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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 12月

<<   作成日時 : 2013/12/05 05:48   >>

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我に関しては二つの性質がある。「我考える」は理念性であり、「我存在する」は身体性である。「我考えるー故にー我存在する」という文ならば、「存在」も理念性としてとらえている。我は道徳性や心性に関わる。我が定位する理念としての存在に、身体的持続としての記憶の一切が介入してくる余地はない
意識の流れは一人称から流れるとはかぎらない。スティーブンが定位する、理念としての存在に、身体的持続としての記憶の一切が介入してくる余地はない。それは、ブルームでありモーリーであり、海辺のさざ波、図書館の本、ノクトゥーンの杖、テレマコス、ふたたびスティーブン自身であったり...。

われに関しては、二つの性質をもつ。「われ考える」は、理念性であり、他方「われ存在する」は身体性である。ここで、「われ考えるーゆえにー存在する」というときは、「存在する」を理念性としてとらえている。思考としての存在に、身体的持続が介入する余地がない。われは道徳性や心性のみにかかわる


三木清へのオマージュ

真の世界思想を獲得するために、徹底して死を観念化せよと、
かれはいった。しかしたとえばどういうことなのか?
もし死を観念の領域に写像できるというならば、
死の原因となる窒息も観念の領域に写像できるのだろうか?
保守主義ならば、言論活動から離れ、その代わり国民を罰する国民道徳に嵌ることで自ら窒息する。左翼の場合は、異議申し立ての現場から離れ、その代わり全体の観念として民衆を称える民衆史によって自ら窒息してしまう。もっぱら身体的記憶のみにとらわれた死者は、自らの死の腐臭にすら気がつかないくらい観念の息が無いか、あるいは、空気がない寂寞とした宇宙の真空に漂うのだろう。銀河鉄道でもよみがえらせることはできない

死を観念化するとはどういうことだろうか?死を観念の領域に写像できるならば、死の原因となる窒息も観念の領域に写像できるに相違ない。言論活動を重んじる保守主義は国民道徳に嵌ることで窒息する。異議申し立ての現場に依る左翼は民衆史によって窒息してしまう。共に窒息死しているのに気がつかない

・昭和天皇の死の年、ベルリン壁の崩壊の年、1989年は、新橋で公害企業を相手にした座り込みに飛び込んだ(3か月)。和解をいう社会党の仲介で撤退を迫られたとき、反公害の市民運動側はこれまでの活動を総括する必要があった。運動の継承を非常に困難にさせた理由に、'同じことはできない'という事情とは別に、民衆史の視点で整理したことがあったとおもう。
・民衆史の語りとはなにか?それは、作者自身による事後的な再語りという性質をもつ。つまり作者自身による事後的な再語りとは、初回の作業がもつ冒険と躊躇の間の揺れ動き、発見の喜びと錯誤の恐れを全て平坦に均してしまった再語りである。同様に、民衆史の語りは、東国常陸の農民であれ公害地の被害者であれ他者から拒絶されるコミュニケーションの不可能性を民衆という言葉で隠蔽してしまう。
・思想史の地層を掘り返していけば、鈴木大拙の<農民の中の親鸞>像は、大地性に根ざす<世界ー内ー存在>のヴァリエーションであった。ここから、マルクス主義講座派は<民衆とともにある親鸞>、<他者とともにある存在>を物語っていくのであるが、戦後遅れて登場した野田宏の民衆史はこの講座派に依る。対抗的に、'あるがまま'の大衆の原像を対置したのが吉本隆明であった。これが子安宣邦氏の思想史の地図である。
・<農民の中の親鸞>像、大地性に根ざす<世界ー内ー存在>であれ、講座派の歴史イデオロギーを反映させた<民衆と共にある親鸞>、<他者と共にある存在>であれ、野田の<民衆の親鸞>とその対抗概念である吉本の<大衆の親鸞>も、ナショナリズムに絡み取られる内部の語りという点で大きな違いはないということだろう

死を観念としてとらえること。この国の哲学者は観念としてとらえないから真に世界に通じる哲学になりえない、と三木清が言った。ところが観念ではなく、社会的な身体的記憶として死をとらえるから過去を持続させてしまう。この意味で戦後憲法は天皇を象徴化というよりは観念として構成したとみるべきだ

近代の眼差しで社会的身体的記憶として死をとらえる構造主義のパラノイアは、共同体の基底に「女の交換」を想定して、近親相姦の禁止を解釈した。一方「アンチオィデプス」のスキゾ的注釈は、死を分裂化(観念化)する。絶対主義王制家族にある、近親相姦の禁止を破る過去を断ち切る欲望を対置していく

ホ〜、最悪の強行採決後もまだ47%も支持しているとは ?来年は、「絶対的平和主義」の擁護者でオワシマス、安倍晋三くんがなんと平和憲法の父としてマスコミによって一斉に称えられる年になるかもしれませんですぞ。そのときはね、はーい、どうぞ、メイドから、「国民投票法」がご祝儀でーす。などと、冗談もいえないくらい息苦しくニャイですか、あなた?


(原発に)批判、反対すると白い眼で見られる、村八分になる、取引先を失う、お客が来なくなる、店がつぶれる、クビになる、とどのつまり自由がなくなる。自由の根本は批判、反対の自由―それがなくなれば、自由はない。自由がなければ、民主主義の政治はない「若狭のアテナイとしての小浜」2005 小田実



多様性を称える

カナダ英語やオーストラリア英語、インド英語とマレーシア英語のことも考えると、英語ほど多様な音声と文法をもった言語はありません。その分かりやすい証拠としてお話したいのは、イギリス人とアイルランド人がアメリカ人が喋る英語を理解するのに早くとも三か月かかるという事実です。つまり同じ音、同じ文法ではないからです。アメリカ人もイギリスの英語を理解するのに相当時間がかかるようです。半年とかね。ちなみに、私がいたアイルランドでイギリス英語を喋ると命がなくなるか、事実上島流しに等しいことになります(冗談)。ところでこの国の教育では、英語はほぼ100%%アメリカ英語のことを指すのですが、これは決めつけです。私がいたアイルランドでいうと、現地の小学生よりもずば抜けて成績がいい小学生をみると、例外なく、自分の考えを説明できるほどの英語力をもつのですが、ところが帰国してもの酷い英語嫌いになり英語の成績が最低となるというケースが多々あります。かえって受け入れた学校が評判をあげるために盲目的に?英語の幼児教育に取り組むために、殆どネィティヴといってもいい帰国してきた子供たちは、アメリカ英語しか知らない先生たちから発音を徹底的に直されてしまうことが起きるからです。なにいってもいちいち間違っていると注意されてしまうようでしたら、だれも英語嫌いになります。この話は、現在の政治状況と重なります。それなりの理由もあって自分に都合がいいだけの常識が、いつのまにか、反証も許さぬほどの、他者を従わせる、例の「普通」「一般」の形容詞を連れ伴って闊歩する常識になってしまっていないでしょうか?

世界の亀裂は修復可能か?

そのイギリス人はアフリカの少年時代に古典ギリシャ語でプラトンを読んだときに得た幸せについて語った後、社会を運河の設計として喩えました。どんな人が外から来るか心配とて最初から他者への信頼を欠いては運河は働かぬといいます。オールドルべラルのAC Graylingさんです。(AC Graylingさんは当時、新右翼の論客と激しい論争を新聞で展開していました。私は彼の講演をロンドンのユダヤ文化センターでききました。) かれは、最初から他者への信頼を欠いては運河としての社会は設計できぬと強調しました。結局努力して読めぬ外国語の本がないように、亀裂し続けるだけの世界も存在しません。私はこれを、運河の外国語的リベラリズムと呼びたいと思います。さてこの運河の外国語的リベラルのモデルとして、アムステルダムをあげたいです。ただし注意を要するのは、アルファベットだけが、外国語ではないということ。私が思うに、江戸時代からの漢字テクストも外国語の本です。そして繰り返すと、注釈を利用すれば読めぬ外国語の本はないように、寛容の精神があれば和解できぬような世界も他者も存在しないということです。これに対して、別のモデルがあります。山河の母国語的保守主義です。これは閉じた予定調和の仲間に根づきます。このモデルとして私があげたいのは、アイルランドの固有名詞しか出てこないジョイスのダブリンです。やはり注意したいところは、作家の風景スケッチの大半が他の国の都市トリエステに依拠していた事実です。ここから、'われわれ'の山河に先行しているのは他の山と他の河ということですね。故郷に起源がないように、仲間は抽象的人格をつくりません。国民道徳の奴隷ではありません。最後に、世界の亀裂は修復可能か?という最初の問いです。答えは、やはりあなた次第です。そして、開かれた、運河の外国語的リベラリズムと山河の母国語的保守主義がふくろうと猫との間の<間柄>の関係の如く調和し合えば、なにかあなたに協力することがあるはずです。


近代からの目線が入るとはいえ、親鸞であれ仁斎であれ、かれらの思想が、権威に定位する知識人批判の言葉を持つことはたしかです。ところで、吉本隆明にとっては、承認しがたいが離れることも許されぬ絶対の真理とは、マルクス主義の真理のことです。吉本は、真理(=マルクス主義)批判のあり方として、知識人批判という切り口をとりました。最終解決として!、真理(=マルクス主義)を捨て去る「非知」に至る必然性を言いたいのであれば、吉本は自らどこから「最後の親鸞」を書いたのか今一度考えてみるべきでした。「知」から書けないものを「知」から書いたとは言えませんし、かといって、なにもかも差異がない、ゼロそのものである「非知」から書いたと言ったらおかしな話です。したがって、「非知」に属さぬが、「知」に絡みとられることもなく、「知」の内部にあらずともその近傍から書いた、というところでしょう。しかしいったいこんな風に、吉本の問題提起に沿って親鸞と「歎異抄」のことを考えてみても、一向に、肝心の「信」の問題とは出会えません。私の読み間違え?あるいは、単純に、このことは、実ははじめから吉本が宗教について書こうとは思っていなかった証拠ではないかと疑ってしまうのですね。

記号論を称える

記号と記号内容との関連が失われてしまった。記号と記号とをとり代えるにすぎぬ遊びごとが、増えている。遊びそれ自体として、又遊びのための遊びとして増えてきている。そして複雑さが増し加わるにつれて、記号論が現れたのである。さて現在国会議事堂の内側に展開する遊びを、記号論的に読み解くとなにがみえてくるかである?「絶対的平和主義」の似非護憲的外観は、集団安全保障の違憲性を変える事はない。が、嘘でも、安倍自民党が自ら集団安全保障の違憲性を捨て去ることは、その対抗としてあった、保守リベラル政治家のアイデンティティをその「普通の国」の「国連軍」の言説と一緒に、消滅させてしまう効果をもつのではあるまいか?もし幽霊船があらわれるとしたら、それは保守リベラルの幽霊船であろう。幽霊船は極右翼と右翼と新右翼のもとには流れてはいかず、結局言葉を大切にする左側の領域に舵をとっていくかもしれない。しかし問題は、慣性的にいつまでも右も左もなく、決してそれほど左側の方に委ねようとはしない海に打ち捨てられた中流、中産階級の大きな塊である。夢の中に、遊びの中に漂うように空ろで曖昧なアイデンティティーは、一体だれが救うかである。再びファシズムに拾われていく未来しかないのか?否、手遅れにならないように、なんとしても、再び戦争という最悪の夢、最悪の遊びだけは避けなければ...


「絶対的平和主義」の似非護憲的外観は、集団安全保障の違憲性を変える事はない。が、嘘でも、安倍自民党が自ら集団安全保障の違憲性を捨て去ることは、その対抗としてあった、保守リベラル政治家のアイデンティティをその「普通の国」の「国連軍」の言説と一緒に、消滅させてしまう効果をもつのでは?

極右翼の政治家の前で沈黙する
この国の保守リベラルのアイデンティティー喪失について

核物理学であれ、ネオリべの精緻な経済学であれ、科学者が行く世界とは、言論の役割が小さい世界、数学と実験の言語が中心となる世界である。それ以上のことでもそれ以下のことでもない。ところで思想は、かくの如く言論が介入しない世界にそれほど当たり前に依拠することはできない。'エネルギー (E) = 質量 (m) × 光速度 (c) の 2 乗' は、討論の場で科学者の間の検証されるべき真実と彼らの規律をもった専門的な取り組みに関わることであって、言論の世界に生きる思想の活動とは直接には関係がないからである。それにも関わらず、もし思想が、物理世界に属する'真実性'を見出すと、この国の保守リベラルの大多数みたいに、原発問題についてもグローバリズムの経済政策についても、科学者の身振りで中立的に沈黙するしかなくなるだろう。彼らがなんと言おうと、3・11以降保守思想は国民道徳に堕した観がある。外国では保守リベラルの知識人は極右翼に対して容赦のない抗議の言論を展開する。言葉で説得できるかどうかは別の問題だ。この国にも極右翼が台頭しているのに、この国の保守リベラルは、肝心なときに沈黙してしまう。それが極右翼の政治家を助けている。他人のかわりにつまり国民道徳のかわりに語っていても、それは真に語ることに値するのだろうか?大いに疑問だ.
私の勘違いであることを望むが、保守リベラルこそがもっと敏感にならなければならぬ、冒涜されている誠実の問題をみないままでいるようだ


'異議申し立て'の運動を称える

私は国民道徳とは器用にそう簡単に仲良くなれない人間ですから、内閣支持率というものがテクノロジーの時代の計量化された<道徳>としてしかみえないんですね。この点からいっても、運動する主体の側は、「良い悪い」と必要を超えて言ってしまいがちな道徳的な党派的マッチョリズムに絡み取られずに、自己の限界を乗り越えて欲しいと期待します。ところでフーコが指摘している通り、古代ギリシャの所謂「自由人」は自己抑制によって「他人」を支配する技術がありました。この技術はあくまで技術であって、道徳とは別ものというのがポイントです。現実にはやはり難しいことにかわりありませんが、抗議していく運動の主体は、'内ゲバ'に内部化していかぬ自己抑制の諸技術によって、もっと自己の活動に言論を介入させることができるのではないかと考えます。インターネットも利用して、国際報道も利用して。危機感をもつ良心あるジャーナリストも周りにいます。運動の現場だからこそみえてくるものが沢山あるでしょう?その新しくみえてくる問題の所在を、誰も言わなかった切り口でどんどん発言していくところに、運動の原点があったし、あるんだろうと思うのです。原発問題から秘密保護法(知る権利の封殺)までこの国の事態が非常に深刻なので、本当に解決したければもはや選択の余地もないほどに、抗議活動を孤立化させてしまうことは不可能ですから、かならずや国の良い面を受け入れて生かす解決に向かっていくのではないかとおもいます。そして時間の問題があります。間に合うかどうかもまた考えなければならない中心的問題として定めなければなりません。集団安全保障によって外部から戦争を輸入してしまったら、本当に生命に関わる大切なことが間に合わなくなります

共謀罪の「共謀」とはなにかと問うたところで、答えは、二人以上の者が謀議して悪事を行うこと、ときます。しかしその'謀議'は初めから共謀の意味ですから、これでは、お粗末な単なる同義反復。犯罪のカタログ(殺人、暴行、窃盗、収賄等)のなかで、この共謀罪だけは、定義を与えてしまうと成り立たなくなってしまう唯一の「罪」です。正確に言えば、これは、(罪刑法定主義が要請する構成要件的)定型性が全然ないので、「罪」と呼べる実体をもっていませんよ。お化けと申し上げましょうか?たしかに共謀罪そのものが凶暴であることはそれほど間違いではありませんね。はっきり申し上げると、

共謀罪そのものが、

罪刑法定主義を破壊するという罪を構成します!



共謀罪そのものが、
罪刑法定主義に対する罪を構成します!


明治の天皇は、ドイツの皇帝をモデルにはしていますが、それだけではありません。宣長の「神」概念からの影響を受けた水戸学派の所謂<祀る>天皇観も大切です。その水戸学派(後期)は儒学的言語に支えられていました。そういうことを考えると、明治から成立した天皇制は、近世における儒学的背景をもった、近代の亜種とも考えられます。実際に、天皇の終戦演説原稿は、ナショナルなつまり右翼的な漢籍的儒学者たちが書いています。


ネオリベの"貴族"たちによる
公共空間の私物化の例

昨日は、南麻布で、安倍総理と、JR東海の葛西氏と、富士フィルムの古森氏の3人が話し合った。NHKの次期会長の人事についてだ。ふたたび、安倍総理のお友だちが会長になるのか。安倍の「私物化はすでに始まっている。大変な事態だと思う」


憲法押しつけ論の岸信介は少なくとも憲法改正の後に国家を変えたかったと思うけれど、孫の方は、憲法を改正せず国家を変えようとしているではないか。欺瞞的に、絶対平和主義すら説いて、自衛隊を地球の裏側に行かせようとしている。違憲に選出された国会で違憲的な秘密保護法を違憲的な強制採決で通した、この安倍晋三に、憲法を守れという良識がどこまで通じるかだね。「私が誰よりも一番憲法を守っています!」と真顔で平気で言いそうでしょう、この人は?非常に厄介なことになってきた。われわれの前で、'解釈改憲'よりももっと悪質な腐敗が起きようとしている。

大学に入ったとき最初に読んだ本は、ルターの「キリスト者の自由」、マックス・ウエーバ「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、マルクス「ドイツ・イデオロギー」、そして奥平康弘氏が情報公開法について書いた新書本でした。氏は、自分自身の情報をコントロールする権利という切り口で、知る権利のあり方を論じました。学生のときは、当然に、将来どんどんこの方向に向かって情報公開が進んでいくと思っていましたが、いま思うと、この認識は大変甘いものでした。当時読んだ西ドイツの高校の副読本の翻訳、「反原発」のなかでは、情報公開は原発体制の下では制限されてしまう事実をちゃんと指摘していたものです。特定秘密保護法によって、市民が自ら市民として成り立つ条件を奪われてはなりません。下に奥平氏のインタビュー記事を投稿しましたから、是非ご一読を

反対の声が歯止めになるー憲法研究者・奥平康弘 (1)

世論の強い反対を退け、1952年に成立した破壊活動防止法(破防法)の本来の狙いは団体規制でした。しかしこの規制は一度も適用されていません。オウム真理教に対して破防法に基づく解釈の指定が請求されましたが、97年に棄却されました。暴力主義的破壊活動をした団体が将来も同じような活動を行う明らかな恐れがある場合、解散指定されると活動できなくなります。冷戦を背景に当局が念頭に置いていた団体は日本共産党でした。当時、戦前の特高警察が再現されるのではと危険を感じた労働組合や学術団体、野党が強く反対しました。学生だった私もデモに参加しました。結果、国会では原案が修正され法律を適用する条件が厳しくなり、施行後も当局への歯止めになったのです。特定秘密保護法への反対の動きは政治史に残るでしょう。85年に国家秘密保護法が廃案になった時も、反対の広がりはこれほどではありませんでした。市民の自由の幅をできるだけ守るべきだという意識の表れだと思います。戦前への回帰の恐れというより、官僚の秘密主義が今も残っていることへの危機感が強いからだと見ています。今回の反対の声も法律乱用の歯止めになると思います。同時に監視していくことが必要です。公務員や記者らが秘密漏えい罪に問われたとき、知る権利を保障する憲法21条に反するとして司法の場で論陣を張れるはずです。(12月11日朝日新聞’どうする秘密法'、奥平康弘)



こんな話があります。ナチスの時代に、毛が茶色以外の犬猫を飼うことを禁じた法律ができ、ある男がペットを処分しました。法を批判した新聞は廃刊になります。茶色が支配する世になるが、男はごたごたはご免だから、おとなしくして茶色の猫を飼い始めるのです。しかし、法は拡大解釈されて以前に茶色以外の猫を飼っていた人も「国家反逆罪」になります。と、男はある朝、ドアをたたかれて…。 茶色はナチスが当初、制服に使った茶色にちなむのです。
ところで秘密保護法に関して、露骨に口には出しませんけれど、'悪いことしていなければ心配する必要もなく騒いでも仕方がない'という人びとが周りにいます。そういう者に限って、自分には疑う力があるし、外の世界も知っているだけでなくまあまあの教育もそれなりの良識も持っていると自信があります。こういう人びとは、ごたごたはご免だからおとなしくして茶色の猫を飼い始めた男にほかなりません。この男は、あなたのことでありわたしのことです。
さてナチスのおかげで生きていられるみたいな調子で、茶色の犬をつくったのはナチスだという馬鹿げた神話がどうして可能なのでしょうか?これに対して良識からの疑いの声が大きくなってきて抑えがきかなくなると判断した、ナチスは茶色の犬そのものを破壊しつくすことを躊躇しないのです。良識を徹底的に無意味とみなす、ファシズムには良識が通じません。それは良識がないのではなく、良識を持っているからそれが通じないのです。アーレントが「全体主義の起源」のなかではっきりと強調していた点です。それにしても、いくらなんでも同様なことがこの21世紀の日本で起きるはずもないといわれるでしょう。私もそう望みます。しかし、ファシズムは、集団的安全保障を推進しながら、平和憲法を発明したのは安倍自民党なのだといいかねません。現実に安倍は絶対的平和主義を言い始めています。経済の回復など全然実現していないのに、安倍内閣は5割近い支持率を維持しています。いかにも安倍さんに頼るしかないとばかり・・・。このファシズムとどう闘うか、です。


カントを称える

カント的には、認識能力とは、概念を包摂する能力です。例えば、「普通である」「普通でない」という属性の判断のことですね。一方、感情能力は、その認識だけに委ねては中立化してしまう多様性を留保する能力といえるでしょうか。感情能力とは、未定義の余白を残せ、という方向に喜びを見出す判断能力ですね。そしてお分かりのとおり、きっと大切なのは、この両者の間の平等な協力関係でしょう。さて、いくら認識能力が感情能力の方に向かって「仲よくしようぜ」と呼びかけたとしても、もし無理に同化を強いるのであれば、結局、多様性の領域を国土として包摂してしまおうとする植民地主義でしかありません。欺瞞的にも、「正当防衛」とか言われる場合があるのですけれど。政治家から国民まで「普通」を無条件に合唱する危険な暴力性は、ここに存します。総体としての「普通」の普通性は、「愛国心」を意味する普通性に限りなく近づいていくことに注意しましょう。そして哲学者のバートランド・ラッセルがズバリ見抜いたように、「愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ」、ですね。


なぜ、秘密保護法に反対しなければならなかったのか?
今後もなぜ反対し続けることが大事なのか?

自発性を伴っているとはいえ、脱原発・反原発を語る言葉は、正直努力不足もあり、真に多様性には至っているとは到底言い難いことも謙虚に反省すべき事実ではあります。しかし誰も原発問題を知っている人がいないこともまた事実。原発問題は、すでに「コントロールされている」のではないし、おなじことですが、まだ解決されていない未知の問題です。今回強行採決された秘密保護法に対して私が懸念するのは、人びとが未知の問題を間違うかもしれないがそれを語る権利を放棄してしまう、そんな自己規制が起きかねないということです。現在私が注目しているのは、訴えてきた人びとの中からまだ少数ですが、秘密法保護法反対を言う為に国会前に集まったこと。自分たちの立場と能力に即して「安全神話」批判を中心とした展開したこの異議申し立ての運動ですが、この運動が、引き続き言論のあり方を、しかし今度は遥かに広い射程から根本からふたたび問い始めたことを意味します。

言論を称える

科学者としての科学者という政治的判断については疑われることが非常に稀です。一般的に申し上げると、科学者というのは、言論が殆ど重要とはならない世界へ行きます、つまりその世界は数学の言語とか実験と合理的推論が全部を決める世界です。これはそれ以上のことでもそれ以下のこととして受けとめなければなりません。ところで、言論に定位する知識人たちにとっては、真実を測るのは、他でもない言論それ自身の存在です。言論とは直接、数学や実験を意味しません。歴史は、この言論がなければ生きるに値しないほどこれに依拠するあり方が17世紀以来の知識人が知識人であることのゆえんを示してきました。この国の知識人もこの例外ではありえないはず。が、中には信じられないほど傲慢で惰性的な態度で、言論が重要とはならない世界('科学者としての科学者'の世界)に'真実性'をみる人びとがまだ少なからずいます。健全な懐疑精神すら自分たちだけにもっているとすら自負しています。さて、このかれらは、言論が介入していないことを言いたくて、街頭での抗議による「命」の重さを訴え続ける主張に対してとあざ笑いお手上げだと自らの反感を示します。が、このようなことがなぜできるのでしょうか?正直考えさせられます。残念ながら、こういうことに最も敏感であるはずの保守リベラルですら、都合がいい二重基準ですね。思想の自立性とは徹底して、語る言論の存在に依る以外は不可能だったのではないでしょうか?最後に、自発性を伴っているとはいえ、脱原発・反原発を語る言葉は正直努力不足もあり、真に多様性には至っているとは到底言い難いことも反省すべき事実ではあります。しかし誰も原発問題を知っている人がいないこともまた事実です。それは、すでに「コントロールされている」のではなく、まだ解決されていない未知の問題なのです。私が注目しているのは、訴えてきた人びとの中からまだ少数ですが、秘密法反対を言う為に国会前に集まったこと。自分たちの立場と能力に即して「安全神話」批判を中心とした展開したこの運動が、引き続き言論のあり方を、しかし今度は遥かに広い射程から根本からふたたび問い始めたことを意味します。





「万人が認めざるをえない」といった言葉にはかならず虚偽かスローガンかつづくということを、私たちは熟知しているのです。68年を経過した後でも、たとえば監獄をとりあげたテレビ番組であらゆる人の話を聞く、判事、看守、面会に来た女性、一般人など、あらゆる人に話してもらうというのに、肝心の囚人や監獄生活の経験者にはしゃべらせないというのは、ごくふつうにおこなわれたところです。さすがにそんなこともやりにくくなりましたがs、それは68年によって獲得された、人びとが自分のために語るという態度のおかげなのです。これは知識人にも当てはまる、フーコはこう述べています。知識人は普遍的であることをやめ、特殊になった、つまり普遍的価値の名において語るのでなはなく、みずからの能力と立場に応じて語るようになったのだ、とね(フーコによると、この変化は物理学者たちが原爆反対に立ち上がったところに端を発しているとのことです) ードゥルーズ


映画は反表象という現代アートの流れから取り残された?映画を擁護する者は自ずと、作家の個的な特異性を擁護する口調。保守リベラルの口調と表面上類似あり。が、ヌーヴェルバーグ以降の映画はメタファーには依らぬ。人間は、デュシャン「噴水」の前に立つ場合のように、映像と音とスクリーンと関わる

ふくろう猫三分間憲法話 ー 違憲司法審査権は'法解釈の法解釈' ?

全ての記述はその体系の中において正しい。と、法解釈はそういう体系だとおもうんですね。法解釈が正しいのは、社会がそれを内側に持ってるからだとおもいます。(そうかんがえてみるのです。)
ところで社会は、自身と法解釈との<間>に、法解釈の法解釈をもちます。<間>という位置が大切です。さて法解釈が常に正しいのに対して、法解釈の法解釈が正しいとも正しくないとも言えるのは、なぜでしょうか?答えは・・・わかりません(御免チャイ)。
ただ、それは、内部の空間に位置しながら、無限に遠い外から与えられたこの外部性の外部性に依ることではないでしょうか。
人間の場合にあてはめますと、法解釈が「心」に対応します。一方法解釈の法解釈は「言語」に対応するといいたいところですが、そう単純なことではありません。
違憲司法審査権はそういうメタ解釈としてよりは、言語として理解すべきではないかなあーっと。(ほー、結局ここまでひっぱてきて、わかんないとはいえんニャリ)


ガンガンと中国や韓国との緊張が高まっているいま、
ラクラク国民の不安を利用することによって、
スイスイと「国民投票法」を強行採決し、
ホイホイと「憲法改正」の国民投票を行う。
ヒソヒソと地球の裏側に自衛隊がいく。

ケインズを称える

戦後体制としてケインズが元々構想していたのは、一国の貿易黒字・赤字のエゴを禁じこれを罰しようとした強力な国際管理システムであった。ケインズにとっては、世界貨幣を、特定の国家が独占するエゴもあり得ない話であった。国家を超えた共存のためのこれほどの生存戦略は、もし倫理学の平面に投射すれば、(アリストレス以来の)ethicsの普遍主義が現れるであろう。もしアメリカ政府はこのラディカルなケインズ案を受け入れていれば、貿易黒字の日本のエゴも、貿易赤字のアメリカのエゴも罰せられていたはずだ。さて、自分たちだけが国家のあり方を知っている自信たっぷりの、この国の保守リベラリズムの思考は、自らの思考を、破綻した一国ケインズ主義のエゴと、一億総責任と非難したかつての一国道徳(国民道徳)のエゴに盲目的に従属してしまおうとするのは、やはりなぜなのかと大きな疑問をもつ。こと経済に関しては、再び、ケインズ主義が露呈させた国家のエゴに帰るのは無理だし、そもそも政策決定の中心にいる貴族たちは自分たちの利益に反するこの種の異議申し立てを一言も聞くまい。かといって、このままネオリベが推進する市場のエゴに委ねることも、99%の目からみて不可能となった。アベノミックスは覆い隠しても。国家と市場を超え出た、第三項のあり方が問われていることだけは確か。現在は無為に国民道徳的な非難節に陥ることなく、もっと積極的な思考が必要なのだ。



ロンドンのパブでは殴り合いとレイプが、パリのカフェではサルトルが読まれるといわれたものだ。アカデミズムの世界ではポストコロニアリズムのテクストとして読まれれていたが、再び「戦争日記」とか「存在と無」のアンガージュマンの本が読まれている。遅いが、最近その理由がわかってきたような

アカデミズムの世界では、ポストコロニアリズムのテクストとして、又はそれを批判するテクストとしてサルトルはいまも読まれる。ロンドン時代まわりで私を除いて読んでる人はいなかったけど、現在ヨーロッパで再び読まれて始めたのは、「戦争日記」とか「存在と無」、つまり、、所謂アンガージュマンをテーマに据えた文学や哲学書の作品である。遅いのではあるが、最近やっとその理由が、自分の実感として理解してきたなあ

全ての記述はその体系の中において正しい。心はそういう体系だとおもうんですね。心が正しいのは、人間がそれを内側に持ってるからだとおもいます。しかし、人間にとって、心よりももっと内側に位置するものが存在します。言語tです。人間においてとっとも内側にある言語は、心のギリギリ外側に定位しますから、正しいとも正しくないともいえる事象を扱えるのです。ついでにささいなことですが、世の中のもので、正しいとも正しくないとも証明できない事象といったら、ひとつしかありませんー人間自身です


日本の報道は、ヨーロッパと比べて、保守主義リベラルと新右翼、右翼と極右、これらの区別に大変ルーズな感じがする。なにもかも一緒だったりする。保守主義リベラルがこの国にかつてあった国家言説について積極的に言及することが少ないのは、混同されることを非常に警戒することがあるかもしれない。

誇らしげに唯我が「国家」を知るぞの態度のこの国の保守リベラルが「保守」でも「リベラル」でもないのは、昭和史のどんな国家言説が如何に展開したか言わず、何を対象とした「保守」かについて歴史認識を開示しないその抽象性による。歴史認識を欠く「リベラル」では、'人生は多様なり'程度の実感ぞ

自分が保守主義リベラルだったら、昭和史に即して「国家」と「国民道徳」の違いがどこにあるのかを勉強する。どこの国に妥当する話として、「国家」の語を使っているのか?と検証した上で抽象化しないと、非難するポストモダニズムみたいに非歴史的思考に陥る。どこの宇宙のどこの国の物語なら別だが?


自分が保守主義リベラルだったら、昭和史に即して「国家」と「国民道徳」の違いがどこにあるのかを勉強する。どこの国に妥当する話として、「国家」の語を使っているのか?と検証した上で抽象化しないと、非難するポストモダニズムみたいに非歴史的思考に陥る。どこの宇宙のどこの国の物語なら別だが?

まとまらない文は自分にも迷惑なんですが、最後に、これはまとまったと思っていましたが、やっぱりダメでしたか(笑)。自分のために書いておいたところもありますが、局所的に現場から語っている言葉であり、と同時に、なんとか見えない全体の状況をつかもうとする言葉です。どう読むかは読む人の勝手です。ところで新聞とネットだけを読みますと、なにか国会前では大変な騒動が起きていると思われるかもしれませんが、実際は抗議する人の数が本当に少ない。政策決定者にプッレシャーを与えようにもあまりにも人数が少なく、警官からも「抗議にいらっしゃった方ですか?あちらの方に、皆さん集まっていらっしゃいます」と案内される始末です。たしかに、日本の報道は、ヨーロッパと比べると、保守主義リベラルと新右翼、右翼と極右、これらの区別に大変ルーズな感じがします。これでは色々と不必要な誤解が起きる原因であると危惧している次第です。ところで外国の新聞に関していうと、極右翼的かどうかは、移民・外国人労働者・領土紛争に対する考え方と態度によって客観的に概念化されてくるものです。市民権を得た(汗)、この語は、左翼系の新聞にかぎらず右翼系の新聞においても日常的に使われていることは知って頂きたいとおもいます。幸か不幸か、私は自分を左側に位置する人間と思っているので、左の人が書いた文と思われても全然罪悪感は感じませんが、むしろ左としては自己の中途半端な思考に罪悪感をもちます(笑)。その「普通に暮らしてる人」とか「選民意識」って、分かるようで分からないステレオタイプの言葉ですよね、あまり深入りしてもそれほど生産的な思考が生まれないとおもいます

国家論議76%「不十分」、秘密保護法73%「運用に不安」

今朝の朝日新聞緊急世論調査をどう読むかである。これは、来年早々に提出される「国民投票法案」の強行採決の後の世論調査の結果を現在に伝える不吉な数字として読むのは、私だけだろうか?実は審議時間に関する過不足の問題は存在しない。審議に出席するつもりもないし、実際にしなかった安倍内閣の自民党議員にとっては、議論そのものに意味が存在しないからだ。
極右翼とファシストには良識は通じない。彼らは良識をもっているゆえに、良識を無意味とみなしている。独断的に、美しいかそうでないかの表層の関心だけだ。美しい故に正しい、だ。と、美しいゆえに、自分たちこそが全体の意思を絶対に体現していると思い上がる傲慢なファシストの政治神学は、ポストモダンにおける表層しか見ない美学のあり方と近似性をもつ。ここから、表層を占拠してしまうこと、言い換えれば、破れ傘的に、すなわち連続性にできるだけ多くの穴を開けることによってーどんな小さな穴でもいいからひとりひとりの身体でもいいー、ファシズムを効果的にうちのめすことになるのではないか。




みんなで脱原発の流行歌の後は、ソーレ、みんなで強行採決の唱和だ、でもわが党の名だけは使わないでね、とばかり、極右翼との間で頓馬な取引をする保守リベラルのつもりの道化師集団の馬鹿ぶりには、同情を禁じ得ない。かれらを監督しなければならない、この国の保守リベラリズムの言論はなにをしているのか?ふたたび戦前とそっくりの国民道徳的文化論の従属が、保守リベラリズムを捉え始めたようだ。ヤレヤレ、年が明けたら、ガンバレ、右翼と極右翼!しかないのか?この愚と悪とが大同団結するサーカスの前に、ゲボゲボと出たゲロでみんな窒息死。ふたたび「国民投票法」の強行採決によって、決定的に憲法が死んでしまう前にすでに


大正十四年、1925年、東京朝日新聞のトップ記事
「反対の叫び空しく 治安維持法けふ生る 衆議院本会議」「警官に包囲された 悪法反対 火の如く烈しい語調で治安法葬れの叫びを続けた」



詩人が綴る'最後のシュールレアリズム'?吉本隆明「最後の親鸞」の拾い読み。哲学と詩で綴る自伝的ユーモアの類ではあるまいか?中沢の宗教を論じた解説には疑問をもった。やはり子安氏の指摘のように、吉本は宗教について語ってはいない。多分シュールレアリズムが宗教を語るつもりがなかったように




Nobukuni Koyasu

特秘法の成立に、「落胆は無用、憲法が健在な今ならまだ潰せます」というツブヤキを見て、それは甘いと思わざるをえません。憲法は健在ではありません。違憲的選挙によって成立した違憲的国会と政府によって違憲立法がなされ、それが成立したのです。憲法はもう泥にまみれています。

さらに安倍は集団的自衛権をも合憲的(解釈改憲的)に成立させるでしょう。問題なのはファシズム国家が疑似合憲的に成立しようとしていることです。これは容易ならぬ事態です。これが「合憲だ」というファシストにただ「憲法を守れ」というだけでは戦いにはならないでしょう。

この疑似合憲的なファシスト政府官僚国家に対して、我々は個々人の根底的な人間的権利に立った戦いをしていくしかない。この数日国会周辺を取り巻いた人々は各々の人間的権利の危機を自覚してでしょう。それは彼らの恣意的解釈に奪われた憲法を取り返すこと、われわれの権利を再確立することです。

それは結局「憲法を守る」ということではないかと人はいうかもしれません。だが守るという消極的な行為で守られたものはないことを知るべきです。私は疑似合憲的ファシスト政府官僚国家がぬけぬけと成立しようとしていることの背景に、ただ「護憲」を消極的に唱える国民の多数を見ざるをえないのです。



国会議事堂という堀の内側では、選ぶ民主主義の合理性が醜く極大化し、他方で語る民主主義が歪に極小化している。こういう代表制の危機のときに現れるのが、毎度おなじみの、例の<基底>の言説である。歴史的な集団的感情等の非合理性こそが、民主主義的合理性の基底にあることを見逃すなと説く。

この直接民主制嫌いの顕著な官僚的思考の前に、思考の自由主義的自立性を簡単に極小化してしまうとしたら、この国の保守主義のアイデンティティーが問われる。真の保守主義に値するなら、保護貿易の意義を語るとき文化論的に語る必然性は一体どこにあるのかという面倒でも知的な検証を伴わなくては。

最後に、現象的多様性としてのこの外部世界はいかに知るか?まず知るためには、知ることに先行するフィルターが必要だ。知ることは、外部世界はそのままとしては認識されないという限界をみるからである。とはいえ、EUの危機という現象が、ナショナルな文化論的のフィルターを通す必然性はない。

上述した<基底>の文化論的な言説は、国家の基底に<仲間>という倫理的実体をみる和辻的な問題構成に近い。これは、一見歴史の重みを感じているふりして誠実に喋っているけれども、国家同士の避けられぬ戦争衝動を避けるべく戦後築かれたEUの歴史を無視しているのは一体何故なのだろうか?これがわたしの疑問である。



強行採決について

理性とは、否定の力です。言い換えると、自己の限界を知ろうと絶えず努力を惜しまない、批判の開かれた力です。どんな少数意見であっても必ず良識を含んでいることを知る、民主主義の理性ならば、多数決原理の機械的適用によっては少数意見の含む良識を消去してしまうことを、否定するものであります。そうして考えると、今回ほど、良識そのものを無意味なものとして扱う反理性主義(動物のように生存手段だけを維持しようとする反知性主義)が、この国の支配層の基盤にあることを暴露した事件はありません。強行採決の背景にあるのは、反対意見そのものを無意味とするほど独断的な、肯定の力です。ここから、仮に「特定秘密保護法」を読まなくとも、それが一年後にいかなる性質の権力として展開していくことになるのかを教えるものです。他者殺戮という皆殺しの唱和は、来年提出される国民投票法において無慈悲に加速の度合いを一層強めていくだろうということだけは確かです。取り戻すべきものは、理性の否定の力です。

アイルランドでスペシャルオリンピックが開催された年、75%がボランティアに関わったという。三人に二人が何らかの形で協力したのである。開会式会場。しかし福祉予算を削減した首相の挨拶に拍手が殆ど起きなかった。次に、U2のボノが手を携え招き入れたその人物に、空が割れるような大歓声と歓迎の拍手が起きた。この人物こそが、われわれの、したがって地球に散在している全アイルランドの真の大統領なのだ、と、会場の人々は知っていた。五万人全員が立ち上がってかれに向かって心から敬意の拍手を送り続けた。拍手はいつまでも終わらない。ネルソン・マンデラである


ところで、普遍性になっていませんか...?
アダムと契約の署名をする天界の神様になっておりませぬか?
いくら良識の手紙を綴っても、手紙を読む相手は
もはや良識そのものを無意味とみなしています。そこで
読まぬ相手を三年後の裁判に委ねるのですか?そのために
本当に三年間も、ただ待ち続けるのですか??
否、そうではなくて、自らの力を有限な特殊性と関わらせることの
倫理性が問われているのではないでしょうか?
取り囲まれぬ特異点によって、この自ら「立つ」身体を通して、
すこしでも、抑圧してくる息苦しい全体主義の覆いに、
穴をあけていくしかないじゃありませんか。だって、
ほかにできることがあります?全部の可能性がなくなりました


昨日は、参議院前から恵比寿の日仏会館へ。来日したE・トッド氏がグローバリズムの危機と民主主義の危機について語りました。TEEの芝居「道路」のときブレヒト小屋でお会いした堀氏が司会。最後の質問タイムに、トッド氏に、ファシズムとの関係をきいてみました。丁寧な説明を頂きました。曰く、高い教育と大きな消費の達成によって、グローバリズムは戦前のファシズムに陥いるとは考えにくい。それはファシズムの先を行くと言ってました。ここで、高い教育と大きな消費とは、70年代まで主流だった大きな政府によって達成されたそれらということでしょう。成程、卓見です。たしかに、グローバリズムはファシズムまでに腐敗しないのは、皮肉なことですが、'ケインズ'に負う、ということなのです。さらに、この先は自説ではありますが、ネオリベの(二項)対抗として、贋ファシズム的なものが現れているだけなのではないでしょうか。厄介なのは、安倍はその両方をもっているということです。ここから、かれの立場ならざる立場が説明できます。それにしても五割近いあの高い支持率はどうにかならないものでしょうかね(溜息)。特定秘密保護法反対を契機に、安倍体制に不同意を示すこと。数は少なく茫然としてしまいますが、それでも、すこしでも、抑圧してくる息苦しい全体主義の覆いに穴をあけていくしかありません。決して取り囲まれぬ特異点、この自ら「立つ」身体を通して

自公は、強行採決をするつもりでしょうか?かれらは、どの人どの団体がどういうことを根拠に反対しているとか、法案の是非をめぐる世論調査を読むとか、そういうことに全く影響されていないようにみえます。特別に、完全無欠な?法案に対する揺るぎない自信をかれらがもっているからとは到底思えません。コモンセンス(良識)自体を嘲笑って超然としているとしたら、自民党の政治家が言及した'ナチスの手法'について考えないわけにはいきません。だれの顔をみて政治しているでしょうか?われわれが考えている以上に、安倍内閣はナチスの役割に非常に意識的で、顔をもたぬ誰でもないものに依拠しているとしたら、いったい次に何が起きるかです。依然と五割近い高支持率をもっています。これからが非常に心配です。


「特定秘密保護法」の前にすでに大きな秘密がこの国にある事をご存知ですか?それは、国家の暴力である死刑を推進してやまぬ国家の罪とそれを支持する多数派に迎合する人々の罪のことです。その証拠に、ヨーロッパにいる日本人でもし一人でも友達がいれば、恐らくその人は、自分の死刑賛成の立場について秘密にしなければならなくなるでしょう。人間としての信頼を失うたくなければ

ここで、高い教育と大きな消費とは、70年代まで主流だった大きな政府によって達成されたそれらということだろう。グローバリズムはファシズムまでに腐敗しないのは、'ケインズ'に負う。この先は自説だが、ネオリベの(二項)対抗として、贋ファシズム的なものが現れるだけだ。安倍はその両方をもつ

「政府は万能にあらず」の緊縮財政の官僚達は八十年代に、ケインズ批判の経済学を勉強。が、極端な貧富の格差を容認してまで国の借金を零にする根拠を持っていたか?マルクスは見抜いたーグローバリズムの危機とは民主主義の危機で、利子の危機の問題が根底にある。借金無き国の国債が彼らの利子の救済

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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2013年 12月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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