言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年二月

<<   作成日時 : 2014/02/01 23:34   >>

トラックバック 0 / コメント 0



1860年のダブリンのO'Connell通りは殆ど現在と変わらないね。この十年後パリコミューン。継承した1916年イースター蜂起の最後は左側の郵便局で抵抗。2003年の反イラク戦争デモのときはね、ここをみんなで一緒に十万人で埋め尽くしたさ

ネオコンの「ファイナンシャル・タイムズ」紙ですら、今回の都知事選では原発推進派の候補者が勝ち、安倍の危険な軍国主義化に有利になっていくだろうと警戒と非難の口調で報じているのに、選挙で負けた両者がやれ脱原発の土台ができたとかやれ社会運動だったと自画自賛している。ギャップに唖然とした

日本のマスコミは、世界紛争地図みたいな特集を組むとき、かならず、北アイルランドの地図の上に、'IRA'という文字と'極右'という文字を貼り付けるんです。二十年前ぐらいはダブリンの上に貼り付けてましたけど (笑) あれでいったいなんの認識を得るのかと本当に不思議におもっています。歴史好きの読者の興味を引くのなら、解決していたと思っていた宗教戦争がまだ解決していないとして紹介した方が勉強になるというものです。マスコミの基準でやっていくと、バスクも極右翼、パレスチナも極右翼と、地域紛争がある場所に全部極右翼のレッテルを張る必要がありますが、それはおかしい。一方、アイルランドの平和なイメージを宣伝しようとする日本人たちが依拠するのは、ヨーロッパの基層としての'ケルト'だったりするのですが、それこそ、"ローマ'と同様、実は極右翼が使うセルフイメージなんですよ。滑稽の極みです。映画監督ニール・ジョーダンに親しい人からきいた話ですが、IRAは元々は共和主義的な草の根運動。ところが、高度に組織化していくにしたがって、素人臭い大衆運動の自発性が失われていったことをジョーダンが嘆いて映画をつくったのだそうです。そのIRAの政治組織、シンフェインが、私がダブリンにいたときは、南アイルランドに議席を持ち始めました。ポピュリズムの手法を展開し、浮動票層からいきなり数%の支持を得ました。左か右か定まらない未知の政党としてデビューしたのです。ところがリーマンショック以降の金融危機で、シンフェインは、国による銀行救済を徹底的に非難しました。国はEUからその資金を借り受けなければならないからです。この愛国的態度は貧しい人びとから一定の支持を得ました。オキュパイウオールストリートの活動を伝えた本を読みますと、先駆的ないくつかのモデルが紹介されていましたが、そのひとつにシンフェインの名がありました。恐らく反グローバリズム的な立場から金融問題に取り組んだことがあるのでしょう


2009年四月一日、君はどこにいたか?

21世紀思想史は語ることになるだろう。「公の空間」を縮小していくネオリベグローバリズムの貨幣と中央銀行を取り囲む運動が起きてきたのは、それまで「公の空間」からも「私の空間」からも疎外されてきた人びとであった、と。ウォール・ストリート占拠に先行したのが、五百年間の間世界資本主義の牙城であり象徴であり続けた、ロンドンのシテイーにある中央銀行前広場を4000人が占拠するという事件であった。わたしはここにいた。2009年四月一日この場所に存在し、それ故に、考えるということがこのわたしような者にも出来たのである

2009年四月一日、君はどこにいたか?わたしはここにいた。

六十八年パリ革命は、植民地主義的西欧中心主義的の普遍主義に挑戦した。「公の世界」の傘に穴を開けていく解体と再構築の運動であった。その後、八十年代のマルチカルチュアリズムは国策としての限界をイラク戦争の前で露呈してしまったが、不十分ながらとはいえ、68年の理念を継承したことは覚えておいてもよいだろう。問題はサッチャーリズムの資本主義であった。それは「公の世界」そのものを奪い取っていく、解体だけの運動であった。思想史は語ることになるだろう。「公の空間」を縮小していくネオリベグローバリズムの貨幣と中央銀行を取り囲む運動が起きてきたのは、それまで「公の空間」からも「私の空間」からも疎外されてきた人びとであった、と。ウォール・ストリートに先行したのが、五百年間の間世界資本主義の牙城であり象徴であり続けた、ここロンドンのシテイーにある中央銀行前広場を4000人が占拠するという事件であった


六十八年パリ革命は植民地主義的西欧中心主義的の普遍主義の傘に穴を開けた。が、十分な数ではなかった。思想史は語る。「公の空間」を縮小していくネオリベグローバリズムの貨幣と中央銀行を取り囲む運動が起きてきたのは、それまで「公の空間」からも「私の空間」からも疎外されてきた人びとであった

知らない人もいるだろうから、一応、'駅ビリアン'とは、Epicureanのおじさん的訛りで、やむ得ずヨーロッパの美意識を捨ててしまい駅ビル -五反田中心ーに迷うようになったふくろう猫の別称なんだね。(ま、この五反田駅周辺というのは、簡単には地図で描けないみたいな、驚いているしー)

ホホ〜、十年以上外国で新聞を読んでいた者としては、やはり、こちらの全国新聞一面にスポーツ選手や芸能人の写真が載ることに随分と違和感を感じたものニャリ。現在は、全国新聞は半大衆新聞と思いようになったから以前ほど不安に感じなくなった。と、今日五反田駅ビルの喫茶店で全国新聞を開いたら、どーして、どの頁も、日本人の写真オンリーなのかしら?オリンピックで活躍した日本人選手の写真だけでなくメダル候補の外国人選手達の小さな写真もあってもいいし、昔はあったよ。自国中心主義の身振りとジェスチャーで威張る極右翼政治家の影響力よりも、なーんとなく、こんな風にね、毎日毎日読者の安心したところから、つまり新聞の<距離なき>親しみのある写真から、じわーと広がっていく右傾化の影響力を危惧するのは、駅ビリアン(Epicureanのおじさん的訛り)の心配過ぎニャリかな?

四年前全国新聞一面にスポーツ選手や芸能人の写真が載ることに随分と違和感を感じたが、現在は半大衆新聞と思いようになった。と、今日新聞を開いたら、日本人の写真オンリー。オリンピックで活躍した日本人選手の他に外国人選手もみせてよ。自国中心主義のアメリカ的中継?新聞から起きる右傾化を思う


公害裁判運動を導いた元朝日新聞の記者が被害地における浄土教の歴史について民衆史的に総括した本も、フランス人の映像作家が比叡山の僧侶の修行について撮ったドキュメント作品も、そして恐らく吉本隆明「大衆の原像」も、これらに共通していたのは、衆生のテーマだったのではないかと理解しはじめた

Nuke foes’ loss lets Abe push for restarts ('The Japan Times ')

This is disgusting! How can I afford it ? Japanese government promotes to export abroad the dangerous nuclear power generations for the profit of the company without full investigation of the accident cause.
Awful !! The worst thing is that majority supported the Governor of Tokyo who promised the restarts for the Tokyo Olympic. Simply this means the province would become a victim of the Olympic that needs electrical power supply. Isn't it really egoist ? Nightmare. I'm afraid people gradually resemble TEPCO does anything as it likes at the expence of the others' life.


Le nombre et l’ordre des suppositions possibles
dans ce domaine
est justement
l’infini!
Et qu’est-ce que l’infini?
Au juste nous ne le savons pas!

この領域において可能な仮定の数および秩序は
まさに
無限なのである!
では無限とは何か
われわれはそれをよく知らない!C’est un mot
dont nous nous servons
pour indiquer
l’ouverture
de notre conscience
vers la possibilité
démesurée,
inlassable et démesurée.
(Artaud)

それはわれわれの意識が
法外な、果てしない、法外な
可能性にむけて〈開かれる〉のを示すため
われわれが使う一つの言葉である。

The public pays the costs and takes the risk of economic development, and if anything works, maybe decades later, it's handed over to private enterprise to make the profits. And that's a core element of the economy. Of course, we don't permit the third world to do that.That's considered a violation of free trade when they do it. But it's the way our economy works.
Noam Chomsky


独立問題は帝国的尺度によって人道主義の問題に縮約される。天安門広場前抗議を非政治的と解する態度と同じ We feel in England that we have treated you rather unfairly. It seems history is to blame

ジョイス「ユリシーズ」からひいた対話です。このように、アイルランドの独立問題は常に、(イギリスの) 帝国的尺度によって、人道主義の問題に縮約されてきたのです。これは基本的に、天安門広場前抗議を「非政治的」(柄谷行人) と解した態度と同じだとおもいます。


I took the passage from Jamese Joyce's Ulysses. I 'd show you that the political issue of independence has been neutrally reduced to a problem of humanitarianism by the standard of the Empire.And this is the way how Japanese intellectual see Tiananmen Square Incident in 1989. Kojin Karatani says "it was non-political".

- The imperial British state, Stephen answered, his colour rising, and the holy Roman catholic and apostolic church.
- We feel in England that we have treated you rather unfairly. It seems history is to blame




ホホ〜、映像がないシンプルだった昔のツイッターを懐かしむ人もいる。兎角ダブリンフォトから1970年以前のダブリンの街の映像が流れてくる。'この写真の場所からあの写真の場所まで車で何分'とか計算できてしまう。流れてきた「ユリシーズ」の言葉を拾いながら本の中を散歩しているみたいニャリ

Ulysses Reader

-The imperial British state, Stephen answered, his colour rising, and the holy Roman catholic and apostolic church.



最悪の選挙のあと、

誰がなんといおうとも、この結果には為す術もない。自分のことをかんがえてみることにした。オリエンタリズムの講座派的折口風バタイユ論が中沢新一「チベットのモーツアルト」だったとすれば、対象を捉えるその切り口と思考の柔軟性はsomethingではあったけれども、読み終わったときに、やはりそこにはドゥルーズもマルクスも無かったわけである。さて「天安門のシューマン」はとても無理 だけれども(笑)、しかしながら、自分がもつ知識と能力に即して現在、「天安門のゴダール」として書くことができるとすれば、それによって、知識人が盲目的に依る竹内・溝口のオリエンタリズムのあり方を、ナショナリズム批判の射程のうちに捉えることを可能にしてくれるのかもしれない、などと喫茶店でかんがえたのである




廣松がいうようには東亜概念とは必ずしも右翼の専売ではなかったし、オリエンタリズム批判なしでは彼が言う日中を中心とした東亜概念などは成り立たないだろう


東北アジアが歴史の主役に

日中を軸に「東亜」の新体制を

1994年3月
廣 松 渉


世紀末について語るにはまだ少し早過ぎるような気もする。ましてや,東北アジアが歴史の主役になるとの予想は,大胆すぎるかもしれない。しかし,二十世紀がもうすぐ終わろうとしていることを考え,また,筆者が哲学屋であることに免じて,書生談義をお許し願いたい。
 つい数年前までは,欧米の落日は言われていたが,ソ連や東欧が大崩壊するなどとは誰も予測していなかった。ソ連や東欧の「社会主義体制」は内部に矛盾をはらみながらも,もう暫くは存続するものと思われていた。
 日本では好景気と五五年体制が続くと思われており,細川連立内閣の登場など考えもおよばなかった。アメリカに対して「ノー」と言える日がやがて訪れると思われていても,大統領の口から公然と「日米経済戦争」という言葉がこんなに早く聞かれるとは予期されていなかった。
 米ソ日が構造的に変動したばかりではない。ECヨーロッパも様子が変わってきている。
 このさなかにあって,東南アジアはたしかに様相が別になっている。が,これとて,今のところは,アメリカやヨーロッパあっての経済成長であり,東亜の隆昇ではある。
 将来にあっては,だがしかし,どうであろうか? コロンブスから五百年間つづいたヨーロッパ中心の産業主義の時代がもはや終焉しつつあるのではないか? もちろん一体化した世界の分断はありえない。しかし,欧米中心の時代は永久に去りつつある。
 新しい世界観,新しい価値観が求められている。この動きも,欧米とりわけヨーロッパの知識人たちによって先駆的に準備されてきた。だが,所詮彼らはヨーロッパ的な限界を免れていない。混乱はもう暫く続くことであろうが,新しい世界観や価値観は結局のところアジアから生まれ,それが世界を席巻することになろう。日本の哲学屋としてこのことは断言してもよいと思う。
 では,どのような世界観が基調になるか? これはまだ予測の段階だが,次のことまでは確実に言えるであろう。それはヨーロッパの,否,大乗仏教の一部など極く少数の例外を除いて,これまで主流であった「実体主義」に代わって「関係主義」が基調になることである。
 ――実体主義と言っても,質料実体主義もあれば形相実体主義もあり,アトム(原子)実体主義もあるし,社会とは名目のみで実体は諸個人だけとする社会唯名論もあれば,社会こそが実体で諸個人は肢節にすぎないという社会有機体論もある。が,実体こそが真に存在するもので,関係はたかだか第二次的な存在にすぎないと見做す点で共通している。
 ――これに対して,現代数学や現代物理学によって準備され,構造論的発想で主流になってきた関係主義では,関係こそを第一次的存在と見做すようになってきている。しかしながら,主観的なものと客観的なものとを分断したうえで,客観の側における関係の第一次性を主張する域をいくばくも出ていない。更に一歩を進めて,主観と客観との分断を止揚しなければなるまい。
 私としては,そのことを「意識対象‐意識内容‐意識作用」の三項図式の克服と「事的世界観」と呼んでいるのだが,私の言い方の当否は別として,物的世界像から事的世界観への推転が世紀末の大きな流れであることは確かだと思われる。(これがマルクスの物象化論を私なりに拡充したものとどう関係するかは措くことにしよう)。
 価値観についても同じようなことが言える。もっとも,こちらは屈折しており,一口には言いにくいのだが,物質的福祉主義からエコロジカルな価値を中心に据える価値観への転換と言えば,当座のコミュニケーションはつくであろうか。
 もちろん,世界観や価値観が,社会体制の変革をぬきにして,独り歩きをするわけではない。世界観や価値観が一新されるためにはそれに応ずる社会体制の一新を必要条件とする。
 この点に思いを致すとき,ここ五百年つづいたヨーロッパ中心の産業主義が根本から問い直されていることに考えがおよぶ。
 単純にアジアの時代だと言うのではない。全世界が一体化している。しかし,歴史には主役もいれば脇役もいる。将来はいざ知らず,近い未来には,東北アジアが主役をつとめざるをえないのではないか。
 アメリカが,ドルのタレ流しと裏腹に世界のアブソーバー(需要吸収者)としての役を演じる時代は去りつつある。日本経済は軸足をアジアにかけざるをえない。
 東亜共栄圏の思想はかつては右翼の専売特許であった。日本の帝国主義はそのままにして,欧米との対立のみが強調された。だが,今では歴史の舞台が大きく回転している。
 日中を軸とした東亜の新体制を! それを前梯にした世界の新秩序を! これが今では,日本資本主義そのものの抜本的な問い直しを含むかたちで,反体制左翼のスローガンになってもよい時期であろう。
 商品経済の自由奔放な発達には歯止めをかけねばならず,そのためには,社会主義的な,少なくとも修正資本主義的な統制が必要である。がしかし,官僚主義的な圧政と腐敗と硬直化をも防がねばならない。だが,ポスト資本主義の二十一世紀の世界は,人民主権のもとにこの呪縛の輪から脱出せねばならない。
 それは決して容易な途ではあるまい。が,南北格差をはらんだまま,エコロジカルな危機がこれだけ深刻化している今日,これは喫緊な課題であると言わねばなるまい。


※ 初出は『朝日新聞』1994年3月16日夕刊、電子復刻は『廣松渉著作集』第14巻(1997年、岩波書店)pp.497-500、によった。「、」を「,」に換え,ルビは省いた。


事故原因の究明もないまま企業の利益の為なら危険な原発を海外に輸出するつもりかと思っていたら、今度は、騙して東京に誘致した'最高のオリンピック'の為に東京の外で原発再稼働させてもかまわぬという。どうも、東京の人びとは、やりたい放題の東電にそっくり、だんだんと似てきたのではないか!?


原発"将来はゼロ"とか、 '永遠のゼロ "とか、世の中、'ゼロ'が流行しているのかしら?受験シーズンなのに

ばかな!
だれも勝ってはいないよ。よく考えてみてよ。
選挙で勝ったのは、女性差別、少数民族差別、人種差別、雇用差別、貧富の格差、歴史の忘却、それと、無責任で危険な原発輸出 だけだ!


失業'将来はゼロ" + 原発"将来はゼロ" = '永遠のゼロ "

ネオリべの市場主義に委ねる失業'将来はゼロ'と、自民マスゾエの原発'将来ゼロ'は似ている。ケインズが、市場はいつかはゼロにするとしても現在の誰も生きていないほど長期に時間がかかるようではダメだと言った。同様に、原発がいつかゼロになる前に全員死んでいることもあり得る。原発問題の解決は最大電気消費者の東京にかかっていたが、都知事としてのマスゾエへの信託は、東京の人びとの決断を避けた無責任な信託として、海外から厳しい批判を受けるかもしれない


ネオリべの市場主義に委ねる失業'将来はゼロ'と、自民マスゾエの原発'将来ゼロ'は似ている。ケインズが、市場はいつかはゼロにするだろうが、現在の誰も生きていないほど時間がかかるようではダメと言った。同様に、原発がいつかゼロになる前に全員死んでいることも。決断を避けた無責任な信託だよ


アベノミックスに物申す


ケインズKeynse以前の経済学の均衡解は、所謂大きな物語であった。さてケインズ以前の経済学は、遅くとも八十年代において復活した。日本の大学では、量産化されたケインズ経済学の教科書がケインズ経済学の限界を、そして贋金づくりならぬ、ネオリベ的贋ケインズ主義を教えたのである。ここから、計画にもとづくユートピアを拒む社会的コンセンサンスconsensusを形作る源が出来てきた。つまりアベノミックスである。アベノミックスに物申すには、マルクスが行ったように理念性を徹底させていくしかないのではないか。例えばカント的にかんがえると、貧富の格差は偶然の事柄。そして必然性しか知らぬ理性からは、この偶然生じた状態を絶対視して正当化することができない。また「正議論」のサンデルによると、理念的に公平ではなく共同体の倫理にも反するからである。最後に、理念が通じないときに一体何が起きてくるかだ。精神の隷属か、精神の反逆か?二十一世紀精神史の本はまずオキュパイOccupy運動から証言することになることだけは確かだ。ネオリベ的グローバリズムの金融政策に対する占拠の運動は、反戦運動としての「外国政策の占拠」(チョムスキー)ともいわれる。六十年代から始まった、反新植民地主義の声が蘇っていくーわれわれの精神と歴史は自立にむかって現在進行形

最後に、貧富の格差に関することでは、マルクス「資本論」の問題点は、貧富の格差の再生産を特定の歴史段階における必然性として描いた保守性にある。'原始的蓄積'が法則の如く語られてしまうのは問題がある。これを克服するためには、マルクス初期において強調された、類的本質としての理念性の意義ー国家・民族主義・ブルジョア的市民社会に一方的に従属しないあり方ーを思考のなかに導入すべきことの重要性を喚起したいのである。ネオリベ的グローバリズムの中で、アベノミクス的貴族が司るブルジョア的市民社会から一方的に排除されない、そんな主体のあり方を問うことが大切ではないか




ケインズ以前の新古典派経済学は、ノイマンがこの方法に集合概念的にコンパクトな連続性と代数学的構造による保証を見出すのに役立った、というのが私の整理。さてポストモダン的に、大きな物語の終焉を言うのならば、ケインズが行ったように、不均衡解が確率論的概念に属する不確実性に依ること、近傍化された時間の範囲の微調整しか語り得ないことを明らかにする方法がある。






東京は、外の他者から自分が何者であるかという承認の問題に直面しています。NHK経営委員たちを例として、アジアの他者と関わりを持てないという現在のこの状態は、自己との関係に関しても非常に不安定な精神状態とはいえないでしょうか。都知事となった安倍路線のマスゾエからは、ゼネコンの土木工事とそのための原発再稼働のこと、' 最高のオリンピック' のことは別として、肝心なこと、つまり、国際社会からかくも孤立しては平和を目的としたオリンピックが建前として成り立つのかという問題について聞くことがありませんでした。'承認'のインフレを声高に言う思想地図系迎合右翼オタク知識人は、的外れpointelessか、陰険な隠ぺいと言わざる得ません。本当は現在は、承認が極度に欠乏した状態、すなわち、承認の恐慌こそに取り組むべき問題としてあります。アーレントが示唆するように、全体に包摂されずに、ひとり一人が自己自身に対して対話をおこなう時がいまかもしれませんね




何の感性の成長をもたらしません。来週からはいよいよ息苦しくなります。しかしほんとうにそうでしょうか?左翼はとっくの昔から選挙を超越してしまっていますから、多分選挙結果からは影響を受けないでしょう。また今回は戦術として敢えて右翼的保守リベラルに味方した人々がいますが、このかれらは、もともと絶望し切っているからこれ以上息苦しくなりようがありません。惨めにも、安倍路線を明るく支持した人々だけが確実に息苦しくなるでしょう。狂信的宗教の信者の末路と違いありませんから

子安宣邦 ‏
吉本の戦後思想批判を吉本の言説たらしめているのは、彼の思想基盤にある〈大衆の原像〉である。吉本の親鸞論を吉本のものたらしめているのは〈衆生の原像〉ではないか。こう見ることでどうにか「最後の親鸞」論を書き上げた。明日早稲田で話すが、大雪だそうだ。受験生も行くのだから、私も行く。


喉痛く大雪の予感を以て空港から大学へ。が、閉鎖中を無慈悲に告げる告示。他の所を探したが、人の姿が見えぬ。自力虚しく吉本隆明の親鸞に至ることなく、入試の日にふさわしく迷い果てた挙げく滑った。ただごうっーと空しく吹雪く雪にウイルスの舞いをみた思い。是衆生也。うつさなくてよかったのかも


The aristocratic society ha been dicided into two; the public dom domain and the private domain. The public domain , that belonged to male, made the history, 'Records of Ancient Matters' , 'Chronicles of Japan' that were written in the stile of Chinese poem. And the private domain, that belonged to female as Murasaki Shikibu, recited "Collection of Ten Thousand Leaves' , "Collection of Ancient and Modern Japanese Poetry" that laid the unique literal inovation ' Hiragana'(phonetic symbol like alphabet). (Some male secretely wrote song). Anyway, male or female, Without exception, the great literature movement is deeply involved with the female principle.

It is in the middle age "Muromachi period" that intersecting happened. "Youkyoku" ( like the Noh) appeared as the sort of Chinese poem of song, that chanted the world of dying aristocracy. The male recited the world of female like Kenji Mizoguchi World



It's a curious fact that the all-male religious have produced no religious imagery - in most cases have positively forbidden it. The great religious art of the world is deeply involved with the female principle.
Kenneth Clark ' Civilisation'

Artists, who have been very little influenced by social systems, have always responded instinctively to latent assumptions about the shape of the universe. The incomprehensibility of our new cosmos seems to me, ultimately, to be the reason for the chaos of modern art.
Kenneth Clark ' Civilisation'


エンツェンスベルガーbot ‏@EnzensbergerBot · 7分
名声を発明したのはギリシャ人だが、ローマ人の時代にいたって初めて、はかないものを永遠化する詩特有の能力が、政治的な意味をもった。ヴェルギリウスとホラティウスとともに、重要な政治的肯定の形式としての詩の歴史が、はじまる。 『現代の詩と政治』



東京とはなにか?東京は誰なのか?

東京には、未知の、移民のような新しい声が届く<生まれ変わり>がない。他者としてある未来を養うつもりがないのだろうか?そのかわり、女性差別主義者の一人のマッチョな男性に対する、宗教団体や労働組合の従属、前職に対する無気力的な慣性(猪瀬の434万票、半数以上が舛添へ)、が支配している。浮動票といっても、サッカーの最後の十秒がもたらす意外性からほど遠く、ただ息苦しいだけの、テレビが捏造した偶像を拝む重い固定票のことでしかない。そしてこの民族主義者達に占拠された公の電波によって、外部世界に対する拒絶感が膨らんでいく。世界はもはや、彼らの排他的で楽観的な高笑いからは恥辱しか感じとることがない。それにもかかわらず、東京の方はといえば、すっかり、テレビをみるひとのようにあたまをあげられないままだ。映画というものがあった時代、ひとはスクリーンをみるときはあたまをあげたものだったが


ヨーロッパで「アウシュビッツはなかった」と発言して上で公的な役職にとどまることなど可能でしょうか?絶対にあり得ません。
さて百田の発言について、憲法が保障する言論の自由の範囲だとする考えは、それほど根拠があるかと疑ってみる必要があります。ところで、この百田は、かつて首相として靖国に公式参拝した小泉を思い出します。呆れたことに、当時の小泉は自分の信教の自由を主張しました。失望したのは、最高裁はこれを事実上認めてしまったこと。憲法は権力者に宛てて書いた、「最低限度これだけは止めてくれ」という抗議のリストです。ところが実際にはその人権保障は専ら権力者が享受するとしたら、欺瞞以外のなにものでもありませんね。なのに現在このことが繰り返されています。なぜこの国はかくも権力者の'人権'、'言論の自由'ばかりに配慮するのか解せませんが、ともあれ、百田のような極右翼の演説的行為、「南京大虐殺はなかった」によって、国の内外で傷つく人々が実際に現れてきます。と、たんにこれは心の問題に属する事柄でしょうか?道義的な観点からみて、物理的に現実の障害を与える犯罪を構成するとおもいます。他者を尊重する憲法の精神に反する、こういう場合に限っては、科学者のように物理的かどうかを実証的・経験的ではなく、価値規範的にとらえるべき深刻なケースではないでしょうか。傷害罪で罰するということではなくて、すくなくとも、価値的には、傷害罪と同等な行為として社会的に非難することができるのではないかというのが私の考えているところです

理念的に、他者を構成する考え方からは、NHK経営委員という公的な立場をもつ百田による「南京大虐殺はなかった」という演説的行為は、憲法の保障する言論の自由ではなく、むしろ根本から憲法に反するのは、その発言的行為によって、他者は障害を受けていますし殺されてもいるからです。



まさか (流れてきた) 私の文句を読んだわけでもないだろうが、どうも、ただのオタク知識的フランス思想ではなさそうだ。その若いドゥルーズ研究者が、オリンピック主催国が行っている性の抑圧について日本のマスコミ界が報じないことをツイッター上で問題にしているからだ。浅田氏とこの問題を話し合ったという。これは、日本の暴力について具体的に語った発言のひとつとして傾聴すべき発言で、今日尚なぜドゥルーズを考えなければならないのかを明確に示唆しているといえよう

オタク知識的フランス思想ではなさそうだ。若いドゥルーズ研究者が、オリンピック主催国が行っている性の抑圧について日本のマスコミが報じないことを問題にしている。これは、日本の暴力について具体的に語った発言のひとつとして傾聴すべき。なぜドゥルーズを考えなければならないのかを示唆している

Well...when? When do the pursuit of happiness percieve a street demonstration 'No Nuke' rather than the series of materialism along window of a shopping center ?

What is impossible to percieve from either point of view ( Christian and Socialist) is that Marx's 'withering away of the state' had been preceded by a withering away of the public ream, or rather by its transformation into a very restricted sphere of government ; in Marx's day, this government had already begun to wither further , that is, to be transformed into a nation-wide 'housekeeping', until in our own day it has begun to disappear altogether into the even more restricted, impersonal sphere of adminstration. (Hannah Arendt ' The huuman condition")

キリスト教にしろ社会主義にしろ、どちらの観点からも考えられないことは、マルクスの「国家」の死滅に先立って、すでに公的領域が死滅したということ、あるいはむしろ、公的領域が非常に限られた統治の領域に変形したということである。つまり国家規模の「家計」に変形し、そして、私たちの時代になると、公的領域は、いっそう限られた非人格的な管理の領域へと完全に消滅し始めている.(ハンナ・アーレント「人間の条件」)

ハンナ・アーレント ‏hannaharendt
すでに公的領域が死滅したということ、あるいはむしろ、公的領域が非常に限られた統治の領域に変形したということである。つまり国家規模の「家計」に変形し、そして、私たちの時代になると、公的領域は、いっそう限られた非人格的な管理の領域へと完全に消滅し始めている。(『人間の条件』8)



ホホ〜、超楽観的に申し上げますと、宇都宮陣営は細川・小泉を非難し、一方、細川・小泉は外ゾエと安倍を非難しているので、少なくとも、民主主義を踏みにじる人間をリーダーにしてはダメだという点では、宇都宮陣営と細川・小泉陣営は一致ニャリ!だれが民主主義を踏みにじる人間かというあてはめ方が違うだけですね


超悲観的に申し上げますと、マスゾエは女性差別者の形容しがたい馬鹿でありますが、当選することによって結局、石原を長年支持してきた' 馬鹿からは馬鹿の代表しか出てこない ' と言われないかしら?つまり世界のメディアからは、選んだ都民がそもそも馬鹿なのだとみなされてしまうという無気力感


ガンジーは元々、インドの解放運動に関わっていく前は英米法のリベラルな弁護士だった。ところでマンデラがガンジーから影響を受けているのだが、掲示板に投稿している、ネルソン・マンデラの演説 An ideal for which I am prepared to die (1963) 読むと、アパルトヘイトに対していかに取り組んできたか俯瞰できる。例外なく、ガンジーもマンデラも直面したのが、理念的なありかたと現実との間の鋭い分裂。政治は一直線ではない。人権と非暴力的抵抗のあり方とナショナリズムの間の<一致>と<不一致>、これはポストコロニアリズムのテーマを構成する。


人権派弁護士は、'社会の敵'とされた被告を弁護し、裁判官と検察と共に真理を究明する使命感をもつ。ところで日頃は、商売熱心の坊主、障害事件裁判の多い暴力団を顧客にもつこともあるし、また(同業者から姑息といわれようとも)大企業の為に和解に持ち込んでも構わない。それらは、費用を払えぬ被告を支える弁護活動にとっては、副次的な手段に過ぎないのだから。免田事件を解決した倉田弁護士は文学者になりたかったぐらい文学好きで、言葉に超タフ。その探求心で、本何冊分にもなる検事の起訴状と証拠資料を四回でも五回でも読んでいく、それで辻褄の合わない事柄が必ず見つかる、とそう言っていた。
社会派の弁護士とは、ボランティアでしたがって手弁当で、公害裁判を支えてきたような弁護士のことだ。人権派弁護士とは異なるタイプだけれど、人権感覚が強いのはもちろんのこと、何十年を超える長期化する裁判のために身をささげるんだね。半年ぐらいかかわった、土呂久公害裁判支援の運動で知った弁護士たちをみて感心したのは、弁護士の中でもとりわけ同情心のある人々だった。どちかというと、全体を見渡せる学者みたいな人々が多いという印象


詩人や哲学者は――たとえばハイデッガーとかカール・シュミットとかエルンスト・ユンガーは、それからブレヒトやホルクハイマーやコルシュも――、政治家たちの臆病さに対抗して、決断するパトスというものを持ち出した。――なにを決断するのかは、重要性のランクでは2番目にすぎなかった。
エンツェンスベルガー Enzensberger

一般的に言って、考古学は、独立国アイルランドのアイデンティティーに正当性を与えたり、反対に正当性を取り上げたりとします。ここから大変な論争が起きることがあります

外部を失った果てに吉本は問うた。「我は救われるか」と。「汝も我も救われぬ」は三木の答え。「救いアリ」「救いナシ」。矛盾を払ってなお残る「自己の活動」といえば、「わたし」と「あなた」という自他の関係ぐらいだろう

大江は北アイルランドに来ようとしました。実現しませんでしたが、これを契機に、「個人的体験」を中心に大江の文学にとって、アイルランドはいかなる意義をもつのか書いてみたことがあります。現在もう一度これを考えてみたいです。三島の方ははもう十分でしょうという気持です


'砂糖は人間の石炭だ'とかいう産業革命時代の発想で、いまだに競争意識でしか料理をとらえていないのですね。これは英国人が大好きなテレビ料理番組のパロデイーで、スピードを競う料理番組で、奇跡的に1秒ぐらいでつくったおバカな料理人が優勝でしたーたしかお鍋に水と塩をいれかけたところで完成だったかな(笑)。こちらはまじめなBBCのドキュメンタリ番組でしたが、食事がまずければまずいほど民主主義が遅れているということでした。ちなみに、エイゼンシュタイン「戦艦ポチョムキン」は、専制君主のようにふるまっているコックに文句が言えない社会で反乱が起きるという映画でした。1950年代までは、レストランでイギリス人はコックにたいして文句がいえなかったと解説していました

元々漢詩は嫌いではなかったのですが、思い返せば、日常的に横書きの英語に委ねていた外国生活のときは、縦書きの文字というのはごっつい目が痛くなるものでしたね(笑)。とにかく、昨年から東京で始まった「論語塾」のおかげで、訓読みの漢文をじっくりと読む機会をもちました。紀元前何世紀に編集された「論語」の原文 (として考えられているもの) は、天の遠い星から到来してきた、読解不可能な信号に喩えることができるでしょうか。ちなみに今日書店にならぶ「論語」の現代語訳も、現在の言葉に翻訳しただけです。


運動としての、原初のテクスト

誰も言わなかった少し変わったことを「論語」について言いますと、この原初のテクストは運動です。無限の速さと遅さをもっています。象徴的にいうと、そのコンパクトによく統御された言葉は常に、彗星の如くあまりに速く過ぎ去ってしまうので後に何が通過したのか分かりません。またこれとは反対に、この原初のテクストは紀元前から実に遅い足取りでわれわれの現在のもとに届きました。この長い道のりの過程であまりに多くの媒介を包摂してきました。そうして、この一年間は、17世紀の伊藤仁斎が与えた注釈、さらに仁斎を読む子安氏の注釈を学ぶことによって、朱子的な本質と現象を重んじた注釈のあり方を批判的に読み直すことになりました。あえて、原初のテクストを読むことの無理を消し去らないこと。これは他者を消し去らないことにほかなりません。かくも、「役に立つ」実学偏重の方向とは異なる、反時代的な学びから得た大事な収穫のひとつは、漢字をもった東アジア文化圏という歴史的な空間の広がりを、「論語」の読みによって実感できるようになったことでしょうか。われわれにわれわれ自身のあり方を、外部から原初のテクストに即して、考えさせてくれる「遠方からきた友達」であります。


5
From macroeconomésque populism of phonetics to microphsique populism of architectonic; Ulysses


5 Au revoir ! Macroeconomésque populism of phonetics.
Bonjour ! Microphsique of Epiktetos.


ひとり五分間というテレビの討論会みたいに、原発問題を外してしまえば、簡単に整理できてしまうのだろう。つまり、経済的自由と個人的自由とで政治家を分類してしまえば、及第点のレポートは書ける。そうして、宇都宮は、伝統左翼の位置へいく(経済的自由<小>>個人的自由<大>)。細川はポピュリズム的に、経済的自由と個人的自由の組み合せの曖昧なヴァリエーションにいく。最後に、舛添は、伝統右翼の位置におさまる(経済的自由<大>)・個人的自由<小>)。しかしかくの如くテレビ討論会のようにさぼるわけにはいかないのが現実。そもそも原発問題はこれをいかに捉えるかを論じないようでは、原発問題は終わらない。さて原発問題をどこから語るか?厳密に言って、三つしかない。社会から語るか?政治から語るか?あるいは、経済から語るか?この三つである。したがって、伝統左翼は原発問題を国内福祉の問題、即ち社会の問題から語るのに対して、環境系ポピュリズムは、グローバルな政治の問題から語っている。右翼は経済から語るのは、(大企業労組と新宗教団体の期待に沿って)、原発問題は専ら国内の雇用と生活の問題としてしか捉えられていないからだろう。結局現在なにが起きているのか?分からない。ただ、政治の領域、社会の領域、経済の領域において互いに、'領土問題'が生じていることだけは確かだ!


原発問題を外すと簡単。経済的自由と個人的自由とで整理できてしまう。宇都宮は伝統左翼の位置へ(経済的自由<小>>個人的自由<大>)。舛添は伝統右翼の位置へ(経済的自由<大>)・個人的自由<小>)。細川はポピュリズム的に、経済的自由と個人的自由の組み合せの曖昧なヴァリエーションに行く

Wir sind einsam. Man kann sich darüber täuschen und tun, als wäre es nicht so. Das ist alles. - Rilke

私達は孤独なのです。人はそのことについて自分をあざむき、そうではないかのように振る舞うことはできます。それはただそれだけのことなのです。 - リルケ


OF と IN のテーマ
"long so he must do it somewhere and the last time he came on my bottom when was it the night Boylan gave my hand a great squeeze going
”Joyce, Ulysses

ここ掲示板は、ソクラテスの裁判が反復している。(テレビ界にも行った) ロッセリーニと重ねた上で、ゴダール曰く、ソクラテスはあまりに誰彼構わず対話し過ぎたのが危険だったと。検事の如くあるプラトンの超越性がいかに不敗か知りつつある。誰がアリストテレースをやるのか?君か、或いは君かい?


Krugmanの記事を読んで八〇年代はMacroeconomic Populismというコンセプトだったと知った。当時は、ケインズ「雇用・利子・貨幣の一般理論」(和訳)も読んでいた。一方、マクロ経済学の教科書で勉強した公務員志望の連中の方は、現在霞が関にいて、反原発の叫びをきいてるんだろうな

Macroeconomic Populism Returns

http://nyti.ms/MJSibq


保田與重郎 「今日の浪曼的日本の實相は、白人中心の世界文化を回転し、變革するみちにある。この雄大な賭は藝術至上主義的發想が肯定する」 (與謝野鉄幹)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年二月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる