言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ふくろうねこ、かく語りき 2014年 3月後半

<<   作成日時 : 2014/03/16 02:24   >>

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ホホー、卑屈な人間というのは、「秘密保護法で自分は捕まるような事はしない」と言うぐらいしか言うことがない、それまで秘密にしていた、自分の空っぽさに気がついてしまうだけでなく、実はそう言わされたことに気がつくと、その後で一層卑屈になって自分で自分を惨めにしてしまわないかニャリニャ?

ヘーゲルは述べている。婚姻は即自的、概念的に、解消不可能である。ただし、即自的にだけ、つまり概念的にだけ、そうである、と。しかしいかなる婚姻も、完全にその概念に合致するものではない。-マルクス1.174-5


遊牧民の生活形態は民俗学に委ねるしかないですが、理念としての遊牧民のありかたを考えるときは、必ずしも<遊牧民は国家を必要としない>という問題提起は可能とおもいます。その場合の国家は、17世紀に成立してくる近代国家として理解することが、現代の問題を考える上で欠かせません。マルクスがユダヤ人問題を提起したのも、ここからです。つまり19世紀において、同質性を基盤とした近代国家の成り立ちに先行していたのは、異質な達者を排除していくナショナリズムでした。今日EUのありかたも結局は、スイス連邦やアメリカ合衆国、国蓮と同様に、国家の枠組みをモデルとした超国家的国家にすぎません。だから、国家の構成員として定住しないジプシーに対する排除が起きてくるのは、19世紀に、ドレフュス事件などのユダヤ人問題が起きてきたこととまたくパラレルなのです。青年マルクスの問題意識を継承したドゥルーズの代表作のタイトルがは'千の高原'でした。理念としての遊牧民のありかた、例えば、一的多様体としてあるリゾームのあり方に対する大きな関心が1970年代、80年代からでてきたのですが、もうそのリゾーム論も古典です。つまり左翼だけのテクストではなくなりました。右翼もリゾーム論を展開し始めています。現在厄介なのは、その一的多様体の論理を利用しながら、帝国としての中国のありかたを正当化していく、日本の右翼的アカデミーの存在です。柄谷行人のようなひとは最後までラジカルな左翼でしょうが、右翼的に、帝国としての中国を構成し始めました。かれがいう、'華僑'を語るとき、(あたかも、同化しない周辺の運動として、中心に影響を与えていくアジアのユダヤ人として?)、遊牧民としての活動に比較しているのは、なにか、やはり、べらべらと思いつきを水平的に並べているようにもみえますけれどもね。わたしには理由がわかならいのですが、多分政治的なものが語らせるのでしょう

日本のマスコミはあまり報じようとはしません!?

状況にたいして説明する適切な言葉を、読者に与えることができないのかもしれません。が、そういう場合であっても、写真だけでも載せればいいのです。人々は映像があれば考えることができますから。アメリカによるイラク侵攻のときは、ヨーロッパでも報道規制がひかれましたが、これを逃れる形で、ユーロ・テレビがコメントのない映像を一日中流していたことを思い出しています。官邸前での原発体制に対する抗議のときは、デモする自由を妨害してくる政府の干渉の現状は、ロシアよりも酷いと考えた人々は少なくないでしょうが、今回は、ネットで流れてくる映像を手掛かりに、今回は長年軍事独裁下にあった台湾と比べても自由のない体制がはっきりとみえてきました。たとえ人々の生命にかかわる重大な事柄で集まっても、国会前で抗議する自由がいかに無いのか、秘密保護法の包囲のことも含めて、どれだけの包囲に取り囲まれてしまうのかということですね


海外にいたときのあいだは、毎日毎日、新聞が、自由の観念について関連したテーマを読者に考えさせていました。帰国して最初の一年間は、遅れを取り戻そうと熱心に新聞を読んだのですが、根本から自由の観念について論じているひとは誰もいませんでした。どこどこの国の自由は危ないぞ、という覗き的記事があふれているのですがね。(悪い意味で)もっぱら経験論者。昔はよく分からなかったのですが、こういうエンゲルスの一文を読むと、成程なるほどと、考えさせられます。「理論的思考をどんな過小評価しようと、事象を関連させ、関連の成立を見抜く事は理論的思考なしにはできない。弁証法に対する経験による軽視は、最も冷静な経験主義者の幾人かをあらゆる迷信の内で最も不毛なもの、心霊論へ導く事で罰せられているのである(自然の弁証法)


柄谷行人の'交通'は本当に、それほど交通だったのか?

西欧のオリエンタリストといえば、死んだ文化しか愛せない態度だ。現在における日本の問題を無視してひたすら日本の古典だけを読むのも、死んだ文化しか愛するつもりがない、交通を欠いた読みであろう。ところでこれはカントとマルクスについてもいえる。彼らが書いた18世紀と19世紀が、(経済学の学説が言うような意味で) 周期的に、20世紀と21世紀においても反復すると読者に信じこませるとしたら、いくらキルケゴール的遊戯として成り立っていても、やはりそれもオリエンタリズムに属する、交通なき神秘主義の言説にほかならない


都知事選で自らを脱原発とした舛添のように、原発から被害を受けたからといっても、ここから反原発の思想が生まれ出るかどうかは別の事柄であろう。同様に、丸山真男がファシズムの被害者だった事実は確かでこれはみとめなければならないが (被爆者でもあった)、ただしその事実をもってただちに、かれがいう'内なる天皇制'の言説が反ファシズム的と承認することには疑問がある。丸山のこしらえたコインは、'日本人がこうだ、こうならなくっちゃならない'という文化論的言説を刻印してはいる。が、はたして、その内実として素材的に、思想を批判していく思想性がどれだけ含まれていたかは疑問なのである。現在もはや丸山コインは殆ど流通しなくなったが(海外でも)、「日本の思想」が思想を微塵も含んでいなかったとはっきり言ったら、ここで怒る者が大勢でてくるだろう。しかし本当に怒るならば、思想の問題としてファシズム、つまり天皇主義を批判していく思考が足りなかったことに怒るべきではないか。これは誰々に宛てた書いたのではなく、批判できていないこの自分自身に対する抗議の言葉として書くのである。


本と映画

ロシアの本はイコン画で装飾されています。そんな絵の人物がみつめてくる本みたいな映画をつくったのがタルコフスキー。トリフォーのほうは分身の不良少年に、バルザックの本を祀らせました。蝋燭を灯して誰にも見られぬように手製の祭壇をこしらえたのは、それが彼にとって彼とともに生きる本だったからです。どんなにゴダールが否定しようとも、その祭壇とは、ヌーヴェルバーグにとっては光と闇の中に置かれた映画のスクリーンのことでした...

ロシアの本はイコン画で装飾されています。そんな絵の人物がみつめてくる本みたいな映画をつくったのがタルコフスキー。トリフォーは分身の不良少年に、バルザックの本を祀らせました。蝋燭を灯して誰にも見られぬように手製の祭壇をこしらえたのは、それが彼にとって彼とともに生きる本だったからです

Disgustingly, MP Abe in the Netherlands says his detemination for the world in the 21st century properly holding the history recognition of WWII ? I really hate it because it is only duplicity. MP Abe in Europe, keeping his head high, professes great facade that he never wolld speak in Asia. He is segregationist with a herdbook in modern Japan so that, owing to him, the awful discrimination awareness spreads.

安倍はオランダで第2次世界大戦の歴史認識をしっかりもって21世紀世界に対する決意をいったりしているようだが、嫌だねこの男の二枚舌は。アジアでは決していわないことを、平然とヨーロッパでは胸をはっていったりする。近代日本の血統書付きの差別主義者だ。この男の下で差別主義が蔓延する。

Nobukuni_Koyasu. (translation by takashihonda)


食べ物が豊富にあるのに一方で飢える人々が大勢でてくるというシステム?

十九世紀半ばにアイルランドに大飢餓が起きたときも、百万人が餓死するその傍らで、実は大量の食料が英国の船に積まれていた。これと同様に、現在飢えているアフリカに食料が不足しているわけではない。本来ならば彼らが食べる権利のある食料がことごとく欧米の市場に運ばれてしまうのだ。そしてこの命を与えてくれる食べ物と交換に受け取るのは、不毛な死をもたらす武器たちだ。都知事候補者の一人が日本が豊かになるために寧ろ武器商人であることを誇る国家になれ!と訴えたとき、このかれに大きな拍手した支持者たちは、貧しい国々がどうやってその代金を払うのか一秒すら考えることもないほど無邪気だ。さてブレヒトが描いたのは、牛肉市場の投機に陥る三十年代のシカゴだ。やはり、ここでも、市場の原理のもとに、価格が崩れないようにと、大量の肉が捨てられていくようになった。労働者達の大量解雇。包囲されたストライキのバリケードに向かって発砲される、「聖ヨハンナ」が耳にした機関銃の音。時と処を超えて、未来の飢えるアフリカから聞こえてきた機関銃だったかもしれないのだ。食べ物が豊富にあるのに一方で飢える人々が大勢でてくるというシステムのなかで、飢えていくほかない血の悲鳴とともに


ヨーロッパとはなにか?これはこれ、あれはあれ、と、互いに異なるようにみえる<二つのもの>同士をそう簡単には切り離せないところが、ヨーロッパがヨーロッパである所以でしょう。実は、やはり、われわれも、そうなのです。<二つのもの>をそう簡単に分けてしまうことができないのです。自由をいかに定義するにしても、すくなくとも、自由の観念の前提として、この二つがあるにちがいありません。ところで他者とはなにかと考えるときも、やはり他者の観念の前提に、<二つのもの>があるということがあります。したがって、他者を否定する自由などは、ちょっと考えてみれば直ちにわかるように、あり得ない話でしょう。あり得るとしたら、自由を否定する自由をみとめてしまうことになるでしょうが、これはまったく無意味です。こういうのは頭で考えれば納得がいくことです。厄介なのは、認識に属さぬ存在の現れです。すなわち、満場の拍手と声援がなくとも、靖国的に目を伏せるあなたの沈黙の眼差が、私を殺戮してくる場合です。

ホホー、家族葬が多くなってきたらしい。病院からそのまま火葬場に送る直葬も。これは葬儀屋さんから聞いた話だが、金銭的余裕がない。あっても、葬式をしない理由に、近親者の者が死んだことを知られたくないというのがあるそうだ。集まってきた大勢の人に頭を下げるのがいやなんだという。(葬儀の手厚く世話をしてくれる学会関係の遺族にかえって多いとか。) 子供もいないし、いても、墓参りにくるはずもないので念仏もお墓も無意味でしょう?見られたくない、聞かれたくないプライベートの世界に、「私」葬化していく方向で全然いいんじゃないかニャリ

Michel Foucault ' Les mots et les choses'

Ce livre a son lieu de naissance dans un texte de Borges.Dans le rire qui secoue à sa lecture toutes les familiartiés de la pensée - de la notre; de celle qui a notre age et notre géographie -, ébranlant toutes les surfaces ordonnées et tous les plans qui assagissent pour nous le foisonnement des etres, faisant vaciller et inquiétant pour longtemps notre pratique millénaire du Meme et de l'Autre. Ce texte cite , une certaine encyclopédie chinoise> où il est écrit que < animaux se devisent en ; a) appurtenant à l'Emprereur, b) embaumés , c) apprivoisés d) cochons de lait, e) siréns, f) fabuleux, g) chiens en liberté, h) inclus dans la présente classification, I) qui s'agitent comme fous, j) innombrables, k)dessinés avec un pinceau t rès fin en poils de chameau, l) et caetera, m) qui viennent de casser la cruche, n) qui de loin semblent des mooches>. Dans l'émerveillement de cette taxinomie, ce qu'on rejoint d'un bond, ce qui, à la faveur de l'apologue, nous est indiqué comme le charme exotique d'une autre pensée, c'est la limite de la notre; l'impossibilité nue de penser cela.

This book first arose out of a passage in Borges, out of the laughter that shattered, as I read the passage, all the familiar landmarks of my thought - our thoughtm the thought that bears the stamps of our age and our geography - breaking up all the ordered surfaces and all the planes with which we are accustomed to tame the wild profusion of existing things, and continuing long aftrerwards to disturb and threaten with collapse our age-old distinction between the Same and the Other. This passage quotes a 'certain Chinese encyclopaedia' in which it is written that 'animals are divided into; (a) beloning to the Emperor (b) embalmed (c) tame(d) sucking pigs (e) sirens (f) fabulous (g) stray dogs (h) included in the present classification (i) frenzied (j) innumable (k) drawn with a very fine camelhair brush (l) et cetra (m)having just broken the water pithcher (n) that from a long way off look like flies '. In the wonderment of this taxonomy, the thing we apprehend in one great leap, the thing that, by means of a fable, is demonstrated as the exortic charm of another system of thought, is the limitation of our own, the stark impossibility of thinking that.

この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ。いま思考と言ったが、それは、われわれの時代と風土の刻印をおされたわれわれ自身の思考のことであって、その笑いは、秩序づけられたすべての表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取り図とをぐらつかせ、<同一者>と<他者>についての千年来の慣行をつきくずし、しばしば困惑をもたらすものである。ところでそのテクストは「シナのある百科全書」を引用しており、そこにはこう書かれている。「動物は次のごとく分けられる。a皇帝に属するもの, b香の匂いを放つもの, c 飼いならされたもの, d 乳呑み豚, e人魚, fお話にでてくるもの, g放し飼いの犬, hこの分類自体に含まれているもの, i気違いのように騒ぐもの, j覚えきれぬもの、k駱駝の毛のごとく細の毛筆で描かれたもの, lその他, mいましがた壺をこわしたもの, nとおくから蠅のようにみえるもの」この分類に驚嘆しながら、ただちに思い起こされるのは、つまり、この寓話により、まったく異なった思考のエクゾチックな魅力としてわれわれに指ししめされるのは、われわれの思考の限界、<こうしたこと>を思考するにあたっても、まぎれもない不可能性にほかならない。ミッシェル・フーコ「言葉と物」(渡辺一民訳)



[鬼神論]では、鬼が地に降りる陰の霊(魄、身体)と、神が天に昇る陽の霊(魂、精神)に対応した。自然哲学的には結局魂は消滅してしまう。そこで、祀る意味を失わないために祀りの信は理によって説明されていく。フーコが「言葉と物」の序文でいう、「われわれの思考の限界」が指示されるまえに(ボルヘスが参照しているのは永楽大典?)、まず、宇宙の集合と意味の集合とが一致する必要があった(朱子語類)



活動し語る人々は、最高の能力をもつ工作人の助力、すなわち、芸術家、詩人、歴史編纂者、記念碑建設者、作家の助力を必要とする。なぜならそれらの助力なしには、彼らの活動力の産物、彼らが演じ語る物語はけして生き残らないからである。
ハンナ・アーレント ‏hannaharendt(『人間の条件』24)



子安氏の配布レジュメより


この'季路問事鬼神'章をめぐる解釈から儒家の多様な鬼神説が成立する。仁斎は鬼神の問題を、死後の問題とともに道徳論的に、認識論的なレベルの外に斥ける。「仁斎は務めて力を人道の宜しき所に用い、智者はその知り難きを所を知るところを求めず」という仁斎の言葉が、学者には自らを置く制約があり、その制約の外に鬼神・生死の問題があることをいっている。私はこれを儒家における「無鬼論」とよんでいる。祖霊祭祀を祭祀儀礼の中心とする儒家的立場に立つ限り、鬼神無しとする全くの'無鬼論'は成立しない。仁斎の場合は、鬼神の問題を道徳的、認識論の圏外に置いてしまうのである。それに対して祭祀共同体を人間におけえる共同体形成の始まりとして重視する徂徠は'有鬼論'の立場に立つことになる。彼が鬼神有りをいうわけではない。祭祀共同体を人間の社会集団の中核として認める限り、彼は'有鬼論'の立場に立つことにあるというのである。さらに仁斎の'無鬼論'とも、徂徠の'有鬼論'とも異なるものとしての朱子の'鬼神説'あるいは'鬼神解釈の説'がある。詳しくは私の'鬼神論ー神と祭祀のディスクール' 白澤社 を参照されたい。ここではこの「季路問事鬼神」章についての朱子の解釈(集注)だけをここに弾いておこう。を「鬼神に事えんことを問うは、蓋し祭祀に奉ずる所以の意を求めるなり。而して死は人の必ず有るところ、知らざるべからず。皆切問なり。然れども、誠敬以て人に事うるに足るに非ずんば、即ち必ず神に事うること能わず。始めを原(たず)ねて生じる所以を知るに非ずんば、即ち必ず終わりに反りて死する所以を知ることを能わず。蓋し幽明始終は、初めより二理なし。皆これを学ぶこと徐あり・・・程子曰く、昼夜は死生の道なり。生の道を知れば、即ち死の道を知る。人に事うるの道を尽くせば、即ち鬼に事うるの道を尽くす。死生人鬼は一にして、二、二にして一なるものなり。」(論語集注)


鬼神論では、鬼が地に降りる陰の霊(魄、身体)と、神が天に昇る陽の霊(魂、精神)に対応した。魂は消滅してしまうが、祀る意味を失わないために祀りの信は理によって説明されていく。フーコがいう世界の体系が閉じる前に(永楽大典)、まず宇宙の集合と意味の集合が一致する必要があった(朱子語類)

高度成長の終焉の後に、ジャパンアズNo.1の復興幻想が生じた。 激動期、されど70年代から文化論的に解釈した" 激動期'かも?ー>「1972年の今日,高松塚古墳で彩色壁画が発見.古墳が建造されたのは7世紀末から8世紀初めと見らる.倭国が中央集権国家「日本」へと移行する激動期」

Mais si nous nous sommes une fois dépris de ce que Nietzsche appelait <l'illusion des arrière-mondes> et si nous ne croyons plus à l'être-de-derrière-l'apparition, celle-ci deviant, au contraire, pleine posivité...
(Sartre; l'être et le néant)

原文にあるサルトルの造語的雰囲気に忠実ならば、
l'être-de-derrière-l'apparition は、現われーのー背後にあるー存在、かな

けれどもひとたびわれわれがニーチェのいわゆる<背後世界の錯覚>から脱却して、現われの背後にある存在をもはや信じないならば、現われは、逆に、充実した確実性となる。 ーサルトル「存在と無」"(松浪訳)

If we once get away from what Nietzsche called 'the illusion of words-behind-the-scene,' and if we no longer believe in the being-behind-the-appearance, then appearance becomes full positivity...

この英訳だと、なにか定冠詞theが意味深の感じとなっているが、原文は寧ろ、deの配置に気を使っているようだけどね


惜しい・・・一言、破れ傘というべきだった。

西田幾多郎「真の絶対無の限定と考えられるものは、単に周辺なき円という如きものではなくして、その到る所が中心となるものでなければならぬ。」(「私と汝」)

自衛隊の名を国連軍に変えるという、憲法前文を深読みした<現実感覚>が、自らを、'集団安全保障'ー地球の裏側に行く<熱狂>とは別銘柄だとは説明できぬのは、彼ら自身がどこの国の憲法を読んでいるかを知らないからだ。絶えざる対外戦争によって国家をつくった日本の憲法こそを読む必要があるのだ

自衛隊の名を国連軍に変えるという、憲法前文を深読みした<現実感覚>が、自らを、'集団安全保障'ー地球の裏側に行く<熱狂>とは別銘柄だとは説明できないのは、つまり、彼ら自身がいったいどこの国の憲法を読んでいるのかを知らないからではないでしょうか。絶えざる対外戦争によって国家をつくった日本の憲法に書いてある抗議の言葉こそを、かれらは読む必要があるのに、です。集団安全保障のの<熱狂>も国連軍の<現実感覚>もともに、これに気がつかないのです。

貰った一万語は ぜんぶ「さよなら」に使い果したい どうかわるく思わないでくれ! 寺山修司 terayamasyuzi

Je frissonne de peur quand tu me dis : " Mon ange ! "
Et cependant je sens ma bouche aller vers toi.

Charles Baudelaire
Femmes damnées


相撲の取り組みだけではないよ。

ネオリべ経済学が委ねる'神の見えざる手も'こんなふうに絡み合う。

一体この景気はいつ回復するのだろうかという待ち時間(期待)の無限の遅さと、

(小泉・竹中等において"成功した"と言われる中で、'おかしいな?')いつ回復したんだろうかという結末がもつ無限の速さ

< テクスト>
「相撲の取組で一つに絡み合うのは、二人の力士というよりも、むしろ待ち時間(期待)がもつ無限の遅さ(これから何が起こるのだろう?)と結末がもつ無限の速さ(いま、何が起こったのだろう?)なのである」
D&G千のプラトー

Idish provrerb

For a glass of milk you don't have to buy a whole cow.

Tsulib a gloz milkh darf men nit koyfn a gantse ku

צוליב אַ גלאָז מילך דאַרף מען ניט קויפֿן אַ גאַנצע קו


ホホー、ふくろう猫の哲学3分間

<わたしにまなざしを向けているもの celui qui me regarde>について考えたのが、 サルトル(Sartre) 。事例に即してかんがえてみるニャリ。
「かさばらない男」「論争でとどめを刺さない」の教訓だって?笑止。だから「天声人語」は、馬鹿だと言っているのよ。あの市長はね、サルトルの言葉で形容すると、<選ばれた卑屈>。つまり、この男はマゾヒズム的に、強者である安倍自民党に利することしかできない小心者だが、とはいえ、'右翼'の中に自らを失いたくないという小銭程度のプライドをもっており、開催中止をやめたというギリギリの及第点を示しただけなのさ。市民社会の<びり>だけど、他の右翼とは違うんだぞということを誇示したい、自己欺瞞もいいところ mauvaise foi。またこりもせずに、「介護以外の話はするな」と余計なことを言っているというが、もしかしたらまた鞭で打たれたいからだろうね、この男は。不安の時代、ファシズムの時代にあらわれる、軽蔑してもらうために、卑怯者が行う有罪性の引き受け。あの会長もそうかしら。なににしても、サルトルによると、自己欺瞞は不安を消せないというニャリ。あなたの 隣のひとは大丈夫 ?


長くアイルランドにいたということもあり、ちょっとしたオリエンタリズム診断家を自負している。伊藤仁斎を解釈しつくした彼の解説を読むと、貝塚茂樹が'劣った'ものを愛する典型的な19世紀ヨーロッパ的オリエンタリストかも?イエローカードか。中国史を形成した学問的な背景はどこからきたのか?


昨夜はAndras Schiff アンドラーシュ・シフによるベートーベンのピアノ・リサイタルに行った。福島へのチャリティー・コンサートであった。6つのパガテル、第32番、そしてディアッべリの主題による33の変奏曲を弾いた。最後は、バッハのゴールドベルグ変奏曲の出だしを。それから東北震災犠牲者への弔いの言葉を語ったあとに、109番を披露した。もはや死者は甦ることはできないが、そのかれらがいなければ現在のわれわれも不可能なのだという芸術家の思いを、バッハなくしては後期のベートヴェンはあり得なかったという形で表現したものであった。グールドが構築したのとは異なる、祈りのベートベンであった。
言葉にならぬ心の中の思いもあり、アドルノの本を開く(W.Adorno, Beethoven Philosophie der Musik)。ベートヴェンの、古典主義的全体性を課題とすることへの不満を言い表すために、アドルノがマルクス「ブリューメル18日」からの引用を朗読していたというのは、何度読んでも衝撃を受ける。
「ベートーベンの憤りは、全体の部分への優位ということと関係がある。いわば限定されたもの、有限的なものは撥ねつけるのだ。メロディーが低音で鳴る際には、それが全体でないために憤ったものとなる。音楽自体が有限であることに対する憤り。どの主題も、無くした小銭に対する憤りといったものだ。」
ロンドンで最後となったアルファンベルグのベートベン弦楽四重奏曲のときオペラのアリアがきこえた感じだった。昨夜自分のなかに起きたのは、アドルノ的にいうと、「ベートーベンの憤りは」が天に向けられたものだったといえようか。


ホホー、スピノザは唯物論的決定論、されどその決定論は予測不可能・計算不可能な決定論。ペンローズを読むとスピノザ的だニャリ。ちなみに'神'といっているのは'自然'のこと。

定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されている。
PROPOSITIO XXIX. In rerum natura nullum datur contingens, sed omnia ex necessitate divinae naturae determinata sunt ad certo modo existendum et operandum. (Spinoza)

ラディカル数学者は神秘主義との境にいるようにみえます。素人の考えですが、かれの計算が複雑過ぎて予測不可能という考え方はそれほど非科学的とは思いません。無神論者のペンローズがオカルトならば、イギリス知識人全員がオカルトということになってしまいます。日本での彼の紹介者、テレビで人気のある脳科学者は自覚ないままに自分の反知性主義的なオカルトを勝手にペンローズに投射しているのは非常に不幸な受容の仕方とは思っています
カール・ポッパーというのは、イギリスに亡命してきたひとで、イギリスの知識人たちはその最大の果実を享受できたのですが、可能な限りそこに依拠しながらも、さらに、<みえるものしか存在しない>という程度のリアリズムの直接主義に振り回される<哲学>の窒息から自立したいと試行錯誤したのが、ペンローズ。いかにもイギリス的なアマチュア精神のよき知性主義の伝統と思いますけどね

イギリス的アマチュア精神の知性主義の良き伝統でも、堅実な実証主義者がかれは行き過ぎたと懸念しますし、他方、存在論者からみると、認識論を越えていないのですから何も始まっていません。唯一満足できた哲学は、決定論に<予測不可能な>事件性の猶予を与えたことを評価した唯物論哲学でしょう

アイルランドとはなにか?

アイルランドの8年間で徹底的に教え込まれたのは、どんな内側にもさらに外側と内側があるということ。 独立後もアイルランドの政府は、イギリス政府のような政府としてあらわれました。英国憲法とそっくり同じ憲法を据えるというそんな痛い歴史があります。ただしこのような問い方(仕切り方)を常に行うことは、イギリスからの支配を徹底的に無効化していく、敵味方の境界線を相対化していく実践的方法でもあります。ポストコロニアル世界の、抵抗としてのポピュリズムといえます。ところでダブル・クロスという言葉があります。二重スパイの意。これは非常にアイルランド的なんですが、現実に起きた事件で、IRAのダブルクロスが寝返って、英国の諜報局のダブルクロスとなり、再びIRAのダブルクロスになるというこの裏切りを三十年間やり続けた人物がいたのです。最終的に果たして自分がどちら側のために働くスパイだったか忘れてしまいました。忠実な日本人からは信じられない話ではありますが、考え方によっては、これはまさしく、二項対立から自由になることができた男の感動的な話ではないでしょうか!?
さて現在はアメリカの時代。その地理的表象から、イギリスとアイルランドが単に島国同士の争いにしかみえません。しかし19世紀の大英帝国の時代は、英国は太陽が沈むことがなかった、地球の半分を持った帝国でした。その帝国を相手に戦ってきたのは大変なことです。歴史をみると、エリザベス女王の前までは、アイルランドは国際カトリック連合の一部でしたから、英国がアイルランドと戦うことは、スペイン・フランス・イタリアからなる全ヨーロッパと戦うことを意味していました。英国にとって、アイルランドは'大きかった'、そういう時代もありました。再び20世紀へ。ベルリンか、ボストンか? これは、第二次世界大戦後アイルランドは脱英国化の戦略として、EUとアメリカに関わっていく選択を言い表した言葉です。社会民主義的なヨーロッパと、資本主義的なアメリカとの間にあって、バランスをとるのはそう簡単ではありません。リーマンショックの金融不安で最も大きな影響を受けました。ウオール・ストリート占拠運動にはいくつかの先駆がありますが、(南米の農民による土地回復運動とか、) アイルランドで起きた、(EUからの借入金によって)銀行を救済する政府の決定に反対する抗議運動もその一つをなしたとされています。

アイルランドとはなにか?

司馬遼太郎がいうほどには、百選百敗されど一度も負けたことがない、というほど熱狂的というわけではありません。(イギリス人ですね、その無敗神話は)。ただ、アイリッシュは負けた姿がカッコいいのです。勝負を超越してしまうのです。サッカーの試合のとき勝ち始めると凄く調子が狂う(笑)。さてフィレンツエは別ですが、ローマ等のイタリアの諸都市の建築の前に立ったり美術館にいると、不安を覚えてしまうのはケネスクラークだけではないはず。やはり勝利のオブセッションにとらわれた近代の資本主義が教会との共謀関係をとおして展開してきた歴史的場所に立つからでしょうか?アイルランドでHere Comes Everybody!と両手を広げたのは、ジョイスの後に続いてローマ法王でした。'負けた'人を積極的に受け入れますしわが身のように助けたいという建前をとるカトリックの影響が色濃い国。こんな貧しい国に誰も来るかという辛辣な反論も。ところが1970年以降、90年代に、ケルトの虎と呼ばれる空前の契機によって、1800年代から外出する一方だった人の流れが反転します。ダブリンに来たのは、米国アイリッシュ系ばかりではありません。東欧の貧しい人々も。このときはじめてアイルランドは宗教的建前と世俗的現実とのギャップに揺れ動いたのです。(教会に無関心な)労働者階級でありながら、信仰を通してアル中を克服する人物を聖人としてみとめよという政治臭い話もアイルランドならではの話。EUに占める経済は1%なのに、かくも政治的反抗児。嘗てマルクスも注目したほどでしたが、その反抗のアナーキぶりにひどく警戒もしました
プラトン的徳性に偏り、的な経験的知識のアリストテレスの名前は滅多にききません。この点で、産業革命がなかったアイルランドは、産業社会的規律や計画を偶像崇拝とみなす世界の圧倒的多数派。It might have(こうなるはずだったが)という仮定法過去で語られる間違いも、カトリック的<許し>から無限回に与えられるsecond chanceの恩寵のまえで、それほど間違いとはなりません。アイリッシュから、Not the end of the world ! と、よく慰められました。アイルランドのカトリックはフランスのとは雰囲気が随分と違います。フランスのカトリックは、真理は力なりとする所謂プロテスタンティズム的愛国主義に近いのか、それは私には分かりません。一見ゴダール映画も知識を重んじるフランスカトリックの伝統が垣間見られますが、あれはいかにもプロテスタントが思い描いた似非カトリック神秘主義だというアイリッシュ系イギリス人の声もありますがね、コリン・マッケーブとかね

ちなみに、'裏切り'はアイルランドの詩のテーマで、ベルトリッチ(「暗殺の森」)は結構読んだとインタビューのなかで言っていました。スコットランド人の映画評論家から、「おまえはゴダールを裏切って殺したんだ!」と迫られていました。

きらいだ、きらいだと言っている奴は、結局は愛しているのさ、とローマ時代の哲学者が見抜いていました。アイルランドのことっであって、自民党のことではありません(笑)

司馬遼太郎がいうほどには、百選百敗されど一度も負けた自覚がないわけではありませぬが、アイリッシュは負けた姿がなにか超カッコいいのです。勝負を超越しちゃうんですね。変な話ではありますが、試合の最初のほうで勝ち始めるとものすごく調子悪そうなんです。ちなみに、「プロテスタンティズムの精神と資本主義」以降、この世の中で負けてさわやかなのは、道徳の勝利に酔う日本共産党とアイルランドのサッカーチームだけです(笑)。(道徳プラス財産となると、イギリス保守党ですけどね。) フィレンツエをのぞいて、ローマなどのイタリアの都市にいると、なにか不安が起きてくるのは、やはり近代の資本主義が、教会との共謀関係をとおして、展開してきたからではないかとおもいます。その点で、貧しいということもあり、アイルランドは負けた人を積極的に受け入れますしわが身のように助けていきます。カトリックがカトリックである所以は、許すことによって力をもつことですが、この点からいっても、岩崎さんが仰るように、たしかにキリスト教の原点が色濃く残っているようにおもえます。産業社会的な規律もあまりなく、あっても悪魔の仕業ですから(あるいは'プロテスタントの病')、おのずと(こうなるはずだったのにという仮定法過去で語られる)間違いが多くなり、許すということが非常に多いんです(笑)。(教会に無関心な)労働者階級でありながら信仰を通してアル中を克服する人物を聖人としてみとめよ、という話もでてきますね。プラトンは知っているが、アリストテレスは知らない。徳性を重んじるあまり、知識の方は尊重しないですね。知識を力とみなすフランスのカトリックとは、雰囲気がちがいます。(一見ゴダール映画も、知識を重んじるフランス・カトリックの伝統があります。)フランスのカトリックは、真理は力なりというプロテスタンティズムに近いですね。プロテスタン的とよくききました。イギリス国教会は・・・長い長い話になりますかね


Unschuld (i.e. "Innocence")

A European city by the sea. Elisio and Fadoul are illegal black immigrants. They saw a woman end up in the sea and didn't help her. One of them can't sleep any longer; the other finds a bag full of money.
Absolute is a young blind woman who dances naked in the "Blue Planet" for men who can see her. Mrs Has-Enough seeks forgivenness for crimes she did not commit. Franz has found a life-fulfilling task: he works for an undertaker, looking after the dead. His wife Rosa would like to have a child from him. Rosa's mother, Mrs Sugar, is diabetic and abdicates responsibility to Rosa and Franz, moving in with them. Ella, an ageing philosopher, has burned her books and now believes in nothing but the world's unreliability.
Dea Loher, perhaps her generation's most important dramatist, has written a new play with stories from the periphery of our society - 19 scenes full of sadness and desperate comedy. At first this seems a profoundly pessimistic piece, yet the narrative is bright and clear. Restrained optimism is to be felt in the beauty of the language and in the characters' will to survive".
(Thalia Theater Hamburg)
Responses to the Play:

"Fadoul and Absolut are two unfortunate human beings from Dea Loher's new play 'Innocence'. (...) This is concerned with great existential issues and little everyday occurrences, with everything that makes our life so unbearably difficult and meaningless - but also with the faint hope that after all there is a way out, a way or at least a goal. 'Innocence' is a polyphonic theatrical Passion about the state of the world, composed of many little individual destinies. (...) This is probably Dea Loher's best, most densely-packed, most private and yet most worldly-wise text, a poetic elegy of linguistic beauty and power, carried by sombre melancholy and sarcastic fury".
(Christine Dössel in: Süddeutsche Zeitung, 14.10.2003)

"Dea Loher demonstrates great skill in creating a dense network of little stories about murder and suicide, re-inventing mediumistic staging of everyday insanity in absurd constellations of characters".
(Stefan Grund in: Die Welt, online-edition, 13.10.2003)

"Dea Loher depicts these social borderline cases and confused human beings in 19 little stories. She presents sad and comical aspects of their lives, presents everyday existence, illness, and death. Tells of their yearnings, their guilt, and also of their innocence. In the course of the play all the characters meet once again; their fates intermingle and finally become a single story, telling of the sadness of the present day.
(Katrin Ullmann in: Der Tagesspiegel, online-edition, 13.10.2003)



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ふくろうねこ、かく語りき 2014年 3月後半 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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