言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT 2014年8月

<<   作成日時 : 2014/08/02 19:18   >>

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<帝国>といえ<一的多様体>といえ、絶対者の<一>の純粋さを表わしている点で両者に大きな違いはない。この<一>が<多>を包摂する歴史の意味に同一化するほど、精神の目的にとって無意味なことはない。「人間にとっての根本は人間自身である」(マルクス)。<多>の生産から、二十世紀精神は抵抗していく


フーコ「言葉と物」は、本が本の内部からその内部に沿って本自身を語るように、近代を構成する諸言説の成立と終わりを物語った。が、もし人間の根本が人間自身であると告げた最終章が不在ならば、本は歴史の<それ自身のために>の意味と、歴史の<人間登場のために>の目的との同一化の無意味に陥ったことだけはたしかだ

アイルランドの反植民地主義闘争と共に、文芸復興運は<なにかのために>あった。意味を失ったからこそ、抑圧してきた人々にたいして抑圧された人々はなにかを得ることができる。神話的な想像力を得たのだ。皮肉にも英国上流階級のイギリスに関する夢がアイルランド神話に投射されていたとしても、だ。ところが、ジョイスほど、反植民地主義の歴史の意味と文芸復興運の目的との同一化の無意味さをみた作家はいない。彼のリアリズムは、植民地化の過程で、人々が自らゲール語を捨てていった事実を決して見逃さなかった。無意味さから獲得できないときでもまだ失うことができる。この経験は、ベケットによって、抽象化の方向に極限的に推し進められていくだろう。

ハリウッドが映画を生産することは「何かのために」である。「夢の工場」は資本主義のために。それに対して、ゴダールが文字で描くことは、彼に作家としての生をもたらす「それ自体のために」である。「映画史」は、ハリウッド映画の歴史の意味とゴダールの目的とを同一化することの無意味さに震えている!


大島渚「アジアの曙」は、辛亥革命を物語った。日本人が、孫文支持者だった元留学生の同志達と、地方軍閥を倒し又はこれに助けられながら、袁世凱を倒す為に大陸へいく。最後に彼は、'中国は日本なくしてなく日本は中国なくしてない」の戦いの目的と日本帝国主義の歴史の意味の同一化の無意味さを知る

洗練されたコスモポリタン。ヨーロッパの中心にいたオーストリア人は、社交的で友達になってくれました。EUの仕事をする人々も多いようです。が、この彼らが東欧・南欧・イタリア南部の人々にオリエンタリズム的視線を投げかけるとき、やはり彼らの中で自分はアジア人なんだと思い知らされます。貧しくとも、若い人々がアイルランドに希望を感じるのは、おそらく、帝国の偉大な過去がないからではないだろうかと時々思い返します。この日本にも重い帝国の過去がありますから


なぜ、「内なる天皇」の克服を説かれても自分達を苦しめるファシズムの方へ行きたがるのか? 靖国参拝は個人のココロの問題だから誰も何も言うなという小泉元首相や安倍首相の開き直りの方へついて行くのか?私の「内なる天皇」について私自身の反省が足りなかったから、かれらがそう言っているのか?

本を読み切ってしまうときや
外国語で読むときにこういうことが起きる。

Lesen heißt,mit einem fremden Kopf statt dem eigenen zu denken.
読書とは自分の頭で考える代わりに他人に考えてもらうことである。(ショーペンハウエル)


「第三批判」の問題とはなにか?

カントの「判断力批判」は第三批判といわれる。「悟性」はその先天的原理によって自然概念を基礎づけ、一方「理性」はその先天的原理によって自由概念を基礎づけたのである。「悟性」と「理性」、この両者の認識能力の中間にあるのが、「判断力」の先天的原理である。しかしここで中間とはどういう意味か?「悟性」と「理性」は、<何かを失ったからこそ何かを得ることができる>世界だろう。第一批判の「悟性」は、「理性」との馴れ合いを失ったが、構想力の媒介によって「直観」との関係に入った。また第二批判の「理性」は、感性的欲望との馴れ合いを失ったが、「悟性」と「信」との関係を得たわけである。さて「悟性」が「直観」との関係に入るかは統覚の働きにかかっているが、ただしこの統覚をしてもこれほど異なる両者に共通の枠組みを与えられるかどうか?また「理性」の方でも「概念」との間に新しい関係を打ち立てるかは「信」に依拠するが、この「信」は「理」そのものの限界を言いだす危険もあるだろう。しかし理性そのものの限界はカントにおいて語られはしなかった。というか、語ることが不可能であった。理性そのもの限界は、語ることそのものの限界であるから。「第一批判」のカントが語っていたのはあくまで、理性の限界であることに注意しよう。カントがなしたことは、「理性」が自身の内部から内部に沿ってしか何かを語れないという態度を批判したことであった。例えば、これにかんして想起するのは、日本知識人に「固有」ともいうべき「資本論」の読みの特徴である。つまり現代資本主義を分析できない「資本論」の問題を解決するためには、再び「資本論」に依る読みによって解決するほかないという幻想のことだ。これは、「理性」が自身の内部から内部に沿ってしか何かを語れないという態度と驚くほど似ているではないか。「世界史の構造」が、テクストの空白に、<不在>を実体化していくー 帝国に収斂していく国家と民族と資本の<世界史>。こうしてこの不在に日本知識人の探求が自らのアイデンティティを譲渡していくのは、限界がないようにみえる。「現代思想三月号」以降、柄谷行人は帝国的東アジアの位置と機能をはっきりと語りはじめたが、かくも反民主主義的言説をいかに語りえるものなのか。
「悟性」と「理性」の認識能力の中間にあるのが、「判断力」の先天的原理であることはのべた。喩えると、「判断力」は、「悟性」と「理性」の土地のなかにあるけれどもその土地の一部になることは決して起きない。なぜか?「判断力」は、「悟性」と「理性」からなにも獲得することができないからである。「判断力」は、<なにかを失ったからこそ何かを得る>世界には属してはいない。寧ろ絶対他力的に、この「判断力」は (「悟性」「理性」から) なにも獲得することがないときでも、まだ失うことができるほどだ。こうして、対象の立法的構成性と客観的合目的性なき不定の主観的合目的性が「第三批判」において成り立ってくる。つまりこれが他者としての中間だ。他者として中間にある判断力とは、「不定」として生成する思考の過程にほかならない。ところで芸術の非本来制は純粋な観念を非観念('物')に依って表現する矛盾にあるが、同様に、思考の非本来制が終わりなく混沌とした観念を非観念('言葉')によって表現する矛盾においてあらわれる、と判断力は語る。だが「第三批判」が陥るのは、混沌とした無規定性によって包摂されてくる全体性の風景かもしれない。この非合理な受動性に流れゆく生命の存在論的言説が、民衆史の言説の青写真を構成する。近代国家の中に取り込まれた人々に共通のものを読む、反近代を投射した言説のあり方と無関係といえないだろう。そして「第四批判」を書きはじめたのは、ヘーゲルではなく、マルクスであった。現在進行中である


「首相に靖国に行かせてあげなさい」の言説は、欲求を中心とした国民道徳の言説である。その欲求の行きつく所が究極的にどこであったかをわれわれは歴史から学んでいる。つまり結局、軍国主義と戦争の人を殺す欲求にほかならない。このような欲求に永遠に巻き込まれないためにこそ理性が存在するでのあり、そもそもこの理性が成り立つためには、必然として信が成り立つだろうというのがカントの構成。つまりこれが'人を殺すな'の永久の自由概念をなすのである。われわれは戦後憲法の理念がまさにこの自由概念に依って構築されていることを知っている。その理念を放棄したら、われわれは誰一人も人間に値しないのだ!

ホホ〜、昨年末京都で一番感動したのは、山のサル君たちをみたとき。ぽかぽかした天気で、中には、背中の虱を相棒に取り除いてもらって目を瞑っているサルたちも。千年以上この頂から俗界をみてきた。繰り返し「人間どもはなんて馬鹿な営みを行っているのだろう」と嘲弄ニャリ?サルの気持ちになって短歌をつくる

天皇と寺社貴族と背の虱
山猿たちの
見えるかぎりの


ホホ〜、甲子園大会の実況放送は夏休みの終わりの徴ニャリ。ヤバイ、残された時間を充実させるためにこれから本を読もう!ただし、作家の過大なこだわりに座礁していると中々読めないです。直観の揺れかもしれません。そういう場合は、何とか諸々の要素に分解して分析しつくそう。そのうち読めます。だけどね、そうして本の出口に立ったとき、最初の悍ましい違和感がすっかりと消えていますよね。最後の最後に来て、分析そのものが無意味に思われてくる。本当に読んでいたのかと疑いはじめる。この空白感は、直観と分析は共通のものが無いことを告げているのかもしれませんーカントがいうようには。兎に角、結局、本を読むことができるというのは、( 冗談ならば別ですが)、まったく根拠のない風評の類と言わざるをえません。え?親切にこんなに言っているのに、それでもきみは読もうとするのかい!?暑さのせいか、それともアイルランドの妖精の悪戯か、おほほほーのニャリニャリ


'自分たちがなにをやっているのか
もはや誰もわからなくなっていた'
敗戦記念日

小泉元首相は「このおれにも信教の自由がある」と、憲法上の信教の自由を濫用したのは、もっぱら靖国参拝が自分の「ココロの問題」として考えていたからでした。こうして靖国神社の公式参拝を「ココロの問題」にし、首相の立場で靖国参拝を行ったことは、東アジアの平和を願う隣国の人々を裏切りました。憲法学の長老が批判していた、抑制を失った為政者たちのやりたい放題とは、このことです。(憲法の名宛人は支配者ですが、しかし小泉元首相も安倍首相もかれらは自分に都合よく被支配者になるのです。これがやりたい放題の意味です。) 安倍首相は靖国神社の公式参拝は「政治問題」に属する事柄であることをしっかり自覚していれば、かれは参拝を中止しなければならないことは当然です。実際に安倍首相が参拝をやめたときは、かれは政治問題だと理解したからからやめたのです。この点にかんして日本知識人のなかには、靖国神社は政治の問題ではなく「ココロの問題」なのだという者たちがいます。しかし安倍首相は「ココロの問題」だと理解したら、靖国へ行くだろう。現在は、東アジアの人々だけでなく、世界中の人々が、首相の靖国参拝が政治的になにをアジアにもたらしていくのかについてはっきりと知っています。'自分たちがなにをやっているのかもはや誰もわからなくなっていた' 戦中のように、再び、権力者たちが、首相に靖国に行かせる日本知識人とともに、世界から孤立しようとしています。

もし、Deleuze&Guattari 「アンチ・オイディプス 」('Anti-Oedipus' ) がまだ抵抗の書物として役立つとしたら、どの一文が一番大切かと問われれば、私はこの一文を指します。
「オイディプスはまさに極限であるが、しかし置き換えられた極限であり、いまやそれは社会体の内部に移行する。オイディプスは、おとりのイメージであり、欲望はそれに捕獲されるのだ<おまえが欲しがっていたことは、あれなのだ。脱コード化した流れとは、近親相姦のことだった>」
ここで精神分析のテーマである近親相姦については、初めて読んだ人にはピンと来ないかもしれないが、要するに、Deleuze&Guattariはココロのことについて言っています。そうして最後の一文に文脈を与えてもう一度読んだものを最初に示します(A)。そして田中克彦氏の最新本(「従軍慰安婦と靖国神社」角川)を宣伝した新聞広告(B)と比べてみましょう。

A <従軍慰安婦と靖国神社公式参拝にかんして、おまえが欲しがっていたことは、あれ(日本人のココロ)なのだ。脱コード化した流れとは、日本人のココロのことだった>

B "これは日本人のココロの問題なんだから、政治問題にすべきじゃないんだ!"

さて'日本人のココロ'という言葉は、Deleuze&Guattari が警戒した、'置き換えられた極限'として登場しています。しかし人々が欲しがっているのは、東アジアの信頼と平和的共存です。そのために、従軍慰安婦と靖国神社のことを、アジアと世界の人々とともに徹底的に政治問題にしています。この安倍に対するたたかいをご理解して下さい




中国がかんがえていることは、もし朝鮮の崩壊が起きたときは、中国のもとに、韓国サイドで半島の統一化を行うというものです。豊かな韓国側は拒むかもしれませんが、東西ドイツの統一を参考にしながらこれを進めていくだろうと。天安門事件以降、中国はあれだけの権力内部の腐敗があっても、朝鮮崩壊後のアジア像をもっているのと比べて、日本は3・11みたいな崩壊が起きると、ますます近視眼的になり未来がなくなってしまう。原発輸出とかそうですが、現在儲かればそれでいいんだという、ある種のパニックですよね。現在の中国共産党が恐れている全体主義は文革の復活ですが、自民党が恐れている全体主義は戦前の復活。戦争によって安倍が牽引する国民の熱狂は、(文革以上に)、コントロールできないものとなるかもしれません。保守リベラルの言論も無感覚に、現実的であれとしか繰り返さないシニカルな馴れ合い

まず最初に、新橋の本社ビルに詰め込むことぐらいの責任が東電にあります。ここが原点。ここからブレてはならないということをあらためておもいました。そして持っている人に返すという所有物の帰属という理由のほかに、もし原因をつくった東電と最大の電気消費者であった東京都が引き受けなければ、福島にたいしてはたして公平といえるだろうかということも大切な理由だと考えてきました。この原点から、第二、第三候補地についての言及が可能となるわけですね。小出さんは科学者としてはもちろん、市民として誠実な正しい発言をおこなっていると思いました。

日経新聞を一週間読んで御覧よ。困難な自然エネルギーや核ゴミ処理技術開発について書かない。'日本は経済は一流、だが政治は'、と、都合のいい政経分離がTLで過った気が。これほど汚い現実をみない幼稚な保守リベラルは外国にあるか?リベラルなき'保守馴れ合い'さんなら、安倍さんがお待ちです

新しい知と古い知

なぜ新しい知とは常に最初は、これを物語る認識の視野において、古い知に置き換えられてしかあらわれてこないものなのだろうか?知の考古学的地層とは、知の新しい地層がいかに、知の古い地層によって置き換えられているのかをみる学的知である。これについては、人間が未知のものを直にみることの怖さから自らを防衛するときに頼らざるを得ない能力ー置き換えの能力というものが関係しているのかもしれない。ちなみに映画と夢と詩において最も本質的なものが置き換えである。さてここでは、数世紀の間かけてできあがった21世紀のグローバル (資本主義)モデルと呼ぶべき新しい知の地層に、'中国モデル'とか'米国モデル'とかいうそれほど根拠もない贋のモデルが指示されてくのも、置き換えの結果であろう。知の新しい地層に沿って、グローバル (資本主義)の動乱がグローバル (資本主義)の動乱としては認識されることが一気に生じない。市民的抵抗が市民的抵抗としては中々認識されない。もっぱら、知の古い地層の内部からその内部に沿って、市民が主体となる抵抗のかわりに、国家が主体となる抵抗にと置き換えられるだけである。さらに、知の古い地層では、市民的抵抗があたかも民族主義の独立として読まれてしまい、そこから、統覚的に、互酬的暴力のカオスに限定をあたえる帝国の役割という全体性が一方的にいわれてくる (柄谷がいう'中国の帝国')。何が必要か?ベケット曰く、ふたたび終わるために。そう古い知に終わりが必要だ!


MEMO; 最近興味をもって読んだ朝日新聞でのインタビュー

Gates Gillesによると、中国モデルというものは存在しない。アメリカモデルすら存在しない。存在しているのは、数世紀にかけて世界中のあらゆる国ー中国も含めてーがその部分になることを望んだ、そうして世界中のあらゆる国に隈なく発展していったグローバル・モデルだけだ。

To suggest China has developed some kind of new international system or model, I don’t know what that means. If what they are talking about is the domestic political and economic system of China, that, too, is naive to suggest that somehow that, in and of itself, is a successful system.
I don’t quite understand what is meant by the “China model.” There’s no such thing. There’s not even such a thing as “the United States model.” There is a predominantly “global model,” which has evolved over several centuries that almost every country in the world wants to be a part of, including China.

大島'アジアの曙'の主人公'中山'は「日本人でない」自己の役割に意識的で、この人物が知覚する周囲女性達も国籍不明に外人外人している。メイクに関心がなかったが、女優の洋画に基づいた化粧の効果を考える。見る人の知覚を規定してくるものとして今の芸能人が日本人日本人しているのも化粧による

憲法は、フランス革命の人権宣言の継承者か?確かに両者の書かれた内容に重なり合う共通のものがあるが、書かれた言葉がいかなる政治的意味を持つかと問うと、現在は08憲章の方が人権宣言と重なる。社会契約思想とマルクス主義のように、誰が法を制作するのかという視点は、徂徠において出されていた


08憲章を読んだ日本の右翼的中国研究者達は、書かれた内容に沿って読んだ。書かれた言葉が何を意味するのか、と、外部から書かれた言葉をみたら、08憲章がそれほどネオリベ的ブルジョア憲法の陰謀とみえたかどうか?「事件としての徂徠」は08憲章の前書きをなした。永久不変の体制など存在しない


ガザ地域などの占領によって現在イスラエルが毎日おかしている最悪のことに比べれば、かつてのアパルトヘイトなんかがまともに思えてくるから恐ろしくなる。(チョムスキー)


まだイスラエルがガザを壁で囲いきってしまう前のときでしたが、イスラエル商品のボイコットを呼びかけに来た女性の市民運動家がいました。ダブリンでの講演会のとき、状況をあまり正確に理解できない聴衆をまえに、南アフリカのアパルトヘイトと同じような状況が起きているというふうに一応想像してもらったらいいかもしれないと説明しました。現在はその壁が完成しています。ところが、いま述べた、イスラエルの占領の性質を南アフリカのアパルヘイトのアナロジー(類推)で喩える観方に対して、チョムスキーによると、このアナロジーでも、かえってイスラエルの暴力を正当化してしまうほど最悪の事態がガザにおいて進行していると警告しています。例えば、かつて南アフリカは隔離しても85%の黒人の労働力を産業のために必要としたが、イスラエルの場合は、パレスチナ人をひとりも必要とせず、全員を追い出したい。つまり囚人として追放するつもりだと指摘。壁の内部では、パレスチナ人に対する数えきれない排除と差別が行われていると、米国のテレビ視聴者に訴えています

NOAM CHOMSKY: Many reasons. Take, say, the term "apartheid." In the Occupied Territories, what Israel is doing is much worse than apartheid.( ...)
The Israeli relationship to the Palestinians in the Occupied Territories is totally different. They just don’t want them. They want them out, or at least in prison. And they’re acting that way. That’s a very striking difference, which means that the apartheid analogy, South African apartheid, to the Occupied Territories is just a gift to Israeli violence. It’s much worse than that. If you look inside Israel, there’s plenty of repression and discrimination. I’ve written about it extensively for decades. But it’s not apartheid. It’s bad, but it’s not apartheid. So the term, I just don’t think is applicable.


首相は、集団的自衛権行使を認めることが抑止力になると言います。

 「抑止力とは、相手との関係を前提にしています。米ソが核配備を競った時代も、米ソが世界を二分するという共通利益があったからこそ、抑止力は利いていた。安倍首相は、村山談話や河野談話をないがしろにし、中国、韓国との首脳会談も実現していない。東アジアの共通の利益を探す努力なしには、抑止力は成立するはずがありません」

 「私は現在も将来も、憲法9条に触れることに反対の立場です。ただ、戦後日本が歩んだ道を積極的に確認した上で、戦前戦中の歴史への立場を明確にし、東アジアで相互理解を進め、国民のコンセンサスを得て9条を改正する選択は、ありうる。そうした『まっとうな9条改憲論』も、安倍首相はぶち壊した」

(憲法学の長老、樋口陽一さんに聞く)



田中克彦氏への質問

靖国神社の公式参拝は政治問題に属する事柄であるからこそ、首相として安倍は参拝を中止しなければならない。実際に安倍首相が参拝をやめたときは、政治問題だからやめたのである。しかし新しい本のなかでご指摘のように、靖国神社は政治の問題ではなく心の問題としてしまうとしたら、安倍首相は靖国へ行くだろう。小泉元首相は憲法上の信教の自由を濫用したのは、靖国参拝が自分の「心の問題」として考えていたからでした。
こうして靖国神社の公式参拝を心の問題にすることは、安倍の靖国参拝を容認することになり、このことは、東アジアの平和を願う隣国の人々を裏切ることにはなりはしませんか。真の知識人としての責任とは何でしょうか?靖国の死者すら差別していく戦争神社への道ではなく、世界の人々との平和的共存への道を歩む選択こそが、真の知識人として引き受けるべき責任ではないでしょうか。

戦争責任

え?十代と二十代の境目が一生を決めるほど大切なの?いまごろそんなことをいわれても、もう超手遅れですわ (笑)。思い出すと、退屈な高校時代。唯一活発だったときは、旧図書館の教室にあった本箱の「世界」バックナンバーを読みあさったときだったが、中でも、核開発に関わった科学者の父親を弾劾した娘の告白文に衝撃を受けた。結局役に立たなかったけれど、十代と二十代の境目のときに、大学生が読むような本に書いてあった刑法の責任論に少し関心があったのは、やはり戦争責任をいかに考えるかという視点を持ちたいと望んだからかもしれなかったね。さて、言論の自由がなかったのに、知識人の転向後の発言を過大評価すると、現在の話だが、弾圧する体制は拷問をやめないだろう。このことは明記すべきだ。ヨーロッパではそういうことをきちんとわきまえている。日本の思想家の戦争責任を問うとき、自由な言論の可能性があった発言が構成要件的な対象となるべきだが、ただしこういう風に言葉で整理するようには簡単に思想は分節化できない。民衆感情的には、けがれなき真理の人が称えられる。しかし思想にたいして'間違える権利'を与えないと、結局、こういう国は戦争と同様の悲惨と恐怖が起きる。魔女狩りに先行して、(最初の無神論たちとなっていく'大きな間違い'を犯した) 自由に考えるはじめたユダヤ人たちが弾圧され追放されたのである。

高等法院はヴォルテール『哲学書簡』を「宗教と社会秩序にとって、もっとも危険な放縦を思いつかせるのに適した作品」として、有罪の判決を下し、書物を焚書にして、著者追求の命令を出した。
フランス革命直前の数年間、アンシャン・レジームでのブルジョワと貴族の諸特権の保護への高等法院の非常な関心はフランスにおける様々な改革(とりわけ税制改革)を阻害し、理論上は絶対王政を支える改革であっても抵抗した。高等法院のこの行為がフランス革命以降、フランスの裁判所がフランス民法典第5条によって法律の制定と立法機関として活動することを禁じられ、権限を法律の解釈に限られた理由の一つである。ナポレオン法典以降、フランスは判例が普通法の国でほど強力ではない近代大陸法制度の起原であった。先例遵由の法理も最高裁判所もなく、裁判所の違憲審査権もないフランス法制度の弱さの原因は「司法官による統治」との敵対に起因している (WIKI)

言説から自由に考える人は存在しません。思想の問題とは、言説と言説との交通の中に囚われている人間が、この交通に巻き込まれ始めても永遠に巻き込まれることに終止符をうつために、いかに批判的な外部性に存在するかにかかっています。デカルトの問題提起はこの自立性のなかに人間を置くためにあったのではなかったか。原発問題も思想の問題にちがいありません。

日本知識人は「資本論」が思考の起源の如く存在することを教えてきた。「資本論」は民衆史の言説の内部からその内部に即して読まなければならないとき、いかなる根拠のもとに私は近代国家の中にはめ込まれたに過ぎない人々に解放のユートピアを読み取らなければならないのかとする問いが禁じられる。例えば、資本制生産の本源的蓄積は、植民地主義と一体の近代化のプロセスであった。このプロセスの<ポジ>に、'正しい'近代化を実現していく可能性があった民衆像の<ネガ>を読み取ることにいったいどんな根拠が?講座派のようには、近代化の背後に正しい時間発展の物語を読み取るわけには・・・。この点に関して英国のプロレタリアートが自らの足で立とうとすれば(植民地化した)アイルランドの安価な労働力の移入を制限する必要があるといったとき、ここでマルクスは、「資本論」の民衆史のようには、前者に'あるべき'近代化を実現していくはずだった民衆像を深読みしていたわけではないだろう


ベルイマン「冬の光」は、神の沈黙とも聖職者とも関係がない映画だ。それは、崩れたバベルの塔のお喋りの如くある「資本論」的普遍的知に依存する近代の終末的恐怖を物語る。知識人の民衆史を演じる苦痛の中で、盲目的に再び、指導者としてのモラルの掟に従う内に現れてきたサド=マゾの倒錯を嘲弄した


一般的にいって、同じ言説が、歴史によって、進歩的であり逆に反動的になったりします。最初に進歩的だった言説が、状況の変化の中で、反動的にもなりうるということは自覚しなければなりませんー自己批判を込めてですが。言説の戦略を展開する必要があるのは、同じことが反復しないからです。フランス革命の例でもいいんですし、自民党が理解している自由と民主主義でもいいんですが(笑)、運動との関係において観察したら、そりゃ、永遠不変の言説なんか無いのは明らかでしょう。もしあるとしたら、それは、宗教上の教説に陥っている言説か、上流階級が自身を称えるアクセサリーとしてのモラルに属する言説かです。あるいはまた、古典となってしまった言説の両義性ですよね。日本人知識人は、古典を、思考の起源にしてしまう傾向があります。たとえば、ジジェクの縁の人の本を読んで、ノンポリ日本人研究者のひとりが、ドゥルーズのテクスト(アラファトのゲリラの見えない戦争を研究した) が、いまやイスラエル軍によって研究されていることを知って「くやしい」などとパフォーマンスをやっているようですが、「おまえたち、そんなことをいま頃知ったの?もうあれはもう古典なんだから結局どちらの立場からも読まれ得るんだよ」と言いたいな。そして疑いなく彼らが依存している、そのジジェクだっていつまでも、左翼的ラディカルと思いこまないほうがね (チベットに関してはかれの左翼性は疑問ですから)。ジジェクのような人は本質的には左翼でしょうけれど、風貌から言っても(笑)、ただし他の言説の影響を受けて間違った右翼的なことをいう可能性がどの思想家にもあるのはむしろ当然の事理。結局、言説から自由に考える人は存在しない。言説と言説との交通のなかにとらわれている考える人がいかに、考えるために、批判的な外部性をもつかということにかかっているとおもいます。(場合によっては、宗教を利用することも起きるでしょうが、思想が宗教そのものとなったら無意味ですね。)


昨夜は渋谷へ。(非)「文化村」の近傍にある、異文化ゾーン!に位置する映画館へ。ベルイマン「冬の光」「夏の遊び」を観た。「夏の遊び」が終わったあと、やはりこれを観ていたという大鷲さんが廊下で声をかけてくださった。お互いに感想を語り合っていると、清野さんもいらっしゃった。若者の熱気がこもる帰り道に、映画にちなんだ詩をひとつこしらえてみたー

記憶の河が流れゆく
夏の遊び
一度だけしか生きない者達の
空と海を結びつけるだろう
その内部では、白夜の神の沈黙が
梟の声とも気がつかず、潮が引いたとき
7つ目の城が崩れた。外部に帰っていく
男達と女達は天の楼閣を超えようとして、
楼閣を崩した
神の沈黙に再び委ねたことを後悔した

二十代のときは、経験もあり色々と考えているはずの年上の人々が寡黙なのに気がつきました。なぜだろうか?さて順番通り自分がその年上になると、経験が少ないから考えるのが難しい年下の人々には、一番大切なことだけを確実に言い伝えておこうかと思い、どれにするかと悩むうちに面倒になることが分かりました。つまり恐らくこれが寡黙に陥る理由でした。だが過去の自分に向かって言うつもりで敢えて二十代に言おうじゃありませんか、世の中で一番大切なことを。一言、一言だけ。諸君は生まれてきた以上は、ベルイマンの映画は必ず一本は観ておけよ。「第七の封印」Det sjunde inseglet


日本軍の慰安娼婦の問題は、日本の戦争責任の問題である。「他国にも同じようなことがあった」は、日本の戦争責任を曖昧にする許し難い態度です。これと同様に、今村仁司等のオタク知識人達ーいわゆる'フランス現代思想'ーが、日本の暴力の問題についてレヴィナスの暴力論(ナチズム)を援用するとしたら、やはりそれも日本の暴力の問題を曖昧にしていく許し難い態度ではなかったでしょうか?


1918年は、シュペングラーSpengler [西洋の没落」(第一巻) 刊行の年。この十年代から十九世紀が終わり二十世紀が始まるとされるが、渡辺一民氏「二十世紀精神史」も、1910年代のヨーロッパと大正の日本の比較からスタートした。1910年代といえば、この時代のウイーンは、解体したオーストリア・ハンガリー帝国まで視野を入れると、二十世紀の大きな仕事が十年代にでてきている。ヴィットゲンシュタイン「論理哲学論考」、ジョイス「ユリシーズ」原稿執筆、シェーンベルクの無調等々。実際は理解して読めていなかった聴いてもいなかったのだが、二十代の間に読んだり聞いたりした本とか音楽だな。ところで大正の作家に尊敬を受けている連中が多い。補習校で教えて気がついたが、中学校の教科書が大正の作家ばかりとりあげている。(まだ騙されやすい年齢の時につまみ食いするから?)。大正というのは、この大正文学をはじめ、明治の大理想を非常に世俗化した卑小な精神で語る言説空間。この空間は矛盾だらけさ。例えば上流階級が所有している知を取り返せ!という大スローガンで、それを体現する形でコンパクトな世界文学全集なる矮小なものが現れてくる (笑)。大正デモクラシーという大スローガンのもとで、(明治から発展してきた)帝国主義体制ー植民地主義の剥き出しの欲望が完成してくる(汗)。今日における高い内閣支持率と絶対平和主義の集団的自衛権の「痛い」原型といえば原型かね、大正は。但し決定的な違いは、現在は教養の担い手である中流が不可逆的に急速に崩壊しつつある。これはなにを意味していくのか考えていく必要がある。

「世界史」というのは本当に危険だね。たとえば、外国の学校では、「古代」から語り始めて「近代」に至る「世界史」の科目は、存在しないという事実をおさえておいたほうがよさそう。ところが(文部省に都合よく)日本人だけが教わる、(京都学派に由来する)この日本人的な世界史が、(世界から孤立してしまう)日本人の日本人的な見方を規定するから、凄く厄介なんだな。つまりここで言いたいことは、近代的な民族概念が普及してくるのは、やっと、十九世紀国民国家成立の後のこと(1870年以降を近代とすると)、という点だ。だから、古代に遡るとあの土地に元々誰がいたはずだという言説は、「諸君の足元の大地を深く掘っていくと自ずと靖国神社が現れるはずだ」という類の偽文化概念である。勿論言うまでもなく、その靖国神社は明治になって近代国家によって作られていく近代国家の発明物だ。近代に作られた物が古代において存在するはずもないのだが、「世界史」に洗脳されつくした国民は簡単に、偽の骨董品を高値で買わされることになる。

安倍内閣の個別具体的な政策を評価しないが、安倍内閣に国民の50%という高支持率があるとすれば、このシステムは、フィードバック制御が故障しているのか、あるいはまた、非常に単純なことですけど考えておかなければならないポイントとして、(システム) 自らに終わりを齎すほどの環境の変化に適応できないという限界をあらわしています。'内閣'と'国民'、あるいは'選挙'は無意味ということではないけれど、このシステムだけでは、原発・TPP・集団的自衛権の難しい問題を解決できないということが明らかになってきたのではないでしょうか。自民党が依存してきたような、大きな人間を<選ぶ>民主主義の繰り返しではなく、むしろ、小さな人間たちが<話し合う>民主主義の発展からしか、市民たちが真に自分たちが必要する根本的な解決の方向が定まってこないと益々考えるようになりましたね。

柄谷独自のコンパクトな多義性の尺度では、宋はそれほど帝国的だったか?この時代に朱子は、アジア的社会構成体の互酬制から国家への移行を証言した「論語」を読んでいました。そして朱子の読みは、江戸時代の仁斎が京都の古義堂において、商業資本 G-G'の台頭の中で批判的に読んだのです。2014年現在、子安氏におけるこの仁斎の読みは、他でもないグローバル資本主義の危機がまさに促すものではないでしょうか?鍵となるのは、文献学と注釈学と、市民社会のマルクス主義的ポスト構造主義です。 このように原初的テクストの読みにおいては大きな歴史が互いに繋がり合っています。

伊藤仁斎が瞑想中心の知のあり方に限界を知るのは三十歳半ば。仁斎が部屋から廊下を横切って庭に出たとき、それは朱子の宇宙的精神主義の連続性を立ち切る流れ、言い換えれば、孔子の十余年間魯を去って諸国を歴遊した流れに再び繋がる流れを構成しました。17世紀の東アジアの知識革命はこの家から起きるのです。つまり、武士が台頭してくる近世に、朝廷・貴族・寺社が独占していた学問(儒学)に、商人をはじめとする民衆がはじめて接近することが可能となったということです。

今日書店に並ぶ現代語訳「論語」のハウツー的入門書や解説書はむしろ、"もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"と期待する人々の為のものです。読者は、再び彼らが依った言説から内部の世界に何かを読み出すために、そうした身体の礼儀作法を教える功利的な言説を必要とするのであろうか。
呪縛してくる言説のあり方を問う意志というのは、"もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる' と、絶望しきった絶望感からしか到来しないのです。だから仁斎は「天道」を再び言ったのです。「論語」は専ら知的論争の方向に沿ってラディカル化しハイブリッド性を極大化していきました。一方礼の言説は極小化されていきました。

小林「本居宣長」も山口「文化と両義性」も、マルクス主義の貧しい単一的リアリズムを批判した問題意識から書き始めたにもかかわらず、再び単一視点に絡みとられた文学的読解・人類学的読解によって、二十世紀の「古事記」を祀る国家=戦う国家のために作り出していったのではないでしょうか。九十年代に「遅れてきた」子安宣邦の思想史転回は、七十年代・八十年代のそれらの知的へゲモ二ーの外部から現れて来たのであったー今日「論語塾」においてたたかいは継続中です。単一視点に絡みとられた文学的読解・人類学的読解にたいして、仁斎とともに読む「論語」の読みが織りなす、定義を避ける問題提起的な、文献学的視線を含んだ注釈学的思考が導入されてくることになります。このような注釈学的思考は、同じ重要な問いのもとに執拗に繰り返し帰っていく多孔性の抵抗の思考。「論語」のダイアローグの力はこの多孔性にかかっていたといっても言い過ぎではないが、この注釈学的思考は柄谷行人において決定的に見失われるものであろう。現在柄谷が行なっていることは、グローバル資本主義から起因する動乱を民族問題として整理し「帝国」の中心的役割をいう言説を蘇生させることに言い尽くされるが、このように彼が市民的抵抗を見ない態度は、古代のアジア的社会構成体の移行をみるとき、いかに、すでに注釈学的思考のノマド的問題提起が「国家」を植えないために戦争という形の多孔性をもたらしていたのか、そしてこれを時間的な発展の必然性に沿ってとらえなえなければならない観察を消去してしまったことにあわらていたのです。

アフガンも米軍にとってのレジャー施設または保養地であったと、当時を知るアフリカ人からきいたことがあります。たったひとりのアメリカ人に、何十人のアフガン人が召使として奉公する典型的な植民地世界ができあがっていたというわけです。ネネリベのフリーマーケットの世界でもありますから、公の学校もない。たしかにタリバンは色々と問題があるわけですが、すくなくともアフガン人たち読み書きができるようにした。ほぼ100%の文盲率が半分になったという報告も、割り引く必要がありますが、100%ではなくなったことだけは信じてもいいとおもいます。こういう前提を知らないと、アメリカがタリバン政権のアフガンを爆撃しつくした問題が理解できないですね。



英米仏の新聞だけでなく、現在はアイルランドの新聞もネットが運んでくるようになった。時々は海外で読む。日本での読みを相対化する外部を失いたくないから。更に、この外部を構成する英仏独中心の言説を相対化していくのが、地方新聞。ある時期、地方新聞を読むことが大切となったとスイスの映画監督が言っていたようにね。読みにおける外部の位置を確保し、ただしそれに絡まれることなく、その外部から更に外部の外部へと移動して、いかに認識を変化・運動させていくか?新聞を読んでいる人間を結構軽蔑しているんだけどね(苦笑)、 敵にやっつけられないために読む

単なる勲章ボケでなければ、元親社会主義者でも、象徴天皇制にかわる程の強力な共和主義的理念を構築できなければ、天皇廃止を言い続けるのも困難だったろう。横田の過去におけるケルゼンの取り組みが、英米型違憲審査権の実質を破壊してしまったか?彼の影響か、憲法裁判所の様に捉えている人々もいる


これは戯曲を修正した赤ペンではありません・・・

頭の中に'男尊女卑'の四文字で詰まっている、時代遅れでお馬鹿な自民党タカ派たちは、敗戦後アメリカの占領軍から押しつけられたというわりには、時代遅れでお馬鹿だとしても、かれなりの憲法を根本からつくればいいのに、そんな構想力が微塵もありません。そもそも自分たちの信条(あれば、の話だが)にすらろくに信頼しはしていないので、自分たちの改正案にあるような「公益」「公の秩序」を害する活動が、たとえば、原発再稼働・集団的自衛権・TPP・靖国公式参拝に反対する意志表示 (さらに男女平等を訴える意志表示)だということを具体的に列挙する勇気もないことがバレバレ。確かに表現の自由の規制によって演劇の将来が大変心配。また本当の意味で演劇はヤバイのは、検閲される危機のほかに、時代遅れでお馬鹿な自民党タカ派が演出する<最悪の演劇>が台頭してくるからですーかれらがまき散らす<最悪の映画>である戦争とともにね


‏呪術的世界
【道】を歩することは、神と接し、神と合体することであった。【道】は歩むべきところであり、通過するところではない。白川静

大雑把に言えば、儒教は、前儒教、原儒教、経学儒教、という風に発達し、我々は、経学儒教のフィルターを通してしか儒教を知らない。経学儒教のイデオロギーは孔子(コンフューシャス)の儒教すなわち原儒教(プロトコンフューシャニズム)を見えなくしている。
「市民」なんて言葉も左翼運動の中で使われ始めたのは60年代半ばからなんだよ。それまでは、政治的に軟弱というむしろ悪い意味の言葉だったのが、67年の羽田闘争あたりから意味が変わってきた。
正義は士大夫が語る。ゆえに、士大夫は民衆よりエライ。エライにもかかわらず、士大夫は民衆と本性が同じだ。と、ほかならぬ士大夫が言う。士大夫が民衆と本性を同じくするという実体的保証が"孝"である。士大夫である孔子は、下層の巫女の子として生まれたのである。
朱子学体系は、世界を一元的に捕捉しようとする。その情熱は、マルクス、エンゲルスの共著『共産党宣言』の結語「全世界を獲得するために」を想起させるほどだ。だが、徂徠の鋭い指摘は、その朱子学体系に強烈な楔を打ち込む。政治規範は、あくまでも人工的な制度にすぎない。

馬鹿は村の秩序から外れた丘の上にいる。秩序から外れなければ、風刺する愚者は成り立たないのだ。秩序から外れ、村人から差別され、そのことによって聖なる白痴は政道を批判し、社会を批評する特権を授かる。この特権は蔑みと畏怖の対価である。しかし、今、馬鹿は本当に丘の上にいるだろうか。

地下茎になっています

「しかし、今、馬鹿は本当に丘の上にいるだろうか」呉智英

ナショナリズムの最終形態とも言うべきファシズムは、E・フロムの指摘によれば、自由になったはずの人々の『自由からの逃走』であり、それはまたルソーの言う「一般意思」の実現でもある。

簡単に言えば、新左翼は原理主義なのであり、旧左翼は修正主義なのである。新左翼は知識人的で夢見がちであり、旧左翼は庶民的で現実的なのである。
旧左翼は正しい安保認識ができなかったのではない。しなかったのである。

国家独占資本主義の最終段階としての帝国主義は、危機を乗りきる決定的行動として、通常の階級支配形態であるブルジョア民主主義政府から、排外主義的な公然たるテロリズム独裁政府への移行を、中間層の不安をかきたてるデマゴギーを流しつつ行おうとする。これがファシズムである。

史記はまた、孔子死後の弟子たちの行動について、こう伝える。孔子は死後、魯城の北、泗水のほとりに葬られた。弟子たちは三年の喪に服した後、各地に散っていった。ただ子貢のみは、孔子の墓の傍に庵を作り、六年の間そこに留まった。
子貢は、孔子の最も良き理解者であったのかもしれない。

渋沢栄一は、通俗的な『論語』入門書の著者や読者とちがって、『論語』が"危険な書物"であることを知っていた。知っていた上で、それを飼い慣らせば、資本主義を支える倫理となることに気づいたのだ。毒を薬に変えた者のみが、毒が毒であるゆえんを知っていたのである。

呉智英

人生の意味、人生の価値について問うた瞬間、人は病む。(フロイト) In dem Augenblick, in dem ein Mensch den Sinn und den Wert des Lebens bezweifelt, ist er krank.


フェイスブックで米軍基地について新聞が書く程度の批判的なことをかくと、沖縄の米軍の家族から抗議のコメントが猛烈に来ます。毎年うんざりするのですが、(別に、家族についての批判をしているつもりもないですから。米軍基地を批判しています)、そういう記事は翌日ウオールから削除されてしまうことが多々おきます。これとは別ですが、アメリカのTPPと中国の中台貿易からみえてくる未来図としては、東アジアはいずれアメリカの帝国か中国の帝国かに分割されていくという予想もあります。安倍の集団的安全保障体制のごり押しをみると、正直いって、なにをしたいの、一体あんたは?なんですが、とにかくやっきになってアメリカの帝国の一部にはめ込まれたいようですね。帝国の一部になることが先なにをしたいのかは後。今後思いやり予算という名称のままかわかりませんが、こんなものじゃすまないでしょう、最低でも十倍ぐらいいくのじゃないですか?というか額が無記名の白紙手形かも。政府同士がやろうとしない、東アジアの平和戦略を誰かが、(やはり国民同士でしょう)、なんとか構築しないと、こういう馬鹿げた軍事費用が爆発的に膨張しまう。原発の環境問題に必要なのに!

中国がかんがえていることは、もし朝鮮の崩壊が起きたときは、中国のもとに、韓国サイドで半島の統一化を行うというものです。豊かな韓国側は拒むかもしれませんが、東西ドイツの統一を参考にしながらこれを進めていくだろうと。天安門事件以降、あれだけの権力内部の腐敗があっても、中国は朝鮮崩壊後のアジア像をもっているのと比べて、日本は3・11みたいな崩壊が起きると、ますます近視眼的になり未来がなくなってしまう。原発輸出とかそうですが、現在儲かればそれでいいんだという、ある種のパニックですよね。現在の中国共産党が恐れている全体主義は文革の復活ですが、自民党が恐れている全体主義は戦前の復活。戦争によって安倍がけん引する国民の熱狂は、(文革以上に)、コントロールできないものとなるでしょうかと非常に心配してます。

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ALSO SPRACH OWLCAT 2014年8月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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