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zoom RSS 11月後半(2)

<<   作成日時 : 2013/11/24 21:21   >>

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テレビは持っていない。外食するときだけテレビが現れる。今夜は食事中テレビのニュースが三十分も。日本人の常識を裏切る海外の面白話を次々伝え、そのどれもうまくいかぬ、と、見る人を安心させてくる。ああ、日本の方がまだましなのか、と。そうしてテレビは笑い声と安心の安堵感で溢れている。しかしそもそもなぜそれほど安心したがるのか?(その傍らで秘密保護法の如き絶対に安心できぬブラックホールを建築するから滑稽だ)。情報公開なき「強い国家」に生かされている限り、われわれの生命に対する不安は一層深くなるばかりだ。
安心とは、ナショナリズムを測る尺度。常に測ること自体が主となった安心教みたいな所がある。ところで政教分離がないところでは、宗教は政治(公の領域)にかかわることによって政治を腐敗させるに留まらず、宗教自らも腐敗しまう。安心教においてもこれが生じる。さて安心教の教祖如くふるまっている小泉のもとで、原発推進からイラク戦争関与まで、生命が一層の危険に晒されることになってきた理由を冷静に考えてみる必要があるとは思っている

テレビは持っていない。外食するときだけテレビが現れる。今夜は食事中テレビのニュースが三十分も。日本人の常識を裏切る海外の面白話を次々伝え、そのどれもうまくいかぬ、と、見る人を安心させてくる。ああ、日本の方がまだましなのか、と。そうしてテレビには笑い声と安心の安堵感が溢れている。しかし、なぜかくも常に安心したがるのだろうか?(そのくせ秘密保護法の如き究極的に安心できぬブラックホールをこしらえるから滑稽だ)。情報公開なき「強い国家」に生かされている限り、われわれの生命に対する不安は一層深くなるばかりであろう。安心とは、ナショナリズムを測る尺度に違いない。その近傍に他者に対する憎悪が横たわる?

外食するときだけテレビが現れる。食事中NHKニュースを30分もきかされた。日本人の常識を裏切る海外の話を次々から伝え、どれもうまくいっていないと勝手に判断する。日本人を安心させるためのナショナリズムの類か?しかし情報公開なき社会に生かされているわれわれの底無しの不安は解消されない

ロンドン時代に、報道の中立性をいうBBCは、イラク戦争推進者ブッシュ&ブレアーが使う「テロ」の語を今後使わぬという決定を発表したのであるが、一方日本のマスコミの方は実体がないこの語を徒に濫用し続けた。そして結局その非常に高い対価を支払うことになりそうだ。つまり秘密保護法のことだ。「テロリスト」に関するあの様な曖昧な定義では実は、国民全員を監視すべきテロリストとして名指ししているのと同じ。たしかに皮肉にも、明日か明後日決行される秘密保護法の強制採決を契機に、世界の世論から非難を浴びているテロリストA(政府)と、テロリストB(国民)との間の全面対決の様相を帯びてきたのではあるが?廃案にすべし!


The voice shouldn't be put in a prison,
Even if the inner dialogue with self remaina at a cave

声を牢獄されてはならない
たとえ自己との対話が洞窟のなかにとどまるにせよ

The praise for a loud voice

The voice shouldn't be put in a prison,
Even if the inner dialogue with self remaina at a cave...
Still tonguetied sons of bastards' ghosts?

The praise for a loud voice

Soon they will pass the bill for protecting state secretes.
How shame! Stately, the politicians say the people's voice on the street claiming the right of freedom is no more than terrorism to punish !?
Hardly do we afford to such a humiliation mocks our democracy.
Isn't our democracy the important means by which to accomplish our social life here and there we have human rights.
Never lose it. Give a loud voice protesting to the Diet.
Solidarité !

- Nobukuni Koyasu (translated by takashihonda)

「特定秘密保護法」は、「治安維持法」の復活とみなされる十分な根拠があります。「治安維持法」ができたのが約九十年前の1925年、終戦が1945年、僅かこの20年間のあいだに、30万人もの人が思想犯として逮捕され、3000人も獄死したのです。歴史的事実として知っておきましょう。さて「特定秘密保護法」の問題です。第12条のテロリズムの定義は、読み方によっては、現在且つ明白な危険を伴わずとも、「政治上その他の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要」するとテロリスト。例えば、憲法の非武装中立的平和主義をツイートで訴えただけで、法はこの人をテロリストと看做すことだってあり得るのです。事実上思想犯の復活と心配する声もあります。が、本当に心配しなければならない事柄は、わかりますね、同調圧力のことでしょう。公安による秘密保護法の適用がなくともですね、この法のかわりに、日常親しいあなたの隣人が、知ろうとするあなた、考えるあなたを監視し裁こうとするのが、「お上に逆らうな」の同調圧力の恐怖なんです。

秘密保護法第12条のテロリズムの定義をみよ。読み方によっては、現在且つ明白な危険を伴わずとも、「政治上その他の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要」するとテロリスト。「強要」って何?例えば憲法の非武装中立的平和主義をツイートで訴えたらテロリストとみなされてしまうのかよ?


何が罪なのか曖昧なこと(「管理を害する」とは何か?)、裁判に関係なくいつでも逮捕できる監視体制、共謀罪というオカルト、弁護士も防御できぬ「不」特定秘密。人権を守ると誓う虚ろな宣言。これらのことは掲示板で指摘してきました。おー、こわ・・http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20131202-00030296/


プラトンの人間のように、
思考を求めて敢えて声を心の洞窟の内部に
置いたままにすることはできよう。うっかりホメロースみたいに
洞窟の外へ出ると、テレビの神々に声を牢獄されるだけだから。
太陽は、視聴者参加とやらの答えない自由なきクイズ番組、
YESを繰り返すコンセンサスの快楽の光で眩しいのだけれど、息苦しいー
街頭からのNOを絶叫する声を憎み切っている。いつ?いつから
夜がなくなったのかしら?

四百字を4で割ると、起承転結に各々百字を振り当てることになる。ツイッターの140字に近いのが面白い。140字で書く英語は全然別の話。昔はこのサイズの構成は考えもしなかった。英語話者ならば楽々書けるの?非英語話者には読みやすいのか?書き方の変化に伴って本の読み方もかわるのだろうか?

The praise for a loud voice
-Nobukuni Koyasu (translated by takashihonda)

Stately, the politicians say the people's voice on the street claiming the right of freedom is no more than terrorism to punish !?
The bill for protecting state secretes is now going to be passed by them.
Hardly do we afford to such a humiliation mocks our democracy.
Isn't our democracy the important means by which to accomplish our social life here and there we have human rights.
Never lose it. Give a loud voice protesting to the Diet.
Solidarité !

'好きなひとはだれ?'という問いに、再び、'好きなひと'と返事したら、'好きなひとは好きなひと'という同義反復に陥いります。つまり、残念でした、あんたの質問には答えないよということですね。ところで、'安全保障のなにを秘密にするのか?'も同じです。この質問に対して、ふたたび、'安全保障のなにかを秘密にしている'、という答えで返したらやはり同義反復です。さて特定秘密保護法案は、国側に都合よく非常に大まかな例示を示しているだけで、全く言葉が足りずこれではなんのことか定まりません。結局、安全保障のなにを秘密にするかは秘密を指定する者に委ねると事実上言っているのに等しいのです。つまりこれが、(不)特定秘密保護法の正体です。これは大変危険なことです。安全保障の秘密について説明を求める国民のまえで、説明する必要無しと拒んでいるのと変わらないのです。石破のブログ発言に関してですが、特定秘密保護法の文言を読んでデモをテロとみなしているのは、石破ひとりだけではないはず。立法作業にかかわった人々全員に共有された'読み'である可能性も。もうすでに政府の方針について知ることができない有様です。街頭で異議申し立てを行う一般市民全員が標的にされているとしたら?思い出しましょう。泥沼のイラク戦争のとき一度外に出た軍隊を撤退させることほど難しいことはありませんでした。特定秘密保護法も同じ。一度出来上がってしまうと、きっとだれも容易に廃止できなくなります。だからこそ、諦めず、できるだけ現在きっぱりと反対を意思表示することが大切ではないでしょうか。


アイルランドは、ヨーロッパ中心主義を相対化してしまうヤバイ国。幼少時に四年間いた、アジアに位置するヨーロッパというオーストラリアも、アイデンティティーがヤバイ国だ。豪州からみる、日本人って誰さと問い返す日本人が私だった。しかし1920年代に西欧と同等と思い始めた国が一番ヤバイんだ

アイルランド、豪州、日本、どの国が一番進化しているか?ヨーロッパが一番とみなす日本人の基準からすると、半分でもヨーロッパに属していても豪州は日本よりも進んだ国ではない。アイルランド人は豪州を遅れた国と見下している。アイルランド人と多分オーストラリア人は日本に憲法がないと思っている

アイルランドは1970年代のEU加盟まで、ヨーロッパに属すという意識がなかったと現地の学者からきいた。さて日本人がアイルランドと豪州を見下すのは植民地をもたなかった国々だから(豪州はもったが)。一方アイルランド人と豪州人が日本を重んじないのは、植民地をもった歴史があるからだろうね

ふくろうねこ大使館に亡命を申請してくる犬たちが

絶えないという。どうしたの?

絶叫するなといわれても、

犬だから吠えたいんだよーーーーーー

次第に、特定秘密保護法の「特定」の意味が明らかになってきた。やはり、それは不特定秘密保護法を意味していたのだ。今回の石破発言から明らかなように、安倍自民党によるこの「不」特定秘密保護法は、警察の力と武装した機動隊に守られなくしては決して通らぬ暴力である。それにしても、これほどの完全無欠の管理と監視の権力はかつて存在しただろうか?12月6日参議院強行採決のあと、「不」特定秘密保護法のもとでは、政府を根本からただす言論の自由と権利は存続していけまい。われわれの憲法が窒息し終わる地点で、ファシストたちの始まりが始まるのだ


アイルランドでは積もるほどの雪が降ることは滅多にありません。しかしジョイス文学を映画化した、ヒューストン監督による映画のラストシーンがあまりにも有名なために、アイルランドは年中雪が降っていると勘違いされているんですね。ところで、冒頭の書き出しが死を象徴する「リリー」である、このジョイスの小説は、(「フランケンシュタイン」と比べられるような)'ゴシック'のジャンルだとこの私に説明してくるアイルランド人が何人かいました。つまり物語の舞台であるダブリンは、死者達が生きている世界というわけなのです。溝口「雨月物語」みたいでしょう?さて、主人公は長年自分に忠実であった妻グレタから、実は、何十年も心の奥底で、もう十代の若さで死んでしまったある青年への愛を打ち明けられました。主人公にとっては、暗闇の内部から自分が知らない存在に圧倒的に打ちのめされる、意外な告白でした。静寂な夜に、自失茫然と主人公の独白が語られていきますー変わらぬグレタへの愛と、孤独に宇宙に偏在する死者達を慰める言葉。海、河、岩、木々、そしてアイリッシュ・クロスの墓場へ続くラストシーンの言葉はこうですー


His soul swooned slowly as he heard the snow falling faintly through the universe and faintly falling, like the descent of their last end, upon all the living and the dead.
(From, James Joyce ’The Dead" [The Dubliners])

文化論は、起源を問う文献学との関わり合いを通してヒューマニズムの性質を帯びる。倫理学の名においてそのヒューマニズムが国民道徳の言説を物語ることは可能か?同様に、文化人類学的構造主義はマルクス主義と関わり合いを通して自らの性質を変えていった。山口昌夫が昭和の本居宣長の役割を演じた?


朝廷を退出したとき自分の家の馬屋が焼けたことを知った孔子は,「人に怪我人がはなかったかを尋ねて馬のことを問わなかった」.これについて仁斎はただ怪我人があるかないかを心配しただけあると注解した.一方和辻は孔子のヒューマニズム精神化を見いだした.彼は近代の解釈で【論語】を読み解いた.

仁斎の注解は,他者の言葉を外からみる注釈学のあり方を示す。和辻が定位する解釈学では、常に言葉が構造に置換される(人間化された馬しかない).言葉を聞かぬ解釈学は窮極的に,精神分析に行き着く.精神分析は妄言を聞かぬから,解釈を拒んで逃げる,夢の語りにおいて現れる燃える馬に気がつかない





中国の呼称はいつどのように成立するのかは,思想史的問題を構成する.近世の国家意識は,リゴリスト的ナショナリスト山崎闇斎の〘中国論〙に読み取れる.かれの問題提起は,もし孔子を先頭に中国の大軍が日本列島に攻めてきたとしたら,この国の儒学者たちはいかなる立場をとるかというものであった
これは,孔子を読む仁斎の普遍主義と全く異質な,ナショナルな風景を浮かび上がらせた言説だ.明が清に滅ばされる17世紀に,中国評価のデフレ現象が生じたが,注目すべきことに,呼称自体の劇的変化が起きている.行き過ぎた水戸学では,【中国】は日本を指すことになった.中国は満蒙となる.
地理的表象としての【支那】の呼称をが使われはじめたのは,この中国の権威がおちていく17世紀からだ。幕末の´獅子'たちはこの【支那】の呼称を使っている.子安氏宣邦氏の指摘によると,近代の大陸観は,明治日本で成り立ったのではなく,すでに幕末の武士たちが持っていたとみなければならない.

明治初年に教養を形成していった世代(西田幾多郎等)と比べると、和辻哲郎をはじめとする明治末年から大正にかけて教養を形成した所謂大正教養主義の世代は、漢学的教養を欠落させていく。この世代のもうひとつの特徴は、夏目漱石の世代のようには必ずしも、西欧の留学を必要としなかったということだ

日本文化史の研究者和辻哲郎は,,西田に呼ばれて京大の倫理学に来た。当時内藤湖南の京都支那学が隆盛,【論語】文献研究との出会いがあった可能性も大きい(子安)。文化論は,起源を問う文献学研と関係を持ちヒューマニズムの性質を帯び始めた?そのヒューマニズムは国民道徳の言説に変容していく?


わたしのような者にはなにもおしえることもありません。(ただ、当時ロケにきた東映の撮影隊と一緒にきていた、どう表記するかしらんですけど、あかざみよこという若い女優のそぼをはなれなかったときの、マドレーヌならぬ’白いストッキング・・・?の、人生の中で例外的にものすごく幸福感を感じたという話ならば、’語りたくない禁じられた備忘録’で・・・RTしないでくださいwww

「オーストラリア文学にみる、いったいだれが日本人なんだ?と問い返す日本人像」なら、読んでもいいですけど・・・・え、なにか?



大手新聞社は、この寒い夜に街頭に来る抗議者にスープを支給することができないものか?新聞は本気で反対なの?いまこの大切なときに毎日、紙面で、特定秘密保護法に不満をもつぐらいの有名人達に自己宣伝のお喋りをさせているのは一体何のためか?昭和一桁生まれの戦前の体験をもつ知識人に語る場を与える時だ。戦前の治安維持法に寧ろ協力する形で新聞が自ら知る権利の否定に関わったリアルな歴史を一部でも伝えくれた方がいい。意地悪で言うのではない。二度目の「治安維持法」と彼らが訴える特定秘密保護法の危険性を生々しく喚起できるだろうからだ


トロッタ監督を称える

NY高層マンション。アーレントは窓の前に立つ。部屋に管理と権力のテレビ。階段を降りるとイスラエルの地に繋がる。驚くのは、アイヒマンを中継したテレビの前に再び座ることだ。立つよりも座る方が、座るよりも寝る方が、近代の息苦しい垂直軸から逃れる姿勢だ。思考の形だ


特定秘密保護法案の名宛人は「公務員」だけでなく「一般人」も。つまり国民全員が処罰の対象です。「一般人」である多数派を「公務員」から引き離す嘘によって、勝手に自民党政府は、ネオリベ的「小さな政府」のコンセンサスを捏造中です。この集団安全保障の戦争体制と一組のコンセンサスに、NO!を示しましょう。

特定秘密保護法案の名宛人は、「公務員」だけでなく、「一般人」も。つまり国民全員が処罰の対象です。陰険なやりかたで、国会を利用した狡猾な嘘。すなわち「一般人」である多数派を「公務員」から引き離す嘘によって、自民党政府は、ネオリベ的「小さな政府」のコンセンサスを捏造しようとしています

私の印象では、日本の文化人男性は年に関係なく整った顔をしている。一方、アルトーやゴダール、グールドなどは若い時大変ハンサムだが、年を重ねると醜くなっていった。アイルランドの作家ですでに四十代で怪物みたいな人も沢山いる。仮説だが、恐らく彼らは心の中ばかり見つめているから自分の顔をケアする時間がないからではないか。そうすると、日本の文化人は…?

★この「十分に配慮しなければならない」は、すごく曖昧だな。
まさか、 逮捕してくる警官からの<おもてなし>を意味しているのかしら?

⇒「第二十一条 この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならず、国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。 」’特定秘密保護法’

★特定秘密保護法の名宛人は、第二十二条を読むと、特定業務を扱う公務員。
しかし、待て!第二十四条もあるぞ。

⇒「第二十二条第一項又は前条第一項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は煽動した者は、五年以下の懲役に処する」

★と規定してあるし、やはり一般人も処罰の対象となるんじゃないの。そもそも「共謀」って何?日本の司法しか通じない概念でさ、「共謀」といっちえば、物証がなくとも簡単に共犯とみなされるのがこの国の司法の現実。さすがにテレパシーだけじゃあ「共謀」とはいえんだろが、いや、判例によってはありかよ(苦笑)




まず確認しておきたいことが一点。逮捕というのは、現実の運用の仕方によります。つまり、警察・検察は逮捕したければいつでも逮捕してきます。特定秘密保護法も例外ではありません。結局、誰が逮捕されるべきで誰が逮捕されるべきでないかは事後的に、裁判所の判決でしか明らかになりません。しかし特定秘密保護法の条文を読む限りこれだけはっきり書いてあると、公務員だけでなく一般人も逮捕されます。大臣の発言に振り回されてはなりません。産経新聞ですら、「特定秘密保護法案の国会審議で森担当相が「一般人は処罰対象外」で、罰則が公務員に限定されると強調したかのような一部報道があったが、実際はそのように答弁していない。」といっていますからね、よく注意しましょう。



アントン・アルトーを称える

アントン・アルトーといえば、ゲイの反体制の詩人。ユダヤ人でしたから、象徴的にいえば、いま話題の例の、ファシズムを苛立たせる「退廃芸術」の範疇でした。現在最も注目されている詩人であります。例外は、アイルランドぐらいですか。愚かにも、かれを単なる狂人にしてしまった昔のフランスの精神医学の役割を演じているつもりでもないのでしょうがね。さてメキシコへ旅したアルト―のことはよく知られておりますが、かれのアイルランドの旅は、アイリッシュすら知らないマイナーな歴史に属します。1930年代にダブリンに来たときは、超有名人のかれは迫害というよりは全く無視されてしまいました。これに関して、私が交流したアイルランドの芸術家たちは、僅か二週間でも、彷徨したかのアルトーからなにも学ぶことも影響を受けることもなかった自分達の芸術の歴史を素直に恥じていました。ちなみに、ダブリンというところは、他のヨーロッパの都市と比べてゲイの数が一番多く、他の都市と比べて一番抑圧されているところであります。最近のオスカー・ワイルドの伝記作家ですら、不当にも’危険人物dangerous person’と噂されてしまいます。歴史に鑑みると、こうした事情は、ビクトリア帝国時代にイギリスが持ち込んだ差別が原因といえます。そのイギリスといえば、現在そんな差別から最も解放されている国となっているのですがね。アイルランドのような反イギリス的な国の人々がかえって、嘗ての大英帝国の死んだ道徳観に規定されているのは、皮肉な事と思いませんか。これは、ナショナリズムの根底に「敵」の道徳がある、という実に厄介な問題です。ミルトン的な、いわゆるステレオタイプとしてのイギリス人特有の愛国的潔癖の感覚が19世紀に、植民地であったアイルランドの人々に影響をあたえた二項対抗的な現象として説明できます。(難しいですか?分かり易く説明してみますと、敵の反対の方へ行ってきたはずなのに、気がついたら、敵の側にいたという、なんともメビウスの輪的な、あるいは「鉄道員」のバスターキートン的なことが起きてしまうのですね)。ちなみに、滞在中に、ヨーロパ司法裁判所が、(事実上空文化してはいましたが)、ゲイを罰する法律をはっきりと違憲としました。最後に、ポール・ヴィリリオが興味深いことを言っていますからここでちょっと紹介しておきます。ファシズムはあくまでもハリウッドと張り合うかたちで生きられた、というのです。たとえば、「退廃芸術」として烙印された作品群に漂うあの詩的な現実逃避感は、やはり私の知る限りでは、亡命ユダヤ人たちの持ち味です。ジョイスが描く「ブルーム」像がそうなんですね。現実逃避感は、ほかでもないナチスの、空白を抱えたアイデンティティーに、影響を与えたという可能性も考えてみる必要があります。これについて、遥かな説得力をもって、ロンドンのICAにきたジジェクが公衆に喋っていました。「サウンド・オフ・ミュージック」を注意深く見よ!あの映画に描かれた<煙草>とか<制服>のフェチの都会感覚は、ユダヤ人起源ではないか、というのです。反発を招く危うい問題提起ではありますが、事柄の本質をついているとおもって話を聞いていました。一方映画の中ではユダヤ人の方はドイツ人みたいに素朴な農民な姿をしているではないか?UNBELIEVABLE信じられない!!(かれの口癖です。)これが、世にも奇妙な、求め合う「敵」同士の相互依存関係なんです。アイデンティティーは他のアイデンティティーと常に出会うのです。とはいえ、ナチスの場合、あまりにも大きな犠牲をともないました…

たしかに、ゴッホのイメージがぴったりですね。実際、パリの小劇場で、そういうゴッホ的なアルトーの演出を観たことがあります。仰る通り、社会を叩くアルトーですね。それは、産業社会を批判したブレイクとも重なり合う所があります。アルトーの文法的によく統御された、しかし不明瞭な文体は、ゴダールのナレーションと比べられるかもしれません。(スイスのローヌで裕福だった青年時代のゴダールは、かれの家のブルジョア的モラルの偽善に怒りをもって反抗するとき、やはりアルトーに依拠したのですね。)アルトー研究家スーザン・ゾーンターグは、ジョイスと比較しています。死にもの狂いで一生懸命努力すればジョイスは読めるし理解してもらおうとして書いたのだが、アルトーの方は理解されようとは決して思わぬ真っ暗で孤独な言葉の破片が散らばっていると述べました。ダブリンのアルトーですが、ミルトン・シングという劇作家・文学者に会いに行ったとか、(オランダあたりで闇市で手に入れた)聖パトリックの杖をアイルランドに返しにきたついでに自身も聖パトリックに変身したとか(フローベル研究家でもあったかれがマダム・ボヴァリーに成り、ついに聖パトリックに変身していくという一人芝居を観たことがあります。)、諸説があります。最後にかれが捕まった場所からそう遠くないところに住んでいましたから、目に目る範囲のところを彼が通過した事を知ったときは震えました。感慨無量でした。アルトーはそのまま、アイルランドからフランスへ強制移送されました。長く収容される精神病院ですね。このとき若いラカンが立ち会っていて、「これはただの馬鹿だ」と呆れたそうです。ラカンの限界を物語る逸話です。ダブリンで発見されたときは無一文でなにももっていませんでしたーシングにあてた手紙と杖のほかに。


子安 宣邦氏のコメント; ナショナリズムの根底に「敵」の道徳がある、とは考えさせる問題提起です。



文民統制の逸脱は、直接それ自身の問題としてだけでなく、象徴天皇制や政教分離の原則との関係の中で捉えるべき問題です。これらは憲法における構造として関数関係を形づくるからです。この構造の外部に、現在自民党が勝手に選択している<戦う国家、祈る国家>であった戦前との連続性の意識があります

重なり合うことがたくさんあります。わたしも行きましたが、アーレントの映画を見に行く人が多いという理由のひとつに、やはり彼女のアイヒマン分析をよく知りたいからではないかと思います。わたしも毎日悪戦苦闘ですが、アーレントの本は簡単には読めませんから、映画なら理解を助けてくれるのではないかと。アイヒマンはそのまま三十年代を意味します。観客は30年代の日本を考えてみようというよりは、2013年の現在の日本を考えたいということだと思います。


アーレントの映画を見に行く人が多い理由に、

彼女のアイヒマン分析をよく知りたいということがあるとおもいます。本は簡単には読めないので、映画なら理解を助けてくれるのではないかと。アーレントが分析した「アイヒマン」の体制は、日本ファシズムと同時代的な三十年代を意味します。映画は、2013年現在の日本の状況を批判的に代弁してくれるという期待。

ところで今朝、大変なニュースが飛び込んできました。

「陸上自衛隊の秘密情報部隊「陸上幕僚監部運用支援・情報部別班」(別班)が、冷戦時代から首相や防衛庁長官に知らせず、独断でロシア、中国、韓国、東欧などに拠点を設け、身分を偽装した自衛官に情報活動をさせてきたことが27日、分かった。」(東京新聞)

呆れました。すでに秘密にされていたわけですね、特定秘密保護法のまえに。そもそも文民統制の原則すら知らない人も多いかもしれません。文民統制の逸脱は、直接それ自身の問題としてだけでなく、象徴天皇制や政教分離の原則との関係の中で捉えるべき問題です。これらは憲法における構造としていわば関数関係を形づくるからなのですね。この構造の外部に、現在自民党が勝手に選択している<戦う国家、祈る国家>の意識、戦前との連続性の意識があります。


自問自答のギロチン

わたしのなかで、誰の責任か?と永久に問い続けるは検事の審問
おかしいぞ狂ってるぞとおせっかいな説教は警官の職質。
わたしのなかで、そのうち偉い政治家ならば救ってくれるはずだと
祈るわたし。笑止。
唯一救いは、ファシズムになるという心配がいらないということ。
なぜならこの国はもうとっくの昔にファシズムなんだから。
だからといって、お行儀よく虫けらの如く踏み潰されるのを待っているだけ?他にやれることはないんの?行動が求められているときではないか?



詩人はいかに唯物論者になったか?

特定秘密保護法に慎重反対は八割、安倍内閣支持率は六割も。本当に反対しているなら、安倍内閣の自民党をこれほど信頼するものだろうかと大いに疑問だ。しかしここで、唯物論者ならば、、事柄の判断を、正しいか正しくないかの神学的解釈に一方的に委ねない。むしろ判断を、複数の流れから成る時間の性質の観察に置く。こうして世界の問題は、どれくらいの過去と、どれくらいの現在・未来とが共存しているのかという密度の方程式となる。つまり、安倍内閣に寄せるかくも大きな支持率とは、単に、強い国家を演じた高度成長の時間が現在の時間を占拠してきたという配置を示しているだけである。ところで、これは、なぜ運動は空間へ行く方が有利かという理由も見事に説明している。つまり、現在のところ、時間の領域では取り囲まれてしまったのだから(’六割’の空間的解釈)、空間の領域における占拠をもって抵抗を持続することが効果的ではないかというフーコ的地図の読みが実践的に問われている。こういう風に、物質は自らを考えてきたし、考えていくのだ。


特定秘密保護法に慎重反対は八割、安倍内閣支持率は六割も。本当に反対していたら、安倍をこれほど信頼するだろうか。正しいか正しくないかの解釈に委ねるだけではなく、複数の流れから成る時間の物質的な性質を観察することもできよう。強い国家を演じた高度成長の時間が現在の時間を占拠してきたのだ

ジョージ・オーウェル箴言集 ‏@Orwell_JP 56分
愛国心というのは保守主義とは何の関係もない。それは、変化しながらも不思議なまでにもとのままだと感じられる何物かに身を捧げることである。例えて言えば、もと白軍にいたボルシェビキがロシアに対して抱く感情のようなものだ。[右であれ左であれ、わが祖国]



「法の支配」を称えましょう

「法治主義」は、国の権力行使に事前に形式的に定めた手続に従わせることをいいます。一方、「法の支配」は、更に実質的な手続の正義を求めます。したがって、法の支配の「法」は窮極的には、憲法の「法」においてしか考えられません。さて、’私は知らない’という反論の機会を事実上許さず罰してしまう秘密主義ならば、それは、反論する権利に集約される「法の支配」の外部であり、実は「法治主義」ですらない野蛮にほかなりません。私は特定秘密保護法のことを話しているのです。


「治安維持法」の成立は、関東大震災の<二年後>でした。
今回の「特定秘密保護法」は、東日本大震災の<二年後>です。
単なる偶然とは思います。でもね、関東大震災の<十年後>に起きたことが、
東日本大震災の<十年後>に起きるはずがないと確信できる人は幸いです。
もし愚かな歴史は繰り返される、としたら…
<十年後>は、米軍と一緒に自衛隊は満州より遠く地球の裏側へ行くのか、
’テロ対策’という五輪警備を契機に、より近く東京に展開していくのですか?
両方ならば兵隊の数が足りませんから、徴兵制が強行採決されるはずです。



戦後ニューヨーク知識人の流れ汲んだ新左翼運動は、ハンナ・アーレントをもった。1970年以降、反ソソビエトの元トロツキストの中から、転向してネオコンのブッシュへ行く人々があらわれたのである。スターリニズムに対する批判によって、アメリカの新左翼(一部)は、イギリスの新左翼の場合と比べると、トロツキズムの思想に再び帰ることがなかったといわれる。(これに関しては諸説あり。)
「人間の条件」を読んでいると、やはりというか、マルクス主義の労働ユートピアに幻滅した、シモーヌ・ヴェイユの体験を解説している文章がでてくる。ちなみに、ヴェイユ研究者でもある渡辺一民氏が強調しているように、人民戦線崩壊を招いた世界史的大事件によってスターリンのソビエトに幻滅したフランスの知識人達の場合とは異なり、ヴェイユはただひとり、ルノー工場で肉体労働した独自の体験からソビエトに疑問を持つに至った稀な思想家といえるのである。
さてここで、「コモン・ウエルズ」のネグリ&ハートは、アーレントの思想の驚くべき生産性を指摘しているのを思い出した。ハンナ・アーレントのagent(「人格」と訳される) の思想と、ミッシェル・フーコのsubujectivation(「主体化」と訳される)の思想の間の類似性が指摘されるようになってきたのであるが、これは大変興味深いテーマだけでなく、ネオリベ・グローバリズムに対する抵抗のあり方を問題提起するだろう。はたして、ヴェイユを参照するハンナ・アーレントの線は、これを、労働の再定義を与える生権力のポストフーコ的言説の方へ真っ直ぐ引けるかどうか?思考が必要だ


「映画「ハンナ・アーレント」の感想文 〈続き)

'New Yorkers'に連載した投稿したアイヒマン裁判の報告記事は、大スキャンダルとなった。なぜかくも大きな反発が、ハンナ・アーレントに向けて起きたのだろうか?アーレントは自身がユダヤ人であることを否定しない。そうでればこそ、アーレントは、ユダヤ人の条件を問うのでなく、あるいは対抗的にドイツ人の条件を問うのでもなく、ほかならぬ人間の条件それ自身を問うたのである。その結果、ドイツ人がいかにユダヤ人と関わったかという問題が、われわれ人間がいかに自身と関わったかの問題としてあらわれたのだ。ここから思考不可能性というひとりひとりの倫理性にかかわる問題を構成することによって、歴史の闇を消去したい読者の前に、アイヒマン裁判をはじめて事件として呈示してしまったのである。それは闇よりも暗い闇であったゆえに、大スキャンダルとなったのである


「人間の条件」、独逸語話者のハンナ・アーレントが書く英語は、抽象性が高くテーマを取り扱う文法が厄介で、挿入句が多い文をそう簡単には読み取れません。卑屈なリアリズムplat réalism に陥りがちな現実世界の観察に、哲学と詩の息吹を与えていると気がつきます。独自の概念を創り出す思考の風?
Worldlessness as a political phenomenon is possible only on the assumption that the world will not last; on this assumption, however, it is almost inevitable that worldlessness, in one form or another, will begin to dominate the political scene. This happened after the downfall of the Roman Empire and....
Only the existence of a public realm and the world's subsequent transformation into a community of things which gathers men together and relates them to each other depends entirely on permanence.
If the world is to contain a public space , it cannot be erected for one generation and planned for the living only; it must transcend the life-span of mortal men. (Hannah Arendt)


右翼の政治家が次々と金で腐敗するのは、道端の石が坂道を下へ転げ落ちるのと同じ。せいぜい公正な裁判を望むぐらいだ。そもそも彼らの存在は金そのものなのだから、いくら人間の良心で裁いても骨折りで、違法に貰った金を国庫に収めれば十分だろう。ところで、右翼の政治家とは逆の方向で、石を坂道に逆らって上へ運ぶ法則のことも忘れてはならない。対価も求めずこれを行うのが善意な左翼の誠なり。大抵人民のために働いたと信じた苦労は決して報われず、最後は無名墓地行きときまっている。それも東京五輪で立ち退きを受ける無慈悲な忘却の墓地だろう。嗚呼、だから嘗て左翼だった者が、右翼ジャーナリストに堕しついに極右の犬となって金を掴んだという腐敗は、なんと形容すべきか、まったく言葉もない。もし事実がその通りの事実であれば、公開で百叩きの刑にも値しようか!?

大島渚は、ポーランド映画から影響を受けたと語っている。アンジェイ・ワイダ監督の出世作といえば、「灰とダイアモンド」(1957)、「地下水道」(1958)。’連帯’を扱った映画に、「大理石の男」(1977)、「鉄の男」(1981)がある。12月はイメージフォーラムにせっせと足を運ぶ

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11月後半(2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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