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<<   作成日時 : 2014/07/23 13:22   >>

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ALSO SPRACH OWLCAT 

East Asia is, awfully, substitution, ellipsis and annotation. Good flow is the people in between American Empire and Chinese Empire. They are in but not of any situation in which they might find themselves, their reality the experience of perpetually crossing over from one code to another...
How is it possible to abbreviate scenario ' be-verb ' ?

ALSO SPRACH OWLCAT 

People say; it is because you lost all that you will get something.
No ! Owl-cat rather says; even if I have nothing to obtain, I can lose something


...They were in but not of any situation in which they might find themselves, their reality the experience of perpetually crossing over from one code to another.....Yet into his own exile Joyce took with him the ancient Gaelic notion that only in literature can the consciousness of a people be glimpsed.

Declan Kaiberd; Inventing Ireland 'James Joyce and Mythic Realism'




政治は政治、文学は文学? ジョイス研究者に限らず、海外文学に寄生してきた日本の文化人達は、ジョイスがいかに現代のアイルランドを描く上で古代イスラエルのオリエンタリズムを必要としたかを知っているのに、パレスチナ問題に沈黙しています。これと同様に、政治は政治、映画は映画? ゴダールによって知識人の特権的な特別列車席を得たにもかかわらず、日本の映画批評家達も、このスイスの監督がいかにパレスチナ問題に拘わったかを知るが馴れ合い的に沈黙したままです。それとも全員死んだのでしょうか?

Not only the researcher of Joyce but the cultured men in Japan who are parasitic to the foreign literature, knowing even slightly how James Joyce depicted Ireland using the Orientalism narrating the ancient Israel, prertend innocent to a serious question of Palestina and Israel. This is hypocrite.
And how can the Japanese film critics, acting as 'intellectual' by refering to Godard's film, keep smartly quiet , knowing fully how a Swiss director has been involved in this issue sinceritly? This is big shame !


変態的混合テンソルの身体インクが綴る、
どこのお国から何語から来たか定かにならない
孤児たちの彗星と彗星の永久衝突の友情的運動に、
シャーシャーおしっこインクで乾杯!



"もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"という人々は、破産したにも拘わらず再び、彼らが依った言説から内部の世界に何かを読み出すだろう。これは自力のいわゆる同一性の反復というものである。呪縛してくるその言説のあり方を問う意志は、"もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる' と、絶望しきった絶望感からしか到来しないのであるまいか。巻き込まれても巻き返す、ジョイスのごとき'自分で決めた亡命'の脱出線は、外部の天に誘う似非カトリックのカトリックと贋物他力の他力の変態的混合形態の身体インクなり (どこのお国から何語から来たか定かにならない孤児たちの彗星と彗星の永久衝突の友情的運動に、おしっこインクで乾杯!失礼、雨の恩寵でした)

国連管理の学校ビルすら爆撃という、イスラエル軍のガザ自治区の無差別攻撃ぶり。9人が殺されました。それでも爆撃は、国際社会の'見ざる、聞かざる、言わざる'のなかで続いています。すでにガザ自治区は食料と医療物資が底をつき、ライフラインも絶たれています


Meurtre au sein de l'ONU

Gaza : 9 enfants tués dans des locaux de l'ONU. Et que disent Obama, Hollande, Mertckel, Cameron, Poutine ? Absolument rien ! Scandaleux. Ils sont totalement discrédités et déshonorés. Mais en ont-ils le sens ? De l'honneur ?

Why Sarajevo?
Because of Palestine
and because I live in Tel Aviv
I wanted to see a place where reconciliation was possible.

– Judith Lerner (Sarah Adler),
Godard's 'Notre Musique'

イスラエルと日本とが共通しているのは、おそらく、自らの詩をもたない民族であるということ。パレスチナの詩人の言葉をきく。

'敗北は詩人の不在ゆえなのか
詩とは将来への命題か
あるいは権力が使う道具の一つなのだろうか(…)
自らの詩を持たない民族は強くなることができるのだろうか
不在の名において語りたかったのだ
トロイの詩人として
勝利より敗北の中にこそより多くの示唆と人間性が存在する
喪失の中にこそ偉大な詩は生まれる
もし私が勝利者の側にいたら敗北への連帯を表明しただろう(…)
詩をもたない民族は打ち負かされた民族だ'

ベートーヴェンのピアノソナタ全曲を演奏しにきた、バレンボイムは、パレスチナとイスラエルには、もはや戦争のシナリオではなく、和平を構築するためのシナリオが緊急に必要だとロンドンの聴衆に向かってうったえていたことを思い出します。パレスチナ問題について「どっちもどっち」と言う冷静な(?)観察を日中関係に適用してみたらどうでしょうか?靖国公式参拝のフィクション的神話に、中国のドキュメンタリ的リアリズムが抗議してきた。また、同時に、一党制民主主義のフィクション的神話に、日本のドキュメンタリ的リアリズムが抗議を行なってきたのである。それならば、ここから、きっと、市民たちが主体となる、真の日中友好を導き出す三番目のジャンルの映画の確立が課題となってくるはずなのですがね。


大変示唆的な切り口だとおもいます。サイクス-ピコ協定という、アジアという名のケーキをいかに切るかみたいな取り決めが列強の間にあったのですね。このような第一次大戦前の歴史を知っておくと、現在のイギリスのあり方の理解に役に立つというか・・・結局マルチカルチャリズムといっても、あいかわらず、<分割して統治せよ>という植民地主義の影がマイノリティーグループに及んでいたとおもうのです。国策的に長老支配の警察的な自治に委ねていますしね。とくにサッチャー主義のニュー労働党により、イギリスの福祉・医療にたいする一定の信頼も裏切られるなか、帝国に起源がある人種のゲットー状態にアラブ系の人々の不満の爆発が、9・11以降にはっきりとあらわれてきたことはたしかです。(イギリスからオバマが現れることは絶対といっていいくらいあり得ないのです)。渡辺氏からいただいた20世紀精神史の関心も、ヨーロッパの外からの視点が欠いては成り立ちえません。そういう意味で、サイクス-ピコ協定ーシオニズムードレフュス事件について、自分でも考えてみようとおもっています。

パレスチナの状況とアメリカのインデイアンの運命の間には、驚くほどそっくりです。否、はっきり言ってしまえば、まったく区別がつかないほどの同じことが進行しています。つまり排除と虐殺を行なっていくイスラエル建国の歴史は、排除と虐殺を行なったアメリカ合衆国の誕生を反復しています。

さて集団的自衛権も、自衛隊の国連軍参加も、これらの観念の源泉の一つに、アメリカ連邦制モデルがありました。また今日、アメリカ帝国のためにますます軍事化していく日本はアジアの'イスラエル'という側面も否定できなくなりました。

結局、日本のアメリカ化と言おうとイスラエル化と言おうと、植民地主義のどの国家に視点を置くかの問題であって、侵略の本質に大きな違いがありません。これだけは言っておきますからね!

イスラエルとパレスチナの関係の問題は、植民地主義の西欧全体と被植民地のアジア全体との関係においてとらえるべき問題。この問題が、東アジアにおいて西欧に属する日本にとって何を意味してくるのかについても考えている次第です。集団的自衛権の行使ー自衛隊の軍事的派遣ーは、中近東となる可能性が非常に高いのですから


'パレスチナのインディアン'とドゥルーズ&ガタリが呼ぶ土地なき人々の研究。古代社会は無国家だけでなく、社会の「戦争機械」を使う戦争で国家に背いた。世界史は互酬制のカオスから国家のノモスへの構造的移行を記す一方、「戦争機械」の戦争ー今日ならば市民的抵抗ーが偏在した記憶を消去してきた。
柄谷行人が行なっていることは、はグローバル資本主義から起因する動乱を民族問題として整理し「帝国」の中心的役割をいう言説を蘇生させることだ。彼が市民的抵抗を見ない態度は、世界史が「戦争機械」の戦争の多孔性を消去してきたことに対応するといえよう。そうしてこれらの言説では、「戦争機械」の戦争も市民的抵抗も、国家の内部の暴力としてあらわれるノイズでしかないだろう。
さて、ここで、あらたに、ドゥルーズ&ガタリが強調していたことが喚起される。戦争は「戦争機械」の条件でも目標でもないという点である (ただ戦争は戦争機械の「代補」としてある)。そして彼らは「戦争機械」を徹底的に観念化していき、四つの本質的要素を導き出した。すなわち、<流れ><開かれた空間での混合><ハイブリッド><問題提起>である。
たとえば、伊藤仁斎の「論語」の読みは、この四つの本質的要素に沿って捉え直してみよう。知のネットワークを構成した仁斎古義堂と孔子の諸国歴遊 (流れ)。東アジアの知識革命と古代中国の知識革命(開かれた空間での混合)、ダイアローグの力(ハイブリッド)。定義しない注釈学的・文献学的思考(問題提起)
小林「本居宣長」も山口「文化と両義性」も、マルクス主義的リアリズム批判の問題意識を含むにしては、再び単一視点に絡みとられた文学的読解・人類学的読解によって二十世紀の「古事記」を祀る国家=戦う国家のために作り出していた。九十年代に「遅れてきた」子安宣邦の思想史転回は、七十年代・八十年代のそれらの知的へゲモ二ーの外部から現れて来たのであった


イラク戦争のときのように、このキャスターは自ら、パレスチナの現場にはいってしっかりと取材したようですね。最初の方でかなり具体的なことを証言しています。まず驚いたのは、圧倒的に若い人々が多く、非常に狭い地域に非常に人口が密集しているということ。全体の平均年齢は17歳。10歳以下が25万人も。ここが爆撃されていると。たしかにハマスはイスラエル側にミサイルを飛ばしているがけれども、イスラエルはアメリカからの大きな援助でつくった強力な防御体制で守られている。直接的に爆撃にさらされ、病院すらも容赦なく吹っ飛ばされるパレスチナとの「大きな違い」です、というようなことを言っていますね。視聴者に、どっちもどっちではないということを考えてもらい、最後に、ここに訳されているメッセージが語られています。

1,Why did he become nomad ?
What is a world author ?

2,Why did James Joyce see himself 'Wild Geese" ?
What does it mean that Joyce was a " gastarbeiter' ?



昨夜観たベルイマンBergman「夏の夜は三たび微笑む」(1955) は、ベルイマンが世界に出ていくさきがけとなった映画だそうです。見事に、複数の視点が共に働く映画の例ではないでしょうか? (女性に抑圧的な)男性優位の社会がこの上に成り立つ、軽蔑の喜劇の三すくみ構造とは、法律家が神学生を軽蔑し、貴族が法律家を軽蔑し、神学生が貴族を軽蔑しているという構造です。これにたいして、女優を中心に、各々の幸福のテリトリーを守ろうと決めた女性達が団結して、逆に、この構造を巧みに利用することによって、(気がつかれないように) これらの男性たちを屈服させてしまうという、北欧の白夜のなかで展開されるこの軽快なドラマを大いに楽しみました。渋谷の帰り道、一つの視点に固執しがちな日本映画の多数派の貧しさについて改めて考えさせられました。この貧しさは映画にかぎりません。原発問題に言及するつもりがなかったのですが、結局、安全神話というのは排他的に巨大な一つの視点で、ここにわたしたちが縛られてきたのです。呆れたことに、3・11以降もなお、相変わらず、国が'新安全神話'という一つの視点しかもとうとしないようですね。それならば、逆に、このことは、今度こそ人々が複数の視点をもつチャンスがきたということではありませんか。芸術・文化も頑張る!

はらっぱの詩 ー本多敬

何かを欠いたものからしか、美やドラマが生まれない。
が、「完全な合理主義」の動物や虫だっているはず。
だから動物とか虫であること自体が偉いとは限らない。
何かを欠いた存在こそ欠けてはならないんだ。
記憶の中にはひそひそとまわりを観察する虫の世界があった。舞台へ行く。
風の振動に反応する強い感覚の虫たち。
食欲なき蜘蛛はチョウに朝日の光を贈る。
このチョウは立てないクワガタにダンスの贈り物を。
不良バッタ三匹とカナブンはそれほどひそひそとしておらず、
寧ろ堂々と人間が依拠すべき天を構成していた

東京演劇アンサンブル「はらっぱのおはなし」(関根信一演出) の感想文。

風の振動に反応する強い感覚の虫たち。食欲なき蜘蛛はチョウに朝日の光を贈る。このチョウは立てないクワガタにダンスの贈り物を。不良バッタ三匹とカナブンはそれほどひそひそとしておらず、寧ろ堂々と人間が依拠すべき天を構成していた。


講座「歎異抄の近代」について

,世界資本主義の誕生は12世紀に遡る。富の蓄積は教会に。逆に貧困の進めが貴族に大流行した。聖書の字面から貧困を学んだフランシスコは、平等を説くマルキシズムよりも遥かにラジカルだった。同時代の親鸞は、往生還相へ行く。教行信証の学問僧の教えは、ウィットゲンシュタインにおけるラジカルな哲学復帰を喚起する。
「言葉と物」「外部の思考」のバタイユ・ブランショ・アルトー・クロソフスキーの読みの問題は、二十世紀の解釈学に、17世紀の注釈学的視線がいかに遅れて批判的に介入してくるかを考古学的に考える問題であった。ポスト構造主義の「歎異抄の近代」では、二十世紀の昭和思想に、十二・十三世紀の「歎異抄」、「教行信証」が介入してくる。やはり親鸞にアプローチする方法は、仁斎の「論語」にアプローチしてきた方法である。「歎異抄」という<読むことが不可能な>テクストを、近代がいかに解釈し、そこのとによって自らの言説を構成してしまうことになるのかを子安宣邦氏は検証してきた。
近代の「歎異抄」の内部から内部に即して読む読み方として、暁烏敏の「私」の立場で読むの読み方と「公」なき国体主義がある。他に、鈴木大拙における浄土の国土的表象、大正ヒューマニズムの倉田百三と自然主義美学の丹羽敏が措定する反転の構造、民衆史の野間宏ぼ過去との迎合的和解が検討された。
「歎異抄の近代」は、日本知識人がいかに近代を超克するかを問うてきた。その鍵が、<流れ>、<開かれた空間の遭遇>、<ハイブリッド>、<問題提起>の4つである。「往生還相」は、吉本隆明に於いては、<流れ> (人と知識)である。「弥陀本願」は、滝沢ー西田の(超越者を侵犯していく)<開かれた空間の遭遇>として語られた。「絶対他力」は、清沢満之が依る(儒教的)<ハイブリッド>。「末法」は、三木清の構成していく反時代的な<問題提起>であった。「歎異抄の近代」の課題は三木において書けなかった部分を書くこと。すなわち、絶対的他力者は、現実の社会でどう生きていくか?という問題である。
末法とは、安倍の集団的自衛権と原発体制の近代である。無力な無数のひとりの人間が、われ=われ。いわばこの絶対的他力者について小田実「世直しの倫理と論理」(1972)が語っていた。小田実が生きていたら何を言うか?永遠に巻き込まれることに、STOP ! 巻き込まれながら巻き返していく

「歎異抄」は、<世界認識>の問題であって、<信>の問題ではないと吉本は言う。が、<知>と言おうと<信>と言おうと、親鸞のどの言葉に視点を置くかの問題であって、思想詩の本質に大きな違いがない。ただ「歎異抄」について批判を構成する言葉は、親鸞という主体の幻想とは交換不可能なはずなのだ

"もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"という人々は、原発と憲法を失ったかわりに何かを獲得できるとばかり安倍内閣を支持している。それによって限界なくグローバル資本主義に絡みとられていく。それにたいして、"もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる'というのが、私の構成。原発と軍隊とグローバル資本主義から何も獲得できないときにも、失うことができるそのなにかとは、自己のなかで、息苦しい全体主義に対してなお捨てきれずに抱いていたかもしれぬ、再びかれらがなんとかしてくれるのではないかという曖昧な僅かな希望である




いかに歴史を読むか?いかに歴史を書くか?

ヨーロッパにいたとき、異教徒の私に神の被造物か?と有難く質問する者がまだいたが(笑)、中世の時代には、アリストテレスのー天と地の間の連続性ーの言説が対抗的にあったという。生きし生けるものの各々に固有権が与えられた。王に対する封建貴族の反乱もこれに依ったのである。西洋政治思想史は明確な答えを出していないとおもうが、恐らくはこの固有権は自然権として再構成されていった。そして社会契約説の自然権的言説が新しく確立した後は、絶対君主が何からも制約されなくなるのだー市民革命のギロチン台までは。と、なんだか世界史の教科書みたいなことをうっかりと綴ってしまったが、これについては渡辺氏が大変ユニークなことを語っていたことを思い出した。(例の池袋駅前の大衆喫茶店で。) フランス革命と革命後の革命と反動の百年間が、120年後に、ドイツにおいてわずか30年間の間に集中的に繰り返されていた可能性がある。そうでなければ、20年後にナチスを現出させる、ワイマール共和期からあれほどの極端に行く混乱を説明できまい、と。フーコ的にいうと、渡辺氏は、異なる時代にずれ込む言説の地層をかくのごとく読んでいたのである。渡辺氏は、(相対的に) すすんだ他者とおくれた他者の両方をみる視点の必要性について語るのを好んだが、そのようにして知覚されてくる地層のズレの総体が歴史の空間として措定されてくる。いかにして歴史を書くか?おそらくこの空間は、知にとっては、平面ではなく寧ろ曲面として書くことがより相応しいものであろう。



いかに歴史を読むか?いかに歴史を書くか?

フーコ的にいうと、渡辺氏は、異なる時代にずれ込む言説の地層をかくのごとく読んでいたのである。渡辺氏は、(相対的に) すすんだ他者とおくれた他者の両方をみる視点の必要性について語るのを好んだが、そのようにして知覚されてくる地層のズレの総体が歴史の空間として措定されてくるのである。いかにして歴史を書くか?おそらくこの歴史の空間は、知にとっては、平面ではなく、寧ろ曲面として書くことがより相応しいものであろう。と、フランスと韓国・朝鮮を両方をいつも考えなければならないとか、ねじれ関係にある左翼的保守的と右翼的改革性とか、渡辺氏は色々と考えていたので、こうした'遅れ'のテーマは思想において切実な問題として欠かせなかったと思うのだが、それで、まあ、知の考古学というほどのものではないんだけれど、すこし自分に即していうと、僕は八十年代にシュムペーター・ケインズ・マルクスの古典にいたので、まさしく遅れの澱みとみなされていた存在だったなあ(笑)。当時は供給経済学・マネタリズム・合理的期待形成学派の教科書的知識を消費し、先取りしていると軽薄に思い込まされた学生たちが圧倒的多数派だった。が、この彼らは自分達が、現在不況の時代にあって、インフレ対策しか考えられないというワンパターンの頑迷な遅れとなっている事実に自覚がないのには本当に驚くばかりだね。現在の問題を構成しているのは、遅れた七十年代・八十年代の言説 (経済学・経済政策) が知を支配したまま雇用問題に有効な対策をとれないということにあるんだろう。多分つまり、言説を形づくる曲面が生存にかんする切実な問題を展開しているといわけさ...

No.1
Joyce's Ulysses is often treated as a definitive account of the mind of modern Europe in 1922, the year of its publication; but, for that very reason , it is also a recognition that Europe of itself was nothing without its colonial holdings. Ulysses is one of the first major literary utterances in the modern period by an artist who spoke for a newly-liberated people. The former provost of Trinity College Dublin, J.P. Mahaffy, clearly sensed Joyce's disruptive power when he lamented that his publications proved beyond doubt that ' it was a mistake to establish a separate university for the aborigines of the island, for the corner-boys who spit into the Liffy."That use of the word aborigines captures a central truth about James Joyce; outcast from Ireland, scornful of Britain, and uneasy about the humanism of a Europe to which he could never fully surrender, he became instead nomad, a world author.
Declan Kaiberd; Inventing Ireland 'James Joyce and Mythic Realism'

文学は一番抑圧されたものを主人公として設定してきた。これはジョイスが「ユリシーズ」でアイルランドで生まれたユダヤ系の人物を主人公にした理由。現在ジョイスが書いたら主人公は間違いなくパレスチナ人だと明言したのは、デビッド・ノリスであった。ジョイスの漫画本に異化効果を期待していた。肖像画はあえてこれを漫画として捉えようー意味された内容を称えることをやめるために。近代主義者が描いた<ある若い芸術家の肖像>は、近代主義者が描いた<ある若い民族主義者の肖像>でもあり得たが、ここからどんな肖像画も<近代主義者の肖像>の反復でしかないというアイロニーの感覚をもて!小説の根底に「反オィデプス」があるのは、それが、抑圧してくる<父>に対するたたかいと無関係にはあり得ないからだが、「反オィデプス」が<父ー息子>の二項対立の内部に絡みとられないように、この'反'の接辞後に'非'も含まれてくることは、近代主義者が描く肖像画が本来的に空白であることとパラレルだね

かくも、無感覚に、無気力にアメリカに追従する国があっただろうか?はっきりいわせてもらうと、間違ったことをしている強いものに対してたたかわないから、いつまでも「棄権」しているから、弱いものいじめに行くのだ。スケープゴートである、ヘイトスピーチの原因が究極的にここにある、と私は思う
ー> 7月23日の国連人権理事会で提出された、イスラエルの軍事作戦を非難する決議案の採択において、米政府は「反対」し、日本政府は「棄権」した

世界資本主義の誕生は12世紀に遡る。富の蓄積は教会に。逆に貧困の進めが貴族に大流行した。聖書の字面から貧困を学んだフランシスコは、平等を説くマルキシズムよりも遥かにラジカルだった。同時代の親鸞は、往生還相へ行く。教行信証の学問僧の教えは、ウィットゲンシュタインにおけるラジカルな哲学復帰を喚起する。(

文学は一番抑圧されたものを主人公として設定してきました。そうしてジェイムス・ジョイスは「ユリシーズ」で、アイルランドで生まれたユダヤ系のブルームを主人公にしました。現在彼が生きていたら「ユリシーズ」の主人公はパレスチナ人にきまっています、とデビッド・ノーリスがいっていました !
アイルランドに、教育の公的資金の援助を受けたパレスチナの若い音楽家たちもいた。実際はパレスチナの外に出てくることが命がけだし、なかには、3年間勉強した学生が帰国中に殺されてしまうことも。今後は、イスラエル軍に日本企業が製造・輸出した武器で殺される芸術家たちがでてくるということだ!

イラク戦争にたいする同時的デモの<あと>では、イスラエルに対する抗議の仕方が同じでなくなってきたのかもしれません。

イスラエルは、アメリカがインデイアンにやっていたことをパレスチナ人に繰り返しています。実際にパレスチナ人の多くは自分たちに責任のない理由で殺されています。ところで国際報道が強調するように、民族アイデンティティーの闘争という図式を与えられると、「これは解決できない問題なんだ。どちらもどっち」という風に人々が無力感を感じる危険があります。アメリカとイスラエルの市民の抗議も伝えられている中、グローバル資本主義の新植民地主義にたいする、横断的な市民的抗議の存在という新しい側面を見逃すことができません。イラク戦争にたいする同時的デモの<あと>では、イスラエルに対する抗議の仕方が同じでなくなってきたのかもしれません。


コピーが先、オリジナルが後、という不可思議

アイルランドにいくと、自己を保つために穏健なナショナリズムを持つ人々と出会うけれど、ハリウッド映画に出てくるような顕著な'民族主義者'の姿をみたことがなかった。IRAのシンフェインも元々は、草の根の市民運動であった。民族主義がいるのか、いないのかが問題ではない。だれが、民族主義者と名づけるのかという問題しか存在しないのだ。(佐藤優が巻いてくる、民族主義のアイデンティティーの闘争という時代遅れの一九世紀的事大主義主義的お話では、どこの国のどんな事件も理解できっこないんだな。) これにかんして、ポストコロニアリズム理論や従属理論が、いかにポスト構造主義に負うているかの興味深い例をひとつ紹介すれば全体像を捉えることができよう。さてアイルランドでは、文学や演劇が'祖母'を神話的に描いてきた。しかし現実世界では、'祖母'は民族主義の象徴とはなっていない。が、コピーが先、オリジナルが後という奇怪なことが起きた。ハリウッド映画が「祖母を守れ!」という偽のアイルランド人像(コピー)をつくり、シンフェイン党がそのコピーを利用したのだ。これは何を意味するか? 結果的に、選挙民のうちシンフェイン党に投票した人々は、ハリウッド映画の自分たちと関係がないイメージを、自らを表すオリジナルな肖像画として受け入れることになったのだね。これはアイルランドのメディア研究による分析である。

In Europe, too , the idea of natural order and the organic theory were not replaced overnight by the complete form of the idea od invented order, that is, the social contract theory or the mechanistic outlook. The discovery of the individual, as noted earlier, meant the individual's awareness of his own autonomy with respect to the social order, but this autonomy was not generally conceded to every individual straight away. This only became possible withthe diffusion of democratic political concepts. Historically, the absolute monarch, the representative of the modern unified state, was the first to appear as a person endowed with this awareness. The absolute monarch was the first historical individual to stand as an autonomous inventor with respect to every normative restrictions that preceded him. The medieval monarch certainly did not occupy such a position. in the Middle Ages, the organic communityitself, the embpdiment of divine reason (ratio divina), was the supreme authority, and the monarch had a particular place with a particular function within the order of the community. Thus the conflicts between papal right and state authority . as Troeltsch states, "not conflicts between Church and State but rather struggles over the share each shouuld have in the leadership of a combination of state and church activity that both occupied in principle. And the legal norms, in their most basic aspect, were seen as the self-expression of this combination of activities. In a sence the Middle Ages are the age of the rule of law. Ernest Barker states;
The lex which was lex to medieval thinkers was a law which did not proceed from a human legislature. So far as it was revealed, it was the stern daughter of the voice of God; so far as it was natural, it was the inevitable outcome of the reason in man, whereby he discovers the mind of God. From either point of view, it was universal and eternal, It permeated all human society; it knew no end of its validity. It followed that all human actions took place in a preexisting and all-determing atmosphere of law, and that they are valid when they comformed to its rules and inavalid when they did not.

This is the inevitable logical conclusion of the theory of natural order. Because natural law (lex naturalis) takes precedence over man, the authority of the monarch is stricly and rigidly limited. Political control entails first of all duties and responsibilities. A rule that violates these duties and neglects these responsibilities loses its legitimacy and becomes mere brute force. Medieval thought therefore drew the conclusion that the people have the right to resist a tyrant and in certain instances even to kill him. As the pluralistic hierachical power relations of the Middle Ages declined, the feudal aristocracy and the church took this theory of the right to resist tyrants in particular as their theoretical weapon against the emergent nation-state. Hences once the absolute monarch had succeesded in establishing a centralized, unified state, by a strong struggle against the ' vested interests' ( Wohlerworbenesrecht) of the feudal estates, he was inevitably freed from all the immanence of the normative order of his own free will and endows it with ultimate validity. The image put forward as a model for this relationship between the monarch and the order that he had invented and governed was none other than the relationship between God and the world. Carl Schmitt's thesis that 'all the important concepts of the modern state are secularization of theological concepts' finds its first historical confirmation here.

It is paradoxical but true that the history of philosophy from Thomas Aquinas , representing the high point of scholasticism, to Descartes, the founder of modern philosophy, is the history of a reinforcement of God's absolute, transcendental nature. Of course, in the Christian world-view it is universally recognized that God holds absolute and transcendental authority over the world order that he has created. However, in medieval theology, based on Aristotelian philosophy, the natural and supernatural were seen as continuous. The world order was conceived as an organic body stamped in every part with divine reason and one in which goodness is inherent. In their rational action, all men cooperate with the action of divine grace. There is thus a necessary inner connection between the otherworldly God and the this-worldly society. The intellectual currents of later scholasticism and religious reform, however, served this inner connection between God and the world and ascribed to God absolute freeddom. Duns Scotus rejected theories such as Thomism, whose value system was based on the purposes of things in themselves, as placing limitations on the divine will. The world is God's absolutely arbitrary creation, and all values are established after God's creative decision. Later, the nominalist William of Occam took Duns Scotus's theory of the supremacy of the divine will further and freeing God from the limitations of all Ideas, concluded that the relationship between the divine will and the content

パレスチナ人の多くは自分たちに責任のない爆撃で殺されています。イスラエルは、結局アメリカがインデイアンにやっていたことを、パレスチナ人にくりかえしています。たしかに90年代のコソボ紛争からいえることですが、アイデンティティの闘争は非生産的に危険であす。が、はたしてインデイアンがそんな「グレー」の領域で生き残ることがゆるされたかどうかをかんがえると、このアイデアにたいして悲観的な立場です。が、この現場からの貴重な声は、ほんとうに、真摯に耳を傾けたいとおもいます。新聞はつたえませんからね。アメリカが国連軍の介入を妨害しています。

最近わかってきたことは、安倍信者って、自分がオウムのように安倍のことばを繰り返していることに気が付かないのですね。「あなたの憲法の話は結局、安倍と同じです」と指摘すると、意外に、「ちがう!」というんです(笑)。ああ、こういう人は一応、個人主義的な前提をもっているんだとわかります。その証拠に、個人主義的に、自分の感じ方の多様性を重んじ、結構懐疑的なことも言えるのですね。靖国参拝する政治家がなにを考えているかなんて決めつけることはできないともっともらしいことをいうのです。が、すぐその5分後に、中国の脅威があるからみんなが安倍を支持する、と、「みんな」の頭の中をきめつけちゃう(笑)。改めて、彼らの言葉と真剣に取り合うだけ時間の無駄とおもうのですが、迷惑な存在だから、ほっておくわけにもいかない(汗)。と同時に、アニメや絵でかいたような民族主義者は存在しないのではないかと考えるようになりましたね。かれらは、なにか空ろな人生の目的に、(元々は左翼の近代主義者がつくったステレオタイプの)民族主義の言説をオウムのようにしゃべっているだけではないかと。そうして安倍のことばをオウムのように繰り返しています。おそらく安倍もそうでしょう。なにか気持ち悪いわけですよ、かれらは。近代主義の左翼のなかでしか生きられない影みたいな不気味さがある。アイルランドにいくと、自分たちを保つために穏健なナショナリズムをもつひとは多いですが、断言してしまうと、やはり民族主義者はいないのです。IRAのシンフェインも元々は、草の根の市民運動でした。ハリウッド映画で描いたような民族主義者はいません。逆に、ハリウッド映画のステレオタイプを利用して (映画の中のセリフ「われわれの祖母をまもれ!」)、北アイルランドのシンフェイン党が選挙宣伝をすることが起きます。そういうポスターをつくっちゃう。投票する人も、ハリウッド映画でやっていたこういう世界があったんだとはじめて知る。これはヘンテコな話。が、ハリウッド映画が(実際には存在しない)最後のアイルランド人みたいな像(コピー)をつくり、アイルランドの右翼がそのコピーを利用して自分たちのオリジナルな肖像画にしてしまう。つまりコピーが先、オリジナルが後、とはこのことです。

江戸時代なんかは、民族主義者の日本なんて、異常な言説とみなされてきたわけですから、かれらがいう「にほん」に江戸時代を入れると、うまくいかない(笑)。ちなみに、水戸後期の国体論者は、大陸の中国をシナと呼び、島国の日本を「中国」といい始め、'「中国」を取り返せ'と叫んでいたから非常に厄介ですねー(汗)。


何事も、比較の対象と比較の方法がポイント。そもそも戦時中に国に強制された性労働が問題となっているのです。慰安婦問題は国の人権を無視した犯罪が問われているのにたいして、ネトウヨ在特会が問題にしている「問題」は、女性たちを性奴隷にし搾取する業者の社会的法益を犯している犯罪。(私は売春は働く権利と考えます。)ネトウヨというのは、このようによく比較の対象と比較の方法を間違うだけでなく、いつまでも週刊新潮的レベルの知性しかないのは、'どこの国にも慰安婦がいた'というような論法で、日本政府が責任をもって解決しなければならない戦時中国が強制した性労働の問題を曖昧にし続けてきた態度に原因があるのではないでしょうか。

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7月 (後半2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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