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zoom RSS 十一月2014 (3)

<<   作成日時 : 2014/11/23 02:04   >>

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言説の場でのたたかい

おお、あの「ひまわり学生運動」はたしかな結果をもったのですね!「選挙結果は,台湾の民主的価値と進歩を求める台北市民の決意を示した」(台北市長)。運動が先行しましたから、つぎは、言説の場での闘い、エスタブリッシュメントの為の国策的ポストコロニアリズムvs.市民のグローバルデモクラシー、が展開されてくることになるでしょう。そもそも、九十年代のジョイス「ユリシーズ」のアイルランドからの読みは、エスタブリッシュメントの国策的ポストコロニアリズム vs. (ブルーム的)市民のグローバルデモクラシー、を呈示してきたものです。アイルランドの新聞アイリッシュタイムズの記事を正しく読むためには、この言説の闘いをよく知ることが大切です。アカデミズムはポストコロニアリズムに、ジャーナリズムはデモクラシーに共感がありますが、多くの場合はいわば混合形で、それほど明確に分けることができません。私自身もどちらにも傾聴すべきものがあり迷いつづけてきました。(その翻訳を利用して書いた私のエッセーを添付しますから、ご興味のある方はご一読を。「統一か? 多様性か?−ジョイス、都市の肖像を書く http://owlcato.hatenablog.com/entry/2014/12/01/012254)。日本に輸入されてくると、ポストコロニアリズムの言説が反近代(あるいは脱近代の、あるいは民衆史の) 研究者達に、ヒューマニズムの言説が近代の研究者達に党派的に分配されるというのがお決まり。(ブルーム的)市民のグローバルデモクラシーについて言及する者が殆どいないのをみると、どちらの読みであれ、結局日本人研究者は、文学者?は、'遅れた国'に対する暗黙の帝国主義的優越感を隠しているようにおもえて仕方ないのですが、ただし色々な研究者がいることはいます。総じて、現代アイルランド演劇の研究者の方がデモクラシーに敏感のような気がしますね


グローバル資本主義 vs. グローバルデモクラシー

いくら自己の物質的な生存条件に不利な政策 (消費税とTPPと原発推進と集団的自衛権)をおしつけられたとしても、グローバル資本主義のもとで東アジア諸国同士の激しい競争が展開され互いに反発しあう民族主義が高まると、現実には安倍のような権威主義的政府への内部的支持が崩れません。厄介なことに、最悪のところで支持が安定してしまうようにみえます。今度も投票率によっては、自民党の圧勝が起きた場合、(アベノミックスの限界を知る) 安倍自身がいったい何が評価された結果選挙で勝つことができたのか読みだすことができないでしょう。そのとき、安倍自民党は自分自身を騙すために自分に都合がいいストーリーを捏造していく危険があるのです。いまから警戒しなければならないのは、そのXXは'徴兵制推進'だということ。そうなってからでは権威主義的政府に対する反対の声をあげていくことが一層困難。結局こうしたことはすべて、アメリカと中国のグローバル資本主義のもとで起きてくるのだから、ここでの結論は、グローバル資本主義のふたつの<帝国>から距離を保つグローバルデモクラシーがなんとしてもはじまらなければならないということです。現実に、ウオールストリートのオキュパイ運動、中台貿易協定に抗議する台湾、自由選挙をもとめる香港、天安門事件は、そうしたグローバルデモクラシーの現実化であります。原発体制とは、安倍自民党の原発を中心とした、消費税とTPPと原発推進と集団的自衛権、そして靖国公式参拝の体制のことですから、これらに対する抗議のあり方 、つまり今後の反ー原発体制も、<選ぶ民主主義>の限界を超えていくようなグローバルデモクラシーの尺度で再定義されていくことの意味が問われてくるようになってくるのではないかとおもいます。


L'art recèle toujours des évocations de la condition mortelle.

Mark Rothko


seq2 事物(もの)のあいだとは、相互に一つのものからもう一つのものに及ぶ定位可能な関係を指すのではなく、一つともう一つを両方ともまきこんでいく垂直的方向、横断的運動を指すのだ。始めも終わりもなく、両岸を侵食し、真ん中で速度を増す流れなのだ。――(上)p61, 千のプラトー:資本主義と分裂症




信 trustworthiness

「論語」の英訳は、なんだかなとはおもうのですけど、あなたも?漢字でなければならないとおもうほど漢字に対する思い入れもありませんが、英訳で読みますと、きっちり音だけで意味を考えることになってしまいますね。漢字を前に、あたかも痕跡として見ることにしよう!、ときめてしまうと、漢字というものは、現代アートの空間にモノを置かない、しかし代わりに痕跡を置く、(例えば壁に"NEVER AGAIN" と表示しただけの作品) なにかにみえてくるから愉快ですね。たとえば原初において「信」という文字で確かに特定のXをあらわしたはずなのですが、もうそれは消滅しまった、死に切ってしまったので、現在文字(「信」)を住処にして残っているだけです。つまりこれが痕跡という意味です。「信」という字の配置は、「人」が「言」(言葉)とのかかわりをしめていますから、まさにそうのようにしてこの現在わたしたちがこの「信」という文字をみているということに気がつくときハッと驚きますね。配置に即してかんがえると、「言」の外側に位置しているのが「人」(共同体)です。いいかえれば他者たちです。この場合、言葉の内面に他者が存在するということではありません。言葉が外にいる他者に依拠しているという形です。ところで安倍が「信を問う」といいますが、果たしてこの「信」の意味を十秒でも吟味したことがあったのでしょうか?かれは自分の言葉をみている東アジアの他者が存在していることを自分の問題としてどれくらい倫理的に意識しているのでしょうか、疑問ですね。この「信」の倫理性を無意味にしていく安倍の体制に同意していくとしたら、今度はわれわれの倫理性が外部から問われてきます。なによりも、「信を問う」主体は、(安倍ではなく)、われわれからはじめなければならないことです。No !と意思表示することによって、過去から受けとった痕跡、「信」を、未来の人々のために保っていく責任についてかんがえる時ではないでしょうか。



信 trustworthiness (2)

安倍は「信を問う」というとき、ここでいわれていることの意味は、政は信です。この「信」は、憲法前文の主権的概念の「信託」を意味する前に、まず儒学思想の「誠」を意味する「信」であります。この一例からわかるように、日本の政治の根底に儒学思想があるといっても過言ではありません。ところが小泉から安倍まで保守の政治家たちは自分たちでよく勉強しているつもりでも、勉強の仕方に問題があるようです。思想の質が非常に悪いといわざるをえません。なんなら、誰にも門戸を開いているから、左翼たちが「論語」を読んでいる「論語塾」のもとに勉強しにくればいいのにと書きかけたところで、片山さつきが現れたら僕は逃げ出すだろうな(笑)。
さて儒学思想の伊藤仁斎はカントと同時代です。だから18世紀のカントを仁斎によって説明できますし、仁斎をカントによって構成することが可能なのです。社会主義の政党が事実上消滅してしまった現実にたいして、社会主義思想の再建にカントの読み直しを利用していくことは一定の意義をもっています。実際に柄谷行人はカントを読んでいきました。が、カントからマルクスへ移行するときに、「資本論」へのこだわりで躓きました。「資本論」が依拠できる唯一の他者であるとしながら、「資本論」で言われていない'国家'と'民族'の意味を読みだしたのは破たんです。が、このように破たんした、かくも無理な「命がけの飛躍」がなければ主体としての自己が成り立たないとばかりに、唯一のテクストに絶対的な優越性を与えるという、日本知識人だけに起きる顕著な幻想形態は、恐らく帝国主義の大正に起源があります。「資本論」はそれが書かれた19世紀の問題しか扱うことができないのに、この限界を自覚することなく、社会主義政党が19世紀のマルクスへのこだわりから19世紀的「資本論」を20世紀的問題に適用していくとしたら、やはりうまくいかないです。「世界共和国」の柄谷は「帝国」の構造について発言し始めました





過大にココロの問題を言う言説に警戒しなければなりません。慰安娼婦問題は関与した国家の犯罪の問題であり、ココロのなかの問題としては構成することが倫理的に不可能です。この点について、存在した国家の体系的な関与を隠ぺいして、日本の大新聞(読売)が'強制'ではなく'自発的'だったと自らの一千万の読者に宣伝しているとしたら、外部の視座 (西欧のジャーナリズム)からみてそれは、日本において安倍体制のエスカレートしていく軍国主義的方向に沿って外部的な現実感覚が決定的に失われはじめている兆候ではないかと検証したくなるのは当然。繰り返しいうと、性奴隷が'自発的だった'と決めつける公の言説は必ず、首相の靖国公式参拝をココロの問題として措定していく危険性があります。しかしそうして<自分がー語るのを=聞く」>という方向で展開していく言説は、他者である東アジアの人々が保とうとしている記憶を嘲笑い歴史を殺戮するに等しい全体主義の企てにほかなりません.この忘却は、ほかならない、靖国という近代がおこなう忘却



「選挙とは、国民主権の制度化された発動という意味で、革命権の制度化である」☆「議会は経済対立だけでなく文化的価値的多元性をふくめて、社会の政治構造を反映する代表機構である」★「今日、複数代表制は議会の本質である」☆「議会においては、対立にもとづく「討論」が重要となり、その意味でこそ少数党の「議事妨害」も一定のルールのもとにおいて承認される。でなければ、議会は「喝采」の翼賛機構となってしまう」
(松下圭一『戦後政治の歴史と思想』)


デモクラシーの世界を無意味化していく自民党国家。かりに、全員一致で衆議院とか国会が「公正な放送」をもとめたとしても、これとて憲法の言論活動の自由に抵触する行為であります。許されません。それにしてもこの自民党がいう「公正」はなんでもかんでも適用対象になりうると脅迫している秘密保護法の罪刑法定主義なき処罰と事実上かわらないのがこわいです。単なる選挙報道に対する干渉を超えた、もっと怖いテクニックのはじまりかもしれません ー> '自民党がテレビ局に送りつけた圧力文章'


アンネ・フランク Anne Frank

映画が好きだったのですね。非常に狭い隠れ部屋の壁中にポスターを張っていたようです。ダブリンからいったのですが、アムステルダムにあるこのアンネ・フランクの家を見学したとき、部屋のある階に、誰も気に留めていなかった、使用されていない古ぼけた小さな水道管(当時のものだったかはわかりません。ただパイプがあったことはたしかで、どこかに繋がるどこかの蛇口で飲んでいたとおもわれます) があったので、これを撮り、'生存'をテーマにした作品をつくってみようとおもいました。蛇口をひねると、救いの水であるフィルムを出してくれるというコラージュです。コラージュでつかった下の写真は、十九世紀に立ち退きに抵抗して捕まったアイルランド農民たちの(棺桶よりも小さい)監獄の窓ですね。



Le mot trace doit faire de lui-même référence imposé à un certain nombre de discours contempotains avec la force desquels nous entendons compter.Non que nous en acceptions la totalité.(....) rapport à l'illéité comme à l'altérité d'un passé qui n'a jamais été et ne peut jamais être vécu dans la forme, originaire ou modifiée, de la présence. (...) Cette déconstruction de la présence passe par celle de la conscience, donc par la notion de trace (Spur), telle qu'elle apparît dans le discours nietzchéen comme dans discours freudian. - Derrida


痕跡という語はそれ自身、強力な力をもった幾つかの同時代的な言説に依拠せざるを得ないのであって、われわれがそのような言説をお蔭を蒙っているということは十分に承知している。だが、それらのすべてを受け入れるということではない。しかし痕跡という語は、最も確かなものにみえる関連をそれらとの言説とうちたてるのであって、それらにおいて有効性が証明されたさまざまな展開の手間を省かせてくれる。(レヴィナスの概念と対比して・・・) それは、けっして存在したこともなくけっして現前の根源的なあるいは変容された形式の中で体験され得ることもない一つの過去の、他在(他者)性への関係としての三人称への関係である。(・・・) 現前のこの解体は意識の破壊を、したがってニーチェやフロイトの言説に現れているようなSpur (痕跡)という還元不可能な観念を、通過する。

'the logos through the vpice; an order of the signifier by which the subject takes from itself into itself, does not borrow outside of itself the signifier that it emits and that affects it at the same time. Such isat least the experience - or consciousness- of the voice; of hearing (understanding-oneself-speak.'
主体を自己から自己へと赴かせる声というこの<意味するもの>の秩序は、主体が発すると同時に主体を触発しもする<意味するもの>を、その主体以外のものからは借り受けない。これが少なくとも声の経験ーあるいは意識ーであって、つまり「自分がー語るのを=聞く」ということである。
ordre de signifiant par lequel le sujet sort de soi en soi, n'emprunte pas hors de lui le significant qu'il émet et qui l'affect en même temps. Telle est du moins l'expérience- ou conscience- de la voix; du s'entendre-parler. -Derrida


チェーン店のコーヒ屋でヤンキーが甘ったるく歌うXmasソングの為に頭の中のトカゲが暴れまわる時期に。ロンドンのユダヤ人達が12月24日を普通のなんでもない一日として無視しさったのがなんとも歴史を感じさせてくれました。妻が夫の安物のプレゼントに怒り爆発、英国では離婚が一番多い日がこの日なんです


本当に争点がない?

いまのところ、安倍によって始まり、安倍によって助長されている、東アジア諸国間の対立的緊張についての危機感をはっきり伝える政党がひとつもありません。もはや「どの政党が」は期待できません。一体だれが、東アジアにおけるグローバルデモクラシーに依拠した関係を語る役割を担うのかです。あなた、それともあなたですか?

本当に争点がない?

いまのところ、安倍によって始まり、安倍に助長されている、東アジア諸国間の対立的緊張についての危機感をはっきり伝える政党がひとつもありません。もはや「どの政党が」には期待できません。一体だれが、東アジアにおけるグローバルデモクラシーに依拠した平和関係を語る役割を担うのか?あなたか?それともあなたが語ってくれますか !


子曰、人而無信、不知其可也。大車無輗、小車無輗、其何以行哉 is the word from the Analects of Confucius.' The Master said, Persons who lack trustworthiness - I don't know how the get by ! Big carts that have no ypke-bar, little carts that have no collar-bar how can you go anywhere in them? ' Of course, in this context I try to criticise the PM Abe ordered irresponsible dissolution.


Art alone makes life possible – this is how radically I should like to formulate it. I would say that without art man is inconceivable in physiological terms… I would say man does not consist only of chemical processes, but also of metaphysical occurrences. The provocateur of the chemical processes is located outside the world. Man is only truly alive when he realizes he is a creative, artistic being… Even the act of peeling a potato can be a work of art if it is a conscious act.

Joseph Beuys


亡命するエクリチュール 1
l'ecriture self-imposed-exile
子曰、寗武子、邦有道則知。邦無道則愚。
其知可及也。其愚也不可及也


亡命するエクリチュール 2
l'ecriture self-imposed-exile

子曰、人而無信、不知其可也。大車無輗、小車無輗、其何以行哉。
人における信が失われたら、人は生きていけない。それはちょうど、牛車や馬車の轅(ながえ)の横木がなかったら、もう車を進めることができないのと同じである。(梟猫解説; 安倍は信を問うというが、そもそもこの嘘だらけの首相に信がないから、人々は生きていけなくなるのである。原発再稼働とか消費税10%とかTPPの個別的な問題を超えて)


亡命するエクリチュール 3
l'ecriture self-imposed-exile
「民無信不立」
Without the trust of the common people, they get nowhere
「お上を信じることができなくなったら、人民はもうこの国にはいられない」(子安訳) < つまり、「信」は道徳主義的に解するとまったく説得性のない解となる。それは民の生の安定を常に願う孔子にありえない言葉である。徂徠的に、「信」は為政者における問題として「民無信不立」を読むべきである>


亡命するエクリチュール4
l'ecriture self-imposed-exile
子曰、道不行、乗桴浮于海
The Master said, The Way does not go foaward- I'll get on a raftans set out to sea !
<「論語」は人間性の立場から徹底した道徳性をいう。戦後憲法の理想のような人間の相互関係を支配する道徳法が国に無くなれば、つまり政治が暴力に訴えてくるならば、人々はもはやこの国にとどまることはできない。前述の「民無信不立」Without the trust of the common people, they get nowhere と対をなす言葉。ポスト構造主義のデリダにひきつけて考えると、原初的テクストは、ロゴスの絶対主義、'自らー話すことをーきく'という音声中心主義から亡命していく、文字、エクリチュールの外部性について喚起しているとも考えられよう>



アイルランドの知識人に会うと挨拶を交わす言葉の中で必ず出てくる言葉が二つあって、そのひとつが、まだアイルランドは産業革命がありません、あるいは最近はじまりました、というものと、産業ブルジョアが存在しなかった国、です、これに関しては、日本の経済についてのリップサービスかと何年間も思っていたのですが、これは全然勘違いで、<地球上で産業革命を経験した国などは圧倒的少数派であり、その点でアイルランドは多数派にだから、きみたちは自分たちが普遍主義的だとおもったら大間違いだぞ>という警告でした。
さて、わたしは必ずしも講座派の良い読者ではありませんが、山田盛太郎「日本資本主義分析」に登場するアイルランドの記述には大きな関心があります。
「資本論」第一巻に、特別剰余価値論の実例として、当時大変なことになっていた、つまりジャガイモ病の飢餓をはじめ立ち退きと移民によって労働者の数が激減していた、アイルランドの農業が分析されています。(私の理解で恐縮ですが!) 大まかに論旨を追うと、非常に冷たい言い方ですけれど、しかしこれらの事情はかえって労働者にとって有利な環境といえます (マーケット的には労働供給が少ないですから)。が、実際には賃金の上昇は起きていません。なぜなのか?それは、技術的改良で労働生産性があがっていたからではないかと「資本論」は分析してみせたのです。さて他国の資本主義国の農業と比較した「日本資本主義分析」の山田盛太郎の分析(昭和7年)では、小作料は日本が一反当たり(大正十年)一毛作田が約31円であるのにたいし、アイルランドが1円80銭。また生産するための耕作面積も日本農業は平均1、06町歩(昭和4年度)、アイルランドは2・9町歩(1905-1918)でした。ロシア農業のように、アイルランド農業は差異貧困とおもわれていても、現実には日本農業の方が酷いというのはショッキングな事実だったかもしれませんが、兎に角、土地所有の性格も考量したうえで、山田はこうした比較の数字を読みながら、いわゆる「軍事的半農奴制的日本資本主義の基本規定」を裏づけていったことがわかります。こうして言説の主体としての講座派は生産力を中心にした実定的な言説を発すると同時に、(逆の方向で)、この言説が主体(講座派)を触発していくということが政治的に展開していったようにおもわれますが、この理解で間違いないでしょうか?




山田盛太郎「日本資本主義分析」に登場するアイルランド

「資本論」第一巻に、特別剰余価値論の実例として、当時大変なことになっていた、つまりジャガイモ病の飢餓をはじめ立ち退きと移民によって労働者の数が激減していた、アイルランドの農業が分析されています。(私の理解で恐縮ですが!) 大まかに論旨を追うと、非常に冷たい言い方ですけれど、しかしグ経済学的にいうと、人口減少はかえって労働者にとって寧ろ有利な環境といえます (マーケット的には労働供給が少ないですから)。が、実際には賃金の上昇は起きていません。なぜなのか?それは、技術的改良で労働生産性の上昇が起きためではないかと「資本論」は分析してみせたのです。さて他国の資本主義国の農業と比較した「日本資本主義分析」の山田盛太郎の分析(昭和7年)では、小作料は日本が一反当たり(大正十年)一毛作田が約31円であるのにたいし、アイルランドが1円80銭。また生産するための耕作面積も日本農業は平均1、06町歩(昭和4年度)、アイルランドは2・9町歩(1905-1918)でした。ロシア農業の場合のように、アイルランド農業は最貧困とおもわれていても、現実には日本農業の方が全然酷かったというのは、ショッキングな事実だったから読者に訴える説得力があったのかもしれません。兎に角、土地所有の性格も考量したうえで、山田はこうした比較の数字を読みながら、いわゆる「軍事的半農奴制的日本資本主義の基本規定」を裏づけていったことがわかります。いま、言説の主体としての講座派をとらえなおしてみると、主体は'生産力'を中心にした実定的な言説を発すると同時に、(逆の方向で)、この言説が主体自身(講座派)を触発していくということが政治的に展開していったようにおもわれますが、この理解で間違いないでしょうか?



いかに「自然」を言説化していくか、たしかにこれも、近代を相対化するポスト構造主義のテーマ

愚者の亡命 (1)

子曰、寗武子、邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。其愚也不可及也

検察官タイプではありません。だから常の事として努力は非難より説得に向かうのでありますが、もはやこの国のファシスト達に通用しないと気がついてきました。(ハーレントがいうように、既にナチスは常識を持つからこそ常識を無意味だと思っていたと)。嗚呼、増殖していくファシスト達は今日も同化主義のマトリックスを流通させていく、1、2、1、2・・・。社会民主主義の精神が消滅させられようとしているこの時代では、説得が問題ではなく、かりに説得できなくとも構わず、現実において妖怪どもと共有するものから、おぞましくとも、異なるように考える能力をいかに生産していくかが大切だという思いです。意味するものが意味するものは何かと問う愚者のぎりぎりまで行く。そうして「論語」の孔子がいうように、道なき世に愚者としてふるまう報酬は結局は亡命になるのか?それは予言できませんが、現在はただ(Frida Kahloの絵の中みたいに) 絶望的に、(自らの)思考の不足に直面しています



新世代
なく下品の塔
石原の

2009年二月の反ロンドンG20開催の中央銀行前広場の占拠のときは、直接の抗議の相手はブラウン元首相でした。四千人とはいえ、五百年間資本主義を見守ってきたシテイの中心を占拠した抗議だから、米欧の国際金融秩序、と同時に、イラク戦争等の新植民地主義復活の体制に対する抗議の様相を帯びました。何十倍の数の警官による八時間の包囲。色々な観念がよぎります。(ここで全員逮捕ということになれば、自分は強制送還のほうかいい。帰国するおカネもないしせいせいするわ) この米欧の国際金融体制に穴を開けるのは、中国の存在、即ち世界史の停滞的・古典的範疇としてのオリエンタル・デスポティズムかもと考えてみました。が、その代償として、天安門広場前抗議を弾圧することは許されない。反グローバル資本主義どころか、グローバル資本主義それ自身だとしら?このアンチG20の銀行に対する初めての抗議のニュースは世界中に。意外な英国の新聞の支持。労働党政権への世論の反感。が、これがダメージを与えると、より酷い保守党政権が来ることになるのでは。状況がみえない。今年起きてきた現在の台湾・香港の学生達のグローバリズムに対する抗議が、五年前の事件の意味を明確にしていくようです、普遍主義的抗議のネットワーク


2014年の世界銀行の出資比率(17%が米国、8.5%日本、5・5%中国)、IMFの出資比率(18%が米国、6%日本、4%中国)。この米欧主導の国際金融秩序(ブレトンウッズ体制)での発言力を高める為に中国はもっと出資したいが米国が認めない。それなら自分達で新しい体制を作るとして、アジアインフラ投資銀行(シンガポール、タイ、サウジアラビアなどアジアを中心に21ヵ国が参加へ。米国と日本は参加の意思なし。韓国は米中との板挟み)、BRICS開発銀行によって、アジアのインフラ需要に米国よりも自由な融資で対応するという。(10月20日朝日、'中国、新金融体制狙う')。


2009年二月の反ロンドンG20開催の中央銀行前広場の占拠のときは、直接の抗議の相手はブラウン元首相だった。四千人とはいえ、五百年間資本主義を見守ってきたシテイの中心を占拠した抗議だから、米欧の国際金融秩序、と同時に、イラク戦争等の新植民地主義復活の体制に対する抗議の様相を帯びた。八時間の包囲。この米欧の国際金融体制に穴を開けるのは、中国の存在、即ち世界史の停滞的・古典的範疇としてのオリエンタル・デスポティズムかもと考えてみる。が、その代償として、天安門広場前抗議を弾圧することは許されない。反グローバル資本主義どころか、グローバル資本主義それ自身だとしら?
アンチG20の銀行に対する初めての抗議のニュースは世界中に。意外な英国の新聞の支持。労働党政権への世論の反感。が、これがダメージを与えると、より酷い保守党政権が来ることに。状況が分からない。現在、台湾・香港の学生達のグローバリズムに対する抗議が、五年前の事件の意味を明確にしていく

Mais enfin le plaisir spécifique de voyage n'est pas de pouvoir descendre en route et s'arrêter quand on est fatigué, c'est de render la difference entre le depart et l'arrivée non pas aussi insensible, mais aussi profonde qu'on peut, de la ressentir dans sa totalité, intacte, telle qu'elle était dans notre pensée quand notre imagination nous portrait du lieu où nous vivions jusqu'au cœur d'un lieu desiré , en un bond qui nous semblait moins miraculeux parce qu'il franchissait un distance que parce qu'il unissait deux individualités distinctes de la terre, qu'il nous menait d'un nom à un autre, et que schématisme(...)l'opération mystérieuse qui s'accomplissait dans ces lieux spéciaux, les gares, lesquels ne font pas partie pour ainsi dire de la ville mais contiennent l'essence de sa personnalité de même que sur un écriteau signalétique ells portent son nom. (Proust, noms de pays; le pays 'p.512)

3分間でわかるデリダ

デリダ的には、文字(エクリチュール)の課題とは、いかに起源を隠ぺいするかということに尽きますニャ。(梟猫のネコとしての起源を隠せ!あるいは、フクロウとしての起源を隠せ!)。だけどねー、起源は根拠がないことの隠蔽だったから、結局その課題はここに来る。隠蔽の隠蔽、ホホ〜、つまり無根拠性の開示であるニャッ!(梟猫はどこから来てどこへ行くかわからないということさあ) 不純な文字(エクリチュール)に、まちがってもー、純に惚れちゃいけない。あなたの善き魂の状態を読み込んじゃダメダメ。読めないほうが倫理的なのさ、そのまま他者の姿を見ているという意味で。
(おっと、そこのお兄さんお姉さん、梟猫の絵を描くときは、直線的進行を避けて頂戴よ。迂回するときには、全基底を巻き込む二階テンソルの記号よりも、もっと無声でね!) あとは、大切な外部の問題がありますけどね



原発の靖国体制

公共圏での言論の場がどんどん収縮していく、靖国体制というのは、窒息の手前で、安倍個人のココロの私的領域、私的言語の感覚にしか拠り所がなくなってきたかのように人々に贋の安心を強いる体制。原発の靖国体制のもとで、仮に原発再稼働がなくとも、一体構造<政財官司マ>に委ねる安全神話の恐怖が次々に増殖されていくことになるのでしょうか?すでに今回の選挙が象徴的ですが、人々にもとめられているのは同意することだけです。自民党が人々におしつけてきた、<選ぶ>民主主義にたいする過大な依存は、とくにネオリベ思想が台頭する九十年代以降に、市場原理にたいする過大な依存と一体をなすようになりました。この問題の分析と解決が思想史の課題といえますが、グローバル資本主義と帝国に取り囲まれた東アジアの民主化運動からの視点を欠いた分析では、市民社会の視点を中心にした、社会主義思想の再建はありえないだろうと考えています。


唯物論的なジョイス....

The soul has been before stricken mortally, a poison poured in the porch of a sleeping ear.

- Joyce, Ulysses




ワン・プラス・ワン

Fbで個々人が発する情報をみると外人だからといってみんながそれほど知性があるわけではないと発見するが、しかししかしきわめて凡庸でも二人以上集まると大変偉大な事を成し遂げることがあるのはたしかです。一方、プルーストの和訳が二種類もある近所の本屋で、これを買う一人一人の日本人の知性を思うとほんとうに感嘆するほかないのだが、それなのに、二人以上集まると次世代の党みたいな反知性主義の集団 (これに拍手する人たちも含めて)がうまれてくるのは一体何故なのでしょうか?この人たちは、憲法の言葉を読めない土人です

It could not be a wall but there could be a thin thin line there all round everything.

James Joyce, A Portrait of the Artist as a Young Man




ホ〜、ソファーからこのカーテンをみながら文を考えますニャ。この三つのテーマで書き続けていって、来年にはなにかまとまったものにできないだろうかと願っております

α「二十世紀の精神は、フーコ「言葉と物」をいかに読んだのか?ー グローバル資本主義、国家、帝国、グローバルデモクラシー」
(渡辺「20世紀の精神」そのほか、フーコ「言葉と物」、ゴダール「映画史」、ジョイス「ユリシーズ」「FW」)
β「エクリチュールとしての大正を読む」
(子安氏の講座「大正を読む」、デリダ「グラマトロジー」、フーコ「言葉と物」)
γ「愚者の亡命ー論語塾からの報告」
(子安氏の講座「仁斎とともに読む論語」」、他の著作、デリダ「グラマトロジー」、フーコ「言葉と物」、阿呆船(「監獄の誕生」)、プルースト「失われた時をもとめて」、テーマ、記憶と愛と意志、祖国喪失と亡命の差異)

二年がかりで、
γ社会主義思想の再建としてのカントの読み。(カント第一、第二、第三批判、ハーレント「人間の条件」「全体主義の起源」)
δ二十世紀思想はいかに芸術史を読んだか?(Art in theory,Tate Modern, )



L'écriture est cet oubli de soi, cette extériorisation, le contraire de la mémoire intériorisante, de l'Erinnerrung qui ouvre l'histoire de l'esprit.C'est ce que disait le Phèdre; l'ecriture est à lafois mnémotechnique et puissance d'oubli. Naturellement, la critique hegelienne de l'écriture, s'arrête devant l'alphabet. En tant qu'écriture phonétique, l'alphabet est à la fois servile, plus méprisable, plus secondaire (<L'écriture alphabétique exprime des sons qui sont eux-mêmes déjà ces signes. Elle consiste donc en signes de signes (<aus Zeichen der Zeichen>, Encyclopédie) , mais c'est aussi la meilleur écriture, l'écriture de l'esprit ; son effacement devant la voix, ce qui en elle respecte l'intériorité ideal des signifiants phoniques, tout ce par quoi elle sublime l'espace et la vue, tout cela en fait l'écriture de l'histoire, c'est-à-dire celle de l'esprit infini se rapportant à lui-même dans son discours et dans sa culture...- Jaques Derrida, de la grammatologie, p.39


文字言語(エクリチュール)は自己の忘却、外面化であり、内面化する記憶の、つまり精神の歴史を開始する回想 (Erinnerung)の、正反対に位置する。これは、まさしく「パイドロス」が語っていたことである。つまり文字言語(エクリチュール)は、記憶を助けるものであると同時に、忘却の力でもある。当然のことだが、文字(エクリチュール)にたいするヘーゲルの批判は、アルファベットの手前で停止する。表音<文字>(エクリチュール)としてのかぎり、アルファベットは同時により奴隷的、より軽蔑すべきでり、より二次的である(「アルファベット文字文字(エクリチュール)は、すでに記号であるさまざまの音を表現する。それゆえ、それは「記号の記号」から(aus Zeichen der Zeichen)成立している。」(エンチクロぺディー) けれども、また最良の文字(エクリチュール)、精神の文字(エクリチュール)でもある。声の前でのその[アルファベット文字]の消失、その中において音声的な<意味するもの>の理念的内面性を尊重しているところのもの、それに空間と視力とを昇華させてしまうもの、こういったものすべてが、それを歴史の文字(エクリチュール)となすのであって、つまり自身の言説と文化[教養]の中で自己自身に関わっている無限の精神の文字(エクリチュール)となすのである。ーデリダ '根源のかなたに グラマトロジーについて')

翻訳にかんしては、日本は超翻訳大国で、ジョイスの30年代に出版された翻訳不可能な「フィネガンズウェィク」などを翻訳しつづけてきた結果、現在はなんと9種類の翻訳!が存在しています。ただ、翻訳者は翻訳者であって、膨大な資料を集めてはいますが、自分が訳す本について必ずしも熟知しているとはかぎりません。高い翻訳能力とは別のことです。そこで読者は読みにくい翻訳文を補うためにどのような解釈のもとにその翻訳がおこなわれたかを知りたいときがあります。ところが翻訳者は自ら選んだ解釈の方針があって翻訳をおこなっているはずですが、多くの場合それを明示する考えをもっていません。<なぜこのような訳になったかは、この文とこの文がこう解釈できるからからこうなったんだ>という論理を明らかにしていない翻訳本に、われわれは囲まれているというのが現実です。本屋に並んでいる十種類の「論語」現代語訳なんかそうですが(笑)、<横のものを縦にした>だけの変換本ばかりなのですね。(「論語」は縦のものから縦か(笑)。だからせっかく読んだのに、感想をもつことがむつかしいことが多々あります。作家と本の解説のほかに、翻訳について説明した解説が必要とおもうことがあります。どうせ読者はそこまで読まないだろうときめつけている、最近の出版社・編集者は、常のこととして、面倒なことになるべく時間とおカネをかけたくないということがあります。しかし文学はラディカルに面倒なもの。知り合いの編集者にきいたら、昔は、(かれの引退した先輩たちのことですが)、出版したいとおもう本を原文で読み終えてから、学者先生に翻訳をお願いしたそうです。いまは考えられないのだそうです。内緒ですが、岩波とかそうですが、現在の新しく出た読みやすい本はかなりヤバイと。(理由のひとつとして、翻訳者と編集者との間に緊張関係がないということがあるかもしれません)

イギリス人も日本人みたいに不満をもっていますが、全体の投票率が低いことは同じでした。ただ、主体的に「選挙に行きましょう」というような呼びかけだけはきいたことがありません。投票日は一週間後です、とか、明日です、と新聞テレビは言っていたと記憶していますけど。さて、怒っている人間は、怒りを伝えるためにどういうジェスチャーと身振りで表現したらいいのかわからないまま。もし「選挙に行きましょう」と呼びかけられた「選挙」に選挙を超えるものがないと読まれてしまったら、そのときは、主体を触発していくような新しい経験がない、つまり、もとめていた、怒りを伝えるジェスチャーと身振りが不在であると判断されてしまいます。このように、選挙に選挙を超えるものがないことも、安倍自民党に有利に働いていく構造、つまり怒りを抑圧していく<意味されたもの>の檻です。いまのところ、安倍によってはじまり、安倍によって助長されている、東アジア諸国の間の対立的緊張についての危機感をはっきり伝える政党がひとつもでてきていません。もはや「どの政党が」とはいいません。一体だれが、顕現してきた東アジアにおけるグローバルデモクラシーに依拠した関係を語る役割をになうのかです。


政治哲学的にはデモクラシーは人民主権で、人民の構成員は市民です。その大前提の上で、日本のような国民国家においては、人民とは国民(ネイション)であり、市民は、国籍を有する個々の国民に一致するのです(堀氏)


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十一月2014 (3) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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