言葉と表現と射影のブログ

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<<   作成日時 : 2014/09/06 09:49   >>

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・ " MERCIUS(of hisself) ; Domine vopiscus! " (JOYCE,Finnegans Wake)

"MERCIUS" means "mercy"(french)?And "vopiscus" is latin word representing one of a pair of twins, born alive after premature death of other.Or vobiscum has the meaning "he Lord be with you"
Speaking of "vopiscus", it reminds me of the twins of "language" and "human" that Foucault refers."Since man was constituted at a time when language was doomed to dispersion, will he not be dispersed when language regains its uunity?"(L'homme s'étant constitué quand le language était voué à la dispersion, ne va-t-il pas être dispersé quand le language se rassemble)


・James Joyce
The spearspid of dawnfire totouches ain the tablestones ath the centre of the great circle of the macroliths of Helusbelus in the boshiman brush on this our peneplain by Fangaluvu Bight whence the horred cairns erge, stanserstanded, to floran frohn, idols of isthmians.Overwhere.Gaunt grey ghostly gossips growing grubber in the glow.Past now pulls. (Finnegans Wake)
(本多訳)黄昏の炎から放たれた槍は、太陽の都へ至り、陰毛に覆われた浅瀬を横切り大円の墓石を愛撫する。H・C・Eこと、石塚の角達が動き、円を取り囲んで直立した石たちが、ポセイドンを祝う祭を主宰する。あちこちで。荒涼とした灰色の死者たちのゴシップ、昂揚のうちにガツガツ食らう者ども。過去が今蘇る

・James Joyce

The spearspid of dawnfire totouches ain the tablestones ath the centre of the great circle of the macroliths of Helusbelus in the boshiman brush on this our peneplain by Fangaluvu Bight whence the horred cairns erge, stanserstanded, to floran frohn, idols of isthmians.Overwhere.Gaunt grey ghostly gossips growing grubber in the glow.Past now pulls. Finnegans Wake)


コメント;アイルランド詩人の想像力は、human geography人間化された地理学の様相を呈します。それは、イギリス的ロマン主義詩において顕著な、「人間化された風景」と共通のものがあります。ただ、アイルランドの方が、もっと具体的なものと関係しているように思います。民衆の具体的な歴史と地理上の表象とが直接結びつきます。飢餓や人口流出の歴史を理解せずには、アイルランドの人々が詩に託した多産性への願いのことは読み取れません。ジョイスの一文こそ、厳しい歴史的現実を、神話によって、救わんとしたいユートピア精神の具現化といえるでしょう。

(本多訳)黄昏の炎から放たれた槍は、太陽の都へ至り、陰毛に覆われた浅瀬を横切り大円の墓石を愛撫する。H・C・Eこと、石塚の角達が動き、円を取り囲んで直立した石たちが、ポセイドンを祝う祭を主宰する。あちこちで。荒涼とした灰色の死者たちのゴシップ、昂揚のうちにガツガツ食らう者ども。過去が今蘇る

・Anger ! Etō ward is stopping the supply of water to the homeless in the riverside park to evict them. Let's protest it !
Since 1990's the Japanese society has totally become the bank society.This means the system of discipline has ever covered our society.It leaves no corner margin. For example, think of the homeless forced expulsion in the riverbed park in Tokyo now.
For whom the municipal authorities will carry out the eviction ?
Look at the neoliberal ideologists who are very irritated at the homeless, as the ruthless principle of financial capital is really intolerant at the thing which does not serve itself in one second.

・批評が大切な理由が最近分って来た。まずそれは不一致なものを生産していく。例えばリアリズムと神話。この分裂から批評は自己に帰る。不一致をいかに一致させていくかと問題提起する。例えば魔術的リアリズムのジャンルの発明の如し。批評は、現実の政治に欠けているものを人々に呈示する演劇だと思う。
五十年代以降、映画は批評と共に歩んだ。批評というのはそもそも映画的である。ゴダール映画は不一致なものを生産するー例えば映像と音声。次にこの不一致をいかに一致させていくかと問題提起する。例えばモンタージュ。映画こそは現実の政治に欠けているものを人々に呈示できた二十世紀の芸術であった。

・The government noticed
Its partner is not subjects,
Not even the people
But only the information registering population
In the form of habitants
The government noticed
Its partner is only
A special phenomenon and
A variable native.
Birth rate and life span
Morbidity rate and fertility index,
Health condition and ill frequency,
Meal and House
Inflation rate and unemployment rate
A radioactive dose rate
A decontamination rate and profitability

政府は気がついたのだ、
相手は、単に臣下でも
民衆ですらもなく、
人口という形で捉えられた情報だということ、
政府は気がついたのだ、
相手は、
それ固有の特殊な現象と、
固有の変数でしかない
出生率
罹病率
寿命
妊娠率
健康状態
病気の頻度
食事や住居
インフレーション率
失業率
被爆率グラフ
除染率
企業利益率

・「ヨーロッパの終焉」を叫ばれたほど、総力戦となった第一次世界大戦によって、ヨーロッパは焦土と化した。このとき、三木清等のヨーロッパ留学生帰国組を迎え入れたのが、日本の文化資本、岩波書店であった。「上流階級から文化を奪回せよ」と宣伝し、世界文学ブームに便乗した。関東大震災以降の復興幻想に伴なわれた、旺盛な知識欲が爆発した。文庫本は、「大衆」を誕生させたのである。これが、大正デモクラシーーの時代、そして満州への侵略とファシズムが始まる十年前の、日本社会の肖像画であった・・・
(写真は、フーコの翻訳者、渡辺一民氏の公開講座にて、昨年三月;三木清と林達夫)

・経済産業省前脱原発テント撤収に対する抗議1月27日

経産省前テントの抗議行動は、民主主義のひとつのかたち。政府による撤去執行は、民主主義と原発推進派の商売とが両立しない事を公然と証明するだろう。新聞・テレビは報道をやめてしまったから、インターネットが真実を伝える。原発をやめれない社会がどういうものか?隠さず世界に知らせて行くだけだ

・キューブリック「2001年宇宙の旅」はコンピューターHALが主人公である。木星探査の使命の勝利の為には、あと一人宇宙飛行士を取り除く必要があった。映画は見事に預言していた。ユーロ=HAL、原発推進計画=HALという事態を。生憎、今度追放される宇宙飛行士は、一人でなく、この僕と君達全員じゃない?
 現在は、そのHALが制御するネオリベ的微調整の宇宙船、にたとえることができようか?変動相場制、脱抵抗の脱構築(つまり、破壊的な懐疑主義と、心地よい体制順応主義)、ポピュリズムが声高に訴える似非構造改革。その様態は尽きない。
 遡ってみると、微調整というのは、本来、ケインズ主義のハウツーだった。しかし、二十年代恐慌後、伝染病撲滅に匹敵する覚悟で失業者を最後の一人まで救おうとしたケインズ政策はラディカルであり、今日のような微調整ではあり得なかった

・Brian Friel トランスレーションズ

ジミーJimmy

"ホス アラ パメーネ ラブド エペマサット アテネー・・アテネはこう告げた後で、その杖でユリシーズに触れた。彼のしなやかな身体の色白の肌を衰えさせ、頭からは亜麻色の髪の毛を取り去っり、老人の肌をうえつけた"。あくま!あくま!

<メイナスManusはミルクとパンをもって戻ってくる。>。

いいから、そこでじっと、終わりまでちゃんときいてくれよ。アテネはね、まだユリシーズにやり残したことがあったんだよ

<メイナスは階段を下りて、セアラSarahに乾杯する>

"クヌゾーセン デー オイ オッセー・・美しかったユリシーズの二つの目を曇らせ、すすで汚れた汚いボロボロのマントを着せた"。分るかい?煙、煙だよ!もうお分かりだろう。ここで燃やした芝生の煙で一体どうなったか、このわしを見てご覧よ(すばやく帽子を脱いで、自分の禿げ頭を示す)
これでも、亜麻色の髪の毛と呼ぶかね」。

メイナスManus

「もちろん、そう呼びますとも」

・Otherwised,holding their noises,they insinuate quiet privates,Ni,he make peace in his preaches and play with esteem.Warewolff! Olff! Yoboo!

・鼻つまんで、遠まわしの婉曲な言葉は、シューシュー耳障りの音の中から、聞こえてくる。あの人ったら、お祈りの言葉を唱える自分に向かって、ホカホカお小水をかけ、粛々と書いている。狼男だ!気をつけて!禁じられた行為だ! 

So olff for his topheetuck the ruck maid raid, aslick aslegs would run; and he ankered on his hunkers with the belly belly belly prest
What's my muffinstuffinaches for these times?To weat; Breath and bother and whatarcurss. Then breath more bother and more whatarcurss
Then no breath no bother but worrawarrawurms. And Shim shallave shome. 

FW p.225

・少女集団は、飴菓子を求めて彼を襲撃し一目散に走った。尻と脚のもとに、彼はしゃがみこむー子宮から子宮への迷宮は最高。マフィンが詰まった様な悪魔の疼き。パンとバターとクレソン、息苦しいよ、水をくれ。パンにバターたっぷり、クレソンたっぷり。と、パンとバターの代わりにシェムは女神をパクリ

解説;注目の造語は、muffinstuffinaches。muffinは英国の菓子。分解せず一気に読むと、mephistophelesとなります・笑。このゲーテの悪魔は、資本主義の貨幣を象徴していました。貨幣を軸とした、商品達(=少女集団)が旋回する、回転木馬の世界を思い浮かべませんか





- Three quarks for Muster Mark !
Sure he hasn't got so much of a bark
And sure any he has it's all besides the mark.
But O, Wreneagle Almighty, wouldn't un be a sky of a lark
To see that old buzzard whooping about uns shirt in the dark
And he hunting round for uns speckled trousers around by Plamerstown Park?
Hohohoho, moulty Mark!
You're the rummest old rooster ever flopped out of a Noa's ark
And you think you're cock of the wark.
Fowls, up! Tristy's the spry young spark
That'll tread her and wed her and bed her and red her
Without ever winking the tail of a feather
And tha's how that chap's going to make his money and mark!

FINNEGANS WAKE JOYCE

マーク王のもとに召喚された、三つのクォーク!/王の号令は届かぬ。号令が届いたとしても、徴(mark)とは違う所に集まる/雲雀だった奴は王たる鷲として君臨する/コワ(quoi)コワ(quoi)と鳴く老いたマーク王 / 暗闇でシャツを探して飛び回り、パーマーズタウン公園で狩り、、斑ズボンを探す姿/ホーホーホー、抜け毛マーク王/奴は酔いどれ阿呆船/ノアの箱舟から飛び立った使徒の鳩のくせに、女の尻を追い回すお山の大将/愚者達よ、トリエステ魂を炸裂させよ!/瞼が羽ばたきする間もないほどの速さで/これが、あの物書きが名声と銭を稼ぐやり方さ
(本多訳) 

解説;今日のFWは、「マーク王にクォーク三唱!」で始まりました。「クォーク」は、鴎の鳴き声を表します。ゲル=マンは、ジョイスのこの造語を転用してハドロンの構成粒子である物質の名称にしました。コワ(quoi)コワ(quoi)とも聞こえますね(無理か・笑)なに?なに?文学とはなにか?
ところで、トリエステといえば、十九世紀東西貿易中継地として、ユダヤ人が発展させた街です。「ユリシーズ」はこの地で書かれました。当時オーストリア=ハンガリー帝国の領土。独立運動によって、イタリアに帰属すべきか、社会主義か、中世の様な自治都市への道かと問いました。「三つのクォーク」と謎めいた言葉はこの事と関係するかも知れません

・アルトーは、メキシコの旅からの帰還後、アイルランドへ行きます。二週間後ダブリンで収監されて、そのまま仏の精神病院へと送還されてしまいます。若いラカンがこの時、アルトーの検査チームに加わりました。アムステルダムの闇市で入手した聖パトリックの杖を返しに来ただけなのですが・・・

アルトーは、中世から続いたダニーブルック・フェアーに関心があったかもしれませんね。記録では、私がいた家の近所で捕まりました。このとき、演劇家ミルトン・シングに宛てた手紙と数枚の紙幣しか保持していませんでした。アルトーはbig name(超ー大物)ですが、彼のダブリン滞在のことは、殆ど誰も知りませんーアイルランドの文化人達も知らないくらいです。

アルトーといえば、現代音楽のジョン・ケージです。アルトーによる黒い残酷演劇のコンセプトから、大きなインスピレーションを汲み取ります。このケージも、アルトーの痕跡を追って、ダブリンに来ました。アルトーに関して、アイルランド人の友達に話すと、Mad people love Irelandと一言。このMadは、創造的狂気creativeの意、あしからず。(多分、私の事もMadと思っていたんだと思いますよ!やっと今気がつきました、畜生!)

・mon corps.

Et vraiment
le réduire à ce gaz putant,
mon corps ?
Dire que j'ai un corps
parce que j'ai un gaz putant
qui se forme
au dedans de moi?

Je ne sais pas
mais
je sais que

l'espace,
le temps,
le devinir
le futur,
l'avenir,
l'être,
le non-être,
le moi,
le pa moi,

ne sont rien pour moi

Artaud

・FINNEGANS WAKE JOYCE

Byfall. Upploud!The play thou schouwburgst, Game, here endeth. The curtain drops by deep request. Uplouderamain! (Joyce's Finnegans Wake)

(ふくろうねこ訳);
天に向かって墜ちよ!バベルの塔崩しごっこに、拍手喝采。宇宙の劇場よ、汝は終焉のとき。と、幕が下りるまさにそのとき、万能の神に遥か及ばざる不完全被造物が舞台に上がったー人間だ 

(ふくろうねこ流の解説)

テクストのなかで作者自身が翻訳を行う迷宮ぶりといったら!FWは少なくとも五十以上の言語から成る。日本語の翻訳者は、FWの坩堝に、51番目の言語を放り込んでいるだけなのだ。翻訳は不可能としたら、注釈によってテクストと関わるしかない。記号から意味を剥ぎ取る様に、注釈から翻訳を切断すること。

「フィネガンズ・ウェイク」は何語で書かれているのか?見た事がないようなな英語で書かれていても、未知のドイツ語で書いたテクストかもしれない、とフリッツセンは皮肉に語った。とすれば、次の問題提起がユダヤ的破壊性を放つ。作者のジョイス自身はFWを英語に翻訳していたと(オリジナルの言葉はなーに?)

FWになにが書かれているのか本当はよく分らない。(現在誰も読めなくなった「論語」と似ている)。だから「書き方」を問う事ができるだけ。FWの言語はどの言語にも還元できないから、一見超越的である。しかし、世界中の若者は、そこに自分の母国語を見つける事ができる以上、それは内在的な言語といえる

結局、FWは注釈学的視線を内部化したテクストである。何が書かれているか?これは書き方から解釈する他ない。超越的でも、内在的でもない様な、そういう領域が存在する事。つまり、神や民族の領域でも、原子的個体の領域でもない様な、人間的な領域があること。FWの書き方はその領域と共有する形式をもつ

・踊る神は巡礼中、白百合の処女達を罠にはめてハグするチュー。そそり立てたそれで、いざ妖精の所へ、と、オスカーシスターズを15インチのラブチェアに跨らせたのでしたーなんと、ゲールの首長、パーネルの部屋の背後でね。このヒーローこそは、、乙女の友にとって青い目の唯一正しき理想をもつ、醜い大男でもなければ華奢な子男でもない、彼女にとってかえがたい存在、禍をもたらす器用さの持ち主、自分の淫乱ボロボロのラグビー玉袋を、左へ右へと自在に扱い、前に後ろに、奥の方にと転がした。あ、オフサイドじゃないか。マラ焼けの色男、シコシコ手淫男子の遊牧的乞食のあいつは、パルパルに意図に反してブルブルと淫らに、網模様のドレスに偽金をちりばめたマドンナ・ブルーのアンサンブル姿の、ミソラことイゾラを、ハグしてチュー、うっとりと恍惚中、と、この彼女のために、三つの太陽の島人であるトリスタンとイゾルデの話を、どもりながらささやき聞かせるのでした  (ふくろうねこ訳)

・FINNEGANS WAKE

meaning pretty much everything to her then, with his sinister dexterity, light and rufthandling, vicemversem・・・
her ragbabs et assaucyetiams, fore and aft, on and offsides, the brueburnt sexfutter, handson and hunstem (JOYCE)

☛ragbabs et assaucyetiamsがポイントなんですよ。これを、Rugby & Associational (football)と読めたら、あなたは凄い!
ラグビー協会ですね。愛国的スポーツ熱狂を痛烈に揶揄したジョイスならではの造語のようです。

(訳)「禍をもたらす器用さの持ち主、その彼は、淫乱ボロボロのラグビー玉袋を、左へ右へと自在に扱い、前に後ろに、奥の方にと転がした。あ、オフサイド。マラ焼けの色男、シコシコ手淫男子の遊牧的乞食」 ☛訳者赤面

・ジョイスとブレヒトの子供達。だが戦後の映画がエイゼンシュタインと袂を分かつのは、ゴダールに顕著な、映像相互間にあらゆる種類の非合理的切断や非共役的関係を構築していく試みだ。デュラスとストローブといえば、マラルメの映画的継承で、音声の自立性をめざし、音声と視覚の非合理的切断を探った

・さあ、お待たせ!フィネガンズ・ウェイクの続きですよー。

・・meaning pretty much everything to her then, with his sinister dexterity, light and rufthandling, vicemversem・・・
her ragbabs et assaucyetiams, fore and aft, on and offsides, the brueburnt sexfutter, handson and hunstemです。


☛ragbabs et assaucyetiamsがポイントなんですよ。これを、Rugby & Associational (football)と読めたら、あなたは凄い!
ラグビー協会ですね。愛国的スポーツ熱狂を痛烈に揶揄したジョイスならではの造語のようです。

(訳)「禍をもたらす器用さの持ち主、その彼は、淫乱ボロボロのラグビー玉袋を、左へ右へと自在に扱い、前に後ろに、奥の方にと転がした。あ、オフサイド。マラ焼けの色男、シコシコ手淫男子の遊牧的乞食」 ☛訳者赤面

・ネグリ;確信しているのは、大草原に火を放つような、そういう「火」が世界の各地に存在しているということです。今の日本の皆さんのように深刻な危機に身をもって直面している時こそ、何が本当の民主主義なのか実感できるはずです。そして、そこから、新しい民主主義の形式が生まれるでしょう

・マグリット・デュラスが監督した「インディア・ソング」は、この無声の映像の意義をさらに徹底させる。映画ではすべての登場人物達が「唇」を閉じており、この作品をとおしてデュラスがおこなっているのは「唇」から声を切り離すことである、といえる。それによって前述したトリュフォー映画の場合と同様、映画の観客は「唇」を見ることが可能となる。トリュフォーとデュラスが示したのは、物語の意味作用の中心に置かれてきた観客達が注意を喚起して見ることがなかった、「唇」の映像なのである。
 デュラスの映画「インディア・ソング」では、フランス大使公邸の室内に置かれ、固定カメラによって一定のアングルでとらえられた鏡が非常に重要な役割を果たす。主人公のマリー・ストレッテルは“インディア・ソング”の音楽に合わせ、様々なリズムをとって、彼女の愛人達と鏡の居間で踊り、カルカッタの退屈な倦怠を紛らわすかのような幸せなダンスの軌跡が正面の大きな鏡にくっきりと映し出される。その鏡に映った像によって、ある晩、ストレッテルは彼女の忌避するラホールの元副領事が近づき、自身の背後に立っているのに気がづく。彼は人々を無気力にしてしまう不毛なカルカッタの倦怠の象徴なのであり、彼の周りには「死」の嫌な腐臭がいつも漂っているとされる。彼の申し入れを受け、重い足取りで元副領事と踊るストレッテルの陰鬱な表情が映し出される。しばらくすると、カメラのフレームの外へ二人は移動してしまい、映画の観客は彼らの姿を画面から見失う。その姿が正面の鏡にも全く映し出されないので、映画の観客は二人がどこへ行ってしまったのか認識することができない。観客の認識が登場人物が不在の、空白のショットによってしばらくの間制限された後、次のショットでは右の方向に向かってゆっくりと旋回するカメラのパンとトラッキングが始まる。グランドピアノ、香の煙、ランプ、宝石箱、いくつかのスナップ写真、二人の様子を怪訝そうにうかがう愛人達が次々に示され、180度反対のアングルから、薄暗い照明のもとで静かに踊り続ける二人の姿が再び映し出される。このカメラの移動によって観客の視線が誘われるのは、光から闇へ、言い換えると、喜びと希望のなかで行われるダンスの運動から死の腐臭が立ちこめる気怠い停滞へであって、ここで予感されるのは、孤独なストレッテルのアイデンティティーの崩壊の過程である。
 続く場面で彼女から拒まれ絶望した男が「館の外で叫ぶ」と言い残し立ち去る時に彼が移動していく方向について、さらに注意しなければならない。屋敷の外へ出る彼が右から左へ移動するとき、映画の観客にとってこの方向が表すのは内から外への通過である。ところがその方向は、次の場面においてパーティーの終わった後に彼女の寝室に歩みゆく愛人達が移動する方向と全く同じなのである。つまり、愛人達の右から左への移動が表すのは外から内への通過なのであって、元副領事の場合とまさしく逆なのである。ここでデュラスが試みるのは内と外とを区別する境界の消失である。例えば、絶望した元副領事の叫び声とそれに重なるように聞こえる物乞いの狂女の歌声は、物語の文脈上屋敷の外から聞こえるとされ、映画の観客はそれらの声が画面の右側から届くと理解する。ところが、それは画面の左側に位置するストレッテルの寝室の方向から聞こえるのだ。つまり、同時にそれは、内から生じる音声、と考えることができる。
 このような内と外の区別を消失させる視覚上の左右反転の表現は、まさしくカメラの移動によって可能となる。デュラスは、映画「ザ・デッド」でヒューストンが依存した180度ラインの原則を破ることによって、人物のシンメトリーな配置を否定する。ちなみに、デュラスの文学作品にはカメラがどこに置かれどこに移動するかということが書き込まれているものがあるのだが(「北の中国の恋人」)、この視点の問題は、映画においては、観客の物語に関する認識を不安定にしてしまう非常に重要な要素となる。こうして鏡とカメラが表現する文体で、シンメトリーな配置が不安定になるような効果をもたらす視点は、デュラスの映画の本質であるといえる。デュラスの映画において左右は存在しないのと同様に、内と外ひいては現在と過去の区別が消失する。過去は語られる「内部」でもなければ「外部」でもない。同様に、現在は語られる「内部」でも「外部」でもない。「内部」と「外部」との区別がはっきりと存在しないのと同様に、過去と現在の明確な区別はなく、過去と現在との境界の認識が不可能な、混在した時間の流れがストレッテルにおいて体現される。
 この「インディア・ソング」は本来は演劇のために書かれた作品であるが、インドシナのフランス大使公邸の鏡の居間でストレッテルが招待するパーティー客達が噂によって囁く無数の声は、あたかも照明の光の束に照らされた舞台の奥に反響する芝居が始まる前の観客のひそひそ話、夜に通過する川の流れる音、暗闇の中で交わされる匿名の人々の声のように聞こえる。
 公邸の外から絶望した男が叫ぶ声がストレッテルに届く時、「新しい形式」であり「未知のエクリチュール」が彼女の意識を公邸の外へ、「鏡」の閉じられた空間の外へ連れ出してしまう。この点に関して、ジュリア・クリステヴァは「黒い太陽」でその鏡あるいは壁の本質を、ヨーロッパのアイデンティティーが必要とする「死の病」すなわち意味の病として分析している。ラホールの副領事、ベトナムの華僑青年(「ラ・マン」)、日本の左翼青年(「広島、わが恋人」)、といったデュラス文学に登場するマージナルな男性達は、叫び、涙、愛撫、接吻、嘆息のなかで自らを喪失していくのであるが、そこにはセクシュアルな主体性を放棄しながら、女性の身体において回復される「イマージナルな自己」が観察される。それは、飽くまで一義的で鏡像的な抑圧、支配、搾取に過ぎないのであり、匿名的、多数的、横断的な性の顕現ではない。
 自らの憂鬱な過去をいわば一つの全体として語るとき、ラホールの副領事のパロールは他者の身体において領属化する。ストレッテルの身体は、繊細で華奢なラホールの副領事が自らの語る視点を根拠づける鏡となり、一方、ストレッテルの側からすれば、彼女が忌避するところの壁、境界、つまり死の腐臭のなかで停滞する穴傷、解消不能な抑圧の傷、特異点、さらには、一方向におけるシニフィエとシニフィアンの結晶および症候、不安の凝結である。
 同じデュラスの文学作品「ラマン」において主人公の少女が「ショーロンの男」との出会いがきっかけとなって巨大な群衆に囲まれながら彼らの「中国語」の中に聞く「文節化されない音声」、「砂漠の言語」を、ストレッテルは、サヴァナケットの女乞食のベトナム語の歌声の中に聞き始める。その時彼女の身体が属する壁がラホールの副領事のアイデンティティーとともに崩壊し始める。映像がカメラのフレームのなかを次々と横切っていき、さまざまな人物の声がデュラス自身の声をともなって、「鏡」が映し出した空間へ侵入し通過していく。この過程で女乞食のベトナム語の歌声は、ストレッテルの閉じた意識を映し出す「鏡」の形式を破壊していく。これらの匿名の人々の声は偶然で複雑な流れを形づくるのであるが、デュラスがそれらによって表すのは、すべての人々の声が通過していく開かれた全体、真の意味における神の視点なのであって、すべての人々と平等に関わり合うジョイスのテキストと同様に、人間の自意識の排他的な反映を拒否するテクストの現前なのである。ここで、匿名的、多数的、横断的な性の顕現が現実化する・
 「資本論」(価値形態論)でマルクスが表した、貨幣の視点がコンパスの支軸のように転回するのと同様のやり方で、デュラスはカメラの視点を旋回させる。180度ラインの原則を拒否することでデュラスが実現しているのは、過去を全体として統一的に見渡すことが可能な視点の否定である。デュラスのカメラの視点は不確実で不安定な現実と直接に関わり合う、旋回する神の視点なのである。こうして、相互に干渉し合う声の本質を描くジョイス文学、ゴダール映画およびデュラスの作品において共通して重要となる他者の視点とは、スピノザによって砂のような実体として描かれ、いかなる人間的な風景をも拒む神の視点、と結論づけられる。

・Si le cinéma d'après-guerre rompt avec ce modèle (Eisenstein), c'est parce qu'il fait monter toutes sortes de coupures irrationnelles, de rapports incommensurables entre images (Godard etc.).
Le cinéma parlant d'après-guerre tend vers une autonomie du sonore, une coupure irrationnele entre le sonore et le visuel (Straub, Syberberg, Duras)
Es ce que le cinéma succédait à Mallarmé ?

戦後の映画がエイゼンシュタインと袂を分かつのは、ゴダールにおいて顕著な、映像相互間にあらゆる種類の非合理的切断や非共役的関係を成り立たせようとしたこと。トーキーも音声の自立性をめざし、音声と視覚の非合理的切断を探る。デュラスとストローブがそうだが、マラルメの映画的継承といえようか




...behind the chieftaness stewardnesses cubin, the hero, of Gaelic champion, the onliest one of her choice, her bleaueyedeal of a girl's friend, neither bigugly nor smallnice..
(from Joyce's Finnegans Wake)

ゲールの首長、パーネルの部屋の背後で(オスカーシスターズを15インチのラブチェアに跨らせたのでした) ー このヒーローは、、乙女の友にとって青い目の唯一正しき理想をもつ、醜い大男でもなければ華奢な子男でもない、彼女にとってかえがたい存在 
(フィネガンズ・ウエイク ふくろうねこ訳)

この箇所は、トリスタンとイズーの性愛の場面のパロディーです(「ケルトの書」の四聖人が覗き見し報告するという荒唐無稽な設定)。独立運動を、偏狭な愛国主義に貶めた宗教的権威に対して、ジョイスなりに勇敢且つ猥褻に、冒涜的且つ言葉遊び的に闘ってます!

・On Brian Friel's play;Translations

The action takes place in late August 1833 at a hedgeschool in the townland of Baile Beag , an Irish-speaking community in Country Donegal. In a nearby field camps a recently arrived detachment of the Royal Engineers, making the first Ordnance Survey. For the purpose of cartography, the local Gaelic place names have to be recorded and rendered into English.

・ JIMMY; "Ton d'emeibet epeita thea glaukopis Athene..."

トン デメイペット エペイタ チア グラウコビス アテネ(しかし、灰色の目をした女神アテネは彼に答えた)


・Novalis
純粋な思考―純粋な像、―純粋な感覚―は、それと対応する客体によって喚起されるのではなく、いわゆる力学的な法則の外部―力学の領域の外部―で生じた諸々の思考であり、像であり、感覚なのである。ファンタジーとは、そのような力学の外なる力なのだ。 『一般草稿』

・写真は、ダブリンのリフィー河

Mamalujo, mamalujo(ジョイスの造語)のマルチチュード性ー

ネグりは語る。「諸個別性の間の差異の外部には、即ち「人間である事」という表現の根源性の外部には、マルチチュードは存在しない。「共和国をつくる事」との関係を離れては存在しない。「マルチチュードをつくる事」、それは愛を求める事であり、欲望という形でコナトゥスを実現し・・恐らくそれ以上のものだ」


さて、ジョイスの造語Mamalujo, mamalujoは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書記者を合成したその短縮形。各々、人間、ライオン、牝牛、鷹を表象する。彼らは夜中トリスタンとイズーの性愛を観察し、Healiopolis(「太陽の都市」と「ヒーリーの都市」を暗示)を迎える
「ヒーリーの都市」は、アイルランドの政治家ティム・ヒーリーと関係しているという。彼は独立運動の指導者パーネルの同士であったが、結局裏切った。宮田氏によると、「ヒーリーポリス」はルサンチマンの都市、一方が闇との葛藤の後に光へ向かうとすれば、一方は逆へ、二つは互いに陰と陽の関係を成してい時を経て現れる。

私の解釈では、Mamalujo, mamalujoは、「人間である事」、「共和国をつくる事」、「マルチチュードをつくる事」と関係している。つまり、「欲望が最高主権によって構築するものを、愛がさらに遠くへと推し進め、そして共和国、民主国家としてそこを乗り越えていく」ことだ。

・ ニューマンハウスで喋っていたMcCourt

・Nightmare can be translated into "night mare" in Japanese.
Joyce and Godard - the night mare who are proud of being "learner" rather than "writer" or "director". They have ever taken the long trip to the limitless space, "history of literature", "history of cinema". Infinity may not be always nightmare, but distance of departing mare as the loved, un universe.
ジョイスとゴダールは「学ぶ」作家だった。それに近づいたかとおもえば、また遠くに行ってしまった夜の牝馬の如く、到達できない果てに、この二人は存在する。ジョイスとゴダールは、「文学史」、「映画史」という、テクストの限りのないき空間を旅した。無限がいつも、nightmareとは限らない

・Confucius said, "To learn and to review those you learned are pleasure.
"To learn" ("to review") is different from "to know". Confucius said "I learn an old thing".He never said "I know a new thing".
The old means restoration. Restoration is an invention to remember the future for innovating the study.
Then Descartes' analysis and Truffaut's long take were "to know", and Spinoza's geometric proof and Godard's montager(editing) were "To learn" ("to review")

新しいものを学ぶとはいわない、それは知るといわれる。古とは復古。復古とは、学の革新のために古を鏡とした、未来を思い出す発明である。デカルトの解析学とトリフォーのロング・テイクは「知る」に対応するならば、スピノザの幾何学的証明とゴダールの編集は「学ぶ」に対応したのだ

・詩人でもあるタルコフスキーは、俳句の大ファンなのだ。記憶の囚われの場、惑星「ソラリス」の影響で、宇宙飛行士は、昔死んだ妻が繰り返し生き返ってくるのを目撃する。これは、キリストの復活を象徴すると自伝のなかで書いていることに、私は衝撃を受けた

・旧い?
なにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように。
ne change rien pour que tout soit différent

・伊藤仁斎とスピノザ   
−なぜ、八十年代日本ポストモダニズムの論客達は今日天皇主義者となったのか?−

注釈学はテクストの故郷にあらず。それは、他のテキストと関係する事によって他のテクストとなる脱領土化、自分で決めた亡命である。端的に、群の単位元eが、そういう脱領土性を表現する(ea=ae=a)。水戸学派によって再領土化される前に、儒学はまず、注釈学による脱領土化を行ったはずなのだ- 伊藤仁斎

「天地の間は一元気のみ」、と仁斎はいう。

「一元気」とは、<ただ運動だけ>ということで、子安氏の解説によると、「生成論的コスモロジーを構成するものと思わせるような仁斎の命題も、決して宇宙論的な<始原/根源>としての「一元気」をいうものではない・・・むしろ天地をただ"往来已まざる"運動と見ることで、<始原/根源>に向かう形而上学的な問いを背後にひそめる"天"への視線を拒絶しているのである」。

こうした仁斎の注釈は、ドゥルーズのスピノザを喚起する。スピノザと伊藤仁斎、この両者は、十七世紀の同時代の思想家として存在したのである

「多なるものが多なるまま肯定される世界」という人生観は、スピノザの一元論を隠蔽してしまう。安易な多元主義は、アパルトヘイトも「多なるものが多なるまま」として肯定する危険がある。「大いなる肯定」からは、ブルジョア家族に過ぎない<天>皇の領域を分断し特権化する「否定」しか生まない。

「多なるものが多なるまま肯定される世界」という言説はまた、内部に対する神聖化・尊敬も生み出す。嘗て国土の中に原・国家が存在し、国語のなかに原・国語が存在し、民族のなかに原・民族が存在した様に、現在、内部「国語」と外部「日本語」とが併存し、内部「日本」の執拗な再生を要求している。

こうして、八十年代日本ポストモダニズムの論客達ー「多なるものが多なるまま肯定される世界」が、天皇主義者に変貌したことには必然性があったのである。

・「我々が、今日、直観的にとらえているナショナリズムは、民族主義と国家主義という本来、区別さるべき二つの概念が、重複したものであって、少なくともそれは、十六世紀以降の西欧において形成された民族国家の立場、もしくは一つの国家にまで組織されようとする民族の心情的な歴史的要請をうけて成り立った近代的思考範疇に入る思想であると解される」。(岡本清一「ナショナリズムの論理」1966)

日本の民族主義的国家主義、即ち「日本ナショナリズム」の成立は、岡本は大正を越えた昭和初期という時代においてだというのです。まさしくその時期、あの「大言海」に見るような十全な「民族」概念も成立し、そして「日本民族」概念も、日本精神史や日本思想史等の学術的言説と共に成立する (子安宣邦「日本のナショナリズムの解読」)

日本における近代的概念の殆どは、ヨーロッパの後を追うようにして、その翻訳的転移として成立します。「民族概念」も例外ではありません。(・・・)「民族」という語が国語辞典に登場するようになるのは、随分遅い事なのです。
最初の体系的な国語辞書である「言海」(1889−91刊)には、「国民」の語はあっても、「民族の語」はありません。だが、それを大幅に増補した「「大言海」(1932−37刊)には「民族」の語は存在し、しかもそれに周到な説明が付されています。(子安宣邦「日本のナショナリズムの解読」)


「国家のために死ぬこと」が、ナショナリズムの対内的な極限的なテーゼだとすれば、「国家のために殺すこと」とは、排他的ナショナリズムの極限的テーゼです。「国家のために死ぬこと」のもう一つの側面は、「国家のために殺すこと」なのです。この二つのテーゼは表裏をなすものです。ナショナリズムが極限的にはこの二つのテーゼからなるものであることを、私たちはいま冷静に、リアルな眼をもって見なければなりません。(子安宣邦氏、「日本のナショナリズムの解読」より、2006−7)

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