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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年二月 (後半)

<<   作成日時 : 2014/02/14 08:53   >>

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辻邦夫のことはよく知りませんが、林芙美子以来、(六十年代ぐらいまで?)、フランスの誘惑は存在したことは確かのようです。軍国主義から遠く離れたいというのがデガダンスというのであれば、フランスの誘惑はデガダンスにほかなりませんが、ただ単純ではなかったとおもいます。ヨーロッパ中心主義に陥ることなく、他者と出会えるかという<20世紀精神史>を築くという問題意識をもちましたから。(現在の若手知識人の方が、再びヨーロッパ中心主義になりましたね) ところで渡辺氏が芸術至上主義に反対していたのは、(それがもたらす、表現主義的反リアリズムの一種) デガダンスによって、アイロニーの批評精神が曇るからではないかとおもっていました。芸術至上主義は、友達だった劇団の50年代から役者だった大先輩とともに警戒していたのです。最近たまたま、ツイッターで流れてきたこの保田與重郎の一文をみつけて、芸術至上主義とは、日本浪漫主義の論客(近代の超克)が訴えた言葉だったことを、(遅きに失するですが) 知りました。「今日の浪曼的日本の實相は、白人中心の世界文化を回転し、變革するみちにある。この雄大な賭は藝術至上主義的發想が肯定する」 (保田與重郎「與謝野鉄幹」)


昨年他界した渡辺一民氏が、「同じことは決してできない」ということを繰り返し強調しました。果たしてその真意は何であったかと考えます。

学問の属性は、神の属性の如く永遠性にあらず、寧ろ理性の解釈に依っても回復できぬような<一回的特異性>だとおもいます。例えば、孔子は学問の成り立ちだけでなく終わり方も考えていました。孔子の学問は孔子の死によって終わったのです。彼の学問は弟子に継承されることはありませんでした。継承されたようにみえて全然他なるものでした。これと同様に、マルクスも、彼の死を以て、マルクスの学問は終わったことが考えられます。マルクス主義は、マルクスとは全く関係がありません。別の文脈で別の問題意識をもつ必要があるからです。「人」が「信」に依るように、「学」は「終」に依拠します。後世によって祀られていく学問の永遠性は、<本来性>の病に堕するものです。これが、「同じことは決してできない」ということではないでしょうか。


フランス留学で、国家を背負わずに自分の感性で比較的多様にみはじめる世代といえば、加藤周一ぐらいから。辻邦夫はかなり自由だ。よく知らぬ作家なのではあるが、かれの言葉は、なーんか、林達夫的雰囲気が漂う。かれのパリ時代の間に、林達夫研究家でもあった渡辺一民氏と交流していた。「辻君は僕に哲学の話をしてくるんだが、哲学というのは型にはまるから僕は嫌だったんだな」。

「情熱のない生活を、僕はもう続けることはできない。市民生活の中には、規律ある頽廃しかないのだ。」辻邦生


To live an entirely private life means above all to be deprived of things essentials to a truly human life; to be deprived of the reality that comes from being seen and heard by others, to be deprived of an 'objective' relationship with them that comes from being related to separated from the, through the intermediary of a common world of things, to be deprived of the possibility of achieving something more permanent than life itself. The privation of privacy lies in the absence of others, and therefore it is aas though he didn't exist.

プライベートという言葉は、「欠如しているprivative」という意味を含む。完全に私的な生活を送るというのは、他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、生命より永続的なものを達成する可能性を奪われていること、などを意味する。
...to be deprived of the reality that comes from being seen and heard by others, ...to be deprived of the possibility of achieving something more permanent than life itself.
(ハンナ・アーレント hannah arendt 『人間の条件』)


Shinzo Abe ; historical revisionism

Who is Shinzo Abe ? Originally Abe was the legitimate child of the group of the historical revisionist, notorious conservative nationalism, in the Liberal Democratic Party. In the 90s Abe has begun to reassert himself as the political spokesman representing the group of the historian of historical revisionism, the commentator and the school teachers had required the <new history schoolbook>. Now they enter the government service as sort of bodyguards to Abe.
The establishment of the second Abe Cabinet means the Japanese government was plundered by that historical revisionist that I refered to. That juxtaposes it with the legal establishment of the Nazi is neither pointless nor exaggerated. The political tactics of the second Abe Cabinet, learning from failure of the past and keeping very high perecent approval, is more scrupulous, cunning and authoritarian than the first Abe cabinet.
What is the Abe's historical revisionism ? It is his demand, from Japan's nationalistic position, to complacently correct the assumptions - making the world history, that have been shared in the world after World War II. The rule of world history that Japan is a defeated nation is called into question by Abe, who thinks to have the given peace constitution system is as humiliating as to be a defeated nation.
Abe calls the system of the postwar peace constitution with the postwar regime, and claims its ending for the 'genuine' independence of Japan as State(politically and militarily).The ideology of the Abe cabinet is no more than new nationalism. After the victory of the election, it shows an undisguised nature of this ideology. From the people's viewpoint, the constitution is no more a gift than a blessing.We got the charter of human right as a quid pro quo for the big hardship and sacrifice of ourselves. We don't think it necessary to change it. But the historical revisionist can't stand on the side of us forced to hardship and sacrifice in war.
by Nobukuni Koyasu 子安 宣邦 (translated by takashi honda 本多敬)

子安宣邦 ‏

安倍と歴史修正主義)安倍とはもともと自民党における歴史修正主義的な保守的国家主義的グループの正嫡子であった。90年代に彼は〈新しい歴史教科書〉を要求する歴史修正主義的歴史家、評論家、教育者らのグループの政治的代弁者となっていった。このグループをいま政権周辺に位置づけている。安倍政権(第2次)の成立とは歴史修正主義者によって日本の政権が奪取されたことを意味する。安倍政権の成立がナチ政権の合法的な成立に類比されるが、それは間違った、過剰な類比ではない。安倍第一次政権の挫折に学んだ今次安倍政権の政治戦術は周到で陰湿で権力主義的である。安倍の歴史修正主義とは何か。それは第2次世界大戦以後の世界で共有されてきた世界史的な諸前提の日本の国家主義的な立場からの修正の要求である。日本が敗戦国であるという世界史的規定が彼によって問われるのである。敗戦国であることは与えられた平和憲法体制を意味している。安倍は戦後の平和憲法的体制を〈戦後レジーム〉といって、その終結と日本の真の国家的(政治的・軍事的)な自立を主張するのである。安倍政権のイデオロギーとは、この歴史修正主義的な新国家主義である。参院選の勝利後、安倍政権はそのイデオロギー的性格を露骨に見せている。国民の側からいえば、平和憲法とはただ与えられたものではない。国民の大きな苦難と犠牲を代償として始めて手にしえた大事な権利の憲章である。我々は与えられたものだから変えねばならないなどとは考えない。歴史修正主義者は苦難と犠牲を強いられた国民の側に立ってはいない。安倍は政権維持の自信から昨年末、抑えてきた靖国参拝を実行した。これは安倍の歴史修正主義的な国家主義的行為として、国内的よりも、国際的な批判、非難を呼び起こした。中韓だけではない、米国も不快感を示し、ヨーロッパ諸国もこの時代錯誤の行為に疑問を呈した。安倍の靖国参拝が、彼の歴史修正主義的な時代錯誤の行為として世界に露呈されたのが、今回の靖国参拝の特色である。安倍の靖国参拝とは歴史修正主義者安倍による戦後の世界体制への挑戦であり、挑発である。それは国際緊張を作り出す行為とみなされたのである。安倍は参拝後、どこの国の指導者と同様に戦争犠牲者を追悼し、平和を祈ったのだと弁明した。これはウソである。靖国神社とは戦没者の追悼施設ではない。靖国神社とは日本の戦争による軍事的犠牲者を英霊として、護国の神として祀る祭祀施設(神道施設・神社)である。近代日本は天皇を最高の神道的な祭祀者とする天皇制的祭祀国家として作られた。この神道的な祭祀体系としての国家のあり方は、帝国憲法の宗教規定を超越する超憲法的な国家の本質規定であった。これを国家神道的国家体制というのである。伊勢皇大神宮と靖国神社とがその中枢であった。近代日本のこの国家神道的な国家体制は、同時に軍事大国としての日本の国家体制である。この日本ミリタリズムの国家体制を支えたのが靖国神社である。戦死者たちは護国の神として国家によって祀られたのである。国民は靖国の神になることで戦争で死ぬ意味を与えられたのである。靖国神社を伊勢神宮とともにその中枢にする日本の国家神道的体制を、私は「戦う国家は祀る国家である」というテーゼをもっていった(私の『国家と祭祀』参照)。だから安倍の靖国参拝とは、国家の戦争犠牲者を護国の神として祀る祭祀施設である靖国神社への参拝であるのだ。

安倍と靖国参拝)したがって安倍の首相としての靖国参拝は、「戦う国家は祀る国家である」という近代日本の国家体制の連続性を主張する、あるいは戦前的国家体制の再興を主張する歴史修正主義的な行為である。これは明らかに平和憲法を自分のものとする日本国民と21世紀的世界への挑戦・挑発である。

安倍と靖国参拝)軍人だけではない多くの日本の戦争犠牲者に対する追悼の式典は、天皇も臨席して毎年行われている。にもかかわらず安倍が靖国参拝にこだわるのは、彼が靖国的国家体制にイデオロギー的に執着しているからである。この危険きわまりない時代錯誤の安倍の行為を許しているのはだれなのか。

安倍と靖国参拝)だれが安倍の靖国参拝を許しているのかと問うならば、その責めは自分自身に返ってくるだろう。国家主義的な陥穽とは、人々が意識的に目を塞ぎ、無知となって落ち込む陥穽である。安倍は国際感覚と歴史感覚の音痴だと思うが、国民もそれにお付き合いをしているのではないか


「論語塾」で気がついた。小説で描きたかったのは、マルクスの死を以て彼の学問は終わったことだったと。学問の属性は神の属性の如く永遠性にあらず、寧ろ理性の解釈に依っても回復できぬ一回的特異性だ。「人」が「信」に依るように、「学」は「終」に依拠する。祀られた学問の永遠性は本来性に堕する


「論語」は一つの例外を除いて、「仁」を定義しない。常に「仁」は「仁者」に即して考えられる。伊藤仁斎の人倫的に捉えられる「仁」の空間は、「平滑空間」として存在しているとしたら、それに対して、朱子学的に「愛の理」において規定される「仁」の方は「条理空間」として考えてみたらどうだろうか

同時代的に西欧物を紹介する学者と、寄生する雑誌と読者。日本ファシズムの問題に目を瞑れば、西田幾多郎を考える思索も明鏡止水だ、死体の息を吸うが如く。が、古義堂的の人倫共同戦線から、和辻と三木の朱子学的西田に挑む歴史もあった。今日誰が中国学の朱子学的オリエンタリズムに穴を開けるのか!

西田幾多郎
私は内的生命というも、外的生命に対して内的生命という如きものを考えて居るのではない、唯、如何なる意味に於てもノエマ的に見られる自己を没した直覚面的限定を意味するのである。(『一般者の自覚的体系』)



日本人がスゴイのは、日本人がスゴイから?反証の精神が眠りこけたトートロジー。参加の精神と個人の記録の達成を祝福する建前を忘れて、競争相手の他者を憎むことによってしか自己を愛せないのは、19世紀的遺物だ。NHK経営委員が称える時代遅れの'美しい日本'の根底に、このトートロジーをみた

参加の精神と個人の記録の達成を祝福するという建前は一体どこに?日本人がスゴイのは日本人がスゴイからという、反証の精神が眠りこけたトートロジー。他者を憎むことによってしか自己を愛せない19世紀的反動、なかでもNHK経営委員が称える時代遅れの'美しい日本'は、世界が酷く迷惑していない?

Un enfant chantonne pour recueillir en soi les forces du travail scolaire à fournir. Une ménagère chantonne, ou met la radio, en meme temps qu'elle dresse les forces anti-chaos de son ouvrage. Les postes de radio ou de télé sont comme un mur sonore pour chaque foyer, et marquent des territoires (le voisin proteste quand c'est trop fort).Pour des oeuvres sublimes comme la foundation d'une ville, ou la fablication d'un Golem, on trace un cercle, mais surtout on marche autour du cercle comme dans une ronde enfantine, et l'on combine les consonnes et les voyelles rythmées qui correspondent aux forces intérieures de la creation comme aux parties différenciées d'un organisme. Une erreur de vitesse , de rythme ou d'harmonie serait catastrophique, puisqu'elle détruirait le creation en ramenant les forces du chaos. - Deleuze & Guattari

A child hums to summon the strength for the schoolwork she has to hand it. A housewife signs to herself, or listens to the radio, as she marshals the anti-chaos forces of her work. Radios and television sets are like sound walls around every household and mark territories ( the neighbour complains when it gets too loud). For sublime deeds like the foundation of a city or the fabrication of a golem, one draws a circle, or better yet walks in a circles as in a children's dance, combining rhythmic vowels and consonants that correspond to the interior forces of creation as to the differentiated parts of an organism. A mistake in speed, rhythm, or harmony would be catastrophic because it would bring back the forces of chaos, destroying both creator and creation. - Deleuze & Guattari

一人の子供が、学校の宿題をこなすため、力を集中しようとして小声で歌う。一人の主婦が鼻歌を口ずさんだり、ラジオをつけたりする。そうすることで自分の仕事に、カオスに対抗する力をもたせているのだ。ラジオやテレビは、個々の家庭にとっていわば音の壁であり、テリトリーを標示している。都市の建造とか、ゴーレムの製造といった崇高な事業を起こすときにも、やはり輪が描かれる。だが、とりわけ重要なのは、子供が輪になって踊るのと同じように、輪の周囲を歩き、子音や母音を組み合わせてリズムをとり、それを内に秘められた創造の力や、有機体の分化した部分に対応させるということである。速度やリズムやハーモニーに関する過失は破局をもたらすはずだ。それはカオスの諸力を回復させ、創造者も被造物も破壊することになるからである。 - Deleuze & Guattari

かくもおさまらない、スポーツに熱狂する愛国主義が、新聞等のマスコミから言葉の魂を追放しているという現実は、なんと形容したらよいだろうか?どうにも止まらない、解釈改憲の横暴に気がつかさせないためには、戦前に行われた検閲みたいに特に黒く塗りつぶす必要もなかったみたい...

資本主義、コミュニズム、ファシズム No.1

財産の内部から財産に即して捉えることは、対象を<私の世界>に即して考えることとして成り立つことである。この<私の世界>は、下から上へと上昇するとき、<社会の領域>に移っていく。<私の世界>の不幸とは、政治経済学が発見した<社会の領域>によって足場を奪われるだけでなく、下降してきた<公の世界>にも測られてしまうことにある。曙における夜の闇がとらえられるのは、背後から突き刺さってくる光においてである。同様に、<私の世界>において他人から隠れていた多様性が捕獲されるのは、この<公の世界>における共通性においてであろう。この様にコミュニズムは財産から書き始めその否定で書き終えるというのは、驚きと言わざるを得ない。ところで。「資本論」は、コミュニズムが財産の否定に到るようには、商品の否定で終えてはいないことは、マルクスの不徹底さである。兎角、「資本論」は商品から書き出した。つまり対象を商品の内部から商品に即して捉えたことは確かだ。対象を捉える視点が私の世界と社会の間に不安定に揺れ動く過程において、対象から触知可能性が剥がされていく。その代償として身体が現れてくる。各々の身体の内側に隠れていた多様性が捕獲されるのは、繰り返すが、この貨幣という共通性においてだったのだ。「資本論」が記した大量生産と大量消費の社会的一体構造は、民族・ナショナリズム・財産のブルジョア共和主義的所有と同様に、理念的に追放され得るとしたら、そのためには、1867年の思考が1848以前の思考に依拠しなければならない。青年マルクス主義が理念的に構成した「類的本質」の概念に他ならない。


戦争体験の証言からなにを学ぶか?
靖国神社が作っていったのは、祀る国家と戦う国家。忘れてはならないのは、これが教育によって推進されたという事実だ。つまりそれは教育勅語を中心とした教育支配のことである。例えば、戦前の中学校は、靖国神社に木を植えさせ、その同じ木を地元の街頭にも植えさせた。と、そう語っていた生前の父は、模範的な首席として他の者を率いたのであり、この愛国的の精神主義の行進に疑問を持つこともなかっただろう。持っていたとしても沈黙したのである。さて安倍自民党は'絶対平和主義'をいいながら、戦争体制を推進した一体構造(信教の自由の蹂躙、政教分離の否定、教育勅語的愛国精神の高揚)に再び委ねようとしている。また「道徳」を教育の中に導入するといいながら、再び、道徳の根本に反するような軍国主義的精神主義を称える識者達の言葉を教えるつもりでいる。というか、鞭を打とうとしている。われわれは再び沈黙するのか。否。DON'T BE SILENT !


昭和の宗教者(清沢満之)だけでなく、三木清のような思想家や吉本隆明といった文学者までが、親鸞を再発見していった。そして現在、親鸞ブームだという。なぜなのか?この私といえば、イサイーアスに劣らず無神論者なんだけど、親鸞の衆生救済とはなにかについて知的な興味は多少ある。彼が説いた(絶対)他力本願の意義はどこにあるのか?ここで、十二世紀の時代背景に即していうと、元々比叡山の学問僧であった親鸞は、自分が行う布教について「教行信証」に書き留めている。それによると、自分自身の救済も含めて、人びとを救うことができるとは信じていないというから、衝撃ではないか!鎌倉時代の絶望しきった人びとを前にした親鸞の孤独。しかしもはや他者に頼るしかない絶望しきった彼の状況は、3・11以降の現在においても存在するではないか。われわれはもはや依拠できる構造がなくなったのだから。さて私はかんがえる。親鸞が救済を信じていないからといって、かれの衆生救済が「関係」だということには変わりはなかったのではないか。むしろ、絶望しきった「関係」においてこそ、なにものにも媒介されることがない「関係」そのものが介入してくるのかもしれないのだし。かえって、ここに、ラデイカル・ヒューマニズムとしての、徹底して他者に依拠していく運動の意義がみえてくるのだとしたら...。ヨハンナであれ、親鸞であれ、名前の違いに過ぎない。これらは全部、絶望しきった時代に投げ込まれたわれわれ一人一人の名前なのだから

1, Chu Hui (朱子,1130-1200) sees 'benevolence' (仁) as <the reasoning of love>, <the reasoning of benevolence>, and never speaks it as ' love' (愛) plainly. Why is it ? This is because, according to the doctrines of Chu Hsi, the human morality (benevolence, righteousness, propriety, wisdom) is equal to immanence of laws of Heaven. The moral thought of the Chinese scholar of Confucianism, that had rested its discourse on reasoning relationship of Heaven and humankind, teaches the moral thought is impossible without the relation of it to Heaven. But Jinsai Ito (伊藤仁斎,1627-1705),Japanese commentator of the Analects of Confucius, said definitely that 'benevolence' is no less than 'love'.

2, What Jinsai does is to cut off the metaphysical reasoning of relationship of Heaven and humankind, that has moral base, and to radically give ideological independence to his morality theory for the practical science disclosing the world of relationships of human affaires. (reminding us of the young Marx's concept 'Gattungswesen'). The intentionality, consisting in practical and moral object, makes Jinsai say definitely that 'benevolence' is no less than 'love'. Then, if Heaven itself is cut off from the reasoning relationship of Heaven and humankind, so what Heaven does it become ? This is the question.

' When Yan Yuan died, the Master said, Ah , Heaven is destroying me ! Heaven is destroying me ! ' (Book Eleven, 9)

Confucius heartbroken over the death of his disciple Yan Yuan complained bitterly to Heaven. This Confucius' existential hopelessness took Jinsai captive. I think that the Jinsai's Heaven is as ultimate faith as the Confucius' Heaven. I see Jinsai rediscover Confucius' Heaven when he says definitely that 'benevolence' is no less than 'love'.

- Nobukuni Koyasu 子安宣邦
(translated by takashi honda 本多敬)


Post-structuarism writing is no less fluctuation than 'property', just because Marx didn't call it ' labor-power'


安倍・舛添をひたすら支持していく宗教団体の腐敗。これは、宗教はかかわる公の世界を腐敗させ自らも腐敗してしまうというヨーロッパの15世紀、16世紀の歴史のことをかんがえさせます。この栄光と従属を祀る反宗教改革の時代に、男性原理と女性原理を融合させたバロック芸術が一気に開花した事実は、腐敗の一語では整理できぬ大きな歴史の運動が働いています。

18世紀の「理性の笑み」の時代、19世紀の「自然の怒り」の時代は、このバロック時代を経なければならなかったのです。バロック時代に生じた、公の世界(男性原理)と私の世界(女性原理)の交差と同等のものが、室町時代の芸術においても生じています。歌の漢詩である謡曲に、漢詩(公の世界)と、歌(私の世界)の交差をみる見解がありますね。こうして概観すると、男性原理に支配されてきた公の世界が、私の世界から立ちあがってきた運動によって、崩されていくというのは、東西に共通する普遍的な現象にみえます。



ダブリンで読んでいたのは「アイリッシュタイムズ」紙、そのあと、ロンドンで読み始めたのは、もちろん、この新聞。何回でも言うよ。イラク戦争に断固反対した新聞は他に、「ル・モンド」紙だけだった。(ニューヨークタイムズ紙なんか戦争推進だった) 遡ること、マンチェスター時代のときは、財政的に援助したエンゲルスが寄稿者だったというジャーナリズムの歴史をになう。三〇年代スペイン市民戦争のときは、反フランコ側に立ったその姿勢が大きく評価された

ー>「ガーディアン紙は、政府からスノーデン氏のリーク情報の引き渡しを要求され、訪れた官邸関係者の眼前で、編集長はNYT紙と情報を共有した上で、情報が入ったコンピューターのハードディスクを破壊した。これが民主主義国家のジャーナリズムです。」(金子勝)

Japanese people had ever carried out the history of massacre, fire and plunder.
As the natural consequences of our own foolish deeds, we terribly suffered massacre,fire and homicide. That is pain we understood only after we had experienced it.
The postwar constitution takes this pain all.
Now I ask you all; why don't you really understand that constitution has very plenty of guts.

ー Makoto Oda 小田実 2004
(translated.by takashi honda)


アルフォンソ・サストレ「さるぐつわ」を観劇。パソコンもInternetもない、舞台上のテーブルを囲む研究生の若者たち。スペインの矛盾を孕む過去の両義的解釈を証言した芝居に挑戦した。ここから、怒りを以て、公演パンフで日本の諸問題について書いていく。われわれはかれらの言葉に耳をかたむけるべきだ

エンツェンスベルガー Enzensberger
死刑賛成論者が何を根拠とするかに関わりなく、そのヒステリックな口調は、彼の欲望――圧倒的な権力に自己を同一化したいという欲望――を物語っている。個人には禁じられていること、つまり他人を「無害にする」こと、いいかえれば殺すことが、集団の所属者としての彼に、処刑という形で許される訳だ

今回は研究生達が各自、社会的テーマを設定し (ヘイトスピーチとか秘密保護法とか)、これらに即して芝居との共通点を考えた。憲法改正の問題の言及がなかったのでここでフォローできるだろうか。さてロッチ署長が殺された者(よそ者)を擁護するのは、イサイーアスの前であった。村人の処刑に加担した罪人も、刑に服した以上市民生活に復する権利があると擁護、つまり、<戦前との連続性>が絶たれた、と説いた。これはイサイーアスが納得いかぬ。ある時代に称えられるはずの同じ殺人行為が、現在非難を受けるのは何故かと反論、さらに署長の意外な過去を暴いていく。(お前も自分の過去を断ち切っているようだが、あまりに自分に都合がいい話だ。) これが、<戦前との連続性>の問題だ。この問題を、2014年の日本に投射してみるまえに、憲法が与えた象徴天皇制の意義を押さえておこう。安倍自民党は、憲法が天皇を政治権力の外に置いたことに不満だ。だから(憲法改正手続きで) 憲法そのものを葬りたい。<戦前との連続性>を回復するために。天皇の地位が政治権力の内部にあった、ファシズムを回復するために。が、彼らに委ねれば、再び領土問題が勝手に起こされてくる。ブレヒトのヨハンナは暴力は暴力しか呼ばぬと見抜いたように、領土問題の解決は常に戦争に訴えるしかないのだ。<戦前との連続性>が徴兵制の軍国主義的導入を要求してくる。米軍の無差別爆撃を支援する自衛隊が地球の裏側に行く。結論。「さるぐつわ」は、行き過ぎがあったが、平和を願う正義(レジスタンス)がファシズムを殺害した。これとは逆に、日本は(抵抗する声の不足ゆえに)、ファシズムが憲法を殺戮していく危険な状況だ


仁斎「仁は畢竟愛に止まる」について (子安宣邦氏)


伊藤仁斎の『童子問』は50年来何度も読んでいる。読み直すたびに驚きがあり、新たな発見がある。京都の市民講座で昨年来これを精読しているが、先週末も「仁は畢竟愛に止まる」と仁を端的に愛といいきる仁斎の言葉にあらためて考えさせられた。仁を愛といいきるのは仁斎においてである。
朱子は仁を「愛の理・心の徳」という。彼は仁を「愛の理」といい、端的に「愛」とはしない。なぜなのか。彼らは人の道徳性(仁義礼智)を天理の内在とするからである。中国儒家の道徳的思考は天人関係的理路によっている。天との関係なしには道徳的思考はない。では仁斎が仁を愛といいきるのはなぜか。
仁斎は天人関係という道徳の根拠づけ的な形而上学的理路を遮断して、彼の道徳論をこの人倫的世界の実学として成立させようとする。この実学・実徳的志向が仁を端的に愛といいきらせるのである。だが仁を愛といいきったとき、天人関係性から切り離された天はいかなる「天」となるのか。
顔淵の死に際して孔子は、「ああ天われを喪(ほろ)ぼせり」と天に向かって歎いたその「天」が仁斎に再び見出されてくるのである。孔子が己れの究極的な〈信〉を置いていた「天」が、仁斎における「天」となってくるのだ。仁を「愛」といいきる仁斎とは、この孔子の「天」を再発見する仁斎である。
「仁は畢竟愛に止まる」という仁斎の言葉を私は何度も読み、何度となく引用してきた。だがこの言葉と彼の「天」観とが不可分なのだと知ったのは今回の読み直しによってである。このような何度読んでも、その都度新たに教えられる古典的テキストをもてることは幸せなことである。

この頓馬は、別々の勘定?あっちでの災害の破局とこっちでの穏やかな生活、遠方の不幸とわが家での安心な生活、それを別々の勘定だと考える
菅官房長官ー>「内閣総理大臣たる私人としての安倍晋三が何故天ぷらを食べちゃいけないのか、言ってる意味があまりよくわからないというのが率直なところだ」

The dissolution of this realm into the social

It lost its private use value which was determined by its location and acquired an exclusively social value determined through its ever-changing exchangeability whose fluctuation could itself be fixed only temporarity by relating it to the common denominator of money. Closely connected with the social evaporation of the tangible was the most revolutionary modern contribution tom the concept of property, acording to which property was not a fixed and firmly located part of the world acquired by its owner in one way or another but, on the contrary, had its source in man himself, in his possession of a body, which Marx called ' labor-power'. - Hannah Arendt ' The Human Condition" 1958


Thinking is never altogether without a partner and without company.

The philosopher, even if he decides with Plato to leave the 'cave' of human affairs, does not have to hide from himself; on the contrary, under the sky of ideas he not only finds the true essence of everything that is , but also himself, in the dialogue between 'me and myself' (eme emauto) in which Plato apparently saw the essence of thought. To be in solitude means to be with one's self, and thinking, therefore, thought it may be the most solitary of all activities, is never altogether without a partner and without company. - Hannah Arendt ' The Human Condition" 1958


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