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<<   作成日時 : 2014/07/16 13:14   >>

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アラブの歴史とは帝国の歴史である。歴史的には、アラブとユダヤの商人は、現在のアフリカの人々によって、自分たちを奴隷商品にした憎き存在として語られることがある。兎に角、アラブとユダヤの間には長い共存の歴史があったので、アラブはユダヤ系の人々について知り尽くしていたはずだった。が、20世紀に入って、ヨーロッパから来た新しいユダヤ人たちが、アラブの人々がそれまでそれほど知らなかったものを作り出したー国家だ。パレスチナ問題とは近代国家の問題であるといわれる所以である。
ところで大英帝国の時代は、イスラエルが最後のビクトリア朝の植民都市といわれた。つまりヨーロッパ帝国主義のアラブ支配の最後の要塞ということだ。戦後没落した大英帝国にかわって、今日までこのイスラエルに、多大の財政援助と大量の武器供与をおこなってきたのが、アメリカ帝国である。さて今年から、公式に、イスラエル首相と安倍首相の間で武器輸出に関する条約が締結された。事実上アメリカのための集団的自衛権を推進する安倍が、このアメリカを助けるためにイスラエルを武器輸出を積極的に行なうとしているわけである。それにしても、安倍が従来から約していた'対米依存の脱却'が、このような形で露骨に、躍起になって日本をアメリカ帝国の一部に組み込む体制を意味していたとは ! これは、エスタブリッシュメント保守層の安倍支持者達も想像していなかったほどのまさかの裏切りではあるまいか? 安倍を支持しない人々にとっては、疑問と不信感が膨らむばかりだ。安倍さん、結局あなたはだれのために一体何をしたいのか?


ジョイスの多言語テクストの翻訳(日本語)を指さして、どの国の言葉からの翻訳かと問う者は、翻訳が全部オリジナルだと気がつかない。書記言語としての「古事記」についても、近代主義者はどの国の言葉からの翻訳と考えるが、コピー(翻訳)が先、オリジナルが後!コピーの前を起源と考える必要なし!

「日本政治思想史研究」の丸山の語りは、西欧思想史 (中世解体から近代成立まで) の言語に負う。ナショナリストを前に、外国語に翻訳不可能とみえるほど特殊なオリジナルを翻訳したぞという無邪気な勝利感がある。が、オリジナルなものというのは、翻訳の後に初めて存在してくるのではあるまいか?

「イスラエルがガザで使用しているF-35爆撃機の部品の40%は日本製」 ?

これは、企業名の公表がないのでまだ信用することができない数字。が、もし事実だとすれば、日本企業のこれほどの関与は何を意味するのか? <イスラエルが日本製の部品の武器を消費する>も、<日本企業がイスラエルを利用して武器を生産する>も、両者の間に本質的な区別がなくなっていく日はいつ来るのか? ということを考えざるを得ない。溜息。改めて思うことだが、かくも武器の生産ほど、残酷かつ野蛮に、しかしこれほど確実に、過剰生産が、効率的な!消費に保証された管理体制があっただろうか?またたとえ40%が事実でないとしても、将来的にはこれに近づき、さらにこれを遥かに超えていく近未来についてだれもが考えるはず。これに関して、田母神の人気は一時的に過ぎないだろうが、投票において彼に委ねた苦しい若い層の間に、雇用の問題が常に武器生産とその輸出とリンクされてしか認識されなくなってくることは見逃せない。武器の生産の正当化に沿ってなにもかもカネの尺度で評価されていく。そうしてアベノミックスの中核に、この他者の死を量産化していく管理体制が陰険に増殖されていくばかりだ。これが限度なく一方的に直進していくまえに、いかに終わらせるのか?まだ間に合うとすれば、これからなにをすべきなのか?

「イスラエルがガザで使用しているF-35爆撃機の部品の40%は日本製」 ?

これは、企業名の公表がないのでまだ信用することができない数字。が、もし事実だとすれば、日本企業のこれほどの関与は何を意味するのか? <イスラエルが日本製の部品の武器を消費する>も、<日本企業がイスラエルを利用して武器を生産する>も、両者の間に本質的な区別がなくなっていく日はいつ来るのか? ということを考えざるを得ない。溜息。改めて思うことだが、かくも武器の生産ほど、残酷かつ野蛮に、しかしこれほど確実に、過剰生産が、効率的な!消費に保証された管理体制があっただろうか?またたとえ40%が事実でないとしても、将来的にはこれに近づき、さらにこれを遥かに超えていく近未来についてだれもが考えるはず。これに関して、田母神の人気は一時的に過ぎないだろうが、投票において彼に委ねた苦しい若い層の間に、雇用の問題が常に武器生産とその輸出とリンクされてしか認識されなくなってくることは見逃せない。武器の生産の正当化に沿ってなにもかもカネの尺度で評価されていく。そうしてアベノミックスの中核に、この他者の死を量産化していく生産体制が陰険に増殖されていくばかりだ。これが限度なく一方的に直進していくまえに、いかに終わらせるのか?なにをすべきか?


社会保障の規定が憲法に書かれているのに、生活保護の受給に人権性をみとめないとしたら、外国人を人として扱わないということになるが、この国はそれでいいのか、やっていけるのか?という根本的問いを前に、最高裁判事たちは人権感覚ゼロ。判事に拍手を送っているのは極右翼だけという異常な光景 !? 戦後70年経てもなおそれほど法の支配があるわけではなく、またそれが最大の問題を構成するということを最高裁ですらまだ気がついていない有様です、はっきり申し上げまして。このまま十分に法の支配がないとすれば、危機意識もなく馴れ合っているだけの土人の国と言わざるをえません

'ファシズム'カフェが大流行?
前菜は
・サディズムと暴力へのカルト的憧憬 400円
・カリスマ救済者への迎合服従 450円
メインは
・死の不合理性を称えた教化 1200円、
・起源のノスタルジー(靖国産) 1500円
(300円+で、集団的自衛権)
デザートは
・批判的知識人への反発 200円
リフレッシュは無料で
・東京おりんぴっくコーヒーか、原発再稼働ジュース

Welcome to Japan. Enjoy yourself cafe 'FASCISM' !
Starter;
Violence and Sadism 400 yen
A messianic leader 400 yen
Main;
Admiration of the power and the dead 1200 yen
Nostalgia for the Origine (by War Shrine) 1500 yen
(+300 yen -> the right for collective self-defense for America)
Dessert;
Aversion to intellectuals 200 yen
Refreshment ( free) ;
tokyo-olympic-coffee or nuclear-power-station-juice


保守反動の「デモは効果がない」は、預言者の言葉としてある。逆の方向から講座派の言説も、時計の機械仕掛け的進行に従って近代化を推進する民衆の存在を預言する。近代化の進行を邪魔する犯人捜しの舞台を上流階級観客席から眺める、'日本人をやめた'人々は、「日本の思想」の読者ではあるまいか

なぜ、公共放送はこの危機的な時期に、再び丸山真男を称えるのか!?

「日本政治思想史研究」(英語版への著者の序文)で、丸山真男は、'現代日本はすでに「近代の超克」が最大課題になるほど、それほど近代化されていない' という。'高度に発達したテクノロジー'と'二十世紀以前の神話'の共存を嘲笑う。'二十世紀以前の神話'は近代が発明したとは疑わないのか?丸山自身がそれをみとめている。彼は言う。'維新以前の時代においても伝統主義者が美化しているほどには、「近代」と無縁な「東洋精神」が歴史的に変化から免れて持続していたわけではない'。つまりここで'二十世紀以前の神話'なども近代が発明したことと同じことを言っているのに彼は気がつかない。サディズムと暴力へのカルト的憧憬、カリスマ救済者への迎合的服従、死などの不合理性を強調した教化、起源に対するノスタルジー、知識人の批判精神に対する反発。こうした特徴がバラバラではなく、まとまった体系として存在するのが、近代だけが作れる二十世紀の'二十世紀以前の神話'、すなわちファシズムだ。これが分からないものは、八月十五日に安倍首相が行く可能性のある靖国神社がいつ、どのような言説によって成り立ったかを調べたらいい。明治政府が建立した靖国神社は、近代が作った二十世紀的な'二十世紀以前の神話'。近代がつくった政教分離の憲法を壊し東アジアの平和を脅かすものこそが、この近代なのだ。たしかに三十年代の「近代の超克」は軍国主義と全体主義に押し流され破綻してしまった。だからといって、安倍体制に顕現した近代のカタストロフィー的矛盾を乗り越えることの課題が市民から消えてなくなったわけではない。現に市民が立ちあがることがなければ、だれが?


イスラエルは、アジアの国か?アジアを植民地化するビクトリア朝最後の要塞基地か?パウンドを愛する、イスラエルから来たリベラルなラビ僧が言うには、イスラエルはアジア的専制国家のステレオタイプを逆に利用してアラブ側の人権を蹂躙している、と母国(イスラエル)にたいして抗議しました。ヨーロッパの国として人権を尊重する責任を求めたとき、この話をきいていたわたしは、はっとしたのです。これはまさしく日本のことでもあるじゃないかと気がついて非常に恥ずかしくなったことを覚えています。そしてこのラビが最後に言った言葉が印象的でした。ユダヤ人が一番得意なのは教育を重じたこと。決して暴力ではなかったはずだと。この教育をアラブの人々と共有する努力を行っていけば、たとえ核兵器とアメリカに援助された軍隊をもたなくとも、アラブの人々がイスラエルをかならず生かしてくれるはずだと。それをはじめるためにも、イスラエルは現在のアラブ人一人ひとりに、すなわち十億人全員に、国をみとめてもらうという承認のための交渉をおこなうときがきているのだと。

昨夜はホテルを舞台にしたハリウッド映画を。隅々まで聞こえてくる米国語にtoo much !と感じていたから、主役のイギリス英語を聞けて満足した。昔サリエリを演じたベテラン俳優が圧倒的な存在感。あんな風に若い者を食事に誘い色々と語り聞かせる、story-tellerになりたいものだ

信仰は見えざるものへの愛、不可能なこと、ありえないことを信じること。(ゲーテ)

Glaube ist Liebe zum Unsichtbaren, Vertrauen aufs Unmögliche, Unwahrscheinliche.


1、マルクス「資本制生産に先行する諸形態」とはなにか?ヘーゲルは「世界史」的展開の必然性をもたないオリエントを「東洋的停滞」「東洋的専制」の名でとらえた。それに対してマルクスは資本主義社会への発展の必然性を内包しない社会を規定する根拠を「アジア的生産様式」の名でとらえたのである。
2、柄谷「世界史の構造」は、このアジア的社会構成体を構造的に読んでいる。これについては、ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オィデプス」では、<互酬性>的な大地という野蛮な社会的身体、その外部をなす、<収奪と再分配>的な 王の官僚機構の残酷な社会的身体のことがすでに物語られていた。
3、「アンチ・オィデプス」は、資本を分析する場合、柄谷のようには再び構造主義的に分析することはなかった。資本主義社会への発展の必然性を考えるときためには、再び、資本主義社会への発展の必然性を内包しない社会を規定する「アジア的生産様式」の構造分析に依拠することができなかったからだ。
4、渡辺一民の「二十世紀精神」は、ヘーゲルの名を口にしなかったが、「精神現象学」がいう精神がいかに絶対知を得るかという問題意識に沿って展開した。(市民社会の語も慎重に避けたが)、 市民社会がいかに近代の自己疎外(資本主義)を乗り越えていくか?講座は二十世紀の考古学的な語りであった。
5、だから「二十世紀の精神」は、反ドルフェス派モーラスと、ドルフェス擁護派ペギー、この立場を異にする両者が、金に支配されるブルジョア社会への危機観を表明することで一致をみる19世紀の歴史から始まるのは当然であった。それは今日におけるグローバル資本主義を見渡すために欠かせなかった。
6、二十世紀日本とは百年前の大正が作った。大戦と革命とヴェルサイユ体制と、世界史の中の日本は大正から読み直すこと。大正デモクラシーを称えても朝鮮と台湾を植民地化したこと、二十一世紀に原発再稼働と集団的自衛権に反対してもアベノミックスの安倍を支持すること、この両者の根底に貨幣がある。
7、構造の言説(連続性と構成性と体系性)では、貨幣の不断に<一>構造が他の<多>構造を収奪する直進的必然性を捉えるのが難しい。ポスト構造主義が構造主義批判であったのは、資本主義の絶えざる連続性の切断と再構成と拡大する体系性、その中心なき中心に貨幣が存在することを見抜いていたからだ



柄谷が指摘していたように消費者運動に準じた暗黙の不買運動(原発エネルギー)といえるかどうか, そうであっても市民の抗議がそれで十分なのだろうかとは思いますが、しかしたしかに、それまで原発問題に関心のなかった生活者のあいだで、原発再稼働にならないように行っている節電の努力があり
これは同時に、人間の能力を遥かに超えたカタストロフィー的災害に陥らず、また地球生存可能性とも両立する自然エネルギーの開発への期待に支えられていることは確かです。これを裏切る、この国の大企業は武器の生産で電気を浪費にしている正当性は何でしょうか?その盲目的な利益体制は反社会的!
火山の近くに原発をつくっていたという事実に納得する者はいないと思いますけれど、武器生産のために電気が浪費されていることに疑問をいだく人々の数は現在それほど多くないだろうと残念におもいます。
Tristan ;
Tristan du,
ich Isolde,
nicht mehr Isolde !

Isolde ;
Du Isolde,
Tristan ich,
nicht mehr Isolde !

Beide;
Ohne Nennen,
ohne Trennen,
neu'Erkennen,
neu' Entbrennen,
endlos, ewig,
einbewußt.
Ewig, endlos,
heiß erglüther Brust
höchste Liebeslust !
(Sie verbleiben in verzückter Stellung)



トリスタン「君がトリスタン、僕がイゾルデ、僕はもトリスタンじゃない!」

イゾルデ「あなたがイゾルデ、私がトリスタン、私はもうイゾルデじゃない!」

2人「名前もなくなり、離れることなく、常に新たに交わり、燃え上がる。永遠に果てしなく一心同体であるという確信!永遠に果てしなく熱く燃え上がる胸中の至福の愛の歓び」(2人はいつまでも恍惚状態のままである)
井形ちづる訳

トリスタンとイゾルデの夜の愛は、二つの共同体間の戦争の互酬的カタストロフィーをあらわしている。この両者が共に存続するには、マルケ王の<略奪と再分配>が<互酬性>にとって代わる。だがそれによって、禁じられたトリスタンは宇宙の祀られない死者として永遠に彷徨うことに。イゾルデのアリアによっても贖えない。だれがだれのことについて歌っているというのだろうか?これがRichard Wagners ワグナーの構造だ !


寸劇; 公案

お師匠「この原発棒が安全と言うなら、よし、お前の頭にうちおろす」
田中委員長「安全とは言ってません」
お師匠「ほう、安全でないと言うならば、お前が言うことが正しいかどうかを証明するために、これでお前の頭を打ち砕いてみっよう。さあ、この原発棒が安全か安全でないか、即座に答えよ!」
田中委員長「安全でないのか、安全なのか?どうしよう!?」

(正解は、お師匠から危険な原発棒を取り上げるという行動でした。修行の足りない田中さんは、失格よ。あなたはいかがでしたか?頭の中でグルグルしていませんか)



この頓馬な4人の最高裁裁判官たちは、人権感覚ゼロ。と言うか、もはやそれを超えて、移民のために税金を使うなとさけぶ極右翼レイシストとまったく同じボキャブラリー、同じ憎悪の身振りに陥っています。

ー>「国内での永住権を持つ外国人が、日本人と同じように生活保護法の対象となるかどうかが争われた訴訟で、最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)は18日、'外国人は生活保護法の対象ではなく、受給権もない'とする判断を示した。'保護法の対象となる'とした二審・福岡高裁判決を破棄し、原告側の訴えを退けた。4人の裁判官全員一致の意見」


生活保護の受給について人権性が問われています。社会保障の規定が憲法に書かれているのに、それに人権性をみとめないとしたら、外国人を人としてあつかわないということになるが、この国はそれでいいのか、やっていけるのか?という根本的な問いですね。最高裁判事たちは、憲法を私物化しています。

What is Opera ?

バロック芸術といえば、オペラ。その光と影の対立を中心とした芸術は、ルネッサンスの調和の時代には誕生しなかった。ただし物理的な意味で、バロックの影は光の欠けたものとしてあるのではない。光と影とが互いに独立してあるのは、映画術において一つの明確な映像の解釈が役立たないという事情と変わらない。映画に先行してオペラがあったのだ。レンブランドが描いた絵をみて思うことは、影の広がりが、光の理によって暴力的に奪われているということだ。影は、光の運動に巻き込まれながらも、しかし永遠に巻き込まれていく連続性を断つために向き合うことになったのが、天である。絵は、天が地下にあることを示している。この地下が構成する自己意識こそが、思考が構成する体系だろう。オペラの場合、光の理によって一番奪われて絶望したものが、この天に向かってアリアが歌われるのだが、ー顔回を失った孔子のようにー、歌手に降り注ぐ照明がレンブラント・ライトと呼ばれるのは決して偶然ではないだろう

MEMO
' 国連の自由権規約委員会は日本政府に対し、旧日本軍が強制動員した元慰安婦への謝罪が不十分であり、慰安婦(comfort women)という表現でなく「強制性奴隷(enforced sex slaves)」という表現を使うべきだ、と批判した。'

Elizabethan London lay as far from Stratford as corrupt Paris lies from virgin Dublin. Joyce; Ulysses


二十世紀日本とは百年前の大正が作り出しました。これは一考の価値があります。大戦と革命とヴェルサイユ体制と、世界史の中の日本は大正から読み直す作業ですね。さて、大正といえば、大正デモクラシー。しかし日本の帝国主義が始まったのは、他でもないこの大正です。朝鮮と台湾を植民地としながら大正デモクラシーを称えてきたのです。この偽善と、原発再稼働と集団的自衛権に反対しても安倍内閣を支持している偽善。このどちらがより罪深いものであるかは、百年後の良心が裁くことになるはずです。とにかく現在はできることをするだけです。世界平和を望む東アジアの人々の願いが裏切られることがないように、わたしは、八月十五日の安倍首相の靖国参拝にたいして抗議し、公式参拝反対の意思表示を示していこうとおもいます。

What is art ?

鑑賞する人に、あなたはどこから来たか、どこへ行くのかという根源的な問いをその作品に感じさせれば、その作品は'アートである' とおもいます。(いま NYで見たあのシンディー・シャーマンのabject art、セルフポートレート写真を思い浮かべています。) ここで'である'という部分を強調したのは、理由があります。つまり、この'である'という観念性を徹底化していく芸術作品に、宇宙の生成を物語る大いなる物語を帯びないものはないということを言いたいからです。例えば、シュールレアリズム運動のように、形而上学的、超越的な問いかけを行った芸術家達は一人も再び日常性に戻ることがないほど過剰に観念的でした。これにたいして、日本ではアートといえば、観念性に先行して、 'まずはモノを見せてもらおうか'の要求がきます。実際に美術館で愛されているのは、モノとしての、知識としての作品だけといっては言い過ぎでしょうか?とにかく、‘人間はどこから来たか、どこへ行くのか'という根源的な問いを発することが期待されていないのです。
しかしこれは、なぜ日本は世界の流行についていけるのかという秘密を明かしてくれます。具体例に沿って説明してみますと、日本ではシュールレアリズムやキュビズムからポストモダニズムへ簡単に行ってしまうのですが、ヨーロッパの場合、シュールレアリズムでもキュビズムでも、前述したように、作品が(宗教に準じた) 形而上学、超越的問いかけの内部に存在するものですから、ポストモダニズムの時代だからといって、そう簡単には、シュールレアリズムとキュビズムを捨て去ることは起きません。映画界のゴダールは最後のシュールレアリストであります。
一方、日本のアートは、百科全書的な知識の'まずはものをみせてもらおうか'という枠組みによって、古くなった知識と新しい知識をなんの葛藤もなく簡単に交換されてしまうこともできてしまうというわけです。興味深いことに、実はこれと同じことが、江戸時代において生じました。大阪の儒学者たちの間で、次第に、儒学は'物理'の百科全書的な知識として発展をみることになうですが、そのおかげで、外から西欧の知識が入ってきてもなにも困らず翻訳ができたといいます。一方、今日世の中が大変気にしている、'日本人はどこから来たか、どこへ行くのか' というナショナリズム的言説を構築していくのは、宇宙の生成を物語る大いなる超越的な問いかけにこだわる思想家たちからでした。

The above view about civil society was criticized by Antonio Gramsci. Departing somehow from Marx, Gramsci did not consider civil society as coterminous with the socio-economic base of the state. Rather, Gramsci located civil society in the political superstructure. He viewed civil society as the vehicle for bourgeois hegemony, when it just represents a particular class. He underlined the crucial role of civil society as the contributor of the cultural and ideological capital required for the survival of the hegemony of capitalism. Rather than posing it as a problem, as in earlier Marxist conceptions, Gramsci viewed civil society as the site for problem-solving. Misunderstanding Gramsci, the New Left assigned civil society a key role in defending people against the state and the market and in asserting the democratic will to influence the state.At the same time, Neo-liberal thinkers consider civil society as a site for struggle to subvert Communist and authoritarian regimes. Thus, the term civil society occupies an important place in the political discourses of the New Left and Neo-liberals.


Gramsci's theory of hegemony is tied to his conception of the capitalist state. Gramsci does not understand
the 'state' in the narrow sense of the government. Instead, he divides it between 'political society' (the police, the army, legal system, etc.) – the arena of political institutions and legal constitutional control
– and 'civil society' (the family, the education system, trade unions, etc.) – commonly seen as the 'private' or 'non-state' sphere, mediating between the state and the economy. He stresses, however, that the division is purely conceptual and that the two, in reality, often overlap.The capitalist state, Gramsci claims, rules through
force plus consent: political society is the realm of force and civil society is the realm of consent.


Link to the public sphere

Jürgen Habermas said that the public sphere encourages rational will-formation; it is a sphere of rational and democratic social interaction. Habermas argues that even though society was representative of capitalist society, there are some institutions that were part of political society. Transformations in economy brought transformations to the public sphere. Though these transformations happen, a civil society develops when it emerges as non-economic and has a populous aspect, and when the state is not represented by just one political party. There needs to be a locus of authority, and this is where society can begin to challenge authority. Jillian Schwedler points out that civil society emerges with the resurrection of the public sphere when individuals and groups begin to challenge boundaries of permissible behaviour — for example, by speaking out against the regime or demanding a government response to social needs — civil society begins to take shape.





絶対安全と言い切らない点で自身をより誠実だと思っているのだろうか?が、かえってこの態度は、3・11の<前>を明かしてしまった。それは、悪法も法なりという、実証的な「我々」に反論しない専門家集団の驚くほど凡庸で非社会的な無責任体系が存在したのではあるまいか?

ー>原子力規制委員会の田中俊一「我々は基準に適合していると判断しただけで、安全だと言ったわけではない」


From Nobukuni Koyasu
- translation by takashihonda

< Korean news agency asked me the expectation question; PM Abe is going to visit to the war shrine, or not, on 15 August ? I'd show you the summary of my answer below. >

Thinking PM Abe's visit to the war shrine doesn't belong to the question of expectation. I cannot answer it if your company asks me the question on how the result may turn out. Because I am not a political prophet. And,I think, the subject should be properly discussed without regard to banal political expectation.

Not only the people in the East Asia but the people all over the world know that the damage to peace of the East Asia is seriously caused by his visit to the war shrine. How could I accept his arrogance, his visit to the war shrine on August 15,despite the cynosure of the world. It is no less than an act of treachery violating peace of Asia if he dares to go to Yasukuni shrine. Jointly with the people longing for world peace , we have to protest PM Abe and resolutely tell him that he is not being qualified as the PM of constitutional democracy.

His visit to war shrine is a threat to peace. It shouldn't happen in the East Asia. I say, the people in the East Asia...no ! all people longing for world peace, has to protest together when PM Abe visits to the war shrine.

What I really want to say is that there exists a great many people in Japan against PM Abe's visit to the war shrine. I'm sure that there must be more people in opposition to the Abe's visit to the war shrine than the people in favor of it.

As you know, the voice of the ordinary citizen doesn't be rightly reflected or
fairly expressed in the Abe's government. Please, I ask you to understand that the voice of a great many Japanese, not reflected in the Abe cabinet, oppose to his visit to the war shrine, and that these people really find it unbearable to see the relations between Korea and Japan being chilled as the present state of affairs.

And I ask you to resolutely protest and to join us protesting him If PM Abe shamefully betrays the people's trust longing for peace in the East Asia,
But I hope you'd avoid spreading the national feelings striking Japan. Because many Japanese in opposition to the PM Abe's visit to the war shrine are really praying for friendship between Korea and Japan. Please give your serious consideration to that.


安倍首相ははたして8月15日に靖国参拝をするのか、しないのかという予想問題を韓国の通信社から投げかけられ、大要次のように答えた。
安倍首相の靖国参拝とは、それが予想されるかどうかといった問題ではありません。御社がそのような予想を私に問うならば、私はそれに答えることはしません。私は政治的予想屋ではないし、事柄は政治的予想の問題ではありません。
安倍首相による靖国参拝が東アジアの平和を損なうものであることは、すでに東アジアの人々だけではない世界の人々に明らかになっています。このような国際的注視の中であえて安倍首相が靖国参拝をするとは私には考え得ないことです。もしあえて彼が参拝をしたら、アジアの平和へのこの裏切り行為に対して、われわれは世界の平和を希求する人々とともに抗議し、首相としての無資格を彼に告げねばなりません。安倍首相の靖国参拝は東アジアの平和にとってあってはならないことです。もし参拝がなされたら、東アジアの、いや世界の平和を求める人々とともに抗議すべきです。
私がいいたいのは、日本には安倍首相の靖国参拝に反対する非常に多くの人がいるということです。恐らく賛成する人よりも多いでしょう。だが国民の声は正しく政権に反映しないし、政権によって表現されるものではないということはあなた方もご存知なはずです。安倍政権に正しく反映されないが、非常に多くの日本人が首相の靖国参拝に反対しているということ、そして同時にこの人々は韓日関係が現在のように冷え込んでいることに耐え難い思いでいるということです。考えて欲しいのはこのことです。
もし安倍が東アジアの平和を希求する人々を裏切ることをしたら、われわれとともに断乎として抗議して下さい。しかしそれを決して日本に対する民族感情の問題に流し入れないで下さい。安倍首相の参拝に反対している多くの日本人は、同時に韓日友好を心から願っている日本人であることをぜひお考え下さい。ご質問への答えに代えて、子安宣邦


グローバル資本主義の時代と、'民族的独立'という語では説明できない世界同時的な市民的抵抗のありかた


国際政治をみる眼。1970年代には、米ソの二極から多極化へという国際政治の認識が打ち出されていた。1980年代からのグローバル資本主義の時代においては、多極化の多中心構造を包摂する形で諸帝国が並存して現れてくることになった。将来的には地球的広がりをもつ一つの帝国形成に至る過程を読む知識人もいるぐらいだ。恐らくEUからは、ヨーロッパ帝国が誕生していく。(ギリシャ・アイルランド・ポルトガル・スペイン、将来トルコは帝国内周辺に)。アメリカ帝国は、ライバルの中国帝国から自らを差異化するために、'人民'という語を避けて、アメリカの、アメリカによる、アメリカのための、と自らを言うかな?結局、集団的自衛権もTPPもアメリカ帝国の一部をなす。このことを前提にすると、どの帝国に抵抗するどの市民運動も、これらを'民族的独立'と呼ぶのはアナクロ二ズムだね。21世紀グローバル資本主義の時代に起きてくる事柄については、'国家'とか'民族'という19世紀的語彙はそれほど役に立たないということだ



Machismo under the Abe' s regime. Women are again relegated to traditional female roles as breeders of racially pure warriors for the state war machine.
The artist says; "I cannot agree with the police's decision to label the data as obscene," she reportedly said. "To me, my vagina is like my arms and legs. It's nothing obscene."

'Others have questioned why the image of a vagina is seen as obscene when images of penises are not seen as causing offence.There are, for example, annual festivals in Japan where a huge wooden phallus is carried from a shrine or visitors can enjoy sweets shaped like penises. ' - BBC

日本の場合は、ー>多少<ーのことでは、(一秒後に洒落がきます!)、ー>他称<ーの王冠を授けてもらうのが中々まれであると。どこから来たか、どこへ行くのかという形而上学的な問いを感じれば、一応アートと言えるのではないでしょうか、とわたしはおもっています。これなんかも、シンディー・シャーマン系の、abject art の類ではないでしょうか。ボートですか?家の扉として使いたいな。毎日穴から入り、穴から出ていこうかと(笑)。日本ではアートといえば芸能のことか、'まずはモノを見せてもらおうか'みたいな感じで理解するひとがマジョリティー。'おまえはどこから来たか、どこへ行くのか'という'である'の観念性を訴えてくる、そんなわけのわからないものは、タブーとして無視し去るところがありますね。一般にアートにたいする一定の尊敬と理解がある外国では、ご存知のように、死んだら僅かな財産を射美術館に寄付する人が非常に多く、そのなかでは、'わたしは芸術家である'という自称にたいして非常に重い責任ーなにか宗教的な超越的なーを感じるのが常。商売の芸術家たちの自己宣伝は別ですが、自称の 'である'の部分が大きなプレッシャー。日本の場合は、超越的な存在としての芸術などにスペースがなく、ただ愛されているのは、知識としての芸術品かな?だから日本のほうが流行についていける。たとえば、シュールレアリズムやキュビズムからポストモダニズムへ簡単に行けてしまう。ところがこれが外国ですと、シュールレアリズムやキュビズムにおいては、ある形而上学が作品群のなかに宿っているものですから、そう簡単には、ポストモダニズムの時代だからといって、シュールレアリズムとキュビズムを捨て去ることはできない。そういうひとたちが映画をつくり続けているーゴダールは最後のシュールレアリズム。それにしても、外国と日本が同じなのは、死んでしまった芸術家ばかりが尊敬されること。影響力がなく危険でなくなった芸術家だけを遺品のように愛する中流の健全性をみるとなんだかなあーみたいな。夫ボバリーに愛される、わたしは死んだエマかよみたいなー。長々と失礼。

デザインというのは役に立つものですね。私は素人ながら、素人だからこそいえることといえば、結局、誰がこのスケジュール、(タブロー?)、を見るのかということがちょっと。もしかしたら検察と裁判官はこのように直線を見るのでしょうが(有罪判決から遡って逮捕の時点に線をひく)、しかし、<自分は無罪だとうったえる>人からすると、この直線は逮捕の初めから無意味か、または無意味でないとしても、罪を証明する<証拠>もないのになぜ、勾留の期間がこんなに長いのかという怒りがあるはず。そういう免罪の人の視点も考慮した創意工夫のデザインがあってもいいとおもうのですね。(

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