言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT 2014年 9月

<<   作成日時 : 2014/09/01 01:15   >>

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読むことが不可能なマルクスを解釈する者は、遺族が故人を語るときの所有的特権性をもつ。あたかも言語から独立した死者マルクスから声を聞く。民衆史も過去の読めない言葉を前に、民衆の遺族として語る。共通のものがなかったかもしれぬ死者達から唯一の声を聞く。ユートピアの教説を拵えたら欺瞞だ

宇沢弘文

高校生の自分は読み切れていませんでしたが、「近代経済学の再検討」が半年ぐらい鞄の中に入っていました。新古典派経済学とケインズが共有する微分概念を幾何学によって説明し、市場の言説を批判している知的構成にワクワクしたものです。「自動車の社会的費用」は、書かれた内容よりも、宇沢弘文氏の書いた姿勢につき動かされました。まだ岩波新書には小田実的な異議申し立ての声があったのですね。そしてTPP問題に直面した今日、あらためて、宇沢氏の「社会的共通資本」の重要性を知る思いであります。



これは、神の視野から(被造物である)黴菌がみえてくる、と、おもったら、神が黴菌にとりかこまれているというおぞましい思考の揺さぶり。黴菌は黴菌、神はどこにもいない、もはや消滅した。そうして神は黴菌と形容されたアルトーの詩を住処にするようになった、と。ドゥルーズの「器官なき身体」は、このアルトーの詩に依拠しています。世界思想は死を徹底的に観念化していくように、アルトーにおいても、アンチ・オィデプス的に、死が分裂化していきました。神に関する言説の消滅 (すなわち人間学の終わり)を示唆していたのですね。存在してくるのは、方法としての言説だけ。


- Je ne délire pas.
Je ne suis pas fou.
Je vous dis qu’on a réinventé les microbes afin d’imposer une nouvelle idée de dieu.
Artaud


――私の頭はおかしくない。
私は狂人じゃない。
私は、新しい神の観念を強制するためにまたしても黴菌が作り出されたといっているのだ。
(アルトー、神の裁きと訣別するため)



日刊ゲンダイの元NHK永田浩三氏のインタビューを読む


国際社会からみれば、国の性奴隷の関与という事実に変わりなく、朝日新聞が責任を負うのは、誤報した部分的事実についてです。読者の信頼を回復するには十分かどうかは別として訂正もありました。とくに根本のところの、'語る民主主義'が台無しになってしまったとは思えません。一方われわれの当惑は、これを契機に読売と産経、安倍首相が事実全体を隠蔽できる権利をもつとでも信じ込んでいるという傲慢な彼らの自覚なき孤立に対して向けられています。歴史修正主義に沿って現在つき進んでいる方向というのは、対象の事実が一部でもかまわないし、場合によっては、仮に事実が存在しようがしなかろうが、どうでもいい事柄と受けとめるという態度です。外部の声を遮断し、凹の中の底に自分の全感情を埋め込みたいとする集合的な閉塞感が、安倍の官邸サイドと大手マスコミのもとに広がってきました。この根底に、隣国との友好な関係を築けない精神の不安定さがある点は指摘されています。それならば、小説・詩でも映画でも芝居でもいいのですが、そういう孤立を観察させるようなつくり方で、いかにそれに同一化することの無意味さを考えさせることが大切。これを隣国の人々と共有していくのです。永田氏は反権力の小さな演劇や映画に大きな関心があるようです。


昔友達申請させていただいたその永田氏から一番最初に「いいね」をおしていただいたのは、'奇跡がおきること'にかんする、引用しただれかの言葉でした。'なぜ、これに?'としばらくおもったのですが、多分、'奇跡'にかけるしかないというぐらい切実な永田氏のNHKに対する危機意識と再生への願いと責任感ではなかったかとハッと気がつきました。岩波書店はますます保守反動的になってきたとあきれていましたが、今回永田氏のようなリベラルな立場の本を出したのは大変評価できます。年内に読みたい一冊です。反権力の小さな劇団の演劇にご興味があるようですね。

現在ジョイスが生きていたならば、
今日のスコットランドの問題をどう語ったでしょうか?

・Home rule (自治) の要求が斥けられ結局二十世紀に独立に踏み切ったアイルランドの歴史は、ジェイムス・ジョイスの小説の大きなテーマを構成しています。さてこのジョイスが現在生きていたという仮定のもとに、かれは今日のスコットランドの問題ー福祉・健康だけでなく税のあり方を自分たちで決めるーをどう語ったでしょうか?一考の価値があります。この点に関して、歴史というのは、奪うものと奪われるものの間に展開する関係だけではありません。中々日本人にはわかりにくい点かもしれませんが、人々が自ら捨てていくという歴史も重要なのです。そうして、アイルランドの知識人が指摘しはじめたように、アイルランド人は生きるために自らゲール語を捨てていきました。(これ自体、ジョイスのテーマです。) 同様に、スコットランド人は、英国を捨てていくだけでしょうー生きるために。



ダンテDante の墓と遺骨は、ラヴェンナRavennaにあります。ここで詳しい説明ができないのですが、ダンテが死んだとき、当時フィレンツェのメディチ家が彼の遺骨を要求していました。教皇がこの移送を許可したときに、ラヴェンナの修道士たちが不審に思いこの共和主義者の遺骨を隠したのです。ダンテの遺骨はその約百年後にここに埋葬されることになりました。死しても、権威との闘いがつづいたのですね。さてかれの「神曲」が書き記している煉獄は、中世の民衆が発明しました。この第三項としての煉獄は、天国か地獄かといういわば二項対立の脱構築といえます。衆生が祈ると、煉獄にある死者の償いの時が短くなるのですね。知識人は、煉獄によって、真理(ウェルギリウス)と衆生の間の自らの往復運動を考えたかもしれません。だから煉獄のダンテは再び教会の支配する天国に行くのではなく、共和主義の理念へ行くにちがいありません。

この問題にかぎらず、他に多くの情報源を利用していくことの大切さが今回の教訓ではなかったでしょうか。国際社会からみれば、国の性奴隷の関与という事実に変わりなく、朝日新聞が責任を負うのは、誤報した部分的事実についてです。読者の信頼を回復するには十分かどうかは別として訂正もありました。とくに根本のところの、'語る民主主義'が台無しになってしまったとは思えません。一方われわれの当惑は、これを契機に読売と産経、安倍首相が事実全体を隠蔽できる権利をもつとでも信じ込んでいるという傲慢な彼らの自覚なき孤立に対して向けられています。いつ気がつくのでしょうか?

ボローニャ散策。パルメザンチーズは粉しか見た事がなかったにゃ。親も喜ぶ仲良し兄弟。トマトがめっちゃ美味しいんです。歴史的なものを維持して行くのも、総合的なもので、つまり国の助成だけでなく、環境とか組合とかの努力に伴われていることをボローニャにおいて実感しました

アドリア海の向こうにギリシャにゃりよ。ダンテの墓。ビザンチンのモザイク。ホ〜、あらためて思うのは、イタリアというのは、これでもかこれでもかといたるところが世界文化遺産。いっそ国ごと世界文化遺産に^_^ついでにあなたたちイタリア人全員も。フクロウの旅の写真をみてくださったあなたも。乾杯にゃり❗️

ジェイムスジョイスは、大英帝国の植民地首都ダブリンを舞台とした「ユリシーズ」をイタリアのトリエステで書いたのですが、そのトリエステで、ダブリンアクセントでジョイスについて喋る日本人の私に、当時ボローニャ大学の先生がボローニャに研究しにきて江戸思想の注釈学からいかにジョイスを読めるかを発表しろと申し込まれて困ったにゃり(^∇^)

今日はアドリア海の方へRavennaに移動にゃり。一応、ボローニャとかいていてもフクロウ語ではありません(^∇^)サンペトロニオ聖堂のダンテ神曲の絵は撮影許されず残念。内部ではカメラとお札、帽子なんかが禁じられるのは、死者の霊魂が消滅しないように祀っているからだというのは、純粋異教徒の観察とてそれほどpointlessではあるまい。逆に、この自由都市の大学で解剖できたというのは、ボローニャ大学の創立が神聖ローマ帝国の保護下にあったこと、言い換えれば、教皇の死者を支配する領域の連続性のなかには存在しなかったということをも無関係ではなかったろうね。読むことができない書物の注釈、 見ることの真実性を確証する解剖空間、両者の言説的空間の近接性を読むのはあまりにフーコー的かしら? 皇帝から独立し自治都市になっていくボローニャから、ルネッサンスのフィレンツェへと、さらにそのまま、17、18世紀徳川期の京都における(朝廷貴族寺院から自立してく)学ぶ市民階級の近世へと、思想史の線をひくことー他であり得た、あったかもしれない近代の条件(祀らない国家、戦わない国家)を根本的に問うために

ボローニャの人々はなんというかsweetに喋るのですが、ここに来たダンテがそいうことを言っていたようです。母音の数が多いとのこと。バスを降りるとネプチューンの彫刻に出会いました。ヨーロッパで最初の大学、ボローニャ大学に遠方からやって来る学生は、ローマ神聖帝国皇帝の保護を受けることが出来ました。そのおかげで、絵に描いてある創始者の塾が発展し、ここはヨーロッパの知のネットワークの中心に。当時解剖が行われた講堂は、解剖劇場と呼ばれるだけあって、(グローブ座と同時代の)ヴィセンチアの劇場のように大きな彫刻たちに囲まれています。ドイツの高校生たちが見学。現在の大学近くのオペラハウスの前はこの通り。さすがパゾリーニのボローニャ、若者たちが自由闊達に喋っていました

ミラノから電車に一時間のって ホ〜 、ボローニャに来ましたニャ。レストランはミラノと比べると半額ぐらいで助かります。そうにゃると、夕ご飯は、好物のボロネーズと美味しいベニスの赤ワインになってしまうでしょ?その名もご覧のとおり、vertigo 。と、 酔いましたか、ははは、うまく写っていませんね。



Walk along the canal
宿の前のダヴィンチが測量した運河を散歩

MEMO

政治と宗教についてオランダで起きたことは一世紀遅れて英国で起きてくる。同様に、12世紀からルネッサンスまでのイタリア諸都市の自由の闘いは、近代のフランスにおいて個人を拠点として起きてくるようにみえる。が、かくもラディカルな抽象性は一体どこから?啓蒙思想が存在したとしか説明できないのだ。\\


戦後憲法が靖国英霊の消滅を構成したように、人間の理性の成立は、宗教の死者を永遠化する<祀りの領域>を<物自体>の領域に写像し、死者を消滅させる言説的構成を必要としてきた。いわゆる政教分離である。この普遍性は西欧だけをみていては分からない。例えば近世の<徳川儒教>の「鬼神」をめぐる議論を極めた豊かで興味深い言説的歴史が先行していた。

クレー、ドゥルーズ、アインシュタイン ー ベルンBernの思索の旅


スイスのBern ベルンに画家クレーがいました。ベンジャミンか、アドルノだったか、家に飾っていたクレーの天使の絵を好んでいてこれについて友人とよく議論したといいます。クレーの絵のコレクションは、Enzoの建築の中で鑑賞出来ますよ。彼の若いときに手がけたポンピドウセンターの建築は正直あまり感心しないし、ゴダールなんかは自分の展示を利用して陰険に建築構築物を破壊しておりましたですわ(笑)。比べると、ベルンのは環境と調和して良いですね。ラヴェンナのモザイク画に、洞窟のなかで完全にイエスが消失したことを示した、大変に唯物論的な天使の絵があるのですけど、これこそは、反ファシズムの知識人たちが読みといたクレーの偶然破壊ではなかったでしょうか。(魂が消滅した死者は言語を住処とするという本を称える異郷的ギリシャ的なメッセージ?この衝撃は、戦後憲法が「英霊」の消滅を決めもはや戦前のように国家が靖国を祭らないことをきめたぐらいの衝撃でしょう)。Gilles Deleuze がリゾームと呼んだ、多くの穴からなるzigzag(ジグザグ)の精神と等価の、線のリズムですね!
追記; 遡ること、アイルランドのダブリンから、イタリアのミラノに来たのは13年前です。当時はミラノからそのまま横へ横へと移動し文学者ジョイスが「自分で決めた亡命」の前衛的経路を辿ってヴェニスに近いトリエステをたずねたものです。今回は、スイスのベルンから垂直方向に向かってミラノに。暫し歴史を辿ると、アインシュタインは仕事を得て生活をはじめ相対論を発表したのはベルンとチューリッヒにおいてでした。が、ナチス時代のベルリンから逃げなければならなかったときは、再びスイスにはいることは許されませんでした。もちろんイタリア行きの選択は不可能で、ジョイスはユダヤ人ではありませんでしたが、その彼ですら、ムッソリーニの不寛容な時代に、(東西貿易の中継地として中世以来ユダヤ人が築いた)トリエステからチューリッヒへと余儀なく立ち去ることになりました。






スコットランドは、これから

スコットランドの独立の根底に、イギリス問題があります。スコットランドがモデルのひとつにしているアイルランドからみると、そうです。米国に仕えて地球の裏側までいく核搭載のトライデントにも、サッチャーとブレアの戦争にも、こういう英国の大英帝国の夢を追う国威発揚に、平和主義のスコットランド人からすると、自分たちの税金が使われていることは全く納得いきません。一方膨大な無意味な軍事費支出によって陥った財政難を理由に、一方的に福祉予算がカットされること(年金受給年齢がスコットランド人の平均寿命より上に設定されてしまう可能性があること)に対する反発は、米国に仕えて地球の裏側にいく集団的自衛権の日本の将来において起きてくる反発かもしれません。他人事とは思えません
スコットランドが独立を要求する背景として(1)で述べた事実があるにもかかわらず、「民族主義エゴ」と非難する声が、イギリスではなく、EUの結束力を擁護する側から出てきたのはいささか驚きました。その根拠も、(第一次大戦を招いた多民族主義であった)オーストリアーハンガリー帝国や(分割された小国の集合体であったために実効的支配が空洞化した)神聖ローマ帝国の失敗例を参照するというものです。ゲームの規則が変わったのでしょうか?EUの Small is beautifulという民主主義的多様性の精神はどこへ行ってしまったのか?EUは「帝国の構造」になり果てたのか?このようなEU擁護の言説は、きっぱりと、グローバル資本主義の荒波に対して自立できない「民族エゴ」の小国は寧ろ大国に頼れと説得するのですが、スコットランドはイギリスに頼れないからこそ独立しようとしているのに。イギリスそのものがグローバル資本主義という事実がみえていません。とにかくいかに反対の声があろうと、スコットランドの国民投票の影響は、他のバスクやフランドールの地域だけでなく、ヨーロッパの外に、例えばクルドやケベックに及ぶことは必至。その場合注目されているのは、事実上中国から独立してはいる台湾が新たに国民投票によってその独立を宣言するという可能性です。同じように、アメリカが要求し安部自民党が受け入れようとしているTPPと(事実上米国のための)集団的自衛権の脅威に対して、日本はアメリカの主権から独立していることを宣言する国民投票を行うべきではないでしょうか!


だれが自殺するのか?だれを無実とするのか?

ナチスであれ、天皇ファシズムであれ、全体主義の政治の言葉は、軽くてつるつるしている不気味なものでした。(今日安倍首相が繰り返しているような)「守れ!」という、非常に単純明快に、全部のことを包摂してしまおうとする言葉が流通し、差異(多様性)を消去し尽くしましたー収容所をつくるまで。もし市民社会の抵抗も敗北し、(ファシズムのせいで) 外部世界から差異(多様性)が消滅してしまったときに、知識人の最後の抵抗は、自己の中の<掘り返せ掘り返されろ>という自己差異化です。(ハンナ・アーレントがこのようなことを言っていました。) 徹底した内部から差異をつくりだす抵抗は、自殺のリスクをともなうものですが、実際に自殺したとき知識人に罪があるのでしょうか?ベンヤミンの自殺は罪なのでしょうか?この点について、知識人の自殺は無実であると作家は訴えていたのではなかったかと昨日の稽古の見学で考えました。



そうして政治の世界が非政治化してしまったならば、(大きな人間に再び政治化をもとめることよりも、)、非政治の世界が政治化していくチャンスを活かした方が。大きな人間が<掘り返せ掘り返されろ>をやめたならば、そのときこそ、小さな人間たちが、自らが依る世界を、<掘り返せ掘り返されろ>化していくチャンスがきたというふうに悲観的且つ楽観的にかんがえておりますニャリ

ナチスであれ、天皇ファシズムであれ、全体主義の政治の言葉は、軽くてつるつるしている不気味なものでした。(今日安倍首相が繰り返しているような)「守れ!」という、非常に単純明快に、全部のことを包摂してしまおうとする言葉が流通し、差異(多様性)を消去し尽くしましたー収容所をつくるまで。もし市民社会の抵抗も敗北し、(ファシズムのせいで) 外部世界から差異(多様性)が消滅してしまったときに、知識人の最後の抵抗は、自己の中の<掘り返せ掘り返されろ>という自己差異化です。(ハンナ・アーレントがこのようなことを言っていました。) 徹底した内部から差異をつくりだす抵抗は、自殺のリスクをともなうものですが、実際に自殺したとき知識人に罪があるのでしょうか?ベンヤミンの自殺は罪なのでしょうか?この点について、知識人の自殺は無実であると作家は訴えていたのではなかったかと昨日の稽古の見学で考えました。



ジョイスは無実

なぜ、言葉遊びがジョイスに起きてきたのでしょうか?彼の言葉遊びは、言い間違いに類似しています。ただしフロイトはどの言い間違いも例外なく、故意に行われていると見抜いたように、言い間違いも言葉遊びも、<未来からの回帰>というべき現象と関係しているのです。例えば、言い間違いというのは、未来に向かって喋るとき死に切った過去が話者の意識に介入するときに起きるということなのです。ならば、ジョイスの<ギリシャ精神のユダヤ人>という造語で、作家はなにかを言いたいのであります。それはなにか?歴史に即して考えますと、ジョイスの時代にアイルランドのナショナリズムの言説は、体育協会の古代スポーツの継承者という国家的身振りによって、古代ギリシャとの連続性を演出していました。これに対して、ジョイスは、ギリシャの過去を、<死に切った過去>としてとらえます。そうしてこの(称えられた) ギリシャの過去が、近代国家の発明物である(排除された)'ユダヤ人'を住処にしているという恐るべき反時代的なアイロニーで対抗してみせたのですね。三木清の場合も、過去を、死に切った過去と構成することによって、末法の時代の抵抗の意義が考えられました。この三木の先駆性は、靖国の英霊を消滅させた戦後の憲法的構成において明らかであります。つまり象徴天皇制のもとの政経分離の原則のことですね。'英霊'は憲法の言葉を住処にするようになりました。ほかでもない、憲法に依る以上ー憲法の外に存在するのようにみえてもー、首相の憲法違反の靖国参拝はまさに'英霊'をホームレスにするということを首相ははっきりと知るべきなのです!


ジョイスの言葉遊びの解釈は、アンナリヴィア的<ギリシャ精神のユダヤ人>の俺は無罪というジョイスの弁明に尽きる(笑)。この彼の言葉遊びを成り立たせる条件は、未来からの回帰と関係している。言い間違いは、未来に向かって喋るとき死に切った過去が話者の意識に介入するときに起きるのではないか?
<ギリシャ精神のユダヤ人>。このように、ジョイスの言葉遊びは尽きることがないのだが、しかしかれが言いたいことは、ただこのことだけだった。その<ギリシャ精神のユダヤ人>であるこのわたしは無罪だということ。つまり言葉遊びは自身の弁明にとって絶対に欠かせなかったのである。これを歴史に即して解説しよう。ジョイスの時代にアイルランドのナショナリズムの言説は、体育協会の古代スポーツの継承者という国家的身振りによって、古代ギリシャとの連続性を演出していた。(これは今日、'古代日本'が近代国家の言説を住処としているにもかかわらず、'古代日本'がこの言説の外に独立しているかのように考えられているのと同じ。身を引き締めて反省するときにー多くの場合は武道の軍国主義的体罰で黙らされているだけなのだがー、'古代日本'が最も思い出すことができるとばかりに。) これに対して、ジョイスは、ギリシャの過去を、<死に切った過去>としてとらえた。その上で、このギリシャの過去が、近代国家の発明物である(排除された)'ユダヤ人'を住処にするという恐るべきアイロニーで対抗したのである。
三木清の場合も、過去を、死に切った過去と構成することによって、末法の時代の抵抗の意義が考えられた。この三木の先駆性は、靖国の英霊を消滅させた憲法的構成において明白だ。英霊は憲法に依る以上ー憲法の外に存在するの様にみえてもー、首相の靖国参拝は英霊をホームレスにすることを意味するだろう。


彼/彼女/あなた「遠く隔たったある世界で互いに魅惑する呼びかけ、それが美だ」
わたし「あなたがたは、だれがだれに呼びかけるというのか?」
彼/彼女/あなた「黒人の不法入国者が二人が舞台にいた」
わたし「ほかには?」
彼/彼女/あなた「アブゾルートという盲目の若い女。身寄りのない女。遺体処理係とその妻と糖尿病の母。人文科学を問う老いゆく女性哲学者....」
わたし「ほかには?」
彼/彼女/あなた「金細工商。残された少女の父。殺された少女の母。自殺者1と自殺者2。通り魔事件で生き残った人々のコロス。ドライバーたちのコロス。若い男の医者。大統領。そして赤毛の女だ」
わたし「なぜあなたがたは互いに呼びかけるのか?」
彼/彼女/あなた「われわれは黙りこくったままおとなしく身動きひとつしない大地に、分裂、脆さ、亀裂といったものを回復させてやろうというわけだ」
わたし「舞台はどうなるのか?」
彼/彼女/あなた「大地は、われわれの足もとで、再び不安に打ち震えているのである...」


無実 X 舞台

あなた「遠く隔たったある世界で互いに魅惑する呼びかけ、それが美だ」
わたし「あなたがたは、だれがだれに呼びかけるというのか?」
あなた「黒人の不法入国者が二人が舞台にいた」
わたし「ほかには?」
あなた「アブゾルートという盲目の若い女。身寄りのない女。遺体処理係とその妻と糖尿病の母。人文科学を問う老いゆく女性哲学者....」
わたし「ほかには?」
あなた「金細工商。残された少女の父。殺された少女の母。自殺者1と自殺者2。通り魔事件で生き残った人々のコロス。ドライバーたちのコロス。若い男の医者。大統領。そして赤毛の女だ」
わたし「なぜあなたがたは互いに呼びかけるのか?」
あなた「われわれは黙りこくったままおとなしく身動きひとつしない大地に、分裂、脆さ、亀裂といったものを回復させてやろうというわけだ」
わたし「舞台はどうなるのか?」
あなた「大地は、われわれの足もとで、再び不安に打ち震えているのである...」

ー「遠く隔たったある世界で互いに魅惑する呼びかけ、それが美だ」(ブロッホ)。
Question; 「あなたがたは、だれがだれに呼びかけるというのか?」
ー「黒人の不法入国者が二人が舞台にいた」
Question; 「ほかには?」
ー「アブゾルートという盲目の若い女。身寄りのない女。遺体処理係とその妻と糖尿病の母。人文科学を問う老いゆく女性哲学者。金細工商。残された少女の父。殺された少女の母。自殺者1と自殺者2。通り魔事件で生き残った人々のコロス。ドライバーたちのコロス。若い男の医者。大統領。赤毛の女」
Qusetion; 「なぜあなたがたは互いに呼びかけるのか?舞台は何が起きるのか?」
ー「われわれは黙りこくったままおとなしく身動きひとつしない大地に、分裂、脆さ、亀裂といったものを回復させてやろうというわけだ。大地は、われわれの足もとで、再び不安に打ち震えているのである...」(渡辺一民訳、フーコ「言葉と物」序文)


稽古を見たかぎりでも、Choreograhyにも新しい息吹が。精神と精神が、「土」に束縛されたそれぞれの肉体から離れて幾何学的窓から抽象化の世界を観察していくのは、演劇の舞台空間を表現していた。町田さんと太郎さんの動きに注目した。そういう観念の世界でしかつくれない思想でも、多くの人々のあいだに伝われていくことになれば、思想は物質と同じものになっていく。これは、ほかならない、原口さんが見事に演じていた女性哲学者が自ら依るところの信念である。その信念は彼女の繰り返し突き刺すという身振りとジェスチャーをもって顕現する。フェミニズムがイラク戦争の問題に責任をもとうとしないポストモダンの言説を非難している。それにしても匿名の自殺者を演じた熊谷さんがもつ、黒い火山のような反抗的な強度とは何であろうか。この死者は死後の世界においても自殺してみせるのではないかと期待させる。つまり人間というものは、生きることにもまた死ぬことにも安住できないことを突きつけてくるアイロニーがある。どうするのか? どうしようか!誰も知らない 。われわれはただ、演劇が問うてくるこのアイロニーにしたがっていけばよいのである。


稽古を見学したとき(自分の勉強不足で)あまりみえなかった奈須さんが、舞台写真をみると、衣装のおかげで、女哲学者とダンサーとの関係をもっていることが非常に鮮明にわかりました。白黒の衣装で、三人並んだ真ん中で起き上がってくるのは大変象徴的とおもいました。あと、移民の民樹さんの衣装ですね。五月にいただいた台本を読んではわからなかったのですが、赤ん坊のように海を見渡すこの二十一世紀的存在が、一九世紀・二十世紀の衣装を着た過去にむかってなにを喋るのかということがみえてきました。これからの演劇は、このような衣装の言語を利用して、このテーマを押し進むべきだとおもいました

柄谷行人は、1970年代以降の従属理論の理論家たちが物語るように、神話的言説(例えば、「天命」概念。またトポロジー概念)と歴史的事実を組み合わせた、あるいは互いに溶け合わせたような詩的な書き方(西田の書き方!)で物語ることを決めたのだと気が付きました。かれの場合、いわゆる西欧世界の現在を正当化する為に'書かれた'産業革命中心の近代史の記述にはもはや、それほど特権的な価値を見出していないようにもおもえます。それがまさに「世界史の構造」の神話的リアリズムの言説に他ならないわけですが、柄谷が強力に展開しようしていく(物語的な)言説にたいしては、この言説の内部から内部に即して反論していくべきだとする強い必要性がこの私にかんじられました。とはいえ、やはりわたしの力が全然足りず、やや中途半端なこの書き方でよかったかと非常に反省しております。歴史的事実の重要さにかんしては、まったくおっしゃる通りです。ただ、とくに歴史的事実のうち、たしかに絶対に無視してはならない、多党制の構造と土地の私有がないということを実証的に指摘しさえすれば、(これは柄谷にしたがうと交換のヴァリエーションにすぎないのでありますが)、柄谷が展開し始めた言説的な思考にたいして、柄谷にたいして十分になにかを反論したことになるのだろうかというと、正直わかりません。ですから、今回は、柄谷の考え方を批判的に分析したいとおもったのですが、たしかに、石井先生がご指摘するように、プラス、柄谷がみえていない、又はみようとしてない歴史的事実との関係を分析的に書くことがやはり大切。これからの課題。日ごろFBで石井先生から流していただいている、(現在を含めた) 歴史的事実の情報と分析はその意味で本当に貴重なものです。これにもとづいて書き直していけば、なんとか書き進めるのではないかと考えています。

たとえば、近代国家の限界 を超えようと、旧世界帝国の理念(たとえば、オーストリア帝国)を高度な次元で利用した芸術家・作家・科学者たちが活躍した歴史のことは、ドウルーズが、シェーンベルグの無調の十二音楽、フロイドの精神分析、カフカの文学、ヤコブソンのチェコ言語学、アインシュタイン相対性理論等々多くの例に即して物語っています。これらの前衛的近代がなければそもそも(それを乗り越える) ポストモダニズムも成り立たなかったのは当然ですが、このドゥルーズを読まなくともですね、近代というのは、ポスト帝国の'脱領土化'の方向で、<帝国を失ったからこそ、(昇華的にそれに代わる)なにかを得た>ところから形成されてきたという歴史の展開をそれなりに了解できます。さてそれならば、アジアからは、旧中国帝国(清とか宋とか。柄谷は元を高く評価しています) の理念を高度な次元で復活させた文化が出てくる可能性だって同じようにありますね。この点について、(柄谷は、'未来からの回帰'という難しい言い方をしていますが)、要するにつまり、文化が '未来を思い出す'、つまり、アジアのルネッサンス(文化復興運動)が起きてくる可能性ですね。ところが柄谷はドゥルーズに依りながらも、文化理論を遥かに超えた言説を政治的に展開し始めました。東アジアを吸収していく帝国の政治的復活をいうのです。これは、私の理解が正しければ、「世界史の構造」のなかで示唆されていた'交換様式x'をなすものです。そうして一連の思索の具体的な帰結として、中国を読む「帝国の構造」を世に問うことになったわけです。が、驚くべきことに、精緻に構築されたこのような政治的イデオロギーがいかに危険であるかです。たとえば、国家を規制する近代的な憲法を要求している知識人たち(例えば天安門事件の知識人)にたいして、<諸君が要求する近代憲法の名宛人は、近代国家であり、われわれが築き上げて行こうとする帝国の将来とは関係ない、時代遅れの事柄だ>という合意を言説的に生みだしかねません。また、近代の枠組みを超えた旧帝国の朝貢貿易をモデルとした包摂的な似非ユートピアをもって、現実に政治的独立を要求しているチベットやウイグルにたいしてこれらを拒む権利があることを「帝国」理論にもとづいて西側に主張してくることもあり得ます。ただし、中国の知識人は、柄谷ほどには、'帝国'というアイデアを打ち出しているわけではなく、柄谷が「あとがき」でかいている汪輝のようなイデオローグが'朝貢貿易'の非歴史的言及のうちに'帝国'の現代的意義を示唆しているだけのようです。柄谷は八十年代を中心に非常に良質な言論を展開してきたわけですが、(マオイズムでもないし新新京都学派でもないとおもいますが)、「帝国の構造」をもってなにを意図しているのか正直まだわかりません。が、とにかく、ノスタルジックな、ポストモダンのモダニズム化という、世界同時代的に起きている奇妙で厄介な反動の影(反知性主義のヴァリエーション?)が、われわれのなかに、われわれのまわりに、われわれの下に、展開されてきていることだけは確かであります。

私の文章が下手なものですから、このように、柄谷にたいする批判よりも、私にたいする批判がでてきてしまいます(笑)。ご存じのように大変な相手なので、最初はクリアーに、十個の質問をザーッと並べようかとも思いましたが、こういう形になりました。石井先生がよくわからないとすると、これはこのままではいけません。が、書き直す前に、ただ一点、柄谷は、1970年代以降の従属理論の理論家たちが物語るように、神話的言説(例えば、「天命」概念。またトポロジー概念)と歴史的事実を組み合わせた、あるいは互いに溶け合わせたような詩的な書き方(西田の書き方!)で物語ることを決めたのだと気が付きました。かれの場合、いわゆる西欧世界の現在を正当化する為に'書かれた'産業革命中心の近代史の記述にはもはや、それほど特権的な価値を見出していないようにもおもえます。それがまさに「世界史の構造」の神話的リアリズムの言説に他ならないわけですが、柄谷が強力に展開しようしていく(物語的な)言説にたいしては、この言説の内部から内部に即して反論していくべきだとする強い必要性がこの私にかんじられました。とはいえ、やはりわたしの力が全然足りず、やや中途半端なこの書き方でよかったかと非常に反省しております。歴史的事実の重要さにかんしては、まったくおっしゃる通りです。ただ、とくに歴史的事実のうち、たしかに絶対に無視してはならない、多党制の構造と土地の私有がないということを実証的に指摘しさえすれば、(これは柄谷にしたがうと交換のヴァリエーションにすぎないのでありますが)、柄谷が展開し始めた言説的な思考にたいして、柄谷にたいして十分になにかを反論したことになるのだろうかというと、正直わかりません。ですから、今回は、柄谷の考え方を批判的に分析したいとおもったのですが、たしかに、石井先生がご指摘するように、プラス、柄谷がみえていない、又はみようとしてない歴史的事実との関係を分析的に書くことがやはり大切。これからの課題。日ごろFBで石井先生から流していただいている、(現在を含めた) 歴史的事実の情報と分析はその意味で本当に貴重なものです。これにもとづいて書き直していけば、なんとか書き進めるのではないかと考えています。海外から帰ってきたら、新しい気分で書き直すつもりでいます。

近代の条件ーとくに法の支配にかかわることがらーは、どこからの国からしか判断するしかないわけで、具体的には日本から判断することになりますが、12年間ヨーロッパにいたわたしからみると、それほど日本に法の支配があるとはおもっていません。とくに法の支配の要である憲法の司法審査に関しては、最低限度の条件すら満たしていないとおもっています。とくに中国にかんしては、ヨーロッパだけが、法の支配にかしてはなにかを十分に発言できるようにおもいます。


人間は自らにたいして人間であることが無罪である場合と、罪となる場合


人間という自己差異化
- 昭和十年代と大正

人間が自らに正当化を与える、人間の人間自身の読みが依るのはただ、人間の<他>に依ることが不可能という自己関係への絶対的な依拠です。例えば、これは、<他>が死に切ったファシズムに対する抵抗の砦を構成しました (戦後文学)。一方、同じこの人間の自己差異化は、大正時代においては欺瞞的にしか作用しないのは、なぜだったのか?大正は、昭和十年代と比べて、まだ依拠できる<他>があったからではないでしょうか。つまり大正の言説は、台湾・朝鮮そして中国という<他>から、帝国的国土を築いていく自らの国のあり方を批判していく可能性がまだあったのです。しかしヨーロッパ前衛との同時代性がいわれたこの時代に、あたかも<他>が実在しないかのような観念的な特権性のうちに人間精神の称賛が起き、この称賛のもとに、<大地となっていく'民衆'像>のファシズム的言説の端を覆い隠していったとしたら、それはやはり考えなければならない歴史のスキャンダルだとおもいます。二十一世紀に繰り返さないために

人間は自らにたいして
人間的に人間らしくあることが
無罪である場合と、
それとは逆に罪となる場合がある。
厄介なのは、
無罪のときには罰せられるし、
有罪のときにかぎって罰せられることがない。
学生が刑法の教科書を読むようには
予定調和ではあり得ない....


単純な計算ではありますが、もともと原発の供給する電気は全体の三割程度でしたし、(素人考えといわれても、それでもこの地震大国にあっては、やはり原発の数は多過ぎ!)、その全部原発がとまったこの一年間で、原発の稼働がなくともなんとかやっていけたのだと一応証明されましたのではないでしょうか。すくなくとも、それほどひどいことにはなりませんでした。無事に甲子園大会も中継できた (苦笑)。ちなみに原発停止と不況の関係をいう者もいたりしますが、3・11直前までこの経済は超酷い不況だったことをお忘れでしょうか?ただし考えておかなくてはならない問題があるとすれば、来日したチョムスキーがいう点ですが、今後も続くということも含めてこの一年間で日本が海外から輸入してきた石油消費の影響がもたらす地球温暖化の問題。たしかに地球の命にたいする責任があります。しかし安全神話のカタストロフィーを推進してきた自民党政権のもとで危険な原発再稼働にいくよりは、むしろ、グローバルに永遠の成長神話に支えられた経済のあり方を日本からかえていくことが、地球にたいする責任の方向ではないでしょうか。そういう意味で、実質的な雇用も増えないのに、いつまでもバブルを真似たアベノミックスは全く時間の無駄といわざるをえませんね。
(電気節約をいっておきながら、あの国産の戦闘機”心神"をつくるのにどんだけエネルギーをつかうのかしら?政府と企業は率先してこういう無駄をやめていくことでしょうよ)

映画は生産されている。ゴダールが五十年代後半に認めた映画の消滅は、映画の不足を意味しない。問題にしたのは、映画によって思考できるかだ。ベンダースの時代には映画が多すぎて見切れないほどだ。映画史を考える者には大切な映画か分からなくなる。「映画史」前半では、夢の工場と楽観的に指示される映画産業が資本主義と連動している。が、二千年以上の歴史を持つ本は時代遅れといわないのに、映画は百年たたずに時代遅れに。映画の誕生から未来がない。映画は死に切ったと言った。(これは三木清に通じる反時代的態度である。) ゴダールにとっては、映画は言葉を住処にするようになる。あたかも映画は言葉の外に実在すると考えられるときに、サイレント映画が発見された。パレスチナ映画以降八十年代からのゴダールは、ウィットゲンシュタインの転回と比せられる。映画は言葉へ行く。映像と音の実験は言葉の方向と別々にあったのではない。映画における映像と音の実験が依るのはまさに、映画が言葉を住処としたことに依った。映画史の道連れとなった他者が言葉。思想史の映像化だ


香港長官選、民主派立候補できず 全人代、制度で排除 - 朝日新聞デジタル

台湾に続いて香港

民主主義の政治的決定権が奪われる、と50万人があつまった!なんという危機感!!集団的自衛権やTPPなどに対して日本だけ国会を取り囲む人々が来ないのはなぜでしょうか。脱原発の国会前では十万人に達したか疑わしかったです。平和的に行う, 来たるべき市民の蜂起の条件を考え進めなくては、ですね。そのためには、なにか思考が決定的に欠如しているんじゃないでしょうか。つまり市民が自ら立つための哲学なり思想、思想史を構築していく学びが必要とされているとおもいます

民主主義の政治的決定権が奪われる、と、50万人の人々があつまった!台湾に続いてこんは香港!なんという危機感!!民主主義の政治的決定権を奪う帝国主義に希望をもつ者はアジアにはいないとあらためておもいます。希望を持っているのは、ただ柄谷行人のような<帝国の構造>を称えようとする日本知識人だけです。柄谷の国家に任せて市民は黙って待っていろ!ということでは、人間を消極的にするだけではないでしょうか。繰り返すようだが、なにか思考が決定的に欠如しているんじゃないだろうか。つまり市民が自ら立つための哲学なり思想、思想史を構築していく学びの場が必要とされていると思います。柄谷から学ぶところは学んでいくーカントからマルクスを根本的に考えていった姿勢。これは普遍的な思考を大切にする姿勢ですから


夢 (dream)

ハリウッド映画は、'夢の工場'といわれてきた。ジジェクによると、夢(dream)という言葉は、ヨーロッパ人はアメリカ人ほどには口にしないという。ちなみに、ファシズムは、ハリウッド映画と対抗するかぎりにおいて生きながらえた。その結果は'芸術としての政治'という最悪の夢を現出させてしまったのです。ところで今朝海外の新聞をみていたら、中国が国際市場に向けてなんとチャイニーズ・ドリームを発表したというのですね(中身は儒教的語彙で説明されている)。嗚呼、アメリカン・ドリームとチャイニーズ・ドリーム、資本主義は世界に遍在しています。ただし中国が西欧世界と決定的に違う一点が、土地の私有制をみとめていないことです。土地所有なき資本主義、果たしてこれは可能なのか?これは何を意味していくのか?五百年前にイタリアのフィレンツエとかべニスで始った資本主義が、最終的に、アジアにおいてどのような形をとっていくことになるか?誰がこれを語るのかという問題も視野に入れて、法学部の学生諸君は、法と社会の関係をめぐるこの未知のテーマを研究してみたらいかがでしょうか?もう破たんしたと囁かれはじめたロー・スクールの皮相な真似事をやめてだね



(推敲中)
痛い!と、日記でその感覚を'E'で名づけておくとします。さて"痛い'という私の感覚は、永遠には続くことはなく、いつかは消え去ってしまうでしょう。私の痛さは、'E'という徴を住処とするようになります。それなのに、あたかも痛さは記号'E' の外に実在するかのように考えられています。しかし私の痛いという感覚はあくまで、記号'E' を拠り所としているだけです。しかし記号'E' が、私の痛いという感覚を表しているという正当化はだれが与えるのでしょうか?再び私ではあり得ません。それはただ、記号'E'を他者がいかに理解するかに依ります。つまり他者が記号 'K'の内容を決めます。しかし私は痛さを「持った」のであり、痛さを「理解した」のではありません。私の痛さを公に示すためにはただ、記号 'K'によってしかありません。だからいくら小泉元首相と安倍首相が靖国公式参拝が自分の心に属する"X"の問題と主張しても、公においては、それらは最初から最後まで他者の言葉の媒介によって成り立つものです。あたかも他者の言葉の外に、かれらの心が存在するのではありません。だからこそ、公から、われわれの言葉はかれらの心に介入していく責任があります。

国会前デモだって、「安倍さん、どうかXXをおやめになってください、おねがいだから」みたいなMっぽい請願でしょう?それすら自己規制して中々言えないほどです。それが、今回のヘイトスピーチ規制の鎖で自分を縛ろうとするとは!?イヤ、案外、ここまで服従の猿ぐつわ的マゾヒズムに陥ると、権力側のサデイズムもずるずると限界なく自分の暴力をひき出されてしまいカオスのうちにかえって権力崩壊が起きるかもしれないという逆転劇!・・・というような文学的な話もしてみたいものでありますが、脱原発・反TPPの自民党議員の公約と安倍の絶対安全保障のホラ話に続いて、ほんとうになにもかもさかさまになってきたきわめて欺瞞的で深刻な事態 (汗)。いくら法の目的がよくとも、運用によってひどいことになるということがわからないのでは、左翼はこまります!

こういうふうに、世界文学の、国もジャンルも異なる作家達からそれぞれのパッセージを並べることによってなにか共通の主題を分析してみせるのは、比較文学研究comparative literature というんだよ。この一国を超えて横の関係でみていく方法は遡るとフランスからなんだけど、1990年代以降は文化研究などの多様な視点が大切となってきて、7年間自分が教えていたアイルランドの高校でも生徒たちーとくに留学生ーが、この比較文学の方法で作文を書くことが当たり前に要求されていたなあ

政治の言葉は、約束するとか、宣言するとか、基本的には行為としての言語です。でも安倍さんは、言葉は「飾り」のようなもので、行為は別にやればいいと思っているんじゃないか。(金田一秀穂)



人は母親が「変だ」と気がつくのだろうか。中学生か、おそくとも高校生のときだろう。それまで当たり前とおもっているから本当に怖ろしいことだ。フクロウ猫はいまは、泥棒髭をはやしても隙だらけのものをとられそうな人のいい泥棒さんにしかみえないが(なんのこっちゃ?)、子供時代の海外生活のときは、ライオンボーイと呼ばれたほどわんぱくだった。と、オフィ−リアから「言うことをきかないと、鞭でうつわよ!」と脅かされたという<白日夢>のカトリーヌドヌーヴ的世界に生きていた。中学生になったときでも、そのオフィーリアが家庭訪問にきた担任の先生に鞭を買った方がいいのかを真剣に相談したとき、先生はブったまげていたが、そりゃー、そうだよな



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ALSO SPRACH OWLCAT 2014年 9月 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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