言葉と表現と射影のブログ

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<<   作成日時 : 2014/12/09 20:23   >>

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寸劇; 日本版第三帝国の恐怖と貧困
石破(首相官邸で)「畜生、XX新聞社め。あんなに寿司を食わしてやったのに恩知らずめ!一面に、「自民の党と安倍晋三となかまたち」などと!」
麻生「新党結成なら、「自民の党と安倍晋三と親衛隊たち」のほうがベターねー。吾々に逆らう自民党OBは震えがって黙っちまうだろうよ。オー、ジョーク、オンリー・ジョークよ」
石破(きれまくり)「つまみだせーーー」
安倍「待て !...うまくいくかもしれない」


天皇を暗殺する「大逆事件」などは、
そもそも存在しなかったのです。

なんという皮肉!?反権力マルクス主義系文学者が、「大逆事件」をつくってしまったとしたら? 文学者のなかには、検察が無理に捏造した物語の内部から内部に即して「大逆事件」というものを<読者>にむかって再び語るものたちがいたのです。権力と反権力、敵同士であるこの両者が、<天皇を暗殺する>という解釈をめぐっていかに互いに求め合ったかです。集団的自衛権の21世紀に、厚くなっていくだけの、このような愚かな再語りの流通を繰り返してはなりません!


Cette main habile est suspendue au regard ; et regard, en retour, repose sur le geste arrêté. Entre la fine pointe du pinceau et l'acier du regard, le spectacle va libérer son volume. (Foucault, Les suiventes)
その馴れた手は視線に吊られ、視線は逆に、静止した動作にささえられている。画筆の鋭い先とはがねのような視線とのあいだでは、光景がその立体的空間を解き放とうとしている。(フーコ「言葉と物」侍女たち、渡辺訳)

mais lorsque bientôt il fera un pas vers la droite, en se dérobant à nos regard, il se trouvera place juste en face de la toile qu'il est un train de peindre; il entrera dans cette region où son tableau, négligè un instant, va, pour lui, redevenir visible sans ombre ni reticence. Comme si le peintre ne pouvait à la fois être vu sur le tableau où il est représenté et voir celui où il s'emploie à représenter quelque chose. Il règne au seuil de ces deux visibilitès incompatibles. (Foucault, Les suiventes)
しかし彼が一歩でも右に踏み出せば、ただちにわれわれの視線から消えて、彼は描きかけの画面とちょうど向き合うこととなろう。そうやって彼は、ひとときなおざりにされていた絵が、彼にとって影も省略もなくふたたび目に見えるものとなる、そのような領域にはいりこんでいくのであろう。あたかも画家は、自分が表象されている絵のなかに見られると同時に、自分が熱心に何かを表象している絵を見ることができないとでもいうように 。彼は、両立しがたいこの二つの可視性の境界に君臨している。(フーコ「言葉と物」侍女たち、渡辺訳)

全国新聞の中には、大ハッスルで「再稼働」の見出しを飛ばすのがあるのだけど、3・11以降は、こんな、良識そのものが空ろな大ハッスルではもうやっていけなくなったんじゃないかな。自民党に票を入れるような人も、もはや新聞のようには原発を応援するのが無理なので、小市民的に、日の丸とかの陰気な象徴物を以って自分を騙し続ける必要がでてきた。それでも不安をおさえることができないので、絶えず苛立つなかで、「自民は他よりまし」でなければならない、でなければならない、この道しかない、と、自身にいいきかせているのじゃないかな?


この国の全国新聞は、大ハッスルで「再稼働」の見出しを飛ばしたがるけど、虚しくもまだ新聞に幾分かの幻想をもつ一読者としては、海外の新聞と比べて、政府批判を行うジャーナリズムとしてはいちども稼働したことがなさそうな新聞のこれからあるべき自立(政府からの)を一生懸命応援したらいかが

正直わたしは詳しいことは存じませんが、大事な問題にかんしては野党の側にも一応、それなりの対案が用意しているとおもいますよ。ただいくら対案があっても対決がないと意味がない。例えば集団的自衛権にかんしては、(独断的にですが、自分たちなりに憲法に違反しないと思い込んだ方向で) 政府が解釈改憲的に「領土内」という限定をはずしてきたら、野党はそれに対決する形で(憲法の平和原則を利用し) 政府の限定をはずす方針に反対することこそが筋ですが、<憲法を守れ>というかれらのかんがえる対案しか出そうとはしないのです。それでは、憲法の絶対平和主義をいう相手にたいして、たたかいにならないじゃないかと、私は不満をもっています。とはいえ、選挙の争点としては、解釈改憲というのはあまりに理解の難しい争点ですから、他の政策といっしょに<信>に問うべきではないとおもいました。ところで若者二十代の投票率30%の問題は、あまりよくわからないのですが、これらのことは別のところから起きている問題かもしれません。オーストラリアでもこんなに低いのですか?

爆弾の孤独 - takashihonda
われわれのなかに半分隠されている眼球に、
われわれのなかに完全に隠されたままの爆弾に、
魂がたどりつくのはいつなのだろうか?
l'œil caché en nous, un bomb caché en nous, quand l'âme atteinte-elle là ?



'西欧合理主義'というのは<ひとつ>しかないのか?
18世紀には<ひとつ>の啓蒙主義しかなかったのか?

マルクスとて、英国が西欧合理主義の文明を齎したのだからインドの植民地化は仕方がなかったという普遍主義の啓蒙的言説に絡み取られていました。スコットランドはアイルランドと同様に植民地主義的発想で語られてきたが、この普遍主義を相対化する視点がスコットランド独自の啓蒙主義があったとする反論であります。英国啓蒙主義は古代ギリシャ哲学の再構成から功利主義哲学の発展をみました。スコットランド啓蒙主義ではすぐにヒュームとスミスの名があがります。フーコはギリシャとローマのエピクテトスをみるために、バークリーに言及しました。ジョイスはジョン・ストゥコスとともにダン・ストゥコスを論じ、かれの宇宙の劇場「FW」はドルイドの詩的構成へいきました。ここで問いが生まれます。スコットランドの知はなぜかくも豊かだったのか?これに関しては、たとえば応仁の乱で寺を焼かれた僧侶達が儒学の学問の書物を携えて四国や九州に逃げた歴史を知れば、ローマ帝国崩壊後の'野蛮'な数世紀間、放火と殺戮を避けて文明の本たちが大西洋の方に、スコットランドとアイルランドに集まってきた事情が分かるというものです。スコットランドこそは、当時の国際宗教センターとして、またヨーロッパの知の中心になっていきました。つまり文明を発信していったのです。ルネッサンスの前の時代にこうしたことが起きました。こうしてこれがスコットランドの啓蒙主義の地盤を形成したものがなにかを考える材料になるのではないでしょうか。今日において、イギリスを含めた、<帝国>化していくEUの単一的普遍主義がいくら包摂しようとしても、これにたいして粘り強く抵抗していくスコットランドの独立の全体像を理解しようとすれば、紀元後五世紀から九世紀に遡るかれらの知の歴史を無視することができないんだろうとおもいますね。


オカルトですよ。なんでもかんでもカネが支配する市場神話の射影のようですね、この(どんなに死票がでても構わないから政党の集票マシーンに委ねてなんでもかんでも多数決で) 決める民主主義のオカルトは。保守リベラルを称する論客にこれに滅法怒る現実感覚とやらがあるようですけど、わたしは、決める民主主義が成り立つためには、決めない民主主義をいうんです。決めない民主主義の根底に、語る民主主義があります。たとえば、そもそも一政党が議席の過半数を超える事自体が民主的社会の危機といえるのですから、議会のなかで過半数を超える議席または議員の票は無効とすべきだとする拘束的な良識が形成されてもいいはずなのです。かりにどこの少数政党でもこういうルールを提案すると、(そのルールを採決しておかなくとも)、そのルールに触発されてくることが起きてくることがあるだろうとおもいます。

寸劇
キャバクラ女の子10人「先生おめでとございまーす、かんぱーい」
安倍「この道しかなかった。ははっはは、思い知ったか、弱虫野党め」
心の中の祖父「ばかもの!晋三よ、これほど圧勝してしまっては、貴様の破たんした糞ノミックスを撤回できなくなったぞ!不安におもう国民を不幸のどん底に突き落としたら、名誉回復できなくなるわい」
安倍(涙)「お、おじいちゃん......」



ゼウスとは自分自身に対して生きる存在である。「自分自身のために生きる者」ではなく、「絶えず自ら自分自身とともにある者」だということである[=“autos heautô sunestin”(希)]。神的な存在とは、このように自分自身とともにある存在のことなのだ。−主体の解釈学−

どうもありがとうございます。大変興味深くよみました。「決めない民主主義」は、公害裁判のときに経験したような、多数決では決められない、全員一致まで討議していくプロセスのダイナミズムのことを思い返して書いたと覚えています。「決めない民主主義」の根底に、やはり語る民主主義のことがあります。なに?決めないなんておかしいじゃないかと怒る方もでてきましたが、その方に、現在の民主主義を政党の集票マシーンの競争に委ねていくだけではもうやっていけなくなったのではないかと聞き返したくなりましたが、それはともかく、自己に配慮し自身に規律がないと成り立たない「決めない民主主義」の方は、エピクテトスに言及したフーコがいう「統治性」と関係があるようにおもいます。おそらくは、「統治性」は、身体を住処とする人間の中の、小さな人間と大きな人間の関係のこと。ローマ的な意味で、統治性とは大きな人間が小さな人間たちを正すように支配する状態をいうのでしょうが、これにたいして、エピクテトスの小田実は、逆の方向から、小さな人間たちが大きな人間を正す、というふうにギリシャ的にかんがえたのは卓見とおもいます。(ちなみにフーコが論じていたエピクテトスと一緒に論じていたバークリー、スコットランドの啓蒙主義はギリシャからの影響が大きいようなのですね。) いま選挙後に思い浮かべたことをかきますと、いくら選挙で勝っても一政党が全議席を半分を超えて得た議席は無効とする、というルールがぜひ必要であるとおもいます。たとえば、かりにこういうルールを提案すると、(そのルールを採決しておかなくとも)、そのルールに触発されてくることが起きてくることは興味深いです。これはなにか非線形的といわれている考え方に関係があるとおもいます。ご指摘なされた点について関連づけますと、たとえば、人間に責任がある思想や宗教等の精神に関する事柄は非線形的に、つまり「厳密解」でなければ決めない民主主義に委ねる一方で、経済に関する事柄は線形的に、あるいは複数の「近似値的に」決める民主主義の方に委ねる、ということがあってもいいのではないでしょうか。


亡命するエクリチュール

ホホー、みんなあーお久しぶり!あれっ、落ち込んでいませんか、大丈夫?今日は、亡命したいみなさんのために、亡命するエクリチュールのお話でーす。(なんのこっちゃ) 正直わからないこともあり、ここまで言い切ってしまっていいのかという躊躇もあるニャリですけど、常のこととして無責任におもいきって書きますと、デリダのエクリチュールの思考性についてかんがえるときは、ヨーロッパの場合には、ギリシャ語・ラテン語の基底があってこそ成り立つのと同様に、東アジアにおいては漢字の基底性が決定的だということはニャンとなくわかります。この漢字文化圏の内部から穴をあけていくような、ホー、代補性 (他のもの、といえるでしょうか)の痕跡として漢文エクリチュールが存在してきたとかんがえてみたいとおもうのであります。具体的には、ここでは、江戸思想の儒学者たちの存在を考えながら書いておりますが、現在の現代中国の<新儒教>の展開からみても、また日本の中国学研究(東アジア研究ですね)からみても、漢文エクリチュールで書いた江戸思想はいかにも本物ではなく、まがい物のコピーでしかないようなのですね。(畜生め!)しかしかえって、それだからこそ大切だとおもうわけです。とくに重要な点は、(漢字と仮名の)漢文エクリチュールで書いたこの時代の思想は、儒学的背景をもつ靖国的国体の近代概念を相対化する視点をもつことですね。文献学の伊藤仁斎でも、自然哲学の三浦梅園とか教育学の広瀬淡窓でもいいんですが、かれらには民族のせこい話は全然ないんですね。国家のことも身分制の制約のもとでかれらはあきらめていたようです。私の知る限り、亡命者のように、(近代国家のような形態の)国家の意義をどうでもいい。(だから講座派の近代がいうようには江戸時代全体に民族主義の前近代が支配していたというのは怪しい思い込みであります。)さて漢文クリチュールの時代から、明治はもちろん、とくに大正・昭和を相対化してみるのは面白いだろうとおもうのです。なんといっても伊藤仁斎とカントは同時代の思想家ですし、(したがって啓蒙主義は単一ではないのですね、多様な差異がある)、福沢諭吉などは漢文エクリチュールのヘーゲル左派ということになりますわね、ほんとよ。



厚く深い解釈の内側でいかに権力と反権力が互いに求め合うかだ。反権力マルクス主義系文学者は、検察の国家権力が証言を解釈した物語の筋を利用して、つまりその言表的領域の内部から内部に即して再び語ることによって「大逆事件」を発明してしまった。注釈学的視線は解釈の無理と日本国家の暴力を知る

マルクスの剰余価値学説についても、その解釈の厚さに権力と反権力が互いに求め合った痕跡をみることができる。権力のブルジョア古典経済学が解釈した労働価値説を再び語ることによって、生命の永遠に再生産される生産の言説を発明した。スターリニズムでは労働の根底に民族主義があるー収容所の傍らに


「論語」の様な原初的テクストは注釈なくして読むことが不可能。読み手は、(仁斎になったつもりで)読んでいる自分が(「論語」の中に孔子又は弟子として)そこに書かれているのを読んでいる、と同時に、(朱子である)自分が熱心に何かを書いている本を読むことができないとでもいうような領域に入る

投票率が低く、これを電車の目の前の座席に6人座っていたとしたらそのうちのたった1人しか自民党に投票しなかったとする計算が間違っていないならば、この状態を「圧勝」とかく新聞の知的水準は、海外からみると、かくも非民主主義的な政治体制が計算の評価(多い・少ない)に反映するのかと呆れるだろうのか?

支持する政党がなにかをはっきりと明示するイギリスの新聞、アイルランドの新聞も明示しますけど、これらに慣れると、支持政党を明らかにしない日本の新聞はほんとうにきもちわるいです。意見が無いのか?それとも、なにか、中立的に、民に教えるお上のつもりなのですかね?それでいて選挙後は、「圧勝」「大勝利」とかいう言葉で特定の政党を称えていますけれど、なお選挙後であっても選挙前の潔癖な中立を保って、どこが勝ったかなどという特定の政党名を中心に一面に示すのは控えていただけませんかね?


「この道しかない」と知らないふりをすることは無理、というか無意味。
「他の道」を知ることの大切さ

多数とされている狂信的世論をまえに、言葉が思い浮かばない、言葉がでてこなかった状態でありましたが、一夜明けて、「信託」「圧勝」という馬鹿げた無意味な言葉の羅列を目にしたおかげで、「信託はしていない」という言葉を語ることができました。それにしても、世論はどの政策も不満をもつと答えていながら、安倍の「この道しかない」とする運命共同体に委ねているという特攻隊のようであります。それにたいして、かんがえるべきは「他の道」。これは端的に、信頼できる「行いやすい道」のこと。例えば消費税引き下げ、原発廃止、労働基本権の平等主義、への道に依るときだとおもいますが、残念ながら、アメリカ軍の爆撃等を手伝うために世界地図のどこにあるか指し示すことすらできない貧しい国を破壊する集団的安全保障などが典型ですが、どんどん「行いやすい道」とは正反対の方向へ突き進んでいますね。軍国主義の圧力があるとしたら、やはり警戒すべきは、この軍国主義の方向と全体主義の方向とが一致してきたことではないでしょうか。絶望的に、すごい勢いで政治家の言葉が流通していくせいで、言葉そのものにたいする偽善を感じる「明るく笑顔の」人々が増えていくのだろうと懸念しますが、その場合に孤立しあった人々がどこで言葉への信頼を見出すか、ですね。とにかく、国がうまく行かないときは「他の道」を考えてみること。人々に呈示する議会主義が決定的な機能停止に陥いったこの時代に、ー一政党が過半数の議席を独占するという事態でありますがー、何ができるかと。生憎「圧勝」してもアベノミックスを続けていけば事態が酷くなる一方で、聞く耳をもたない者に安倍の政策がいかにダメかを指摘する必要もないくらいほどになっていく可能性も。「他の道」が消滅したわけではないことを繰り返し語るしかないだろうとわたしは自分のためにかんがえています !



おそらく演劇が大切な役割を担うのはなぜかとかんがえてみますと、リアリズムであれ、神話的であれ、(あるいは神話的リアリズムであれ)、「他の道」に依拠できるのだという「他の道」への信頼感を呈示できるのは、ただ、ほかならない、観客のまえで「他の道」を代理できる芝居とその「しがい」だとおもいますね。俳優の「他との関係において」存在するあり方とも関わってくるのかもしれませんが、大切なところです。昭和十年代にさかのぼると、戦争する国家体制のなかで、銀河鉄道なんか地球から離れて「他の道」へ行っちゃうわけですしね。あっちはあっちで色々とあることがわかったのですが、すくなくとも、無力のまま巻き込まれていく「この道」を巻き返すような相対化する視点をあたえてくれます。あいにく、いくら「圧勝」しても「大勝利」してもアベノミックスを続けていけば事態が酷くなる一方ですから、安倍信仰の聞く耳をもたない者にその政策がいかにダメかを指摘する必要もあまりなく、ただし、繰り返して訴えていくこと、「他の道」が消滅したわけではないという実はいままでいわれていたことをあたかもはじめて訴えていくことしかないのだろうとわたしは自分におもっています。


与党が3分の2を獲得
狂信的世論をまえに、言葉が思い浮かばない。言葉がでてこない。点点点点。
数が政党にでなく、数に投票している?議席の過半数を占めるような一政党の成立は、語る民主主義を無理にしてしまうほどの民主的社会の危機ではありませんか。秘密保護法プラス安倍自民党政権の成立の問題は、人間の真に人間らしい生存を不可能にしていく原発体制の一部の問題としてこれを批判していく人類史的な認識が必要となってきたとおもいます。


ミシェル・フーコー ‏
エピクテトス曰く、人間は自分自身に専心しなければならない。神ゼウスが〈理性〉を与えることによって、人間を自分自身の手に委ねたからだ。この理性によって人間は他の全ての能力の使用を決定できる。従って我々は神によって自分自身に委ねられ、自分自身に専心しなければならない。−主体の解釈学−



ロマン主義はこの一語に詰め込めないほど多様だ。べートベンの第五はドイツ的らしくユーゴはいかにも仏的とか。が、啓蒙主義の多様性の認識は乏しい。西欧合理主義の差異を理解しないと、仏啓蒙主義と独啓蒙主義の差は、スコットランド啓蒙主義とアイルランドの差ほど違わないとか微妙な認識をもてない。多様性を重んじるドゥルーズのヒューム論にスコットランド性が無いのは構わないが、包摂された西欧合理主義の言説に対する差異性を意識する必要はある。が、単純ではない。「フィネガンズ・ウェイク」のジョイスがバークリーについて言及しているのは、アイルランド的啓蒙主義を証明したいからではないこの点について説き起こすと、「ユリシーズ」のジョイスが現在の読者に揺さぶってくるのは、帝国主義と反帝国主義についての二項対立的言説の自明性であった。いかに大英帝国が描き出す'革命伝説'とアイルランド的反帝国主義が描き出す'革命伝説'が相似しているか、互いに依存しあっている。そしてこの共犯構造の内部で社会主義的市民性('ユダヤ人'というスケープゴートのブルーム)の排除が起きる。これは青年マルクスの認識に依った文学的構想で、近代国家は自らの正当性を立てるために'ユダヤ人'を発明していくのは、近代が徳川日本の前近代をイデオロギー化していく事情と同じである。さてジョイスには、ロマン主義的な帝国主義と反植民地主義の二項対立的言説を突き崩す為に導入されてくる第三項としてのフランス的啓蒙・リアリズムの精神があるが、ジョイスにとってはこれは実体化することよりも、差異としての方法としての啓蒙主義・方法としてのリアリズムが構成されていたのであるドゥルーズがヒュームについて語るのと同じ様にジョイスはバークリーを語った。西欧的合理主義の捏造された一元性に穴をあけていく多様性の言説を展開するためでった。差異の穴をあけていくためには、方法としての啓蒙主義・リアリズムは、方法としてのロマン主義・神話とともに機能することもあり得る、ちなみに、カント的な啓蒙の西欧合理主義からは説明されえない、徳川日本の知のあり方を考えるためには、(西欧に翻訳的に対応する)啓蒙主義の尺度を以ってしては還元できない儒者の存在論的なアデンティティーのことを方法論的に考えるのは面白い。これも差異をつくっていく方法論的思考だからである。大著がいかがわしいのは、大著によって思考の対象を支配してしまうところにある。その支配は政治権力と同じ支配のもの。つまり他に道が無いのだと教えるのである。私が大著である「ユリシーズ」を恐れるのはこの点である。しかしこの本は、他の道のことしか書いていないという事実に最近気がついた。「ユリシーズ」は専ら、ブルームをはじめ登場人物たちの彷徨いの描写を通して、とくに国の禍に巻き込まれたら他の道しかないと書いている。だからこそ権威主義的な人々に嫌われるし、権威主義的なジョイス研究者もこの本にあたかも一本の道しか書いていないかのように本の '謎'を暴くのである。笑止。日本の非政治化した文学者の頭の中の様には「ユリシーズ」に'謎'が存在しない。共和主義'市民'のヨーロッパ植民地主義のアフリカ現住民への拷問に対する義憤と同情は本物だ。ただジョイスがブルームを排除する'市民'の欺瞞性をつくのは、人間の他の道へ行く代補性を憎む彼らの態度に対してである。1920年代のジョイスの先見性は、共和主義の'市民'が独立後にうちたてた国家は、イギリスと変わらないものとなるのではないかとする危惧感であった。すでにパリコミューンの後のポストマルクスの時代に生きた文学者の眼には、民族主義の社会主義の方向の行き詰まりがはきりみえていたのである。帝国主義と反植民地主義の二項対立に巻き込まれながらも、これを巻き返していく代補性は、ジョイスにおいては、方法としての啓蒙・リアリズム、方法としてのロマン主義・神話、そして方法としての差異にあった。現在新たな<帝国>の時代にあって<帝国>に挑むジョイスの役割を引き受けるのはだれか?

12月10日は、世界人権デー
It's Human Rights Day - what have you done about it?
What will you do tomorrow?
秘密保護法は人権にたいする爆撃ではないでしょうか


ほんとうに、<この道しかない> のか?
この男はいつ<戦争の道しかない>というつもりだろうか!?

<この道しかない>というのは、サッチャーから発したサッチャーイズムを宣伝するスローガンで、これはなんでもかんでもカネが支配する<この道しかない> there is no alternativeを言い表してきた。安倍自民党もこの意味で使っているが、イラク戦争のとき<この道しかない>は爆撃するしか道がないという風にいわれたことをかんがえると、近い将来集団的自衛権の行使において<この道しかない>と大合唱させるつもりだろう。<戦争の道しかない>というように


──維新革命は大化の王政に復古したるものに非ず、大化の革命において理想たりし儒教の『公民国家』が一千三百年の長き進化の後に於て漸くに実現せられたるものなり。(『国体論及び純正社会主義』)北一輝


Be thou familiar, but by no means vulgar

William Shakespeare


この一文が、デリダ「グラマトロジー」の(ただしこの自分にとっての)Keypassage になる。ルソー批判については、アンチG20のデリダの行動をかんがえると、ルソーにたいする態度は単純ではないんだね。

Placing representation outside, which means placing the outside outside, rousseau would like to make of the supplement of presence a pure and simple addition, a contingence; thus wishing to elude what, in the interior of presence, calls forh the substitute, and is constituted only in that appeal, and in its trace. - Derrida, of grammatology, trans.by Spivak

En mettant la representation dehors, ce qui est metre dhors le dehors, Rousseau voudrait faire du supplement de presence une pure et simple addition, une contingence; désirant ainsi éluder ce qui , dans le dans de la presence, appelle le suppéant, et ne se constitue que dans cet appel, et dans sa trace. - Derrida, de la grammatologie, p.441



中庸とはなにか?

「冉求(ぜんきゅう)の曰く、子の道を説(よろこ)ばざるに非ず、力足らざればなり。子の曰く、力足らざるものは、中道にして廃す。今女は画(かぎ)れり。」(雍也第六、第10章 )
聖人の道とはただ中庸である。これについては道は高いと考えるからできなくなってしまうとかんがえられます。子安氏によると、孔子の道は「行い易い道」と解説しています。冉求はいたずらに聖人の道を高遠なものとしたが、いまだ嘗て聖人の道が難しいものであったことはないということです。と、古への言葉をまなぶとき、現在のネオリベラリズムの亜流アベノミックスが想定する市場に委ねていく道のことをおもいます。いかに真実に真実らしくみえても、しかしネオリベの道がいかに難しい道であるかは、それが(美しく!)書いた多くの諸々の前提から組み立てられた複雑な方程式の一覧をみてください。このアベノミックスの'真実'にたいして、'ケインズへ帰れ'とは、ケインズの中庸としての道へ帰れを意味する天の声だとわたしはかんがえます。この場合、中庸としての道とは、ほかならない、「行い易い道」、いいかえれば、(大胆にもデリダの言葉を使ってしまうと)、 '真実'の内部で代補物 le suppéantを要求する道です。海外のジャーナリズムも警告しているようにですね。市場において約束された遠い未来からの贈り物を待つのではなく、市場への依存によっては解決できない現在の困窮と貧困を解決する「行い易い道」へ行きましょうよ



映像は消滅して記憶を住処とするのでしょうか?昔展示でみた絵画をいま投稿すると殆どを覚えているが、確かに見たはずなのに見た記憶がない絵画もあります。見た映像はどこに消失したのか?なぜ、記憶の濃密な宇宙には過去からの連続性があるともいえないし、無いともいえないような領域があるのでしょうか?なぜ人間はこのような領域を必要としているのでしょうか?


ヨーロッパ中心主義の偏見からアルファベットの優位をいう言説はいまも健在だ。簡潔で効率的なアルファベットを使用する国よりも、複雑な漢字の国の方が文盲率が高いと言い切ってしまうのである。この見方に沿う形で、ただし'遅れたアジア'という言説をひっくり返すために、柄谷が「帝国の構造」のどこかで言っているが、古代エジプトであれ古代中国であれ支配者の権威が(中心と周辺の)民衆に習得困難な読むことが困難な文字(象形文字、漢字)に依ることをみとめた上で、逆に、(日本のような亜周辺の) 民衆と支配者の間では、(ひらがな、カタカナのような) 平易な文字の共有があったからこそよりヒエラルキーの差が少ない社会ができあがったという。私の読み間違えかもしれないが、そうでないとしたら、しかしこれはアジアの内部で西欧からみた一種の'民衆史'的言説ではないだろうか?つまり、仮名に、普遍的音声文字のアルファベットの役割をみとめる、ヨーロッパ中心主義の対抗的ネガを構成していないだろうか。
-> 保田與重郎 「民が歌へぬ日に、宮廷は民の歌を教へたのである」 (桃山時代の詩人達)


その「自民、他よりよさそう」といわれている「自民」でなにが言いあらわされているのか、それを言う人々も知っているとは到底みえませんが、とにかく「他よりまし」と言えという圧力のなかに生きていることだけはたしかのようです。大局的にはこちらにも及んでくることなので、このようなmanufacturing consensusを静観することができませんから、ほんとうに限られた公共圏ですが、私のような者はなんとかフェースブックの場を借りましてですね、「すでにいわれていたことを初めていわなければならないし、決していわれなかったことを飽きることなく繰り返さねばならないのです」(フーコ)の心境であります。

このまま広がる読書ゼロでいいのでしょうか?バブル時代の本の快楽もここに辿りついたかと呆れてしまう、民族主義の憎しみを挑発する無責任な書店に入ると、別のゼロ、反知性主義のまき散らされる永遠のゼロですな
ー>47.5%が「1か月に1冊も本を読まない」と回答。ある調査では、大学生でも40%が1日の読書時間が'ゼロ’という

representationという意では政治の概念と演劇の概念は共通しているのですね。実際にルソーの政治論の根底に演劇があることは指摘されます。さて小泉は政治を劇場にしたと非難されますが、実ははじめから政治は演劇的といえるのですね。とはいえ、小泉の問題を、小泉が「劇場を劇場にした」と理解しては無意味な同義反復に絡みとられます。だからこれは小泉が「劇場(代理)を外部に置いた」と解すべきでしょう。つまり小泉は外部を外部に置いた結果、政治が内部だけとなり全体主義的に成っていったと。これは現在まさに安倍が強力に展開している政治の風景ではないでしょうか。これにたいしては、なんとかその内部に外部を取り戻すことがなくては。どうやって?政治が内部だけになったということと、社会主義の政党が事実上消滅したということのあいだにはなにか相関関係があるのでしょうか。



伊藤仁斎は、子安氏によると、「天の道」と「人の道」をパラレルと捉えた。その「気一元論」は始まりも終わりも無いというのであれば、同様に三浦梅園も宇宙のどこを切っても同じとする自然哲学(一物あれば一天地、万物あれば万天地、つまり宇宙のどこを切ってもぴちぴちと天地が充満している)を構成した。柄谷の「帝国」がぴちぴちしていないのはなぜか?デリダの代補性に、天地の間で遠くのものが近くに、近くのものが遠くへ行く往復運動を思う。柄谷の「交通」は寧ろ代理性であり、また「天命=民意に基づく正当性」で踏みつけてくる畏怖すべき「帝国」は、商業空間の貨幣と比較し得る普遍主義的音声文字の<意味するもの>の体系に対応するように思える。貨幣と同様に普遍的に流通する音声文字の<意味するもの>の体系がぴちぴちしているのは、特殊な多様な声が消滅してこの体系を唯一の住処とするようになったはずだからである。が。この体系がぴちぴちしていないとしたら、それは柄谷の「帝国」がぴちぴちしていないのと同じ理由に依るものではないか。ここでアイルランドの「ジョイスの神話的リアリズム」のカイバードがデリダに反論していく議論を参考にすると、共同体の外敵から自らを守る多様な声が、抗議する声たちが、<意味するもの>の体系を、(したがって「帝国」を)、唯一の住処とするまでには消滅していないし囲まれてはいないからである。音声文字の整理し分類し表にする<意味するもの>の体系がそれほど普遍主義でないとしたら、また同様に、帝国がそれほど帝国的たりえないことの理由は、(体系と帝国が単なる偶然の付加として排除してしまわなければならない) 代補的エクリチュールと市民社会の方がぴちぴちと普遍主義的だからである

獲得できないときでも失うことができる
You can lose even when you can't win
Vous pouvez perdre même lorsque vous ne pouvez pas gagner

「秘密保護法」自身の「秘密」

「秘密保護法」のいわれている「秘密」の意味とは、政府批判が「秘密漏えい」であるということです。しかし「秘密保護法」自身の「秘密」はそこにはありません。「秘密」が意味してくるのは、政府を正していく小さな人間たちの存在そのものを「秘密」にしてしまうということ、これです!「秘密保護法」によって、法の前にこの国を批判する人間は存在しなかったし、法の後にも存在することはないのである、というような隠ぺいは、いかにも全体主義のテクニックを好むと公言してはばからないこの国の政治家たちが依る国体イデオロギーの教説です。<絶対に国家は間違わない>、<国家がもたらした災害の全部にたいして民は自分自身を責めろ>、したがって<国の失敗のことは黙っていろ>。しかし戦前のときに陥ったようなこんな時代錯誤な国体イデオロギーの野蛮などは、集団的安全保障のアメリカにとっても迷惑な贈り物にちがいありませんが、怖いことに、<黙っていろ>の圧力はエスカレートしていく一方であります。相対化する批判的な視点をうしなわせてしまうほどの、こういう絶望的な圧力に巻き込まれないために、人間の喋る自由が抑圧されてくる方向とは異なる方向になるべく行きたい、それならばそれはどこなのかと自分に問うている次第であります。


外部から学ぶと言いながら、内部のなかで国策的「規範意識」「国際性」に同一化することの無理

はい、学びます、学びますともー東京大会が発する恥の五輪を。自国の利益の為なら、放射能汚染水排出がコントロールされているという嘘が「規範意識」ですか?自国の利益の為なら、こんな嘘をついてまで トルコの国際舞台デビューする権利と希望を奪うことが「国際性」?笑止。東京開催がきまった翌日に、ある有力な海外新聞 (FT)は「放射能汚染の情報を隠蔽させない為には東京開催の方が外国メディアが監視しやすくなるはず」とクールに書いてくれました。自分たちに都合よく「規範意識」やら「国際性」とやらに見事に同一化しても、外部が東京大会とわれわれをどう見ているのかを知る意識を伴うことがなければ、そんな同一化は無理にきまっているでしょう。
ー> 「五輪 学びの宝庫、東京大会へ 規範意識・国際性を授業」 (朝日夕刊)

ホホー、結局人間には根源がなくてね。あるとしても、それはせいぜい、なにかを代理するという根源のこと。(よくかんがえるとこの事態がへんてこな矛盾なんですな。) OK ! 世の中には、圧倒的少数派の自らを役者と自覚している役者と、圧倒的多数派の自覚できていない役者しかいないニャン。ほかにない


Wie? Ein grosser Mann? Ich sehe immer nur den Schauspieler seines eignen Ideals. - Nietsche
何?あれが偉い男だって?自分の理想を演じている役者にしか見えないが。(ニーチェ)

ゴダールの「パッション」がそうだけれど、大江の短編のなかにも、フーコ「言葉と物」序文に触発されたものがある。百科全書的書物の世界と、その書物の中でそれを読む人を含む百科全書的書物の世界の間では、物語られている世界が別々の空間を解き放つ。後者は、前者には現れなかった読む人の欲望が示されていることだろう。これと比較するためには、フーコが念頭に置いている演劇の例だとわかりやすい。たとえば、脚本を(あたかも舞台を見ているように) 読んだ場合と、あとで実際に観客として舞台をみる場合とでは事情が異なる。観劇<後>の書き手は、自らの欲望からの介入から自由ではありえない。観劇<後>の劇評が常に失敗する理由は、この点による。欲望の介入によってどんな馬鹿げた解釈も起きてくるのだから。たとえばその芝居を所有したいというほどの欲望に絡み取られては、対象から距離を置いて書くことなど決してできるものではない。そうしてこれから書こうとしている「銀河鉄道の夜」の劇評も、失敗に帰するしかないわけだが、不安におもいつつあえて書くのは、やはりこれも欲望がうながすものなのかもしれない。もはや見た芝居を書くことは、反復された表象ではありえない。

もし安倍自民党が'強い日本'を演出するために憲法を破棄したら、(憲法がつくった)国家も消滅することになります。消滅するという意味は、戦前のような天皇の闘う国家、祀る国家となるということです。あるいは、憲法を破棄しなくとも、憲法を利用した平和原則の確立をみないままに、現在のように他である隣国との関係で豊かに成長していく文化の可能性が憎まれていくとき、これが限界なくエスカレートしていくとする果てには、ただ動物のように生存手段を追うだけの惨めな集団の姿しか目撃されないことになるでしょう。

支持する政党がなにかをはっきりと明示するイギリスの新聞、アイルランドの新聞も明示しますけど、これらに慣れると、支持政党を明らかにしない日本の新聞はほんとうにきもちわるいです。意見が無いのか?それとも、なにか、民に教えるお上のつもりなのですかね?

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12月 (2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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