言葉と表現と射影のブログ

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<<   作成日時 : 2014/08/19 19:53   >>

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人間が自らに正当化を与える、人間の人間自身の読みが依るのはただ、人間の<他>に依ることが不可能という自己関係への絶対的な依拠である。例えば、これは、<他>が死に切ったファシズムに対する抵抗の砦を構成した (戦後文学)。一方、同じこの人間の自己差異化は、大正時代においては欺瞞的にしか作用しないのは、なぜだったのか?大正時代には、昭和三十年代と比べて、まだ依拠できる<他>があったからである。台湾・朝鮮そして中国という<他>から、帝国的国土を築いていく自らの国のあり方を批判していく可能性があったのに


朝日新聞を擁護する

アジアの人々のまえで戦争責任をみとめて戦争を終わらせるという目的があるから、朝日新聞の慰安婦にたいする取り組みがあり、やはりこの意志を中心によく考えなければなりません。そのうえでなぜ間違ったのかを検討すべきだとおもいます。一方朝日新聞をいつまでも非難する人は、戦争を終わらせる意志があるのですか?いつまでアジアとたたかっているつもりなのですか?欧米が国家が関与した奴隷売買・強制的な奴隷労働は19世紀後半に終わったにもかかわらず(イギリスなど民間レベルでは第一次大戦まで続きました)、日本では1945年まで続いたということは、憲法の前文に書き加えるべきほどの重大な歴史です。ところが、日本軍の慰安婦の存在をみとめないかぎりは、21世紀の現在まで、国家が奴隷売買・強制的な奴隷労働に関与した事実の隠ぺいに協力しているという意味で、国の性奴隷の犯罪は終わっているとはいえません。つまり国家の犯罪は現在進行形ということです。また戦争責任をみとめない点で、戦争も終わらないということを意味していることもあります。報道の責任はあります。ただし報道は、間違いを犯しながら、真実にアプローチしていくプロセスであることもたしかです。一方一体だれが朝日新聞の戦争を終わらせるという意志を非難できますか?

なぜ私は高橋源一郎が語ったこの一文にかくも違和感をもつのだろうかと書き留めておこうとおもいます。高橋はいいます。

「「慰安婦問題」でも、ある人たちは、「慰安婦」は「強制連行」され「性的な奴隷」にされた、と主張し、またある人たちは、「いや、あれは単なる娼婦で、自発的に志願して、かの地にわたり、大儲けしたのだ」と言います。けれど、朴裕河さんのいうように、どちらの場合もあった、というべきでしょう」

この文を読んだ限りでは、日本国家の暴力をみようとする作家の責任ある発言とはどうしても思えないのです。中立的にこのように程度の問題に還元しようとする迎合的な相対主義では、この慰安婦問題を読者に伝えることが本当にできるのでしょうか?まず「強制連行」され「性的な奴隷」にされた人々の立場に立つとすれば、この高橋が日本の裁判官の如き公平に?斟酌しようとするその「自発的に志願して、かの地にわたり、大儲けした」という話などは全く関係がないと言わざるをえません。ほかでもない、この<わたし>の「強制連行」され「性的な奴隷」にされた体験が問題なのです。それなのに、どうしてあなたがたはこれとは関係のない他の話を常にもちだすのかという怒りのことを理解できないのですか?これは、日本軍の慰安娼婦の問題について話をしているのに、「いや、外国にも例がある」と話しはじめる人々と同じような共通の無責任さがあります。つまり中立的な?立場で語っているつもりでいても、日本軍の慰安婦問題を曖昧にしてしまい、ついにはそれを容認してしまうという大衆に媚びた週刊誌的な語り方です。


ショスタコーヴィチは、スターリンに処刑された人々の鎮魂歌の交響曲を作曲した。知識人・芸術家の目的は、国家に至る歴史の意味との同一性を求められた。ブレヒトほどこの種の同一化の無意味さを見抜いた作家はいなかった。が、日本知識人の内部においては、なんとブレヒトの声が小さいのだろうか。スターリンの銅像が大きすぎるせいなのか?

搾取された性奴隷(Sex Slaves)についてこれを「うやまい、感謝しなければならない」と言う日本知識人が依りどころにしているのはただ、「日本の父や夫や息子のためにはたらいてくれた、日本のための」という国家主義との同一化の言説しかありません。この国家主義は、'戦う国家、祀る国家'を住処にしていますから、首相の靖国参拝を容認し、いつまでも戦争を終わらせようとはしないというものです。しかし知識人に値するならば、平和に生きたいと願うアジアの人々の信頼を住処としなければならないはずではありませんか?


"われわれ"と"かれら"を排他的に分け隔てる境界線。靖国神社は、そのように日本内部に自立的に実在するように考えられるが、日本思想が受容した中国の儒家言説を最初の住処としていた。子安宣邦氏の鬼神論講義はどの国のナショナリズムも無効化していく、言説的事件性としての意義を失っていない

人間はスクリーンの映像を考えるとき、自己の背後からスクリーンに光を投げ出してくる光源を見る必要はない。書記言語の漢文クリチュールが考えるためには、起源を考える必要がないように

それは最後にもう一度
光に打ち克つべく
夜が諸力を糾合するからだ
しかし光が
夜に襲いかかるのは
背後からだ




なぜファシズムは繰り返されるのか?

資本主義体制は商品世界があるのか?たしかに「商品」世界はあるけれど、「資本論」の冒頭でいうようにそれほど、永遠としてある全体性としての商品「世界」があるのだろうか?(諸商品のコンパクトな集積, 集合体のような感じで書きだしている。)近代において、もはや全体性は魂の消滅のように、消滅したに違いない。唯物論者のマルクスは永遠性を否定しているのに、なぜ「世界」について語りだしたのか?全体性は、部分の言語を住処とするほかない。が、全体性はあたかも部分の言語の外に実在するかのように考えられる。マルクスは'読めない'商品の言語で総体としての資本主義を書くと言うように、全体を分析できるのは部分に依る限りのことである。が、部分が見えない全体を語り出すという無理をおかす。帝国のような全体性は、資本主義によって消滅させられた。全体性は、資本主義の部分(商品)の言語を住処にするようになるが、恰も部分の言語の外に実在するかの如く自立している。全体主義(ファシズム) の一見反資本主義的言説が生じてくるのは、資本主義の自己目的に部分の言語を生産していく体制の内部からである!


人間の言葉のうちにはじめて住処をえた痛さを、あたかも言葉の外に実在するかのように考える。同様に、前世紀の映画館の映画の光はもはや消え尽くした。人間の言葉のうちにはじめて住処をえた投射を、あたかも言葉の外に実在するかのように考える。映像は言葉から独立しているとか、独立していないとか


グローバル資本主義を読む「帝国の構造」

グローバル資本主義の市場の無政府主義にたいして、「もはや小規模の国民国家ではやっていけない状態」。と、柄谷行人はいいます。これについては、だからこそ、剥き出しのグローバル資本主義に抵抗する市民一人ひとりは、試行錯誤ですけど、決定的な問題解決のために、民主主義的言論の自由を最大限に利用しなければならないのです。<諸君のオィデプスは国民国家で、脱オィデプスは帝国である。だから(諸君を真に解放してくれる)帝国の前に諸君の自由民主主義をあえてすてなさい>という柄谷行人の'世界史'的予言は、読み物としては面白いが、グローバル資本主義の疎外を解決するためにはそれほど役に立ちそうもありません。

「マルクスは、ユートピア的社会主義者のように未来について語ることはせず、もっぱら過去について考察したように見えます。だが、そのことは、マルクスにとって「未来」を見ることだったのです。彼が晩年、氏族社会について考察したことに留意すべきです。かれがそうしたのは、未来の共産主義を、氏族社会を'高次元で回復するもの'と見なしていたからです。同時に、ここに、重要な問題があります。マルクスが'高次元で'という場合、それが過去のもの(祖型)を一度否定することによってのみ実現される、ということを意味するのです。
'まったく新しい歴史上の創造物が、それがいくらか似ているようにみえる古い社会生活の諸形態、ときにはすでに滅んでさえいる諸形態の写しと思い違いされることは、その通常の運命である。こういうわけで、近代的国家権力を打ち砕くこの新しいコンミューンは、当の近代的国家権力にはじめ先行し、のちにはその基礎となった中世のコンミューンの再現だと、思い違いされた'
パリ・コンミューンは、中世のコンミューンの再現である、と人々は考えるかもしれないが、違う、それは「まったく新しい歴史上の創造物」なのだ、とマルクスはいうのです。といっても、それが中世のコンミューンの回復であることは否定できない。要するに、マルクスがいわんとするのは、パリ・コンミューンは、中世のコンミューンの'高次元での回復'だということです。それはむしろ、中世のコンミューンと似て非なるものである。」(<未来からの回帰> ‘ヘーゲルの転倒とはなにか'。柄谷行人「帝国の構造−中心・周辺。亜周辺」より)


「毛沢東が農民による革命を考えたことは、それまでのマルクス主義の理論に反しています。・・・孫文や陳独秀らが西洋モデルで考えていたのに対して、毛沢東は帝国の経験に立脚したといえます」(‘近世の帝国と没落'。柄谷行人「帝国の構造−中心・周辺。亜周辺」より)

「中国に必要なのは、近代資本主義に固有の自由民主主義を実現することでなく、むしろ「帝国」を再構築することです。もし中国に自由民主主義的な体制ができるなら、少数民族が独立するだけでなく、漢族も地域的な諸勢力に分解してしまうでしょう。いかに民主主義的であろうと、そのような事態を招くような政権は民意に支持されない。ちゅまり、天命=民意にもとづく正当性をもちえない。ゆえに、長続きしないでしょう。のみならず、そのような方向をとることは、世界史的な観点から見ても愚かしい。
しかしその結果として、中国が多数の民族国家に分解してしまうとしたら、それによって近代的な国民国家ができるとしても、そこには「正当性」がない、つまり、天命=民意の支持が得られないでしょう。
現在はどこでも、もはや小規模の国民国家では、やっていkない状態になっています。世界各地で、かつて世界帝国であったところに広域共同体ができつつあります。それは先ずヨーロッパ共同体から始まった。ヨーロッパでは、ナポレオンの帝国からナチスの第三帝国にいたるまで、ローマ帝国の再建をはかってきたのですが、すべて帝国主義でしかなかった。ヨーロッパ共同体は、その点で、意識的に「帝国」の原理を回復しようとしています」(‘近世の帝国と没落'。柄谷行人「帝国の構造−中心・周辺。亜周辺」より)


柄谷行人は、ライプニッツのルター派的立場を保持しながら神聖ローマ帝国のなかにいた位置を強調している。神聖ローマ帝国とは何者か?ハプスブルク家とオーストリア=ハンガリー帝国とはだれか?EUから再び、高度な次元でオーストリア帝国の復活が生じるのか?そしてその帝国性はモンゴルに帝国性に負うというのか?これに関して、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国の教会的普遍性から、(ライプニッツの同時代であった) スピノザやフェルメールについてのあらたな問いが立つ。つまり、この問いは、帝国の構造が哲学・絵画に影響を与えた全体性の探求についての問いとして成り立つのである。ただし、これが可能なのは、帝国の構造が'オィデプス的'な内部に絡みとられた表象の構造だからではないか。柄谷は'交換様式'という観点の新しさを強調するけれども、その'交換'とは精神分析が依ってきた'置き換え'のこと。置き換えは表象の構造であり、そうであるかぎり、必ずしも常に思考の構造にあらず、とだけ言っておこう



•今日は「昭和の日」だという。この日に因んで、昭和の少年の戦争の記憶を記そう。あの戦争は「一億玉砕」といった言葉を当時の少年たちに空語としてではなく実語として与えていった。その標語は彼らに死の決意を促していったのである。20世紀の総力戦とは子供をも巻き込んで死の決意をさせていく。
•それは恐怖の死の決意であった。その恐怖は、「玉砕」から逃げようとするものに「非国民」の誹りが貼られることへの恐怖によって二重化されていた。あの戦争の時代、「非国民」というレッテルを貼られることは、村八分と同様の、あるいはそれ以上の共同体的制裁「死の宣告」を受けることを意味した。
•あの戦争の時代「非国民」という誹りは「死の宣告」と同様の恐怖を人びとに与えていった恐ろしいレッテルであった。ファシズムとは「非国民」の誹りを浴びせながら、あるいは国民同士が浴びせ合いながら、国民の全心身的結集をはかっていく政治的体制であるのだ。これは私の原点的な戦争の記憶である。 

ー子安宣邦氏


21世紀の動乱は、グローバル資本主義の市民的抗議の他のものがない。「世界史」が近代のカオスと位置づけた動乱を乗り越える「帝国」の言説こそが、カオスを構成していく。柄谷等の日本知識人はカオスの問題を解決するために、再びカオスを推進した帝国の構造の言説に依るが、これは倫理的に不可能だ

解釈の権利というのは、二項対立的に、誰が自己に属するのか誰が排除されるべき他者なのかを決める権力をもつとおもいますが、その権力の内部にいた主体が不可避的に、自らが依拠した言説が定義した他者像になるとしたら精神分析にしか扱えないほどの滑稽さ


靖国公式参拝を容認してしまうどんな言葉にも、
なぜわたしは反対するのか ?

一国社会主義的にスターリニズムのなかには、靖国公式参拝を容認してしまうどのような理屈があるというのだろうか?陳腐なトレード・オフの言説からはじめよう。経済的に発展していくと、階級的・地域的な格差が生じる。そこから台頭してくる、あるいは行き残る中流は市民の権利を求める。けれど、経済的発展がなければ、グローバル資本主義に従属してしまい、その結果、国がバラバラになってしまう危険もあるだろう。が、そもそも国家なければ人間の権利もない。だからこの危機の時代にあって、市民と地域の権利を犠牲にしても「強い国」づくりのためにあえて靖国的民族主義を容認するというトンデモない言説が、その一部であっても、スターリニズム的日本知識人の民衆感情の中から現れてきたとしたら、やはり批判していかなくてはならないとおもう。なぜならその言う通りにしていたら、軍国主義への道を、したがって同じ方向から全体主義への道を繰り返すことにしかならないからである。この言説は、いくら自分が教条主義にとらわれず真っすぐに労働者と民衆の側に立っているつもりでいても、権威的な靖国的民族主義のもとでアジアからの孤立がいっそう深まるばかりだという人々の息苦しい現実をそのまま見ようとはしない。靖国公式参拝を容認してしまうどのような理屈も、わたしは反対するだろう!




国産の'心神'と名乗る戦闘機のグロテスクな光景には全く言葉もありません。そもそも、世界一豊かなアメリカの国益に沿うために世界の最も貧困な諸地域の人々を容赦なく爆撃してやまない、そんなたたかう国家の「心」の中には、どんな'神'もいないと思います。戦争において歯止めが利かなくなる理由の一つに、たたかう国家の「心」の中には、たたかう国家しかいないということがあります。だから靖国神社に祀られるのは、特権的に国家の戦争に役立った兵隊だけだということに。このイデオロギーの虚説から、そこに沖縄で犠牲になった非戦闘員の人々が祀られることはあり得ません。(ただしこの点については、その戦死した兵隊達の無視できない少なくない部分が適切に祀られているのかどうか疑う必要もあるかもしれませんがね。) 死者達を差別せずの考え方を土台に、外国の例を参考にしながら公的な戦死者墓地を創り、A級戦犯の靖国の霊については全国各地の神社に委ねれば十分であるとおもいます。念のために、最後にこの靖国問題に関しては、死は死体とは関係がありません。死体をみる内的な感覚から死者に過大な思入れをもつと('日本人'的に)、結局この国の政治家達に巻き込まれていく危険性があります。傲慢な彼らのやりたい放題にNO!を言うのは、徹底的に死を観念化していく<方法としての死者の声>からだと思います


神よ、なんという
苦しみだ
何事をも
感じてしまう
力を授かったのは、
恐ろしいことだ。
ヴァージニア・ウルフ「波」


I would have liked to tell you

The story of a nightingale that died.

I would have liked to tell you

The story…

Had they not slit my lips.

The great Palestinian poet Samih al-Qasim has died of cancer aged 75, in a major loss to Arabic and world literature.

'「誰」の「心」の中の「神」? ' -> 世界一豊かなアメリカの国益に沿うために世界の最も貧困な諸地域の人々を容赦なく爆撃してやまない、そんなたたかう国家の「心」の中には、恐らく神すらいないとおもいます。戦争において歯止めが利かなくなる理由のひとつに、国家の「心」の中に国家しかいないということがあります。(だから靖国に祀られるのは、国家の戦争に役立った兵隊だけであり、そこに沖縄で犠牲になった非戦闘員の人々が祀られることはありえません。本当は、靖国にはその戦死した兵隊も祀られてはいないんじゃないですかね、おそらく)


アメリカ資本主義と呼ぼうが中国資本主義と呼ぼうが、現在、グローバル資本主義をどこからみるかの違いでしかありません。東アジアは、グローバル資本主義のTPPか?中台貿易か?という情報の客体の側に置かれたままです。さて、東アジアの人々が漢字文化圏におけるコミュニケーションの政治の主体として現れるためには、いったい何が必要なのか?
「ユダヤ人問題」のマルクスは見抜いたーユダヤ人問題解決のために、この問題を成立させた立憲主義的ブルジョア国家の構造に再び依拠することの無理を。富も、<内なるユダヤ人>も、究極的な解決を与えないだろうと。「日本人問題」の解決においても、アベノミックスも、<内なる靖国>も役に立ちません。市民における政治問題の徹底化しかないようにおもわれます

出会い系の思想史カフェ

カントの「実践理性批判」「純粋理性批判」を読めば、「天」「地」の出会いを知ることになります。ところで自由概念の人間的主体とは別に、カントは「判断力批判」で、この「天」「地」の中間に立つ、生命としての主体を書きました。でもね、主体の中心に人間以外は来ないだろうが、世界の諸事物のヒエラルキーが消失した後に猶、その保証があるとは限らないよ。このことを念頭において、思想はカントから、いかにヘーゲルとマルクスへ展開することになるのかを考えてみましょう。ヘーゲルは生命の主体の中心に共同体の精神がくる世界史を考えました。が、マルクスの場合、立憲主義のブルジョア国家に至ってついに歴史が終焉する歴史の意味を、人間の<人間自身を思考する>目的に同一化しませんでした。ズバリ、21世紀に市民社会をつくる原子ー小さな人間達ーに思考の余白を与えるために、ではなかったでしょうか。


米軍基地の75%が沖縄にあるというならば、それほど基地があるゆえに当然にみとめられるべき数多くの権利もあるのではないでしょうか。例えば、基地の人々の子供たちが米国の学校で君が代を歌わないのだから、沖縄の子供達も歌う義務がない。米国の学校と対等に、沖縄の学校は文部省に従わず、自分達の教科書をつくる権利がある。またアメリカに対しては、沖縄は、アメリカ兵を裁く裁判の管轄権を要求していく。どこの国に比べても基地が圧倒的に多いということを口実にして。そうして沖縄が多数の関係のなかで独立を保っていくという、19世紀のヨーロッパで目撃された戦略です。二十世紀ではアイルランドがヨーロッパとアメリカの両方を狡猾に利用しながら、独立をキープしようとしているのです。やり方がまずいとダメで、楽観的なことはいえませんが、最終的に基地を撤退させていく


'沖縄と祀られない死者'、'死者による国家の問い返し"

1, 沖縄ばかりではない、国内外の無数の祀られない死者たちから考えれば、「日本人の心」を騙って国家と靖国の連続をいう言説がイデオロギー的な虚説にすぎないことを明らかである。国家によって殺され、国家によっては決して祀られない死者たちが、そんな国家の連続を願うことはない。二十世紀とはこうした無数の死者たちによって国家が問い返された、あるいは問い返されねばならなかった時代である。死者の数は無意味に積み重なっているのではない。靖国の数、ことに大東亜戦争の二、一三三、八二三柱という祭神教は護国の英霊という意味づけをはるかにこえている。それは英霊という国家の意味づけ自体を問い返すような数字である。ましてやこの国家によって死に至らしめられた内外の無数の祀られない死者たちにとっては、靖国の存在自体が欺瞞であるだろう。国家が祀るとは何なのか、その死者たちは問うているのである。
2,国家が祀るとは、国家が戦うこととともに差別的で排他的な自己中心的な行為である。国家は己のためにだけ祀るのである。沖縄の集団自決した住民たちに「崇高な犠牲的精神」の美辞を与えるだけで国家は祀ることはない。イラクの子供たちのミサイルによる死は「自由」のためにやむをえない犠牲としてアメリカは無視するだろう。アメリカの新しい戦争にとって勝利とは何かと尋ねられて国防長官ラムズフェルドはこう答えたという。「アメリカが自分たちの生活を続けることを世界に納得させられればそれが勝利だ」と。戦争するアメリカにとって守られるアメリカ人の生活があるだけだ。パレスチナ人の生活もなければ、アフガニスタン人の、イラン人の生活もない。 (子安宣邦「国家と祭祀ー国家神道の現在」2004年)


イギリスの新右翼からすると、グローバル資本主義のサッチャーリズムといえレーニン主義といえ、計画性に基づいて社会を人工的に設計する点で両者の間に大きな違いはないという。レーニン主義を裏切るスターリニズムの反動性ー祀られた一国社会主義の内部で規約主義と民族言語に一貫性があるというイデオロギー

五年前東京に戻ったとき一番驚いたのは、人々が集まる公の場所で質問する機会がなくなっていたということ。講演会でも主催者は当たり前に質問の時間を省く。質問しない人々の<日本の構造>なくしては成り立たない教えの流通。このこと自体が現在の馴れ合う<知の構造>の側面を告げているかもしれない

今週の土曜日(10;45) は、東京国立近代美術館フィルムセンターで、
大島渚「絞死刑」を観たいとおもます。

みなさんのまえで、わざわざなぜ予告するかというと、ちゃーんと朝起きるように、寝坊しないように、自分にいいきかせています(笑)

ATGと独立プロの提携による「一千万円」映画の第一作。アメリカでの死刑の二度目の失敗が話題となっていますが、大島の映画の中でも、在日朝鮮人Rの死刑が失敗、そこから次々と滑稽な事態が展開していきます。国際的に評価が高い大島渚「絞死刑」は、数年前にダブリンのIFCで企画された'パリ68年革命前夜にみられた映画特集'で初上映されました。ダブリン在住のフランス人の友人がこの特集を企画しました。ダブリンにはフランス人が多くいて、映画の宣伝のためにジャンヌ・モローとかアンナカリーナが来ていました。フィルムは英国のBFIが持っていて、かれらが上映について大島プロダクションの最終的な許可を求めてきました。ところが上映の許可について中々東京から返事が来ないのは一体どうしたわけだとダブリンから問い合わせがきました。こういう交渉をしたことがなかったのですが、過去に世話になった人々ですし、苦手ながら電話とファックスで何度か交渉することにしました。アイルランドの観客のもとにこの映画を送ることができたのは本当に幸せです。




「日本軍が編成した従軍慰安婦は、ほかでもない、日本の父や夫や息子のためにはたらいてくれた、日本のための慰安婦さんたちだったことだ。だから日本人は彼女たちをうやまい、感謝しなければならない。」と語る日本知識人にたいしては、はっきりと三点反論しなければならないですね。

(1)「日本の父や夫や息子」といっているのは、靖国の英霊のことなんだろうけど、「日本の父や夫や息子のためにはたらいてくれた」は嘘です。「(国家の強制のもとに) はたらかされた」が正しい認識。これは国連の人権委員会の勧告もこの言いかえを問題にしています。

(2) 「日本軍のために(国家の強制のもとに) はたらかされた」犠牲者には、償わなければなりません。「うやまい、感謝」という話は歴史を歪曲したごまかしです。たたかう国家のために<すべて>をささげるという危険な言説を構成してはいませんか?

(3) 軍国主義と全体主義と手を携えて同じ方向に拡大している現在の状況では、強調されてくるのは、「日本の父や夫や息子のために」の「ために」です。つまり言いかえると、「靖国の軍国主義のために」の「ために」です。日本の軍国主義のために強制的に働かされた女性たちを、あたかも「日本の父や夫や息子のためにはたらいてくれた、日本のための慰安婦さんたちだったことだ」と整理してしまうことに、違和感はないのですか?


アイルランドみたいなところでは、バスが街中に止まったままの状態で、謎の石像みたいに一時間も二時間も動かないことが多々あります。だれも説明しない。だれもなぜ止まっているかわからない。運転手もどこかに消えてしまっています。そういうときはまさに「え?なんで」です。スリを追いかけて帰ってこないとか (そういうのを目の前で目撃しました)、色々理由がありますが。電車も、理由もなく、3時間ぐらい止まることが起こります。「え?なんで」とおもい、北アイルランドの国境だったから、テロかなと心配していると、(ウイスキーで顔がすっかり赤くなった) 駅員がふらふらとやってきて説明するには、羊が一匹電車に突っ込んできたせいで動けなくなったとのこと(笑)。映画の流れもも不条理に止まります。映画館のなかでフィルムが切れた真っ白なスクリーンをまえに、30分待っていると、スタッフが「現在復旧しているからもうしばらくお待ちを・・・」と説明。この30分後に同じ謝罪と説明。さらに1時間待っていると、その同じスタッフがまたあらわれて、今度は、私たち観客数十人をみて呆れています。「なんで、おまえたちはチケットも買わずにここにすわってるんだ。もうつぎの映画をみるために観客が外に並んでいるんだぞ!さっさと出ていけ!!」。もうフィルムが切れたことをすっかり忘れているご様子。「なんでって、え?なんでよーーーー!?」、と、流れの中断が介入することによって、問いが問い自身に折り返され、流れはますます思索的になってゆく・・・

l'un de mes thèmes centraux est le monde où l'on ne peut vivre en restant soi-même, où la vie n'est possible que si l'on devient un autre.
−Oshima ; La Pendaison

絞首刑においてRの肉体は死を拒んだ。
Rとは僕のことですか?と、RはRであることを拒む。
流れの中断によって、問いが問い自身に折り返される
流れが人間的に思索的になる
そのことによって終わりを介入させようとした。
終わらない帝国主義のアイデンティティーに、また
鏡像的にこれに依拠してきた反帝国主義のアイデンティティーに。
なぜ大島の問いはスキャンダルであった のか?
どちらのアイデンティティーから逃げなければ生きることが
不可能なのではないかと問うたからではなかったか


大島渚の問題提起は常に我々の内側から起こって来た。死刑支持と軍国主義、この両者が、いかに小市民的良心の顔において互いに手を結ぶか、これを内側から我々に向かって投射してきた。大島死しても、批評が定位する<外の内>を消滅させてはならないだろう、けっして

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