言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年5月

<<   作成日時 : 2014/05/16 08:11   >>

トラックバック 0 / コメント 0



「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」。'国民参加'という原理が一人歩きした裁判員制度は、冤罪防止が目的の中心に来るのではないようです。'合意させる国家'、'処刑する国家'が正当化されてきただけだとしたら、誰がそんな裁判員制度の地獄を裁くのか?京都学派の憲法学者の言説に責任は?

兎に角、一発大きな戦争さえ起きてくれればOK、それにかかわりたい英国保守党は吃驚するほど非常にはっきりしているところです。FTによると、その保守党の議員がシンガポールの安倍発言に大いに賛成しているといいます。現実に、戦争の匂いを嗅いでいるでしょう。一斉に海外の新聞が取り上げています。結局、安倍の積極的平和主義とはなにか?自衛隊の軍艦を派遣すると約しているのは、もう集団的自衛権すら守るつもりがないことの現れです。積極的戦争主義に突入しはじめています!?


兎に角一発大きな戦争さえ起きてくれればOK、それにかかわりたい英国保守党は非常にはっきりしているところだ。FTによると、その保守党の議員がシンガポールの安倍発言に賛成している。現実に戦争の匂いを嗅いでいるのだ。安倍の積極的平和主義とはなに?集団的自衛権も超えていく積極的戦争主義?



一番いいのは、時機をみて京都に引退していただくと同時に、(象徴)天皇制も廃止し、天皇博物館の永久館長を引き受けてくださることです。その方が人気も出るでしょう。表象といえば、英国の王は外国人(ドイツ人)という起源。17世紀から。ロシア革命とかイースター蜂起のときは、存続をはかるべくその起源を隠すために、俗世の政治から距離をとった、国教会の守護神として振る舞いはじめました。つまり超越化ですね。現在は、例の離婚したチャールズはさっぱり人気がありませんが、かえってアラブと共存しなければならぬマルチカルチュアリズムの時代に相応しい、脱キリスト教的表象であると指摘する研究者もいます。


岩崎さんー>帰還兵や元捕虜における一種の心理的な病ですね。アラブの人々は、現在なおイギリス人の中近東に向けた野心、アメリカ軍にくっついていけば旧領土を取り返すのではないかと期待する(自覚なき)植民地主義を心理的な病とはっきり指摘しますね。ところでイギリス軍は、旧コモンウェルス各国からのリクルートで成り立っており、国内だけでは絶対的に不足してしまいます。この他に、コモンウェルスというのはスポーツの祭典ぐらいしか残っていないと思っていたのですが、知らなかったことではありますが、案外そんな表象のために役に立っているのかもしれません。

C'est dans la pensée que l'homme se dépasse définitivement lui-même 人間が決定的に自己自身を超えるのは思想においてだ。思想=運動から、個々の人間と運動の関係を民衆の名において周縁化する言説がいかに誕生したのか?

W.B. Yeats says "I have always considered myself a voice of what I believe to be a greater renaissance—the revolt of the soul against the intellect..." And he wrote;


In my most secret spirit grew
A whirling and a wandering fire


Today someone in twitter asked me what it means ’A whirling and a wandering fire’. Well, I think it means that for the freedom of the national identity , the "Catheleen ni Houlihan " summons all the Ireland; a whirling and a wandering fire


警察の方針については私も確かなことがいえないのでありますが、脱原発集会に妨害して来るかれらを守るように警備している姿をみるとき、やはりこれは本来行うべきことからはずれているのではないかと思うことはあります。警察を指示しているつもりで、そうして若い右翼のなかには、ヒーローになったつもりで振る舞う者も出てきますし、一方、その何人かは自分たちではなにを主張して妨害しているのかいつまでもあまり分からないままにいるようにみえます。議論をしないようにと、はじめから終わりまで警察が彼らをずっと守っているのですが、しかしそんな必要があるのでしょうか?自由に議論すればいいんだと思います。暴行とかの問題が起きたら、そのときになって警察が介入すればいいでしょう。ナチスの旗に関しては、彼らは思想の自由と思っているかもしれませんが、これは、価値的に考えていくと、「ひとを傷つけている」という物理的障害と同じものを構成するんだと思います。警察とは関係なく、怒りとともにそういうことを彼らに直接伝えたいですね。


集団的自衛権にたいして街の心配する声がない。

バラバラの
こうべの下に
徴兵

うんこ創世記

ホ〜ホ〜、百田は、安倍のまわりでうんことして取り巻いていて、安倍の代わりに安倍の本音を喋る自分の役割に意識的ニャリ。キモイ長谷川と共に忠実なうんことして、中心の大うんこを助けています。狡猾にも、内閣支持率が極端に下がりませんが、反比例して、うんこの国は、バベルの塔より高くなっていく勢いであります。しかしやはり、傲慢に天に達する前に、自らの重みに持ちこたえられず崩壊してしまうにきまっています。古代から例外はありません。その結果、この地上世界をうんこまみれにしてしまうのでしょうね。手遅れにならないように、なにかがなされるべきニャッ!



たしか、ダブリンの500人ぐらいの人々にしたがってデモ行進し、ボールスブリッジにあるアメリカ大使館前に着て抗議した。大使館門前は、警察の警備で守られていた。争いを好まない平和な人々だから、このように大使館前でアイリッシュ同士が対立するのは本当に異様な風景である。と、その門前に、戦後50年間米国が爆撃でどれくらいの市民を殺戮し続けてきたかを示す、大きな看板が置かれた。ヒロシマと長崎の死者の数も示されている。このとき大きな衝撃を受けたのは、HiroshimaとNagasakiを絶対に繰り返すな!という大文字の抗議の言葉を見たときだった。アイルランドの人々は、原爆投下を自分たちの大飢餓(百万人以上が死んだ)の歴史にひきつけて理解するのだが、無性に恥ずかしかった。その日本といえば、盲目的に、早々に米国のイラク攻撃への支持を打ち出していたからだ。イラク側は、第三者のイギリス科学者の調査団を受け入れていた。アメリカが言う「大量殺戮兵器」は確認されなかったが、これを無視して、米国は英国と共にイラク攻撃を開始したのである。アメリカの「友達」(番犬のこと?) として、小泉は迷うこともなくこれを支持。結局「大量殺戮兵器」は無かったのだけれど、安倍は米国の側に責任のあるこの歴史的事実を歪曲し、更に米国のイラク爆撃が国連安保理決議に基づく集団安全保障だと嘘をついている (集団的自衛権集中審議 2014/5/28 予算委員会。) ダブリンのあの日の恥ずかしさが戻ってきている

イラク側は第三者の英国科学者調査団を受け入れていた。「大量殺戮兵器」は確認されなかったが、米国は英国と共にイラク攻撃を開始。小泉はこれを支持した。結局「大量殺戮兵器」は無かった。安倍はこの歴史的事実を消し、更に米国のイラク爆撃が国連安保理決議に基づく集団安全保障だと嘘をついている


昔は滅多に無かったのに、最近は、フランスに旅する間、なんとなく、日本人について考えているのですね。やや平均的にフランス人について申しますと、彼らが抽象的に考えることができるのは、フランス革命がもたらしたものにおいてですよね。それが市民社会なのか国家なのかはっきりとわかりませんけれど、とにかくこれを否定してしまうと、自然状態としかいいようがない‘非合理な'ものに従属してしまうことを恐れている人々ではないか、と。やや持ち上げると、共和制を支える啓蒙的根幹ですね。(本当のところはわかりませんがね。) 一方もし日本人もなにほどか抽象的に考えることができるとすれば、やはりそれは、敗戦によって成り立った象徴天皇制をとおしてしかないでしょう。象徴天皇制を否定してしまうと、戦前との連続性が復活してしまうのですが、戦前という二十世紀的自然状態に従属してはならないと構成的に思考しているはずなんです。そしてそこから倫理的なものへの責任感も。一応立憲主義の精神といえますが、しかしもっと現代的な、アートが関わっていかなければならない人間の存在にかかわる抵抗ですね。(なぜなら、抵抗しなければならない二十世紀的自然状態とは、合理も非合理も無意味にしてしまう天皇ファシズムのことでしたから。)そうしてだから、無責任にも、天皇を元首にしたいなどという安倍とお友達に対して反発するというのは、すくなくとも、抽象的に考えていなければできっこない話です。これについては、おそらく、アッキーも同じようなことを考えているのではないかとおもいます。(そう期待します。) いろいろとそういう意味もあって、アッキーを拡散してしまおうじゃないかと申し上げました。あ、ポンタッキーもよろしく、です


欧州議会の選挙結果

労働党に不満をもつ労働者達の票は、前回ロンドン市長選のように、保守党に行くことはあっても、極右翼政党には行かないとされた。今回のブリュッセルの労働政策に対する当然の?反発を背景にした、UKIP(英国独立党) 人気は寧ろ一時的なものではないかと観る新聞の分析を、一か月前ロンドンの短い滞在中に読んだ。今回の欧州議会の選挙結果が深刻なのは、事実上極右政党が支えるUKIPのもとに労働党支持者の票が流れたことに尽きる。それは労働党の大敗北を意味するだけでなく、議会制民主主義の危機を意味するからである。今日なお一体誰が英国は極右翼の台頭が無いと言い続けるのか?ル・ペンのフランスに続いて、イギリスよ、ついにお前もか?自由と権利を自ら牢屋に置くのか!?

ラディカリズムというのは、直面する問題の解決が国外から来ると考えるしそう期待してきた。ところがこの国の若い学者(多数派) はこの前提を共有しない。ネット上で声高に「来るべき民主主義」を言うが、ラディカリズムならば依拠したいと願う外の運動との連帯、例えば台湾学生との連帯には、一言も触れない。本音では民主主義に来て欲しくないからだろうと疑ってしまう。せめて、一言だけ。'デリダ'ならば、安倍首相靖国参拝のままで民主主義が来ると考えただだろうか?と、一言問え!

ラディカリズムというのは、直面する問題の解決が国外から来ると期待する。この国の若い学者はこの前提を共有しない。「来るべき民主主義」を言うが、例えば台湾学生との連帯に一言も触れない。本音は来て欲しくないからだろう。せめてデリダなら首相靖国参拝のままで民主主義が来ると考えたか?と問え

意外にも、「フィネガンズウェイク」にエスペラント語を利用した造語があまりみつからない。理由は分からないが、やはりいくらエスペラント語が社会主義原理の民族語を超える構築性をもつとしても所詮、国家モデルのバベルの塔的な野心。(ジョイスのような) アナーキストの目覚めぬ夢の言語の発明が依拠するに値するほどの参照系にあらずということか。
ここで、理論的にかんがえてみよう。仮に民族語をなるべく平等に利用した人工言語Xをある国家がもつとしよう。Xのつくり方から、国家の民族語を超える構築的普遍性が証明されるか?Xという特殊から特殊でないものを導き出すのは矛盾。こうして結論が成り立たないとすれば、それは、そもそも国家に先行して民族語が実体的に存在するという前提が偽なのだ。
最後に「階級という便利な言葉をもってきても、いくらでも、ひとりひとり、はみ出してしまうのである」、と語る小田実は、ジョイスに近い民衆史批判だ。ところでスターリン主義者なのに、(だからこそ?) 靖国公式参拝に曖昧な人もいる。それは彼らが近代以降の産物の靖国に古代的起源を見ようとするからだ。愛国的民衆史が、民族語の幻想だけでなく、こうした遠近法の転倒を起こす原因である。

意外にも「フィネガンズウェイク」ではエスペラント語を利用した造語が多くない。理由は分からぬが、やはりいくらエスペラント語が社会主義原理の民族語を超える構築性をもつとしても所詮、国家モデルのバベルの塔的な野心。アナーキストの目覚めぬ夢の言語の発明が依拠する参照系にあらずということか

仮に民族語をなるべく平等に利用した人工言語Xをある国家がもつとしよう。Xのつくり方から、国家の民族語を超える構築的普遍性が証明されるか?Xという特殊から特殊でないものを導き出すのは矛盾。結論が成り立たないとすれば、そもそも国家に先行して民族語が実体的に存在するという前提が偽なのだ

「階級という便利な言葉をもってきても、いくらでも、ひとりひとり、はみ出してしまうのである」と、小田実はジョイスに近い民衆史批判だ。ところでスターリン主義者なのに、(だからこそ?)靖国公式参拝に曖昧な人は、近代以降の産物の靖国に古代的起源を見るからだ。愛国的民衆史が遠近法の転倒を起こす



内閣府の調査なんて税金の無駄。常に自分自身に満足していると言わなければならない米国社会の息苦しさと、自己満足が咎められる日本社会の息苦しさは実は同一のコイン。共に拝金主義なのさ
ー>「「自分自身に満足している」と答えたのは1位の米国が86.0%、日本は45.8%と著しく低かった」

動物劇も「観客は立会いを許された覗き魔である」。なぜ覗くのか?観客自身も動物に成るためにと一応答えておこう。寧ろ外部の大地に脱出した観客が何に関わるかの方が大切だ。特に死にかけた動物に成るのは、人間において死のリスクを負いながら自己が自己自身に関わり自らを超える欲望によってである。
精神分析も患者が語る夢の中の動物を指示するのはこの種の覗きに他ならない。文化人類学は共同体を死んだ動物として体系づけていく認識だ。精神分析も文化人類学も、死んだ動物に成るためにといえるか?それは、学に向かって、学の終わりから自己自身に関わり自らを超える力が働くことによってだろうか


果たして、'解釈改憲'について理解している人々がいるのでしょうか?理解できるのは多分、政府と学者とマスコミ人といった1%以下の人々だけでしょう。同様に、'集団的自衛権'という言葉の意味も本当に理解されてはいますか?これらの'上'から一方的に来る言葉たち全部を私は疑っています。どうか、わずか1%の理解のためにではなく、99%の理解のために、'解釈改憲'と'集団的自衛権'を、それぞれ、'憲法停止'と、'爆撃するアメリカ軍として自衛隊が積極的に行う戦争権'と報じてください!

'果たして、'解釈改憲'について理解している人々がいるのでしょうか?理解できるのは、おそらく政府と学者とマスコミ人といった1%以下の人々だけでしょう。同様に、'集団的自衛権'という言葉の意味も理解されてはいますか?どうか、1%の理解の為にではなく、99%の理解の為に、'憲法停止'と'爆撃するアメリカ軍として自衛隊の戦争'と報じてください!
全体主義と軍国主義はなぜ助け合うか?複数政党制が存続した戦前の英国に全体主義が現実化しなかったのは、植民地主義で軍隊を海外に拡散した事情に依るという説。が,大英帝国の有機的全体を構成する部分として19世紀に議会を廃止された植民地国アイルランドからは、英国は全体主義=軍国主義である

アイルランドの独立はいかに大英帝国的帝国概念からの連続性を断ち切るかにかかっていたから、戦争中立国としての構成にエスタブリシュメントの課題があった。問題はそれほど全体主義から自立できたかだ。ポストコロニアリズム世界のケルトの虎の苦悩は、モンローと毛のポストモダン的結婚が償うのか?


文化の固有性と資本主義経済、この両者は、ポストコロニアリズムの理論においては互いに切り離せない関係にある。理論に先行して、産業革命なき「新」興独立国が現実に必要としているのは外国資本だ。エスタブリッシュメントが自らを正当化すべく民族という問題をつくっていくのは、経済の側からである


Terrible !
Le Monde ; Pour la première fois en France, le Front national arrive en tête d'une élection

ローザ・ルクセンブルクはマルクス主義と国際主義の立場から、1893年8月にチューリヒで開かれた第2インターナショナルの大会に出席し、民族主義への傾斜を強める社会党の代表と、ポーランドの代表権を争った。この時ローザは23歳。国際社会主義運動の檜舞台への初登場であった。 …伝記より

「論語」は、道徳先生の時代遅れの本か?憲法前文以上に、読者の前で、人間の人間関係に即した道徳性しかないと徹底してくるくせに、道徳とはなにか?という定義を一切しようとはしない「変わり者」です。「理屈屋」さんでもあるので、ただ道徳の領域があるとすれば、それは武力に頼る政治によっては成り立たぬことだけは確かだ、と説得してきます。「平和主義者」であろうとしますから、集団的自衛権に頼る政治ならば「筏」で逃げよというはず。つまりどうやってこの力に頼る政治を止めさせるかを考えよう、と。「変わり者」「理屈屋」「平和主義者」、すなわち「論語」は時代遅れということを遥かに超えています。原初の本の名である、徹底して<反時代的な>本の名が、「論語」です。



公治長第五第六章

子曰、道不行、乗筏浮千海。従我者、其由也与。子路聞之喜。子曰、由也好勇過我。無所取材。
子の曰く、道行われず、筏(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、それ由か。子路これ聞きて喜ぶ。子の曰く、由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無からん。

(訳) 孔子がこういわれた。道が行われる世ではない。筏に乗って海に浮かび出ようか。私についてくるのは、きっと由だろう。子路はこれを聞いて喜んだ。子路が喜ぶのを知って、孔子はいわれた。由の勇を好むことについては私も及ばない。しかし筏に乗ると勇み出ても、筏を組む材木をどこで一体手に入れるというのだ。しかし筏に乗ると勇み出ても、筏を組む材木をどこで一体手に入れるというのだ、由は勇み出るばかりで、備えがない。。

憲法前文の規範は、極めて単純かつ少数のいくつかの原理ー主権性、代表性、国際協調主義、生存権ーをめぐって動いている。揺れ動く複数性が思考に働きかける。そこから思考は自らを、考える主体として措定していくことになる。ところが、これに対して、われわれが定位するのは、観念の同義反復的な単一性である。単一的観念を主体に先行させてきた近代は、戦う国家に活路を見出す19世紀的民衆像を実体化しこれを描いてきた。集団的自衛権であれ国連軍であれ、同じ過ちを繰り返す。起源の悪夢から目覚めることが容易にできない。

1989年の5月に10万余の学生たちが天安門広場に、中国に〈もう一つの政治〉を願って集まりました。その願いは6月4日の戦車と銃声によって踏み消されました。25年目の6月4日を迎えるいま、中国ではその日を追想することも許されません。6・4とあの願いとは二度とあってはならないから?今回天安門事件研究者達が当局から拘束を受けました。さてアジアでどんな民主主義的声があがっているかを知るためには、劉暁波Liu Xiaobo たちが2008年に提唱した 08憲章を徹底的に読むこと。彼は問うています。普遍主義的ヒューマニズムはなにか?08憲章の抗議とは一体なにか?まだ2008年は金融バブル崩壊のロンドンにいましたから(翌年2009年はG20ロンドン開催抗議デモの年)、これにかんしては私はあまり関心を払っていませんでした。当時インターネットで公開された08憲章の日本語訳とともに、今回パリの本屋で手に入れたフランス語訳も紹介します。

小田実「世直しの倫理と論理」(1972)は、アカデミズムの概念から自立して、当時の言説を壊しながら世の中の運動を語る。戦争の軍国主義以上に、安全神話にまき込まれて無力となった無数のひとりの人間がわれ=われ。巻き込まれることに歯止めをかけつつ、巻き込まれながらまき返す手立てを模索中


この頓馬は、相手を非難する仕方にうっかり自分の考えが出る見本だ。選挙は、‘反TPP'も'脱原発'の公約も「まあ適当でいいや」
ー>「地裁というのはヘンチクリンな偏った裁判官も多いから、まあ適当でいいやという事なんだろが、高裁、最高裁となれば立派な判決が出るでしょう」(自民党幹部)


「美しい」などと称える必要なし。当たり前の判決なのだから。さて日本の関連企業が儲かるために、組合に仕事をもたらすために、さらに、国際法違反・憲法違反にも拘らず多分国が核兵器開発を行えるために?しかしこれらを実現するための犠牲として、日本の原発を輸入する国々の多数の人の生存そのものに関わる権利全体を危うくしていいのだろうか?絶対に No だ!

福井地裁判決「被告は原発稼働が電力供給の安定性、コストの低減に繋がると主張するが、多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いという問題を並べて論じる様な議論に加わり、議論の当否を判断すること自体、法的には許されない」


<われ>であってはいけない。まして、<われわれ>であってはなお、いけない。くにとは、自分の家にいるような感じを与えるもの。流竄の身であって、自分の家にいるという感じをもつこと。場所のないところに、根をもつこと。 Simone Weil ‏


天声人語の歌う頓馬な執筆者達について語るのはやめたつもりだが、それにしても自衛隊機夜間飛行の問題の全部を、「うるさい」という生活音のトラブルに縮小する小市民性には呆れたな。裁判を超えて危険な基地のあり方に反対する声を政治化すべきときに、新聞によるこの種の市民社会の芸能化は何なの?

思想史とはなにか

わからない!しかし思想史とてわれわれ人間が語るのである。さてその人間といえば、二つの物をそう簡単に切り離すことに躊躇するものだ。だから思想史もきっと同様の仕方で、アイデンティティと非アイデンティティの間の交通をみるのだろう。ところでこれらに関して、アイデンティティだけがあり非アイデンティティがないとか、逆に、非アイデンティティだけがありアイデンティティはない、ということは起きない。認識的な保存則といえるかもしれないが、思想史がこの保存則を政治的にみようとする理由は、われわれがわれわれとして意識されてくるのが政治においてだからだ。思想史からみると、政治は、反・新植民地主義復活の68年からマィノリティー的な非アイデンティティにある。思想史は、ソビエトが崩壊し「脱政治化」がいわれる80年代以降は、政治が、市民社会的な<われ=われ>のアイデンティティに依拠し始めたことを語るだろう


人間は二つの物をそう簡単に切り離せない。思想史も同様の仕方でにアイデンティティと非アイデンティティの交通をみるのだ。政治は、反・新植民地主義復活の68年以降はマィノリティー的な非アイデンティティに、「脱政治化」の80年代以降は市民社会的な<われ=われ>のアイデンティティに依拠する

ブレヒトの芝居で欠かせないのは、ストライキのテーマです。ストライキ権は生存権のインフラ。さらに現在安倍が反動的に立ちかえる<戦う国家、祀る国家>に対する抵抗権となり得ます。だから信仰の自由のインフラでも。時計仕掛けのように全体主義が進行する現在の危機的状況を考えると、もうこの際一人でもストライキ権があるべき。神ならざるヨハンナの一人で立つ姿が本当に印象的です。手遅れにならないうちに、ストライキ権を、市民社会における「われ=われ」の権利として再構成していけないでしょうか!


ストライキ権は生存権のインフラ。さらに安倍が反動的に立ちかえる<戦う国家、祀る国家>に対する抵抗権となり得ます。だから信仰の自由のインフラ。全体主義化する現在、もうこの際、一人でもストライキ権があるべき。ストライキ権を市民社会における「われ=われ」の権利として再構成していく時代!

青年マルクスの市民社会の政治化

オーストリア帝国の崩壊は、ノマド的集団において脱領土的な理念性として回復していきます。そうしてドゥルーズは、反普遍主義のマイナー文学に、カフカ文学の孕む動物の如きイデッシュ語的ノイズに期待しました。しかし、ドゥルーズは、かれを継承した米国ポストコロニアリズム理論と柄谷のように、諸文化の固有性(民族が主体)に、または「儒教」という「帝国」の理念(国家が主体)に、抵抗を委ねたでしょうか?私の整理ですが、ここでいうポストコロニアリズムとは、ポストモダニズムのモダン化のことです。この言説は、歴史の終焉を終焉させる主体として世界資本主義を正す民族と国家を指差します。しかしイラク戦争の反戦運動とオキュパイ運動以降に現れてきた、青年マルクスが理論的に言った市民社会の政治化を見ようとはしません

ツイッターの掲示板に現れるかくも多くの匿名の意見が、スケープゴートに嵌まるのか?

誰からも見られず、誰にも聞かれたくない心の中の内部は、驚くほどの多様性を生産する。そもそも芸術はこの<私>の領域がなければ成り立たない。さてこの<私>の領域を敢えて<公>の領域に、(ネットは半ー公か?)、接続するときに、自分が何者かを開示する努力が大切とされる理由はなにゆえか?ツイッターの掲示板に現れるかくも多くの匿名の意見が、スケープゴートに嵌まるのは、書き手が他を排する私の領域から書いているからではないだろうか。他を排するのは、<私>の領域の性質、すなわち、誰からも見られず,誰にも聞かれたくないという心の性質に由来するように思われる。一方、芸術家ならば自分が何者かを開示することに重いオブセッションがあるが、それは自らを、スケープゴートという貧しい表現に陥らないようにするために欠かせぬ努力だからに相違ない。しかし現実には、痛々しいことに、この努力が実ることが少ないのは、やはり事柄の性質上、その芸術家が定位する<私>の領域 (誰からも見られず,誰にも聞かれたくない)と、<公>の領域(未来の人々を含めて誰からも見られ誰にも聞かれたい)は一致するものではないし、根本的に反発し合うからだ。つまり無理が生じるということ。芸術のなかで例外的にうまくやっているのは、演劇だ。おそらく演劇が他の芸術と比して一番長く続くことができた理由もここに。

集団的自衛権は、ー解釈改憲というその決め方はー、憲法前文と第9条の否定というよりは、憲法そのものの否定、つまり思考そのものの否定に繋がることが本質的な問題です。さて憲法の外から、あるいは憲法の否定から海外に出た兵隊たちに対してこれとは別の事をそれほど期待できるかというもう一つの問題が。いくら一人ひとりモラルが高くとも、中には、集団の圧力に抗しきれず、更に最悪なことに!思考そのものを否定し去り、必然として、民間人や捕虜に直接・間接に残虐行為に加担する者も出てくる状況もいまから考えなければなりません。兵隊だけの問題ではなく、秘密保護法と、安倍自民党の憲法草案がかつての道ー自分たちが何をしているのか分からないままに国家の戦争を盲目的に推進したーに行進せよと日々エスカレートしてきていますが、この圧力にいかに抵抗するか?本当に絶望的ですが、まだ言論の自由が死に切ったわけではありませんね。

集団的自衛権は、憲法そのもの否定、つまり思考そのものを否定です。そうすると、やはり海外に出た兵隊たちにそれほどこれとは別の行動が期待できません。中には、(偶然ではなく)必然として、思考そのものを否定し去り、民間人や捕虜に、直接・間接に残虐行為を行う者が出てくることが予想されます。秘密保護法と、拷問禁止規定を削除したい自民党憲法草案が、この方向を奨励しているようなものです。

死刑制度はなくとも、(それを除いた) 刑法と刑事政策で十分対処できます。人々の平和を願うその傍らで、(敗戦直後の日本人なら敵を処刑していく軍国主義から派生していると見抜いたのにですがね)、この死刑に熱狂しているから、集団的自衛権という軍国主義を押し込まれてきたのではないですかな?

再び解釈改憲的敗北を被るなかでこのまま集団的自衛権が既成事実化してしまう危険性が。今後危険な戦闘地域に次々と送り込まれる自衛隊が事実上の'自殺隊'にならないようにするために、二十万人を超える自衛官たちに対してストライキ権を与える必要がないのでしょうか?

L'universalism, une arme pour la gauch

ホホ〜、お久しぶりー。上のこの言葉は、「ルモンドdiplomatique」五月号の記事のタイトルで、普遍主義は左翼がとる武器であるか?と問いています。それはそう思いますニャリよ。ただしもちろん、(もちろんただしかな?) 普遍主義=光みたいな、サルトルの時代と同一内容ではあり得ない。例えば、この二十年の間に、驚くほど、<実体>の概念は豊かになりました。実体の観念は、'光'の<一>性だけではなく、'暗闇の沈黙'の<多性>を包摂した観念へと成長しています。( 実は、'暗闇の沈黙'とは、憲法集会のときの休憩時間に入江さんから聞いた言葉。スタニスラフスキーStanislavsiiによると、初舞台に立つ俳優が一身に浴びることになる、(オー、大変!)多数の視線の圧力をいう。そして、これをいかに克服すべきかというところから、俳優修行の毎日がはじまるらしいのだ。ニャリ、ホー)

普遍主義は、左翼があてにできる武器であるか?そう思うよ。もちろんサルトルのときと内容は同じである必要がない。普遍主義も左翼も、時代遅れにならないように、観念を絶えず検証しこれを豊かにしていくことが大切。現在のために、そして未来に伝えていくためにも。実体概念なんか豊かになっているし

反植民地主義復活の68年的課題として、ポスト構造主義は脱近代的に書くことの歴史を書いて、またポストコロニアリズムも反近代的に歴史を書くことによって、帝国主義文化論的言説(戦う国家とそれを祀る民衆史)を批判した。ポジティブに、ポストモダニズムのモダン化は二つの思想に猿轡を咬ませるか

米国アカデミズムのポストコロニアリズム理論は、ポスト構造主義の西欧中心主義批判を取り、左翼がいう人間の資本主義的疎外の批判を捨てた。他の文化の本質は判断できぬと、現地開発独裁の人権抑圧に黙る口実を外国資本に与えている!「帝国」概念の日本知識人が米国アカデミズムの役割を引き受ける?

ポストモダニズムの所謂モダニズム言説は、脱政治化の世界的傾向を指摘しています。例えば議会政党が国家の部品になり下がった現状に不満を持ちます。しかし別の見解も可能です。(既成の)政治が脱政治化したことは、市民社会が政治化するチャンスだともいえないでしょうか。<われ=われ>が立つとき

あらためて「ヘーゲル法哲学序文」、「ユダヤ人問題」、「経哲草稿」、また「ドイツ・イデオロギー」を読み調べていくうちに、文学者ジェイムス・ジョイスは所謂青年マルクスの思想を利用して、彼の小説「ユリシーズ」を書くことができたのではなかったかと気がついた。近代主義者が民族主義者の肖像画をかいた。本当は、<われ=われ>の肖像画が問題だっだのに





私の理解不足かもしれませんが、特にこの場合にかぎっては、著作権など、未来の世代を含めた人類の問題の意味をもっている福島の原発問題に一体なんの役に立つのか?まったくわからないです。著作権は、抽象的な、市民法的な金の問題、損害賠償のレベルの話、表現の商売の話です。やはり、私ならば、もし福島の原発問題と一体となった知る権利と関わる問題提起をもつと判断したら、将来の世代のために、<公>に正しいことを行うとおもいます。この<公>の正義は、私権とか社会生活の要請とは必ずしも一致するわけではありませんし、それどころか私権とか社会生活の基準からいって間違っていることすら沢山あります。なによりも、原発問題は、情報公開の危機に直接関わる問題であり、<公>の領域の決定的な危機の問題に関わる問題。ここで、私は、特定の漫画について言っているのではありません。情報公開の精神を守ろうとする人々の行動の公的な性格について言おうと努めているつもりですから、どうかその点をご理解を。<公>的に次元でいえば、仮に無断転載でも、伝えた行動は民主主義の精神に反していない、と、私はおもっています。言論の自由についての議論にだれもが参加できることが民主主義の根本であるはずだからです

演劇と裁判

「たちかぜ」裁判(海自いじめ自殺事件)弁護団長の岡田尚氏は、'裁判官を始め、(はじめから) 法律で説得される人間は一人もいない'と語っていました。説得するためには、'問題の全体性'を理解させること、(その理解を)'人間性'に基づかせることが必要だということでした。集会後の交流会で隣の志賀さんに、法の言葉と演劇の台詞について'繋がっているのでしょうか?'、と、やや乱暴に愚鈍にお訊ねしてみた。演劇との共通性は人間性にある、やはり人間性に基づかないと、(観客に向かってだけでなく)、俳優同士でも伝わらなくなってくるというようなことを仰った。志賀氏の大変印象深い言葉でした。


第六回憲法集会は、「物語」「弁舌」「歌」から成り立っていた。つまり、寸劇仕立て『くらべてみよう 自民改憲案』、海自いじめ裁判の弁護団長岡田尚弁護士の講演、林光の憲法前文ソング、という三部構成だ。「物語」をなす寸劇は驚きだった。俳優達が書いた寸劇によって、安倍の憲法改正案の現行憲法との差異が非常に明確になってくるのであった。本当に不思議だ、この寸劇とは一体何者なのか。 新劇の訛り?新劇の裏道の忍びやかな唄声? と、なにであれ、演劇が依る人間探求の特色をゲリラ的に満たしているのが愉快だ。つまりその探求の結果が単に抽象的、概念的に羅列することではなくして、必ずそれを一つの可及的に生きた具体的な像に再構成して見せることだ。そうして、寸劇『くらべてみよう 自民改憲案』は、憲法という政治思想史の<旅>を見事に構成してみせた。われわれの前に、小さな声でされど大きな真実を語ったのではないだろうか。大切なことは、われわれの演劇が、対話の憲法的本質を破壊する安倍体制のようには、同じ一つの声で語ってくる対話ではなかったということである。

美しい日本の私から、美しい日本の恐怖と貧困へ

劇団員による「くらべてみよう、自民党草案と日本国憲法」の舞台は、左側にある現行憲法の領域と右側にある自民党草案の領域に分かれている。「象徴天皇」(現行憲法)が左側の領域から右側の領域へ移ったとき、「元首」(自民党草案)として称えられる混乱と当惑を演じたのは、熊谷氏であった。竹口氏と大多和氏は、最初から最後まで右側の領域に立ち、自民党政治家と草案解説者を演じた。俳優が演じたくないものを演じなければならぬときにかえって真実の開闢が生じることもあるのか?政治家と解説者が終始みせる苛立ちの正体とは何か?安倍自民党の憲法改正派は、現在の憲法を無意味に思っているだけでなく、実は自分達が書いた改正憲法も無意味だとみなしているようにみえる。ファシストにとっては、理性そのものが無意味だから、左であれ右であれどんな憲法の言葉も無意味なのだ。ここでハーレントが見抜いたように、思考そのものが無意味というファシズムの権威主義のもとでこそ、'思考が出来なくなると平凡な人間が残虐行為に走る'ことになったのだ。最後に、憲法の旅の乗客(これは舞台を眺めている観客の姿でもある)はファシズムといかなる関係を取りもつか?三瓶氏がこれを滑稽にカフカ的に表現した。緊急事態が一方的に告げられる。次々に命令が下されるなかで自分のお札すら燃すことに同意する男の孤立は、背を向けた他の乗客たちの姿によって一層強調されていた。背を向けた乗客の誰もが美しい日本の私をみているつもりになっているかもしれない。だが、外部から見ると、美しい日本の恐怖と貧困に従属した人々の惨め姿しか目撃されないのである。



小さな声でされど大きな真実を語るー
集団的自衛権は対話なき集団的暴力のこと。
語るとは、他者を知ると同時に自らと他者を知らしめること。
他者が知られるより先に対話者として座を占めているこの顔と顔とを
向き合わせた関係を介してしか、対話は不可能なのに、
集団的自衛権がこの顔達を消滅するまで爆撃していくとしたら、
歌、物語、弁舌を通してどんなときでも同じ一つの声になって
表現することだけがゆるされている民主主義しかなくなるだろう

集団的自衛権は、正確には、合衆国的爆撃ゲームというべきです。この爆撃ゲームはテレビで伝えられるので、骨がバリバリ砕け、かきまぜられ、落しつぶされる様子を隠蔽してくれる。光を消す過程でドラムの音だけが。ーそれから点、点、点。日本人の思考の死。人間として考える自己に対して爆撃をやめることができない!


考える自由が保障されているときならば集団自衛権を不必要と冷静に判断する人々が、現在「必要」と言い出しているのは、それは、考えが変わったのではなく、考える自由が許されない戦争体制に入ってきたからと思います。嘗ての総力戦とは違う、陰険な見えない戦争体制に嵌め込まれていく危険性が非常に大きい

平滑空間あるいはノモス、これと条理空間とのちがい。ーー平滑空間をみたすもの、すなわち身体、また身体と有機体とのちがい。ーーこの空間に配分されるものとは、リゾーム、群れ、そして多様体である。
そこに成立する座標は、諸領土、大地、脱領土化であり、コスモスである。――これに対応する記号とは言語と音楽(リトルネロ)である。時空のアレンジメントは戦争機械と国家装置である。それぞれのテーマが「プラトー」を、つまり強度の連続する地帯を形成するとみなされる。様々な地帯の接続はリゾームの線にそって、次々に、あるいは距離をおいて実現される。リゾームの線は芸術、科学、政治学の諸要素にかかわる。そこで生起することは生成変化であり強度である。――下)【原書の裏表紙にかかげられた跋文】7

小田実「戦争を知らない人は、戦争に向かっていくときは街に軍歌が鳴り響き、みんなが日本の勝利をひたすら祈っているような異常な状況になると思っているらしい。でも私の経験では、ありふれた日常の中で進行し、戦争へと突入していった」

寸劇 (五反田オープン居酒屋'ふくろうねこ'初日)
客「昭和タコライス、昭和風オムライス、ぶっくりネギ昭和丼?この店は昭和フェチか?さっぱりした野菜を出してくれ」
親爺「昭和の思い込みトマトで?」
客「もう平成なんだぞ!」
親爺「え、いつ昭和に?だってずっと戦争してるのに」

たしか、わたしが子供のときは、この映画は、テレビでもよく流されていました。教訓がまったく生かされなかったというか、(当時ブレヒト的だった)ゴダールが言うように社会派女優のクローズアップがドキュメント的事実を吸収してしまったというべきか。(「万事順調」という映画の制作を助けてくれたのでゴダールはもっと感謝すべきだったのですが)。ところで 某電力会社に就職がきまった人がこれをビデオで見たとき、「絶対ありえない!」と罵りました。その数年後、九十年代でしたか、再開したときは、社内の安全神話と秘密主義の徹底が軍国主義以上のものだと非常に恐怖していました。危険な被ばくのリスクを伴う原発奴隷の労働のことも震えながら喋っていました。一方で、「非国民」が集まる、反原発の集会・デモなどには二度と行かないでくれなどと泣いてくる有様。理不尽に感じて神経を痛めているのならば辞めればいいじゃないかと言ってみると、給料が非常に高くて辞めることができないなどと。(電力会社は格別に高い給料で社員を縛りつけ情報の流出を防いでいるのだそうですが) なんとも...これでは、いくらエリートでも、精神のメルトダウンという言葉が当時よぎりました

なんのために?と思う裁判員制度ですが、どうも、冤罪の防止が必ずしも目的の中心に来るのではないのですね。当初から'国民参加'という'原理'が非常に抽象的に一人歩きをし過ぎていたと思いますけれど、これに関しては、京都学派の憲法学者(佐藤幸治)の言説のあり方も問題にすべきだと思います。結局、'国民参加'という名の、'裁く国家'、'処刑する国家'が正当化されてきただけという印象があります。死刑判決に関わった裁判員たちを調査して欲しいし、場合によっては、告発しならなければならないようなケースもあるだろうとは思っています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年5月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる