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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年四月

<<   作成日時 : 2014/04/01 00:06   >>

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「やり返し」「倍返し」「復讐合戦が増幅する状態」。と、このように柄谷がいう古代社会の風景などは、現代の民族紛争をエモーショナルに描くハリウッド映画もどきの風景である。この'自然状態'を解決する帝国の原理、ヘーゲル的客観的精神は、帝国が自分の為に語ってきたものだ。しかし例えば、英国人とアイルランド人の紛争に先行して、帝国が存在したのだ。この事実によって、三流の映画ですら誰が一番問題をつくったのかを知っている。柄谷は知らないのか。見ないのか、見て見ぬふりをしているのか。見ているが、知りたくないということか。それとも、ただヘーゲル的に世界史のシナリオを読むために、帝国の原理、客観的精神をもった国家に過大に委ねようとしているのだろうか?

ちなみにマルクス自身は民族問題について、帝国の問題について考えなかったと言うが、事実に反する。かれの「帝国」からは大英帝国が削除されるが、ソ連と中国は大英帝国のひな形という説もあるのに

われわれは、同じことを繰り返さない、又同じことが成り立たぬ思想史の運動に立ち会っている。新しい思想は、台湾の学生達による歴史的行動を見る人々の間から生まれてくるのか、これを見ない・見ぬふりをする人々から示されてくるのか?思想がいかに民主主義と関わってきた歴史をみれば、答えは明らか


「新左派」の代表、汪暉への批判。受け入れがたい、柄谷行人の限界・・・

石井氏によると、「日本では、中国における新左派は日本の新左翼、欧米のニューレフトと同一視されがちだが、それは基本的な前提が異なる点を無視した議論である。むしろ、新左派は現在の体制を部分的にせよ擁護する補完的な勢力であり、内容的には'新保守主義'と捉えるべきだ」という。日本では、ノーベル賞を受賞した天安門前事件の劉暁波が'新保守主義'として決めつけられていますが、これは間違いです。なによりも問題は、なぜ、柄谷行人が、汪暉、国際的右翼である'新保守主義'のイデオローグに沿って発言してきているかです。左翼思想をリードしてきた柄谷はもはや、残念ながら、2000年以降、もはやわれわれが依拠できるモデルではなくなりつつあります。同じことを繰り返さない、また同じことが成り立たぬ思想史の運動に、まだ気がつかないのですが、夜の終わりを告げる、曙の光は背後から来るものです。この私自身も半信半疑で困難なことですが、左翼思想の構築は柄谷を乗り越えるところからスタートするしかないでしょう。Not too late ! 台湾の学生達による歴史的な行動を無視しては始まらないでしょう。このテーマについては、五月十日に昭和思想史研究会の研究報告で発表します(早稲田大学小教室)

ホホー、法学部の学生時代自分はよい読者とはいえなかったとはいえ(haha)、かの権威的窒息の塔に定位した、典型的に外国研究を紹介しただけのノンポリ的右翼の憲法学者におもえましたよ。されど、その名の不知すら許されぬほど祀られて、現在はかくも高値になっていることはね。競売 ! 初めからそもそも憲法守る気もない最高裁の土人達に虚しく託す、(価値相対主義言えば)なにかリベラルの証と思う八十年代型お坊ちゃん達がプライドをケチケチ買い戻すのか?それとも、ナイフ男である元夫の暴力から家庭生活を救うが如く、ステレオタイプ儒教を憲法改正案に書き込む、どさくさに紛れて立憲主義の主体として振る舞う上流オカルトお嬢さんがわが師匠を高値で自民党に売ることになるのか?うっ、黄金色のゲロゲロー (失礼...)

政治的サルトル
人は知識人に子ども時代から、虚偽のイデオロギーを教えています。ヒューマニズムという言葉は労働者階級の搾取を覆い隠すためのものですし、平等を唱えながら、実は帝国主義・新植民地主義・人種差別論・女性の社会的地位の低さ等々をまかり通しています。1966



ある国の独裁者がね、スズメは米を食べるからよくないという一言で、国民全員が朝の四時に起きて集合した。太鼓たたいて街に出掛けた。スズメが木にとまったり、ちょっとでも休んでいたら、太鼓の音で脅かして休ませない。疲れたスズメは木からバッタバッタ落ちて死んでしまった。ところが、である....
スズメの天敵のイナゴが大量発生して米を食べてしまった。国民は何年間もひもじくて、お腹一杯にご飯を食べることができなかったという。この独裁はだれか?もし全員が自分自身の意見をもたず、したがってもし全員が安倍の顔になっていたとしたら?この人々は太鼓をたたいて人間を落としているんだ


スケープゴート

Big Shame -> <遍路道で、外国人排除を助長する貼り紙が見つかった。「礼儀しらずな朝鮮人達が気持ち悪いシールを四国中に貼り回っています」「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」などと中傷する内容> (asahi)

「XX人」や「oo人」という名ざしでスケープゴートを行う人々の言動をみると、本当に深刻な事態になってきていると思います。そういう人々をみると、もしかしたらこの人たちは昨日は、道端で、昼間に学校に行かぬ小さな子供をみかけてどうしたんだろうか?と気遣ったかもしれないと想像するわけです。しかし、あったかもしれない、そんな他者に対する卑近な共感が、戦争を煽るヒロイズムと盲目的なナショナリズムに押し潰されてきたという現実に気がつくわけです。はたして、安倍自民党による、 現在ある、この最悪の政治状況を解決せずして、こうしたスケープゴートをやめさせることができるのでしょうか!?

東氏は脱構築ではなく、脱抵抗でした...?

東氏のデビューは、ジャック・デリダに依拠していました。さてデリダの脱構築論といえば、<抵抗>に定位した思想。だからこそ、マィノリティーに向かってHello!と常に言う哲学だったのです。このデリダのジョイス論を読んだアイリッシュは、他者にHelloと言うデリダの精神を実践していました。例えば、外国人の私に向かって、Hello!と声をかけてくれたことを覚えています。デリダは自分の本に、Bloomー in ーtheー telephoneと書いたのは、存在論的に開かれているかどうかを自他に問う哲学だったからです。(ちなみにブルームはユダヤ人の名と関係があります。) これに対して、東氏の方は初めから、<脱抵抗>を郵便的に書き綴っただけでした。そして恐ろしいことに、かれの憲法改正案は大日本帝国憲法の切手が貼ってあります。これは少数者を拷問していく同化主義そのものではないでしょうか ?


なぜ私は台湾に飛んでいったのか(子安氏)

なぜ日本のメディアも人びとも中台服務(サーヴィス)貿易協定をめぐる台湾の市民学生たちのの大きな反対運動にほとんど関心を向けることはないのか。にもかかわらずなぜお前は台湾に飛んで来たのか。台北に着いて直ぐに私にぶつけられた質問はそのようであった。日本人は見て見ぬふりをしているのか、そもそも見ようとしないのか。
3月30日の台北の抗議行動に「50万人」の市民が参加したことを報じても、なぜこれほどの市民を抗議へと動かしているのか、その理由まで掘り下げて報じることを日本のメディアはなぜしないのか。台湾の人びとをこれほどの規模で抗議へと動かしている問題をなぜ日本人は認識しようとも、共有しようともしないのか。
中台貿易協定とは中台間の問題であり、それへの抗議とは台湾の問題であり、日本人の問題ではないからか。あるいはこれは結局は〈中国問題〉であり、〈中国問題〉への批判的分析的な報道を自主規制する日本のメディアの慣行にしたがってのことなのか。〈中国〉への遠慮からか、あるいは市民的蜂起への恐れからなのか。
ではなぜ私は台湾に飛んだのか。私はこの抗議運動をわれわれの問題として見たからである。私はこれを台湾だけではない、日本や韓国を含む東アジアの将来にかかわる問題だと思ったのである。東アジアの将来にもし希望をわれわれが見出すとすれば、台湾のこの運動の方向にしかないのではないかと私は思ったからである。
その周辺世界に向かって「核心的利益」を明確に主張するにいたった大国中国は重い〈中国問題〉を東アジアに構成している。これに対する安倍の〈国家主義的日本〉による対抗は、東アジアにとってはただ緊張を増すだけの不幸なものでしかない。安倍の勝利と市民の敗北という連鎖の中で憂鬱な日々をわれわれは送っている。
そのとき私は台湾の学生たちの民主的決起を知ったのである。それを民主的というのは、馬英九国民党政府が推進する中台貿易協定の黒箱の中身の公開と市民的な徹底審議を、民衆的生活の自立的防衛の要求を基盤にして主張するものだからである。これは台湾の〈公〉に立つ民主的な決起である。私はここに東アジアの希望を見出したのである。
台北に行ってはじめて私は馬総統が安倍と同様の歴史修正主義者であることを知った。安倍は日本の民主的戦後史を消して日本国家史に修正しようとしているが、馬英九は戦後の民主的台湾への苦難の歴史(それは国民党専制の歴史である)を消して中国国家史に書き換えようとしている。
安倍のお友達が彼の本音を日本では代弁しているが、台湾でも馬総統のお友達の一人王暁波(世新大教授)が、「2.28事件(台湾独立運動への国民党政権の弾圧)の白色テロによる被害よりも南京事件による被害の方が数的にも膨大で、歴史的にも重要であると歴史教育の修正を主張している。
これは現代の東アジアで歴史修正主義者が描く危険な政治的な構図(黒箱)の中身を示すものだが、同時にそれは馬政権の推進する中台経済関係の一体化が民主的台湾の圧殺を意味するものとして学生・市民に受け取られている理由をも明らかにしている。だから民主主義的台湾の擁護を学生たちはいうのだ。
私がなぜ台北に飛んで行ったのか、その理由はすでに明らかだろう。安倍の国家主義に反対し、戦後の民主日本の貴重な遺産によって真の意味での積極的平和主義をここ東アジアで展開することは、台湾の学生の民主的決起と共闘するものであること、その民主的決起はむしろ先駆するものだと知ったからだ。


'世界史の構造'はヘーゲルの目覚めることができない悪夢

東アジアにおいて抑圧されていく歴史の記憶。安倍の戦争責任の忘却、2・28事件の忘却、光州事件の忘却、天安門事件の忘却。福島の3・11の忘却。誰が抑圧するのか?ネオリベのグローバリズムである。どのように?民主主義に対する抑圧の歴史を、国家を祀る神話に置き換えることによってだ。この意味で歴史は1%の所有物になろうとしている。と同時に、(歴史を未来に伝える領域である)「公」がこの1%の所有物となってきた。抵抗として、「公」に立つ学生・市民達が現れたのが、台湾の3・18。フーコの本が「言葉と物」とあるのは冗談だが、ネグリもコモンウエルズの語を皮肉った。それは、米国や国連の如き主権国家をモデルとした脱国家主義、(国連軍か集団安全保障かで盛り上がる) 不毛な概念だから。帝国としてのグローバリズムに抵抗できるのは、ただ、政治的な次元における「存在としての共通性」だけだ。全員がマイノリティーの特異点達に成るのは難しかったードゥルーズが言う様には。現実はポピュリスム的全体主義は、取り込んだ少数派を利用し全体主義を多様化した。反省として階級の視点が再び説かれたとき、柄谷は天安門事件に階級の不在をみた。抵抗する人々の姿を見ないふりか見なかった (今日マスコミが台湾を見ないように)。スティーブン=ハムレットが叫んだように世界資本主義から目覚めなければならない。が、目覚めるには、シシエクが畏怖したフィネガンズウエイクの如く夢を発明し続けるしかない。これが世界史の構造である。世界資本主義をコントロールする客観的精神である礼としての毛沢東像を指さす事になったか?


東アジアにおいて奪われる歴史の記憶。安倍の戦争責任の忘却、2・28事件の忘却、光州事件の忘却、天安門事件の忘却。福島の3・11の忘却。誰が奪うのか?ネオリベのグローバリズムである。民主主義に対する抑圧の歴史を、国家を祀る神話に置き換えることによって、奪おうとしているのだ。まさにこの意味で、歴史は1%の所有物になろうとしている。と同時に、(歴史を未来に伝える領域である)「公」がこの1%の所有物となってきた。こうしたなかで起きたのが、台湾での3・18の抵抗だ。「公」に立つ学生・市民達が現れたのである。'東アジアの未来がかかっている' ーこの言葉は重い!

子安宣邦氏のツイート;
すでに報じられているように台湾立法院を占拠していた太陽花運動の学生たちは、中台貿易協定の協議内容、審議過程についての〈監督条例〉の制定とその成立まで貿易協定の立法院審議は先送りするという王金平立法院長の裁定を受け入れて、占拠していた立法院の本会議場を撤収することにしたという。
これは決して敗北の撤退ではない。一定の勝利を確認した上での立法院内部から外へ、すなわち市民の内部への運動の浸透と拡大を意図する撤収だろう。私は台北で抗議運動の学生たちに接して、我々が日本で体験した学生運動とは全く異質のものであることを知った。助言を求められたが、むしろ教えられた。
学生たちの言葉は、孤立したエリートの独りよがりの絶叫ではない。立法院の占拠も国家のゲバルトを呼び出す学生のゲバルト的行為ではない。それは国会であるべき民主的な審議を要求する学生たちの議会内的座り込み(オキュペイション)である。非暴力的座り込みと市民的審議がこの運動の特色なのだ。



子安宣邦氏のツイートより

台北に行って初めて馬総統が安倍と同様の歴史修正主義者であることを知った。安倍は日本の民主的戦後史を消して日本国家史に修正しようとしているが、馬英九は戦後の民主的台湾への苦難の歴史(国民党専制の歴史)を消して中国国家史に書き換えようとしている。
安倍のお友達が彼の本音を日本では代弁しているが、台湾でも馬総統のお友達の一人王暁波(世新大教授)が、2.28事件(台湾独立運動への国民党政権の弾圧)の白色テロの被害よりも南京事件による被害の方が数的にも膨大で、歴史的にも重要であると歴史教育の修正を主張している。
これは現代の東アジアで歴史修正主義家が描く危険な政治的な構図(黒箱)の中身を示すものだが、同時にそれは馬政権の推進する中台経済関係の一体化が民主的台湾の圧殺を意味するものとして学生・市民に受け取られている理由をも明らかにしている。だから民主主義的台湾の擁護を学生たちはいうのだ。
私がなぜ台北に飛んで行ったのか、その理由はすでに明らかだろう。安倍の国家主義に反対し、戦後の民主日本の貴重な遺産によって真の意味での積極的平和主義をここ東アジアで展開することは、台湾の学生の民主的決起と共闘するものであること、その民主的決起はむしろ先駆するものだと知ったからだ。


子安宣邦氏のツイートより

ではなぜ私は台湾に飛んだのか。私はこの抗議運動をわれわれの問題として見たからである。私は台湾だけではない、日本や韓国を含む東アジアの将来にかかわる問題だと思ったのである。東アジアの将来にもし希望を見出すとすれば、この運動の方向にしかないのではないかと思ったからである。
その周辺世界に向かって「核心的利益」を明確に主張するにいたった大国中国は重い〈中国問題〉をなすものとしてある。これに対する安倍の〈国家主義〉的日本の対抗は、東アジアにとってはただ緊張を増すだけの不幸なものでしかない。安倍の勝利と市民の敗北という連鎖の中で憂鬱な日々を送っていた。
そのとき私は台湾の学生たちの民主的決起を知った。それを民主的というのは、馬国民党政府が推進する中台貿易協定の黒箱の中身の公開と市民的な徹底審議を、民衆的生活の自立的防衛の要求を基盤に主張するものだからである。これは台湾の〈公〉に立つ民主的な決起である。私はここに希望を見出した。



柄谷の「江戸の注釈学と現在」(1985)は、それほど注釈学だったのか?


丸山真男「日本政治思想史」の問題は、想定した西欧のフレームワークに、江戸思想の地図をぴったりとはめ込んでしまう方法にある。柄谷行人が丸山の地図を批判するときこの対応のフレームワークを捨て去ることはなかった。

柄谷が解釈している言葉をひいておこう。「丸山真男は、仁斎をカント的、徂徠をヘーゲル的だと類推的に考えていますが、その意味では僕は、仁斎はキルケゴール的、徂徠はマルクス的、宣長はニーチェ的だと思います。」これは、だれがなにを代表しているのかわからないポナパルチスム的の思想地図だ。

徂徠の近代天皇制国家理念の青写真を知る者にとっては、丸山が福沢諭吉の民主主義的理念を盗んできてこれを徂徠に与えたのは驚きだ。それ以上に、柄谷が徂徠からヘーゲル的客観的精神を盗んで、これをマルクスに与えたことだ。マルクスは「礼」を得たのである。これは帝国の原理となっていくのだ。

キルケゴールのラベルが貼られていて分かりにくいのであるが、柄谷は、ウィットゲンシュタインからは「教える立場」を盗んできて、これを仁斎に与えたことに注意しよう。柄谷が強調する「孔子の教え」ほど、仁斎の「学び」から遠いものはない。柄谷の「教える孔子」は結局、選ばれた同化主義となる。

選ばれた同化主義とは教化と鞭によって「教える」。但し横柄すぎるので、僅かな非対称的のズレとして「学ぶ」スペースを残す体制。つまりマイノリティーに「仲よくしようせ」程度の学びの立場がある。この同化主義は柄谷とは関係ないが、彼に続く思想地図制作者達の帝国としての憲法案となっている。


教える立場と学ぶ立場の非対称性は、実体化すると、それ自身が「教える立場」の無意味な言説となるだろう。原初のテキストとしての「論語」が「学びの立場」から書き始めた大きな衝撃を、柄谷の探求はあらわしているといえるだろうか?なぜ「学びの立場」から始まるのか。子安宣邦氏はこう語る。

以下引用。「他者の立場にたってみる恕を人はそう容易く行うことはできない。身体を異にするわれわれは他人の苦痛をわが身に体することは難しい。だから仁斎は恕とは人が<勉強する>こと、努力することだいうのである。私が『童子問』に新たに読み直したのはこのことだ。人は努力して「恕」を行わねばならないのだ。○「恕」を勉め行うことによってわれわれ日本人ははじめて、韓国の人びとに近い立場に辛うじて立ちうるのである。この努力を放棄したらどうなるか。・・・いま日本の本屋の店頭に見る嫌韓・反韓の言説の氾濫から、「恕」の努力を放棄し、隣人を失ってしまって自閉する日本人の退廃が見えてくる。これは安倍がもたらした道徳的退廃である。」

他者を地図化する解釈学的教えに抵抗して、注釈学的学びとは旅である。出会う相棒の他者に依拠して生きるのだ



柄谷行人の'交通'はどこへ消えてしまったか?
ー日本オリエンタリズムについて考える (1)

分かりやすい例として、貝塚茂樹と丸山真男の中国認識がいかに、オリエンタリズムを構成するのかをみながら、柄谷行人の中国認識の問題点を分析する手がかりとしよう。実は柄谷が好む言い方に従うと、中国そのものは物自体。寧ろ他者認識としての中国認識がいかに内向きに日本の全体主義の言説を成り立たせるかが問題だ

貝塚茂樹は、桑原武夫と吉川幸次郎と同年代。wikiによると、早くから西田幾多郎、内藤湖南ら戦前の京都学派に直接接していた桑原とともに、戦後の京都学派を形成したという。この三人はフランスに行っている。貝塚の中国認識は、留学先のフランスのシナ研究に依るだろう。つまりオリエンタリズムだ

簡単に説明すると、戦後京都学派 (貝塚、桑原、吉川)は、戦前の西田の京都学派とは直線的連続性がない。このライバルが、東大で中国研究したの溝口。戦後京都学派には現代中国に対する尊敬がないことに溝口は憤慨した。溝口と竹内の中国認識は、戦後京都学派のオリエンタリズムとは別のオリエンタリズムを構成している

断定はできないけれど、「現代思想」(三月号)の対談を読むかぎい、柄谷行人は、京都学派の西田幾多郎に与える一定の高い評価から、中国認識を行っている。ただしもっと後で論じたいと思うが、柄谷が中国と言っているものが一体何かと言う問題がある。総体としての21世紀に現れた言説の運動のプロセスを'中国'と名づけていないだろうか

柄谷行人の'交通'はどこへ消えてしまったか?
ー日本オリエンタリズムについて考える (2)

ヨーロッパではサルトルが復活している。サルトルの復活、というか、構造主義によっては克服されはしなかったというべきだろう。日本ポストモダニズムの勝手な思い込みとは別に、だ。デリダの思想は<存在としてのエクリチュール>だったし(子安宣邦氏ならば他者としての漢字という)、 ドゥルーズ哲学も<存在としての構造>という性格のものである。ただし、その<一的多様体>が形式上、認識の<ー>でしかないと最初に気がついたのは、柄谷行人だったかもしれない。<交通>を言いはじめたのは、存在の一をいうためであった。それを言うことができたのは、柄谷が自分でみとめていたように、彼がカントとサルトルに依拠していたことから説明できるかもしれない。ところが、カントとマルクスを読み直すと言った「トランスクリティーク」(英語版)では、サルトルに決定的な役割が与えられていない。天安門前抗議の事件性を、非政治的な出来事として政治的に語るところから、サルトルの抵抗する声は遠くなっていたのだ。かわりに、異惑星から小さな地球を眺める視点で、<交通>が結局、<一的多様体>の帝国に腐敗してしまった感がある。


柄谷行人の'交通'はどこへ消えてしまったか?
ー日本オリエンタリズムについて考える (3)

プロスぺローが孤島で自ら描いた魔法の円ー外と内とを分け隔てた円ーのように、そもそも政治的と非政治的とを分け経てる線引きが可能なのだろうか?
自身がこしらえた境界線をみながら、天安門前抗議をあくまで非政治的な性質のものであると実はあくまでも治的に解釈した柄谷行人であるが、このかれの基準からはかると、現在起きている台湾での学生と市民による抗議もまた、非政治的のカテゴリーにと区分けされてしまうのだろうか?しかしかくも市民的に、抗議している他者たちを、もし非政治的な同一者の中の他者として、政治的に措定してしまうとしたら、その言説とは何者か?と私は問うだろう。柄谷からもたらされたこの問いは、他ならぬ柄谷が答えるだろう。
つまりかれによれば、「構成原理」は無誤謬の神話に陥る危険性がある。だから脱構築的な批評性をもつのは「統整原理」の方だ、と、常にわれわれに教えてくれたのはカントを読みぬいたという柄谷行人だ。だから柄谷がいう〈帝国的原理〉は帝国主義的「構成原理」でなく、脱帝国主義的「統整原理」でなければならないのは当然だ。が、それは一体何故か?この問いにたいして、〈帝国的原理〉が帝国主義的構成原理ではないからと補うのは丸川哲史である。(「現代思想」3月号) これは、同義反復の言説に陥っている、いいかえれば「構成原理」の罠に嵌っていると言わざるをえない。つまりこれこそが、同一者の中の他者しか存在しない言説, 市民的抗議を中立化して矮小化していく言説の正体である。答えはここにある。


柄谷行人の'交通'はどこへ消えてしまったか?
ー日本オリエンタリズムについて考える (4)

辻邦生曰く「僕らは無意識に既に東洋である事を失っている」。が、「我々の歴史意識」と丸山真男が称えた'西欧'に避難したつもりなのだろうか?丸山が「'変化の持続'は現代日本を世界の最先進国に位置づける」というとき、かれは「シナ歴史の停滞性」を対抗的に否定した自己肖像画としてのオリエンタリズム的優越に立った。このように自ら勝手に想定した'劣ったもの'を愛する態度の背景には、自らの力の優位の観念を再生産するために、死んだ文化しか愛するつもりのない支配がある。「中国の歴史」の貝塚茂樹が描いた、中国人の'面子と芝居'ほど、他者の人格をグロテスクに単純化した、オリエンタリスト的表象の優越感は無いのだ。ところでフローヴェルが描いた'エマ'は物語の初めから夫の形見であった。妻の死は、自らを称えたいボヴァリーに、永遠の花嫁として'劣ったもの'を道徳的に称えさせた。さて貝塚における仁斎「童子問」の語りも、この種のオリエンタリズムの語りとしてあった。「徳」を知のホームレスと称えた。つまり語り手が体現する優越した西欧の知だけがアジアに家を与えたというわけである。最後に、柄谷が言うように、かりに法を復讐的互酬制からの断絶とみなせば、儒家の政治思想が、有徳の為政者が法治を支配するという徳治のシステムを求めたともいえよう。が、そもそも復讐的互酬制はオリエンタリズム的表象ではないか?徹底した道徳性は、国体的法治主義と相いれない。鞭で打ってくる帝国からは、ただ逃げるだけだ。「子の曰く、道行われず。いかだに乗りて海に浮かばん。」



柄谷行人の'交通'はどこへ消えてしまったか?
ー日本オリエンタリズムについて考える (5) 結論


柄谷の'形式化'は本当にそれほど'形式化'だったか?カントとマルクスの形式化について、思考を適用する歴史が、周期的に!、20世紀以降も反復するのか?たしかに語る対象を特定しなければ何の破綻も起きないだろう。<方法としての中国>よりも抽象化した行き過ぎた純粋な神秘主義が柄谷の思考を制約していないだろうか?スキゾとパラノイア、器官なき身体、リゾーム、ノマド的脱領土化と戦争機械とドゥルーズが諸々の概念を生産したのに対して、柄谷は、これらを形式化すべきだといったわりには、帝国原理、儒教、東アジア、華僑といった多種多様な概念に依存しながら、脱構造主義的に、語る対象を固定化しようとはしない。つまり柄谷にとっては、何もかも中心なき自己関係化する諸々の関係体系の射影に過ぎない。彼が自身に対してこれを正当化しているのはただ、自己の思考がライプニッツ的、西田的としてある限りにおいてである。嘗てEUとユーロ(の限界)を語るときライプニッツに言及したように、中国(の可能性)に西田哲学を適用できると信じているふりをしている。そうして結局、柄谷の思考に先行するのは、支配する国家と支配される国家との<同一性>、グローバリズムを米中の帝国に分ける<分割性>、チベットとウイグルの独立要求、天安門前と台湾で抗議する声の歴史を無視した<不可逆性>。が、安宣邦氏が分析してみせた、西田幾多郎を貫く<不同一性><不分割性><不可逆性>の思考に反している。柄谷が西田に沿っていないのは、キルケゴール的遊戯によっても辻褄が合わないだろう



台湾にいる子安宣邦氏のツイート

6000人の武装警官が集結し、立法院を占拠する学生たちの強制退去を迫るの情報に緊張し、一夜を明けた。今日も学生の占拠は続いている。学生たちは迫る暴力的圧力に対抗し、今日人民議会を市内3カ所で開き、意見書をまとめ行政府、立法院に提出するという。民間NPOなどに参加を呼びかけている。
すでに1500人をこえる人民議会への参加の申し出でああるという。国家的隠蔽と暴力とに対する学生たちの堂々たる民主的・言論的な対応だ。台湾のこの運動に畏敬の念を私はもつ。人民議会開催の報を聞きながら、私は今日台湾を離れる。貴重な3日間であった。台湾の友人・知人に心から感謝する。





久々に天声人語をよんだら、どうも、捕鯨反対しているオーストラリアに向かって、'そっちはカンガルーを食っているじゃないか'と言っている。ネトウヨの文じゃあるまいし、そうならば、独自にカンガルーの捕獲をも反対すればいい話であって、捕鯨反対を取り下げよという説得には全然ならないでしょう

The students and citizen protesting in Taiwan, with the expert of University, discuss the contents of the black box that National assembly wants to pass without full discussion. Citizenly, people are searching the problem and raising awareness. These street classrooms are continued for more 10 days.

Nobukuni Koyasu (translation by takashihonda)


貝塚茂樹のオリエンタリズム。想定した他者の単純な人格を膨張させる記述。
「中国民族の国家的自尊心の強さは、個人にもよく現れるが、更に社会的に互いに相手の'面子'(顔)を立てるという風習・・・中国人の演劇好きという性質・・・芝居がかった行動を好まない日本人にはこの面は理解できない」

分かりやすい例として貝塚茂樹と丸山真男の中国認識がいかに、オリエンタリズムを構成するのかをみながら、柄谷行人の中国認識の問題点を分析する手がかりとしよう。柄谷的にいうと、中国そのものは物自体。寧ろ他者認識としての中国認識がいかに内向きに日本の全体主義の言説を成り立たせるかが問題だ

貝塚茂樹は、桑原武夫と吉川幸次郎と同年代。wikiによると、早くから西田幾多郎、内藤湖南ら戦前の京都学派に直接接していた桑原とともに、戦後の京都学派を形成したという。この三人はフランスに行っている。貝塚の中国認識は、留学先のフランスのシナ研究に依るだろう。つまりオリエンタリズムだ

戦後京都学派 (貝塚、桑原、吉川)は、戦前の西田の京都学派とは直線的連続性がない。このライバルが、東大で中国研究したの溝口。戦後京都学派には現代中国に対する尊敬がないことに溝口は憤慨した。溝口と竹内の中国認識は、戦後京都学派のオリエンタリズムとは別のオリエンタリズムを構成している

断定はできないけれど対談を読むと、柄谷行人は、京都学派の西田幾多郎に与える一定の高い評価から、中国認識を行っている。ただし後で論じようと思うが、柄谷が中国と言っているものが一体何かと言う問題がある。総体としての21世紀に現れた言説の運動のプロセスを'中国'と名づけていないだろうか







現在台湾で抗議する人々に、「天安門」の如き弾圧が起きるないかと心配する声も。カウンターデモから、学生達を守ろうと市民が座り込んでいます。それにしても、かくも政治的に抗議している他者を、もし同一者の中の他者として非政治的にしか解釈しないとしたら、その言説とは何者かと私は問います。ところで孤島のプロスぺローが自ら引いた魔法の円ー外と内とを分け隔てた円ーのように、政治的と非政治的とを分け経てる線引きが可能でしょうか?自身がこしらえた境界線をみながら、天安門前抗議をあくまで非政治的と解釈した柄谷行人ですが、この台湾での抗議も非政治的と発言するのでしょうか?兎に角、語ることに先行しているのは、言表主体の政治性。柄谷における中国認識の政治性も問われる必要があるのです。

Je dis toujours la vérité; pas toute, parce que toute la dire, on n'y arrive pas. La dire toute, c'est impossible, matériellement ; les mots y manquent. C'est meme par cet impossible que la vérité tien au reel.
J'avouerai donc avoir tenté de répondre à la présente comédie et que c'était bon pour le panier.
Raté donc, mais par là-meme réussi au ref=gard d'une erreur, ou pour mieux dire; d'un errement.
- Jacques Lacan , Télévision

I always speak the truth. Not the whole truth, because there's no way, to say it all. saying it all is literally impossible; words fail. Yet it's through this very impossibility that the truth holds onto real.
I will confess then to having tried to respond to the present comedy and it was good only for the wastebasket.
A failure then, but thereby, actually, a success when compared with an error, or to put it better, with an aberration.
- Jacques Lacan ' TELEVISION'
「わたしはつねに真理を語ります。すべてではありません。なぜなら、真理のすべてを語ることは、それはできないことだからです。真理のすべて語ること、それは素材的に、不可能です。つまり、そのためには、言葉が不足しているのです。真理が現実界に由来するのも、まさにこの不可能によっています。
だから白状しますが、この喜劇に答えようとして、結局それはくずかご行きがいいところでした。
つまり失敗したのです。しかしだからこそ、ひとつの失策としてみれば成功しています。もっと適切な言い方をするなら、ひとつの散策として成功しているのです。」
ージャック・ラカン'テレヴィジオン'(藤田+片山共訳)


精神は、初めつくられたときから、その存在と同時に与えられた表現的本性の力に依って、その中に、物体の呈し得るすべてのことが時の経つにつれて、一定の時期に達すると、思想の系列となって又はいわば夢のやうなものとなって現れてくるやうになっているものである。しかもその夢(寧ろ内的現象)は規則的であり極めてよく真を得ているから我々は之をうまく予見することができる程である。
ライプニッツ1695;実体の本性及び実体の交通並びに精神物体間に存する結合についての新設
L'âme a été créé d'abord en sorte que toute ce que le corps peut offrir, se présente en elle vertu de la nature representative qui a été donnée avec
son etre, pour se produire à point nommé, dans la suite des temps par l'enfilade des pensées et pour ainsi dire comme par des songes 9ou plutot phénomènes interes) réglés et tellement véritables qu'ils se prévoient avec succès.....

ふふ...某大学のフランス語初心者のための市民大学講義をもったとき、このゴダール「カルメンという名の女」をみせたのは、われながら粋だったニャリ
Il a donné à manger à tout Chine
「毛沢東は、十億人を食わしたコックだったんだ」

緊急に取り寄せたエヴィアーンで、
わが愛車ベンツを洗ったら、
クロワッサンの馬車になった

往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると顔も洗わない昨夜からの私達は、インバイのようにも見えたろう。 - 林芙美子

チュウインガムを噛むより味気ない世の中、何もかもが吸殻のようになってしまった。 - 林芙美子

誰か、私を愛しがって呉る人はないか、七月の空に流離の雲が流れている、私の姿だ。野花を摘み摘みプロヴァンスの唄を唄った。- 林芙美子

私の放浪記は好評悪評さまざまで、華々しい左翼の人たちからはルンペンとして一笑されていました。 - 林芙美

僕を不安にさせるその幽霊の正体が、日本的な感受性や考え方、物の見方であるとすれば、僕は、それにかわるだけのものを持たねばならない。
辻邦生

私自分自身、海外で(影響力もない)周縁のアーチストだったものが、帰国してそのまま周縁のままで(笑)、どちらかというと非権力的なルンペンプロレタリアートとしての文筆コスモポリタンと名乗るぐらいですけれど、3・11以降は、現在反国家的に考えるということは、未来の人々に対するなにほどかの責任ではないかと実感しております。

敬語はコミュニケーションを成り立たせるための婉曲表現。敬語はむつかしいよな。意外と自覚されていないけど、英語も日本語に劣らず敬語がめんどくさい。たとえば、ロンドンの喫茶店でフランス語の本を読んでいたときのこと。知り合いのイギリス人が「I can't read French」と繰り返すんだね。それに黙っていると、なーんか失礼な雰囲気になっちゃっているのさ。おかしいな?と、後で考えてわかったんだけど、本当は、そのイギリス人が「おまえはフランス語が読めるのか?」とききたかったんだね。「I can't read French」という彼の言葉が婉曲表現だと知れば、そのときは、「まあね、読める本もありますがね」と適当に答えるべきだったんだよ。英語の場合、否定の反語的使用が婉曲表現を組み立てるから、会話の中でnotがきこえてきたら要注意。こうして考えてみると、婉曲表現は礼儀正しいけど、効率が悪い。だから婉曲表現なのか、当たり前か。よくは知らないけれど、あからさまな欲望を隠すために、宮廷でのコミュニケーションに必要だったわけでしょう。敬語は。だからこれとは反対に、欲望の世界では敬語はすくなっていくのが道理。哲学の本はね、敬語で書かれていないから好きなのさ(笑) 。ちなみに、敬語は五年生・六年生から学ぶことになる。昔海外でこの時期の小学生を二年間教えていたことがあって、文部省の教科書指導要綱をよむと、一般的に現代の日本社会においては過大な敬語は控えたいみたいなことを書いてあったけど、これとは逆に、最近の若者は友達同士の間でも敬語で喋るよね。どうしてなのだろうかと思ってしまう


ホホー、記号というのはただ沈黙している存在なのだけれども、それを見る人・語る人(観客)の、対象をどうみたいかという欲望をあからさまに曝け出してしまうものなの。ほんとうにいい勉強になるわね (<ーなぜ、女言葉なんだああ!?) 現れることによって、隠れてしまうことだってある。「神話作用」の ロラン・バルトの言葉を思い出す。曰く、パリではストリッパーは脱ぐことによって自らを隠す、と。東京では記号が聖女によって、次にアイドルによって二度 ー 見る人語る人(観客)の欲望の内側に向かって隠れてしまう、ニャリか

詳しくは知らないので、誤解もあるだろうということを前置きして説明しますことをどうかご了解ください。一般的なこととして、海外の思想を紹介する本が売れるのだそうですが、(経営が大変厳しくなってきた)青土社の「現代思想」はどうも、元々の出発点としてあった、流行している海外思想を紹介するだけのそのノンポリ的な態勢に戻ったようです。日本の問題に取り組む左翼たちの執筆に委ねるのは、マーケット的に不利であるという判断によるのでしょうか。内部に通じている者から、編集長の交代を契機に、'左'は全員パージされたときいております。長年の読者たちから既に相対的右傾化の傾向が指摘されていたようですけど、三月号の特集'いまなぜ儒教か'は、右翼的執筆者で占められました。この企画は、レギュラーの執筆者としての子安氏を外して、一年間かけて成り立ったといえるのですね。この特集は儒教をみとめない子安氏に対するあからまな宣戦布告でもあるのです。これに関しては、朝日新聞の書評を牛耳り、岩波書店の書き手になりつつある野心家の柄谷行人の政治力が絡んでいるという噂もあります。が、正直確かなことはわかりません。とにかく、対抗するために、ネット'現代思想'をつくろうと、早稲田大学の清家さんががんばっていらっしゃいます。現在協力を呼びかけているところです。早稲田大学小教室で行っている昭和思想史研究会の市民大学講座で、子安氏は、この四月から数回、現代の問題ー中国認識を中心としてー講義をはじめます。五月には、研究報告として、柄谷行人の問題点(仮題;柄谷行人の'交通'はどこへ消えてしまったのか?)について私が喋る予定です。最後に、青土社に関しては立派な仕事をしてきたことは、確かですし、尊敬もしております。子安氏の大切な本も数冊青土社からでています。評価が大きいゆえに、厳しい書き方になったとおそれています。あしからず。


映画の宣伝が繰り返す、百歳超えてつくったという見世物的関心はどうでもいいこと。やはりオリヴェイラからは、(かれが関わった)ポルトガル革命のことを消し去ってしまうことはできなかったのではないかと考えた方が幸せです。映画では、革命運動に投じた刑務所帰りの息子(夫)の存在を、中流の下の家族 (父親、母親、妻)がどうみるのかが描かれていたかもしれません。映画の名である、'家族の灯り'とは、なんとアイロニーに響くではありませんか!?それは、なんでも盗み人としてしか理解しない無知の息苦しさを嘲笑う言葉として現れてくるからです。帰ってきた息子が父親に向かって「負け犬!」と吐き捨てるのは感動的でした。生きている間にどれだけのプラスの善を行い一方どれだけマイナスの悪をしたかという、善悪の総計する人生のバランスシートばかり腐心している説教型道徳的「負け犬」たちがこの国においても蔓延しているかもしれません


辻邦生

僕らは、無意識にすでに東洋であることを失っている。
すべては失われ、すべてが流れ、崩れてゆく。僕は日本人からは同じように逃げ出さなければならないらしい。




もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける「変化の持続」は、その側面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。(歴史意識の「古層」)丸山眞男


ネオリベ・グローバリズムの日本的表現が安倍的歴史修正主義であり、他に中国的表現としての共産党的歴史修正主義、台湾的表現としての馬的歴史修正主義、そして韓国的表現として親日派エスタブリッシュメントの歴史修正主義があるということですね。ネオリベのグローバリズムは、排他的ナショナリズムを利用することによって、地下で手を結んでいるようにみえます。一方、19世紀的民族主義の幻想を抱え込まされた、それぞれの人々が互いに互いを憎みあっている現状は痛々しいかぎりです。バラバラではありますが、ネグリ的にいう「存在としての共通性」が無いとはおもえません。存在としての漢字がわれわれを見ているのだ。そうして、ネオリベグローバリズムに対抗する、東アジア漢字文化圏の枠組み。と、書くと、なんだか、(日本が中心となった)大東亜共同体の悪夢が甦りそうです。が、台湾は、複数の大国に支配された沖縄に近いとする指摘もあります。つまり日本みたいな国家としては成り立っていないということですね。その台湾を中心とした、正確に言えば、ネオリベ的な自由貿易体制に抗議している、台湾の市民と学生を中心とした運動がおきてきたことは、たしかに東アジアの未来を考えるうえで大変重要な意義を読むことができるかもしれません。


大陸は「共産主義」を捨て去りましたが、「全体主義」は残っているというか、強化されていますよね。それに対する恐怖がもう少しあっていいのではないか、どうしてアレルギーがないのか、瓦斯不思議です。

中国は日本人の中国研究者の言説を輸入しています。東大の中国学研究は右翼なのですが、そこの首領であった溝口は中国のVIP扱いだったといいます。最近の話です。その溝口の中国学といえば、一見アンチグローバリズムとエコロジーで装っていますが、中身は大東亜共栄圏の帝国主義です。中国共産党のアカデミーがこの全体主義を輸入しているというのは本当に驚きです。この方向に沿って、ワンフィーという中国共産党のイデオローグといっしょに、柄谷は自説を展開していきたいようです。(その理由は正直わかりませんが) さて、なぜ、日本の知識人が天安門事件で明らかになったような全体主義に対してかくも無関心で鈍感かと言うと、(それどころか、抗議した現在監禁され拷問を受けている可能性がある知識人たちを非難している始末で、それに関しては、子安氏が丸川哲史との間の論争があり、結局文壇とマスコミから子安氏は徹底的に無視されてしまった結果、ツイッターにやってきたのです)、竹内好の毛沢東観(魯迅を反映した神格化)の大きな影響があるようにおもわれます。つまり竹内の理想化した中国共産党像を通して、天安門事件をみているのです。抗議した若者たちはブルジョアだと。あれはブルジョアのエゴに過ぎないと思い込んだ見方ですね。知識人たちがいかにスターリニズムの幻想に陥ったかを自己批判もふくめて無誤謬性の神話の恐ろしさをずっと論じてきた渡辺先生ほどの学者も、竹内信奉者でしたから、天安門での迫害をそれほど問題にしていませんでした。(三年間説得したら理解していましたが、中国共産党は貧しい人々の側にあると思い込んでいました) 。答えにならなかったと思いますが、これはほんとうに考えなければならない問題です。亡命状態の中国人からきいたら、原発の安全神話といっしょですよ、とズバリ指摘されました。


二年前、子安氏の研究会の忘年会で、'廣松なんか何書いてあんのかわからなかったけど、最近中国語で翻訳されているというからやはり読める本なんだ'などと喋っていたら、机の向こう側で、'廣松は僕が訳しています'という声がきこえました。超ビビった (笑)。石井氏であった。学者は偉い!



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