言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 11月(2)

<<   作成日時 : 2014/11/11 23:18   >>

トラックバック 0 / コメント 0






意外にもイギリスの「仁」もあれば、
驚くべきアイルランドの「仁」もある、という話

対談で富岡多恵子が大阪漫才のダイアローグ性はインテリのマルクシズム的弁証法に依ると指摘したが、それならば「論語」の思考の方でしょう。ボケとツッコミの問答から「仁」の定義を拾い出すのは無理です。「論語」集団に自明な定義だから書いていないからだとかんがえられます。「論語」集団は漫才師の元祖だったか(笑)。カント的に、「仁」をいかに実現するのかという方が彼らの大問題だったといえるでしょう。実は、これは、地域紛争を読む視点として役立つようにおもえてきました。<政治災害は眼を閉じていれば自然に過ぎてくれる>というような瞑想型相対主義の人間は、遠い異国のなにもかも自然災害のごとく宗教の紛争として整理してしまいますけれど、「理想」の言説の展開にかんする微細な観察力と思考力が決定的に欠けているようにみえます。簡単なことではありませんけど、マスコミが世界の事件を伝えてくるとき、政治と認識の間に展開するダイナミックな運動についてわれわれは(マスコミとは) 違う視点から知ることができるはずなのですが意外にもイギリスの「仁」もあれば、驚くべきアイルランドの「仁」もあるのです。日頃口には出さぬが、心の中で彼らは互いに「人殺し」とおもっているから、互いに相手の「仁」を人殺しの教義と思っているところがあります。だからこそ、「仁」の定義は敢えて行わず、「仁」を実現する実践的な方法に彼らの共通の関心があるようにおもわれます。ただし現実の交渉の過程で深まっていく不信感に直面して、どうしても両方の国家を超えた「仁」、愛にかんする「理想」を想定しなければが<われわれは続けていくことができないのだ>という認識が必然的に生じてくるのではないしょうか。


火山の上に原発を再稼働させることがいかに狂っていることなのかやっと気がついたようですね。手遅れですが、せめて、原発7基を並べたことがいかに狂っていたかこれを知ることこそが人間として大切なこと。現在は、芽生えてきたこの判断の類推の力で、安倍の上に国をおくことがいかに狂っているかについて一人一人が考えてみるときではないでしょうか


漢文クリチュールのあまりにも存在論的な・・・

思想家がいかにヨーロッパ語と取り組んだのかについて考えるひとには、大杉栄が面白いですし、高等小学校しか出ていないのに監獄の中で独学で英語を勉強し辞書で洋書をボロボロになるまで読んだ荒畑寒村は本当に驚異的です。ヨーロッパ語からインドの言葉に行った大川周明は、さまよいから目が覚めた、と語っていました。果たして、英米文学と漢文学の間にいた夏目漱石の彷徨いは、帝国主義国家の確立する大正以降、関東大震災を契機に現れてくる国家主義者が危機的に感じる彷徨いと比較できるものなのかはわかりません。ヨーロッパと同時代的になってくるモダンな大正時代に、しかし萩原朔太郎が漢詩のような詩を書き始めたのはなにを意味することなのでしょうか?自明すぎて気がつかなかったのですが、母国語の外部であるヨーロッパ語を経ると、日本語に還るときの漢字と平仮名の一体性がそこにあると感じられます。そこからはなれていた自己が何かさまよっていたのではないかと存在論的にまで感じられれくるのはどういうことなのでしょうか。英語で言うと, an ontological independence of substance?
Le sens ne se sépare pas du signe, la penséé de l'écriture. Le concept n'est pas detachable des phrases où il s'inscrit, du style qui le porte et le transmet. Du coup, il convient d'être attentif à la manière dont écrivent les penseurs.(Derrida)

エクリチュールとして大正を読むこと、そこであなたは大正を読むときに、あなたは置き替えられた意味のなかに大正を忘れようとしているのはなぜか、と問うこと



漢文クリチュールのあまりにも存在論的な・・・


Does Religion Really Cause War - And Do Atheists Have Something To Answer For?

Throughout November, The Huffington Post UK is featuring its Beyond Belief series, chronicling the remarkable lives of Britons who've taken on their faith to create a force for change.

Richard Dawkins, Britain’s best-known atheist, has argued that religion has been the main cause of violence and war throughout history. He wrote in his 2013 autobiography that “religion is the principal label, and the most dangerous one, by which a ‘they’, as opposed to a 'we' can be identified."

Dawkins has said that if religion were somehow abolished, there would be "a much better chance of no more war".

There would also be "less hatred, because a lot of the hatred in the world is sectarian hatred," according to Dawkins. "For example, in Northern Ireland, India and Pakistan

But academic studies consistently challenge the link between religion and war. Research published in October from the New York and Sydney-based Institute for Economics and Peace looked at all of the wars that took place in 2013. It found no 'general causal relationship' between religion and conflict.

In fact, religious elements played no role at all in 14 (40%) of the 35 armed conflicts in the research, and only five (14%) had religious elements as their main cause, the report showed. All of the wars had multiple causes, and the much more common motivation was opposition to a government, or to the economic, ideological, political or social systems of a state, which was named as a main factor in nearly two thirds of the cases studied.

The Encyclopedia of Wars, an extensive study published in 2008, chronicles 1,763 wars throughout human history. It names just 123 as 'religious in nature' – a little under 7%.

The Institute for Economics and Peace report also found that having less religion in a country doesn’t make it more peaceful. The proportion of atheists in a country had no bearing on levels of peace.

Countries with the highest levels of atheism – mainly communist or former communist states like Russia and the Czech Republic – were not necessarily the most peaceful. North Korea, which has one of the lowest rates of people practising religion, was one of ten 'least peaceful' countries in world last year, according to the report.



選挙の前に何をかんがえるべきか?

1、アイルランドの独立が何を意味するかが切実に問われてくるのは寧ろ内戦を経た独立後でありました。Inventing Irelandとは文字通り(新興独立) 国家の発明を意味し、作家たちの想像力がこれに取り組んだのでした。これは、Inventing Japanのことを考えさせます。竹内好も、敗戦後の日本のあり方を問うたのです。
2、この発明にかんしては、アイルランドの作家たちにおいて奇妙な規則が発明されました。作家達はアイルランド文学の父として(なんと、彼らの'敵'である、植民地主義のシンボル的存在だった)作家スペンサーを想定しました。これはアフリカ作家たちがコンラットをアフリカ文学父としたアンチーオィデプス的戦略とパラレルでありました。オリジナルなもの(父=起源)と同一化することの無意味さに訴えたというわけです。(これと比べることができるのは、近代を、音声優位の言語学とともに脱構築しようとした、漢字エクリチュールの時枝の漢字論でしょうか)。
3、さて、竹内好が侮蔑した「ドレイ的日本」は、もし植民地をもたなかった近代日本は無に等しかったのかという問いを含みました。彼の決定的な発明は、方法としての<東アジア>にありました。脱〈帝国〉化の非軍事的な平和主義的国家日本こそが、歴史的な〈負〉の遺産を負いながら、世界史にプラスの価値の徵を与えると主張したのです。最後に、選挙の前に何をかんがえておくべきか?です。安倍の権威主義体制は、東アジア諸国の民族主義的対立の原因です。呆れたことに、このトラブルメーカーの安倍は対抗的に自らの軍国主義を拡大再生産して答えているのです。日中の間で、悪循環の恐怖、歴史修正主義が軍国主義を解き放っています。そして現在「帝国」の言説が、竹内の方法としての<関係>の多様性を、全体主義の抽象的な平均に置き換えようとしているのです。



「土地の名」のなかでプルーストが綴ったテーマは、ベケットとフリールに共有されている。


Nous oublions toujours qu'ils sont individuels et, leur substituent dans notre esprit un type de convention que nous formons en faisant une sorte de moyenne entre les différents visages qui nous ont plus, entre plaisirs que nous avons connus, nous n'avons que des images abstraires qui sont languissantes et fades parce qu'il leur manqué précisément ce caractère qui est proper à la beauté et au bonheur.(...) C'est ainsi que bâille d'avance d'ennui un lettré à qui on parle d'un nouveau <beau livre>, parce qu'il imagine une sorte de compose de tous les beaux livres qui'il a lus, tandis qu'un beau livre est particulier, imprévisible, et n'est pas fait de la somme de tous les chefs-d'oeuvre précédents mais quelque chose que s'être parfaitement assimilé cette somme ne suffit nullement à faire trouver, car c'est justement en dehors d'elle. (M.Proust ,'Noms des pays; le pays' p521)

ここで問いが提出される;'いかに無限に向かって線をひくか?'

グローバル資本主義はどこも中心でない多中心構造の空間。ここで国家は境界を定めるための2点間の距離。帝国は2点間の(拡大する)文化的距離。グローバルデモクラシーの課題は寧ろ、二点間の間を深かめるために、いかに無限に向かって線をひくか?即ちグローバル時代の社会主義思想の再建を考えること


"もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"という人々は、破産したにも拘わらず再び、彼らが依った言説から内部の世界に何かを読むだろう。これはいわゆる同一性の反復である。呪縛してくるその言説のあり方を問う意志は、"もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる'ほどの外部の世界からしか到来しないのではあるまいか。ジョイスなどの'自分で決めた亡命者たち'の故郷なき帰還がそういう外部性であった。


さがしています...

さがしてもみつからない本だらけなのは、本箱にブラックホールがあるらしいので、ホワイトホールのある本箱がほしいですが、どなたか?ところでフロイトによると、言い間違えの中で偶然は一つもなく全てが必ず何かをあらわしているとのこと。置いてあるべき場所に無く他の所にあるとしたら、それは一種の言い間違に似ていますね。最近は探されている本も見つけて欲しくないんだろうという風に超主観的に考えて直ぐに諦めるが、ただの怠慢かもしれません(笑) 。さてサルトルによると、同じ実存主義の文学といわれるが、カフカは原因を徹底的に突き止めようとするが、比べるとカミュの方はさがそうとはしないといいました。亡くした本をさがすとき、カフカの本箱では地中の迷宮の内部を堀り進み右へ左へと折れまがり何度も出発点に戻ることになろうが、カミュの本箱でさがすときは (「異邦人」の散歩道の如く)太陽の下で何も隠さない驚くほど平坦な道をただ歩くだけでしょうな。(ふくろう猫さん、なにをいっているのですか?) わかるひとにはわかる、わからないひとにはわからない。




社会主義の政党が事実上メルトダウンした現実に対して、国民の支払わなくならなくなったツケが始まりました。ドイツとの大きな差。消費税20%でも阻止できる野党がない。市民運動も現実的力を掴めないまま。原発再稼働の危機の中で、グローバル時代における社会主義思想の再建を考えるしかありません

「フィガロの結婚」Le Nozze di Figaro

なぜ、最後には排除されてしまう、多元世界(差異化)のケルビーノは、文化人類学的トリックスターで語るのは空しいのでしょうか?なぜ、Mozart モーツアルト「フィガロの結婚」はフランス革命の三年前に現れたオペラなのでしょうか? なぜ、ラストのフィガロはスザンナの声に気がつくが、伯爵(近代)は区別できないのでしょうか?これらのすべてが、取り囲まれた<声なき声>の可視化をめぐるるたたかいに関わることなのだとおもわれます。文化人類学がコード化する秩序と安定に回収される'中心と周縁'の物語のようには・・・




アイルランドの現代演劇

アベ―劇場において展開したYeatsのロマン主義(大江がなんとか甘受できる?ぐらいの民族主義)と、O'Caseyのリアリズム(バーナードショーほどにはインターナショナルなソーシアリズムではない)を規底にもつアイルランド現代演劇。が、前者よりは人類学的視点をもったリアルなSynge、後者より(反論はあるだろうが)非政治的内省的なBecketから規定された方向に、ブライアン・フリールBrian Frielとフランク・マックギネスFranc McGuiessの演劇がある。民族主義的対立を超えて、帝国的ポストコロニアリズムに還元されない、グローバルデモクラシーのJoyce的な精神を発揮している。


忘却が意味するものは?

怖ろしいことに、日本の法廷は<大逆事件>を二度非公開で審議し、その真相を法廷内に閉じ込めってしまったのです。自身への反省をこめて、何故今更<大逆事件>なのか?という戦後日本人の忘却はなにを意味するのか改めて考えています。国家の犯罪を発見できないのはなぜか?国家権力が都合よく物語った実定的事実("国家の敵")の同一化の無意味さに対して反証する精神が眠りこけてしまったからでしょうか。この点について子安氏が語っています。「戦後日本の<民主的>国家としての再出発のいい加減さをわれわれは随所にみているが、<大逆事件>が<大逆事件>として有り続けていることは、このいい加減さを根底的に示すものではないだろうか。だが<大逆事件>が戦後日本でなお<大逆事件>であるようにしまっているのは、<事件>を歴史の中に置き去って、耳と口とを塞いでしまってきたわれわれの意識的、無意識的な忘却によることだともいえなくもない。<大逆事件>を<大逆事件>としてあり続けている戦後日本の<民主的?>国家の形成の加担者としてわれわれはあるのではないか。田中の「大逆事件ー死と生の群像」は事件の連座者とその遺族たちの死に至るまでの排除と監視と抑圧の80年、いや一世紀を記して、<大逆事件>とは日本社会にとって何であったか、<大逆事件>をなお<大逆事件>であらしめている日本社会とは何かをわれわれに通切に考えさせるのである」


石川啄木は新聞がいかに<大逆事件>を作り上げていったかについて書いていた。集団的自衛権と秘密保護法の今日において、この啄木の証言からなにを学ぶのか?

・啄木は新聞がいかに<大逆事件>を作り上げていったかについて書いていた。小林検事正の談話を載せた東京朝日の記事にこういうことが書かれていると啄木は明治44年(1911) に証言する。
「同人(新村忠雄)は社会主義者中にありても最も熱心且つ過激なる者なるより、自然同地(長野県屋代町)は目下同主義者の一大中心として同志四十名を数へ居る事、及び現在日本に於ける社会主義者中、判然無政府党と目すべき者約五百名ある事を載せたり。」
・東京朝日新聞はあたかも検察当局とともに社会主義者捜しをやっていると啄木は証言しているのである。同年6月21日、東京朝日新聞は「無政府主義者の全壊」という記事を掲載した。
「和歌山に於ける大石、岡山における森近等の捕縛を最後として、本件の検挙も一段落を告げたるものとなし、斯くて日本に於ける無政府主義者は事実上全く滅亡したるものにして、第二の宮下を出左ざる限りは国民は枕を高うして眠るを得ん云々の文を掲げたり」
・これを読めば<大逆事件>を作り上げていったのは山形有明・桂太郎・平沼駒一郎といった国家権力の中枢だけではない、新聞などマス・メディアの側もそれに一役も二役も買っているのである。<大逆事件>とは新聞情報が大衆的意見形成に大きな意味をもつ時代の始まりを告げるような国家的な事件であったといえるだろう。
・石川啄木から何を学ぶか?「<大逆事件>が戦後日本でなお<大逆事件>であり続けているように、社会主義を縊り殺そうとした国家犯罪の大きな傷跡はいまも癒えることがないように私には思われる。<大逆事件>から一世紀後の日本は社会主義をその政党とともにほぼ消滅させてしまったのである」(子安)


NO WAR, JAPAN !

'A servile spirit of Japan' that Yoshimi Takeuchi (竹内好) mocked included a question that modern Japan was nothing without its colonal holdings. The <East Asia> as an object of thinking. I really hope that Japan as non-military pacifism de<Empire> State, burdened with its historic < minus> debt , would go to the global democracy to give to the World History the sign of the positive value !


竹内好が侮蔑した「ドレイ的日本」は、もし植民地をもたなかった近代日本は無に等しかったのかという問いを含む。方法としての<東アジア>。脱〈帝国〉化の非軍事的な平和主義的国家日本こそが、歴史的な〈負〉の遺産を負いながら、世界史にプラスの価値の徵を与えるグローバルデモクラシーの道を歩め!

「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する、これが今の東対西という問題点になっている。・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。」竹内好


子安;「19世紀後半に同じく西洋の軍事的強制によって近代化過程に入った日本は、20世紀に入ると先進帝国主義国家と同列の位置を獲得していった。しかし竹内が「ドレイ的日本」と侮蔑の言葉でいったこの近代日本は、アジアにおける加害者になることで近代化の〈負〉の帰結を見出さざるをえなかったのである。戦後日本はこの歴史的な〈負〉の遺産を自ら負うことで再出発したはずである。非軍事的な平和主義的国家日本であることは、歴史的な〈負〉の遺産を負いながら日本が、世界史にプラスの価値印しを捺しうる日本になる唯一の道であった。だがこの世紀に入って新自由主義的な構造改革を唱える歴史修正主義者小泉による政権が成立し、さらにその後継者である正真正銘の歴史修正主義者安倍による政権が成立して、この戦後日本の戦争責任を自覚したものの道のあからさまな変更が告げられ、その変更が遂げられようとしている。彼らが歴史修正主義者であるのは、近代日本がアジアの加害者となることで歴史に残した〈負〉の遺産を負うことを拒否することにある。だがこのことをいいながら私がここで強調したいのは、この歴史修正主義的政権をもちながらも、現代日本の市民は実に粘り強く戦後日本の平和主義的な国家原則を抵抗的に持ち続けているということである。日本の市民たちにおけるこの原則の抵抗的な保持が、自民党政権によるあからさまな軍事的国家への改憲的変更の企図を挫折させているのである。これこそが歴史における〈負〉の遺産を自己責任的に負いながら日本がそのような日本であることを通じて〈人類的価値〉につながっていく唯一の道、すなわち〈方法として〉の〈日本〉であることであろう。」


アベ―劇場において展開したYeatsのロマン主義とO'Caseyのリアリズムを規底にもつアイルランド現代演劇。が、前者よりはリアルなSynge、後者よりは内省的なBecketを規底にもつフリールの演劇は、ポストコロニアリズムに還元されないグローバルデモクラシーのJoyce的な精神

ハンナ・アーレント

ハイデガーの(中略)われわれの文脈における重要な点は、「公的なものの輝きがあらゆるものの光輝を奪う」という皮肉で邪悪な響きを持つ命題が、まさに問題の核心を突いており、実際にはそれが現状の最も簡潔な要約にほかならないという点にある。(『暗い時代の人々』はじめに)



EVERYTHING AND MORE

The infinite is nowhere to be found in reality, no matter what experience, observations, and knowledge are appealed to. Can though about things be so much different from things ?Can thinking processes be so unlike the actual process of things? In short, can thought be so far removed from reality?
- D. Hilbert

EVERYTHING AND MORE

The existence of an actually infinite multitude is impossible.For any set of things one considers must be a specific set. And sets of things are specified by the number of things in them. Now, no number is infinite, for number results from counting through a set in units. So no set of things can actually be inherently unlimited, nor can it happen to be unlimited.
- Thomas of Aquinas (This passage gets quoted by Cantor himself )


なぜ人々は金を数えるのか?

昔アイルランドの友人がイギリス人の金のことばかり喋ることを憂うときに、'プロテスタントの病'といってため息をついたものでしたが、イギリス人が書いた「ロンドのバイオグラフィー」という本を読んだとき、イギリス人は金が好きなのではなく、明確性が好きなのだ、と説明していました。これは、いかに金を数えることができない人々がいるかを嘆いているようにも読めます。つまり、常の事として、英国の<他者>であるアイルランドを皮肉っています。そうして一生懸命屋さんのイギリスの「文明化」のおかげで、純粋無垢に曖昧な世界に眠りこけていた怠けていたエデンの園が覚醒したとする、(よけいなお世話?)、オリエンタリズムの語りが成り立ちます。ただしもともとはイギリスはカトリックの国でした。ステレオタイプ的には、ローマ・カトリックは「精神世界」の明確性の帝国ということ。地理的にこの中心から遠く離れて端っこにあるアイルランドにも明確性によく似たものがなくはないのです。アイルランドの作家ならば、スコットランドのヒュームにしたがって、<想像力=曖昧なもの>、としたうえで、<曖昧なもの>の否定、というふうに構成的に行くのです。結局、このような明確性の定義は、<曖昧なもの>から出発する以上、常に、<曖昧さ>とは<曖昧さ>であるのに、なぜそれが<曖昧でないもの>であり得るのか、というスコラ哲学的な?アイロニーの問いを含むことに注意しなければなりません。この頑固な同一性が案外、イギリス人を言い負かすときに大事だったりする(爆)。ま、いいのですが(笑)、はじめの問題提起は、なぜイギリス人は金のことばかり喋るのか?でした。実はこれは正しくありません。なぜブルジョアは金のことばかり喋るのか?、それはかれらは明確性を好むからだ、という問答ならば、正しい構成です。歴史的なことをいいますと、産業革命以降、ブルジョアに打ち負かされてくるイギリスの貴族は、対抗的な反ブルジョア的な価値観を発明していきました。そして負け犬である貴族の価値観はアイルランドに輸出されていきました。それは、実は、曖昧なものを重んじる神話的な想像力、のことでした。アイルランドのナショナリズムはこの英国上流階級の価値観を住処にするのですが、これは少し考えてみれば大変な矛盾であります。演劇の世界では、オケーシーO'caseyのリアリズムがこのような神話的思考に対抗していくことになります。ロマンティックな神話的イェ―ツと、神話的リアリズムのジョイスとの間の愛憎相半ばする関係を理解するときも、やはりこのような階級の視点が絶対に欠かせないとわたしはおもいます。


ポストコロニアリズム的民衆史は、自らに、非西欧世界のことを書くことを課している。書き手は、旅行者の立場で、色々な地を遍歴した自分の場所感覚を利用して自分の体験を書く。場所感覚とは、共通感覚のこと。ポストコロニアリズム的民衆史の「朝貢貿易」観も、このような、交換・流通を中心とした場所感覚を利用をみてとることができないだろうか?ポストコロニアリズム的民衆史の根底には、環境 (外部)に開いた多様性を共通項にしようという、「判断力批判」のカントが分析したような有機体論的な生命観がないだろうか?それにたいして、わたしは、多様性の認識において共通感覚は不要であるとかがえる。カントは、中村雄二郎がいうような共通感覚のことも言っているので厄介だが、そもそも普遍的な共通なものを相対化することが「判断力批判」の大きなテーマであった。つまり、無限ともいえる感性の多様性は、それ自体ではカオスに陥るが、理性によって統一され得るものなのだとカントは主張したのである。この場合カントがいう理性による統一とは、理性による介入、という程度の意味。この点に関しては、カントは「判断力批判」を「実践理性批判」と差異化しているから、「判断力批判」の理性と「実践理性批判」の理性は同じものではあり得ないが、ここで肝心な点は、両者がいかに重なり合うのかをみること。「判断力批判」の理性は、実践理性的な理性を前提とした理性のありかたを語っているとみれば、「判断力」がいう理性の介入とは、「判断力」がいう実践理性の介入といってもいい。あるいは、東アジアの問題として、実践理性的な憲法概念の介入、たとえば東アジアの民主主義を要求する平和原則の介入を意味してくるだろう。そうすると、たとえば、「近代」以前の、ポストコロニアリズム的民衆史が目的的に理想化してしまう、'無限'ともいえる多様性に同一化することは不可能ではないけれど、倫理的には無意味である。連続性は、「近代」によって、消滅することになるとみなさなければならない。ポストコロニアリズム的民衆史のように、N個の多様性から特権的特異点的な一を取り出し、それを「近代」以前に存在したという非西欧的近代としての起源にまで割り振る言説は、ワフィの倫理的な問題を構成するものと言わざるをえない。現実に、この言説によって西欧的近代ときめつけられた、現在のチベットやウイグルの民主主義の要求は、非西欧的な文脈をもっていない非現実的なものであるゆえに、はじめから理念的に正当性をもちえないとされる危険性があるが、このような言説はグローバルデモクラシーの人類史からすればゆるされないことは明らかであろう。つまり西欧的近代日本の国家であれ、朝貢貿易の理念的復活を装う帝国的中国の国家であれ、囲まれた人々にいったいどんな特権があったというのだろうか?国家に囲まれることによって、失うことすら失うほどなのだとしたら。

池澤夏樹氏の「日本語」観を読んで疑問におもうこと

「はるかな昔、大陸の東・大洋の西に連なる島々に周囲各地から人が渡ってきた。彼らは混じり合い、やがて日本語という一つの言葉を用いて生活を営むようになった。この言葉で神々に祈り、互いに考えを述べ、思いを語り、感情を伝えた。詩が生まれ、物語が紡がれ、文字を得て紙に書かれて残るようになった。その堆積が日本文学である。 特徴の第一はまず歴史が長いこと。千三百年に亘って一つの言語によって途切れることなく書き継がれた文学は他に少ない。(・・・) 島国であることは国民国家形成に有利に働いたが、世界 ぜんたいで国民国家というシステムは衰退している。その時期に日本人とは何者であるかを問うのは意義のあることだろう。その手がかりが文学。なぜならばわれわれは哲学よりも科学よりも神学よりも、文学に長けた民であったから。 しかしこれはお勉強ではない。権威ある文学の殿堂に参拝するのではなく、友人として恋人として隣人としての過去の人たちに会いに行く。書かれた時の同時代の読者と同じ位置で読むために古典は現代の文章に訳す。当代の詩人・作家の手によってわれわれの普段の言葉づかいに移したものを用意する。その一方で明治以降の文学の激浪に身を投じる。厳選した作品に共感し、反発し、興奮する。 私は誰か? 日本文学はそれを知る素材である。 」
大変に饒舌に書いていらっしゃいます。が、「古事記」以前に日本語が存在したというふうにかならず考える必要がないとはおもいますね。つまり存在してもそれが現在につながっていると考える必要がない、というのもかなり大切な考え方だとおもいます。長々と理由は書けませんが、ここに考え方だけを示しておきますと、たとえば、天皇ファシズムは現在の憲法の以前に、たしかに存在しましたが、だからといって、それは現在に(連続性のあるものとして)考える必要がないものです。なぜなら戦後憲法は象徴天皇制と政教分離によって、戦前との連続性を断ち切ったからであります。(この意味で左翼の課題は、共和主義を実現することではなく、このように構成された象徴天皇制を必死に守ることであるとおもいます。私はアイルランドからきた共和主義者です。だから共和主義のためにいかに強力な理念を構築しなければならなかった歴史の一端をみてきたつもりです。ところがそんな理念もないままに、仮に日本の左翼がのぞむように共和制になったとします。これほど天皇好きの国民のことですから、象徴主義天皇制の廃止によって、かえって天皇ファシズムが狂信的によみがえる危険性がないでしょうか)。さてこのことは古事記においてもいえるとおもいます。池澤氏がいうように「古事記」以前に人々が外部からきたという開かれた可能性を示唆したとしても、しかしこれは結局は原ー日本語があったという言説に変わりありません。つまりそれは起源にかんする危険な言説、したがって、そのまま国体論的な、靖国の起源の言説と呼応し合うものと言わざるをえません。「古事記」以前に原ー日本語はあったとしても、それを、「古事記」以降の1300年間の日本語とは断ち切れた、死に切ったものとして構成し、そのことによって、現在につながるものとして考える必要がないものとかんがることこそが、文学者の責任であるべきだとおもいます。(このように「べき」をともなう判断なので、倫理的なものですね。)わかりにくかったかもしれませんが、インターナショナルスクールの仕事があったとき、高校にきていた漢字をみて驚愕したユダヤ人の数学の先生がいました。漢字はいくつあるんだ?ときくので、日本人ならば、2000ぐらい知っていると教えたらひどく興奮するのですね。それならば、X,Y,Zみたいに、漢字の2000文字全部が代数の記号として利用せよ!と勧めてくるのでした(笑)。しかし考えてみると、案外これは、方法論的に、古事記の万葉仮名(「天地発有」)は、代数と同じとかんがえてみることもできます。まちがえをおそれずにいうと、わたしの理解では、宣長が画期的だったのは、あえてそれに音を与えたことです。だからといって、古事記以前の原ー日本語の音を実体化したわけではありません。私の理解では、仮説的に、「あめつち」という音があったと方法論的にいっているだけです。ところが、一度、「あめつち」とか、あるいは「てんち」とか、代数的な漢字を、声に出して読みだすとおのずと意味があらわれてくるものです。そして意味があるところに、起源の表象があり、ここに国民国家を安易に正当化する贋の文化概念が宿る危険性が常にあることは、デリダが警戒を込めて語ってきたとおりです。


池澤夏樹氏の「日本語」観を読んで疑問におもうこと (2)

ポストコロニアリズム的民衆史は、自らに、非西欧世界のことを書くことを課します。書き手は、旅行者の立場で、色々な地を遍歴した自分の場所感覚を利用して自分の体験を書きます。ここで、場所感覚というのは、共通感覚のことです。池澤夏樹氏の「日本語」観も、このような場所感覚を利用しています。これは、「はるかな昔、大陸の東・大洋の西に連なる島々に周囲各地から人が渡ってきた。彼らは混じり合い、やがて日本語という一つの言葉を用いて生活を営むようになった。」と物語る言葉にみてとることができます。実は、このようなポストコロニアリズム的民衆史には、環境 (外部)に開いた多様性を共通項にしようという、「判断力批判」のカントが分析したような有機体論的な生命観が垣間見られます。それにたいして、わたしは、多様性の認識において共通感覚は不要であると考えます。カントは中村雄二郎がいう共通感覚のことも言っているので厄介ですが、そもそも普遍的な共通なものを相対化することが「判断力批判」の大きなテーマでした。つまり、無限ともいえる感性の多様性は、それ自体ではカオスに陥るが、理性によって統一され得るものなのだとカントは言いました。'統一'、というとなにか大袈裟な感じで引いてしまいますが、この場合カントがいう理性による統一とは、理性による介入、という程度の意味。この点に関しては、カントは「判断力批判」を「実践理性批判」と差異化していますから、「判断力批判」の理性と「実践理性批判」の理性は同じものではあり得ませんが、ここで肝心な点は、「判断力批判」の理性は、実践理性的な理性を前提とした理性のありかたを語っていることです。だから「判断力」がいう理性の介入とは、「判断力」がいう実践理性の介入といってもいいとおもいます。あるいは、今日的な問題として、実践理性的な憲法概念の介入、たとえば東アジアの平和原則の介入のことです。そうすると、たとえば、「古事記」以前の池澤が目的的に理想化してしまうす'無限'ともいえる多様性に同一化することは不可能ではありませんが、倫理的には無意味です。したがって、連続性は、「古事記」によって、消滅することになるとみなさなければならないとおもいます。ポストコロニアリズム的民衆史の池澤のように、N個の多様性から特権的特異点的な一を取り出し、それを「古事記」以前の原ー日本語に割り振ることは文学者としての倫理的な問題を構成するものと言わざるをえません。

編集者

柄谷行人の「学ぶ立場」と「教える立場」は、そのまま「売る立場」と「買う立場」に対応するとかんがえてよい。たとえば、「売る立場」の「売る」という行為は命がけの飛躍である。「買う立場」をまえに、いいかえれば、他者をまえに、(商人は) 売ろうとする商品が現実に他者に買われるかどうかまったく保証がないという。命がけの飛躍と呼ぶほどの、不確実な関係の非対称性といったら、この世の中には「学ぶ」ことしかないだろう。つまり「教える立場」からすると、常に、なにが学ばれるのかは保証がないからである。ここで、書き手が自らを「学ぶ立場」としてあると決めたとき、自己の書いたものについては、(柄谷ほどには!)自分で説明し批評しようとはかんがえないのは、批評を他者である読者に委ねようとするからである。これにかんして、非常に興味深い職業のひとつに、編集者がある。編集者というのは、このような「学ぶ立場」と「売る立場」を兼ねる顕著な職業にみえる。作家から「学ぶ」立場であり、と同時に、「売る立場」でもある。作家の思想が世に出るべき価値をもつことをなんとか、会社側 (出版社)に説得しなければならないからである。売れるから売りましょうという同義反復に絡み取られているのかとおもえば、実際は全員がそうではないらしい。書き手にとっては、同義反復にある編集者は編集者であるとはいえないと非難したくなるときは、両者の強力な信頼関係が崩れたときに起きる。厄介なことに、出版社が自分たちに都合よく作家に書かせていくようなことが起きるらしい。だから柄谷ほどの思想家が書いている最近の非常に危ういテーマは、自分で書きたいから書いたのか、それとも出版社が利用しているのか中々見定めがつかないものである。どうも、吉本隆明が言うことは正しかったようだ。政治的でないものは存在しないのだと。恐らく編集者にも複雑すぎて把握できないが、たしかに決定されている。つまりすべてが政治の中にある...不気味だ

動的平衡の流れとは、孤立波を記述するような非線形微分方程式よるもの?ところでこれとはべつに、数は実在ですか?と、おそらく財務・会計の同じような仕事しているひとにきいてみたら、ますます世のなかは数の秩序になりつつあるが、ただしそういう数が基本的には交換しあう物とサービスに対応しているかぎり気が狂う心配ははないが、銀行などの実体のないところで数を数で処理している金融業はかなり危ないにちがいない、という意外な答えがかえってきました (爆)。思い出すのですが、アイルランドの友人がイギリス人の金のことばかり言っていることを憂うときに、'プロテスタントの病'というのですが、イギリス人が’書いた「ロンドのバイオグラフィー」(本)をよんだとき、金が好きなのではなく明確性が好きなのだ(逆ではない)、とありました。ただし、もともとはイギリスはカトリックの国でした。ローマ・カトリックはい精神世界の明確性の帝国ですが、この中心から遠く離れて端っこにある(笑)アイルランドにもそういうものがなくはないのです。ただ、スコットランドのヒュームにしたがって、想像力=あいまいなもの、としたうえで、あいまいなものの否定、というふうにいくのです。ただし、このような明確性の定義は、あいまいなもの、から出発する以上、つねに、あいまいなものはあいまいであるのに、なぜあいまいなものがあいまいでないものになるのか、という危うアイロニーの問いを含むものですね、これが案外イギリス人を言い負かすときに大事だったりする(爆)。

靖国公式参拝容認する軍国主義は、抗議する市民の<公>の憲法的領域を無限小に収縮し、そのかわりに、首相の「ココロ」の<私>の領域を無限大に拡大したいのでしょうか?そんな「ココロ」の領域は、つまり民主主義的異議申立てを罰する監獄にほかならないのですが。スターリン言語学は、日本列島の人民の<労働>に目的を与えるために、闘う国家=祀る国家を<つくる>栄光の王冠を要求するつもりでいるのしょうか?わたしはそれがたんなる軍国主義の虚偽の教説にしかおもえません。

雇用する側に責任ある雇用契約違反の問題に、テレビ局がミスコンという差別的行事の共犯者を積極的に採用していることの問題がある。ネオリベ貴族の世の中に、ミスコンの選ばれたという証の価値が昔と比較できないくらい高くなったのか?ミスXXは擬制された血統の神話。気持ち悪いものが流通している

銀河哲道的デリダ

「銀河鉄道の夜」(1941)とは、貧しい少年ジョバンニが、級友を救おうとして溺死した親友カムパネルラとともに、銀河鉄道に乗って宇宙を旅するという話。もちろん作者は宮沢賢治ですが、子供の時かれの両親の信仰を大変嫌っていたというエピソードがあります。現世では無力な自己が死後、弥勒となって帰ってきて衆生を救ううという所謂親鸞的往生還相のようには、宮沢は「銀河鉄道の夜」に判然としたハッピーエンドの約束をかきませんでした。ただ、宮沢の<還ってくる >(帰ってくる)というテーマは3・11以降、益々重要な意義をもつものとして重みを増してきたのではないでしょうか。それについて、ラジカルに問う普遍主義の精神は、そんな生命である故郷としての大地など存在するのかと問うでしょう。これにたいして、ブレヒト小屋で銀河をみまもってきた渡辺一民氏は答えるでしょう。そういう故郷があるとして、そこに安心して還るためには、日本の合理主義的物質主義が直進的に追求してきた'富'がなにであったのかを根本から問い返すことが不可欠、と。下に、渡辺氏が講義「20世紀の精神」でひいたデリダの言葉(「グラマとロジー」)を示しておくことで、表題とした私の奇妙な造語、銀河哲道的デリダの意について考えるヒントにしていただければ幸いにおもいます。
「多次元性への、また脱=直線化的時間への接近は、たんに「神話文字」に後退することではない。逆にそれは、直線的モデルに従属したあらゆる合理性を、神話書法の別の形式、別の時代として現われさせる。<エクリチュール>の省察においてこのように告知されている超=合理性や超=科学性は、それゆえ一つの人間の科学の中に閉じ込められることもできず、また科学の伝統的観念に対応することもできない。それらは唯一の同じ所作によって、人間、科学、直線を乗り越えるのだ」

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
11月(2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる