言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年二月 (後半 2)

<<   作成日時 : 2014/02/26 03:28   >>

トラックバック 0 / コメント 0




戦争推進した日の丸の前で起立しないこと、
それはなにを意味しているか?
三年間殆ど毎日、顔と顔との出会いであった。
その最後の大事な日に、愛したこの顔たちを前に、人間的に
人間らしい人間としての良心が、起立しないことを決めたのだ。
「国旗国歌法」は、戦争推進した日の丸を国旗として称えよというが、
ただしその悪法も、'起立して斉唱しろ'とまでは定めていない。注意しよう。
それなのに、過去に顔と出会ったこともないし、
おそらく未来に出会うこともなく、その意図も持たぬという、
この顔なき全体主義者は...

ー> 舛添知事、君が代不起立の教員処分「基本は国旗国歌法」



境界線で思い出したのですが、アイルランドの作家達は敢えて植民地総督の英国人作家スペンサーをアイルランド文学の父として名指すことによって、敵味方の境界線を相対化し敵をやっつけてしまうほどの狡猾な平和戦略をもっています。同じ戦略からコンラットもアフリカ文学の父です

新訳聖書はそうですが、親兄弟子孫に腐心している旧約聖書の方は、産めよ増やせよの一点張りです。マルクスなみに楽観的に、そして日本人のオブセッションのようにマゾヒズム的に、生産性の上昇によって現世での救済が可能となるという神話的世界観を見て取ることも

本屋で『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎・大澤真幸著)をみるたびに、気持ち悪い本が出てきたなあと思いました。やはり気持ち悪いことを書いている本だったようです。Fb友達でこれを読んだ人が、この文を非常に問題にしていました。「日本は、キリスト教ときわめて異なる文化的伝統の中にある。つまり、日本は、キリスト教についてほとんど理解しないままに、近代化してきた。」
へえー?果たしてそうでしょうかね、これは本当に眉唾ものですね。特にこの記述にかんしては。日本の暴力の問題に鈍感な橋爪や大澤といったオタク知識人からは、ナショナリズム的な排他性を感じます。これらの者が勝手に思い込む日本とは、日本のなかの日本、日本の中の日本の中の日本。そうして迷宮的に永久に続く果てに到達する到達点とは、彼らの宗教社会学に即していえば、お決まりとして用意された、「ふしぎな」起源としての神道しかありません。(所詮、お近代が都合よく自らを写像している過去の表象なんですけど。) しかし平田篤胤ですら、(禁じられた)同時代のキリスト教の影響を受けた可能性が大きいのです。例えば、彼が着眼した「安心」は中世からある一種の日本人を規定する独自の宗教感情といわれますが、近世の平田が構成していく「安心」はキリスト教の「救済」の概念から切り離してはあり得ませんでした。結論をいいますと、文化というのは「始め」も「終わり」もない雑多性としか語り得ない現象。ところが文化論の方は専ら常に男性一系の如き純血種の排他性に陥ります。次に続く本として、橋爪や大澤は東と一緒に、きもちがわるい「俺たちのふしぎな社会学」を出していただきたいです。絶対買いませんけど

いかにも編集者が設定したタイトルですよね。ところで読み手の側にある動機ならば、仮説としてこんなことも考えれます。まず、戦後は西側の道に従ってやってきてそれなりに成功してきたけれども、もうこの二十年間全くうまく行っていないという不満がありますね。そこから、ウルトラ右翼政治家がノスタルジックに物語る帝国の偉大な過去(1930年代!?) の幻想にも絡まれて、日本<固有>の道があるはずだというウルトラナショナリズムが出てきたということ。ただし、ウルトラナショナリズムといっても、ステレオタイプ的なファシズム迎合主義者を風刺した漫画とは違います。読者は、単一の価値観に縛られるようには教育が低いわけではありません。橋爪や大澤がいうキリスト教が西欧をメタ的に意味することを読み取る力もありますから、キリスト教受容の不可能性を読んでいるだけでなく、西洋なき近代化についての言説としても読んでいるのではないでしょうか。(本来なら、これは、保守リベラリズムが叩くべき言論の自己欺瞞的幻想ですが、沈黙しています。それどころか最近は、官僚的立場から国民道徳を'自由に'口にする官僚を称える有様ですね。)ヨーロッパ諸国に見劣りしない、非常に教育が高い読者をもった、日本の反動的な言説が、90年代以降、(隠蔽された単一性でしかない)、一的多様性のように型られる閉じられた全体主義を、あたかも開かれた多様性として広めています。2010年以降、ポスト構造主義者はオリエンタリストになりました。

海外に住むと、魚を食べていてもいなくとも、なんの根拠もなく、「日本人は魚臭い」という差別を受けることもあります。イギリスでは、日常生活の中で'普通'に「カレー臭い」といわれていることに怒るインド系知識人が新聞のコラム覧で、これがいかに差別を構成するのかと書くことが時々起きます。これについては、'問題になったときは解決されている'ということがありますから、絶えず可視化・問題化していく必要性があるのだと学びました。一方、東京の場合、アジアの人々を差別した言葉が流通しています。違和感に敏感な'善意'の人々の間でコミュニケーションを円滑にするために、相手からの共感を引き出さそうと差別の観念を利用することは、やはり行き過ぎです。私の知る限り、全国新聞においてこれを問いただす人々が絶望的に少ないですし、そもそも問い正さないということ自体が問題とされません。

チベットやウイグルの独立はどう考えていくべきか触れるべきでした。天安門広場前事件は完全に「取り消し」。現実世界に存在しないか、存在しても、古典テクスト解釈と公式歴史ロマンの中で解決済みと仄めかしただけです。結局討議からは論客の欲望以外は何も読み取れませんでした。@azureneo

ヨーロッパではサルトルが復活している。なぜか? われわれの方も、3・11以降の今日的状況にあって、急に、サルトルが立ちあらわれてきたという思いだ。それにしても、舞台に立つひとのあり方を問いかけてくる意義深い文だよね

「事実、私は、一切の責任者である。しかし、私の責任そのものについての責任者ではない。なぜなら、私は、私の存在の根拠であるのではないからである。それゆえ、すべては、あたかも私が責任者であることを強いられているかの如き観を呈する。私は世界の中に遺棄されている。といっても、私は、波のままに漂っている板のように、敵意を含んだ一つの宇宙のなかに見捨てられたまま、受動的にとどまっているであろう、という意味ではない。むしろ反対に、私は、私がその全責任を担っている一の世界のなかに、ただひとり、助けもなく、拘束されている私自身を、突然見出すのであって、私が何をしようと、私はこの責任から一瞬たりとも私を引き離すことができない、という意味である。なぜなら、責任をのがれたいという私の欲求そのものについても、私は責任者であるからである。世界のなかに私を受動的ならしめること、事物や他人に対して働きかけることを拒否すること、それもやはり、私を選ぶことである。また自殺は、「世界ー内ー存在」のさまざまなありかたのあいだにおける一つのありかたである。」ーサルトル「存在と無」より

カラー時代の到来のとき、テレビはビジュアルなアート史の番組制作に乗り出しました。BBCが依拠したのは、Kenneth Clark ケネス・クラーク。当時の番組台本を本にしたのが、'Civilization'。 1969年出版ですが、五十年代の本と勘違いしてしまうほど、かれの関心が常にギリシャを基底としたヨーロッパであり、ヒューマニズムに精神へと成長していくダンテ像とイブ像の歴史的変容です。そのヨーロッパもせいぜい19世紀までで、二十世紀は何も生み出していません。ロダンの彫刻バルザックが、(現在サルトル「存在と無」の表紙を飾っている)Giacomettiジャコメッテイの彫刻に置き換わることはないのです。(現在私が読んでいますけれど、) 当時アンナ・ハーレントを夢中に読んでいた英国の学生たちを野蛮で非情な'バイキング'の先祖帰りと考えていたに相違ありません。(下の写真がロダンのバルザック、この記事の上がジャコメッテイが手掛けた彫刻)


ホホ〜、久しぶりニャリ。

'アメリカでは大統領の名前を知らなくとも、誰でも連邦最高裁長官の名前はちゃーんと言えるんだ'という話を時々、大学の先輩達から聞かされると、ホ〜と感心したものニャリ。一方肝心のこちらはといえば、最高裁長官の名前など知る人が殆ど皆無。なぜ?そりゃー、そうよ。政府に合意するだけの、人々を苦しめる悪法をたたえるだけの(合憲) 判決ばかり長年製造したからじゃないの?失望のなかで軽蔑され憎まれてきた結果、もはや名に関心をもつ人がいないんだね、ここは。今回だって、欠番となった長官の椅子に、ズウズウしくも安倍のお友達が就任して再び居座る事態になればだよ、益々と嘆く人もまだいるのか、最高裁も廃業同然ニャリ


朝ドラ「ごちそうさん」が興味あるのは、私の少年時の体験の中にある〈内地の戦争〉が、私たちの親の世代の体験として描かれているからである。劇中の〈建物強制疎開〉も、自分たちの店も住居も取り壊された親たちにとってそれは何であったかをあらためて考えさせられた。
千葉の山村出身の私の両親は大正末年に川崎市中で薪炭商を営み、京浜国道沿いに店を構えた。昭和19年に建物強制疎開で店も住居も取り壊され、多摩川上流の農村登戸に移った。疎開に伴う移転の苦労によってか、父親はその年に死んだ。51歳であった。長男は既に中支で死に、次男は土浦航空隊にいた。
昭和20年、中一の私は陸軍幼年学校に志願したいといって母親を不機嫌にさせた。母親は返事もしなかった。戦後、戦死した長兄の遺族年金を受け取って母親は「お兄ちゃんのお蔭だ」と繰り返しいっていた。だが決して靖国に行こうとはしなかった。息子を死なしめたのは靖国だと思っていたはずである。 - 子安 宣邦氏より


[討議] 柄谷行人+丸川哲史 (帝国・儒教・東アジア) に疑問を呈す。

天安門前広場の抗議の声も空しく、中心なき自己差異化する差異体系が、大東共栄圏<マダム・ボバリーとしての中国論>という意味の病へ行く。70ー80年代に出た最も良質な知識人が拵えた21世紀版オリエンタリズム料理とは、諸国家が主体のマルチチュードを中心に、西田幾多郎少々、溝口妄言ドボドボ、どれくらい竹内が入っているのかは不明。天安門前広場の抗議を非政治的にとらえた政治性がかくも思考を表象に代えてしまったとしかいいようがない。批判のあり方としてある命懸けの飛躍も含まぬ。絶望しても人間が愚直に行う抵抗の意義を忘れ、(帝国の原理を活用した)システムに過大に期待した、官僚的な時代遅れの討議とおもった。
マルクス主義的ゲーム論とはこういうものだ。つまり、パレート最適といっても、他利的相互協調には全然足りない。復讐的互酬制の如く必然として働くナッシュ均衡の自力によって、それすら無理であろう。さて民族国家同志の不和にこの互酬原理が働くとすれば、それを断ち切った原理の構成が必要で、帝国の原理を生かす国家が登場してくるという。しかしこのようなマルクス主義的ゲーム論の饒舌こそ、帝国主義のアリバイづくりなのではないか。商品が主体となる単独者の交通、「マルクス、可能性の中心」でも、人間に委ねられるものが何か残っていた。が、諸帝国と諸国家が主体となる「大東亜共和圏構想、可能性の中心」では、人間に委ねるべき活動はもはや消滅したのか?私は理解できない



いまの社会がダメという意見をききます。しかしダメの問題ではなく、段々と社会が消滅し始めたことが問題なのだと思います。消滅させられてきたというべきでしょうが。これに関して、植民地化された多くの国々には、独立までは社会が存在しないのが普通です。経済が従属したままの、政治上の独立後も微妙。例えば、社会に反抗する近代文学ーリアリズムーは、植民地化された国々ではありえません。反抗すべき「社会」が存在しないからと考えられます。「個人」のあり方もちがってきます。近代文学ーリアリズムーは、世界の圧倒的少数派、帝国主義のジャンルに属します。ちなみに、 カフカは社会がない書き方をしますが、本当は社会を前提とした書き方なんですね。ジョイスの「ダブリナーズ」とは一見似ていていますが、なんといってもジョイスの場合は、社会が存在しないことを前提とした書き方です。違いに気が付きましたか?

異論はあるでしょうけれど、原発推進又は容認は<近代>に対応し、脱原発の「脱」は<脱構築>の「脱」に、反原発の「反」は<反近代>の「反」に対応しているのではないかと考え始めました。脱構築的言説に反発する人びとが原発を容認しているのはやはり思考の欠如のことを考えないわけにはいきません

もし集団自衛権体制のもとでは、例えば米軍にしたがってシリアにいく自衛隊が「攻撃」されるときに、これが、「外部からの武力攻撃」として、「緊急事態」として成り立つときめつけられてしまう可能性があります。(秘密保護法の下ではそんな攻撃が現実にあるのか、あったか知る方法がないから酷いものです。) 結局 憲法と人権が停止されていくかどうかは、(憲法がそもそも禁じている)自衛隊の行動によるという、(しかも自衛隊がついていこうとする米軍は世界中に展開している現状に鑑みると、)、おっしゃるように、 とんでもない、信じられないほど危険な事態となっていくことは間違いありませんね。

この国の健全な'常識人'さんたちは、平和を求める理想主義者が陥っている'現実感覚の喪失'をしつこく非難するのでありますが、さて、実定化された憲法の理想を尊重しろと要求することがそれほど'現実感覚の喪失'なのでしょうかね?'現実感覚の喪失'をつく論者の言葉を読むと、大抵、法学の知識を欠如させたたままで、政策学を垂れ流しているようです。また彼らが得意げに依拠する現実感覚も、アジアの現実感覚がすっぽり抜け落ちています。留学したヨーロッパの、しかもフランス・ドイツ・イギリスという限られた現実感覚しかないんですね。といっても、この国の健全な'常識人'さんたちは留学時代に、考えることができるという意味で理性ある人間として、フランス人・ドイツ人・イギリス人に扱われたことが一度でもあったのかどうかやはり聞いてみるべきです。

もし集団自衛権体制のもとでは、例えば米軍にしたがってシリアにいく自衛隊が「攻撃」されるときに、これが、「外部からの武力攻撃」として、「緊急事態」として成り立つときめつけられてしまう可能性があります。(秘密保護法の下ではそんな攻撃が現実にあるのか、あったか知る方法がないから酷いものです。) 結局 憲法と人権が停止されていくかどうかは、(憲法がそもそも禁じている)自衛隊の行動によるという、(しかも自衛隊がついていこうとする米軍は世界中に展開している現状に鑑みると、)、おっしゃるように、 とんでもない、信じられないほど危険な事態となっていくことは間違いありませんね。

“Much unhappiness has come into the world because of bewilderment and things left unsaid.” - Fyodor Dostoyevsky


Who is it to admit this terribly dangerous anachronism of Abe Cabinet ?
Oh, my pain. If the question were not thrown back to myself, I would be serene. Japanese retreat from reality and go to an asylum of ignorance.
Isn't this a plot derives from nationalism ? Shinzo Abe must be lack of both; the international way of thinking and recognition of history. I wonder why Japanese may still associate with him ? If we leave this as it is, the igonrant pig(s) will ask the question ; are we sorry we backed Hi-ro-hi-to ? Big Shame, again !


ジョン・フォード『静かなる男』(The Quiet Man、1952年)。アメリカを離れて自分のルーツであるアイルランドに移り住む主人公ショーン・ソーントン (ジョン・ウェイン) には、「詩情豊かなアイルランドの大自然もみどころ」という映画評は全くの出鱈目で、本当は映画が第三世界の街をびくびくと歩くかなくてはならない、'普通'のアメリカ人を皮肉っている。(嘘だと思ったら、最初にジョン・ウェインがいかに歩いているかご覧あれ。) アメリカ人に恨みを持たない国は一つもないほど米国は地球の隅々まで爆撃か,爆撃に準じたことをしているということ。ところが共同世論調査によると、集団的自衛権解釈改憲に賛成38.9%反対51.0%,という。これは、驚くべき高い異常な数字だ。日常生活の中で行儀よく周囲に気を遣う常識的小市民のなかに、まさか、地球の裏側にいく自衛隊をして全然知らない国に米軍が国益から行う一方的な爆撃を手伝わせると望む者が4割も!?あまりに外の世界を知らな過ぎるのか、あるいは、当たり前のように安倍政権を支持するこの日常生活が続いていること異常なのかと考え込んでしまう

Shinzo Abe ; historical revisionism

Who is Shinzo Abe ? Originally Abe was the legitimate child of the group of the historical revisionist, notorious conservative nationalism, in the Liberal Democratic Party. In the 90s Abe has begun to reassert himself as the political spokesman representing the group of the historian of historical revisionism, the commentator and the school teachers had required the <new history schoolbook>. Now they enter the government service as sort of bodyguards to Abe.
The establishment of the second Abe Cabinet means the Japanese government was plundered by that historical revisionist that I refered to. That juxtaposes it with the legal establishment of the Nazi is neither pointless nor exaggerated. The political tactics of the second Abe Cabinet, learning from failure of the past and keeping very high perecent approval, is more scrupulous, cunning and authoritarian than the first Abe cabinet.
What is the Abe's historical revisionism ? It is his demand, from Japan's nationalistic position, to complacently correct the assumptions - making the world history, that have been shared in the world after World War II. The rule of world history that Japan is a defeated nation is called into question by Abe, who thinks to have the given peace constitution system is as humiliating as to be a defeated nation.
Abe calls the system of the postwar peace constitution with the postwar regime, and claims its ending for the 'genuine' independence of Japan as State(politically and militarily).The ideology of the Abe cabinet is no more than new nationalism. After the victory of the election, it shows an undisguised nature of this ideology. From the people's viewpoint, the constitution is no more a gift than a blessing.We got the charter of human right as a quid pro quo for the big hardship and sacrifice of ourselves. We don't think it necessary to change it. But the historical revisionist can't stand on the side of us forced to hardship and sacrifice in war.
by Nobukuni Koyasu 子安 宣邦 (translated by takashi honda 本多敬)

子安宣邦 ‏

安倍と歴史修正主義)安倍とはもともと自民党における歴史修正主義的な保守的国家主義的グループの正嫡子であった。90年代に彼は〈新しい歴史教科書〉を要求する歴史修正主義的歴史家、評論家、教育者らのグループの政治的代弁者となっていった。このグループをいま政権周辺に位置づけている。安倍政権(第2次)の成立とは歴史修正主義者によって日本の政権が奪取されたことを意味する。安倍政権の成立がナチ政権の合法的な成立に類比されるが、それは間違った、過剰な類比ではない。安倍第一次政権の挫折に学んだ今次安倍政権の政治戦術は周到で陰湿で権力主義的である。安倍の歴史修正主義とは何か。それは第2次世界大戦以後の世界で共有されてきた世界史的な諸前提の日本の国家主義的な立場からの修正の要求である。日本が敗戦国であるという世界史的規定が彼によって問われるのである。敗戦国であることは与えられた平和憲法体制を意味している。安倍は戦後の平和憲法的体制を〈戦後レジーム〉といって、その終結と日本の真の国家的(政治的・軍事的)な自立を主張するのである。安倍政権のイデオロギーとは、この歴史修正主義的な新国家主義である。参院選の勝利後、安倍政権はそのイデオロギー的性格を露骨に見せている。国民の側からいえば、平和憲法とはただ与えられたものではない。国民の大きな苦難と犠牲を代償として始めて手にしえた大事な権利の憲章である。我々は与えられたものだから変えねばならないなどとは考えない。歴史修正主義者は苦難と犠牲を強いられた国民の側に立ってはいない。安倍は政権維持の自信から昨年末、抑えてきた靖国参拝を実行した。これは安倍の歴史修正主義的な国家主義的行為として、国内的よりも、国際的な批判、非難を呼び起こした。中韓だけではない、米国も不快感を示し、ヨーロッパ諸国もこの時代錯誤の行為に疑問を呈した。安倍の靖国参拝が、彼の歴史修正主義的な時代錯誤の行為として世界に露呈されたのが、今回の靖国参拝の特色である。安倍の靖国参拝とは歴史修正主義者安倍による戦後の世界体制への挑戦であり、挑発である。それは国際緊張を作り出す行為とみなされたのである。安倍は参拝後、どこの国の指導者と同様に戦争犠牲者を追悼し、平和を祈ったのだと弁明した。これはウソである。靖国神社とは戦没者の追悼施設ではない。靖国神社とは日本の戦争による軍事的犠牲者を英霊として、護国の神として祀る祭祀施設(神道施設・神社)である。近代日本は天皇を最高の神道的な祭祀者とする天皇制的祭祀国家として作られた。この神道的な祭祀体系としての国家のあり方は、帝国憲法の宗教規定を超越する超憲法的な国家の本質規定であった。これを国家神道的国家体制というのである。伊勢皇大神宮と靖国神社とがその中枢であった。近代日本のこの国家神道的な国家体制は、同時に軍事大国としての日本の国家体制である。この日本ミリタリズムの国家体制を支えたのが靖国神社である。戦死者たちは護国の神として国家によって祀られたのである。国民は靖国の神になることで戦争で死ぬ意味を与えられたのである。靖国神社を伊勢神宮とともにその中枢にする日本の国家神道的体制を、私は「戦う国家は祀る国家である」というテーゼをもっていった(私の『国家と祭祀』参照)。だから安倍の靖国参拝とは、国家の戦争犠牲者を護国の神として祀る祭祀施設である靖国神社への参拝であるのだ。





Why Shinozo Abe goes to the War shrine; Yasukuni
- Nobukuni Koyasu (trans. takashihonda)

Despite all unconstitutional act, Japanese Prime Minister (Shinzo Abe), having so confidence in his maintenace of power, has officilly carried out the War shrine (Yasukuni) worship since the end of last year. More criticism came from abroad than domestic. The Yasukuni worship by PM was seriously attacked as an inadmissible act of nationalism led by the historical revisionism of Abe. Not only China and Korea but America expresses their displeasure. And Europe has big doubt about his totally anachronism.
What is characteristic of the problem in Ysukuni worship is that Abe's worship has been exposed to the world as totally anachronism shadowed by his historical revisionism. Abe's Yasukuni worship means not only a threat to post-war world peace but a provocation of war. This is all done by Abe, the historical revisinonist, considered to be an act to cause international strain to the future.
After his Ysukuni worship Japanese PM (Shinzo Abe) said that he, as any leader of any country, mourned for a war victim and prayed for peace. This is a lie. Yasukuni shrine is not a memorial facilities for the war dead, but religious service facilities (Shinto facilities, Shinto shrine) that has worshiped military victim by the war of Japan as guardian God of the State, that is to say, the souls of the departed war heroes.



安倍と靖国参拝について - 子安宣邦氏

安倍は政権維持の自信から昨年末、抑えてきた靖国参拝を実行した。これは安倍の歴史修正主義的な国家主義的行為として、国内的よりも、国際的な批判、非難を呼び起こした。中韓だけではない、米国も不快感を示し、ヨーロッパ諸国もこの時代錯誤の行為に疑問を呈した。
安倍の靖国参拝が、彼の歴史修正主義的な時代錯誤の行為として世界に露呈されたのが、今回の靖国参拝の特色である。安倍の靖国参拝とは歴史修正主義者安倍による戦後の世界体制への挑戦であり、挑発である。それは国際緊張を作り出す行為とみなされたのである。
安倍は参拝後、どこの国の指導者と同様に戦争犠牲者を追悼し、平和を祈ったのだと弁明した。これはウソである。靖国神社とは戦没者の追悼施設ではない。靖国神社とは日本の戦争による軍事的犠牲者を英霊として、護国の神として祀る祭祀施設(神道施設・神社)である。
近代日本は天皇を最高の神道的な祭祀者とする天皇制的祭祀国家として作られた。この神道的な祭祀体系としての国家のあり方は、帝国憲法の宗教規定を超越する超憲法的な国家の本質規定であった。これを国家神道的国家体制というのである。伊勢皇大神宮と靖国神社とがその中枢であった。
近代日本のこの国家神道的な国家体制は、同時に軍事大国としての日本の国家体制である。この日本ミリタリズムの国家体制を支えたのが靖国神社である。戦死者たちは護国の神として国家によって祀られたのである。国民は靖国の神になることで戦争で死ぬ意味を与えられたのである。
靖国神社を伊勢神宮とともにその中枢にする日本の国家神道的体制を、私は「戦う国家は祀る国家である」というテーゼをもっていった(私の『国家と祭祀』参照)。だから安倍の靖国参拝とは、国家の戦争犠牲者を護国の神として祀る祭祀施設である靖国神社への参拝であるのだ。
したがって安倍の首相としての靖国参拝は、「戦う国家は祀る国家である」という近代日本の国家体制の連続性を主張する、あるいは戦前的国家体制の再興を主張する歴史修正主義的な行為である。これは明らかに平和憲法を自分のものとする日本国民と21世紀的世界への挑戦・挑発である。
軍人だけではない多くの日本の戦争犠牲者に対する追悼の式典は、天皇も臨席して毎年行われている。にもかかわらず安倍が靖国参拝にこだわるのは、彼が靖国的国家体制にイデオロギー的に執着しているからである。この危険きわまりない時代錯誤の安倍の行為を許しているのはだれなのか。
だれが安倍の靖国参拝を許しているのかと問うならば、その責めは自分自身に返ってくるだろう。国家主義的な陥穽とは、人々が意識的に目を塞ぎ、無知となって落ち込む陥穽である。安倍は国際感覚と歴史感覚の音痴だと思うが、国民もそれにお付き合いをしているのではないか。


Why Shinozo Abe goes to the War shrine; Yasukuni
- Nobukuni Koyasu (trans. takashihonda)

Despite all unconstitutional act, Japanese Prime Minister (Shinzo Abe), having so confidence in his maintenace of power, has officilly carried out the War shrine (Yasukuni) worship since the end of last year. More criticism came from abroad than domestic. The Yasukuni worship by PM was seriously attacked as an inadmissible act of nationalism led by the historical revisionism of Abe. Not only China and Korea but America expresses their displeasure. And Europe has big doubt about his totally anachronism.
What is characteristic of the problem in Ysukuni worship is that Abe's worship has been exposed to the world as totally anachronism shadowed by his historical revisionism. Abe's Yasukuni worship means not only a threat to post-war world peace but a provocation of war. This is all done by Abe, the historical revisinonist, considered to be an act to cause international strain to the future.
After his Ysukuni worship Japanese PM (Shinzo Abe) said that he, as any leader of any country, mourned for a war victim and prayed for peace. This is a lie. Yasukuni shrine is not a memorial facilities for the war dead, but religious service facilities (Shinto facilities, Shinto shrine) that has worshiped military victim by the war of Japan as guardian God of the State, that is to say, the souls of the departed war heroes.
Modern Japan was fundamentally made as the State centering on the system of Emperor that would conduct the Shinto religious service. The way that the State should be as the system of Shintoism consists in the national essence, that forms itself so super-constitutional that it transcends the normal religious liberty provided for in the imperial constitution. We call it the political system of the State Shintoism. With Ise Ise Grand Shrine, Yasukuni shrine had played a pivotal role in State.
The political system of the State Shintoism in modern Japan is no less than political system as established military power. It is Yasukuni shrine that has ever supported national polity of Japanese militarism. As the guardian of the State, any solder killed in action was promised to be worshiped by the State. Strikingly, a meaning to be killed in war was given to a people, to whom the official story engaged in propaganda; ' don't worry too much because you would be welcomed by Yasukuni, as God, after the death. Why don't you kill the enemy as possible as you can for your State ".
Yasukuni shrine with Ise grand shrine had ever played a pivotal role in State; the political system of the State Shintoism. As to this I have my own thesis; the State fighting is the State worshiping (see my book, "the State and the religious service".) It says Abe's Yasukuni shrine worship is nothig but the worship worshiping military victim by the war of Japan as guardian God of the State, the souls of the departed war heroes.
This is why PM Shinzo Abe goes to Ysukuni shrine.Therefore Abe insists on a dangerous continuity of the political system of modern Japan as " the State fighting is the State worshiping', or on the revival, led by his historical revisionism, of the political system before the war. Nio doubt it is a threat and provocation not only to Japanese people who hope to appropriate the pacifist Constitution to their own, but also to the world of the 21st century.
The memorial ceremony for many Japanese war victims (not only for military personne) is held every year. The Emperor attends it too. However, the reason Abe is over-particular about Yasukuni shrine worship is that he ideologically attaches to the political system of Yasukuni shrine . But who is it to admit this terribly dangerous anachronism of Abe ? Oh, my pain. If the question were not thrown back to the interrogator, he/she/they would be serene.Japanese retreat from reality and go to an asylum of ignorance. This is just a plot derives from nationalism. PM Shinzo Abe must be lack of the international way of thinking and recognition of history. I wonder why Japanese may still associate with him ?

the narration in Godard's "Film Socialism" (2010)
ゴダールのソーシアリズムのナレーション;1789年に、新しく樹立された体制のもとで、中間団体の特殊的諸権利が廃止された結果、普遍的に共通な権利しか存在しなくなったという。共通な権利の名宛人は一人一人のフランス人だ。(資本主義の大きな権力と直接向き合うことになった)個人と法との間にはスクリーンが不在だ
Je ranconte 1789 nuit 4 août
Avec les corps sont abolis tous les droits particuliers
Il n'y aura plus qu'un droit commun
droit commun applicable universellement
condamné à chaque Français
Plus aucun écran entre l'individu et la loi


全く足りないのではありますが、また矛盾もしていたのですけれど、車に対する環境規制を訴えたこともある、あの下品極まりない親爺のほうが、環境にかんしては、守るべき環境はないと言い切ることはなかったかもしれません。いくら去勢された上品の仮面で隠しても、息子は救いようがありせん。一般的なこととして、「本音」の前提には「内面世界」が先行するはずですが、内面世界がない表層だけの人間のありかたについて考えさせられます。判断力はあるようです。その証拠に、馬鹿なりに親爺のサディズムを模倣していますし、ある意味では、絶望的に、永田町の辞書をひくと、環境は産業の意、としか書いていないのだから、役割に意識的とさえいえます。しかし沖縄の人々をまえに、人間としての立場が問われるところです。人間的な良心となると、さて、どれくらいの重さがあるのか全くもって不明と言わざるをえません。そもそも「公の世界」は重さがない真空地帯なのかもしれませんが



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年二月 (後半 2)  言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる