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zoom RSS ふくろうねこ、かく語りき 2014年 3月後半 (2)

<<   作成日時 : 2014/03/28 02:56   >>

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オリヴェイラー監督「家族の灯り O Gebo e a Sombra」の感想文

嘗てオリヴェイラーはゴダールに言った。「私は概して、映画のそこが好きだ。説明不在の、光に浴たす、壮麗な記号たちの飽和」。今日観た「家族の灯り O Gebo e a Sombra」からは、そんな光が演劇的場に介入する事件性のことを思った。この映画はまさに、ポルトガル人監督の「インディアン・ソング」だ


On Manoel de Oliveira

c'est d'ailleurs ce que j'aime
en général au cinéma
une saturation de signes magnifiques
qui baignent dans la lumière
de leur absence d'explication
------------------------------
...
that incidentally is what I love
in general about the cinema
a saturation of magnificent signs
bathed in the light
of their absence of explanation

(Manoel de Oliveira said to Godard)



冤罪は何故起きるのか?

弁護士は検察側の証明を反駁すれば十分なのです。ところがこれについては多くの人々に理解がなく、弁護士が真犯人をさがし出せなければ反駁した事にはならないと思い込んでしまっています。だから冤罪事件を取り扱うのは大変困難なことなのだ、と、免田事件を解決した弁護士が言っていました。免田氏に対する大変な説得があったときいていますが、信頼を得たこの弁護士は、裁判では、(あえて無罪の主張を取り下げて)、検察が勝手に作文した台本通りに、(あえて法廷戦術的に)殺人をみとめた被告が、自らの民事上の所有権を主張してみるという作戦をとりました。そうして殺人に使ったとされる'ナイフ'の返還を求めたのです。結局これで免田さんの無罪があっと間に確定することになりました。そもそも最初から存在しなかった'ナイフ'などを警察と検察は返しようがありませんからね。ところでその弁護士は一般的に被害者遺族の影響力について分析していました。公に犯人が特定するまでは生活の保証がなく、だからどうして犯人をあげてもらわなければ困ることが生じると。世論の遺族に対する同情と<警察は何をしているのか>という憤りのなかで、無理な捜査が強引に展開していくと、冤罪が起こ得るというのですね。こういうこともあるから、犯人が分からず中々分からない場合にも、国が遺族の生活をサポートする補償金を与える制度が非常に大事と指摘していたのを覚えています。この弁護士は陪審員制の復活を求めた市民運動を通して、検察の言葉に頼り切る裁判官に、人々の多様な経験と知恵を介入させようと期待したのです。現行の裁判員制度はその役割を果たしていますか?


ジョイス国際学会はバベルの塔と証されるほど大変有名で、人文科学の学会としてはいわゆる頂点にあるというイメージがあるのですが、一度だけアイルランドから行ってイタリアでの開催に出席したことがあります。るのですけど、デリダをはじめとした哲学的領域からの、外部からの介入があり、いわば知的権威に対する挑戦ですね、ダイナミックに揺れ動いてきたのですが、デリダが死ぬと、ただの学会、つまり人の話を聞かないために集まる、あるいは、自分の国の話だけをするために参加する学会となった感があります。一般的にいって、他の学会と同じで、ジョイスに関心をもつ人って少ないんですね、もっぱらの関心は、いかに研究するか、という研究のための研究。査読も非常に権威的ですね。自分のわからないものは通さないという保守ぶりはただ息苦しいだけで

超マイナーな話で恐縮ですが、若い毛沢東を教えた家庭教師は、魯迅と同世代に属する、儒学半分、ヨーロッパの学問半分という知識人でした。毛沢東はタオイズムのイコンではあるのですけれど。

東アジア諸国では'儒者'というのは士大夫である身分結びついていました。科挙と結びついていた支配の学問ですね。ところが徳川日本では、学ぶ者ばだれでも平等に'学者(='儒者')になれるということがありました。実際に古義堂の伊藤仁斎は町人出身でしたしじ科挙制度がなかったj事情を重視する研究者もいますが、基本的には、鎌倉以降、織田信長を経て、江戸成立までは、武士たちは、禅と寺社、貴族、そして儒教社会を徹底的に憎み破壊しようと考えていたのですね

冤罪事件の裁判はなぜ、かくも時間がかかるのでしょうか?昔、免田事件を解決した人権弁護士 (倉田氏) から直にきいたことがあります。途中で、裁判を引き継いでいく検察官達が無罪だと気がつくのであるが、(犯人を処罰しなければ気が済まぬという)世論の反発を恐れて取り下げることができず、裁判官に無罪を言い渡してもらうのを待っているようなのです。ところが裁判官の方は検事の言葉をずっと信じ切っていますから有罪ときめつけたまま、非人間的に何十年が過ぎてしまうというのですね。
裁判官が検事にたいして、ある種の誠実さを感じるのも大変危険なこと。選ばれた国家意識 かもしれませんが 、プライドをもっている自分自身の'潔癖さ'(?)を検事のなかにみているという態度、これは、冤罪をもたらす原因のひとつとしてあるかもしれませんね。(死刑制度に賛成してしまう国家意識が定位するのも、処刑を行う国家に対するある種の幻想)。3・11以前の安全神話との類似性はないでしょうか?一考の価値があります。それほど明確な根拠もあるわけでもないのに、国が国であるというだけの理由で国ならばそれほど不誠実なこともしないだろうと勝手に思い込んでしまい、または思い込まされたあげく、疑う声や反対する声を安易に異常視してしまう一方で、多数派に属す自分自身だけを潔癖に正常とみなしてひたすら安心するという'普通'の感覚に染み込んでいった、こうした安全神話がもたらした現実の結果は一体何であったかということです。もういい加減、冤罪を容認していく構造から、また根拠なき安全神話および新安全神話からも卒業したいとおもいます


モーラーは痛さを感じていました。最後に、'右側'から街頭に現れたとき、吹雪く寒々とした痛いほどの寂しさから逃げ出したくて、友と出会う為に降りてきてしまったひとりの人間の姿ではなかったではないでしょうか。ヨハンナは孤独に直面します。しかしその孤独(solitude)は、孤立(lonely)とは本質的に別のものであったことは、ブレヒトにおいてはあまりに自明でした。たしかにヨハンナは資本主義よりも存続することができませんでしたけれども、しかしヨハンナは死んでしまったわけではありません。ヨハンナは、欺瞞的に神聖に祀られることによってその痕跡を消されようとも、現在、猛威をふるうネオリベのグローバリズム資本主義の無秩序に抵抗する人々の間に確実に存在しているからです。こうして演劇の本質とは、資本主義からの脱出を物語る哲学として存在するのではないでしょうか。


天安門前広場の抗議を非政治的に解釈すること、つまり、<同一者の中の他者>として措定してしまうことによってしか、柄谷の<帝国・儒教・東アジア>が成り立たないだろう。

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