言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年6月

<<   作成日時 : 2014/06/01 09:04   >>

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については、ショスタコーヴィチを聴いたとき常に考えました。

<政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか?>Peut-on agir moralement sans s’intéresser à la politique ? これは、2013年に、理系 (scientifique; S) の生徒に課されたバカロレア(baccalauréat) の哲学の問題ですが、一定の多くの人からRTされていましたから、多分きっと現在の共通の関心事といえるのではないでしょうか。ところでこの共通の関心は何を意味するかです。はたして単なる知的なものにとどまるのか?既存の政治の行き詰まり感から、道徳のなかに回復したいと望んでいるのだろうか?否、もうこれ以上道徳に絡みとられてしまう事態に危機感を?それとも、もっと他の大事なことがあるのでしょうか?一考の価値があります。<政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか?>というテーマは、最近では、(BFIで五年前?) 、大島渚「愛と希望の街」を観て考えました。しかしこれについてはもっと遡りますと、高校生のときです。ショスタコーヴィチを聴きはじめた時代 (たしかバーンスタインの演奏でした) 。作曲家が遺書のなかで説明したように、スターリニズム体制によって殺された多くの人々への鎮魂歌としてつくったのだとしたら、なにがしか、音楽作品をとおして、かれの道徳性をきいていることになります。悲痛なロマン主義の音楽。しかし単純ではありません。他方、ジャーナリズム的に、音楽アカデミーの最高責任者として、政治犯でつかまった仲間に対する処刑を承諾した事実のことを考えると、安泰に聴き浸っていたショスタコーヴィチの音楽がそれほど透明ではなくなります。<政治に関心を持たずに純粋に音楽をきくことができるか?>ですね。当時こんなことを周りにいた音楽好きの先生たちに問うても、'何を喋っているんだ?'という反応しかなかったのが、非常に失望させられたことでした。音楽史のなかにしかショスタコーヴィチは存在しません。それも政治的なんだと気がつくのにそれほど時間を要しませんでしたが。嗚呼、17歳。
<政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか?>というテーマは、大島渚「愛と希望の街」によって、考えることができます。大島が最初につくったのは、靴磨きの母と少年をえがいたこの映画でした。簡単に紹介しておきましょう。仕事をする母の横で少年は鳩が入っている籠をもっています。少年は鳩を売っています。ところが客に売られた鳩は少年のもとに戻ってくるように訓練されていたのです 。ところでアリストテレス「倫理学」を近代的に超える探求として、アダムスミス「道徳感情論」は、主観的な心の痛みの分かち合いから、富者と貧者の間の道徳的和解が成り立ちうると考えました。このアダム・スミスといえば、レッセフェール的な「国富論」とだけ結びつくのですが、それを補うような、こんないわゆるヒューマニズムの本を書いていたことはもっと知られるべきだとおもいます。さて、これにたいして、大島渚「愛と希望の街」は、このようなアダムスミスが考えたヒューマニズムを、ブルジョアにとって都合がいい体制協調主義として弾劾しました。これは大島による戦後民主主義批判ですね。かれの処女作であった「愛と希望の街」というタイトルは、アイロニーに満ちています。映画の決して忘れることができないラストの場面では、貧しい少年のもとに飛び立っていく「和解」の象徴となるはずの「鳩」が、金持ち(少年の先生の兄) によって、無慈悲に!ライフル銃で撃ち落とされてしまいます。

国立競技場の壁画、予算不足で保存できず?

「文化帝国主義」になっては困りますけれど、ただそこでサイードがズバリ指摘したのは、現在国家の価値はもはや軍事力などではなく、所有している芸術作品の数だ、と。だからそういう意味で、今回のオリンピック会場建設を理由に、芸術家の歴史的な壁画を残そうとしない国家は、完全に時代遅れと言わざるをえません。今回に限らず、国家の戦争推進施設の靖国神社建設が当時敷地にあった多数の寺(仏教)や神社を徹底的に立ち退かせたように、「他」の痕跡を消去し尽くすというやり方が繰り返されてきたようにおもいます。われわれの前から「他」の痕跡を消し去ってしまうのは、この国の大きな病とはいえないでしょうか。



渡辺一民氏は、ご自身が翻訳なさったフーコ「言葉と物」の英語訳のタイトルを知らなかった。一応'THE ORDER OF THINGS'となっていますとこの本を見せたら、「ちょっとね・・・」と蒼ざめて引いてしまった。ドゥルーズによれば、ユーモアのあるタイトルだったというから、たしかに、この英訳タイトルでは、なんだかなー。けれど英語圏の読者はこの英訳で読んでいるし、この私も時々参照するが、最初からこれでは読むき気が起きなかっただろうと思う。フーコの所謂反時代的なバッロク的文体で綴った「言葉と物」は出版当時、「フランスパンよりも売れた」のだったし、それを訳した渡辺氏の文章も、なにがしかかれが好んだ三木清と林達夫、辻邦生とかの文章家たちのアイロニー的文体から影響を受けていて中々読み応えがある。文字で演じた演劇みたいなところが。精緻だけど型にはまらない生意気な演劇(謎)


転倒について

絶対に許されない欲望を容赦なく非難するのが、精神分析の検閲のシステムです。欲望はいかに、この恐しい検閲の検問所を通過できるか?答えは、欲望は反対物に偽装すればよいのです。それでうまく検閲の目を誤魔化せますから。だから、'敵が攻撃してくるのだから集団的自衛権で自身をまもろう'という警告には、自分から攻撃して他の領土を奪い取りたいという自身の破壊的な欲望の巧みな転倒がある。これを言ったのは、フロイドでした。戦争の歴史を参照すれば、自衛を口実にしなかった侵略戦争はひとつも存在しなかったことがこのシステムから理解できます。平和憲法は、安倍とその支持者には、改正できぬ検閲として立ち塞がっていますから、(説明する言葉としては) '絶対的戦争主義'とはいえずに、'絶対的平和主義'といっているだけだ、と、冷静に見抜かなくてはなりませんね

フーコが、ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オィデプス」(英語翻訳;1977)の序文に書いた大変有名な文章で、ファシズムに対する(かれらが培ってきた) 政治活動(行動)を間違った方向に行かせない実践的な手引きです。(ユーモアをきかせて、聖François de Salesのかいた修道院規則みたいに番号をふって箇条書きにしています。)例えば、 一番目は、(いま直訳すると) '政治活動を統一的なパラノイアと全体性から解放しなさい' Libérez l’action politique de toute forme de paranoïa unitaire et totalisante. 一応フーコはドゥルーズの言葉に沿って本書を紹介した形ですが、このときは実は、この二人のあいだに欲望の役割をめぐって理論上の対立がありました。(いま読むと気がつくのですが、ユーモアという形で妥協が必要だったのですね。例えば、ここでフーコはドゥルーズとともに'真理'に対してはNOとはっきりいってますが、(ドゥルーズがNOといった) 主体のことは触れていません。)しかし、理論の違いを超えて、ファシズムに対して共にたたかいましょう、ということですね。

「なぜ丸の内OLは、7-11のおいしい弁当のほうが安いのに、わざわざ高いスタバに行くのか?」、と、問うている外国人特派員のtweet が話題にー

これに関しては、パリの凱旋門あたりで隙間なく民族衣装を着た裕福な女性に出会うとき、連れて歩く娘達は大抵、(お母さんみたいになってたまるかと反発?) 隙間なく無国籍なポップな恰好をしているのに気がつく。この親子間の心理を一般化してしまうと多分、丸の内 OLがスタバに行くのも、居酒屋的なマッチョな雰囲気に対する無意識の反発があるだろうし、そして結局7-11で弁当を買い求めないのは、アメリカ民主主義のマッチョなイメージに対する反発があるのではないだろうか。と、この結論には説得力が欠けるかもしれないけれど(笑)、ただ、愚かにも、この国の非常にマッチョな政治家たちが、アメリカが努力している民主主義にはまるで関心がなく、ただアメリカのマッチョな軍事帝国主義だけにくっついていこうとしているということだけは、確かである(汗)


seq2 <脱>は、これを補償する再領土化によって覆われてしまうことがあり、このとき逃走線は封鎖されたままである。このような意味で<脱>は否定的であるといえる。

――千のプラトー:資本主義と分裂症 ‏(下)p312





労働する動物は、自分の肉体の私事の中に閉じ込められ、だれとも共有できないし、誰にも完全に伝達できない欲求を実現しようともがいている。そうである以上、彼は世界から逃亡しているのではなく、世界から追放されているのである。(ハンナ・アーレント 『人間の条件』16)



2013年に、人文系 (littéraire; L) の生徒に課されたバカロレアの哲学の問題


科学は事実の証明に限られるのか?
(La science se limite-t-elle à constater les faits ?)

言語は道具でしかないのか?
(Le langage n’est-il qu’un outil ?)



政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか?
(Peut-on agir moralement sans s’intéresser à la politique ?)


認識を欠いた場合、解釈できるか?
(Interprète-t-on à défaut de connaître ?)



一般に、その国について判断する材料として、その国でマイノリティーがいかに扱われてきたのかということがあります。私の体験からいっても、日本語を勉強するアイリッシュの学生たちはアイヌがいかに扱わてきたのかについて非常に知りたいのです。外国について判断するとき、もし自分たちが少数派として生きるとしたらどのように扱われるのだろうかという強い関心があります。わたしたちもその点では同じです。外に対して、投資家か観光客の満足する情報しか提供しないのでは、足りないのです。中曽根は少数民族の問題は無いと言い、それに沿って、小学校の教科書のなかには隠ぺいていたのもありました。どうしたらいいのか?こんなことを考えながら、この問題に取り組んでいるアイルランドの現代演劇、ブライアン・フリールの戯曲「トランスレーションズ」をもう一度読んでみようと思っています。先週からFbで原文と清水訳を投稿を始めました




<オペラ「論語」>

孔子「鬼なんかいないんすよね。二枚舌を抜くとかの話は全部、根拠のない風評でしょう ?」

閻魔大王「風評だ。鬼はいない。この私も、コスプレ好きの人間どもの想像が勝手にこしらえたもの。こうして私が否定すればするほど、おまえどもは信じるのだろうが、鬼は存在しない」

孔子「(...かくしている...ということは、やはり鬼がいるんだ!) よくわかりました。鬼のことを気にするなと弟子たちに伝えてきます。じゃあ」

閻魔大王「じゃあ...」




"A shocking reminder of a darker past in Ireland"
独立後国の教育はカトリックが握ることになった。教会のスキャンダルが起きる度に、擁護する人々は教育の教会の貢献をいう。アイルランドにおいて権威主義に抗したVoiceless voiceー真の共和主義の民主主義を求めてきたー声は、沈黙させられ、今回発見された800の死体みたいに埋もれてしまう。と、こちらの原発体制の問題について思う。事故が起きる度に、擁護してきた人々は、科学の疑えぬ貢献を言ってきたからだ。民主主義的情報公開に反する原発体制のあり方を問う声が(真理を知らぬ)'魔女'のそれの如く黙殺されてきた。<政財官マ司>一体構造である、原発体制の問題の解決を求める責任ある声は常に必ずしも、科学者の態度のようには実験と数学の言語に依拠して中立的に沈黙していることはできなかった。(直接の被害者の立場はもっと慎重に配慮するのは当然) 声がまだ地上にあるべき。新たに何が壁となtってきたか


UNBELIEVABLE !

ICAの壇上から、Welcome to Europe ! と、皮肉っぽく、大袈裟な身振りで挨拶しれきたジジェクという学者が、ヨーロッパの友愛の象徴であるベートーヴェンの第九交響曲が、いかに、(EUの加盟を拒んでいる)トルコの行進曲に起源があるのかと見抜いたとき、(聴講していた大勢のイギリス人と私の目の前で) 絶叫した言葉が、UNBELIEVABLE ! ところで帝国主義とは、一国家が他の国家を奪う支配 (例えば日本は国家として成立していた朝鮮を奪った)。さて、近代以前の中華帝国とチベットやウイグルの外交史を現代に投射していけば、自ずと現在の帝国主義から(近代的な意味で定義された)支配関係を差し引いた「帝国」が現れるか?現れるはずがないだろう。本当は、チベットの人々のために、ジジェクはUNBELIEVABLE ! というべきではないだろうか!?


「美しい日本列島と富士山をつくりました」
「自民党がつくった美しい原発は事故を起こしませんでした」
「民主党がつくったみっともない原発が事故を起こしました」
「絶対に、核兵器はつくりません。つくらないといっているだろう!」
「見せしめのために死刑を次々に執行しました」
「みっともない憲法はやめました」
「自衛隊は頂戴いたしました」


ホホ〜、 そもそも、内閣法制局の小役人どもがオカルト的に勝手にこしらえた「解釈改憲」という言い方に隠ぺいが。「解釈改憲」とは、行政が(許されない)非解釈によって憲法そのものを無効にするやり方なので、正しくは、'非解釈無憲法'というべきもの。ところがその小役人どもですら、安倍の集団的自衛権は「解釈改憲」の枠をはみ出すと言っている始末 (つまり'非解釈無憲法"違反(゚o゚;;)) だから、ただマスコミは、安倍ネオリべは自衛隊を私物化しようとしているとだけはっきり指摘すべきです。と、これだけのことをされてもまだ決して低いとはいえない最新の内閣支持率は、なぜ!?支持しますと答える人も正直、一体なにを支持したいのか分からなくなっていてただ同調圧力から支持しますと答えるという思考停止の状態でしょうか。ホ〜?秘密保護法が国民に恐怖をもたらすよりも前に、死刑という国家による処刑が国民に恐怖をもたらすことになりました。自分自身への批判を含めて、(虚のアベノミックスという) 生存手段にしがみつくだけの、同調圧力に委縮した動物に成り下がることだけはなんとしても避けたいですニャリ


マルクスは迷子になったり停滞することはあっても、まだ死者の息となったテクストではなく、過去の解釈を参照しつつ現在進行形で生まれてくる新しい解釈を貪欲に吸収して成長していますので、大変不器用ではありますが >_< 、未来に向かって、なんとか時代遅れにならないように愚鈍に学ぶだけです

上野千鶴子氏、また子安宣邦氏も、<女性原理>という考え方に反対です。'男性的とか女性的とか'いうは本質主義に根ざしているようにみえます。たしかに本質主義ならば問題です。例えば、中沢新一が<女性原理>というとき、<近代>が民族主義者の姿で自分に都合よく自己を描いた「肖像画」のことをおもいます。民族主義者というのは、<起源>の思考に絡みとられているのですね。<近代>はそれを超えるとして自己を正当化するものです。中沢はデリダからなにを学んだのかと疑問に思ってしまうのですが、デリダの仕事は、反ー起源でした。かれの原初性という考え方によって、'古代に遡る起源'の表象を乗り越えようとしました。ちなみに、子安氏の「論語」も、原初のテクストとして捉えています。(古代の起源という思考の弊害は、靖国問題を考えればわかります。)一方、90年代にアイルランドの知識人・デクラン・カイバードがジョイスのテクスト「ユリシーズ」を<女性原理>といいました。<女性原理>は、声の優越性のことです。その理由の一つは、話し言葉に依拠しないと、アイルランドの歴史がみえてこないという事情があります。いまだに彼らの話し言葉は辞書がありません。(自分たちの話言葉について語るのは恥ずかしいのですが、カイバードはこれは植民地主義の悪しき影響だと分析します。そしてこういう恥ずかしさは、植民地化された国々の人々の間で共通のものです。) もう一つは、 (人口からいって) 世界の多数派である、アイルランドのような国々は、イギリスなどの帝国主義によって、なぜ、'女性的'な国と表象されてきたかということがあります。あえて、<敵>の表象に沿って、政治的に問題提起をしたと考えられます。この場合、<女性原理>で何を意味するかということよりも、<女性原理>が言説としてどのようにあったのかということが大事。いまだこの言説から自立できていないとしたら、いかにこの言説を乗り越えていくか?デリダのようには、書かれた言葉の優越性に帰っていくことでは、足りないのです。

柄谷の「帝国」概念は、アメリカの側から観察した、モノトーンというか非常に単純素朴なEU批判から形成されてきている。それを中国に器用にあてはめている。ヨーロッパの枠にアジアをはめ込むという日本的なやり方。またアメリカナイズされたドゥルーズの方法としての帝国概念を実体化しているようだ


ジョイスを読むときはこんなことを常に考えなければいけないんだけど、必死に外国語で読んでいるから考える余裕がないんだね(泣)。この一年間、子安先生の行う注釈のもとで、十七世紀の仁斎の注釈による「論語」を読んできたので、これは本当に実感できるようになったさ...

十六世紀における秘教的学問は、書かれたものにかかわる現象であり、話された言葉にかかわる現象ではない。いずれにせよ、話された言葉はその力を奪われているのであって、ヴィジュネールとデュレによれば、それが言語(ランガージュ)の女性的部分、いわばその受動的理性にすぎず、<書かれたもの>こそ、言語(ランガージュ) の能動的理性、「男性的原理」なのである。<書かれたもの>のみが真理を保有しているのだ。<書かれたもの>のこうした優越性こそ、16世紀において、表面対立するにもかかわらず切り離しえない、双子のような対をなす二つの形態の共存を説明してくれる。そのひとつは、見られるものと読まれるもの、観察されたものと人づてに伝えられたものとが区別されず、その結果、視線と言語(ランガージュ)とが無限に交錯する唯一の滑らかな連続面が構成されていたことであり、もう一つは逆に、どのような言語(ランガージュ)もただちに分裂し、はてしなくむしかえされる注釈によって二重化されていったことである。
(フーコ「言葉と物」渡辺一民訳)

柄谷批判はいかに可能か?

思考可能な秩序あるものと思考可能な無秩序なもの。更に<思考する主体>に先行して在るのが、<思考されぬもの> (例えば、デカルトの「夢」)。さて、<思考されぬもの>と<考える主体>との関係をいかに活性化するか?がフーコにおいて問われた究極の問題である。そのためには、<外部>の側から、非思考から固有性の厚み(表象における全体主義的実体化。例えば、一番新しい文化論としては、柄谷の「帝国」概念がある) をできるだけ剥ぎ取ること。そしてここで<外部>の側とは、'政治化'の意。政治が文化によって非政治化している今日こそ、(政治への参加を奪われていた)市民社会が今度は政治化するチャンス。現実に、オキュパイ運動以降、市民社会はこの流れである



スターリニズムにたいする批判は、三十年代にナチス協力によって人民戦線 の崩壊を導いた歴史、戦後はハンガリー民主化運動を弾圧した歴史に即して語られます。が、正直言って、この歴史的事実よりも、八十年代に原発の安全神話に事実上同意していた周りの'幹部'たちの迎合主義にリアルに驚いたものです。そして今日深刻なのは、スターリニズム共感者のなかから、安倍首相の靖国神社参拝に沈黙する者、肯定する者がでてきたということ。一方、スターリニズムを批判してきた日本知識人の方も、いったいどうしたのでしょうか?スターリニズムの民主化運動弾圧を非難したその同じ正義感から、天安門事件以降も沈黙することが許されないという自らの責任について気がつきません。(気がつかないふりか?どちらもヨーロッパではありえない左翼の態度です。) 今後しっかり見なければならない現実とは、軍国主義に向かって盲目的に行進し始めたこの国において、心地よく沈黙に甘んじているのなら、スターリズムをノスタルジックに称えはじめた者も、スターリズムを批判する者も、社会的弱者を叩いて社会的強者の側に立ってくるという最悪の可能性も否定しきれないのだという現実ではないでしょうか?

'two variants of a culturalist ideology.' ? hm...let me think


'The controversy on multiculturalism has changed the political fronts. The Left defends respect for minority cultures while the Right stands guard over the national culture. But these two fronts merely constitute two variants of a culturalist ideology.
Culturalism is the idea that individuals are determined by their culture, that these cultures form closed, organic wholes, and that the individual is unable to leave his or her own culture but rather can only realise him or herself within it. Culturalism also maintains that cultures have a claim to special rights and protections – even if at the same time they violate individual rights.'

' Both culturalisms express respect for cultural differences and espouse their belief in the protection of these identities. Right and leftwing culturalists merely maintain these protective measures under various guises. Leftwing culturalists claim that various distinct cultures should be able to co-exist on the same territory or in the same state, where, formally or informally, different jurisdictions for individuals are applied, according to the cultural group into which they were born. Rightwing culturalists maintain the same attitude towards preserving cultural identity, but each culture in its own territory, each culture in its own country.'

本屋がめっきり少なくなった。編集者の方が嘆いていたが、1000円の本でも自分で買わずに、図書館に買って貰うひとたちが増えたのだそうだ。限られた少ない予算にも拘らず街の図書館も利用者のリクエストに答えて、例えば村上春樹を数百冊購入したりする。半年間しか読まれないマーケット文学だから、誰一人もも利用しなくなる一年後に、その全部を無料で配るという。(スぺース確保のために。) 渋谷にあった昔の本屋なんかは、絶対誰も買わないだろうという本たちを神棚の如くずっと置いてあった。その無駄に、なにかアジール的に救われた気持ちになったものだ。若いときは歩きながら立ち読みしていたこともあったから、取りだした本を元々置いてあった場所に容易に戻すことができない。と、立ち読みしたその本が二か月とか半年ぐらい、<あるべき>起源から離れて、<あらぬ>場所に置いたままになっているから、数か月かけて孤児となったその本達を少しずつ元の位置に近づけていく


ロンドンのユダヤ系の人々からは、抽象的な思考への現実逃避的慰めを感じた。但しあまりに透徹した理論は、警戒を要する禁じられた偶像崇拝だ。が、この国の自らを'左翼'と思い込んでいる右翼のようには、理屈そのものに不信感をもつことはない。左翼スローガンを嫌々繰り返した過去があるのだろうか。

理屈そのものに不信感をもつに至った、自らを左翼と思い込む右翼のなかには、左翼スローガンを嫌々繰り返した過去をもつ者もいるはず。現在語彙が頗る貧困なのは、嘗て左翼だった時代に右翼のようには、(言葉の子宮である) 心の部屋に関わらなかったからだ。が、右翼が言葉豊かと言うのは悪い冗談だ


いかにも日本的なのは、観念がすかすかで構成というほどのこともなく、土着的に、すじに執着する。
「観念だけが前面にぎっしり構成されて、すじがかすかにすいてみえるというような具合に書けないものだろうか。」辻邦生


ふくろうねこはいつも、映画が思考手段であると考えてきた
J'ai toujours pensé que le cinema était un instrument de pensée


観客は映画に思想(物語)を読み取るけれども、もちろん、映画を構成しているフィルムが思想そのものではありません。一方映画のフィルムのあり方が問われるとき、表現するフィルムをただの物質だといいきれないところがありますね。ゴダール的にいうと、こうして思想性と物質性の<間>にあるのが、映画フィルム。ただしこれはフィルムにかぎりません。思想が<間>に存在します。そうして、一見錬金術か神秘主義的にみえても、青年マルクスはギリギリ唯物論的に、広がりを獲得した思想が物質性をもつ可能性を言っていました。そして人間が決定的に自己自身を超えるのはこの思想において、です。C'est dans la pensée que l'homme se dépasse définitivement lui-même (下手な作文で失礼!) ここで、マルクスが人間に力点を置いたのは、やはり人間の思想=物質=運動との関係を、'民衆'という全体の名('日本人'とか'XX人'とか)に包摂したくなかったからでしょう。'帝国'というのも全体の名にほかなりません。と同時に、未定義の余白の如く、マイノリティーの名が消されずに残らなければならないのは、それは人間の思想性・物質性の理論的領域に先行して、すでに倫理性のプラクティカルな領域が存在していたからではないでしょうか。


アメリカ大陸のインディアンを発見したのは、ポルトガル人とスペイン人。インディアンを文化的に発明したのは、ルソーである。このルソーのインディアンに対応しているのが、ゲーテのケルト人といわれる。そして今日中国人が誰なのかと文化的に語り始めたのが、柄谷と丸川をはじめとする日本知識人たちである。繰り返される思い込みユートピア、「帝国」概念の発明の代償とは一体なにであろうか?


中国の人々は、日本(アメリカに負けても中国に対していつまでも戦争を続けているつもり)をどう見ているのでしょうか?

一部の帰還兵と元捕虜における一種の心理的な病?アラブの人々は、現在なおイギリス人の中近東に向けた野心、米軍にくっついていけば旧領土を取り返せると妄想する(自覚なき)植民地主義を心理的な病と指摘します。中国の人々は、日本(米国に負けても中国にいつまでも戦争を続けているつもり)をどう見ているのでしょうか?ところで英国軍は、(応募する人が少ない) 国内だけでは不足するので旧コモンウェルス各国からのリクルートでもっています。他にコモンウェルスはスポーツの祭典だけかと思っていたのですが、「共通の敵、悪」として日本がもちだされて緩やかに結束している現実がまだあるかもしれません。逆に、「共通の正義」といえば、ダイシーDiceyがいうような法の支配でしょうが、但しこれは民族主義者の怒りを招く帝国主義の正義かも。経済学の基底に、コモンウェルス=法の支配の精神があると説いたアイルランド人の先生に、プログラマーのスコットランド人が猛烈に抗議しました。Scotus schoolでのビジネスマンを対象にした経済学教室でしたから、いけません!瞑想で心を鎮めましょうということに。そのスコットランド人も友達のインド人も目を瞑ると堂々としていてカッコイイ (スコットランド人は英国から独立したインドに憧れているといわれます。) 吃驚して怯えている他のアイリッシュ達は片目だけ開けてビクビクとまわりを伺っていたのは、日本人の心情に通じますかな?この私は(反省する) 瞑想そのものが大嫌いで両目を開けていました


私のからだのなかの無数のひとりの人間が
いっせいにしゃべり始めるのを感じる ー

なぜ、「無実」UNSCHULD は海から始める必然性があったのか?おそらくこの作品において、作家デーア・ローアは、誰にも見られず聞かれなかった海の底に沈んでいた元々一つであった分割不可能な詩を、あえて、人間の声たちに配置して書いてみせたのではないだろうか。そんなことを考えた。(私のからだのなかの無数のひとりの人間がいっせいにしゃべり始めるのを感じる、と、小田実は自らの体験について語っていた。) 「無実」のテーマは人間である。ところで孤立した<われ>が中心となる資本主義のなかの闇であれ、<われわれ>を言い続けるコミュニズム(スターリニズム)の光のなかであれ、恒久的であると信じられる国家、家族、財産、地位、健康に、たえずまもられ眠らされ目をそらされている。しかしそれにもかかわらず、この意識の底にある不安とは、人間を窺い、人間を離そうとはしない。世界の不確実性にまき込まれて無力となった無数のひとりの人間が、巻き込まれることに歯止めをかけつつ、巻き込まれながらまき返す手立てを模索している。と、このデーア・ローアの「無実」 を演出することになったのは、公家義徳氏。かれの「忘却のキス」から持続する一貫した問題意識があらたにどのような表現として構成されてくるのだろうか。東京演劇アンサンブルの待ち遠し秋の公演。大いに期待している!




保田與重郎 「日本の歌のはたらきとして、空間に充満する魂を自分にとり入れ、自分の魂が身體から離れてあこがれ出るのを、しづめるといふ考へ方は、神代以來のものだつた」
(天の時雨)



つぶつぶの漢字から、世界が広がっていく

漢文学者・齋藤希史氏インタビュー



―― 中国古典文学の中でも、特に何を研究されているんですか。



いろいろと関心はありますが、コアになっているのは詩ですね。中でも、2つの時代に注目しています。一つは魏晋南北朝時代です。前漢、後漢と統一王朝が続いて、それから分裂の時代、そして隋が再統一しますが、その間の分裂の時代です。変化の時代ともいえます。その時代の文学が一つの専門です。



もう一つの専門が、近代のはじめ。つまり日本で言うと明治時代、中国でいうと清朝の末期です。近世から近代に変わる時代です。この両方の時代を軸にしています。





―― 時代が離れていますね。



いわゆる中国古典文学、とくに知識人による詩の世界が成立するのが魏晋南北朝時代で、終わるのが近代なんです。つまり入り口と出口をみることで、中国古典文学とは何かを考えたいのです。





―― 近代の終わりとして、中国だけではなく、日本も扱ったのはどうしてですか。中国古典文学なら、中国だけの研究をするものだと感じるのですが。



中国古典文学は、高校の授業で言うと「漢文」ですね。では、漢文とはなんでしょうか。簡単に言えば、漢字だけで書いてある詩や文章です。中国古典文学は、漢字で書かれた文学全般を扱います。日本でも、漢字は共有され、漢詩や漢文がたくさん作られてきています。その意味では、日本と中国とを区別する必要はないと考えています。



魏晋南北朝時代は、3世紀から始まります。もちろん日本にはまだ漢字を使った文学はありません。一方、近代文学は中国に比べ日本の方が早く進みます。日本の方が西洋化にともなう政治体制の変革が早かったことが、その背景にはあります。



近代の東アジアで漢字を使った地域の中で、一番早い日本の姿を見ると、古典世界がどう変わっていくのかの出口をみることになります。逆に、入口として早いのは中国です。入口が中国の魏晋南北朝時代で、出口として早いのが日本の近代ということですね。



―― 中国古典文学をやっていて面白いと思った瞬間を教えてください。



漢詩はつぶつぶの漢字が、ぽつぽつ並んでいるだけで、そこから意味をくみ取っていきます。漢字だけなので、読みにくいこともありますし、いろいろと解釈しなければいけません。歴史的な故事や古典の表現などを踏まえていたりするので、ぱっと読んですぐ理解できるというものでもありません。



いろんな詩を読んだり、当時の社会状況も勉強していく必要があります。でも、勉強した末に、今までは、こんな風に読まれてきたけど、じつはこういう新しい読み方が出来るかもしれないと発見した時は、すごくうれしいですね。



また、ある詩とある詩のつながりを感じたり、先行する詩の表現を参考にしていることがわかると、詩の世界が広がっていくように感じます。詩は窓のようなものです。部屋の中かから、窓をみる時、ただ切り取られた空間だけではなくて、その奥の世界を感じますよね。いい写真や絵をみても、向こうにある世界を感じられます。そういう感覚を詩でも感じられると、研究していて面白いですね。



そして、私は基本的に詩を読むのが好きなのかもしれません。漢字による表現や、詩を書いた人たちが感じていた世界を面白く感じます。詩を読んでいると、自分は今2014年に生きているけれど、人間はものすごく前から生きていたんだなぁと、あたりまえのことなんですが、実感として思います。はるか昔から、人間の営みは続いていて、自分もその中の一人なんだなぁと。



高校時代から好きな詩に、王維の「鹿柴」という詩があります。教科書にも載っていますよね。





空山不見人 但聞人語響

返景入深林 復照青苔上





「返景」が夕日のことだとわかれば、使われている字はすべて現代でも日常的なものですから、意味を取るのは難しくありません。人の姿が見えない山に、人の声だけが響く。でも、たとえば後半部分、夕日が林のなかに差して、青い苔を照らすというイメージがなぜ詩になるのか、ずっと不思議に思ってきました。もみじが秋の夕日に照らされている、というようなものならわかりやすいです。



でも、青い苔に夕日とは。『新唐詩選』には、「ぱっとさしこむ入り日に、あおあおと照らし出された苔の色のあざやかさ」とありましたが、納得できませんでした(笑)。「返景」が月光ならしっくりくるのになあと思ったこともあります。



そのうち、王維を含めて、魏晋南北朝から唐にいたる詩を広く読むうちに、緑のなかに差しこむ光というものに対する鋭敏な感覚があるのだと気づかされました。夕日に紅葉というような、はっと人目を引くような色彩ではないけれども、そこには独特の情景がある。「あざやかさ」ではないと思うのですね。



専門的には、こういうときは他の詩を例に出して、論証したりもします。もう一つ、「復」という字も興味深いです。なぜ「また」なのか。そこには、それ以前の状態が暗に含まれているわけです。そうでなければ、「また」とは言わない。こんなふうにして、詩を読みほどいていくのです。






言葉で自分がつくられる 



―― 研究していて、意味が分からない漢詩などは出てくるんですか。



もちろんあります。文学だけではなく、宗教の知識が必要な詩などもありますし、社会的背景を研究しないと読めないものがあります。研究者の間でもまだ意味が分かっていない、あるいは確定していないような箇所を含む詩は、めずらしくはないです。


―― 研究の方法として、まず考え付くのは、李白だったら、李白を読みこむように、1人の人に集中してやる方法だと思います。齋藤先生は人そのものよりも、中国古典文学の世界を広く研究していますよね。それは、なぜですか。



私は、言葉というものにすごく興味があるんです。漢字は一字一字に言葉が圧縮されています。まるで、言葉の結晶です。漢詩の場合、李白や杜甫といった詩人は、その結晶の周りにいる人々だと考えているんです。あくまで、中心にあるのは言葉だと思います。



言葉を海に例えるとしたなら、詩人はその言葉の海の中で泳いでいる人たちです。私は言葉の海そのものに関心があるので、一人の人間よりは、海全体を見たい。



詩人は詩を書くことで自分を作っていく人です。たとえば、李白がいて、詩が生まれたのではなく、詩を書いているうちにだんだん李白になっていったんだと私は考えます。最初に詩人が存在して、そこから言葉が生まれてくるのではなく、言葉がある中にその人間の人格や人生が形成されていく。


―― 中国古典文学を読むとどんな役に立ちますか。



中国古典文学に限らず、自分の世界とは違う世界に触れることは大切です。食べて、寝て、目の前のことばかり考えていたら、人間って生きている感じがあまりしないんですよ。人間の精神には、遠くのことを想像したり、身近ではないことを考えることも必要です。部屋には窓がないとだめで、窓があれば外を見たくなるのです。近くだけを見ていると「生きづらい」ものです。




漢詩は詩である以上、結局は、窓も壁も屋根も床すらない家にすんできた「ねこたちのもの」でしょう









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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年6月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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