社説は問題を起こす相手に<仲良くしようぜ>と諭しているようだが。結局これは、「こじれの理由が己にあることを不問にし、いつかその理由は相手の民族性・国民性にあるかのごとき言論が氾濫する事態ににいたっている」ということだ。


さすがカフカkafka、
あの世から見抜いている。「地球の裏側」へ?

「われわれはバベルの穴を掘っている。 」






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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 10月後半 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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