言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 12月 後半

<<   作成日時 : 2013/12/17 08:54   >>

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ホ〜、最近のドゥルーズ特集の見出しとして、「働かきすぎるな!」という言葉が目に飛び込んだが、そんなこと言ってたかな?と、目をこすってもう一度むると、ホホ〜、「動きすぎるな!」だった、という話を、自分は働き好きかもしれぬt心配している周辺の者からきいたニャるにゃ



新年明けの「歎異抄の近代」は吉本隆明論。それなりに興味深いが、「最後の親鸞」は自分の力では深められない。他力本願的に、子安先生と吉本ファンに委ねよう。まだ吉本を裁く'最後の審判'まで猶予時間があるので、最後まできちんと読んでいなかったヘーゲル精神現象学をこの機会に読んでおくニャリ

2014年まで
あと15分...
2013年になにを書き残しておくか?
やはりこれだろう。
石原による領土問題は、戦後日本において
なお植民地主義が継続していることを公然と示した。
領土問題は戦争によってしか解決されないことを学ぼうとしない。
これだけはいっておきたい。
ナショナリズムがもつ植民地主義の問題を解決するためには、
植民地主義を推進した靖国神社を中心とした国家神道に再び依拠することは絶対に不可能であるということを


お年賀のご挨拶

国をあげての危険な原発の輸出振興、自衛隊を地球の裏側へいかせる前段階としての秘密保護法強制採決、どこの国も喜ばない手前勝手な靖国公式参拝、と思い出すだけでも、2013年は本当に酷い年でありました。それならば、2014年こそはきっとよい年になります、などとは冗談ならともかく、お約束としても安易に書く気が起きませぬ。せいぜい最悪の年になりませんようにと心から願りますが、 正直それすら希望もなさそうです。願うその心も、凍りきっているとしたら...


好きな人に自分からアプローチする若者が何パーセントいるかということよりも、朝日新聞の二十代の意識調査は、ナチズムという言葉を全く聞いたこともないと言う二十代の者が何割いるかを調査して欲しいです。ナチズムの意味を知らぬまま、安倍を支持している人々は何割いるのか大変気になる所ですね。これと同時に、職場や社会の中心にいる四十代・五十代にたいして、それを知らぬ若い人々にナチズムを教えるつもりの人が何割いるか調べて数字を明らかにして下さい。四十代・五十代が学生だったとき上の世代から与えられたぐらいの戦争に関する知識を現在の若い人々にきちんと与えているかどうか、ここが大変重要ではないでしょうか



理念的なワイマール憲法から、ファシズムの身体が生まれたのは異常なこととして語られるのが常だが、しかし見方によっては、実は、ファシズムの身体というのはワイマール憲法の理念性からしか生まれなかったともいえる。理念と、(理念を否定する)身体は互いに近接している証拠ではないだろうか。たとえば、我考える故に我存在するの「我」は、自身が理念性と身体性から成るということだけを説いているのではない。それは、理念性の領域と身体性の領域が‘我'において互いに近接していることも明言しているのだ。

さて、「考えること」と、(虐殺に「加担」することと「抵抗」することとの間にある)「非加担」、この両者は、ハンナアーレントにおいて互いに切り離せない関係としてある。

これらは哲学的にいかに関係づけるか?

「非加担」とは、理念性・存在性・言葉の介入によって、靖国的の(非政治的な)社会身体の同一化していく構造(植民地主義と不即不離であるところの、神の痕跡を身体的記憶として辿る復古の 体制 )に依拠しないあり方をいう言葉として問われてくるのではないだろうか


「思考」と、(虐殺に「加担」することと「抵抗」することとの間にある)「非加担」、この両者は、ハンナアーレントにおいて互いに切り離せない関係としてある。これらは哲学的にいかに関係づけるか?我考える故に我存在すの「我」は、理念性と身体制から成る。ここから、神の存在の問題をとらえるとき、理念性は、祀るものの心的態度なり姿勢を合理主義的に考える、例えば伊藤仁斎の注釈学的な方向があり、また、祀られるものの原初のあり方を存在論的に解釈する荻生徂徠の方向がある。身体性は、専ら身体を介入させて、 祀るものにおいて神の痕跡を身体的記憶として辿る技を実践する方向を構成していく。

理念性からは、神の存在の問題を理念的に・存在論的に考える'我'が言葉とともに在ることを見渡せる。絶対の沈黙があるとしたらそれは完全な暴力によってしか得られぬ。こうして身体性の領域から現れるファシズムは理念性を破壊するのは、理念性を持たぬからではなくそれを無意味とみなしているからだ。

理念性の領域と身体性の領域は互いに近接している。(だから身体性の領域にあるファシズムは、近接している領域の理念性の説得を理解するから無意味とみなすのである。)「非加担」とは、理念性・存在性・言葉の介入によって再び身体の同一化していく構造に依拠しないあり方をいう言葉ではないだろうか



朝日新聞の二十代の意識調査は、好きな人を自分からアプローチする者が何パーセントかということよりも、コミュニズムとナチズム、スターリニズムという言葉を聞いたこともないと言う二十代の者が何割いるのか調査して欲しいものだ。ナチズムの意味を知らぬまま、安倍を支持している者は何割いるのか?

もはや外部が、即ち他としての外部がなくなった。次の戦略としては、内部のなかの、他としてある別の内部に依ることだ。と、これがポスト・ポスト構造主義の意味ではないか。日本ポスト構造主義の内面化だ。思想は、技術頼み、別の内部があるネットのご自愛へ行く?でもね、外部は消失しつくしたのか?


お蔭様で、昨夜の納会は大変愉快だった。感謝の気持ちで一杯だ。ただひとつ、やはり渡辺氏の挨拶を聞けなかったのは寂しかった。もう芝居の後に裏廊下で展開される、言葉の左翼的ボクシングも観劇できないんだな。田中氏は対戦相手の渡辺氏を失ってしまったしな。もともとこの二人は、左翼の教条主義的思い込みをただす使命をもつ。普遍主義が齎す思考の窒息とたたかった。そこでなんといってもかれらの武器は思考の柔軟性とアイロニー。右、左、右、左と軽快にパンチを繰り出していくうちに、時々は、あらら?このボクサーは右なのか左なのかなんだかよくわかんねえなという印象が生じることもなくはないのだが(苦笑)、これは至らない私の無知と勉強不足ゆえの浅はかな判断として言葉を慎むことにする。さて昨夜の納会では、その田中氏から、シシリー島にいたアルキメデスの興味深い話題がでた。驚くべきことに、ご十年前に訪ねた現存している古代の浴槽は、演劇が古代ギリシャ時代から継承されてきたことを記憶している場所なのだ。田中氏の憧憬と嫉妬と憎悪の対象である演劇とはなにか?新劇の60年の意味について、また俳優という崇高な使命について、壇上の田中氏は自らオリンポスの神々の彫像に変身し若い人々の前にあつく語っておられた。再び一万回の感謝



レヴィナスの顔の意義を分析したところで(講座'20世紀精神史')、 公家氏が「ぼくたちはなにをしていくことが大切なのですか?」と問うた時のことを思い出した。渡辺氏は、「君たちは、君たちが見たことを会った人々に語っていくことだね」ときっぱりと答えたことを思い出した。
なぜ渡辺氏が三十年間近く芝居を見続けてきたのだろうか、という答えもここにあるのかもしれない。
四年前へフラッシュバック。ブレヒト小屋で最初にお会いしたとき、(私が研究しているジョイスの思想的背景をご存知の上でと思うが)、18世紀イタリアの哲学者、ヴィーコの哲学について称えていた渡辺氏が目の前にいた。そのとき自分の考えをヴィーコが見事に語っているというようなことを言っていた。私が勝手に拾ったヴィーコの言葉(「学問の方法」)を引いておきたいが、ここで「詩人」を「演劇」と置きかえれば、渡辺氏の演劇への深い関心を理解するヒントになるかもしれないと思う次第である。
「詩人たちは真理の日常的な形相から離れて、よりいっそう卓越した像を作り出そうとするのである。また、不確実な自然(本性)を見捨てて、不変の自然(本性)を追及しようとする。いやむしろ、偽りごとにあくまでも執着することによって、それが何らかの仕方でよりいっそう真実を物語るものにしようとするのである」


高校時代に軍国主義青年から転向し共産党の山村運動にはいって「うんこ爆弾」をつくったが、これに失望して60年安保に関わらなかった学者から、敗戦後貧困にあった日本を助けようとしたスターリンは天皇に感謝したという話を聞かされた。靖国公式参拝を支持しているが、左か右なのかよく分からない


はっきり申し上げて甘いですね。ファシズムに「勝てる」かどうかが問題なのです。もしファシズムが勝てば、勢いを得た自公政権のもとで秘密保護法・共謀罪・憲法改正によって、もちろん語る民主主義はないし、実は戦前のことを考えてみただけでも選ぶ民主主義すら危機的になることを考えておかなければ



Q,靖国公式参拝はよかったという国はあるのでしょうか?

A,これは日本人の問題だとか日本人の反省の問題だから他国には関係がない事柄だという人がいます。はたしてそうでしょうか?考えてみましょう。たとえば、祀られている人々のなかにも、武力信仰からの脱却を願っていた人も相当に多く存在したのではないでしょうか?しかし靖国神社というのは、こういうデリケートな問題を一切無視してしまいます。はっきりさせておきましょう。設立の目的からいって、靖国神社はだれのために祀ることは決してありません。靖国神社は国体とのみ関わるのですから。つまり靖国神社は戦う国家にためにしか祀ることをしません。そして戦う国家がある以上、殺されてくる市民がかならず存在します。実際に総力戦によって多数の非軍人の市民が殺されました。だからこの歴史を一切無視して、靖国問題は日本人だけの問題であるとか日本人の心の問題であるとかで済まされることはありえないのです。こういってもいいでしょう。すなわち、靖国問題ははじめから徹底して、国際問題でしかありえません。



Q.靖国問題は、国際問題以前に日本人が決着をつけるべき問題でしょうか?

A. 靖国とは、近代の言説です。明治以降に発明された排他的な単一の起源について物語る言説です。乱暴にやや単純化しますと、'日本人'という、(後期水戸学派をとおして、「中国」に対する対抗概念として形成されてきた)観念も、近代に属する観念です。<日本人はどこから生まれてどこへ死んでいくのか?>この教えの'安心'によって、人々を政治的に支配してしまうおうとする、一見社会契約説の機能とも比較しうる政治神学の言説が、<祀る国家、戦う国家>という国体論として展開することになった、のです。こうして、靖国問題を解決するとは、同時に、近代国家の中にある'日本人'の問題を解決することを意味するだろうと考えています。そしてもし'日本人'をやめることができないとしたら、せめて、'日本人'という近代の観念に、破れ傘的に穴を開けていくような知的なたたかいができないかと(弱腰で)望んでいます。靖国問題は、「国際問題以前に日本人が決着をつけるべき問題」なのでしょうか?しかしこの問題に先行するのは、その日本人は誰なんだという問いなのです。わたしは靖国問題については誰もが発言する権利があると思う所以です。平和戦略は誰もが発言できるという意味もあります。最後に、'安心'どころか、二度の大戦と原爆の悲惨をもたらした近代国家のあり方を超える模索として、(ウエストファリアー体制ともいわれるようですが主権)国家を超えることも射程に入れた、「国際問題としてかありえない」のが、靖国問題である、これが私の理解です。

フクロウ猫、かく語りき

ホホ〜、「アルファビル」のナレーションみたいに( 知ってる、ゴダール映画の?)、年末この時期渋谷駅周辺で録音された聖書の言葉につきまとわれるニャリ。神といえば、誇り高き共産党。永遠の真理を独占する欲望に任せて、神様みたいな本物をふたたび候補者にしているとはね。もちろん彼は立派な候補者だ。しかし前回の立候補で十分だ。石原・猪瀬の鬼畜生に翻弄されてきた東京の愚者たちから、不確実性を取り除き不変なものを築くためにも、屈辱とはいえ、今回は仕方があるまい、票をとれる'本物'らしい'偶像をたてよ!野党との統一候補を!秘密保護法を突破し、共謀罪・憲法改正に向かう反民主主義者の破壊的突撃を今止めなければ


市民大学講座では手書きの原稿を読んで喋りました。言い間違えるのががいやだったのですね。大病を患った年は顔色が悪く、「お具合は大丈夫ですか?無理をなさらないで下さい」と、廊下で声をかけますと、「きみこそしっかりしろ!」と厳しく叱られました(すみません・笑)


誰が禅寺の僧侶になったか?貴族の次男三男が僧侶になったというから、かれらの現実逃避的超越性は、歴史的背景があったとみるべきだろう。かれらが好んだ顕著な偶然性や非シンメトリー性は、武士マッチョ主義的‘役に立つ'リアリズムへの対抗から一層強調される事になったにちがいない。時代は下るが、これと同様に、西田幾多郎がいう'無の場所'も、その理論のうちに、軍国主義的平準化に迎合したくないという反発としての基底をもっていたのは確かだろう。結局は西田の哲学は軍部に利用されてしまったが。ちなみに彼が散策したという'哲学の道'はこの南禅寺からはじまる

貴族の次男三男が禅寺の僧侶になったという。その現実逃避的超越性は歴史的背景があった。顕著な偶然性や非シンメトリー性は、武士マッチョ主義的リアリズムへの対抗から一層強調される事になったと思うな。同様に、西田の'無の場所'も、軍国主義的平準化に迎合せずの反発としての基底をもっていたか


なぜ相手が怒るのか?相手を指さすまえに自分の側にその理由がないかと問うことがなければ・・・。常に他人の被害には鈍感で、常に自分の被害に過敏なのは、ナショナリズムによって助長されていますね。周囲をみまわすと、小泉・安倍・石原のように、外国の地にあって立場が弱い沈黙を強いられがちな中国の人々にたいして、非常に失礼な態度で一方的にしゃべる人がどの年代にもいますね。「反日をどうおもうか?」「中国共産党をどう思ってるのか?」といきなり非難調べの質問。しかし日本人ばかりいる場所で、初対面の人にそのように重々しい話題をもちかけて失礼ではありませんか?と諭すと、失礼か失礼でないかは俺が決めることだとふんぞりかえっていますよ。東京には、こんな卑怯な、ちいさな小泉・安倍・石原どもがうじゃうじゃわいてきました


なるほど、確かにヒトラーの場合と比べると問題の所在がclearですね。原沢さんが示唆するようにデモの場合とおなじように、やはりこの問題の取り組みも、ドイツなどの外国から学べばいいとおもうのです。ドイツの戦後処理については知ってはいるのでしょうが、学び足りないようにおもいます。戦争責任を明確にして戦争を終了させたドイツと比べると、日本の場合は、(政府は戦争責任をとったといってますが)、結局昭和天皇の戦争責任を追及できず(死刑は反対ですが、少なくとも退位させるべきでした)、又ここが重要な点なのですが、'太平洋戦争'という言い方に現れる日本人の意識の問題がありますね。終わった戦争というのは、ただアメリカとの戦争を指すことで、中国とアジア諸国との戦争が入っていないのではないかと考えられます。第二次世界大戦は、まさに、日本が中国にたいして問題をおこしたところから始まったにもかかわらずです。イギリス等のヨーロッパからみると、安倍・石原と彼を支持する人々は、(残業し続けるサラリーマンに似て?)いつまでも降伏しない兵隊のつもりで振る舞っています。彼らは戦争は'終わっていない'と勝手に思い込んでいます。したがってこの意識があるかぎり、戦争を高揚する目的で明治になって初めて創られた軍艦のような靖国神社に首相が参拝する姿は、多くの生命を犠牲にする無用な戦争を避けて平和を望むどの人々から見ても、期待される望ましい姿というふうにはみえません。

書く人間は。西田幾多郎も。

「全世界の作家たちは、どんな人間であれ、マルキシスムに目を配りながら書いている」マルグリット・デュラス


「無の場所」は「思考」に、「一般概念」は「概念に基づく包摂の破壊衝動」に置き換えれば読めよう。「私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない。」(西田幾多郎)。あるいは、「一般概念」の意を、'国体概念に収斂していくしかない起源を語る言説'と解せば読める



大きな挫折を経てカムバックしてきた安倍は、空疎プラス野蛮に、(みとめたくないところですが、支持率を下げない狡猾な) 成熟をもつようになったと知るべきです。安倍の軍国主義を非難する海外のメディアからのコモンセンス(良識)に訴えたところで、ファシストのもとに届くかどうか?ここで繰り返し書いているように、ハーレントが指摘するとおり、ファシストというのは、コモンセンスを知らないからコモンセンスに耳を貸さないということではありません。ファシストはコモンセンスを知るゆえに、それを無意味とみなしてくるのです。なんであれ兎に角、そうして戦前がそのまま繰り返されるのではなく、戦前よりはずっと見えにくい、抵抗しにくい地球規模の管理体制がこの日本から起きてきていることだけはたしかです。ファシズムの'最終解決'は、考える人間の排除にあるとおもいます。結局安倍内閣の目標もここです。なんでもかんでも市場に委ねれば正解だと勝手に思い込んだ官僚もこの二十年間考えることをやめてしまいました。秘密保護法はマスコミをこれ以上沈黙させていけば、思考のための情報が奪われていく一方です。それに対しては、手遅れとおもわずに抗議の声を声高く、考える分析を呈示していくこと。靖国公式参拝は破壊衝動です。思考というのは、このような破壊衝動として囲い込まれることはないという意味です。

ソクラテスは、「知」をもつことよりも「無知」であることを選びました。これを受けて、ポストモダニズムは、理想のあまり教条的に行き過ぎた啓蒙の「知」に問題があったことを暴きました。特に多数の生命の犠牲をともなったユートピアの「知」の間違いは間違いとして反省していかなければならないでしょう。話はここで終わるわけではありません。実は、これと同じ理由から、多数の生命を奪った戦争の歴史にたいして「無知」ならばその態度も罪深いのです。ところが戦争中の靖国神社(<祀る国家、闘う国家>)の影響によってどれほど多数の命が奪われることになったかについて、「無知」なままの人々がいます。今日のテレビのニュースでは、安倍の靖国参拝を「個人の信念を貫いた」と称える人々もでてきました。こういう者たちは空気を読む人たち?同調圧力に負けてひたすら空気を読む人は、自ら、人間ゆえに人間としてのあり方を可能にする尊い人間性を想像することを安易にやめているかもしれません。忙しいことを口実に、面倒で役に立たない歴史の「知」を嘲笑い、これを毎日毎日ゴミ箱にうち捨てていないでしょうか?週に二回しかゴミを捨ててはならないというのに....


今日テレビのニュースをみた人からきいた話では、安倍の靖国参拝についてどう思うかという問いにたいして、四人中二人、ー40代と20代のサラリーマンーが平気で、「個人の信念を貫いて良かった」などと答えたという。なんて無知な...!理想のあまり教条的に行き過ぎた啓蒙の「知」は問題があるけれど、しかしかくのごとく人間は「無知」なままで済まされるのだろうか!?大きな憤りを覚える。

"The ugliest life is better than the nicest death." ~ Yiddish Proverb


マルグリット・デュラス ‏

「デュラスをヌーボーロマンの作家の枠にいれてしまうことは、彼女のテクストに映し出されている政治色を無視することになる」(par Yvonne Guers-Villate 'continuite disconitinuite de L'ouvre durasienne')



ニューヨークタイムズ紙は、
靖国神社を,
戦争神社War Shrineとはっきり呼んでいる。
彼らの方がよく分かっているー
つまり靖国神社がどんな目的を持っているかについて知っている
<祀る国家、闘う国家>を繰り返させるな!

ニューヨークタイムズ紙は、靖国神社を戦争神社War Shrineと呼んでいる。彼らの方が分かっている。<祀る国家、闘う国家>を繰り返させるな!Japanese Premier Visits Contentious War Shrine


今日テレビのニュースをみた人からきいた話では、安倍の靖国参拝についてどう思うかという問いにたいして、4人中2人、ー40代と20代のサラリーマンーが、「個人の信念を貫いて良かった」などと答えたという。教条的に行き過ぎた「知」は問題だが、このお馬鹿な二人の「無知」は罪を構成するものだ


私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない。(「左右田博士に答う」)

戦犯の遺伝子をもったこの男は、靖国で戦犯たちの追悼を本気でしたのではないか。中国や韓国の抗議は言い掛かりではない。東アジアの緊張の原因はこの男にあることを自ら証明したのだ。耐え忍んで和解の道を求めてきた相互の国民の努力を、この男は一気に水泡に帰さしめた。


ニューヨークタイムズ紙は、
靖国神社を,
戦争神社War Shrineとはっきり呼んでいる。
彼らの方がよく分かっているー
つまり靖国神社がどんな目的を持っているかについて知っている
<祀る国家、闘う国家>を繰り返させるな!


絶筆となった福永武彦についての原稿。それにしても、いくらなんでも、天台宗の坊様が弔う浄土真宗系の葬式場に、あの'フランスの誘惑'の渡辺氏がいるとは到底信じられません。(どなたかシャンソンを歌ってくだされ!) ところがですよ、え?まさか、告別式の終わりに棺を一緒に持ち上げとき、一瞬、「いやね、悪いね」ときこえたような気がします。と、このとき記憶に蘇ったのは、講義終了後に喫茶店の階段をさっと、誰よりも軽やかに上がっていた渡辺氏の後ろ姿でした。やっと身体から解き放たれた知性ですね、先生。人間の知性というものは、自由に天を駆け巡るのでしょうか。はっきりとは分かりませんが、少なくともこのわれわれがそれについて語り続けるかぎり'永遠'を超えて'永遠'に生きるのではないしょうか。今日ほど知性の永遠性について深く実感した日はありませんでした。


昨日興味深く観たアフガニスタンの芝居「修復不能」(朗読劇)は、後藤さんが素晴らしい翻訳を与えてくださいました。翻訳監修の、ヒンディ・ウルドゥー語の専門家でいらっしゃいます村山さんによりますと、歴史的には、沢山の国に囲まれたアフガニスタンは「廊下」のような場所だと教えていただきました。ところが、芝居のなかでは、「氷の中に」閉じ込められたように、身体的には互いに離れることができなくらい密着し合っているのに、人々の間にはコミュニケーションの「廊下」が失われてしまっているのですね。芝居は、真の'一体性'とはなにかを問うています。やはり日本の現実について考えず済ますことはできません。'いくら過去を忘れるなといっても正義がなければ意味がない'という言葉は、非常に重いことばです。まさしく、大日本帝国憲法に回帰する安倍自民党に向かって突きつけたい言葉だと思いました。

芝居はルソーを思い出させてくれました。私は専門家ではありませんけれど、やはりルソーはまず政治的・社会的な'一体性'の意義を訴えたのだと思います。それから、'我々は一つになるためには我々は等しく平等でなけれならぬ'というふうに考えたのではないでしょうか。だからといって、その'一体性'を民族主義と狭く解する必然性などありません。'一体性'とは、いま風にいえば、誰もが等しくアクセスできる公共空間のこと。公共空間の代表選手はことばです。ちなみにわたしがいたアイルランドは、19世紀にことばを奪われた国でした。言い換えると、公共空間を奪われた国です。さて、われわれが考えなければならない公共空間としては、等しく教育を受ける権利とか、公共放送のことがありますね。現在その教育を受ける権利も公共放送の経営も、政教分離を超える国家神道的権威主義と資本主義的市場万能主義によって、日々破壊されています。とくに強制採決された秘密保護法によって、「氷の中に」閉じ込められはじめたという思いです。演出家の公家さんは、できることなら、この芝居を福島に持っていきたいとおしゃっていました。



今日、東京芸術劇場アトリエウウエストで、公家義徳演出「修復不能」(アフガニスタン)のゲネプロを観劇。紛争地域から生まれた'わたし'に、誰にも似ていない誰かが近づいて来る。意味を意味で刻むポストコロニアリズムではなく、重大な事は対立する民族の秩序の背後にもう一つの秩序があるということをわれわれが知っていることだ。それは、正義と人間である。存在感のある小山萌子氏による朗読のパフーマンスが素晴らしかった。

よーわからんけど、神話だらけやな。統括してみると、戦後の出発から、安全神話と生産力神話は兄弟として手を取り合った。廃墟であったこの国を豊かにするというナショナルな合意をねつ造した、生産力神話は、体制側だけでなく、セクト左翼の根っこにある民族主義的枠組みに覆いかぶさっていたことは確かだ。結局ノンセクトの全共闘の人々も企業戦士に邁進したしね。その生産力神話も反公害と新人類(幻想)によって衰退したけれど、80年代に新しく台頭してきた消費神話とて、安全神話と歩んだことは同じだった。3.11によって安全神話は死に絶えるが、それ以降かわりに、戦争神話と新安全神話が兄弟の契りを交わすことになった(コワッ)

エンツェンスベルガー

「いいかな。数学は数学者のためだけにあるんじゃないんだ。自然だって、数がないとやっていけない。木や貝だって、計算することができるんだぞ」 『数の悪魔』

社会は、自分にとって耐えがたいポエジイの刃先をにぶらせ、存続するものと同じ標準で計れるものにし、かくて無害な存在にしてしまおうとして、独自のさまざまな制度をつくったのです。 「詩の成立について」

あらゆる変転をふくめてリベラルは、憲法を擁護せねばならぬと称しているが、かれらがあると称している神聖などは、聖なる牛のそれだ。リベラルが擁護するのは、妨害なく餓死する憲法の権利だ。 『メディア論のための積木箱』


ハンナ・アーレント ‏

人は攻撃されている帰属原理によってのみ抵抗しうる

(『暗い時代の人間性』)


英語をべらべらと喋る人をみると、バスガイドを思い出してこちらが恥ずかしい。しかしそのバスガイドのイメージも古臭い。現在のガイドは年配の客達の前でゆっくりと思慮深く喋っているからだ。と、言っているこの今、英語をべらべら喋る人のもとに有り難く集う学生の頭脳がバーべキューにされ焦げ焦げ



寸劇オペラ


こちらの読解力が足りなくて、酷く込み入っていると思われる文章でストップしてしまう。映画のなかで俳優がどう喋っていたか暫し考える。ジェスチャーとか、彼女の話を聞いている相手の顔つきとかを思い出す。と、気を取り直すと、読めたりすることもある。映画「ハンナアーレント」は役に立っている。

他国のと比べて、アイルランドの芸術家について言われることは、the ordinary peopleの語を頻繁に口にする点だ。政治学の知識人が使う意味とは同じ位相を持たず、民衆史の意味合いがある。この語から、どこから来たかどこへ行くのかという人々のオブセッションが勝手に読み解かれる

映画史が語る映画の「観客」も、民衆概念にほかならない

投射の概念と安心の政治。映画の観客は自らをスクリーンに向かって投射するーウエスタンのヒーローとか探偵にーどこから来たかどこへ行くかという民衆史的に構成された物語にー自らを投射しー安心を得るーその観客はどこから来たのかー知ろうとはせず安倍や小泉や石原に安心を見る大衆から来たのは確か

ホホ〜、自由民主党という名からして、自由とか民主主義の概念がなんとなく溶け合ってしまった、そうして結局誰が誰を代表しているか分からなくなった国にあっては、「安心」と「息苦しさ」しかありませんニャリ。内閣支持率は、前者が後者をどれほど上回るかを示す指標でしかないのです。そうでなければ、新しく現れた首相に毎回高支持率を与える恒例の'ご祝儀'なるものを説明できるものではないでしょう?安心すればするほどどんどん息苦しくなってくるこの惨めな現実は一体どうしたらいいのでしょうか?


子安宣邦 ‏@Nobukuni_Koyasu 12月16日

私が憲法的平和主義の積極化をいったのは、昨年の暮、総選挙を前にした大阪の靖国問題の集会でであった。東アジアの国際的緊張下で、憲法の改正と自衛隊の軍隊化をいう安倍自民党の国家戦略に、ただ憲法を守れというだけの消極的な平和主義では戦えないといった。

われわれは憲法の平和原則を積極化し、安倍自民党の軍事的大国化の国家戦略に、東アジアの新たな安全保障体制を含む平和主義的国家戦略を対置する形で戦わなければ戦えないといった。どちらの国家戦略を選ぶのかと国民に問う形で戦うべきであった。われわれの国家戦略を積極的平和主義と私はいった。

選挙の結果は安倍自民党の圧勝に終わった。アベノミックスによって国民的支持を維持しながら、やおら安倍はあの国家戦略にもとづく戦争もできる大国日本への道をだれにも明らかな形で進み出した。彼が進み出したこの道を〈積極的非英和主義〉と彼は呼んだ。われわれの平和主義は安倍に略取されたのだ。

安倍の積極的平和主義の僭称は、我々が平和主義的国家戦略をも立てえずに敗北していった結果である。だが特秘法の強行採決などによって安倍の本性が国民の前に露呈されている現在、彼の嘘の平和主義を奪い返し、我々の真正の積極的平和主義的国家戦略をもって戦いを組み直す時に来ているのではないか。





石原「マスター、今夜は、都民の税金でこしらえさせたこの御霊グラスに神の酒を注いで精気を出すんだ」
猪瀬「先生、維新バーの店長にしていただご恩は忘れません。磨きます。ペッペッ」
石原「汚い!唾で磨くな!御霊グラスはわれらの魂を映し出す鏡だぞ」
猪瀬「だからペッぺッ、腹黒くしてます」


来年は、「日本資本主義論争」にたいして、なにか新しいアプローチを試みたいとおもうのだが、大筋を書いておくとー
(疑問1)戦後原発推進の言説からは、戦前ファシズムの生産力に託した同種の過大な期待を読み取ることが可能か?(疑問2)自説ではあるが、マルクス主義講座派は生産力神話としたら、原発の安全神話に対して何か責任があったといえるのだろうか?例えば、'民衆とともにある原発'という社会的合意をみてとることができるのか (疑問3)アーレントがいうように社会進化論的な様相をもった、極端な労働神話に嵌め込まれたスターリン体制の究極的な到達点は、この日本の政財官マ一体構造の誤謬なき原発体制だったと考えてみることはできないか?そうならば日本型ファシズムの下部構造を形成していたといえるか?

講座派は生産力神話?原発推進の言説から、ファシズムの生産力に対する過大評価の痕跡が読み取れる? Productivity for your corporate employers will result in the expansion of the military state


詐欺でも五輪をひいてきた猪瀬だ。検察は簡単には逮捕できないんじゃないか、国際的体面を考えて。とにかくさっさと辞任してもらうしかない。これはこれとして、来年出てくるとされる「国民投票法」について勉強しこれを叩いておかなくてよいのだろうか?

現実は中々わからないことが多い。外国人を前に、自分の言動が'失礼'かどうかは、結局その相手がどう感じるかに依ることだろう。ここから、常に相手の立場を思う謙虚さがでてくるはずなのだが、しかしである...自分流の'失礼'の基準を勝手にこしらえてこれを'俺'に適用し"俺は失礼ではない"と勇ましく開き直る小さな石原たち。この彼らを街角で見る度に、隣国の友人との間に人間らしい関係をもつ能力があるのかと溜息が出る。またそういう者に限って、'失礼'なことを言うなとキレることが多いようだ。自分の被害には超敏感なくせに、自分が及ぼした他人の被害には恐ろしく鈍感でいるという、一方向に向かってひたすら陰険な、如何ともしがたいナショナリズムの重力を感じないわけではない

In a public opinion poll conducted by the Kyodo News Agency, 82 percent of respondents said that the law should be repealed or revised. But he has forced a vote. The state secrecy law will allow government to make secret anything that it finds politically inconvenient. The government of Prime Minister Shinzo Abe is going to suppres the fact about the radiation contamination in progress. Sure, it is not only our problem but yours.

危険な原発輸出、盗んできた五輪、特定秘密保護法、武器輸出緩和、と、どうしてこんな事態になっても安倍内閣の支持率はそれほど低くならないのか?結局、安心している人々が多いのだろう。安倍内閣によって安心させられている人が多いということだ。安心が息苦しさに勝っている。逆になっていかないと

Japan’s Dangerous Anachronism

The government of Prime Minister Shinzo Abe this month rammed through Parliament a state secrecy law that signals a fundamental alteration of the Japanese understanding of democracy. The law is vaguely worded and very broad, and it will allow government to make secret anything that it finds politically inconvenient. Government officials who leak secrets can be jailed for up to 10 years, and journalists who obtain information in an “inappropriate” manner or even seek information that they do not know is classified can be jailed for up to five years. The law covers national security issues, and it includes espionage and terrorism.

人類の共有財産を盗んでいませんか?商売の事情で、出版社が版権を持ちながらその外国の作家の本を再び出版しないままでいるのは?

意識の流れstream of consciousness を称える

「'我'考える、ゆえに、'我'存在する」cogito, ergo sum、と、デカルトはいいました。これはなにを意味しているでしょうか?コギトといわれる、この'我'に関しては、二つの性質からみることができます。理念性と身体性です。「'我'考える」は、私のありかたを根本から<考える>という意味の理念性です。一方、「'我'存在する」の方ですが、これは、コギトが自分について何で<ある>かを問うています。だからといって、この<ある>はコギトの身体そのものを表しているとはいえません。なぜ身体そのものではないのか、です。この点にかんして、デカルトは、<わたし>は<考える>ゆえに<ある>と言ってますから、結局、理念としての<ある>、理念としての<身体>、理念としての<存在>だけが問われれていることに注意しましょう。つまり、'我'が定位するのは他でもない理念です。そういう意味で、「'我'存在する」からみえてくるのは、感覚がとらえる身体そのものではなく、思考がとらえる身体性だけです。結局そうして、コギトの'我'が定位する、理念としての存在に、身体的持続としての記憶の一切が介入してくる余地はありません。これほど純粋な‘我'は、現代文学がとらえた純粋な'意識の流れ' stream of consciousnessぐらいしかんさいでしょう。たとえば、ジョイス「ユリシーズ」の登場人物のひとり、スティーブンが定位する理念としての存在に、定められた特定の身体的持続としての記憶は存在しません。それは、ブルームでありモーリーであり、海辺のさざ波、図書館の本、ノクトゥーンの杖、テレマコス、ふたたびスティーブン自身であったり...。つまり、これは、アルトーが見抜いたように、重大なことはこの世界の秩序の背後にもう一つの秩序があるということをわれわれが知っているということであります。



子安宣邦氏

祭如在、祭神如神在。子曰、吾不与祭、如不祭。

・ 祭ること在すが如し。神を祭ること神在すが如し。子の曰く、吾祭に与からざれば、祭らざるが如し。

・先祖を祭るに、先祖が前におられるようにして祭り、神々を祭るに、神々が前におられるようにして祭る。孔子がいわれた。私は祭りにみずから与ることをしなかったら、祭らないことと同じであると。

(評釈;子安氏) 仁斎はこの章を、祭祀における祭祀者の誠意という心的姿勢の問題としてとらえきろうとしている。これは本文の読み方を含めて朱子の理解によるものであるが、仁斎はそれをいっそう徹底させている。すなわち本章の問題を祭祀者の倫理的姿勢の問題へと徹底させている。それは「祭ること、在すが如し、神を祭ること、神在すが如し」とは、孔子の神に誠をもってこたえるあり方をいうとすることにはっきりと示されている。恐らく、「祭如在、祭神如神在」とは、古く祭祀の場における神の臨在をいうものであったのであろう。徂徠は「祭如在」を古語としている。現代の解釈者も多くはこれを古語とし、本章はこの古語「祭如在」を「祭神如神在」と し、そしてこの古語による孔子の言葉を挙げていると理解している。この立場から「祭如在、祭神如神在」はこう読まれることになる。「祭れば在すが如く、神を祭れば、神在すが如し」(簡野道明・論語解義)。これは祭りにおける神の臨在性を含み込んだ読み方である。それに対して、「祭ること、在すが如し。神を祭ること、神在すが如し」は、祭るものの心的態度なり姿勢を問題にする読み方である。


「国家が責任を取らないことをこれほど厚顔無恥にPRする施設は世界に類を見ない」は同意いたします。なににしても、靖国とは、近代の言説です。明治以降に発明された排他的な単一の起源について物語る言説です。乱暴にやや単純化しますと、'日本人'という、(後期水戸学派をとおして、「中国」に対する対抗概念として形成されてきた)観念も、近代に属する観念です。(<日本人はどこから生まれてどこへ死んでいくのか?この教えの'安心'によって、人々を政治的に支配してしまうおうとする、一見社会契約説の機能とも比較しうる政治神学の言説が、<祀る国家、戦う国家>という国体論として展開することになった、と理解しております。) ですから、靖国問題を解決するとは、同時に、近代国家の中にある'日本人'の問題を解決することを意味するだろうと私は考えています。そしてもし'日本人'をやめることができないとしたら、せめて、'日本人'という近代の観念に、破れ傘的に穴を開けていくような知的なたたかいができないかと望んでいます。「国際問題以前に日本人が決着をつけるべき問題」にかんしては、半分は賛成です。半分は、その日本人は誰なんだという疑問です。だからこそ、靖国問題については誰もが発言する権利があるとおもいます。その意味で、二度の大戦と原爆をもたらした近代国家のあり方を超える模索として、(ウエストファリアー体制ともいわれるようですが主権)国家を超えることも射程に入れた、「国際問題としてかありえない」のが、靖国問題である、これが私の理解です- まだ模索中ですが

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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 12月 後半 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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