言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCAT 2014年 9月 続き

<<   作成日時 : 2014/09/27 02:13   >>

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綴り字法(orthography)

辞書をひくと、綴りは、布きれなどをつなぎ合わせてつくった粗末な衣服の意。綴り字法(orthography)とは、欧米語を表記する際の文字の並びです。綴り字といえば、プルーストは小説のなかで所有したい愛人の名の綴り字に凝りました。担任の女の先生が英語のくずした綴り字で私の名前を示したときこれを読めず後で屈辱感を覚えた子供時代の厄介な記憶があります。四年間の自身の依った世界が全部否定されたと感じたものです


セルフサービス

田園調布駅前のパン屋は、人手が足りません。隣のテーブルに、いかにも遺産金を沢山もってそうな上品な年配の女性と高級背広の息子がやってきました。その息子は苛立ちはじめました。と、立ち上がってカウンターに行き、「コーヒー、早くしてよ!」と忙しい女性店員を叱りつけたのです。このおじさんはセルフサービスの店にくるべきではないのだが、世の中はセルフサービスの店しかなくなってしまったのですね。この彼の苛立ちは、もしかしたら行くべきお店がなくなった自分の現在にたいして向けられていたのかも?奉仕されていた男性少数派は現在、秋葉原のメイド喫茶に行くしかないのです(汗)



安世鴻氏が選考委員会で選ばれ、新宿で写真展を開くことになっていたものを、抗議を受けてからわずか1日で、ニコンが中止の判断をした。他者の痕跡は消すことが倫理的に許されない。社会が痕跡を隠蔽したら、'慰安婦はいなかった、一人も存在しなかった'と訴える政治家が現れてくるのは必然だからね



MEMO; ヘーゲル「法哲学」

自由の闘いを見学するツアーは、イタリアから出発。都市がいかに自らの自由をもつに至るのか見学することからはじまります。都市は、教皇と皇帝の争いを利用しながら自治権を獲得していきました。スイス自由都市の歴史も大切。さて自由の闘いの舞台は、ルネッサンスと宗教改革を経て、北欧へと移っていきました。世界史ではじめて無宗教の人々が現れるのは、新興国オランダの都市においてです。オランダで起きた全部のことは一世紀後、イギリスで起きてきます。産業革命のことは直ぐ後で述べます。自由の闘いが炸裂したのはパリです。フランス革命。反動と更なる革命、再び反動。更なる革命。こうして歴史は、財産所有者の共和主義から、無産者の共和主義へ、人間が人間自身を思考する自由へと進んできているようにみえます。さて産業革命の<後>に何が語られてくることになるのか?上流階級に注目すると、グローバルな資本家に対抗した、貴族たちは、反リアリズム的な価値観を形成しました。重要なことは、共和主義は啓蒙の理性から民族の想像力へとその住処を変えたときには、後者において貴族と農民の「持つ」価値観が書き込まれていたということです。ナショナリズムの担い手は実際には、ブルジョア達でした。ボナパルティスムにおいてみられたように農民の声なき声を代表していったのですね。そしてそれら全部を超えるものとして、マルクスは、グローバルな「持たない」共和主義の理念を構築していくことになります。だがその前に、マルクスはヘーゲルの「法哲学」ー国家と民族に至る世界史の物語ーを脱構築しておかなければならないのです。そうして問うたのです。モノとカネに呪縛されたグローバル資本主義にたいして、市民社会はいかに、人間のモノとカネに依存しない絶対精神として外部的に存在していくのか?(インターナショナリズム!)。モノとカネに依存しない知はいかなる条件のもとで可能なのか?(教育の無償化!)。これは二一世紀の問いとして存在しています。


ジジェクは香港の雨傘革命を支持している。いくら豊かでも投票なき資本主義の体制は無意味だからだ。この点はさすがに明快だ。さてジジェクは投票制の問題だけではないと言い進めるとき、資本主義に収奪された人々との連帯を説く。「諸君は夢を実現するためにはー」と強調する彼がいう「夢」とは何を意味するのだろうか?あまりはっきりしない。もし<中国共産党に対して闘え>ならばその夢は革命と等しいものを意味する。そうではなく、その夢を検閲する方向で、<中国共産党の内部で共に闘え>を意味するならば柄谷的に帝国に従えというメッセージ。未来の扉を開くのはいったいどちらと考えているのか? 市民革命か?帝国の構造か?直にジジェクに質問してみたい。



Yes ! This tells how to escape the capitalism. We can't be perpetually alone along the capitalism universe.

Alone, what did Bloom feel?
The cold of interstellar space, thousands of degrees below freezing point or the absolute zero of Fahrenheit, Centigrade or Réaumur: the incipient intimations of proximate dawn. ( James Joyce, 'Ulysses')


This is really great !
Zizek Supports "Umbrella Revolution" 齊澤克發聲明支持"雨傘革命"

Dear Hong Kong students and people,


you have my full support in your pursuit of your "impossible" dream. History has repeatedly taught us the lesson that only by insisting what our society considers "impossible" that fate has ever been changed. And to play the adult's game of opportunistic compromises is to fail -so be REALISTIC, demand the impossible!

And remember that your dream is not only about the voting system. It concerns also your everyday life, your economy: the inhuman property price, ruthless privatization, capitalists from the North joining your own ones.
Without economic rights, without social justice and solidarity, a ballot is merely a fetish.

By now you have, I hope, realized that what's crucial in any emancipatory movement is your solidarity with and support from the oppressed grass root people. Only when they stand by you, those equipped with guns and lies would reluctantly compromise and that's when your "impossible" dream will be more than a dream.

My utmost blessing and always with you in our emancipatory struggle, Slavoj Zizek


戦争の作り方 (整理してみました...)

1、領土問題の存在。領土問題の解決は戦争によってしか解決してこなかった歴史を理解しないこと・理解させないこと。'国土'を求める排外主義
2、復興幻想。失業の問題は戦争の景気によって解決でき、また他に選択がないかのように言う選挙公約への広範な支持
3、政府が新聞社の言論を掌握。財界が公共放送の経営権を握ること...
4、秘密保護法。軍隊の情報を守れとばかり、'知る権利'が罰せられていく
5、個人の情報が守られない。自治体が自衛官募集に個人情報を積極提供
6、イデオロギーの虚説。靖国の起源に関する贋の文化概念。政教分離の否定
7、軍国主義への共感。死刑制度の支持。日本知識人の靖国公式参拝の正当化
8、女性に対する差別。国のために'生む性'という言説の復活
9、歴史修正主義。国の慰安娼婦の関与を否定する。教科書のコントロール
10、外国人・移民への差別。非寛容主義。ヘイトスピーチと市民の無関心


なぜノーベル平和賞が憲法9条に?
平和賞のメダルはサッカーでいうところの'レッドカード'だから

<本文> アイルランド時代でしたが、ノーベル平和賞は、北アイルランドの対立する政党達の代表者達に受賞させました。本来の意味で受賞に値する政治家もいることはいたのですが、しかし過去において人殺しか煽ってこなかったような党派的な政治家達の受賞については大きな疑問の声が南アイルランドできかれました。この場合、ノーベル平和賞は、次の戦争をやめなければならないと警告しなければならない相手に受賞させたのです。オバマ大統領は見事にこの警告を無視したので、オスローは彼に対して平和賞の返還を求めることが検討されているといいます。さて憲法9条がノーベル平和賞の有力候補に。これは、次の戦争をやめなければならないと警告しなければならない相手に受賞させるという点ではかわりません。世界が安倍自民党の日本をどのようにみているかがわかります。集団的安全保障によってこの日本から次の戦争が起きてくる可能性が非常にリアルになってきた事態を心配し警告を発しようとしていると読めます。なぜ平和賞が憲法9条に?答えは、平和賞のメダルがサッカーでいうところの'レッドカード'だから。戦争の作り方の全部に、すなわち従軍慰安婦、歴史認識、東京裁判否定、ナチス疑惑、領土問題の全部に


従軍慰安婦、歴史認識、東京裁判否定、ナチス疑惑、領土問題の全部に


PROUST AND SIGNS

ジェイムス・ジョイスは当時ヨーロッパ最大の赤線地帯において描いた悍ましいものとは、ブルームが冥界の死者と喋るとき棺桶に繋がる電話線であった。棺桶性というべきか?このジョイスの棺桶は、消滅したものが住処としている徴性のことだ。Hallo!と呼びかけるとき、死者が応答(存在)するのも、応答(存在しない)のも、ジョイスというナレーターの蜘蛛の遊戯に依ることである。そうして、プルーストの場合も、'逃げ去った女'も消滅した魂だったと気がつけば、「失われた時を求めて」は、「時間によって磨滅しない永遠なるものを無意志的記憶の中に見出す」、のではない。おそらく、ジョイスとプルーストの場合、永遠なものなどは存在しない。かれらの問題意識からそれほど遠くないところに、われわれの戦後憲法の唯物論的精神がある。戦後憲法も永遠なものをみとめない。生きるものたちを尊重せよ。靖国神社で祀るべき英霊とて、アジアの平和を願う友人のためなら消滅したと構成したのである。ただ憲法において不在の徴として存在するだけである。と、このような読みは、本当にプルーストのテクストから導き出すことができるのか?おそらく7年から10年かけての読みが必要で、見当はずれで挫折するかもしれない。文学を消滅させようとする「強い国家」にあって、関心をもつひともいないだろう。その勇気が全然ないくせに、若い人々に伝えて行くとかんがえているのはなぜなのだろうか?



ジャック・アタリ著「世界精神マルクス」を読み終えて

現在は失望のあまり、このネットにも、あたかもよき時代を懐かしむ言葉が頻繁にながれてきます。しかし現在は、敢えてこのノスタルジーを捨てたいとおもいます。ジャック・アタリが指摘するように、二一世紀のグローバリゼーションは十九世紀のグローバリゼーションと非常に似てきたので、未来の生存戦略をかんがえるためには、現在十九世紀の思考を構成しなおすことには十分な根拠があります。つまり、'世界精神マルクス'、とアタリがよぶものです。この世界精神は、なにが真の平等であるかを示す規範的言語normativeを含むだけでなく(例、教育の無償化)、いかにこの平等を行うのかという行動を問う言遂行的言語performativeを含むことを知るのが大切です。さて真の平等を実現する革命はまず、投票に依拠すること、そしてその他の出発点はありえないにも関わらず、この出発点から革命が直面するのはこの問題です。すなわち、社会民主主義は、投票によって得た権力は、投票によっても失うという問題です。歴史的にいうと、第一インターナショナルは十分にこの問題を論じていませんでした。(また第二インターナショナルでは民主主義国家に革命は不要と決めつけていたのでこの問題がそもそも存在していませんでした)。1870年代以降、思想の「最後の闘い」において、マルクスはその解決を、(国家の奪取を目的とすることがなかった)、市民的蜂起であった'パリ・コミューン'の実践に沿ってかんがえてみようとしました。



運動会帰りの親子

昨日はパン屋のテーブルで、小学校の運動会帰りの親子を何組かをみた。と、そのなかに、まだ若いが白髪まじりで大企業っぽく?威厳をもって自分の子供に対している古典的な父親がひとりいた。この古典的人物は、自分の息子をみつめる。「お前はあのときは友達とはこうした方がよかった」。サンドイッチをたべる娘をにらむ。「行儀よくしろ!」。そして「あなたは社会貢献は大人になって考えればいいというけど、でもね・・」と切り出した奥さんに一言だけ。「お前は議論に勝ちたいだけだ!!」。しばらくしてなんだか静かになったなと思って親子をみたら、ありゃ?真ん中でお父さんは疲れ切った帰りの電車の中のようにグーグーと赤ん坊みたいに寝ていた (爆)




米軍支援、世界規模に。「周辺事態」削除へ。

建前的な理念の呈示すらないまま、安倍自民党はいったい何がしたいのかさっぱりわかりません。が、超急いでとにかく、アメリカ軍の一部になってしまえ!という事実をつくりたがっているというかれらの焦りのことだけは。あるいは、それ以上のことかも。(これほどだと、歴史と逆方向に行くように、あたかも帝国への国家の主権の譲渡を喚起します) 。確実に、軍国主義化の方向と全体主義化の方向とが一致してきましたが、「しかし一体なんのために?」という疑問は膨らむばかりです。説明もありません。あるのは、戦争をつくるための流れだけ。と、このように自分たちでなにをしているのかわからなくなるという状況は、このまえの戦争の悲惨もそうでしたよね。まさか世界中に展開しているアメリカの戦争に「協力」していくうちに、二つ三つと、華々しく米軍にしたがってドンパチやったら、('反テロとの闘い'を宣伝する商売が儲かるにつれて)、この国の財政は成り立たなくなるでしょう。そのあと、どうしていくかをいまから考えておかないと間に合わなくなるというほどの一方的な進行と言わざるを得ませんがー



赤線地帯のジョイスが死者と喋るとき棺桶に繋がる電話線で喋った。棺桶は消滅したものが住処とする徴のことだ。ナレーターの蜘蛛の遊戯だけが手繰る。'逃げ去った女'も消滅した魂と気づけば、「失われた時を求めて」は「時間によって磨滅しない永遠なるものを無意志的記憶の中に見出す」、のではない


大正のアバンギャルドは本当に、
それほどアバンギャルドであったか?

・大正といえば、日本帝国主義の成立です。大正デモクラシーに先行して、植民地をもつ国家が確立したのです。大正にはいると、大正の知識人たちは、東洋のラテン語であった漢文エクリチュールを読めなくなっていたといいます。さて失われた普遍言語はどこへいくのか?なにによって回復するのか?大正時代は、驚くべきことに、留学に行く和辻哲郎がヨーロッパから新しく学ぶものがないほど、同時代のヨーロッパを吸収したのです。ただし失った普遍主義はドイツ語だけが回復したのではないでしょう。詩や演劇など芸術の言語もまた、新しい時代の普遍主義を構成していくのです。この点にかんして大正の前衛運動の言語がほんとうに普遍的だったかどうかは、前衛運動がどれほど国家から自立していたかに依ることです。渡辺一民氏はそう考えていました。だから、第一次大戦の国家が市民生活の隅々に介入した、総力戦の荒廃に匹敵する関東大震災の後にしか、いいかえると、国家に対する不信のあとにしか、前衛運動の受容が起きなかったという事実は大変重要なのですね。




香港の声なき声をいかに読むか?

国の秩序に反するから立ち退きしたまえ!は、国に本当の意味で秩序がなければ理性の知を動かせません。国が乱れているからこそ、立ち退かない愚者としてふるまうのですから。国に都合がいい「公」から身をひき、そうして晴れでも「傘」をさして街頭に立つのですー 天の「公」をもとめて。(アジアでは「公民」というのは、「市民」という意味になりますから注意しましょう)。ここでもし人々は愚者としてふるまうことすら絶望的に無意味だと知るときはどうするか?やはり国を捨てて逃げ出すしかありません。もちろん、これは、3・11以降、隣国の話として他人事では片づけられなくなってきました。香港の声なき声は、一党制の政治にたいする抗議。香港は自らを代表する声を奪われる危機に直面しています。同様に、(中国から独立しているはずの)台湾においても中台貿易にかんして自らを代表する声を奪われようとしています。最近の台湾のデモに香港から大勢の支援者が来ました。そうして考えると、なんとか!複数政党制が維持されているとはいえ、原発体制の一体構造(政財官マ裁)の体制も、”安全神話"のような捏造された合意を押しつけてきました。この恐怖は現在進行中です。この安倍の原発体制に異議申し立てしていくには、原発問題を徹底的に国際問題化していくことが必要であるように、現在アジアの学生たちも、国際的連帯を必要としています。具体的には、日本はどのように報じているのか、人々が関心をもってくれるのかがかれらの大きな関心です。残念ながら、いまのところは、香港と台湾の問題を自分の問題としてとらえきれていない人びとが多数派です。いかに自分たちの問題として構成していくのか?これについては一言で十分。現在台湾と香港の中国との関係は、TPPや集団的自衛権など日本のアメリカとの関係とパラレル。目覚めるときです。彼らの直面している全体主義の構造の問題は、たしかにわれわれが直面してくる問題でありますから。


Why am I writing when I write ?
Why am I editing when I edit ?
Why do I write when I edit ?


Why am I speaking when I speak?
Why am I reading when I read ?
Why do I speak when I read ?

Why is she looking when she looks ?
Why is she crying when she cries ?
Why does she cries when she looks ?

Why had image finished when it finished ?
Why did image begin when it begins ?
Why does image begin when it had finished ?

Why idoes it breeze when my murmur has just begun ?

人は書いているときに書いているのはなぜか?
人は編集するときに編集しているのはなぜか?
人は書いているときに編集しているのはなぜか?
私は話しているときに話しているのはなぜか?
私は読んでいるときに読んでいるのはなぜか?
私は読んでいるときに話しているのはなぜか?
彼女は見ているときに見ているのはなぜか?
彼女は泣いているときに泣いていたのはなぜか?
彼女は見ているときに泣いていたのはなぜか?
映像は終わっているときに終わり、始まっているときに始まるのはなぜか?
映像は終わってしまったときにいつものように始まるのはなぜか?
わたしのひとりごとが始まっているのに風が吹いてきたのはなぜなのか?


ここでSpinoza スピノザがobiectum ideae humanam mentem constituentis 「人間精神を構成する観念の対象」といっているのは、世界思想の、死ですら徹底的に観念化していく観念性の方向。ドゥルーズの「器官なき身体」の観念性もホ〜、そうニャリ。

PROPOSITIO XII. Quicquid in obiecto ideae humanam mentem constituentis contingit, id ab humana mente debet percipi, sive eius rei dabitur in mente necessario idea:hoc est, si obiectum ideae humanam mentem constituentis sit corpus, nihil in eo corpore poterit contingere, quod a mente non percipiatur.
定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような〈あるいはそれについてある観念が精神の中にないような〉いかなることも起こりえないであろう。
PROPOSITIO XIII. Obiectum ideae humanam mentem constituentis est corpus, sive certus extensionis modus actu existens, et nihil aliud.
定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。



「論語」の伊藤仁斎のラディカルな読み

子曰、ねい武子、邦有道即知。邦無道即愚。其知可及也。其愚也不可及也。

訳1、子の曰く、ねい武子(注、人物の名)、邦有るときは即ち知なり。邦道無きときは即ち愚なり。其知には及ぶべし。其の愚には及ぶべからず。


訳2 (子安) ; 孔子がこういわれた。ねい武子は邦に道が行われてよくおさまるときは、知者としてあった。だが邦に道が行われず乱れているときには愚者としてあった。その知者ぶりに人は及びうるが、その愚者ぶりをまねることはとてもできない。

コメント(梟猫);国の秩序に反するから立ち退きしたまえ!は、国に本当の意味で秩序がなければ理性の知を動かせません。国が乱れているからこそ、立ち退かない愚者としてふるまうのですから。国に都合がいい「公」から身をひき、そうして晴れでも「傘」をさして街頭に立つのですー 天の「公」をもとめて。しかし精神は愚者としてふるまうことすら絶望的に無意味だと知るときはどうするか?やはり国を捨てて逃げ出すしかありません。(ホ〜、それにしてもこれは3・11以降隣国の話で済まされるかですニャリ)



国の秩序に反するから立ち退きしたまえ!とは、国に本当の意味で秩序がなければ賢い理性を動かすことはできない。国が乱れているから、立ち退かない愚者としてふるまう。晴れていても傘をさして街頭に立つ。精神は、愚者としてふるまうことすら絶望的に無意味だと知るときは、国を捨てて逃げ出すだろう

PROPOSITIO VIII. Ideae rerum singularium sive modorum non existentium ita debent comprehendi in Dei infinita idea,ac rerum singularium sive modorum essentiae formales in Dei attributis continentur.
定理八 存在しない個物ないし様態の観念は、個物ないし様態の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)が神の属性の中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ。

GO !

香港の学生を支持します。香港の学生も、そして中台貿易に抗議した台湾の学生も、国際的連帯がなければ、全体主義的な同化主義にたいして市民的な抵抗を続けていくことは困難でありましょう。安倍自民党の原発体制の問題はこれを徹底的に国際問題化していくことが必要なように。現在アジアの問題を自分の問題としてとらえきれていない人びとのために、いかに自分たちの問題として呈示していくか?TPPや集団的自衛権など日本のアメリカとの関係において起きてくる問題が、現在台湾と香港でおきている中国に対する問題のなかにあるというようには考えていくことはできないでしょうか !


求め合う「敵」同士?

溜息が出ますが、現在の中国共産党と安倍自民党、この両者は、二十一世紀において歴史修正主義として現れてきました。皮肉にも、この両者は、あたかも互いに求め合う「敵」同士なの?複雑な現実をみると、互いに相手を非難することによって自らの権威体制の強化を有利に正当化しているようにすらみえます !? この場合、どちらが原因でどちらが結果なのかはわかりませんが、例えば、まず日本からみて中国共産党が権威的になればなるほど安倍自民党は靖国的全体主義の方向にむかって叫び、戦争責任の問題を曖昧にし、アメリカの「力」に従属化していくと、それに対して危機感をつのらせていく中国共産党の側が「中国的近代化」を口実に民主主義とは反対の方向に進んでいくという悪循環です。マスコミの問題も見逃せません。これにかんして遡りますと、日中国交回復の「政経分離の原則」(政治については干渉しあわず専ら経済の次元で協力し合うという原則)は一定の成果があり一応評価をしたいと思いますが、二十一世紀においてなお、報道の責任を尽くすべき日本のマスコミが慣性的にマニュアル的にこの原則にとらわれているとしたら、この根本的に政治を語らない姿勢は時代遅れにならないようによく検討する必要があるのでは。特に朝日新聞にかんしては、(現場の記者たちは事実を伝える努力をしておりその記事を読むことは可能ですが)、トップは教条主義的に文革の毛沢東主義に引きずられているということがあるのかも。はっきりと知りませんが、そういう指摘があります。(ちなみに現在の中国政府は文革の復活を恐れているということは西側のメディアも分析しています)。
さて台湾の学生も香港の学生も国際的連帯がなければ全体主義的な同化主義にたいして市民的な抵抗を続けていくことは困難でありましょう。現在アジアの問題を自分の問題としてとらえきれていない日本の読者のために、報道は、TPPや集団的自衛権など日本のアメリカとの関係において起きてくる問題が、現在台湾と香港でおきている中国に対する問題のなかにあるというようには伝えることはできないのでしょうか。そして、逆に、マスコミがもっとオープンに報じれば、(楽観的といわれるかもしれませんが)、中央の政治に台頭してきた極右翼のガス抜きの効果が期待できるかもしれません。最後の溜息は、厄介な、アカデミズムの介入の問題についてです。つまりサイードが論じた「知の政治」の問題を無視できません。中国の権威主義を正当化する世界史観(つまり西欧とは独自に成立したとかれらがいう中国的近代)については、この言説を教えているのが、ほかでもない、日本知識人、つまり、右翼の溝口中国学、右翼の東京大学東洋史のアカデミーであることが指摘されています。そして「帝国の構造」の柄谷行人がこの中に引き込まれて関わっているのか、自分のためにこれを利用しているのか、わかりませんが、いずれにしても、グローバル資本主義に対抗していく(と彼が信じる) 「帝国」の構築の大同団結のためなら、市民的小さな人間たちの声を無視してもかまわないのだとするような、「知の政治」の質が批判的に問われることになるはずです
Why do I write when I write ?
Why do I edit when I edit ?
Why do I edit when I write ?
人は書いているときに書いているのはなぜか?
人は編集するときに編集しているのはなぜか?
人は書いているときに編集しているのはなぜか?


ホ〜、デュシャンが回想しているニャ!。チェス好きのデュシャンのニューヨークの自宅に、ジョン・ケージが通ってきた。二人のチェス対戦。ケージは自分のキングがとられてもまったく何事も起きなかったかのようにいつもゲームを続けていたという。さすが!


誠実に対話の理性を尽くしているとおもいます。ただすこし補足させていただきますと、現在は話す内容よりも、一体だれに話そうとしているのかということも問題にしなくてはならないほど深刻になってきました。もしかれらに良識を理解する能力がなければ、わかるように説明することが大事。ところが、安倍自身もふくめて百田でもだれでもいいのですが、ファシストは理解する能力を十分にもっているのです。だからこそ良識そのものを無意味とみなしているのです。ご存知のように、現在政治の中枢はコモンセンスを訴えても勝負にならない大きな人間が多数派。不愉快なことに、大きな人間はあたかも<知らない>ことを自分たち強者の特権のように考えて、歴史を変えるのだと自負しています。この息苦しい息苦しさのなかで、なんとか、小さな人間である市民たちがこの大きな人間をただすとき政治的にいかに怒りを構成していくかが決定的に大切となってきたとかんがえているのは、こういう理由です。どうなっていくのかわかりませんが、世界を見渡すと、人びとが怒りをもって街頭にではじめていることだけはたしかですね

「大正」とは何か?「大正」をいかに語るか?

河上肇は『貧乏物語』(大正5年、1916年)は、の中で「ワーキングプアが生まれるのは、富裕層が贅沢をして、社会が貧者の生活必需品を作らないから」と指摘しています。「貧困の発生は、政府が少数富裕層の巨大な消費の可能性を過大評価するから」と解すれば、このことは現代の話となるのではないでしょうか。さて大正の始まりは、帝国主義ベクトルの起点だったことも大変気懸りです。昭和の満州侵略は、新しい国土の成長の夢。この帝国主義的に方向づけられていく言説が大正の関東大震災を契機にあらわれてくる事実は、よく注意しておきたいポイントであります。その前に日比谷焼き打ち事件があった (明治38年、1905年)。これについては大正との連続性があります。当時の民衆のナショナリズムを、安倍の「コントロール」の嘘を知りながら東京オリンピック開催決定に熱狂した世論と重ねてとらえてみるというのは、行き過ぎた比較かもしれません。が、自分たちが何をしているのか分からなくなってきたという点ではそれほど違いがみえません。大正を媒介に昭和に結実した戦前の大東亜共栄圏の'集団的自衛権'の狂気。これが現在の「地球の裏側」まで行ってドンチャンやるという安倍の「強い日本」の方向と重なり合うことはおそろしいぐらいの一致ですね...



「宇沢弘文氏は40年以上前、ベトナム戦争を批判された米国防長官が経済効率性を理由に胸を張ったことに愕然とし、' 言葉に言い尽くせない衝撃を受けた' と語っている。以後、平等・公正・正義ではなく、' 稼ぐ 'ことだけを目的とした経済学に批判を投げかけてきた」(日刊ゲンダイ)

ベトナム戦争に輸送計画という数学が適用されたことが知られていますが、その数学が呈示している「稼ぐ」経済効率性は、宇沢氏が問題にしているTPPの根底にあることを、この記事ではっきりと理解することができました。'平等・公正・正義'のことは、ロールズとサンデルが言っていますから、ここでは別のことをいいます。政治家はかれの捏造する社会の合意を' 経済効率性 'におくとき、あたかも政治の領域の「公共圏」から自らを消滅させてしまうようです。これが大きな問題です。市場を称えるネオリベの政策によって、「社会」が事実上なくなり、さらに「公共圏」も消滅。もし残るのはこの看板たちだけとなったとしたら...わたしは、そしてあなたは、どこへ行けばよいのでしょうか?「ここからは私有地。全員立ち入り禁止」



殺害した敵の家族を心配した兵隊の日記から、敵味方を超えた人間の心の複雑な働きを発見したとして自分の発見に驚いても、それは、大杉栄を殺した軍人甘粕の複雑さを発見するたぐいの解釈です。結局、言語学研究者の(兵隊の日記を読んだ) 解釈、ノンフィクション作家の(軍人の生活を探偵した) 解釈でしかありません。読者を圧倒した調べ尽くした詳細な記述によって、しかし解釈者(言語学研究者、作家) が、敵や大杉を支配したいという欲望があらわれてしまうものです。彼らは事実を明らかにしたといいます。が、これらの解釈者の、軍国主義をシュミレートする欲望のほかに、一体なにが明らかになったというのでしょうか?


河上筆は『貧乏物語』の中で「ワーキングプアが生まれるのは、富裕層が贅沢をして、社会が貧者の生活必需品を作らないから」という。「貧困の発生は、政府が少数富裕層の巨大な消費の可能性を過大評価するから」と解すれば、現代の話だ。大正の始まりは帝国主義ベクトルの起点だったことも気懸りである

人は書いているときに書いているのはなぜか?編集のときに編集しているのはなぜか?書くときに編集しているのはなぜか?

ゴダールへの問い

人は書いているときに書いているのはなぜか?
人は編集するときに編集しているのはなぜか?
人は書いているときに編集しているのはなぜか?

私は話しているときに話しているのはなぜか?
私は読んでいるときに読んでいるのはなぜか?
私は読んでいるときに話しているのはなぜか?

彼女は見ているときに見ているのはなぜか?
彼女は泣いているときに泣いていたのはなぜか?
彼女は見ているときに泣いていたのはなぜか?

映像は終わっているときに終わり、始まっているときに始まっているのはなぜか?
映像は終わってしまったときに始まるのはなぜか?
わたしのひとりごとが始まっているのに風が吹いてきたのはなぜなのか?


世界精神

あらゆる政治的活動や思考の中心にあるのは、
人間であり、
世界精神。でしゃばり、
愛しすぎ、飲みすぎ、論じすぎ、
本を買いすぎ、喧嘩しすぎの世界精神。
香港の「一国二制度」も台湾の「独立」も、
いくら自分のものでも、
自分で自由になるものでもなかったことが明らかになったとき、
ヨーロッパにさまよっていた世界精神は、
アジアにくることになったー



The World history (the Weltgeist)
by takashi honda

What forms the core of every political activity and thought
Is a human being, the World soul.
It ceaselesly intrudes, excessively loves, drinks too much,
Argues too much, overbuys books, and quarrels too much.
Keeping a margin of the undefined,
The wandering World soul in Europe
has just come to Asia, Taiwan and Hong Kong


ん?

今夜タイ居酒屋で、アイリッシュの理工系の大学生から受けた質問を思い出しました。先生の「ん」の発音が3通りあるのに、ひらがな表には「ん」の一文字しかないのはなぜですか、と。(例えば、ワインの「ん」n音。ビールびんの「ん」ng音。かんぴょうまきの「ん」m音)。さてあなたならば、彼らにどのように説明してあげますか?この質問した生徒は、英語のアルファベットのことをかんがえればよかったかもしれません。例えば、catの 「a」はいかに発音するのか、これはいくら文字の連なりを眺めてもわからない。母音「a」には何通りの発音がありますから。そして見てください!「a」の一文字ではありませんか。英語ネイティヴの話者は発音記号を読むことができませんしまた必要もないので、こういうことを自覚することがありません。(研究する人は別ですけど)。しかし未知の外国語を学ぶとき、日本語を学ぶとき、アイリッシュの大学生のように、文字と発音の外面的な関係について、(この関係に、質問してくる他者が介入することも含めて)、はっきりと意識できるようになるのです。表記の混乱については指摘される所ですが、それとは別に言葉は面白い。関係だから。ウィットゲンシュタインは徴と痛さの感覚の関係について考えていきまし、そうして冒頭に書いた体験に戻りますと、それは、他者(アイリッシュ=ただの人)のなかの自己(日本人=ただの人)という意味で、pedanticにちょっと気取て、'対他的'と呼ぼうじゃありませんか!


ダブリンに行くまで長年通った九段下の民間治療の道場で、(今は亡き)柳田先生が体壁の構造と運動を朱子学的語彙で説明していたので、朱子学の宇宙論的二元論については、丸山真男を読む前に少し知っていました。しかし予定調和的な身体論、すなわち養生の健康だけにとどまることができません。民にかかわる市民<運動>の方は?社会的身体の次元において語ることが許されないのか?はたしてこの<運動>をいかに語るのか?そうして帰国後、子安氏のもとで、(朱子を脱構築する) 伊藤仁斎を学ぶという必然性があった、と、自分でも自覚が殆どなく、今日、飯田橋の「論語塾」で公治長第五・第18章を読んでいるうちに、はっと気がつきました



'テロとの闘い'が実際に意味するのは、恐怖の増大でした。減少することはありません。なぜか?アメリカの'テロとの闘い'の'出資者'にとっては、恐怖の増大していく方向にこそ掴みたい莫大な利益があるから。と、このようなチョムスキーの警告は、そのまま、集団的自衛権の安倍自民党と財界と商業的大手マスコミに囲まれてしまった、われわれの生命に関する警告となっているのではないでしょうか!


『賠償で金がかかる』から 金になる「原発」は続ける ☠
(あれ?間違っている。✍ 原発をやめなければならないはずでしょう)

『拷問は憲法に違反する』から 拷問できる「憲法」をつくる ☠
(これも完全に間違い。✍ 拷問を禁止した憲法を政府が守らなければならないのです)

『安倍くんも信教の自由がある』から 靖国参拝に行かせてあげなさい ☠

(間違いです。✍ 安倍首相は心から<弔う>つもりならば千鳥が淵の「戦没者記念所」へどうぞ。「靖国」は(戦争昂揚の)顕彰施設であり<弔う>ところではありません)

« Il est devenu évident que tout ce qui concerne l’art, tant en lui-même que dans sa relation au tout, ne va plus de soi, pas même son droit à l’existence. L’infinité de ce qui est devenu possible et s’offre à la réflexion ne compense pas la perte de ce qu’on pouvait faire de manière non réfléchie et sans problèmes. Cet élargissement des possibilités se révèle, dans de nombreuses dimensions, comme un rétrécissement. L’immense étendue de ce qui ne fut jamais pressenti, sur laquelle se sont audacieusement lancés les mouvements artistiques révolutionnaires vers 1910, n’a pas apporté le bonheur promis par l’aventure. Au contraire, le processus déclenché à cette époque a fini par miner les catégories au nom desquelles il avait vu le jour. De plus en plus d’éléments furent emportés par le tourbillon de nouveaux tabous. Partout, les artistes se réjouirent moins du royaume de liberté récemment conquis qu’ils n’aspirèrent de nouveau à un prétendu ordre tout aussi fragile. Car l’absolue liberté en art, qui demeure la liberté dans un domaine particulier, entre en contradiction avec l’état permanent de non-liberté dans la totalité. En celle-ci, la place de l’art est devenue incertaine. L’autonomie, que l’art a acquise après s’être débarrassé de sa fonction cultuelle, ou de ce qui s’y substitue, et qui se nourrissait de l’idée d’humanité, fut d’autant plus ébranlée que la société devenait moins humaine. Les constituants que l’art devait à l’idéal d’humanité s’étiolèrent en vertu des lois de son propre mouvement. »

Theodor W. Adorno

誠実に対話の理性を尽くしているとおもいます。ただ現在は話す内容よりも、一体だれに話そうとしているのかということも問題にしなくてはならないほど深刻になってきました。もしかれらに良識を理解する能力がなければ、わかるように説明することが大事。ところが、安倍自身もふくめて百田でもだれでもいいのですが、ファシストは理解する能力を十分にもっているのです。だからこそ良識そのものを無意味とみなしているのです。現在政治の中枢はコモンセンスを訴えても勝負にならない大きな人間が多数派であります。この息苦しさのなかで、小さな人間である市民たちがこの大きな人間をただすとき政治的にいかに怒りを構成していくかが決定的に大切とおもいます


チンパンジーでの同種間殺しは適応戦略で説明がつくと証明された
同種間殺しを行うのは、霊長類ではチンパジーとヒトだけ。チンパンジーと共通の祖先から別れたボノボには同種間殺しはほとんど見られない。同種間殺しがチンパンジーとヒトの共通祖先から引き継がれたものか、種が別れてから進化したものかは不明。つまり、同種間殺しが「ヒトが古くから持っている本性」なのかどうかはわからない。

また、同種間殺しが「これまでの進化の過程で適応戦略だった」ということは、同種間殺しが「今後も適応戦略である」ことと同値ではない。

同種間殺しのメカニズムがわかれば、逆に抑制のメカニズムもわかるということだろう。

「環境」は変わり得ますから。自然環境はもちろん、人間の場合は、社会環境や文化環境も。

逆にいうと、この「同値」を認識しない者は、いわゆる未来について語る予言的な言い方に陥る危険があるということだとおかげで理解できしました。これに関して脱線してしまい申し訳ない話題なのですが、「デモは効果がない」を得意顔で言いたがる人が結構いるでしょう。それは一応その人の過去に関する認識かもしれませんが、もしその人が「デモによってはなにも変わらない」とまで(未来について) 言い切ると、(それを言う人には自覚がないのですけど)、もうその人の予言でしかない愚かな断言と呆れることがありますね。デモの文化的環境ということまで視野に入れておく必要に気がつくと、なにか、世の中がちがってみえてくるという思いであります

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ALSO SPRACH OWLCAT 2014年 9月 続き 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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