言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年6月(後半)

<<   作成日時 : 2014/06/13 00:06   >>

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寸劇; ゼロの帝国
シネシネ団総統安倍「労働者を救う作戦の名は、Shineとする。わが臣民が'死ね'と読まなければいいのだがね、ふふ」
百田 (爆)「総統もそうとうご冗談がお好きで」(と、突然総統に糞溜めに落とされる)」
シネシネ団総統安倍「下品な者は、わが帝国にふさわしくない」

The dead

The dead have a history of being discriminated against and being oppressed.
Such is the anxiety of Japanese, it isn't material at first.
At first it's that anxiety of heart and of mind which is born out of the uncommemorated dead.
War shrine never performed memorial rites for all the dead.
It only commemorated those who died fighting for their State.
The State only worship as a deity the soldiers killed
Because the State fighting never worship anything but itself.
Awful. In Japan there is more discrimination between the dead
Than between the living


あれは謝罪ではなく、ただの自己卑下かもしれません。「軽い思いで言った」は、考えることをやめた人間が自分に後ろめたさを感じたときにいう常套句。考えることをやめた人間は、考える人間にたいして言葉にならない自分の違和感をぶつけるだけです。常に自分自身にたいして「軽い思いで言った」を言い続けていることにも気がつかない。これが自己卑下の意味。結局、考えることをやめた人間は、議会の理性的対話にそもそも場違いの存在


Today a member of the Tokyo Metropolitan Assembly apologized to the Tokyo assemblywoman for his vicious 'heckling'. That was equal to sexist abuse. Disgusting! How can accept these men's heckling ? I accuse of them just because they ruin 'hecIingness' of heckling. Then allow me to use my strange coined word; 'hecIingness' of heckling. Ontologically, 'hecIingness' of heckling , left to the voiceless voice (s) ( in minority) , remains spiritual dissent against manufacturing consensus. Therefore, I hope my 'booness' should belong to 'booness' of boo. If you like, call it (my 'booness') as noisy 'Verschwiegenheit', following Heidegger. ( I don't boo Heidegger (≧∇≦))


A member of the Tokyo Metropolitan Assembly apologized his sexist abuse. But he is still speaking another sexist abuse more offensive.The worst thing is that he must be harboring his accomplices.

先週は都議会の石原化と書いたのだが、やはりこんな男が、女性蔑視のヤジを飛ばし続けていたんだね。(まだ他の一人はダンマリ?) <領土問題は戦争によってしか解決しない>という怖ろしさを一秒も考えたことがなさそうだ。人格否定ヤジを否定した嘘も問われているが、開き直って、なんとオリンピックを理由に議員を辞めないというから、その理由にたいして呆れた。ヤレヤレ、それならば、もういっそのこと、(もともと嘘で呼んできた)オリンピックを返上して、この男に議員をやめてもらうことにしたらどうだろうか?兎に角、今回のことに怒った人々はもっと大きな責任の取り方を求めている。

この頓馬は、米国が爆撃してきた国はズバリ、この3つだったことを暴露してしまった。
「けんかが弱い」ー>国際報道の影響力をもっていない。
「勉強ができない」ー>いわゆる西欧の文明がない。
「貧しい」ー>奪いたい資源が無尽蔵にある。

ー>麻生 「3つそろうといじめの対象」

結局、白人(アメリカ人) のまえで、非白人(日本人)は、非白人のなかで自分たちの優越性を示すために他の非白人(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)をイジメてみせる(集団的自衛権)という卑怯なやり方。壇上のスピーカーが反論できないことを十分に知って、自民党の集団で罵声の爆撃を浴びせるという陰険なレイプ体質とまったく同じじゃない?


この頓馬は、うっかりと、「地球の裏側」まで米国に従おうとする集団的自衛権の未来を漏らしてしまったようだ。米国が爆撃してきた国はズバリ、この3つだ。(「けんかが弱い」ー>国際報道の影響力をもっていない。「勉強ができない」ー>いわゆる西欧の文明がない。「貧しい」ー>奪いたい資源が無尽蔵にある)

ー>麻生 「3つそろうといじめの対象」

ホー、常のこととして男尊女卑のお国柄は、「お行儀」の問題に格下げ。それは女性を不利にするだけ。 肝心なのは、'下品'と「感じる」ところから出発して何を認識していくのか?なぜこの自分はあのヤジを下品と思ったかを「考える」こと。「お行儀」という感覚を再び「感じる」だけでは足りないニャ


Heideggaer はいかに'世界史'を語っているか?

現存在の存在は、その意味を時間性のうちに見いだす。時間性は、しかしながら同時に、現存在自身の時間的な存在のしかたである、歴史性を可能とする条件である。・・・歴史性という規定は、歴史(世界史的できごと)と呼ばれるものに先立っている。歴史性によって意味されているのは、現存在そのものの「生起」という存在体制であり、この生起にもとづいてはじめて「世界史」といったもの、歴史的に世界史にぞくするといったことも可能である。

(ハイデガー「存在と時間」熊野純彦訳)

Dessen Sein findet seinen Sinn in der Zeitlichkeit. Diese jedoch ist zugleich die Bedingung der Möglichkeit von Geschichtlichkeit als einer zeitlichen Seinsart des Daseins selbst....
Geschichtlichkeit meint die Seinverfassung des <Geschehens> des Daseins als solchen, auf dessen Grund allerest so etwas möglich ist wie <Weltgeschichte> und geschichtlich zur Weltgeschichte gehören. Das Dasein ist je in seinem faktischen Sein, wie und <was> es schon war.

Heidegger 'Sein und Zeit'

The Being of Da-sein finds its meaning in temporality. But temporality is at the same time the condition of the possibility of historicity as a temporal mode of being of Da-sein itself, regardless of whether and how it is a being 'in time'....
Historicity means the constitution of being of 'occurrences' of Da=sein as such' it is the ground for the fact that something like discipline of 'world history' is at all possible and historically belongs to world history. In its factical meaning being da-sein always is as and 'what' it already was.

Heidegger; Being and Time

Political landscape が狭いnarrowという言い方がありますね。空間的に非常に接近し合っているということもあって、野党時代の質問者キャメロンとブレアーなんかは、目がギラギラし合っていて怪しくなり、なにかゲイ&レズビアン・フィルムフェッスティバルみたいな雰囲気がありました(笑) ぼくのいうことをわかってくれよ(愛を訴えるマゾヒズムのキャメロン) vs.・・・・・(冷たく沈黙するサドのブレアー)。話はちがうんですが、イギリスでも、のしあがってきた女性にはヤジが多かったとおもいます。ま、イギリス人に倣うことがあれば、言葉を大事にすること、そのために、相手の話を最後までよく聞くということですね。議会に限らず。(デイベートなんかとは関係ないとおもいます) わたしにかんしては、ヤジが好きなんで、ヤジがないところで生きたいとはおもいません。ヤジを大切にするからこそ、今回のヤジを非難します。ああいうのがでてきたら、ヤジがなくなってしまいますから


自民党政治家たちの人格否定ヤジをいくらでも放任するくせに、
市民の戦争を反対する小さな張り紙一枚を罰する国家とは?

靖国体制<戦う国家、祀る国家>にたいする抗議の意思表示は、<戦わない国家、祀らない国家>を求める声です。'明白かつ現在の危険'がないにもかかわらず、国家が抗議の意思表示を行った市民を罰することは、刑法からくるものではないことをあらわしています。抗議の意思表示を罰することは寧ろ、靖国体制<戦う国家、祀る国家>そのものからくる戦争ではないでしょうか。

ジジェクによると、夢(dream)という言葉は、ヨーロッパ人は米国人ほどには口にしないという。ところでファシズムは、ハリウッド映画('夢の工場')と対抗するかぎりにおいて生きながらえた。その結果'芸術としての政治'という最悪の夢を現出させてしまったというわけです。さて今朝海外の新聞をみていたら、中国が国際市場に向けてなんとチャイニーズ・ドリームを発表したというのですね(中身は儒教的語彙で説明されている)。ソ連崩壊後、アメリカン・ドリームとチャイニーズ・ドリーム、資本主義は世界に遍在しています。ただし中国が西欧世界と決定的に違う一点が、土地の私有制をみとめていないということ。土地所有なき資本主義、これは何を意味するのか?五百年前にフィレンツエとかべニスで始った資本主義が最終的に、アジアにおいてこのような形をとる必然性があるのか?誰が資本主義を語るのかという問題も視野に入れて、法と社会の関係をめぐるこの未知のテーマは研究するに値するでしょう

中国は国際市場に向けてチャイニーズドリームを発表した(中身は儒教的語彙で説明されている)。アメリカンドリームとチャイニーズドリーム、資本主義は世界に遍在。中国が西欧世界と決定的に違う一点は、土地の私有制をみとめていないこと。これはなにを意味していくのか?法学部学生はこれを研究したら宜しい。(もう法科なんとかのロースクールの皮相な真似事で馬鹿になっていってはいけないよ)

ヤジにもいろいろ。
同意しない抵抗権みたいなものがあるしー

イギリス人は相手の話をよく聞きますけれど、日本と同様、のしあがってきた女性にヤジが比較的多かったと思います。これとは別に、私といえば、ヤジがない場所で生きたくはありません。権力者に投げつける石つぶての如きヤジを大切にするからこそ、ヤジのヤジ性を閉ざしてしまう危険のある今回のヤジを非難しています。ヤジ性とは、同意しない精神性。たとえば舛添都知事が自分の女性蔑視発言にも関わらず、今回起きた女性議員に対する差別ヤジを戒めるとき、もし記者たちが彼につっこまずただ黙って聞いているだけだとしら、その場にいた私は抵抗のヤジを舛添に飛ばしたでしょう!


L'orchidée se déterritorialise en forment une image, un calque de guêpe; mais la guêpe se reterritorialiser sur cet image. La guêpe se déterritorialise pourtant, devant elle-même une pièce dans l'appareil de reproduction de l'orchidé; mais elle reterritorialise l'orchidée, en transportant le pollen. La guêpe et l'orchidée font rhizome, en tant qu'hétérogènes.

Deleuze&Guattari ;Mille Plateaux'
蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する。けれども雀蜂はこのイマージュの上に自己を再領土化する。とはいえ雀蜂はそれ自身蘭の生殖機構の一部分となっているのだから、自己を脱領土化してもいるのだ。しかし雀蜂は花粉を運ぶことによって蘭を再領土化する。雀蜂と蘭は、非等質であるかぎりにおいてリゾームをなしているのである、

千のプラトー Mille plateaux

かれらは、左翼が語る「日本」のなかにしか住もうとしないのでしょうか?まことに、息苦しいうんちですわ・・・(伯爵) 本多さん 「息苦しいうんち」ですかwwwwww 全くですわ。「サヨク的言説の中でしか住めないレイシスト」って、哀れですよねぇ、「(自らを正当化するために)サヨクがつくった(前近代として実体化した)天皇しか信じられない」というネトウヨの息苦しさでもあります。天皇なんて、それこそ近代以降の「虚構の権威」「空虚そのもの」ですのにねぇ。それしか信じないで、その「虚構」の中での「日本」に生きるって、空しい人生ですよね。

英国ガーディアン紙では「女性虐待(abuse)」と。

女性が占める極端に不公平な議席配分の構造がこうした女性虐待の原因を生み出していないか?外の目からみれば、日本の議会そのものが性差別として存在している。女性議席は、127議席中27議席(都議会)、772議席中127議席(国会)

英国ガーディアン紙では「女性虐待(abuse)」と。

女性が占める議席の構造がこうした虐待の原因を生み出していないだろうか?外の目からみれば、日本の議会そのものが性差別として存在している。女性議席は、127議席中27議席(都議会)、772議席中たったの127議席 ! (国会)


たかがハイデガー、されどハイデガー

と、おもって、和辻が対等にハイデガーを乗り越えようとしたかどうかは定かではないが、和辻も、ハイデガーにならって、存在をとらえるとは構造を呈示することだと考えていたことだけはたしかだ。つまり徹底的に観念化しておかなければならない。ライバルの三木清は死の観念化なくしては世界思想たりえないと考えたように。(同様に、存在論的な沈黙の場合も、ただ黙っているということを意味しない。) 存在に関わるつもりで星や山や川といった「存在」に詩的に拘泥していたのでは、「存在者」と関わっているだけだともいえる。結局、ブライアン・フリールの戯曲ぐらいだろう、ハイデガーにおける沈黙の存在論的構造を呈示できたのは!「トランスレーションズ」


ワールドカップ

サッカーには興味ありませんが、ロンドン時代はBBCのサッカーの解説が面白いので楽しみに観ていました。喋る人が三人いて、左からオックスフォード中流のBBCのアナウンサー(コスモポリタン)、真ん中に労働者階級から中流に成り上がったサッカー評論家(ナショナリスト)、一番右に労働者階級の元監督かコーチ(チームの戦い方と選手の技術にしか関心がない)ですね。ポストモダニズム的脱階級的構成ともいわれて、三人はそれぞれボキャブラリーも喋り方も服装も違うんですけれど、和気あいあいとやってるんですね。とくに真ん中の人が、髪型とか格好は中流、アクセントとボキャブラリーはワーキングクラスという、非常に微妙なバランス。時々、三人の間にはベケット的な微妙な沈黙も(≧∇≦)とにかくサッカーのことは全然わからないが、(スイスをのぞいて、ヨーロッパの中流は、労働者階級のスポーツであるサッカーに関心がない)、この三人を観て救われるという視聴者も大変多くいました。こちらのテレビの中継と解説は、退屈に思ってしまいます。ひたすら「日本」を繰り返し、勝ち負けに異常にこだわりますよね。うんざり。日本で暮らしている外国人は大抵、自分の国と日本のチームを応援することを念頭に置いて、もっと公平に大きなヴィジオンをもって放送していただきたいものです。


解説するひとたちの言語化能力が粗末か、あるいは、どさくさに、'全体責任'という罰で鞭を打とうとしているのか、両方かもしれませんけど、とにかく負けたときにしかあらわれない、国民道徳としての「自分たちのサッカー」。それに出会えたという点では大成功だったのではないでしょうか?と、応援しているんですが

)。「色々と考えがあるようですが」といっているわりには他のコメントを読んでいないですし、やはりあの人物は自分自身を「日本で生まれた」「神様」とおもっているんだとおもいます。それはそれで結構、大いにやりたまえとおもうのですが、サッカーごときに代表されていいのか、取り返さなくていいのか、と(笑)。どうも、その「神様」のことも、「日本」のことも本当のところ、あまり知らないのではないかとわたしはうたがっています。ただ、いわゆる左翼的言説に、機械的に反応しているだけ。そういう意味では、かれらは、左翼が語る「日本」のなかにしか住もうとしないのでしょうか?まことに、息苦しいうんちですわ・・・



ホー、スペイン市民戦争を背景にもつ「ゲルニカ」をみる方々は、この画家が戦争における写真リアリズムの (反市民的な)プロパガンダ性に大きな不信感をいだき、絵 (ドローイング)の表現世界に移っていたことを知っていただきたいとおもいますニャリ。(ちなみに、イラク戦争のとき報道写真に不信感をもったこのわたしも)


都議会が石原化している可能性。たとえ否決されても、リコールの声がなかったということは、石原の発言を承認したことになったのではないでしょうか。だからいまだに石原の影響力が終わらない。(そういう意味では署名は無駄じゃないんだと思い始めました。) あと、こういう卑怯な男性たちにたいしては、(裁判の場ならば有効ですが)、話し合いで分からせようとしても無駄。良識そのものが意味がないと思っている点では、ファシストと変わりません。だから、彼らに対しては、その場で、怒りをぶつけるべきでしたー'くそジジイ'でもなんでも。

寸劇

野党「自衛隊の犠牲者のことを心配なさらないのですか!?」

安倍「なーに、その前に、僕がお爺ちゃんのオーブンで焼いて食うことにしましょう。あはははは、なあ?」

麻生「さすが総理、アメリカ帰りのブラックジョークが冴えますな !」

安倍「もはや国会は時間の無駄。もう寿司へ行こ行こ。お友達の、新聞社の方々をお待たせしては大変失礼」

麻生「それもジョーク?」


「ハムレット」の彷徨う死者は、国家によって奪われ、後にその国家を支える一部として構成された生者の隠喩だ。王子は父を祀られない死者とみなした。大島渚「日本の夜と霧」も、(彼が嫌う)犠牲者の視点の映画ではなく、同性愛的に連帯した、祀られぬ死者と学生達のスターリニズムからの奪回を描いた

By the way, I didn't know that the film’s title was an evident homage to Alain Resnais. Anyway Oshima had really expressed how Japanese become cruel and savage because of the structure of political environment; Japanese Fascism and Japanese Stalinism
Unavoidably, Japanese Fascism and Japanese Stalinism drived the mouvement to mutual slaughter and extinction...
Plato knows that back to film itself is more dngerous than Japanese Stalinism。This is the reason why he tried to esacape from his cave that had the screen inside.Well he also said the political readings of his films as 'Boring' and 'idiotic. You were not even born then.'Absolutely right ->'You were not even born then.' I agree with Oshima If ' the political reading' means "realism'. At least his words lead me to a good understanding that 'NIGHT AND FOG IN JAPAN' is rather vividly and sexily epic.


嘘とヘートスピーチしかなくなった「美しい日本」

野次にあらず。ヘートスピーチだ。自民都連の議員達を特定し、訴えることができないか?議員だけの問題にとどまらず、都民全体の人格が破壊された問題。だから良心をもつ東京都民一人ひとり全員 と(女性) 議員が共同の原告として立つべきときだ!

<小さな悪>、されど

南京虐殺の歴史を抹消し慰安娼婦の事実を隠蔽しつくす<大きな悪>の傍らで、こんな陰険な<小さな悪>が見逃され裁かれることがないとは....

ー>「女性議員に対して「早く結婚しろ!」「子どもは産めないのかっ!」と野次を飛ばす、最低最悪の議会へ」

一貫性をもって確実に考えるためには、
国の形を比べてみることからではないでしょうか !

(靖国参拝を公式に行う安倍が言う、集団的自衛権をもつ国の形を、戦前の'戦う国家=祀る国家'の形と比べること。これらはお互いにどれだけ似ているのかについて批判的に検討するとき)



(今朝の朝刊で脳科学者の公共的お喋りが「いい印象」を無邪気に強調していたけど、「いい印象」基準はそれほど役立たないとおもう。この人物は、安全神話も「いい印象」キャンペーンだったという反省が無いようだが?)

芸術とはなにか?
ーなぜ芸術はコンセプチュアルアートまでにラジカル化を遂げることが起こり得るのか?

(文学が絵画や音楽よりも偉いという意味ではありません) 、やはりどのアート作品も、中心から (脱中心から)文学の反響がないと、決定的に足りないとわたしは常に感じてしまいます。ハンナ・アーレンによると、芸術のなかで文学(詩)が思考の混沌とした運動に一番近いといわれますね。だから文学(詩)は非常に高く評価されるのだと(例えばカントの本の中で)。たしかにダダの観念性も、継承したとされるヌーヴェルバーグも...。芸術は決して思考ではありません。が、芸術は思考に依拠しています。だから芸術はコンセプチュアルアートまでにラジカル化を遂げることが起こり得るのではないか?


この頓馬は、'銃口を人に向けた'からではなく'人を殺そうとしている'ことが問題。この卑怯な自民党政治家の横柄な殺意を黙っていること自体が現在の怖さだ
ー> 「パリの武器国際展示会で武田良太防衛副大臣が、展示物のライフルを人に向け、その相手から「やめろ」とばかりに払いのけられた」

福田武夫がオーストラリアに来たときのことですが、当時大使館にいた官僚だった父が、その様子を示した2000枚の写真付き葉書を地元の選挙民にかかなければならなかったそうです。父が嫌がると、「この一枚一枚が神棚にあがるんだ」とか言って。(当時は外国行きだと反発をくらうので、その写真は、庶民的にかつ丼を食べている姿だった?)

芸能人のファンクラブが親衛隊が一人百枚の葉書を書いてリクエストをラジオ放送局に送っているのと同じです(笑) 伯爵のお言葉を読んで気が付いたのですが、憶測ですけどね、昔は政治家の秘書もそれなりのプライドをもっていて嫌だったのかもしれません。奴隷じゃあるまいし(笑)。柄谷の本を読んで知ったのですが、中国の皇帝が官僚を必要としたのは、鞭でたたかれても命令に従うからだといいます。官僚は奴隷出身者から採用した、と。科挙とかが成立した前の時代。貴族を鞭でたたいたら反乱が起きますからね。

現代の話。文学の道に行くと、貴族的になっていきます。官僚も政治家も、(かれらを利用し利用される) 経済人も、奴隷にみえてきます(笑) これはわたしの好みから言っていることに過ぎないかもしれませんが、文学が絵画や彫刻や音楽よりも偉いという意味ではないのですが、やはりどんな芸術作品も、文学からの反響がないと、芸術作品としてはなにか決定的なものが足りないと思っております。

集団的自衛権をもつ国の形はなに?

グロテスクに報じられる、次のスケープゴート、(場合によっては) 平和主義とヒューマニズムの名を借りた、次の爆撃の計画が堂々と告げられてくる。国民は、姑息に武器を消費していくために、戦争を生産するというマーケットに身も心も依存しはじめる?厳密にいって、軍国主義と全体主義は同じとはいえないが、ただし現実に互いに親和的なのである。万歳三唱、戦争と商売が織るナショナリズムに邁進していく道しかないとおもわされてくる。他の道は、"非国民"?

集団的自衛権といっても、自衛隊を送り出す国民は、(アメリカ国民と同様) いつまでたってもアメリカが爆撃する理由もはっきりとわかることはないし、そもそも爆撃される国たちがどこにあるのか世界地図を指させないだろう。ただ、アメリカといっしょに「地球の裏側」まで守っているのだという英雄的プライドだけが興奮ハッスル。けれどそれも最初だけのこと。テレビの前であきる。現地から送られてくる悲惨な映像に涙した人々もそのうち、'大したことはない。世の中にはもっとひどいことが他にある'、とばかり忘却。あきることも忘却もどちらの場合でも不安感の方は一向におさまらない。リアルに、かかわってくる周囲世界にますます安心できなくなってくる。と、すでに、グロテスクに報じられる、次のスケープゴート、(場合によっては) 憲法の平和主義とヒューマニズムの名を借りた、用意周到な、次の爆撃の計画が堂々と告げられてくる。国民は、武器を消費していくために、戦争を生産するというマーケットに身も心も依存しはじめる。万歳三唱、戦争と商売が織るナショナリズムに邁進していく道しかないとおもわされてくる。そんな近未来を考えている事自体が狂気だろうか?非国民なのか?

集団的自衛権が行う戦争は嘗ての総力戦ではないだろう。だけれども、その戦争は総力戦よりももっと陰険な戦争になる可能性がある。
「歯止め」が「他国領に入らず」といっても、その「他国領」のなかでもはやかれらの「敵」が地上にいなくなってもずっと爆撃しつづけてきたのが、アメリカでしょうに。この「友達」の止まらない爆撃を自衛隊が英雄的に助け続ける?現地ではたとえ爆撃で殺されなくとも、爆撃の影響で薬や水や食糧の供給が確実になくなるから、病院にいる子供たちは(病院があればの話だが) 百万人は死ぬ。何十万、何百万人の難民を出しながら、この国の人々は、いつまでたってもアメリカが爆撃する理由もはっきりとわかることはないだろうし、そもそも爆撃される国たちがどこにあるのか世界地図を指させないだろう。ただ、アメリカといっしょに「地球の裏側」まで守っているのだという根拠ない英雄的プライドだけが満足。だけれどそれも最初だけのこと。テレビの前の子供のようにあきてしまう。現地から送られてくる死者たちの映像に心を痛めて涙した人々も、そのうち、'大したことはない。世の中にはもっとひどいことがほかにある'とばかり忘却していく


テートモダンの詩の会の帰り道。テムズ河沿いの散歩道

私「...カルロ・ポンティにですか?」
女「あんた似てるわ」
私「イギリス人は礼儀正しいというか覚めているというか。日本人と比べられますけど。でも、あのイタリア人の映画の創造的狂気はイギリス人にはなかなか」
女「わたしもイタリア人なの。イギリス人も、イタリア人と同じくらい狂っているんだけどね、隠すのがうまい。冷静を装って巧みに自分たちの狂気を隠している...」
私「なぜそうはっきり、と?」
女「留学時代に結婚したイギリス人の夫がいるから。連中がいかに狂っているか知り尽くしているわよ。今度のイラク戦争は彼らの野蛮な狂気を暴き出した」

ふくろうねこの子守歌

ご存知ですか?日中間には政経分離の原則というのがあります。日中両政府は、お互いに、お互いの政治については批判しないと約する一方、経済だけは協力し合いましょうという原則です。ところがこの政経分離の原則のせいで、お互いに不信感だけが増幅し、かえって両国間の緊張関係が高まっているという皮肉です。つまり結果的に、お互いがお互いにたいする不信感にもとづいて、自分の軍拡を正当化し、そのことによって結果的に、相手国の軍拡も助けているのです!この奇妙な悪循環をストップさせるためには、政経分離をやめてみたらどうでしょうか。ガス抜き効果を期待してですね。お互いに相手の政治を徹底的に批判し合うのも、平和戦略の方法です。しかしやはり雲行きが怪しくなってきたら、おのれの立ち位置を導く、ふくろうねこの子守歌によって、ハッスル一部日本人の'潔い暴力への憧憬'遺伝子ハッスルを抑制すれば OK!ねーむれ、よい子は、ねーむれ


'
問いが提出されるー
'世界史の構造'は本当に、それほど構造(脱構築の批判精神)だったのか?

2000年に入って'世界史'の言説が復活しているー日本だけで?否、信じがたいことに、海外の民主主義抑圧を正当化する反動的知識人において受け入れられ始めているようだ。あらためて、'世界史の構造'は本当に、それほど構造(脱構築の批判精神)だったのか?と問うときだ。この'世界史の構造'が、戦前京都学派以来日本知識人が定位してきた、侵略と解放を混同した、'世界史'における大いなる幻想の物語とどのような関係をもつかが吟味されるべきだろう。その結果もし同一性の反復ならば、きっぱりとこれを批判的に


北イタリアはオーストリアからの独立運動が起きた。赤い伯爵はミラノの独立を描いた。ヴィスコンティーの映画は、スカラ座にオーストリア軍が入る様子を描いたのである。運動が起きたのは、ミラノやベニスだけではない。アドリア海をのぞむトリエステも。'世界史'の語りは、これらの独立運動をイタリアへの帰属の要求という風に整理していくだろうが、そんな単純な話は決して起きない。トリエステには、外国軍の占拠という現状を利用して、別の国家の再領土化(再構造化)を牽制し、トリエステそれ自身の独立を知的世界に交渉していくエネルギーも存在した。(究極的には、外国軍の基地の撤退を求めている。) ジョイスの脱領土化 (脱構築)の文学は、トリエステにおいて成り立つ必然性があったんだね。




「思想史講座」には何時でも、だれでも参加できます

中国はいま日中の政治・経済的関係だけではない、東アジアのわれわれの知的・文化的活動に影響力を及ぼしうる世界的大国としてすでにあります。この数年来、歴史に中国の(帝国)的過去が回想されるにいたったのは理由なしとしません。現代中国をどうわれわれは認識すべきか。(帝国)的大国中国の現存を前提にして東アジアの将来を将来をどう考えるのか。この東アジアで儒教はどのような意味をもつことになるのか、あるいはもたされるのか。これらはわれわれが考えるべき喫緊の問題です。( 子安宣邦氏)

会場:早稲田大学14号館1040教室
■昭和思想史研究会(第5期)「中国問題」
第3回 6月14日(土) 13:00−15:30  
講座・「中国と〈帝国〉的視野─琉球・チベット論」 子安宣邦
報告・「柄谷の「交通」概念はどこに消えたか─討議「帝国・儒教・東アジア」批判」 本多敬 
              
参考文献:汪暉『世界史のなかの中国』(青土社)、『現代思想』3月号。


            

ホホ〜、ギリシャチームの闘い方をしっかりと研究しておいたほうがいいだろう。(三十年ぐらいかかっても。) さてモンティパイソンによると、GRIECHENLANDのメンバーは、以下の通りニャ

1 PLATO
2 ERIKTET
3 ARISTOTELES
4 SOPHOKLES
5 EMPEDOKLES (WHO?)
6 PLOTIN
7 ERIKUR
8 HERAKLIT
9 DEMOKRIT
10 SOKRATES
11 ARCHIMEDES


日本チームが決して二回戦に行けない理由は、外国人選手に頼りすぎているからという指摘がある。ホー、メンバーの構成ニャリをみてみると、

1,LEIBNIZ (翻訳)
2,I KANT (翻訳)
3, HEGEL (翻訳)
4, SCHOPENHAUER (翻訳)
5,SCHELLING (翻訳)
6,BECKENBAUCHER (だれ?)
7,JASPERS (翻訳)
8,SCEGEL (翻訳)
9,WIITEGENSTEIN (翻訳)
10,NIETZSCHE (翻訳)
11, HEIDEGGER (翻訳)





ホホー、遅くはない。日本チームは、次のメンバーに入れ替えるべきだろうニャリ

1、伊藤仁斎
2、荻生徂徠
3、本居宣長
4、西田幾多郎
5、三木清
6、和辻哲郎
7、大杉栄
8、北一輝
9、吉本隆明
10、柄谷行人
11、子安宣邦




大いなる幻想

嗚呼、日中関係が緊張していく息苦しさよ。互いの軍縮をめぐって中国と話し合えない二つの政府がいかに無能かと気がついてきました。厄介なことに、両国がお互いに、相手に向けた不信感を利用して、軍拡を推し進めているとすらみえることです。結局そうしてお互いに相手からの脅威を口実に、民主主義を制限するという有様です。安倍が軍隊の他はなにひとつ真剣に考えていない態度が明確にみえてきましたね。それは、(公の言動をコロコロと変えては恥じることもない)、安倍が市場任せのネオリベ男であることの証し。一方、市民の側に、汝の<集団的自衛権をもつ国家の形とは何ぞ?>と安倍に問い返すチャンスがやっと来たと敢えて考えてみようじゃないかと考え始めました。高支持率を導く彼の国家戦略を過大評価する(それ程根拠もない) 大いなる幻想をなんとか崩していく最初の手がかりになるかというふうに
W杯テーマソングにおいて表象されるサッカーチーム (=軍隊)の達成感?殺された人にしか分からない苦しみを無視、自分達で何をしていのるか分からず足をマゾヒズム的に痛めてひたすら行進していた戦前の軍隊の無気力な絶望感を美化していくのはやめて!サッカーだけでなく、原発も、自衛隊のことも


スポーツ! スポーツ! スポーツ!

と、最近は、全国新聞の大衆新聞化に慣らされてしまったか?オリンピックやワールドカップのときは、逆に、新聞一面にスポーツ以外のなにかの見出しがあると、え?スポーツより大切な話ってなんだろうか?と、驚く有様。なーんだ、集団的自衛権のか?人手不足なら、心配無用。政府は、今日渋谷で行進した、顔に日の丸を描き又はマントにしていた若者達に行かせるつもりでしょうから...


羽仁五郎
かつての日本主義、日本だけがまともな国であるという思想は、実は今は亡びた古い支那の中華思想―自国ばかりが中華で中朝で、外国はみな夷狄で下等だという思想―にかぶれそれを真似したものだった。今日でも日本主義といいながら外国のファシズムやナチズムの真似に忙しくしているものと同じ現象だ。




1922年が独立?1922年は、前衛精神の勝利である「ユリシーズ」出版の年。この本ほど、「近代」の勝利を意味すると同時に、しかし植民地を持たない国はいかに無でしかないことを告発した本はありませんでした。

「歯止め」が「他国領に入らず」といってもね、しかしその「他国領」のなかでもはやかれらの「敵」が地上にいなくなっても、ずっと爆撃しつづけてきたのが、アメリカでしょうに。自衛隊が、「歯止め」ある「集団的自衛権」を理由に、この「友達」の止まらない爆撃を英雄的に助け続けるつもりでいるのかしら

寸劇 ;集団的自衛権の皆殺しのパーティー

安倍くーんは、自分の身体よりも大きな贈物 (憲法) をもちかかえてオバマくんのまえにあらわれた。と、オバマくんのほうは、掌よりも小さな贈物 (死神) しかわたすつもりがないから、日本からのこの大きすぎる贈物に当惑気味

安倍くん (恍惚状態で)「サンキュー !」
オバマくん (軽蔑の表情で)「サンキュー ...」


ミシェル・フーコー

制度としての政治権力の理論は、普通法的な主体の法律上の概念に基づいているが、それに対して統治性の分析−即ち、逆転可能な諸関係の総体としての権力の分析−は、自己の自己への関係によって規定された主体の倫理に基づかなければならない。−主体の解釈学−




寸劇;皆殺しのパーティー
安倍君は自分の身体よりも大きな贈物(憲法)をもちかかえてオバマ君の前に現れた。オバマ君は掌よりも小さな贈物(死神)しか渡すつもりがないから、日本からのこの大きすぎる贈物に当惑気味

安倍(恍惚状態で)「サンキュー」
オバマ(軽蔑の表情で)「サンキュー」



知識人'は本当にそれほど、「死語」なのか?

間違いのリスクを負いながらもあえて専門外のことについて発言していくこと、たんに抽象的な思想の羅列ではなく具体的な人間像の呈示を通して(その意味で思想に即して) 文学的に語ること、その結果生活のあらゆる事柄に介入してくるほどの体系的'上から視線'であるということ。こんな古典的な意味の'知識人'は、(<日本村>のなかでは)、「死語」となっているかもしれません。もはや「知識層」しかおらず、柄谷以降知識人は中々出てきません。とはいえ、現実に原発問題のような生命にかかわる危険が生じてくるとき、知識層がただ中立的傍観者的に、専門でないことに甘んじて、科学者の判断に任せればいいのかというと、それは果たして倫理的にゆるされるかどうかです。3・11以降、理念としての知識人のあり方が新たな形で問われてくたのだと思います。現実に、安倍のネオリベ経済政策については、もはや専門家の高度な数学に通じた特権的な知識に委ねることはできないと考えた人々が、知識人的に、発言してこなければならなくなってきました。OWSの前と後の違いです。憲法の死を前にして、理念としての知識人のあり方も'死んだ'とき、ではいったいだれが喜びだれにとって有利になるのかということです。それは言う必要がないほどあまりにも明らかではないでしょうか

柄谷行人の'統整的'不確定性原理は、<政治概念の曖昧さ>と<交通概念の曖昧さ>とを対象にする。すなわち、'政治的なもの'と'非政治的なもの'との区別が厳格になっていけばいくほど(例えば天安門事件は'政治的なもの'ではないときめつけられる)、交通概念の方は文化的に全てを包摂しはじめるほど曖昧になっていく。つまり柄谷がいう交通とは、かれが好む'形式化'という語で説明すると、限界なき広がりの'形式化'のこと。統整的'不確定性原理は、先進国における脱政治化のことが指摘され、それと相関的に、文化戦略の有効性が物語られるのだが、場合によっては、驚くべきことに、国家が主人公となる帝国主義なき「帝国」の文化戦略 (「儒教」)がいわれ、また脱政治化の停滞を打ち破るスターリニズム政党のラジカル化の方向が物語られもするのだ。毛沢東とマリリンモンローのポストモダン的結婚、と「ル・モンド」紙は揶揄したとき、柄谷好みの「形式としてのー」という修辞を付け忘れたようだ。しかし柄谷行人の'統整的'不確定性原理では、ヘーゲルからマルクスおいて言われていた決定的な批判精神を見落としてしまう。それは市民社会の政治化という条件である。

市民の権利を奪うスポーツ・イベントに反対!このままでは、わたしたちが観るのは、サッカーではなく、グローバル資本!?
ブラジル撤去民の涙…「私たちにとってワールドカップは退去」


オリンピックはいかにも金持ちクラブの国のイベントですが、(アイルランドのような貧しい国の選手は自費。日本語を学んでいた世界記録をもっていた学生がギリシャに行けませんでした)、 それと比べれば、ワールドサッカーの方が本当の意味で'南'を代表している、ポストコロニアリズム・ワールドと呼ばれてきたふしがあるのですけど、今回はっきりと限界が見えてきましたね。政治においてグローバル資本と南の現地政府との結託が反民主主義的になっていますしね。ところで東京オリンピックでは、ロンドンオリンピックを真似して、馬鹿げたことに、自衛隊にヘビーな警備させる可能性がありますね。戦車が道路の横に配置され、軍艦が東京湾に出てくるかも。そのとき、会社が職務として一丸となって日本を応援する光景を想像できますか????(汗)

サッカーチーム (=軍隊)の達成感?怖いですね。殺された人にしかわからない苦しみをはたして償うことができるか?できるはずもありません。自分たちでなにをしていのるかわからないままに足をマゾヒズム的に痛めてひたすら行進していた戦前の軍隊の無気力な絶望感をこれから美化していくつもりなのですかね。サッカーのことだけではありませんね、きっと。原発も、海外に送る自衛隊のことも

日中間には政経分離の原則というのがあります。日中両政府は、お互いに、お互いの政治については批判しないとする一方で、経済だけは協力し合うという原則です。この政経分離の原則のせいで、お互いに不信感だけが増幅し、かえって両国間の緊張関係が高まっているという皮肉です。結果的に、お互いに、それぞれの国の軍拡を助けている!まず政経分離が正されるべきでしょう。ガス抜き効果のために、お互いに相手の政治を徹底的に批判しあうのも平和戦略です。しかし危なくなったら、おのれの立ち位置を導く、ふくろうねこの子守歌によって、日本人の'潔い暴力への憧憬'遺伝子ハッスルを抑制すれば OK!


サヨク'と書いてきた以上、'シンライ'と記すことはできなかったのかなと3秒間おもいました(≧∇≦)ただ、全国新聞でコラムを持っている、(反自民のくせに) 若い文化人たちが、自分の支持政党を明らかにせず、ただ「選挙に行きましょう」と呼ぶかけている中立的無意味さよりも、百倍シンライできるでしょう。世界的な傾向ですが、'右翼'と名乗っても(似非)'改革路線'だったり、左翼と名乗っていても中身が(似非)'現状維持路線'だったり、と、妙なことになってきました。そうしたなか、自分の立ち位置から、「信頼」というリアリティーから自分の周囲世界をあらためてとらえなおす努力は大切とおもいます。島田さんのおかげで(笑)、左翼がサヨクになったあと、ネットの時代に、やっと右翼のほうも、ウヨクというカタカナ表記となりました。やはりこれもウヨクがサヨクに依存してしか存続しえない形なのだろうかなあ、と。



自民党政治家たちの人格否定ヤジをいくらでも放任するくせに、
市民の戦争を反対する小さな張り紙一枚を罰する国とは?

靖国体制<戦う国家、祀る国家>にたいする抗議の意思表示は、<戦わない国家、祀らない国家>を求める声です。'明白かつ現在の危険'が無いにもかかわらず、国家が抗議の意思表示を行った市民を事実上一方的に罰することは、刑法からくるものではないことをあらわしています。容赦なく小さな張り紙の抗議の意思表示を罰しているのは、寧ろ、靖国体制<戦う国家、祀る国家>そのものからくる戦争ではないでしょうか。

寸劇; 国会プレーを取り入れたSMが流行中

客「きちんとぼくの質問に答えてください!」
女王様(冷たく沈黙する)「・・・・・」
客「答弁拒否しないで、ぼくを見て!」
女王様(余所をみている)「・・・・・」
客(愛を訴える)「さっき二人で約束した憲法をまもってください!」
女王様 (ハイヒールで踏みつける)


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ALSO SPRACH OWLCAT ふくろうねこ、かく語り き  2014年6月(後半) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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