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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年11月後半

<<   作成日時 : 2013/11/11 15:20   >>

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たとえ同じ結論(脱原発)だとしても、そこに至るまで様々なプロセス(主張の差)があることを人々に呈示していくことも、やはりデモの大切な役割ではないかと考えています。ただしほんとうに極右であれば、彼らを受け入れることはできないでしょうし必要もなかったとおもいますね。なぜなら、極右は、結論しか存在しない直接性だからです。

ふくろうねこの3分間憲法話

人間性の尊重を保証する人権のリストのなかで、知る権利こそは、世界中が守っている人権であります。知る権利を勝手に破壊する特権がこの国にあるはずもありません。だから、国際ペンクラブや国連事務局など海外から批判が起き始めている事実に、なぜ人々はかくも無感覚に鈍感でいられるのでしょうか?
特定秘密保護法推進者の自民・公明・みんな・維新は、「後世の歴史家の判断に委ねる」と繰り返しています。しかし彼らは一体何の判断をいうのか、曖昧です。それも秘密ですか、といい返したくなります。確かなことといえば、ただひとつです。特定秘密保護法が成立すれば、それは、知ること自身を罰することを決めた最悪の国家の、人間性の尊重を消滅させることを企てた最悪の犯罪として、歴史において判断され栄久に記憶され続けるということでしょうね


隣人と関係をもてない国の人々の不安定さ。中国・韓国の隣国との関係を失ったことからくる内に自閉した状態。忘れないで!比較的良好だった関係を失ったのは、小泉の公式参拝以降のこと。原発問題の解決、日本が孤立している外交問題の解決を、原発と孤立を推進してきた小泉に再び委ねるのは不可能です


Materialistic Confucianism
Of a broken umbrella
Sang by the universal owl-cat.
Les territoires animaux (the owlcat),
Leur rapport éventuel,
Avec un centre extérieur
Qui est comme une terre
Les mouvements de déterritorialisation cosmique
Comme dans les modes de subjectivisation de l'être humain
Here comes the universal girl.


Badness that comes out of hiding is impudent and directly destroys the common world; goodness that comes out og hiding and assumes a public role is no longer good, but corrupt in its own terms and will carry its own corruption wherever it goes. - Hannah Arendt

「秘密保護法案 反対しているのは不都合な人、 恥じるべきものがなければ反対する理由はないと思う」

ホホー、そうかニャ?こういう人にかぎって、「普通」の語を連発します。この顔なき匿名の’普通人’は、自分が何者であるかという人格を開示することはありません。自分自身から隠れているだけです。ただ、自分自身を隠すことによって、「恥じるべきものがない」、すなわち善なのです。
ここで、アンナ・ハーレントが見抜いたように、「隠れることから生じる悪は無謀であり、共通世界を直接破壊する。同じように、善は隠すことから生じるものである以上、公的役割を引き受けるとき、善はもはや善ではなく、自ら腐敗し、その腐敗を至るところにまき散らすであろう」。つまり、顔なき匿名の普通人は、’わたしは自分自身との対話を欠いたファシストです’、と告白しているのとかわりませんね

「特定秘密保護法」は事実上。戦前の治安維持法と等価と指摘されています。二年間この問題を取り扱ってきた新聞労働組合が、昨日の集会で大きな危機感を表明しました。歴史を参照すると、戦前・戦中に弾圧されたのは、労働組合と宗教団体だけではありません。戦時中の新聞が提灯記事で女性をいかに蔑視していたかという事実も、これから論じるべき問題となってくると思われます。
治安維持法はわれわれの外にあるだけでは満足しませんでした。それはわれわれの内部にまで侵入しました。23劇団アピールにあるように、俳優や演出家や作家、ついに劇団そのものが弾圧された歴史が存在したのです。つまり、治安維持法で起きたことは、「特定秘密保護法」で起きるということです。
そうして、「特定秘密保護法案」に対する抗議活動は。事柄の性質上、所謂マルチ・イッシューにならざるを得ません。とくに、労働組合とフェミニズム運動との間で、抵抗のために共通のものをつくっていく共闘のひとつの形ができるかもしれません。見守りたいです。労働組合とフェミニズム運動は、資本主義に対する抵抗の中心に位置すべきですが、この両者の関係は、マイノリティー・グループを利用し取り込んだネオリベグローバリズムによって、相互不信と断絶が生じてしまった関係だからです。

なんとか3・11以降頑張ってきたのに、ここにきて、現在受験科目を間違え、自分の名前も書き間違えていないでしょうか?社会運動は、急進的反<原発体制>か、穏健な脱<原発体制>を受けなければならないのに、脱<社会運動>を受けていませんか?その証拠に、自発的な参加者のひとりひとりのの名前を書くべきところを、小泉という他人の名前を書いているではありませんか。しかしそれは、原発の汚染情報を秘密にしかねない「秘密保護法」に対して一言も反対していない人の名前ですよ。もしこのまま気がつかなければ、落第と言わざるをえません


サッチャーは出発から教会の危機をオカルト的に感じた政治家。米国流ネオリベ推進者としてマリリンモンロー、フォークランド奪還の愛国少女、王室擁護者にと次々に変身しましたが、いくらなんでもフェミニズムと関係づけるのは無理とするのが国葬のときのイギリス人による評価でした



民主主義の幻想とはなにか?それは、代表者に委ねる<最大多数の最大幸福>幻想である。だけどね、だれの目からみてもう国会は新しく台頭してきた’貴族’階級の社交場に堕した。われわれの声など聞く耳をはじめからもつまい。これは日本に限らず、世界的な風景だって。代表者に委ねるという幻想ゲームに永遠に絡み取られて無気力に陥るよりは、自ら街頭で抗議し挫折した方がまし。少なくとも、身体を介して人間の力を空間の力に関係させる生の様態を我が物にできよう。直線的に思うほどの成果を得られずともさ。’生殺与奪の権’という民衆史の語りは、実際に人々が集まるという事件のあとだね

アーレントが見抜いたように、ナチス幹部は普通の人々だった。安倍のように、特に思考能力において特に異常であるとはいえなかったし、それどころか、サンデルの正義論に熱狂する日本人ぐらいのモラルの常識もあった。だから、ナチスにcommon senseコモンセンスを説くのは、憲法そのものを終わらせようとしている自民党に中途半端な「違憲状態」を説くぐらい絶望的に無意味な試みなのだ。
それにしても、ここまできて、なぜ最高裁は「違憲」といえないのか。彼らの保身術でしかない中途半端な「違憲状態」判決などに拍手を送る必要もない。
ファシズムはわれわれの外にあるだけでは満足せず、われわれの内部にまで侵入してくる。秘密保護法の標的はわれわわれの内部である。最後に、ドゥルーズの言葉だけを言い残しておこう。「だからこそ、われわれひとりひとりが自分自身を相手に不断の折衝をつづけ、自分自身を敵にまわしてゲリラ戦をくりひろげることにもなるわけだ」(1990)


ふくろうねこの憲法豆知識

刑法とは、罪と罰の買い物リストと思えばいいでしょう。品物にあたるそれぞれの罪に、価格にあたるそれぞれの罰が表示されていると考えることもできます。例えばトマトの価格よりもメロンの価格が「高い」ように、窃盗の罪よりは殺人の罪の方が「重い」のです。罪刑法定主義の原則です。憲法は立法者に対して要求していることとは、つまり、どのくらいの罪を買ったら(原因)、どれくらいの罰で支払うのか(結果)、この二つのことを明確に記した法律をつくりなさいということです。なにが法かを全員に示しなさいと。示していない刑罰法ならば憲法違反ですよと憲法ははっきりと警告しています。さて入っただけでお金だけ払わされることになるー何を買ったかも知らされないーそんなスーパーマーケットがあったとしたら、とんでもないでしょ?もう何のことかわかりますね。結局秘密保護法とは…


民衆史的幻想(’生殺与奪の権は民にあり’の陽炎的幻想)と、民主主義的幻想(代表者に委ねる<最大多数の最大幸福>幻想)。この二つに絡み取られて無気力に陥るよりは自ら街頭で抗議し挫折した方がまし。少なくとも、身体を介して人間の力を空間の力に関係させる生の様態を我が物にすることができる

面白い!もし三点つけ足して構わないなら、まず原稿料が含まれていたこと、それと、この原稿料のなかには、イェニー(妻)が行っていた清書等の作業に支払われていたものがあるだろうということ。最後に、三人は共同生活をしていたので、エンゲルスがイエニーに渡した生活費は自身への生活費でもあったということですね。

ナショナリズムと植民地主義。この両者の共犯関係は、ポストコロニアリズムが分析してきたことである。両方を乗り越えなければならないのだ。ところで、「左翼」を称する隠れ民族主義者は民衆の代わりに語るのは、民衆史の解読者としてあるからだろう。ナショナリズムを以て植民地主義に打ち勝つという、植民地主義の論理を勝手に民衆に投射している。


隠れた寸劇ブームである(嘘)。固有名詞は堅苦しいから、自分の名前を四行の寸劇で表記することをゆるしてもらいたい。皆も寸劇から成る名前にしたら、どんなに気楽な世の中になるかだ。問題はね、自分の名前を忘れてしまい、ついには無くなってしまう人たちが大勢でてくるかもしれないが、仕方がない


やれやれ、報道によると、秘密保護法立案に関わった教授が被爆者に差別的な発言をしていたという。「間接的な殺人」をとらず「私なら」直接殺すことを仄めかして威張ってみせたり、そもそも、どんな結果が招来したか事実を知ろうともせずに漫画のヒーロー気取りでナチスの手法を称える政治家などは皆、外部の世界に対する憎悪の感情をもった人々といえよう。もちろん昔もこの種のことを放言する人もいることはいた。油断していると、毒キノコのように繁殖する。が、常にどこからとなく理性の反作用が働いて、憎悪パワーも相殺されていたことも確か。現在は皆が不安定になっているということもあるのか、<他>に対する憎悪が直線的に感染していくようにみえる。ネットの責任ではあるまい。隣国と関係をもつ能力がない国の人々とはかくのごとき不安定で、他者を前にしてかくも脆いのものなのだろうかと心配だ。打ち消すかのような偽の笑顔たちがネット上で虚しく浮遊する。怒る人々の存在を隠蔽していくー秘密保護法のように。私の杞憂なのか?

尾崎氏「東北には被差別部落がないと、聞かされてきた。地元女子大で解放研にいたという叔母の認識でもそうだった。実際は、あるということになってる。
福島など、比較的「中央」との距離が近い方が多い、ということになってる」

赤坂氏は信頼できる人ですね。ひとつの日本という幻想に、リアルにたくさんの穴をあけていく仕事。たくさんの穴をリアルにとらえるためにも、こういうことも知らなくてはならない事柄と思いました。

大島渚「儀式」はシンボリズム的手法で、戦後日本の歴史を物語った長編作品である。作品のなかで、マルクス主義と民衆の関係を、異様な結婚式によって、象徴的に表現している。「新婦」は一向に現れぬが、「仲人」は何事もなかったかのように予定通り新郎新婦の約束された未来について語るのだ。ここでは、「新婦」は民衆、「仲人」は前衛党に対応するのであろう。では「新郎」はなにか?その夜、右翼の「弟」が「父」を糾弾する。曰く、「新婦」が逃げ出したのは、お前が悪いんだ!全部お前の責任だから、代わりに、可哀想な兄貴の嫁になれ!と、無理やり「父」を、「兄」が寝る布団に押し込んでしまう。「父」は戦後復活する国体思想の、「兄」は世の中に息苦しさしか感じられぬナィーブな左翼の象徴だったのではないだろうか?
戦後の左翼は過大に期待した民衆に関する反近代の幻想から、二項対抗的にこしらえた反民衆としての天皇像を発明した。が、この近代の語りでしかない「民衆史」の虚構性を映画は問題提起していた?


大島渚「儀式」は、こういうことも問題提起していたのかもしれない。戦後の左翼は過大に期待した民衆に関する反近代の幻想から、二項対抗的にこしらえた反民衆としての天皇像を発明したのだが、実はこの近代の語りでしかない「民衆史」の虚構性を映画は告発していたかもしれない。民俗学の柳田邦男の流れをくむ、吉本隆明から網野までの民衆史的な近代批判の言説は実は、かえって近代の言説を強化してきたかもしれないという厄介な問題。民衆史的な近代批判の言説は、右翼によって、保守イデオロギーに変容されてきたのではないか?左翼的なポストコロニアリズムの思想が、日本において、右翼的に受容され理解されている背景としてこれがあるのではないか


マルクス主義と民衆の結婚式。仲人は親鸞を語る文学者がいい。新郎新婦の代わりに仲人が語るだろうが、実際は大島が描く結婚式だった。式場(政治的領域)に現れぬ新婦(民衆)をとっ捕まえたのが吉本隆明。「大衆」という焼印を刻まれた新婦は、生活者という名の瞑想の領域にある屠殺場へ送り込まれた。

シンボリズム的手法で大島渚「儀式」は戦後日本をフラッシュバックする。右翼の弟曰く、新婦が逃げ出したのはお前の責任だ。代わりに兄貴の嫁になれ!と、無理やり父親を、泣き寝入りする兄の布団に押し込む。父は戦後復活する国体思想の、兄は社会に息苦しさしか感じられぬナィーブな左翼の象徴だった



秘密保護法について沈黙する者は賛成する者と同じ。つまり自ら虫けらになる者である、みずから虫けらになる者は、あとで踏みつけられても文句は言えない。Wer sich zum Wurm macht, soll nicht klagen, wenn er getreten wird.


禁じられた語りたくない備忘録 No.2

親が通わせた東京にある高校受験のエリート名門塾に、ある日、大江健三郎が多分内職かなんかで試験的に教えにきたことがありました。二十分だけの授業。そのとき塾側は親切にも、昔大江自身が書いた文章(批評文)と設問を用意して、問題文の解説をさせたのでした。例によって、下線部の文で筆者が言いたいことは何ですか?というおきまりの問題ですね。ところが大江が選んだ正解が、塾側が用意した正解と違っちゃったんです。つまり大江の回答は不正解でした。「おかしいな、僕こんなこと考えてたかな?」と。十分黙って考え込んだ後、気を取り直して二問めに。これも大江の回答が不正解。大江曰く「君たちね、ま、文学というのはね、正解なんかまったくあてにならない世界であってね。文学者は正解を書くために文学を書くんじゃないんだな」と名解説をしてそのまま教室を立ち去りました。やはり塾側は滅茶苦茶困ったでしょう(爆笑)。この塾に大江は二度と現れませんでしたが、もろ影響を受けたのがこの私。おかげで、不条理な真実を悟ったために、成績が一気に急降下。あらゆる解釈の行為を軽蔑しはじめたのです。すると、気がついたときは一次募集で行ける高校がなくて困ったくらいでした。解読者による作品内部への過剰な読み込みは、作者以上に作品の意味を語ってしまいます。作家のいわなかったことまでいってしまうのです。結局本などはどう読んでも全く勝手自由なわけすが、しかし自分が教える立場になったら、生徒たちがいます。拒んできた解釈を教えなければなりません。非常なジレンマに陥りました。現在の話に戻しますと、読書会でも、そういうことを共に考える場であれば、単なる趣味教養の次元を超えた、政治をも問うラディカルな思考をもつ組織になるかもしれませんね。日本近世の可能性は塾にかかっていたというのは、ほんとうの話です。例えば、「論語」の朱子的解釈を脱構築していった、京都の市井の学者・伊藤仁斎の古義堂とか。福沢諭吉の初期の塾もそうものだったと思います。(ちなみにどうも父方の祖父が彼の家か門下生の家で30人ぐらいでやっていたときの初期の塾生だったようです。)ある意味で、ラディカルな読書会のあり方です。現在ですと、、塾というと、なんだか大学受験のxx塾とか、松下政経塾みたいなオカルト極右翼の集まりに墜ちるところまで墜ちましたか?(失礼)二年前、六万人があつまった代々木の脱原発集会で、大江が喋っているのをきくことができました。フラッシュバック。やはり大江は一貫していました。「正解」というのは安全神話なんです!



自殺は本当の理由が分からぬ。事後的に仮説があるだけだが、大使館職員の自殺は仮説すら立たぬ場合もある。自殺の理由は関わっていた秘密事項にあるのかと噂される。秘密主義の大使館の中は互いの不信感で沸騰している。不信感が公私混同に多くの事柄を秘密とする。日本はそんな一大使館に縮小していく.

国家は益々秘密主義の大使館如き矮小なものに縮小していくのか?実際の大使館は現地で永遠の一年生の貴族(大使)を船長にしているが、貴族が舵を取る秘密の幽霊船国家ではどこの国の港からも歓迎されることはない。大きな犠牲の割に得るものは零だ。船の中の息苦しさの方は倍増してくることは別として




The character 「学」 ('Studying') represents the principle of self-reliance.
At the same time it contains the principle of dependence on others, being expressed in the characters 「仁」('Benevolence').
Anyone who is going to promote the autistic isolation with ''self-centeredness" blindly falling into self-decsption should learn more the fact that one can know the truth from the encounter with others.

[Since the relations of good friendship with China, Korea were lost,
Japanese has deeply the unstable psychological condition of isolation which lost the relations with the neighbor.We have had very unstable feeling about normality because we are in the country that cannot have relation with the neighboring country. A sense of crisis is growing within us. Because w lose encounter with our neighbor.]

In order that these characters 「学」 ('Studying') and 「仁」('Benevolence') may enter into relation with each other as bases, their guardians must place themselves in relation to one another. Such guardians must be the principle of trustworthiness 「信」. As the guardians needs to have the intermediary indirect or liberal, the principle of trustworthiness 「信」 calls the principle of virture 「徳」 as its intermediary、that is directly connected to the ways of Heaven「天道」. I only hope whole the heaven(「天」) sees us. Actually the ways of Heaven「天道」 is street.Our virture 「徳」 consists in indignation.
After 3.11 (the nuclear power plant accident in Fukushima), the molecules as citizen protes the giant of power; a promoter of nuclear power supported by the omnipresent Neo-liberal globalism.
The way doesn't go forward- I'll get on a raft and set out to sea!
Indignation.The flame spread over field and the whole earth is soon on fire ! The universal girl comes here. Let's occupy Love (「仁」) !!

Solidarity


Since the relations of good friendship with China, Korea were lost,
Japan has deeply the unstable psychological condition of isolation which lost the relations with the neighbor.Throughout the year I have had very unstable feeling about normality because I am in the country that cannot have relation with the neighboring country. A sense of crisis is growing within me. We lose encounter with our neighbor.

子安宣邦 ‏@Nobukuni_Koyasu
中国・韓国との友好な関係が失われて以来、隣人との関係を失ったものの本質的な不安定感をもつことはないだろうか。隣国との関係がもてない国にあることの、これは正常ではないという不安定な感じを私はこの一年来もってきたし、その感じは一層強くなっている。我々は隣人と出会いがたくなっている。



Nobukuni Koyasu

ヨーロッパで育った言論の自由の伝統はイギリスへいって実感しました。生存権はアイルランドのときに知りました。ボストンかボンか?と常に問われる貧しいこの国では、米国的資本主義とヨーロッパ的生存権とがせめぎ合っています。だ。徹底した形で政教分離の理念を求める声は寧ろ、帰国後日本において目撃しています

焼き肉といえば、BBCのラジオ演劇。豚を食ったためにユダヤ教コミュニティーから破門された大哲学者スピノザの人生を物語る興味深いドラマだった。アムステルダムの長老達に詰問されたスピノザの言葉。「肉を食う食わないかなど、偉大なユダヤ教に感化を受けた私の思想に関係がありませんよ。」これは、スカートの長さとか髪の毛の長さについてマニアックにこと細かに規定する校則の事情と似てなくはいない。「なぜxxセンチか?」と学校側に質問しても答えが帰って来ない。恐らく対象はなんでもいい。禁止そのものを必要としているだけだ。根拠がないからこそそれを禁止できるともいえよう。禁止(タブー)を共有すれば組織が自ずと成り立つのだ。ともあれ、17世紀のアムステルダムの名もない食堂で、スピノザが普通に豚肉を食べたことは、震撼すべき事件であった。ユダヤ教から破門されたスピノザは、キリスト教徒にもならなかったのであるが、このような無神論者の存在は、ヨーロッパが全く知らなかった他者であった。信教の自由、政教分離の原則という理念はまだ十分に肉体化されていなかった宗教改革の舞台、イタリアのフィレンツから始まった人間の自由の精神は、17世紀オランダを経て、市民革命の舞台、18世紀イギリスへと移動していく。理性の微笑ヴォルテールが英国の信教の自由をルソーに語るとき、もうフランス革命の太鼓はすぐそこにきていた.
ヨーロッパで育った言論の自由の伝統はイギリスへいって実感した。生存権はアイルランドのときに知った。ボストンかボンか?と常に問われるこの国では米国的資本主義とヨーロッパ的生存権とがせめぎ合っているからだ。徹底した形で政教分離の理念を求める声は寧ろ、帰国後日本において目撃している


女子力の風景

焼き肉のお店では「女子力」が弱まるという証言をきいた。「焼肉屋へ行こう」が、男性の下心を測る言葉であるとも。肉をこがさずに焼くこと、この逆らえぬ合意consensus と、この目的の為には、表から裏へ裏から表へとひっくり返すだけの恐ろしく単純な作業と単調なリズムとが、男性に一方的に有利に、「女子力」に一方的に不利に働くのかしらと一応考えてみる。昔は炭火だったし微妙な焼き具合というのがあったが、現在は効率的なガスだから余裕もないか?正直ナンパの話題は絶望的に暗いが、常のこととして、「女子力」という言葉をつくるほどマッチョな男性どもの語彙は敵地占領の語彙。表か裏か?「ヤッタ」か「ヤラナカッタ」か?しかし女性にとっては、自分達の命がけの美は、そんな貧しい還元に委ねられない。それだけじゃ無いでしょう?もっと他のことがあるはずでしょう、と、映画の場面ー映像と微妙な音を思い出すようにもっと別の仕方で思い出して、あなた


官邸前で秘密保護法に反対した人々。人数のことは別として、今回一人ひとりの自発性と存在感が素晴らしいと感動いたしました。人数も250から500と二倍になったことも悪くないじゃないですか。正直一万人いればなあと思います。ツイッターで発信しているあなた、行動のときです。ここに集まーれ!

恵比寿時代は「古橋」という定食屋に行った。数年前まだそのままあった。今晩は「汀」という近所の定食屋へ。昭和からワープしてきた様なおじさん七人がカウンター席に鳥みたいに並んでいる。昭和の食べ物ソース弁を注文する。野菜不足かな?アメリカン・サラダとメニューにある。嗚呼これが昭和なんだ





結局ゴダールしか残らないその理由とjは?


50年間ゴダールの映画は、それぞれの時代にそれぞれの課題をもちました。日本で公開されたときも映画「ソーシアリズム」は、反ネオリベグローバリズムの人々に支持されていました。五十年代後半から頭角を現したゴダール達のヌーベルバーグ運動(新しい波)は映画におけるダダ的な前衛芸術の継承


ダダは、二十世紀モダニズム運動を牽引したキュビズムと共に、自己解体を孕むラディカルな批評精神の中心にありました。六十年代に前衛の大きな波と反動の大きな波が相殺し合った結果、持続していく小さな振幅の波だけが残りました。そうしてモダニズムが転身していくのがポストモダニズムの波です


七十年代のポストモダニズムは、従来の左翼が展開できなかったような新しい角度でモダニズム批判と資本主義批判を発揮しました。この二十年間の間にアメリカンドリームとソビエトが共に崩壊しましたが、90年代からポストモダ二ズムはメインストリーム入りし批評としての可能性を失っていくのです


結局九十年代には、発言していたのはゴダール唯一人であったことは覚えてもいいことです。ゴダールはモダニズムか、ポストモダニズムかは議論が分かれます。彼は映画監督か詩人か思想家なのかという問題もあります。ゴダールは、映画を、思考の形式として概念を創る運動として根本から定義しました


ゴダールのどの作品も期待外れなのは何故かは一考に値します。彼が呈示したい思考のイメージとは、欲望にとっては常に期待外れなものだからです。資本主義によって<空間>は支配されてしまったならば、余白である未知の領域である<時間>を切り開いて資本主義に抵抗しようと訴える映画なのです。


つまり、空間における抵抗としての思考は演劇の管轄に属するとしたら、ゴダールにおける時間における抵抗としての思考は、映画に委ねられるです。編集の問題、つまり過去の映画をいかに編集するかという問題提起は、ここで生きてきます。歴史の編集は、単なるNHK的文化遺産の編集を意味しません


七十年代に遡るゴダール「映画史」の構想は、20世紀の歴史をいかに編集するかという、人民と創造に関わる試みなのです。19世紀的発明物の民族・戦争・国家を終わらせて21世紀を構築するという過大な使命を勝手に引き受けました。その思考イメージとは、映画を言語としたポスト構造主義です。


1991年はゴダール「ドイツ新零年」を観た。初めてのニューヨークで。持参した本は、英訳のデュラス「ラ・マン」とゾンターグ「エイズと隠喩」。二か月後に持ち帰る本が、ファイマンのQED、アリストテレス「詩学」、MOMAのゴダール本。このアインシュタインの論文を収めた本も買って帰った。映画、本の逃走線に宿るジグザグ運動は、現在進行中である。
思い返すと、N.Y行きから六年経て、ダブリンとロンドンの十二年間が始まった。N.Yのセントラルパークでライブをしたクロノス・カルテットが、若いジョイスのいた高校に来たときは、自分の旅の大きな距離を感じた。しかしよく考えると、ニューヨークからダブリンの間の空白の六年間、動かなかったこの時期こそが本当の意味のノマドと呼ぶに値する生成変化だったのかもしれぬない。<脱出>を考えない日は一日もなかったからね。「ノマドとは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らはノマドとなるのだ」Les nomads, ce sont ceux qui ne bougent pas, ils deviennent nomads parce qu'ils refusent de s'en aller.

記者「切腹用の刀が送られてきました」
災害担当相「犯人は俺じゃない。俺は近くに寄ってすぱっといくから。間接的な殺人はしない」
記者「議員宛てではなく試作品Xマスケーキ宛にです」
災害担当相「俺じゃない。俺なら近くに寄ってすぱっと」
記者「あわわ、近づいてこないで下さい!」

大島渚によると、どんな反抗者も、冠婚葬祭の儀式で逆らうことは難しい。それどころか、滑稽にも息苦しく、過大に期待された行動を演じてしまうことに陥ると。問題は、大島はなぜそれを葬儀で描いたかである(「儀式」)。葬式それ自身ではなく葬式の根底にある民衆史の偽善を暴いたのではあるまいか?

日本人はもっぱら「選ぶ」民主主義についてばかり喋りますが、本当は、「語る」民主主義こそ、民主主義の中心的課題です。「語る」民主主義とは、何でしょうか?それは、小さな人間が大きな人間をただすことです。そして、そもそも「語る」ためには、小さな人間は仲介者が必要なのです。なにが起きたのか、なにが起ころうとしているのかを知らせてくれる仲介者とは、ジャーナリストのことです。とくに独立したジャーナリストの役割が大きいことは明らかです。大きな人間は、こうした仲介者をことごとく追放したいでしょう。かれらの秘密保護法は、小さな人間を助けてくれる仲介者を殺戮し尽くす弾圧にほかなりません。


平仮名オンリーの詩は、音を介さずして意味を考えるのは無理。
英語ネィティブがわれわれ外国人の喋る言葉を繰り返すことが時々起きるが、これと同じで、まず音だ。初めに音がある。つぎに意味だ。
一方アインシュタインの方程式のように音を介さず直接考える場合もある。
太古にあった原テクストの漢字をみるときが、それだ。
「論語」の音は消失しているのだ。
古墳のように痕跡として漢字があるだけだ
その古墳すらも日本語の雑草が覆い隠しているので中々気がつかない


平仮名オンリーの詩は、音を介さずして意味を考えるのは無理。時々英語ネィティブが外国人の喋る言葉を繰り返すことが起きるが、これと同じで、まず音だ。一方アインシュタインの方程式のように音を介さず直接考える場合もある。太古にあった原テクストの漢字をみるときだ。「論語」の音は消失している

誰の詩だったか忘れてしまった。ヴァレリーの?
   詩はひらがなだけにして表示すると面白い。
      絵の中の音の配置みたいになるから。
         漢字とひらがなを混ぜなければならないの?

哲学は常に概念を想像する
  だから哲学ノート、板書書きは
       絵の中の概念の配置にしたい。電報風に
          異端梟猫流朱子学 増殖 慶応三年
つまりThere is a case for interplanetary saucers

小泉劇場のシングル異臭のもとで、安倍自民党は原発ゼロと言い始めたらいったい何が起きるでしょうか?安倍は’コントロールされていない’のに’コントロールされている’と言い切る男だから、原発推進のまま原発ゼロを公に約するのはいともたやすいことでしょう。結局国会議事堂に送り込まれた全部の政党が脱原発となれば、原発の問題が消えてしまいます。安倍自民党にいくらでも原発ゼロの決定を引き延ばす事をゆるすことになるのです。少なくともそういうことも考えておかなくてはなりません。理性麻痺させるスピンに簡単に乗っかってはなりませぬぞ、皆様!



解読者による作品内部への過剰な読み込みは、作者以上に作品の意味を語ってしまう。作家のいわなかったことまでいってしまう。野間の『わが塔はそこに立つ』を解読する尾末奎司の「野間宏と往生要集」を読んだ。ここまで読んでしまうのかと、内部的解読者による過剰な読みのすごさに驚嘆した。
『わが塔はそこに立つ』の、私も感動した中之町での死者の湯灌をめぐる場面に、「作家主体にとって、かえがえのない一つの回心が、彼自身の原体験への回帰を通して、みごとに表出されている」と尾末はいう。そして「その回心とは、いわば野間にとっての、真の民衆との出会いと言うべきものだ。
それは同時に「父」との出会い、そして親鸞の復活を意味する」というのである。これはあの場面の意味の、いやこの作品の意味の、作家がこの作品に託した意図の、作者に成り代わってした解説である。内部的読解者は作品の内的意味を作家に代わって、作家以上に語り出してしまうのだ。
尾末はわれわれに教えてくれる。野間における「真の民衆」との出会いとは、彼が「親鸞」に再び出会うことであり、彼における「親鸞の復活」であったことを。「真の民衆」とは何か。この内部的読解者は「民衆」とは何かを問うことなく、野間に復活する「親鸞」像に肯定的に組み入れているのである。
野間の外部的読解者である私は「民衆」と「親鸞」との結びつきを主人公海塚(野間)の内的必然性と解することで終わりとしない。私はむしろ1960年の日本の野間における「民衆」と「親鸞」との結びつきの意味を考える。この「民衆」像に「大衆の原像」「最後の親鸞」を対置してみること、などなど。

内側で行う承認と外から行う承認があってこそ、真正の承認だ。現在日本は内外の承認を失いつつある?3・11以降こんな国は承認できぬというのが人々の本音。また中国と米国からは、軽蔑すべき極右翼の政府の国は承認に値せずだ。現実に国家消滅のリスクもあるから、放射能の問題は国際的管理に委ねよ


ドゥルーズ曰く「例の’企画担当者(コンセプター)’とかいう人たちが、物を売る行為こそ最高の資本主義的思想であると主張し、商品のコギトを表明してはばからない鉄面皮な種族を形成している。」つまり高度資本主義の’無意識の生産’をいう吉本隆明のことだ。彼のマスイメージとは企画担当者と等価

「アンチ・オィデプス」の批判は、「父」の言説と反動的な精神分析学に向けられた。革命機械の欲望が反動と結びつくとファシズムとなる。精神分析学に対応するのが吉本隆明の大衆論ーナショナリズムに帰結していく民衆史だ。但し新たにファシズムを付け足す必要はなかった。日本は既にファシズムだから

ある世論調査の結果をみると、再び小泉に対する大きな期待があるようだ。ブッシュの戦争でしかなかったイラク戦争が齎した言語を絶する大きな犠牲、違憲の靖国神社公式参拝が帰結した政教分離の破壊とアジアにおける日本の孤立のこと、小泉が加担したこれら一切合財を忘れてしまおうとしているのか?再び彼のもとで選民思想みたいなひとりよがりのタカ派的の幻想が広まなければいいのだが、やはり心配だ

肺がんで甥が57才の若さで亡くなった。若い時から耳がよくなかった。夏休みの間、東京から来た私(小学生)の世話を厳しく命じていた、超教育的ママ的存在であった(彼の)母親への小さな反抗だったのかしら?思い出の中では、沼津の静かな海辺で童歌を猥歌風に憂さ晴らしの如くでっかい声で歌っているー

どんぐりコロコロ、どんぐりこ
お池にはまってさあ大変、
ドジョウが出てきてコンニチワ!
坊ちゃん一緒に遊びませう!?

あ、そうか…坊ちゃんは、この私のことでもあったんだな。いやはや、なんと40年たってやっと歌の別の意味に気がついたよ。ありがとう…。最後は夜の潮騒をきいていただろう


ネオリベは智の巨人であるー

マーケットの代わりに、マーケットのマーケットを捕獲するために、智の巨人はもうとっくに、あの精緻な経済学を超え出てしまったのではあるまいか。そして現在ネオリベラリズムが新しく定位するのは、酔いしれた一般均衡の観念よりもっと抽象的で、不確実性よりもっと暗黒大陸の、定義不可能な構造としか呼ぶことができぬ<美しい?>全体的体系の体系だ。ネオリベのグローバリズムは、他ならぬこの構造から、厭らしい文化論のファシズムを次々と生産して止まることがない。さて構造を占拠するのは、誰でもない、ただ人間存在の主体としての生だけである。運動における、対象すら存在しない笑うべき空白の直接性に、民衆史の悲哀の言説はまったく余計なもの。なぜなら、抵抗としての運動は、反復不可能な一回限りの、現在進行形の時制しか知らないのだから。繰り返しふたたび解釈の二項対抗的の迷路に絡み取られないで


民衆史ー忘れられた民衆を思い出す言説ーがいかに虚構にならざるを得ないかという問題。「世代論」も、文化論的の民衆史を構成する、統計的マーケット的ヴァリエーションか。民衆史とその部分集合(世代論)が物語る二項対抗的な「権力」の項に、過大に評価された「天皇」の言説が配置されていたという


現在進行形の運動は<いま>が問題。開かれているから対象すら存在しない。運動の根底に「民衆史」の言説があるわけではない。「アンチオイデプス」の暗黒大陸<三角形>批判は紹介されるが、民衆史が二項対抗的に実体化した暗黒大陸<天皇>言説は批判されていない。民衆史は西欧の精神分析と同じ反動


ハンナ・アーレント
いいかえると歴史上、決定的な事実は、親密なものを保護するという最も重要な機能をもつ近代の私生活が、政治的領域と対立しているというよりは、むしろ社会的領域と対立していることが発見されたということである。(『人間の条件』6)

民衆史の問題はなにか?TPP等のネオリベに対する抵抗とはなにか?この二つの関係がまだよくみえない…



たしかにフェミニズムはネオリベを批判しにくいんですね。また十分に批判してこなかったことも確かです。しかしだからといって、「交叉」があると考えてしまうのは、ごた混ぜmess。大体政治権力の中枢にいる男性たちが女を利用しているだけのことなのに。「交叉」は、現象だけしかみようとしない陰謀論ではないですか

オスカー・ワイルドの芝居

日本人はワイルドの言葉が大好きです。たとえば、こんなのをツイッターで拾いました。"In examinations the foolish ask questions that the wise cannot answer"(Oscar Wild) ワイルド一流のアイロニーですね。。試験する人が試験されるのが試験なんだという皮肉。私なら大胆にこう訳します。「愚か者の愚かさを測るには、愚か者に愚かな問題を質問させてみればいい」。
さて、ワイルドは、みんなが口に出しそうな紋切り型の言葉をわざわざ書きました。(紋切り型に、映画の宣伝文句があります。’君の瞳の中の鏡に星々を’とかなんとか)。それで、格言みたいに、この紋切り型の言葉を人前に披露する者は自ら、凡庸な俗物であることを明かしていることになるのです。さらに、ワイルドの悪意ある仕掛けは巧妙です。ワイルドの芝居の中の人物の様に、敢えてこの紋切り型を使ってみせて、相手の隠された俗物性を披露してしまうということがありますね。大体これがビクトリア朝を舞台としたワイルドの芝居の雰囲気で、三島由紀夫なんかは能をミックスした不気味な変なものを書いちゃったりしたんですが(笑)、海外では最近アイルランドを背景としたワイルドのアナーキズムへの共感に焦点を置いた批評や解釈が現れるようになりましたよ。別の機会に

"In examinations the foolish ask questions that the wise cannot answer"ワイルド一流のアイロニ。試験する人が試験されるのが試験に他ならない。「愚か者の愚かさを測るには、愚か者に愚かな問題を質問させてみればいい」

読んだ漢文を考えるために注釈なり解釈が絶対に必要。中国と朝鮮から来た大量の本が日本に数多くあるという事情は、交通の意義を考えさせてくれる。貿易は物を運ぶだけではなく知識も運ぶ。情報に先行するのは交通であるが、この交通は戦争を含む。戦争によって略奪してきた本のことも忘れてはならない


慣れてくると、漢文をスラスラ読む自分に驚く。が、読めるようになっても考えていない。同様の事は、海外滞在中ある時期から日本語を読むときに起きた。現在は英語の読みを疑う。考えず読んでいるだけだと。又英国へ行けば宜しい。が、仁斎を考える為にタイムマシンに乗って17世紀に行くのは不可能だ



いかにゴールインするか?昔予備校に高専出身の漢文の先生がいた。二番主義がモットー。トップでゴールインするな、二番で行け。トップでもゴール直前で背後の者を待って二番で入れという。苦労して一番でも後に非難される危険性があり割が合わないという。この人は戦後苦労したんだ、と今更理解できた

バブル世代の青春列車は、不真面目な懐疑主義者を気取りながら「ニューシネマパラダイス」に涙する頓馬な連中と、愛国主義的「炎のランナー」に息苦しく感動する連中でほぼ満席だ。トップランナーがゴール直前で立ち止まりテープを切らぬという様な労働者階級の反抗など想像できぬほど小市民的迎合主義


全共闘世代は正義感と怒りをもって語る人々だ。その下に続くのが安倍と同時代の人々と、バブル世代後期の現在五十歳以下四十歳までの人々。当時新人類は二十歳上の運動に対して自分達の「普通」の感覚を擁護した。現在二十歳下で異議申し立ての運動が起きる中、そんな「普通」が異常だった事がバレバレ


退屈な世代論、しかたなく忘却された新人類について語るー

最近 リタイアした全共闘世代の人々と同席する機会が多くなってきた。彼ら・彼女らは正義感と怒りをもって語る人々だということにあらためて気がつく。ところでその下に続くのが安倍と同時代の反動的な人々と、それから、自分が属するバブル世代後期の現在五十歳以下四十歳までの中途半端な人々だ。当時新人類と過大評価された現在五十歳前後の者たちは、二十歳上の運動に対して自分達の「普通」の感覚をなんの理由もなく擁護した。実は今日蔓延るネト右翼よりもずっと昔から、「普通」の語を連発し違和感ある他者を裁いていた。「普通」とは、伝達、つまり市場のために文化を生産することを自然なものとしてこれに迎合していく態度をいう。しかしほんとうにそれほど「普通」だったのか?3・11以降試行錯誤ながら二十歳下で異議申し立ての運動が立ち上がる中、そんな「普通」を主張していた「普通」の方がよほど異常だった事が日々バレバレになってきた。百年後の人々は、忘却された新人類を語るだろうが、1980年代の青春をきわめて「異常」と名指すことになるだろうとはまだ気がつかないほど、忘却された新人類は、管理の仕事に忙しく、無慈悲で野蛮な新型の洗濯機を、つまり人々を管理の権力にギューギューと詰め込む息苦しい社会をこしらえている



The big question is; what will be the direction of the citizens' revolt against the dictatorship of markets that instrumentalise governments?これを数式に翻訳する手品は、ホホー
e₁‚₂ =e₁Γ¹₁₂‚₁+ e₂ Γ²₁₂‚₂ +e₂ Γ³₁₂‚₃



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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年11月後半 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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