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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年三月

<<   作成日時 : 2014/03/03 09:08   >>

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<信>とはなにか?

自己の出生の秘密を知りたいとき人々が依拠していく<信>とは、見られず聞かれることもない<私の世界>にあります。そこで祈りが成り立つのだとおもわれます。しかし<私の世界>に留まるままでは生物的限界を超えれません。このようにして、この<私の世界>にはすでに、未来に生まれてくる人々と共有する<公の世界>が前提とされています。ここではっきりさせておきたいこととは、<信>は共同体に関わる本質をもっていますが、共同体に関わるからといって、他者を排除する必然性が無いということです。他者を排除することは、宗教とは全然異なる領域から来るものではないでしょうか。靖国公式参拝支持者は、自ら依拠する<信>としての神道を、国家ー即ち、他者を殺すためなら自己も死ぬという対外戦争によってしか自己自身のを創り出せない国家ーから自立させることを考えるべきではないでしょうか。不可能ではないとおもいます

なぜふたたびサルトルなのか?

最高裁の無原則的逸脱に沿って、安倍の信仰する自由をいう意見があります。憲法の構造から、国家を人権享受主体としてあつかうのは無理があります。ところで神道の歴史は儒家的影響下にあり、したがって心に向き合う宗教としてあったという指摘があります。知識が足りませんが、私なりに推測すると、その伝統は例えば生き方を説くお御籤に残っています。さて近世に入り、神を外部化した宣長と、天の聖人的人格化(天祖)をいう徂徠からの一定の影響を受けた形で、後期水戸学の言説がナショナリズム的な言説を展開しました。戦争する国家が自らの栄光を祀る為に、明治政府が創ったのが靖国神社です。実はこの靖国は誰の為にも祀るのではありません。それは戦う国家のために祀るだけです。そこで「戦う国家、祀る国家」という説が成り立ちます。だから靖国神社の宗教性・祭祀性という問題について考えることは、国家の宗教性・祭祀性という問題について考えることとパラレルです。祀る国家は、どこから生まれ死後どこへ行くかを物語り国民に安心を与えます。「安心」を「危険を避ける」と解しますと、西欧で、社会を理念的に構成した功利主義と社会契約論と同じになります。つまり祀る国家、戦う国家は、ズバリ言うと、近代国家は対外戦争することができ、国民が国家のために死ぬことができる国家としてしか成立できなかったのです。靖国神社の(根拠薄弱な)原初的起源の特権性だけをいうが、その靖国神社が保証人となるおかげで国家が推進できた戦争について言わないということは許されないことです。丸山説とは違って、近代日本と近代西欧に現われた国家形式といえるのです。戦後憲法は天皇を理念的に再構成し象徴天皇をつく出しました。ところが戦前天皇制との連続性を断つほどの理念性の力が靖国神社を再構成できないのは、主権性に依るからです。中国という他者像を裂く排他的ナショナリズと国家主義の前に理念性が無力ならば、主体の存在論的抵抗しか残されていません。ヨーロッパでサルトルが復活している動きと連動する必然性に立ち会っているようにおもわれます


靖国神社の宗教性・祭祀性という問題について考えることは、国家の宗教性・祭祀性という問題について考えることとパラレルです。ズバリ言うと、。近代国家は対外戦争することができ、国民が国家のために死ぬことができる国家としてしか成立できなかったのです。もし靖国神社の(根拠薄弱な)原初的な起源の特権性だけをいうが、その靖国神社が保証人となるおかげで国家が推進できた戦争のことを言わないということがどうしてありえるでしょうか!?

Nobukuni Koyasu (子安宣邦) says;

1.China is always being there such as the State ceaselessly evoking the question on the definition of China; 'what is China?' It is particularly so for us in Japan. Unavoidably, the question on China is for us much more urgent than the ones on America and Russia. The question, coming from the presence of China at the presnt time, urges our answer definitely.
2. It is the magazine 『Contemporary thought』(『現代思想』) for March that awakes the question on ' what is china' , and, referring to the whole history of China, gives to the readers the answer with re-constituted the constitutive iconcept "the principle of Empire" based on the traditional China-centered view of the world idea 'Empire'. On ' Empire, Confucianism, East Asia" was the theme of a round-table between Karatani and Marukawa talking along the special edition of the magazine.As they intend, their talk is too political to hide their aspiration.
3. Of what they speak with the vocabulary spinning the single 'manifold' is more re-constituing, meeting the China's expectation, both of <the principle of Empire> and <Confucianism over the East Asia zone > than answering the question 'what is China'. The modern Japanese intellectual, for the national interest of Japan,had reconstituted <the principle of Empire> with <Eastern Asia Confucianism>. Now what is behind the talk in that they, for China, began making <the principle of Empire> and <Confucianism over the East Asia zone >?

ツイッターtwitterでのやりとり

「最高裁の無原則的逸脱に沿って現在の安倍内閣が靖国を国民宗教化しようとしていることとおなじ程度に、憲法の政教分離の原則を嘲弄していると言わざるを得ません。常の事として、古代の起源に遡る、文化論的言説というのは、非常に危険な言説となることをはっきりと自覚したいです」(私の投稿)

<ご質問> 国家の在り方として、神社を参拝する程度の宗教さえ禁じてしまう方が、恐ろしい事だと思いませんか?

<私の回答>思いません。理念的な約束事ですから憲法が内閣公式参拝を禁じている以上、他の宗教と同様、普通の神社として存続していく道を探るべきです

<ご質問> 総理大臣にも信仰の自由があると言ってはいけませんか?国民に強制しているわけでもないですし、宗教の無い国ということが平和憲法の意図であるとも思えませんが…

<私の回答> 憲法の構造から、国家を人権享受主体としてあつかうのは無理かと。神道の歴史は儒家的影響下にあり、心に向き合う宗教としてありました。その伝統は、例えば、生き方を説くお御籤に残っています。近世に入り、宣長と徂徠からの一定の影響を受けた、後期水戸学の言説が、神を外部的に祀り始めます。戦争する国家が自らの栄光を祀る為に明治政府が創ったのが靖国神社。実はこの靖国は誰の為にも祀ることはありません。それは戦う国家のために祀るだけです。。「戦う国家、祀る国家」という説が成り立つ所以です



ヨーロッパの政教分離とは何であったか?

ヨーロッパの明の中心は、ルネッサンスと宗教改革を契機に、懐疑精神と内省の領域へと移行しますが、その過程で、対抗として生じるのが反宗教改革です。教会権力は、バロック的芸術家を結集しこの彼らに祭祀的崇拝の対象としての神像の制作を委ねました。アンナハーレント風にいうと、芸術家自身が創造神となった時代。オペラが始まるのもこの時代。ベリーニーの彫刻はかくも巨大なのに、重力に抵抗すべくバレリーナよりも高く宙を舞いました。 感情のほかには縛られるものがなくなったかのようなアダムとイブの快楽の身体、カラバッチョが描くキリストの絶望した表情は、ハリウッド映画の先駆をなすものです。さて二〇世紀ファシズムの起源をこの反宗教改革の時代に求める説もあるほど、互いに介入し合う国家と宗教の間に、止められない巨大な腐敗の無が忍び込び始めます。文明の崩壊を止めるためには、政教分離の道しかありえません。が、政教分離の原則が公の世界に宣言されてくるのは、フランス革命を経て、やっと1870年のパリ・コミューンにおいてでした。国家が担う義務教育、公教育の場に、宗教を持ちこまないという形で広まっていきます。バクーニンが亡命したスイスが重要な役割を担うのですが、それ自身興味深い別のテーマです。日本の憲法に本当の意味での信教の自由と政教分離の原則が定められてくるのは、パリ・コミューンの75年後だったという計算になりますね

「構成原理」は無誤謬の神話に陥る危険性がある。脱構築的な批評性をもつのは「統整原理」の方だ、と、われわれに教えてくれたのはカントを読みぬいた柄谷行人ではなかったか。だから柄谷の〈帝国的原理〉は帝国主義的「構成原理」でなく、脱帝国主義的「統整原理」でなければならないだろう。ところでそれは一体何故なのか?この問いにたいして、〈帝国的原理〉が帝国主義的構成原理ではないからと丸川が補うとき、これは同義反復の言説に陥っている、いいかえれば「構成原理」の罠に嵌っていると言わざるをえないのだ

構成原理は無誤謬の神話に陥る。脱構築的な批評性をもつのは統整原理の方だ、と、教えてくれたのは柄谷行人だ。柄谷の〈帝国的原理〉は帝国主義的構成原理でなく、脱帝国主義的統整原理でなければならない。何故か?それが帝国主義的構成原理ではないからと丸川が補うとき、同義反復の言説に陥っている



構成原理は無誤謬の神話に陥る。脱構築的な批評性をもつのは統整原理の方だ、と、こう教えてくれたのは柄谷だ。柄谷の〈帝国的原理〉は帝国主義的構成原理でなく、脱帝国主義的統整原理でなければならぬ。なぜそうかといえば、帝国主義的構成原理ではないからと丸川が補うとき、これは同義反復の言説だ


靖国神社は戦争とは関わることはなかった、関わることも不可能だった、なぜなら古代からあった神社であったからとする意見があります。そしてこの意見が靖国はそもそも憲法が禁じる宗教に該当しないとまで言い切るとき、それは、大きな問題を悪い方向に構成していきます。つまり、最高裁の無原則的逸脱に沿って現在の安倍内閣が靖国を国民宗教化しようとしていることとおなじ程度に、憲法の政教分離の原則を嘲弄していると言わざるを得ません。常の事として、古代の起源に遡る文化論的言説は、非常に危険な言説となり得ること、なってきた歴史を知るべきです。このことを、坂口安吾ほど理解していた人はいなかったとおもいますね


おバカな逸脱、すなわち、最高裁判決による政教分離からの無原則的逸脱のことですが、これは、「国民宗教」「公民宗教」とか「市民宗教」という名で呼ばれる「国家(国民宗教)」をめぐる議論をまさしく復権させました。これとパラレルで、靖国神社は戦争とは関わることはなかった、したがって、問題のない古代からあった神社とする意見が、靖国は憲法が禁じる宗教にあたらないということをいっています。これは非常に欺瞞的なのですけれど、ところが、かえって、安倍が靖国と軍国主義との結びつきを明確にした上で靖国を扱っているのは、靖国側の崇拝者たちにとっては都合が悪いのでしょうね、そうみえます。考えを変えたのではなく、安倍の存在は困るのです

Jeanne Moreau ジャンヌ・モローがダブリンのIFCにきたとき、友人のフランス人が対談のインタビューしましたから、そのときの発言はよく覚えていますね。ジャンヌがブニエル映画でデビュー。元々コメディー・フランセーズの舞台俳優で、映画撮影について何も知らず、カメラの前で、大勢の観客の前で演じるような演じ方をしたといいます。当時は常に沢山着せられたのは、衣装スタッフが自分を映画女優としては醜いと思い洋服で隠そうとしていたと思いだしていました。知る人ぞ知る、祖母はアイリッシュ。そのジャンヌのかくも憂鬱な表情は、新しい映画を求めていた'実存主義'の観客達から圧倒的に受け入れられたのですね。下の映像が決定的でした。とはいえ、実生活では必ずしも常に憂鬱ではなかったのに、親しいデュラスからも、「あなた苦しんでいるのでしょう、苦しんでいるのね、分かるわ、顔を見ればわかるのよ」と言われていたそうです。ジャンヌは、若いトリフォーたちのヌーヴェル・バーグ運動を助けました。一時間前に集合して必ず、「映画とは何か」について議論を行ってから撮影に入りました。「顔は人間の真実をあらわす。だから嘘だらけのハリウッド映画は(特撮で) 顔を隠している」と痛烈に批判したことが忘れられません。映画に対する批判を超えた、社会に対する批判の言葉でした

l'écriture, et tout le rest, soient production de vitesses et lenteurs entre particules.
Delueze&Guattari' 'Mille Plateau'

Writing, and everything else besides, as a production of speeds and slowness beteween particles.

「原爆の問題に国境があるのか?」に関しては、線で引いたような国境があるはずもありません。放射能汚染について騒がずただ静観している隣国など存在しませんよね。原発問題は徹底して、国際問題にほかなりません。したがって、汚染評価は自国だけで行う権利があるかどうかははじめから疑わしいですし、また、仮に自国だけで行うと一体どんな事態が起きてくるのかについては、苦々しくも、東京オリンピックの誘致した安倍内閣の行動によって十分にシュミレーション済みです。もはや隣国に対しても、未来の人々に対しても、いつまでも同じ類の過ちを繰り返しすことは望みません。プライドを捨てて、国際社会への協力を積極的に求めることこそが最も正しい方向といえないでしょうか!


新聞のなかでも、大切な役割を発揮しているいくつかの地方紙がありますが、全国紙ですね、足りないのは。ザ・ガーディアン紙のように何十万部でもいいので政府から独立した立場をしっかり打ち出せる新聞が一でもあれば、われわれはやっていけるんです。本当に、最後の最後の手段としては、壁新聞もあり


中国の問題を通して、アイルランドの歴史について考え、さらに現在マイノリティーを抑圧している日本の問題を考えています。恥ずかしながら、私の認識に間違いがあるかもしれませんが、原発の問題を考えるときはデモに集まった人々の中から考えたいですし、正直そこからしか考えることもできないようにですね、中国の問題を考えるときもやはり抗議する人々に沿って考えていくのが真ではないかと思っています。さて宋を継いだという帝国の清朝は、19世紀列強の半植民地化の下で事実上奴隷の立場に転落してしまいますが、20世紀において、その失った帝国性が社会主義(毛沢東)の形式として高度に回復されていくという言説が、中国イデオローグ+柄谷行人によって語られ始めています。この場合、ヘーゲル的にいうと、客観的精神(「礼」)と主観的精神は各々、儒教と中国共産党に対応します。ところが帝国の儒教的原理に社会主義の衣装を与えても、またいくらポストモダン的位相の一的多様性の流行だと説かれても、独立を求めるチベットとウイグルそして天安門事件の眼からは、帝国主義的<一>の鎖にしかみえないのではないでしょうか?成程丸川哲史が強調するように、帝国の原理であって帝国主義にあらずと言い切るのなら、人々に宗教の自由を与え、宗教によっては差別されぬ平等な教育が存在するか、言論を表明する自由を保障しているという体制が最低限必要。これは事実によって判断すべき事柄。これは現在マイノリティーを抑圧している日本の中心的問題でもあります。差別のない信仰の自由と言論の自由を求めることにかんしては、あちらとこちらとの間に妨げる壁は無いと、遅きながらやっと気がつきました



ところでこの場を借りて書かせていただきますと、宋を継いだという帝国の清朝は、19世紀列強の半植民地化の下で事実上奴隷の立場に転落してしまうが、20世紀において、その失った帝国性が社会主義(毛沢東)の形式として高度に回復されていくという言説が中国イデオローグによって語られはじめました。この場合、ヘーゲル的にいうと、客観的精神(「礼」)と主観的精神は各々、儒教と中国共産党に対応するというのです。しかし帝国の儒教的原理に社会主義の衣装を与えても、いくらポストモダン的位相の一的多様性の流行だと説かれても、独立を求めるチベットとウイグルそして天安門事件の眼からは、おそらくは、帝国主義的<一>の鎖にしかみえないことでしょう。中国問題を通して、アイルランドの歴史を語ることになっていくことになるかもしれませんが、

原発科学者でもないくせに、3・11以降も、科学の着実に進歩し続けていくあり方を疑わず無批判に受け入れる「現実感覚」とは一体何でしょうか?反原発運動を宗教的と嘲弄する「現実感覚」は一体、どこから嘲弄しているのか、わたしは疑問におもいます。 むしろこの「現実感覚」の方が、(非科学的と糾弾する) 宗教が約してきた永遠の他世界よりも遥るか彼方遠くに、市民として生きる人間としての思考を奪われていることにいつ気がつくのでしょうか?

近代としての原発体制をいかに乗り越えていくか

3・11 以降、三か月間のあいだ全国新聞は、街頭における数百人規模からはじまった反原発の意思表示をまったく無視しきったわけですが、大江健三郎がこの国の知識層はなぜかくも世界から遅れているのかと言い始めたのが、危険な原発推進の方向にイタリアやドイツの国民がNOと国民投票で決めたときでした。やはりというか多くが現在なお「曖昧な日本の私」のまま慣性の法則にとらわれています。それどころか、「現実感覚」とやらが喋りはじめたのをみるにつれて、原発を擁護する言説、これは、近代の問題に属する事柄と気がつきはじめました。反原発運動の中心に、「自然」についてのヴィジオンがありますね。ヴァリエーションはありますが、兎角、自然という不合理性に従属するような受動性に反発を覚えるのが、近代。この近代が反原発運動の主張にたいして「宗教的」と名指さしていることに沈黙しているようでしたら、原発問題の解決はありえません。線形的な一直線しか知らない科学の楽観主義は実は近代の楽観主義です。近代としての原発体制、すなわち原発問題は思想問題と切り離してはあるのではないというのが私の考えです。


Today, three years after 3.11. We live <Fukushima-in-the world>
No more apparently unbothered optimism of a steadily progressing science


Modern man, when he lost the certainty of a world to come, was thrown back back upon himself and not upon this world; far from believing that the world might be potentially immoral, he was not even sure that it was real. And in so far as he was to assume that it was real in the uncritical and apparently unbothered optimism of a steadyily progressing science, he had removed himself from the earth to a much more distant point than any Christian otherworldliness had ever removed him.
Hanna Arendt 'The human condition'

千のプラトー:資本主義と分裂症
1)エクリチュールも、それ以外のものも、すべて微粒子相互間における速さと遅さによって生まれるということである。そうした速さと遅さに耐えうる形式は一つとして存在しないし、それを生きのびることのできるような性格や主体もありはしない。


3・11 以降、小さな人間たちは現れたのは、外部からでした。大きな人間の決定に介入するために、新しいものを加える行動が必要だとかんがえたのです。自由とは、このように、外部の人々が新しいものを加える行動を共有することです。また行動とはプロセスとしてしか定義できないようなXです。さて歴史的にいっても、小さな人間たちが現れるときというのは、公の空間を新しくつくる形を通して現れてきたのではないでしょうか。行動が生成消滅するだけでは足りず、過去から未来に伝えていく記憶化という物象化が、公の空間に他なりません。これに対して保守反動の支配の秩序は、'記憶させまい'と、この公の空間を破壊します。領土ナショナリズムを煽ったり、靖国神社公式参拝をしたり、さらには中立であるべき公共放送に猿ぐつわをかませるということに現れた、力による専制です。またプロセスとしての行動に対して、その無意味さを説く言説も危険な萎縮効果です。自由を主権性に縛る保守的な信念に支えられた言説がそれです。日頃は紳士顔で複数性の価値観を称えているくせに、(自由の不確実性を恐れるあまり)、自由の与件である複数性に反発している有様。事柄に熟練した技能をもったリーダーシップ(古臭い政治家)に依存する「現実感覚」の必要性を繰り返しています。が、こうした大きな人間に依存する「現実感覚」は、街頭に出始めた小さな人間たちのリアリティーとは全然別のものです。声が小さくとも、このことをはっきりと知るようになったからです。すなわち、原発問題を解決するためには、3・11以前において原発を推進してきた主権性の構造(政財官マ)に再び委ねることが不可能であるということ



他者からの<許し>、他者の前の<約束>

自分達が何をしていたか自覚なく罪を犯かした場合、その国民が永久に自己を責めることは避けられないのである。この非人間性に陥る呪縛を断つのが、他者が与える<許し>である。この他者からの<許し>は、将来において過去の過ちを決して繰り返さぬという不可逆的な<約束>を伴う。つまり他者の前の<約束>のことだ。ここで、他者からの<許し>の倫理性が成り立つのは、他者からの介入においてである。とはいえ、自分が自身を許すことは不可能ではない。実際に、安倍と安倍支持者たちは戦争犯罪にかんして自分で自身を許す行為にでている。そのことによって、他者を追放し始めている。つまり、憲法の構造を殺しはじめている。これはそのまま、戦争を繰りかえさないと他者の前で誓った<約束>を壊すことに帰結していく。しかしこうして、日本人において、他者の前で、永久に自己を責める苦しみもふたたびはじまるということだ。なによりも恐ろしのは、この自己の罪悪感を消すためには、ふたたび戦争の暴力によってしか、その他者を殺戮していくしかなくなるという悪循環であろう。


ホホー、85歳のチョムスキーはよく来てくれた。感謝。ただ気になるのは、われわれは彼の努力に値するのどうかだ。西欧ものは売れるという出版社の計算がみえみえだし、会場に入れた人からきくと、上品な英語を喋る質問者が大変お行儀がよいという。(え?それだけ) 日本の暴力に言及しない・言及できない点では、ふらんす思想と全く違わないか?、ロンドン大学で行った、SOASでのテリー・イーグルトンの講演のときは、会場の入り口で思わず後ずさりしたニャリ。炎の竜巻があがっている、とおもったら、席も演壇上も旗によって埋め尽くされていたんだ。講演のあと質問タイムのときも質問者がイーグルトンを無視した激しい演説。イーグルトンといえな、かれも滅茶苦茶、これに耳を傾けて興奮していた。ホ〜、アイリッシュ系共和主義者なんでただ酔っぱらっていたかもしれないが(笑)。ここは中心がない集会だと身震いしたものニャリ!

17世紀アムステルダムといえば、寛容の精神。カトリック教会、プロテスタント教会、ユダヤ教のシナゴーグが向き合っています。17世紀以来計画されたのは、どのような他者が来るか分からぬというリスクを負いながら、だからといって最初からその他者を拒んでしまうと成り立たなくなる運河です。つまり寛容の精神、他者への信頼の形が、運河という社会的エンジ二アリングだったのですね。ところでレンブラントはユダヤ人たちの生活を最初に描いたアムステルダムの画家です。スピノザの家から10分のところにいましたから、会っていた十分な可能性があります。(賛否両論はありますが)ドキュメント映画作家フラファティーが単純に人類学的リアリズムにとらわれることがなかったように、レンブラントの場合もルネッサンスのリアリズムに依存することはありませんでした。旧約聖書の神話の内部から神話に即して他者を描くという、バロックの矛盾を孕んだ過剰な想像力が介入したのですね。実際に会わずとも、レンブラントが同時代の精神、スピノザの精神を視覚化したことは確かだと思います。オランダ人がユダヤ人を描くことにどんな意味があったでしょうか?新しく外から入ってくる人々について考えることは、受け入れる人々が自己の誕生について新しく考えることではないでしょうか。これとは逆の方向に、外部との接触によって豊かに育まれる文化を憎悪し、偽の文化概念に基づく起源に執着するのが、靖国問題だと気がつきます。戦争責任を曖昧にし、いつまでもアジアとの戦争を終わらせずにいる不寛容に必要なのがまさに、開かれた21世紀に相応しい社会的な運河のエンジ二アリングではないでしょうか

The canal in Amsterdum is not only beautiful but social. It is amazing that they didn't really knew who would enter their canal, but in the beginning they never refused them coming. Although it must have been high risk, what they built in 17th centrury was sort of engineering of trust on the Other. Spinoza wrote the Ethika as engineering social canal, that has lost modern State in 21th century not hiding its hate, narrow minded nationalism in War Shrine, to the Other.
by takashihonda

保守主義者たちは理想主義を嘲弄して得意な顔ですが、この保守主義者らの伝家の宝刀である「現実感覚」とはそもそも何でしょうか?保守主義者の言うことに耳をかすと、観念がいかに目の前の現実を裏切ったかを見抜く「現実感覚」を持てと繰り返しています。よろしい、もしそうならば、たとえば、放射能について「日本のxxxは安全です」の如き3・11以前に安全神話としてあった観念と現在の事態とを見比べることも、必要とされてくる「現実感覚」にほかなりません。このように、「現実感覚」さえしっかり持てば、今後、保守主義の道をいく舛添のようなタカ派核武装論者が「日本が抑止力の核を持つことは危険ではない」と説いてくるときは、核について「日本のxxxは安心です」という一方的な観念のもとで起きうる未来の現実も、冷静に考えることができるというものです。


千のプラトー:資本主義と分裂症 ‏

seq2 不定形の空気のような連続体にその影を投影する始めも終わりもない組織網を形成することになるか、それを知ることが問題である。――(上)p234




はじめまして、私、ジャパニーズ・イングリッシュと申します。友達のなかには、永遠に無垢なオーストラリア英語とか、無骨なアメリカ英語、反抗的なアイルランド英語、ついでに口先だけのイギリス英語など大勢います。けれどもこれまで、グローバル英語というものを見たことがございません。ホホー、もし明日道端で出会ったら、ギネスビールでも三杯飲ませようかと思います。hic *** と、酔っておとなしくなったところで、首をつかんでそのまま海の外へ蹴とばすのでございまするニャリ

マイノリティーに、さるぐつわの国
女性議員の割合、日本127位 
先進国で最低水準続く
国会議事堂は事実上のアパルトヘイト

Awful. Who puts a gag in in minority's mouth?
The proportion of Dietwoman is 127th place.  
The most low level among the advanced countries.
The Diet building Japan is no less than APARTHEID

言葉で一羽の鷗を撃ち落とすことができるか 
言葉で沈む日を思いとどまらせることができるか 
言葉でバルセロナ行の旅客船を増発できるか 
言葉で人生がはじまったばかりの少女の薄い肩をつかむことができるか 

私は悲しくなると けむりを見ている

寺山修司 terayamasyuzi


ホホー、この時期はどうも試験らしい。隣で、勉強している高校生男女二人が、合間に、お互いに写真を撮り合っいこしたりと色々と忙しい。昔は制服をきたままで二人がいく場所としては、ハンバーグとかピザのファーストフード店しかなかった。昔はテーブル内属のインベーダーゲームしかなかったニャリ。
「ああ、みんなどんどん変わっていっちゃうな。むかしの方がちゃんとしていたのにさ」と、真面目そうな方かツイッターをうちながら溜息をついている。一六、七歳ぐらいでも、もう[昔] があるんだなと感慨深かったが、と同時に、自分の中の容易に思い出せぬ過去の世界に一瞬疎外されてしまったのであった(以上)


堀 茂樹 さん hori_shigeki
外国語は他者の母語です。それを学ぶのは他者性を受け入れる事です。ところがグローバル英語は、なるべく誰の母語でもなく、世界中の人の意思伝達の道具であるべき言語です(でないと、言語帝国主義の性格が強くなる)。英語母語話者は一見有利ですが、外国語の孕む他者性に出会う機会を逸しがちです。


- Et à quoi vous a servi, monsieur Artaud, cette Radio-Diffusion?
Artaud-- En principe à dénoncer un certain nombre de saletés sociales officiellement consacrées et reconnues:

神の裁きと訣別するため
――ところでアルトーさん、このラジオ放送はいったい何の役に立ったんですか?
――主として、公に尊敬され、承認されているある種の社会的な汚猥を弾劾するためである。




このNHK会長にかんしては最初から、良識そのものが無意味だと考えているのかもしれません。つまり、嫌なことですが、安倍周辺が称えているナチスの手法について考えてみなければならないのかもしれません。一応参考までと前置きしますが、ハーレントが書いていたことを紹介しますと、ナチスの場合、言動が事実によって覆されたら、例えば、占領した'パリの地下鉄はそもそもナチスのおかげでできた'というプロパガンダが事実によって強力に反駁されたら、間違いを訂正するのではなく、徹底的にパリの地下鉄を破壊しつくす(つまり存在しなかったものとする) のが、ナチスの破壊衝動です。いわゆる功利主義的な、認識の秩序を支えるバランスがないのです。そうすると、良識そのものを無化しようとするかれらには、いくらどんな良識に訴えても無駄なことである、とハーレントは強調していました。もしファシストであるとすれば、パリの地下鉄を壊すぐらいですから、NHKなどは...。この点にかんしては、どうか、わたしの心配しすぎる誤解であることを祈っています。時代も違いますからね


この頓馬は、そこまで言い切るのは安全神話よりもっと危険な精神論。想定外に、ただ絶望的に成り行きに委ねるしかなかったし、たまたま現在があるだけかもしれないというのに!
ー> 安倍晋三「想定を上回る地震や津波に耐えうるということが証明された」(テレビ; 原発再稼働、わたしはこう思う)


この頓馬は、自分達が称える封建反動的な新儒教の言う通りにしたがえば、上の者、親を敬うときがこの今おいて他にないと気がつかないのか。卑怯者でなければ、翻訳する言葉を与えてくれた親にも値する詩人が拷問されていたら、私の親を拷問するな!と、「帝国の原理」とやらに対してはっきりと抗議すべきだ。

ー> 丸川哲史「帝国主義ではなく、帝国の原理を活用することだと思います」


「未完成であり、不完全であっても、書きとめ、何かの形を与えるのが――しかも素早くそれをやってのけるのが、船中の仕事なのだ。」

この辻邦生の言葉は、講座「二十世紀精神史」の渡辺氏が時々口にした。もし注意深い読者ならば、この一文は、未完成でありかつ不完全であることを称えていることが読み取れる。そして、未完成な状態と不完全性は、舩中の仕事によってのみ、可能となるということでもある。ここから、二十世紀的な<完成=完全>の体系からいかに脱出するか?という問題に集中していく。船の方法にたよった戦前は二か月かかったし、遠藤周作が行った戦後直後もそう早くはパリのもとには着かなかった。辻も数週間かかったはずだ。辻が言う「舩中の仕事」とは、他ならないこの<遅れ>を意味したのである。ところで現在は飛行機でわずか十時間で行ける。<遅れ>は事実上消滅してしまったのだ。さて現在「舩中」にかわるものとしては、ネットの贋金づくり(=文づくり)という旅のことが安易に思い浮かぶ。だが、果たして到達地からの誘惑の風がそれほどの吹いてくるのだろうか?況や、誘惑の風があっても、それすらからも逃げて遠回りしていくほどの、アイロニーの思考の到来となると、今のところ大いに疑問と言わざるをえないのである。それどころか毎日海賊に襲われる..


On intersection intersecting

One of my Fb friends has felt embarrased when she read the book entitled " The strange Christian religion " (written by both of Japanese sociologist, Daizaburo Hashizume and Masayuki Osawa). It is a best-selling. A hundred thousand number of copies flyed.But, ironically, that title really sounds sranger.
That title reflects itself an allergy to foreign countries ? She and I cannot accept their firm judgement as saying, " Japan has the peculiar cultural tradition that is exclusively different from Christian religion". In other words,Japan modernization had not had any common experience with Christianity". Is it true? Their words cannot be taken at their face value. Insensitive to a problem of the violence in
Japan are the intellectual freaks such as Hashizume and Osawa, in whom I sense some narrow-minded nationalism. I ask "what is Japan?" Then, I'm sure, the sociology of religion always answers me with tautological labyrinth; Japan is Japan. Japan is Japan that is Japan, so on.( that sounds, 'socks in socks in socks ...". This is simply worldlessness) The only guarantee to avoid it from falling in break-down is Shintoism, that, against the universalness of the pacific Constitution, isolatedly stands as the supposed primitive origin that is no more than a projection on which the modern Japan represents itself.

But attention! Even Atsutane Hirata, a representive scholar of the Japanese classics as the pupil of Norinaga Motoori, had been affected by Christianity through the some forbidden literature on Christian religion. For example, the key concept in Shintoism of "the relief" (安心) that Atutane focused, believed to trace back to the Middle Ages, may be his invention. I mean, Atsutane appropriated Shintoism to himself along his study on Christianity.The point is that culture is intersecting intersection; neither boundary nor segmentation. But we have to mind that culture theory, as found in the study of Hashizume and Osawa , has made an error; forged concept arbitrarily speaking on peculiar culture and origin that is more or less man-made world of thoroughbred, an unbroken of line of Emperors. That is silly chorus of nationalism.


新しい編集長のもとに「現代思想」(青土社)が左翼を全部放逐したということが起きているようです。現在日本には左翼が書く雑誌が事実上存在しなくなりました。言論は一線を越えました。非常に危ない状況です。それならば、「現代思想」にかわるものをネット上でつくれないかと、小さい抵抗ではありますが、この四月から、昭和思想史研究会は新しく、現代をテーマに、とくに日本ファシズムを中心に、講座を開く予定。わたしも、子安先生のあとに、五月に喋る予定。柄谷行人の「世界史の構造」を批判していきます。
経営状態'が非常に厳しいようなのです。そうすると一種の 民営化とおなじことが起きようとしているみたいで、もともとのポジジオンに戻ったといえばそうなんですが、もっぱら売れる海外の思想だけを紹介していくという露骨な'ノンポリ'の右翼的方向を目指そうとしています。(朝日ジャーナルの最後の数年間をおもいだします。) わたしも海外にいてよくはつかんではいなかったのですが、実はこの傾向はずいぶん前から指摘されてきたことで今回決定的になったようです。朝日新聞の内部でどの本を書評するかを決める権力をもち、いまや岩波書店の書き手となりつつあり柄谷は、「現代思想」を我が物にしていこうという動きを展開しています。正直「理解に苦しむ」のはむしろ、柄谷行人の方です。野心家のかれになにか大きな野心が生まれているのではないかと、(過去において) 直に知っている子安氏は察しています。私のほうは、柄谷の思想は25年間近く読んできましたかね。正直自分の間違いではないかと疑うことを繰り返している有様ですが、この数年間にヤバクなってきたことは本当です。あるいは自分がヤバイのか、両方がヤバイのか、検証する必要があります。なにはともあれ、ご関心をもっていただきましてありがとうございます。励みになります。五月のことはまた、ご連絡申し上げます。


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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年三月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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